そんな夜。

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 採点作業が終わった頃には、もう完全に日が暮れていた。
 楽しい時間はあっという間だ。そんな事を思いつつ、最後の片づけを終わらせた俺は準備室へと戻ってきていた。
「ごめんね、こんな遅くまで作業をさせちゃって。お陰で助かったわ」
「や、大丈夫っスよ」
 申し訳なさそうに言う先生に笑みを返す。俺にとってみればこの数時間はパラダイスだったのだ。むしろ遅くなってくれた事に感謝したいほどだった。
 けれど、先生の隣の椅子に腰掛けたレアリィは少し疲れた顔で、
「私は少し大変でした……」
「お疲れさま。いつもはこの半分以下ぐらいなんだけど……」答えつつ、先生は机の上に無造作に置かれた卓上カレンダーへと視線を向け、「今月は出張や会議で時間が上手く取れなくて。それで今日、一気に片付ける事になってしまったの。でも、来週からはこんなに大変じゃないから安心して」
 本来ならば採点作業は授業中にも行われる。だから普段の仕事量は今日の半分以下なのだ。そうでなければ俺一人で美術委員をやってこれる訳がない。
 レアリィはその事実に安心したかのように息を吐くと、「解りました」と微笑んで答えた。
 その表情を何気なく眺め……ふと、その微笑みが普段以上にリラックスしたものであるように感じた。レアリィと先生は殆ど初対面の筈なのに、二人がとても親しい関係であるかのように思えたのだ。
 とはいえ、いくらなんでも気のせいだろう。そう結論付けながら時計を見上げ、
「って、もう六時なのか」
 壁に掛けられている時計の針は、午後六時五分を指していた。俺の呟きに続くように先生も時計に視線を向け、
「そろそろ帰りましょうか。……下校時間ぎりぎりまで生徒を拘束した事が、他の先生に知られない内にね」
 後半小声になったその声に三人で笑い合う。それは自分達しか知らない秘密を共有したようで、楽しさだけではない何かが心に残る。それをレアリィと共有出来た事が、俺にはとても嬉しかった。
 こうして一歩ずつ仲良くなっていこう。そう思いながら、俺はレアリィと共に帰りの準備を始めたのだった。



「それじゃ、気を付けて帰ってね」
「ういっス」
「先生、さようなら」
 下駄箱まで見送りに来てくれた先生に別れを告げ、俺とレアリィは校門を出た。そのまま、街灯の少ない住宅地の中を歩いていく。
 音の無い冬の大気の中、校門を出た辺りから不思議と会話が無い。まぁ、こうして二人で一緒に帰るのは初めてだから、仕方ないのかもしれない(以前美術室で語り明かした時は、所用があるというレアリィが先に帰ってしまっていたのだ)。
 とはいえ、このまま無言なのも勿体無い。俺はその静寂を払拭するように、軽い調子で、
「そういえばさ、レアリィは電車通学なの?」
「いえ、電車ではないです。えっと、この先にある大通りを右に行くと、ちょっと先に大きなマンションがありますよね。そこに引っ越してきたんです」
「へぇー」
 何気なく頷く。結構眺めが良いんですよ、と笑顔で教えてくれるレアリィには悪いが、そのマンションの事なら良く知っていた。
 だからだろうか、俺はちょっとした悪戯を思い付いていた。
 それを頭の隅に置きつつ、俺達は話を続けながらゆっくりと住宅地を抜ける。そして大通りへと出ると、先程のレアリィの説明通り右へと進路を変え……その先に、結構な高さのあるマンションが見えてきた。
 地上十二階建て。日当たり良好築十年。最新のマンションに比べれば見劣りするけれど、十分に綺麗な外観。内装も悪くない。そんな、良く見慣れたマンションの正面にまで歩いていくと、レアリィが立ち止まり、
「ここです。あの、今日はお疲れさまでした」
「お疲れさん。それじゃ、また明日」
「はい、また明日」
 軽く頭を下げ、エントランスへと向けて歩き出すレアリィの後姿を数秒見つめた後、音も無く後を追う。そしてその横を無言で通り過ぎ、
「……あ、あれ? え?」
 俺の姿に気付いたレアリィが抜けた声を出した。普段の畏まった様子とは違って凄く可愛らしい。
 俺は沸き上がってくる笑みを堪えながら、エントランスへと続く自動ドアを抜けた。
「あ、あの、待ってください! このマンション、オートロックという物が付いていて――」
 と、後ろから慌てた声が響いてくる。その声を聞きながら、俺はエントランス奥にある二つ目の自動ドアへと歩を進め――そして、そこにある認証装置へといつものように暗証番号を打ち込んだ。
「ですから――って、え?」
 レアリィの驚きの声と同時、軽い電子音を立ててロックが解かれる。連動して自動ドアが開き……完全に開ききるのを見届けてから、俺は疑問符を浮かべて立ち尽くしているレアリィへと振り返り、
「ごめん、俺もここの住人なんだ」
 言って、そのまま耐え切れなくなって笑い出す。対するレアリィは少しの間呆然とし、
「そ、そうならそうと初めに言ってください! 焦ったじゃないですか!」
 と、全然怖くない怒りの表情で彼女は俺を睨みつけてきた。
「ごめんごめん、つい出来心で」
「もう……」
 頬を膨らませるレアリィに謝りながらも、しかし笑みは止まらなかった。
 その後、レアリィの機嫌を損ねてしまった俺は、正面衝突の時の埋め合わせを含めて、次の休日に何か食事を奢る約束をする事となった。
 まぁ、これはこれで怪我の功名なのかもしれない。そんな事を思いながら、長い間エントランスに居座っていた俺達は、再び暗証番号を打ち込みマンションの中へと入った。
 エレベーターに乗り、それぞれの部屋を目指す。それとなくボタンを見れば、レアリィの部屋は俺の部屋よりも二階下のフロアにあるらしい。上手く時間さえかち合えば、毎朝一緒に登校する事も出来るかもしれないな――と、そう考えている間に、軽い電子音と共に扉が開いてしまった。
 それを残念に思う俺の隣を、ふわりとした金髪が通り過ぎ、ドアの向こうで振り返ってくれた。
「それでは、また明日」
「ああ、また明日」
 微笑みを取り戻してくれたレアリィに笑みを返し、そして静かに扉が閉まっていく。
 そうして一人取り残された箱の中、不意に強く胸が痛んだ。嬉しい瞬間の筈なのに、深い喪失を感じたのだ。
 理由は解らない。けれど確実だったのは、『彼女と離れたくない』という強い想い。
 俺の中で、何かの変化が起こっているような気がした。




 時間は少し遡る。
 それは美術室のドアの向こう。作品の採点が終わり、綺麗に片付けられた部屋の中。
 突然、奇術の舞台でも始まったかのように、何も無い空中に硝子細工の剣先のような物が現れた。
 剣先は音も無くゆっくりと縦に落ちると、その軌跡に黒い線を描いていく。そうして二メートル程の一本線が出来上がったと思うと、剣先が引き抜かれ、今度はその一本線が青白く光を放ち始めた。
 まるで脈打つように瞬くそれは、暫くするとその中心から横に広がり始めた。それはまるで横向きの口が開いていくかのように、巨大な円へとその姿を変え――それと同時に、その外周を模る線から滲み出るように、円の内部が藍色の不可思議な文様で埋め尽くされ始めた。それは文字であり模様であり、時間と共に、統一性の無い奇妙な魔法陣を創り上げていく。
 すぐ隣にある準備室から三人の人間が出て行ったのは、丁度その頃だ。しかし、その三人に気付かれる事無く、魔法陣の変化は進む。
 浮かび上がった文字や文様は複雑に変化しながら徐々に暗い朱色へと変化していく。そして、魔法陣の全てが朱に染まった次の瞬間、
 にゅ、
 と、黒いタイツに包まれた細い脚が魔法陣から生え出した。そしてゆっくりと、脚から腰、腰から胸、胸から腕――そして、最後に顔が現れる。
 僅か三十秒前後の内に、誰も居なかった美術室の中に一人の少女が現れていた。
 身長はあまり高くない。腰に届く程度の長い黒髪をなびかせ、彼女は机の上に降り立った。この学校のものとは違う、黒を基調とした制服を着込み、その上にゆったりとしたローブを纏っている。その瞳は、朱く鋭い。
 少女の右手には魔法陣を生み出した切っ掛けであろう硝子の刀身を持つ剣が握られ、その左手は未だ魔法陣の中から出てきてはいない。だが次の瞬間、少女の左手と共に、今度は一人の青年が現れた。彼も少女と同じように机の上に降り立つと、少女の姿を確認するようにその瞳を向けた。
 青年の背は高く、耳に掛かる程度に切られた髪は茶色に染め上げられており、癖の強いそれは四方八方へと遊んでいる。けれど、そこから覗く瞳は藍く冷たい。何やら大きめの鞄を持ち、少女と同じく制服に似た服を着たその姿は、すぐに電気の消えた美術室の闇へと紛れた。
 青年は何気ない動きで少女を抱き寄せ、共に机から降りながら、
「案外あっけなかったな」
「そうね。この程度の事なら、一々これを使うまでも無かったわ」
 そう言って、少女は右手に持つ硝子の剣を軽く振る。青年はその言葉に少しだけ意外そうに、
「そうなのか?」
「そうなの。なんたって、今の私は最強だからね」
 そう言って少女が青年に笑いかけた直後、その役目を終えたらしい巨大な魔法陣は、音も無くあっさりと消滅した。
 それに視線を向けるような事も無く、少女は青年から一歩離れると、ローブのポケットから硝子の剣の鞘を取り出し仕舞い始めた。その様子を眺めながら、青年が少女に問い掛ける。
「さて、これからどうするんだ?」
「予定通り。ヤツを探して、私達の手で殺す」
 物騒な少女の物言いに動じる事無く青年は頷き、
「で、具体的にはどうやって探すんだ? その辺の話、俺は全く聞いてないんだが」
「過去の新聞でも調べていけば、いつかは見つかるでしょ。読めなかったら読めるようにすれば良いだけだし……流石に、この世界にも新聞ぐらいはあるだろうから」
「確かにそうだな。でも、どうやって新聞を手に入れるんだ? 俺達はこの世界の金すら持ってないんだぞ?」
 その言葉に、少女の動きがぴたりと止まった。彼女は青年の持つ鞄へと硝子の剣を仕舞おうとしたまま動かない。
 その様子に青年は苦笑し、
「なぁ、これって前途多難って言わないか?」
「そ、そんな事……」
 無い、とは言い切れないのか、歯切れ悪く、そして誤魔化すように、少々乱暴に剣を鞄へと突っ込む少女。そして、そこから一本の杖を取り出すと、
「いざとなったら魔法でどうにかするわ」
 そう言いながら、少女は再び青年の腕の中へと納まった。
 そうして、突然美術室に現れた少女と青年は、何事も無かったかのように会話を続けていく。もし第三者がその様子を覗き見たとしても、放課後まで残った生徒が会話をしているようにしか見えないだろう。
 それ程までに少女達は落ち着いており、だからこそ二人からは異質な雰囲気が漂っていた。
 と、話が一段落付いたのか、少女が青年の手を握り直し、
「それじゃ、まずはここから出ましょ。長居するのは得策じゃないし」
「だな」
 そして二人は、廊下からの光が漏れ入ってくる美術室の入り口へと視線を向け、外に出る為に歩き出し――しかし、すぐにその足が止まった。
 何故ならば、視線の先にあるドアがゆっくりと開かれ、そこから一人の女性が現れたからだ。
「誰かしら? もう下校時間はとっくに過ぎたわよ」
 声と共に女性が部屋に入ってきた瞬間、体に感じた違和感に、少女は杖を握っている手に少しだけ力を籠めながら、
「……すみません、ちょっと探し物をしていて」
「そうだったの。でも、もう時間が遅いわ。探し物は明日の朝にした方が良いわね」
「ええ、そうする事にします」
「それじゃ、ここの鍵を閉めるから、早く出てくれるかしら」
「はい、解りました」
 そう少女が答え、彼女を背後に庇うように青年が一歩前へと出た。その目には警戒の色があり、しかし彼は何も言わずに歩き出し――
「あ、そうそう、この世界に来る時はもう少し服装を考えた方が良いわ。それに、魔法はこの世界の『常識』に縛られて殆ど使えないから、その杖は仕舞っておいた方が良いでしょうね」
 まるで全てを見通しているかのように女性が言い、二人は再び歩を止めた。青年の表情は更に厳しくなり、少女の表情には驚きがある。けれど彼女はすぐに女性を睨みつけると、
「常識っていうのがどういう事かは解らないけど、魔法が使えない事ぐらいは解るわ。魔力のある無しぐらいは感覚で判断出来るから」
 こちらの事を解っていると判断した少女が、敬語を使う事を止めて女性に答える。そしてその体には警戒の色が満ちていた。そんな二人に対する女性は、しかし後ろ手にドアを閉めながら、
「なら話は早いわね。もし出来る事なら、この世界にやって来た理由を聞かせて欲しいところなんだけれど」
「言えないわ。それに――」言いながら、少女が杖を構え、「――私は、この世界でも魔法が使えるもの」
 少女の言葉に、女性は教師である事を示すかのように教卓の前に立ちながら、
「無理よ。この世界には魔法が使えないという『常識』が存在するんだから」
 尚も否定の言葉を重ねる女性に、少女は小さく笑い、
「でも、世の中には常に例外があるのよ」
「例え例外があったとしても、世界を構築する『常識』に対抗する事なんて出来ないわ」
「なら、見せてあげましょうか?」
 微笑んで答え、そしてその小さな唇から魔法を発動させる為の呪文が紡ぎ出されていく。
「個は群となる。群の集まりを個と定義し、私は更に群を求める」
「そんな事をしても無駄よ。いくら呪文を紡いでも、魔法を発動させることなんて――」
 出来ない、と言い掛け、女性がその言葉を止めた。何故ならその眼鏡越しの視線の先では、少女の持つ杖先に炎の塊が生まれ始めていたのだ。
「定義すべきは火。求めるは炎。炎を火と定義し、私は更に炎を求める。火は個となり彼の者を燃やす。炎は群となり彼の者を燃やす」
 言葉を紡ぎながら、少女は青年の前へと出た。
 杖の先に生まれた炎の塊は呪文の詠唱と共にその大きさを増し、少女をすっぽりと飲み込むほどの巨大な火球へと成長していた。その大きさに女性が目を見開くと同時、火球は少女の杖先から動き出し、少女達を護るようにくるくると二人の周りを回転し始めた。
 そして、魔法が完成する。
「群より生まれしは紅蓮の火炎。――さぁ、全てを燃やし尽くせ!」
 轟、と。周囲の大気を焼き焦がしながら、熱風と共に火球が放たれた。
 回転する事で加速を得ていたのだろうそれは、更に加速しながら机や椅子を吹き飛ばし、触れたもの全てを燃え上がらせながら女性に迫る。対する女性は逃げる事はせず、それどころか高速で迫る火球へと向けて両手を伸ばした。
 自殺行為でしかないその行為に、逆に少女が疑問を持ったその瞬間、
「――ッ!」
 何重にも重ねられた硝子を、巨大なハンマーで一気に砕いたかのような音が響いた。その瞬間、女性へと向かっていた火球は弾かれたように吹き飛び、美術室の壁にへと衝突した。何かの防壁が張られているのか、壁に穴が開く事は無く、火球は次第にその大きさを小さくしていき……しかし最後の一瞬、一際大きく燃え上がりながら爆発した。それによって防壁が破壊されたのか、破砕音と共に校舎の壁が壊れ、消えつつある火がそこへ燃え移っていく。
 けれどそんな光景には目もくれず、少女は驚きの表情を浮かべたまま、
「まさか防がれるとは思わなかったわ。少しは力を籠めたつもりだったんだけど」
 そんな少女の言葉に、女性は疲れた顔を見せながら、
「転ばぬ先の杖よ。……まぁ、用意しておいた防壁の全てを持っていかれたけどね」
 そして自身に迫る炎から逃げるように移動しながら、女性は少女へと問い掛ける。
「でも、貴女は何者なの? 私ですら、この世界じゃ殆ど魔法を使う事が出来ないっていうのに」
「さっき言った通りよ」
「例外、ね……。まぁ、詳しい話は後で聞くわ。今はこの場所を離れないと」
 出口へと向かおうとする女性に、少女は少々挑発的に、
「逃げるの?」
「そう、逃げるの。貴女達も一緒にね」
「私達も?」
 流石に予想外の言葉だったのか、思わず問い返した少女に女性が視線を向け、
「私には貴女達と敵対する理由が無いからよ。そもそもね……」
 生徒を叱る教師のように、女性は表情を厳しくし、
「貴女達を匿ってあげようと思ったから、こうやって丸腰でやってきたのよ? それなのに話は聞かないし、いきなり襲い掛かって来るんだもの」言って、溜め息を一つ吐き、「でも、まずここから出ましょう」
「ここから出るのは良いけど……匿うって、本当に?」
「嘘を吐いてどうするのよ。……まぁ、本当なら、突然襲い掛かってくるような人を匿いたくは無いけど、貴女みたいにこの世界で自由に魔法を使える存在なんて初めてだから、詳しく話を聞いてみたいの。それに――」
 言いながら、女性は降伏の合図と言わんばかりに両手を上げ、
「それに、今の私じゃどう足掻いても貴女達には勝てない。なら、この世界の事を知っている私に付いて来るのも悪い話じゃないでしょう?」
 まさかこんな展開になるとは予想していなかったのだろう。少女は明らかに戸惑いながら、
「そうかもしれないけど……」
 と、その背後で事態を見守っていた青年は、少女の手を握り直すと、彼女を説得するように、
「空(そら)、今は口論をしてる場合じゃないだろ。面倒な事になる前に逃げられるなら、例え罠でも今は逃げておいた方が良い」
 その言葉に、空は青年の事を不安げに見つめ……そして小さく頷き、
「解った。夜城(やしろ)の言う通りにする」 
 言葉と共に杖を降ろし、彼女は夜城の手をぎゅっと握り返した。
「話は纏まったかしら? それじゃ、早くここから逃げましょう」
 そう言うと、美術教師である筈の女性は、消火活動をする素振りも見せずに出口へと向けて走り出した。そのあとを追うように、空達もドアへと向かって走り出す。

 そうして再び誰も居なくなった美術室は、静かに、そして確実に燃え続ける。




 ベッドに横になりながらメールを返していると、突然爆発音のようなものが聞こえて来た。
「な、何だ?」
 思わず半身を起こし、周囲を見回す。テレビは点いていないし、パソコンの電源も落ちている。となると、音は外から聞こえてきたという事か。
 音が聞こえる前と同じ静寂に何か奇妙な薄ら寒さを感じながら、俺はカーテンを引き、温度差で少し結露してしまっている窓を開けた。
 途端入り込んでくる冷たい風に体を震わせつつ、音のした方向を探る。すると、左手の方向から黒煙が上がっている場所が見えた。
「火事か何かか? でもあの方向……まさか学校じゃないよな」
 俺の通う学校は住宅地の中にある。そして問題の黒煙は、その周辺から上がっているように見えた。とはいえ、いくら他の建物よりも高い位置にある部屋とはいえ、今は夜だ。良く目を凝らしてみても見えにくい。
「……ちょっと見に行ってみるか」
 心の安定の為に。そう判断すると、俺は着替えるために窓を閉めた。 



 そうして、辿り着いた先。
「おいおい、マジかよ……」
 黒煙が上がっていたのは――いや、燃えていたのは学校だった。住宅地が近いせいか、その周りには心配顔な野次馬が多く、詳しい様子は解らない。けれど燃え盛る炎は俺の居る場所からでも良く解って、例え野次馬が居なくてもこれ以上近付けそうに無かった。
 それでも、燃えている場所から考えるに、出火場所は恐らく美術室の周辺だろう。……先生は無事だろうか。そう心配に思うものの、だからといって何かが出来る訳じゃない。
 遠くに聞こえ始めたサイレンの音を聞きながら、俺はもどかしさを胸に帰宅する事にした。
「火事の詳細は、明日になれば解るか……」
 明日も授業がある。正直こんな状況で授業になるのか解らないし、もしかしたら休校になるかもしれないけれど、それでも学校には登校しようと心に決めた。 
 そうして、野次馬を避けながら着た道を戻り、乗ってきた自転車に跨ろうと足を上げたところで、携帯電話が震え始めた。
「っと、電話か」
 メールの着信とは違うバイブレーションパターンに慌てて携帯電話を取り出し、開くと、ディスプレイには友人の名前が記されていた。
「もしもし?」
「よぅ、夜中に悪いな。今暇か?」
「あー、まぁ、暇っちゃ暇だが……。実はな、今、学校が火事になってるんだよ」
「火事ぃ?」
 信じられないのだろう友人の言葉に、俺は奇妙なほどに明るい背後へと視線を向けながら、
「お前は家が遠いから解らなかっただろうけど、十分ぐらい前に爆発音がしてさ。煙が上がってるから見に来てみれば、だ」
「マジかー……。こりゃ明日は大変だな」
「だろうな。で、一体何の用だ? テンションは下がってるが、話ぐらいなら聞いてやる」
 言いながら、片手で自転車を押していく。その間、電話口の向こうに居る友人は「どうすっかなぁ」と少し逡巡してから、
「ちょっと調べ物を頼みたかったんだよ」
「どんな?」
「今プレイしてるゲームの事でな。二つの世界を行き来して進んでいくタイプのRPGなんだが……」
 友人曰く、そのゲームでは『こちら側』と『向こう側』という二つの世界があるらしい。『こちら側』は科学技術の発達した、言わば現実世界に似た場所であり、対する『向こう側』は魔法技術の発達した、言わばファンタジーの世界なのだという。
「それでな、とあるキャラクター達を仲間にするつもりなんだけど、そいつらが結構曲者でさ」
 本来、『向こう側』に住まう魔法使い達は『こちら側』では魔法を使う事が出来ない。何故なら『こちら側』には『魔法が存在しない』という常識があるからだ。それは逆も然りで、電気などの無い『向こう側』では、主人公達の持つ携帯電話などのアイテムが全く使えなくなってしまう。ちなみに、この『こちら側』『向こう側』という言葉は便宜上の表現らしい。主人公が立っている世界が『こちら側』と呼ばれ、対するもう一つの世界が『向こう側』と呼ばれるのだそうだ。つまり、科学世界に居る時は『こちら側』が科学世界、『向こう側』が魔法世界となり、魔法世界に居る時は『こちら側』が魔法世界、『向こう側』が科学世界になるのだという。
「で、どう曲者なんだよ?」
「そいつら、科学世界に突然現れるんだが、普通に魔法を使って来るんだよ」
「何で」
 問い掛けに、何故か友人はとても楽しそうに、
「そいつらが例外だからさ」




 遠く、サイレンの音が聞こえる。
「さっきも言ってたけど、例外ってどういう事なの?」
 学校から離れ、住宅地を縫うように歩きながら、女性は空に話しかける。
「今言った通り、どんなに高い魔力を持つ魔法使いでも、この世界に居る限りその力の殆どが封じられる。それがこの世界の『常識』なの。つまりこの世界で魔法を使うには、この世界の常識を捻じ曲げないといけない。それは普段の倍以上の魔力を使う事を意味していて……それでも、生み出せる魔法の威力は半分以下に落ちてしまう」
 それなのに、
「貴女の放った魔法は、この魔力の無い世界ではありえないほどに強力だった。まるで『常識』など関係無いかのようにね。それは一体何故?」
 本当に解らない、といった風に問い掛けた質問に、空は美術室で告げた言葉を繰り返す。
「それは私が例外だから。この世界に魔力があろうと無かろうと、関係ないのよ」
「関係ない?」
「そう。普通、魔力っていうのは一人一人その総量がバラバラで、でもそれを使いながら魔法を発動させてる。それでも自由に魔法が使えるのは、私達の世界には大気中に魔力が満ちているからよね」
 それは、女性の住んでいた世界での『常識』だ。けれどこの世界には大気中にも、人の体内にも魔力が存在しない。それを肌で感じられるのだろう彼女は、等間隔に現れる夜間照明を珍しげに見上げながら、
「もし大気中に魔力が無かったら、自分の体内にある魔力で全てをまかなわないといけない。つまり、それがこの世界で魔法を使う唯一の方法になる」
「でも、今話した通り、その威力は半分以下になるわ」
 例えば少女の放った火球の場合、その維持には大気中の魔力が消費されていく。しかしこの世界ではそれが出来ず、魔法の維持にすら自身の魔力を消費する。その結果、どうしても威力が弱まってしまうのだ。
 だというのに、空はあっさりと言ってのける。
「だったら、その維持にもっと魔力を使えば良い」
「それが出来たら苦労は……」
「私にはそれが出来るの」
 何故なら、
「私は、この体に無尽蔵の魔力を持っているから」
 その言葉が告げられた瞬間、女性は思わず足を止めてしまっていた。そして、無尽蔵などという、荒唐無稽にも程がある話を平然と言ってのけた相手へと視線を向けると、彼女は電信柱を物珍しげに見ていた。
 そこに嘘があるようには感じられず、だからこそ女性は鸚鵡返しに聞き返すしかなかった。
「無尽蔵の魔力ですって?」
 体力に限りがあるように、当然魔力にも限りというものがある。例え元の世界に戻ったとしても、常に大気中から魔力を吸収出来る訳ではないから、確実に限界が訪れるのだ。だというのに、魔法使いの少女はあっさりと頷き、
「そう。だからこの世界でも魔法を使えるの。まぁ、実際に上手く行くかは賭けだったけど」
「なら、なんでいきなり私を襲ったの?」
「貴女から魔力を感じたから。この世界には魔法が存在しない事は知ってたし」
「魔力を持つものは怪しいと?」
「そういう事」
 あっさりと言い切る少女に溜め息を吐きながら、女性は質問を続ける。
「それじゃ、貴女達はどうやってこの世界の知識を得たの?」
「二年ほど前、とある人から。私達は、その人を探しにこの世界に来たの」
 


「とまぁ、そんな感じで、『こちら側』に来た二人を主人公側に引っ張って来たい訳さ。だからその方法をネットで探してもらいたんだが、良いか?」
「ちょっと待て。自転車片付ける」
 言いながらマンションの駐輪場へと入る。そして肩と耳とで携帯電話を抑えつつ、どうにか指定場所に自転車を突っ込み、鍵を掛けると、
「よし、と。時間が時間だし、軽く調べるくらいになるだろうけど、それでも良いか?」
「全然オッケー」
「んじゃ、調べとくよ」
 そうして別れの挨拶を済ませ、通話を終えると、携帯電話を仕舞いながら玄関へと向けて歩き出す。けれど視界の端に見えるオレンジ色に、今夜は眠れないかもしれないと、そんな事を思った。





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