そんな変化。

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 いつも通り立て付けの悪いドアを開けると、今朝は何故か教室に殆ど生徒が居なかった。
 見れば、レアリィの姿も無い。四十人一クラスの教室に、今朝は十五人の生徒しか来ていないのだ。とはいえ、その理由は簡単に想像出来るから、特に奇妙に思う事は無かった。
 そうして自分の席に鞄を置くと、友人が声を掛けてきた。
「おっはろう。昨日はさんきゅーな。フラグは立てられた感じだぜ」
「ん、そら良かった。……しかし、うちのクラスは野次馬根性が高かったんだな。や、俺もだが」
「まー、俺を含めて大半が電車通学だから仕方無いだろ。朝登校して、美術室が火事になってましたー、なんて事になったら見に行っちまうって。俺も行って来たし」
 そう言って、友人が笑う。けれど、美術室はかなり笑えない燃え方をしていた。
 朝見た限りでは、壁に大きく穴が開いていて、室内にあった作品は完全に燃えてしまっているようだった。一応、他の教室に燃え移る事は無かったようだけれど、大規模な補修工事が行われるのは確実らしい。
 作品の採点が終わったばかりだっていうのに、最悪だ。この事実を先生が知ったら悲しむに違いない。
「……でも、どこにも居ないんだよな」
 これからどうするのか、という話を聞く為に、教室に向かう前に職員室に立ち寄ってみたのだけれど、そこに先生の姿は無かった。美術室周辺に集った野次馬の中にもそれらしい姿は無く、どこにいるのか全く解らない状態だった。
 こんな重要な時だって言うのに、先生は一体何処に居るんだろうか。



 
 某所。
 そこは六畳程の部屋だった。しかし、部屋の状態は綺麗と呼べるものではない。本や雑誌が乱雑に積み上げられ、テレビ等の家具を覆い隠している。けれど、引き戸を挟んだ先にあるキッチンは六畳間とは対照的に片付けられていた。食器類などは使用目的毎に整理され、調味料などは消費の多い物から順に並んでいる。
 そんな、戸一枚で別世界に代わる部屋の中に三人の男女が居た。
 整理のされていない部屋の中心にある、やや大きめのコタツを囲んで、その三人は向かい合うようにして座っている。
 コタツの上には湯気を上げる珈琲が三つ。恋人である夜城が淹れたそれを一口飲んで、空は小さく一息吐いた。
 昨晩、空達が女性に連れられてやって来たのは、隠れ家だというこの汚い部屋だった。そして簡単な食事を振舞われ、お互いについての情報を交換しあったのだ。その中で、空は女性が学校の教師をやっている事を聞いていた。しかし、部屋の心地良い暖かさと満腹による満足感から、時間と共に睡魔に襲われ始め……結果、空はこの場所で眠ってしまったのだ。
 朝になり目覚めた時には、時計は午前八時を回っていた。「敵かもしれない人物の所で良く眠れるわね」と女性にからかわれながらも、空は始めて見る電化製品に感動したり、その用途などに驚いたりと、まるで緊張感の無い立ち振る舞いをやってのけた。
 けれど、それは今の彼女にとっては普通の事だった。夜城が近くに居る以上、空に心配する事など何一つ無いのである。
 そうして、目覚めてから一時間ほど経った頃、まるで旧知の仲のように自然に、空は女性に問いを放った。
「そういえば、貴女は学校の先生なんでしょ? 今日は行かなくて良いの?」
 その問に、珈琲を飲んでいた女性は視線を上げた。そして、少しだけ困ったように微笑んで、
「別に良いわ。美術室が直るまで時間が掛かるし、仕事も増える。そういう後処理をやってる暇は無さそうだもの。だから……そうね、全てが片付くまで『先生』はお休み」
 そう言って、美人の美術教師は小さく苦笑したのだった。



 
 風邪がまだ完全に直りきっていないのか、マスクをした担任教師と共にクラスメイトが戻って来たのは、ホームルーム開始の鐘が鳴ったあとの事だった。
 教室に居なかったレアリィもその中に居て、表情には不安そうな色を浮かべている。昨日の今日でこれだから、強いショックを感じているのかもしれない。それでも周囲の取り巻きは、彼女の様子に関係なく恭しい態度を取り続ける。それは確実に続いているお姫様扱い。それでもレアリィは彼等と友達になろうとしているのだろうけれど……見ているこっちからすると、それは難しいように思えた。
 と、不意にレアリィと目が合った。彼女は周りに悟られないように小さく苦笑すると、そのまま席へと戻っていく。どうにもその姿が居た堪れなくて、取り巻きを無視ししてでも話しかけようとした矢先、
「さ、早く席に着け。急いでホームルームを始めるぞ」
 担任の一言に出鼻を挫かれてしまった。こうなってしまうとどうにも出来ず、俺はレアリィの姿を目で追いながらも、立ち上がろうとしていた腰を下ろした。
「それじゃ、出席を取るからな」
 そうして、何事も無く順調にホームルームは続いていく。けれどその中で、俺は妙な事実と対面する事になった。
「もうお前達も知っているだろうが、昨晩美術室で火事があった。今日は警察の方が調べに来るので、巫山戯て見に行ったりしないように。それで、来週からの美術の授業なんだが、担当の橋本先生から連絡があって――」
「――え?」
 思いもよらない担任の一言に、俺は思わず声を上げてしまっていた。途端周囲の視線が俺へと集り、そして担任が驚きながら、
「どうかしたか?」
「い、いえ、何でもないです……」
 喉から出そうになる言葉を押し込め、首を振る。同時に小声で「どうしたんだ?」と周りから声を掛けられるけれど、何も答える事が出来なかった。
 そんな頭の中の動揺を隠しつつ、ホームルームが終わったあと、俺は友人に話し掛けた。コイツなら、多少変な事を言っても受け流してくれるから。
「……なぁ、ちょっと良いか」
 いつも通りに出した筈の声は、思った以上に重く暗い響きを持っていた。その事を妙に思ったのか、友人が少々心配顔で、
「なんだよ改まって。てか、さっきいきなり声上げたけど、どうかしたのか?」
「その事なんだが……一つ質問がある。お前にだから聞く」
 あの瞬間、思わず声を上げてしまうほどに強く感じた、一つの違和感。 
「美術の橋本って、誰だ」
 俺は、その名前を持つ人物を、全く知らないのだ。
 だからなのだろうか。
 聞かなければいい事を聞いている気がする。
 知らなければいい事を聞いている気がする。
 そんな俺の動揺に気付かずに、友人はあっさりと言ってのけた。
「なんだよいきなり。橋本先生っていたら、筋肉質の男の先生だろ? なんで美術の教師やってるか謎な感じのさ」

 異世界に、迷い込んだ気がした。

 
□ 

「お休みって、それで良いの?」
 あっさりと帰ってきた「休み」という一言に、空が怪訝そうに聞き返す。対する女性はそれに頷き返しながら、
「ええ。貴女の攻撃を防いだように、あの学校の関係者にも魔法をかけておいてあるのよ。私という人間が居ても居なくても、何の疑問を持たないようにする魔法をね」
「一種の魅了みたいなもの?」
「その通りよ。元々、あの学校には橋本という美術教師が居たの。でも、普段私が学校に居る時は、みんなその橋本先生の存在は忘れていて……私がこうして学校に居ない時には、橋本先生の存在が思い出されるようにしてあるの。大規模な魔法だけれど、マジックアイテムを使って常に発動させているから、そう簡単には露見しないわ」
 魔力が存在しない、という『常識』により、この世界では魔法を扱う事が出来ない。しかしそれは、この世界に住まう人々が魔法という技術に対しての抵抗を全く持っていない、という事でもあった。
 例えるなら、魔法というのは新種の病原菌に近い。感染し、抵抗が出来てしまえば怖くないが、抵抗が無い場合では抗う事が出来ない。その上、この世界には知識や経験という薬も存在しない。つまり、どんなに威力の低い魔法であろうとも、人々は簡単に捕らわれてしまう。
 その為、人を惑わし、操る事を可能とする『魅了』という部類の魔法にとっては、その効果を十二分に発揮する事が出来る場所だともいえた。
 しかし、その魔法を維持していくには、体内を巡る魔力を一定量消費し続けなければならない。術者の人数が多いのならば話は別だが、個人での使用の場合、当人の持つ魔力の限界以上には魔法を発動し続ける事は出来ない為、長時間魔法を発動させ続けるのはどうしても難しかった。
 その問題を解決する為に用いられるのが、マジックアイテムと通称される物だ。個としての形は様々だが、基本的に『魔力を持つ者が何らかの物体に魔力を封じ込めたもの』を指す。例えばそれは指輪であったり、剣であったり、鉱石であったりする。
 魔法使いはそれを武器にしたり、魔法の補助や、結界などを張る際の境界の代わりに使用する。更に、一度籠められた魔力を使い果たしても、元となった道具そのものが破損しなければ何度でも魔力を籠め直す事が出来る為、同じマジックアイテムを長く愛用する者も多い。
 現に、空も一度魔力を使い果たしたマジックアイテムに、再び魔力を籠め直している。コタツの下で夜城の手を握る左手に、その指輪(マジックアイテム)はあった。
「でも、この世界じゃマジックアイテムの魔力も使えないんじゃないの?」
 空の問い掛けに、女性は猫のイラストの入ったマグカップを持ちながら、
「本来なら使えないわ。でも、どうにか方法を探して、この世界の常識に囚われないマジックアイテムを作れないか試行錯誤を繰り返したの。その結果が、昨日の防壁と、今日発動させている魅了の魔法ね」
「凄いのね、貴方って……。でも、なんでそんな事をしてまで学校の先生なんかをしているのよ? ていうか、何で貴女はこの世界に居るの?」
 この世界は、空達が居た世界とは全くと言って良いほどに関わり合いの無い世界だ。元の世界に戻るにしても、そう簡単には戻る事が出来ない程に。
 何故? と疑問符を浮かべたままの空に微笑みながら、女性は答えを返した。
「ちょっと探している人が居るの。去年からこの地域を探し出して、今もまだ捜索中。まぁ、この世界に居るのかどうかすらの当てもないのだけどね。ここはその、取り敢えずの前線基地みたいなものね」
「その探してる人って、一体どんな人なの? あ、失礼じゃなかったら、で良いから」
「それがね、解らないのよ」
「解らない……?」
 探している人が居るのに、解らないと言うのはどういう事なのだろうか。珈琲を飲みつつ寡黙していた夜城も、空と同じように女性へと視線を向けた。
 二人分の視線に、女性は苦笑を作る。
「そう、解らないの。でも、私はその人達に逢って、謝らなくてはいけない。遠い昔に交わした約束を……彼等が誓った言葉を、守る事が出来なかったから」
「でも、そんな状況でどうやって相手を探すの?」
 それはまるで自分達と同じ状況のようで、空の中に女性への親近感が湧いていく。だからだろうか、その表情も自然と年相応のそれになっていて、女性はそれを可愛らしいと思いながら、
「その人達は、元は私や貴女達と同じ世界の住民なのよ。だから、今も微弱ながらに魔力を保持していると思うの」
『向こう側』の世界に存在するものは、無機物・有機物にかかわらず、誰もが魔力を持っている。大気にも魔力があるという状況から、そのような状況が生まれたのだろう。そして、昨晩の美術室で空が女性の魔力を感じたように、女性も空達の魔力を感じ取る事が出来た。つまり、微弱であろうそれを頼りに、女性は探し人を探そうとしているのだった。
 そして、魔力があるという事は、魔法に対して抵抗を持っているという事になる。
「もし魔力を持っている人物が居れば、例え魅了に掛かっていたとしても、私という要素が居なくなった事には気付くでしょうね。……まぁ、私の捜し求める二人が、運良くあの学校に居てくれるのなら、の話だけど」


□ 

 放課後。
 朝のHRでは聞き逃していたのだけれど、各学年の美術委員は図書室へと集まるように言われていたらしい。何も考えられない頭で帰り支度をしていた俺に、レアリィがそう教えてくれた。そのレアリィは、俺とは違い、美術の橋本という人物の事を違和感無く受け入れているように見えた。変な風に思われるのも嫌なので、直接聞いてはいないけれど。
「それじゃ、行きましょうか」
 美術委員の仕事となれば、流石に取り巻きの姿も消える。笑顔で言うレアリィのあとを追って、俺は教室を出た。
 教室のすぐ脇にある階段を上り、三階へ。そこから伸びる廊下を右に進んだ先にあるのが図書室だ。レアリィはそのドアを躊躇いなく開け、中へと入っていく。そのあとに続きながら、俺はどうしても視線を上に上げられない。
 酷く嫌な緊張がある。
 入り口を入ってすぐ左手に貸し出しコーナーがあり、いつもの会議通りなら、『先生』はその前に立っている筈だ。
 まるで悪夢の中のような感覚を感じながら、それでも期待をこめて視線を上げ――視線の先に立っていたのは、
「よし、これで全クラスそろったな。お前達、自由に座ってくれて良いぞ」
 俺達に向かって野太い声を出す、見知らぬ男だった。



 話し合いが続いていく。
 声だけが聞こえる。
 言葉が頭に残ってこない。
「昨日の火事で沢山の作品が被害を受けた。だがな、その中にもどうにか火の手を免れていたものがあったんだ。明日、先生達がそれを廊下に運び出しておいておくから、お前達にはそれを学年ごとに分けて貰いたいんだ。三年から順番に、他の学年の作品を壊さないように慎重にな」
 先生の顔を思い出す。
 先生の声を思い出す。
「分け終わった作品は、次の授業の時に持って帰ってもらう事になる。以上が今後の流れだ。何か質問はあるか?」 
 でも、
「それじゃあ、今回の集会は終わりだ。みんな、気をつけて帰るんだぞ」
 でも。
 どうやっても、思い出せなかった。
 綺麗な女性の先生が居たという記憶はあるのに、その姿も顔も、何もかも思い出せなかった。





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