黒騎士。

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 戦場が、たった一人の剣士によって鎮圧された翌日。
 港で足止めを受けている誰もがその事実を知らぬ中、ゆっくりと揺れる船の客室で、カイナ・カイラ・コーストは目を覚ました。
 彼女はすぐ隣で眠るレアリィの寝顔を確認すると、抱き枕としていた兎のぬいぐるみを胸に抱き締め直し、空いた手で布団の乱れを直していく。とはいえこうしてベッドで眠れるとは思っていなかった為、長い移動の疲れはそこまで溜まっていないように感じられた。
 しかし、自分達はまだ運が良い方だと、カイナは思う。……とはいえ先生の言葉通り、最悪の状況になっているのは確かだったが。
「……陸の孤島」
 そう。カイナ達はルビド国の宣戦布告に伴う港の閉鎖に巻き込まれ、ここから身動きが取れない状況となっていた。だが、それに巻き込まれたのは、カイナの乗り込んでいたこの船の乗客だけはない。これから船に乗ろうとしていた者、一時停泊でルビド港に訪れていた異国民など、大勢の人が港に溢れた(港を閉鎖するだけでは無く、そこに停泊する船の出港すらも禁じた為だ)。
 数ある宿屋もすぐに満室となり、野宿も致し方無いかと思われた時、船長達が人々に客室を開放したのだ。
『私の仕事は皆さんを無事に港へと送り届ける事です。しかし、こんな状況では「無事に停泊する事が出来た」とはいえません。宿泊客の皆さんは元より、甲板も解放致しますので、野宿を行おうと計画していた皆さんも船に上がって下さい。
 とはいえ、「甲板では野宿と変わらないでは無いか」と思う方もいらっしゃるでしょう。ですが、船には風雨を防ぐ魔法を扱える魔法使いもおります。どうぞご安心を』
 そんな船長の言葉に続くように、宿の主人達も一階のロビーや従業員用の休憩所を解放する事を決め……昨晩は誰もが風雨を凌ぐ事が出来たのだった。
 だが、この状況が今晩もすんなり続くとは限らない。こうなった以上、『金を出すから部屋を貸してくれ』『金を出すなら部屋を譲ってやる』といった考えが必ず発生する筈だ。そしてそれは、無理矢理部屋に押し掛けて来る輩が現れないとも限らないという事でもあった。
 少しだけを顔を上げてみると、そんな不逞の輩からカイナ達を護る為、五月が寝ずの晩を行っていた。と、動きの気配に気付いたのか、彼がこちらを見、
「おはよう、カイナ」
「……おはよう」
 小さく告げて、そのまま逃げるように体を戻す。本来なら自分は先生と一緒の部屋で眠る筈だったのだが、当の先生がレアリィと共に眠る事を勧めてくれたのだ。
 最近では先生達以外にも少しずつ心を開けるようになってきたが、やはりレアリィと一緒に居るのが一番安心する。先生はそれを理解してくれていて、だからこそこうしてゆっくり眠る事が出来た。
 同時にそれは、五月に対する警戒心も薄れてきている、という事でもあり……自分も少しずつ成長出来ているのかもしれない、とそう思えたのだった。
 と、不意に部屋の扉が小さくノックされ、
「サツキ、俺だ」
「テオか。ちょっと待ってくれ」
 言葉と共に五月が扉を開く音が響き、しかし何故かテオが少々呆れの交じったような声で、
「もしかして、ずっと起きていたのか? 俺達が起きているから眠ってくれと、そう言っただろう」
「や、なんか眠れなくてさ。どうせ今日一日動けないんだし、このまま起きていようと思ったんだ」
「その気持ちは認めるが、しかし咄嗟の時に動けなくては意味が無い。朝食まであと三時間ほどあるし、少しは眠っておくといい。……それとも、俺は信用ならないか?」
「そんな事は無いさ。テオ達が信頼出来るって事は、この一ヶ月で十分解ってる」
 彼の言葉を聞きながら、カイナはアリア達が城に現れてからの事を思い出す。
 アリア達と資料室で初めて逢った時は驚いたものの、その後も何度もあの場所で顔を合わす事になった。
 どうやらテオという青年は知識に飢えているらしく、カイナにはまだ読破出来ない難しい魔道書を次々に読み解いては「……素晴らしい」と感嘆を漏らし、アリアはその隣で各国の小説や物語を読んでは「……素敵」と目を輝かせていた。
 そんな似たもの同士なカップルは、五月達と一緒に外出する事が多々あった。どうやらアリアは田舎の出で、都会であるディーシアの城下街には興味が尽きなかったらしい。
 レアリィから教えてもらった限りでは、一緒に商店を回ったり、ご飯を食べたり、街のギルドが突発的に張り出したクエストを一緒にクリアしてみたりと、色々な事をやったとの事だった(因みにそのクエストは冒険者ギルド所長の愛猫を探すというもので、上へ下への大騒ぎになったのだそうだ)。
 そうした触れ合いの中で、アリア達とカイナ、そして五月達の仲は深まっていった。それでもテオが五月に『信用ならないか?』と問い掛けたのは、今まで一切見せなかったその力を五月達に見せた故の不安があったからなのかもしれない。
 カイナの人形操術は、人形に『命』を吹き込む事で彼等を自立させるものだ。故にその視界などはカイナに共有される事となり――だからこそ、カイナはテオの人間離れした力をまじまじと感じる事となった。
 いや、人間離れという言葉は相応しく無いだろう。
「……あれは、」
 あれは、人間の扱う力では無かった。
 自らも異端の力を扱う以上、それは誰よりも理解出来る。故にテオの葛藤も理解出来て……だからこそ、五月の言葉は自分に与えられた言葉のようにも感じられて、カイナは無意識にぬいぐるみを強く抱きしめた。
 そうしている間にも会話は進んでいたようで、五月が少々観念したような調子で、
「解った。お言葉に甘えて仮眠させて貰うよ」
「では、俺は引き続き魔女と共に番をしている。しっかり眠ってくれ」
 その言葉と共に扉が閉められた。
 そうして再び静けさを取り戻した部屋の中、五月が一つ伸びをし……カイナはそれにあわせるように体を起こすと、こちらを見た彼に見えるよう、自分が寝ていた場所を軽く叩き、
「……わたしは上で眠るから」
「いや、テオにはああ言ったけど、やっぱり咄嗟に動けた方が良いからな。俺はこのまま眠るよ」
 そう言って、五月は椅子の上で背を丸めてしまった。カイナはその姿を暫し見つめたあと、抱きかかえていたぬいぐるみに命を吹き込み、
「……お願い」
 そう告げると、ぬいぐるみをベッドの外に放した。それと同時に、レアリィを跨ぐようにそっとベッドから降り、カイナはそのまま二段ベッドの上へと繋がる階段に手を掛け、
「ちょ、ま、カイナ?!」
 小さな叫びに視線を向けると、ぬいぐるみにお姫様抱っこされた五月が当惑の声を上げていた。動けば落ちて音を上げてしまう、という意識があるのか、縮こまったまま動けず、しかし必死にこっちを見る五月の姿におかしさを感じながら、カイナはぬいぐるみに頼んで彼をレアリィの隣にそっと運ばせる。そしてこちらを見上げる五月の視線を誘導するように、背後にある椅子へ視線を向け、
「……あの子が番をしてくれるから」
 言葉に頷くように兎のぬいぐるみが椅子に腰掛け、腕を組んで視線を扉に。そしてカイナは五月を見やり、
「……だから大丈夫」
 その言葉に、五月は少しだけ不安げな表情を浮かべ、しかしカイナが引かないと解ると、諦めたように布団を手繰り寄せ、
「すまないカイナ。……おやすみ」
「……うん。おやすみなさい」
 小さく微笑んでそう告げて、カイナは二段ベッドの二階へ上り、少し冷たいそこにころりと横になった。
 命を吹き込んだぬいぐるみや人形達は、カイナがそれを再び預からない限り、その体が自壊するまで自立し続ける。彼等はカイナを護る剣であり盾であり……抱き枕でもある。抱く物が何も無いこの状況に少し心許無さを感じながら、カイナはそっと目を閉じた。
 そして再び眠りに落ちるまでの間、とある事を思う。
 それは、五月の反応について。
 五月とレアリィから話を聞いて、カイナは彼等の過去に何があったのかを理解しており、彼が何よりもレアリィを優先して行動する事も把握していた。そんな五月が、テオの存在があるとはいえ、この場を自分に任せて眠ってくれたのだ。それがカイナには嬉しかった。
 そうして無意識に五月の事を想いながら、カイナは二度目の眠りに就いたのだった。



 朝。
 他国に輸出予定だった魚が大量に余った漁船がある、という事で、昨晩以上に豊富となった魚料理を朝食として食べた後、カイナは先生の部屋へと向かった。これからの事に関し、自分なりの考えを述べておこうと思ったのだ。
 そうして、カイナは先生を前に決意と共に口を開いた。
「……わたしは、ここに残りたい。魔法候補を、見付けないとだから」
「でも、この状況だと難しいわよ。港からルビドへの続く道は生きているけど、旅人である私達が国内に入る事は出来ないでしょうし」
「……じゃあ、国の外にも出られない?」
「それも難しいでしょうね」
 ルビド国としてみれば、港からやって来る人間の中に敵国の斥候が混じっているとも考えられるのだ。それと同時に、何らかの有益な情報を持った存在が敵国に渡る事も防ぎたい。だからこそ港は封鎖され続けており、それはここが陸の孤島となった事を意味する。
 ビスクドールのように粘土を焼いて作る人形の職人は、窯を持たねばならない関係で国の外に居を構える事が多いと言う。カイナはそんな職人を狙ってもいたのだが……しかし、国外に出る事すら出来ない以上、それも無理だと解った。
 ならば、一体どうすれば良いのだろうか。この旅の主役はカイナであり、これからの動向は自分が決めていく事になる。流石に昨日は先生達に判断を任せてしまったが、一晩明けた今日からはそうも甘えていられない。
 そう思うカイナに、先生は辛そうに眉を下げた表情で、
「決断して頂戴、カイナ。いざとなったら私とレアリィが門を開いてディーシアに戻る事も出来るし、帰りの方法については悩む必要は無いわ。留まるか帰るか、その二択ね」
「……留まるか、帰るか……」
 そうして悩み出すカイナの頭を、先生がそっと撫で、
「ごめんね、カイナ。本当なら、貴女が魔王候補選出者に選ばれる事は無かった筈なんだけど……」
「……大丈夫」
 様々な要因から城でも浮いてしまっているカイナにとって、これはチャンスでもあった。未だ上手く周囲に馴染めない自分がこの仕事を遂行させる事が出来れば、それはこちらに対する意識が変わる切っ掛けになる筈だからだ。
 そう、カイナはカイナなりに努力し、自立を目指している。いつかレアリィが自分の心配しなくても済むようになるよう、彼女なりに頑張っているのだ。先生はそれを知っているからこそ、幼いカイナに決断を迫る。
 しかし、知識も経験も無いカイナには、何が正解であるのかが解らない。出来ればこのままルビド港に残り、魔王候補を探したいと思うが……それは周囲の状況を鑑みての決断ではなく、ただの希望だ。言ってしまえば我が儘ともいえる。何より、自分が残る事を選択すれば、そのままレアリィ達全員がこの場に残るだろう。例えカイナがそれを拒絶しても、優しい義姉達はきっとカイナの力になろうとしてくれる。だから尚更に迂闊な決断は出来ず、カイナは悩む。どうしたら一番良いのかを。
 と、そうして悩み続けていると、不意に強く部屋の扉がノックされ、
「先生、カイナ! 大変な事になりました!」
 声の主はレアリィだ。焦りを持ったその声に先生が慌てて扉を開くと、廊下にはレアリィと五月、そしてアリア達の姿があり、その表情には困惑があった。
「一体何があったの?」
「今、港を封鎖していた兵士達が新しい情報を教えてくれたんですが……昨日の時点で、ルビドとエルドは戦争を始めてしまっていたらしいんです!」
「なんですって?!」
 先生の強い驚きはカイナにも理解出来た。
 城の玄関で先生から聞いた噂話――ルビドとエルドの国交断絶はカイナ達がこの港に辿り着いた時には現実となっており、そして今、両国の戦争という最悪の事態にまで発展してしまったのだ。こうなった以上、港の封鎖は解除されるどころか、更に強化される事となるだろう。
「戦況はどうなっているの?」
「本当かどうかは解りませんが、突如現れた黒騎士が戦場を掻き乱し、現在は小康状態……というよりも、争うに争えない状況になってしまった、との事でした」
 先生の問い掛けに、レアリィが困惑気味に答え……でも、と言葉を繋ぎ、
「でも、どうして昨日の時点で話が拡がらなかったんでしょう。港の閉鎖と共に情報規制が強まったとはいえ、国の未来に関わるような事なのに……」
「恐らく、中立国であるサフィーアにそれを知られたくなかったんでしょうね。今後もサフィーアが中立を貫けば良いけれど、ルビド、エルドの両国からすれば『もしかしたら敵国とサフィーアの間に繋がりがあるかもしれない』という疑念が生まれている筈よ。そしてもしその予想が当たってしまった場合、敵国にサフィーアが付く可能性もあるから、どうしても慎重にならざるを得ない。だから、いずれ確実に発覚する情報すらも封じたんでしょう」
 こうなってしまった以上、ルビド国への入国規制は更に厳しいものとなり、暢気に魔王候補を探してなどいられなくなるだろう。
 カイナは焦りを浮かべる五月達を見上げ、『ディーシアに戻ろう』と決断を下そうとし――その瞬間、外から多くの叫び声が上がった。
「い、今のは?」
「解らない」
 アリアの声に答えながら、テオが廊下にある窓へと駆け寄り、五月がそれに続く。だが、外からは未だ声が響き続けており、それは『逃げろ』『殺される』といった恐怖に溢れたものばかりで……カイナは思わずぬいぐるみを強く抱きかかえ、部屋に入って来たレアリィへと無意識に縋ろうとして、
「う、嘘だろ?!」
 部屋の外から五月の声が聞こえた瞬間、木材を破砕する音が間近で響き、思わず音の方へと視線を向け――
「……!」
 そこに、抜き身の剣を手にした漆黒の騎士が立っていた。
 その背後にある壁は無残にも破壊され、晴れ渡る空が覗いている。それに構う事無く黒騎士がこちらへと歩き出し――しかしその瞬間、突如目の前に現れた存在に誰もが動きを止めてしまっていた。
 一拍遅れて五月とテオが動き出し、先生が圧縮した呪文を呟き、レアリィがカイナを護るように抱き締めようとする。だがその瞬間、当のカイナは無造作に伸ばされた騎士の腕に囚われていた。
「カイナ!!」
「お姉ちゃん……!」
 強く叫びながら、カイナは助けを求めて腕を必死に伸ばし、しかし一瞬で義姉との距離が離されていく。そして一気に後方へと流れていく視界の中、黒騎士は躊躇いも無く自らが開けた穴を抜け――一瞬の浮遊感。
 叫び声を上げる間もなく衝撃を受け、黒騎士が着地したのだと理解した瞬間、既に彼は駆け出していた。
 黒騎士の登場に脅える人々の間を風のように通り抜けながら、漆黒の騎士は一切の躊躇いを見せぬままに加速する。遠く自分の名を呼ぶレアリィ達の声が聞こえる気がするが、騎士に抱きかかえられている為にそれを確認出来ない(その左腕がこちらの腹を抱えている状態であり、後ろを振り向く事が出来ないのだ)。
 それでも、ぬいぐるみは放さず抱えている。自分の力が通用するかは解らないが、それでもカイナは抗おうとし……視界の先に、大きくそびえるルビド国の外壁が見えた。このまま加速していけば確実に激突するだろう事実に、抗おうとしていたカイナの思考が止まり――しかし次の瞬間、前触れも無くぐっと視線が下がり、騎士が大きく跳躍を果たした。
 突然のそれにカイナは叫び上げ、しかしそんな彼女を無視するように景色は凄まじい勢いで流れていき……見上げるような城壁を飛び越えたと思った瞬間、強い浮遊感が訪れる。床が消えて無くなってしまったかのようなそれに息を飲んだ途端、着地の衝撃。それに息吐く間も無く次の跳躍が行われ、
「――ッ!」
 急上昇と落下の浮遊感を連続で五度以上体感し、思わず閉じてしまっていた目をどうにか開いた時、カイナは港から大きく離れたのだろう草原に居た。
 それに気付いた瞬間、見ず知らずの場所に連れてこられたのだという事実に、冷静な判断を行うどころか困惑と恐怖が押し寄せてくる。悪い想像ばかりが頭に浮かび、視界が涙で歪んでいく。
 それでも、このまま無抵抗でいる訳にはいかない。内心の恐怖を必死に押し殺しながら、カイナは強く抱き締めていたぬいぐるみに命を与え――その瞬間、胸に抱いているぬいぐるみから感じる『命』に似た感覚が、すぐ背後にある騎士の胸当ての奥からも感じられた。
「……嘘」
 思わず声が出る。
 だが、信じられない。
 けれど、他の誰もが把握出来ないだろうその感覚が、神子として奉られていたカイナにははっきりと理解出来た。
 つまりそれは、擬似的な――人間のものとは違う『命』の感覚。
「……あなた、は……」
 自分をどこかへと連れ去ろうとしているのは、勇者と謳われた黒騎士なのでは無い。
 ただの、鎧だ。
 どうして、という疑問は湧くが――しかしそこに、自分に害を成す『人間』は入っていない。それに気付いた瞬間、カイナの中にあった恐怖が自然と消えて行く。
 過去にカイナが暮らしていた洞窟には、島民の念いを一身に受けた人形達が大量に納められていた。そうした人の念いは時として人形に命を与えてしまう。彼女はそういった人形達を治めながら、心を殺し、独りきりの苦痛に耐え続けていたのだ。
 だからこそ、相手がどこの誰かも解らない人間ではなく、自分が話を聞く事の出来る人形なのだと解った事で、カイナの中に余裕が生まれた。
 そして彼女は、走り続ける黒騎士の兜をそっと見上げ、
「……貴方は、誰?」
 対する鎧は、カイナの問いに加速を少しだけ緩めながら、
『――ご無礼を謝罪する』
 心の中に染み入るように、低く渋い彼の声が響く。
『我はラスニチカ。人々から勇者と呼ばれた者の鎧だ』

 それがカイナと漆黒の鎧――ラスニチカの出逢いだった。



 ルビド港から北西に進む事十数分。切り立った崖を下った先に、小さな孤島がある。
 浅瀬であるが故に船では近付く事が出来ず、しかし陸から向かうには絶壁とも呼べる崖を下り、三メートル以上の跳躍を連続で行って岩場を飛び移らねば辿り着けない。そこは、正しく孤立した島だった。
 ラスニチカはその三メートル以上の跳躍を難なく行い、あっさりと島に上陸すると、迷う事無くその奥へと入っていく。そして鬱蒼と茂る草木を進んでいった先に、一軒の家があった。
 古めかしく、しかし大きな家だ。所々に補修を行った跡が見られ、長い時間を家主と共有して来た事が見て取れる。そして家の正面には無造作に畑が作られており、そこで一人の男性が野菜の収穫を行っていた。
 その姿が見えたと同時にラスニチカが速度を落とし、カイナを抱いたまま男性に近付いていく。それに気付いた男性が手を止め、こちらに視線を向け、
「……嘘」
 男性の姿を視界に捉えた瞬間、カイナは思わずそう呟いていた。
 カイナ・カイラ・コーストという少女は、魔法使いとしてはとても特殊な部類に入る。彼女が扱う人形操術という技術は、本来ならば術者の魔力を人形に通わせ、操り人形のように操作するものだ。だが、カイナのそれは魔力を殆ど用いず、人形に『命』を与える事でそれを自立させる。それがディーシア城で忌避され、しかしクレアと同等の技量を持つと言われるカイナの能力――命の譲渡。
 つまりそう、本来ならば操り人形となる人形を、カイナは生き物に変える事が出来る。無機物に『命』を与え、そしてそれを預かる事が可能なのだ。
 更に彼女は、他者の『魂』と呼ばれるものを視る事も出来た。カイナにしてみれば、それは魂の色や輝きが見える、と表現出来るものだ。
 魂が力強い色や輝きをしている人間は当然気力に満ち溢れており、その逆も存在する。記憶を取り戻した後のレアリィと出逢った時、カイナが感じた違和感はそれだった。愛する義姉の魂は優しい色をしていて、けれど今ではそこに仄かな、しかし力強い輝きが存在している。それは五月も同様で――しかしそれは義姉等にしか持ち得ない、前世の記憶を取り戻したが故の現象なのだろう。
 そして、目の前に立つ男性の魂の色は達観に満ちたもので……その輝きは、カイナの良く知る先生ととても良く似ていた。つまりそれは、
「……不老、不死?」
 それは、変化を止めてしまった魂の輝き。
 思わず呟いてしまった言葉と同時にラスニチカが足を止め、男性から数メートル離れたところで降ろされた。対する男性はカイナの呟きに優しく微笑み、
「いらっしゃい。うちにお客さんが来るのは何年ぶりかな」
 そう否定も肯定もせずに立ち上がると、手に付いた泥を軽く叩き始めた。そんな彼の正面にラスニチカが静かに歩いていき……その一歩手前で片膝を降り、深く頭を垂れた。まるで自身が、王に従属する騎士であるかのように。
 対する男性はそれを当たり前のように受け入れながら、
「お帰り、ラスニチカ。彼女がお前の言っていた『神様』なのかい?」
 その言葉に漆黒の鎧が一つ頷き、そしてゆっくりと立ち上がると、男性をじっと見つめ続けてしまっていたカイナの肩にそっと触れ、
『この方が我の主。勇者と呼ばれしお方だ』
「……勇者」
 鸚鵡返しのような呟きに、対する男性は「彼の言葉が解るのか」と少し意外そうな、しかし納得のある声で呟き、
「彼の紹介通り、私はかつて勇者と呼ばれていた。黒の剣士、と言えば解るかな」
 静かな笑みと共に告げられたそれは、この大陸に伝わる冒険譚の一つであり――そして、『実在した勇者』の物語でもあった。



 それは遥か昔、神々が人に魔法という力を与えたもうた時代の物語。
 世界が大きく変化し、同時に争いも拡がり……そして、魔力の恩恵によって日々凶暴化していくモンスターの被害に人々が苦しめれていたその時代、とある国で一人の青年が生まれた。
 モンスターに両親を殺され、戦争によって住む場所を失った彼は、自分と同じ苦しみを味わう民をこれ以上出さぬ為、剣を取り立ち上がった。
 青年は一人だった。しかしその剣は人々を苦しめる悪を打ち倒し続け、その存在は瞬く間に大陸中に知れ渡っていった。そして、ただ弱者の為に剣を振るうその姿は、いつしか勇ましい者、勇者と呼ばれるようになっていったのだ。
 そんな彼の元に、死神が交渉に現れた。笑みを絶やさぬその死神は彼の強さに感服し、願いを一つ叶えると申し出たのだ。
 そして彼は死神に願いを告げ――真の勇者となって世界を救う為、不老不死の存在となったのだった。
 
 その後、勇者は争いのある場所へ赴いては人々を救っていき、弱き者を護る為に戦い続けたのだという。



「そうして世界が平和になった後、勇者はどこかへと消えてしまった」
『それがこの地なのだ』
 男性の――いや、勇者だった男の声に続くように、ラスニチカが補足する。と、どうやら男性は彼と触れ合わなくてもその声が聞こえるのか、驚くカイナを前に一つ苦笑し、
「ラスニチカ、その話は秘密にしろと言っただろう?」
『しかし我が主よ、このお方だけは例外だ』
「まぁ、確かにそうなんだろうけどね」
 苦笑を強める男性を前に、しかし突然連れてこられたカイナには何がなにやら解らない。そんな彼女に対し、しかし男性は柔和な、それでいてどこか他者から一歩引いたような雰囲気を保ったまま、
「君が困惑しているのは良く解るよ。でも、私も少々戸惑っているんだ。まさかラスニチカの言っていた『神様』が目の前に現れるとは思っていなかったからね」
「……かみさま?」
 一体どういう事なのだろう。困惑が心の大半を支配し、見知らぬ相手の前だと言うのに呆然とそう呟き返してしまった。そのままカイナはラスニチカを見上げ、その言葉の意味を彼に無言で問い掛ける。
 すると返って来たのは、
『その通りだ、神よ』
 という、しかし答えになっていない言葉だけだった。
 それに首を傾げるカイナに、男性は野菜の入った籠を抱え上げながら、
「そもそも彼は、私が実際に使っていた鎧でね。死神と交渉した結果なのか、当時から全く劣化する事がなくて……それでも時代の変化と共に改修を繰り返して、その全身を覆う甲冑が出来上がったんだ」
 そして、
「私が生まれた国には、九十九神という、長い間使い続けたものは神様になるという言い伝えがあるんだが、どうやらその神としてラスニチカが生まれたようでね。以前から意思のようなものは感じていたんだが、こうして鎧が人の形となった事で完全に命を持ち、自立して動き回るようになったようなんだ。
 因みにラスニチカという名前は、とある地方の言葉で『神の鎧』という意味を持っている。つまり彼は、名実共に神様でもあるんだ」
 黒騎士はそうして生まれ、そして勇者の意思を継いで人々を助け続けていたのだろう。
 だが、それでも自分が『神様』と呼ばれる理由が解らない。そんなカイナを前に、対する男性は家の玄関前へ籠を置き、こちらに振り向き直すと、
「ラスニチカにしてみると、鎧の持ち主である私は仕えるべき主になるらしい。例え九十九神として顕現したとしても、道具としての本質は誰かに使われる事であり、その本質の部分は変わらないんだそうだ。でも、彼には信仰する『神様』がいるらしくてね。それは世に存在する九十九神全ての神に当たる存在なのだそうだよ」
「……もしかして、それが……」
「そう。それが君だと、ラスニチカは言っている。……私には『神様』というより、可愛らしいお嬢さんにしか見えないけれどね」
 嫌味ではなく、純粋な好意なのだろう男性の言葉に気恥ずかしさを感じ、カイナは思い出したかのように視線を下へ逸らした。そんな彼女の隣に立つラスニチカは、男性の前でそうしていたように、カイナの前で片膝を付き、ぬいぐるみを抱く彼女の手をそっと取ると、
『道中のご無礼をお詫びする。しかしながら神よ、我には貴女様に聞いて頂きたい事があるのだ』
「……わたしに?」
 問い掛けに、ラスニチカは静かに頷き、
『我は今まで、勇者として戦ってきた。主がそうしてきたように弱者を助け、強気を挫いて来たのだ』
 彼の行動は全て弱者である民の為であり、今回のルビド、エルド両国の王族を襲ったのもその為だった。しかし、彼は悪を正す事を是としても、人を殺す事を良しとはしない。王族に対しても、『黒騎士がお前達を狙っている』と忠告し、民を苦しめる圧政の状況を正させる為に忍び込んだのだ。
 だが、王族は彼のまかり知らぬところで死し、そしてその犯人に自分が仕立て上げられてしまった。そうして戦争が始まってしまったのだ。
 それを悲しんだラスニチカは単身戦場へ赴き、そこで双方の仲裁に入る為に剣を振るった。だが、それもまた湾曲して伝えられ、彼が戦場に訪れる以前に失われた命まで彼が奪ったものとして港に伝えられた。故に、あれほどの混乱が起こってしまったのだ。
 それは、ラスニチカの心を大きく傷付けた。
 道具に芽生えた命だとしても、そこにある感情は人間と変わらぬもの。誹謗中傷を受ければ当然傷付き、簡単には拭えぬものとして残り続ける。それでも彼は、こうして自由に動き回る事が出来るようになった遥か遠い昔から、人々の為に剣を振るい続けてきた。……その心は、何百年にも渡る傷を耐え続けてきたのだ。
 にも関わらず、人々は争いを止めようとしない。解り合おうとしてくれない。そんな状況の中で起こった戦争により、ラスニチカの心は限界を迎えていた。そんな時、
『神である貴女様の存在を感じ取り、我は矢も盾も堪らなくなってしまったのだ』
 だから、カイナをレアリィ達から奪うような形でここまで連れてきてしまったのだった。ラスニチカはそれを改めて『申し訳なかった』と詫び、しかし頭を深く垂れたまま、
『だが、我は護るべき彼等の事が解らなくなってしまった……』
 勇者の鎧に生まれた命であるラスニチカの存在意義は、物語に謳われる『勇者』である事だ。しかし、彼が必死に護ってきた弱き人々は、今日も争いを続けている。何度彼等を救おうと、彼等の中に悪は生まれ続けるのだ。
 だが見方を変えれば、それは延々と『勇者』として剣を振るう事が出来る、人に使われてこそ意味のある道具としては最も喜ぶべき状況でもあった。だが、彼は『勇者』なのだ。例えその身がただの鉄の塊と成り果てようとも、人々の為に剣を振るう。それがラスニチカという神の持つアイデンティティだった。
 しかし、積もり積もった心の傷は彼を苛み続け――気付けば、自分が一体何を成せば良いのか、解らなくなってしまっていた。
『――神よ。我に新たな道を与えて下さらぬか。我は勇者の鎧。故にそれ以外の生き方を知らぬ。しかし神よ。貴女様ならば、我に新たな有り方を与えて下さるだろう』
 いや、
『貴女様の言葉があれば、我は勇者である事を止める事すらも出来るのだ』
「……わたし、は、」
 人形に命を与える事の出来る彼女は、人形から見れば神と呼べる存在となる。そしてその力は神を招いているとも言える為、彼女はカイナ・カイラ――神名・神来(かみな・かみら)という名を義姉から与えられたのだ。
 その名を体現するかのように、目の前には膝を折る漆黒の鎧がいる。
 彼は一つの生き方しかしてこなかった。それは隔離され続けていた自分と同じだ。そして自分がこうして様々な事を考えられるようになったのは、レアリィ達と出会い、そしてディーシアで様々な知識を得る事が出来たからだ。
 だから、カイナはラスニチカに対する答えを必死に考え、そしてたどたどしく言葉を紡ぐ。
「……わたしには、そんな難しい事は教えられない」
 それに、
「……わたしは、『かみさま』じゃないから」
 言いながら、カイナはぬいぐるみを抱え直し、すぐ目の前にあるラスニチカの兜をじっと見つめ、
「わたしはカイナ。カイナ・カイラ・コースト。……ただの人形遣い」
『人形遣い』
「……そう。わたしはただの人間」
 いや、実際には、神の真似事をさせられていた人間だ。
 でも、だからこそ、
「……一緒に学ぶ事は、出来ると思う」
 自分がそうしてきたように、ラスニチカにも世界を知って貰えば良い。そうすれば、与えられた生き方ではなく、自らで新しい生き方を選ぶ事が出来るようにもなるだろう。
 その言葉に彼はじっとカイナを見つめ、そして再び頭を垂れると、
『神が――カイナ様がそう仰られるのならば、我はそれに従おう』
「……ありがとう。……って、従う?」
『一緒に学ぶと仰られたではないか。我はこれよりカイナ様を守護する剣となり、貴女様と共に学んで行きたいと思っている』
「……それは、だめ」
 ラスニチカはこの地方に実在する勇者だ。その存在を心の拠り所にしている人も少なくないだろうし、これからも彼の救いを求める者が現れる筈だ。そんな相手を連れていく訳には――とそう思っていると、こちらの話を聞いていたのだろう男性から声が来た。
「私からも頼む。彼を連れて行ってやってくれないか」
 声に視線を向けると、男性はこちらを見つめ、
「勇者や英雄なんてものは、本当は実在しない方が良いんだ。手の届くところにそれが存在していると、人は彼等に頼り切ってしまうからね」
 長きに渡って人々に頼られ続けてきたのだろう『勇者』は、そう言って少し影のある笑みを浮かべた。その様子にカイナは悩み……そして改めてラスニチカを見つめると、
「……わたしを護ってくれるの?」
『御意』
「……なら、ラスニチカ。貴方にお願いしたい事があるの」
 告げる。
「……魔王に、なって」
 それはとんでもない、下手をすればカイナの立場を危うくするかもしれない交渉だった。何せ彼は人間ではなく、そして恐らく国の大臣達の言葉など全く聞かないだろう相手なのだ。もし彼の正体が人間では無いと判明すれば、カイナは不正を疑われ、最悪ディーシアから追放を受ける可能性があった。
 だが、ラスニチカをディーシアへと連れて行く事が出来れば、彼と共に城にある数多くの知識、そして技術を学んでいく事が出来る。それはきっと、未来に繋がる糧となっていくに違いない。カイナはそう思い、決断したのだ。
 そんなカイナに、ラスニチカは一つ頷き、
『カイナ様の御心のままに』
 そうして彼は詳しい事情を聞かぬままに立ち上がり、「話は纏まったようだね」と微笑む男性に振り返った。対する男性はこちらにやって来ると、ラスニチカの鎧に軽く拳を当て、
「行って来い、ラスニチカ。私がそうしたように、きっとお前も自分の生き方を見つけられるさ」
『我もそれを願っている。――いや、必ずやカイナ様が我にそれを与えて下さるだろう』
 そう言ってこちらに振り向くと、ラスニチカは『失礼』の一言と共に再びカイナを抱き上げた。どうやら彼は、男性にこちらの事を報告する為だけにこの孤島にやってきたらしい。
 少し忙しない、と思うカイナを胸に、漆黒の騎士は男性に――勇者だった男に背を向けて歩き出しながら、 
『では、往って来る。主よ、そして長き時を共に歩んだ友よ、遠き日にまた逢おう』
「ああ。お前がどう成長するのか、私はここで楽しみに待っているよ」
 背後から、そう笑みを持った声が響いて――更なる一歩を踏み出すように、ラスニチカが大きく跳んだ。



 行きよりも揺るかやなペースでルビドへと戻るラスニチカに抱かれつつ、カイナはある事を思い出し……暫し考えてから、彼の兜を見上げ、
「……ねぇ、ラスニチカ。もう一つお願いがあるの」
『何なりと』
「えっと……」
 そうして、人々に恐怖される存在となってしまった『勇者』の伝説を終える為、カイナはある計画を告げた。
 





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