魔王候補。

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 遥か過去の記憶を取り戻し、この世界へと留まる事を決めた結果、俺は魔王候補として正式に認められる事となった。
 とはいえ、魔王の選定が始まるまでにあと一年以上の期間がある為……俺は午前はイフナの部隊に混じってトレーニングを行い、午後はレアリィと紫藤さんからの講義を受ける日々を続けている。そこに過去の記憶が追加されたとはいえ、鍛え上げられていないこの体は模擬戦を戦い切るだけの体力がないし、思い出す知識は古過ぎて今の常識と当て嵌まらない点が多い。結果、俺の生活は記憶を取り戻す前と殆ど変化していなかった。
 そんな俺とは対照的に、城の中は少しずつ変化し始めている。国民に魔王不在を悟られる事無く、しかし一日も早く新たな魔王を迎えられるように着々と準備が進められているのだ。
 その様子を眺めながら、俺は長い廊下を自室へと向かって歩いていく。
「……俺も無関係じゃないんだよな」
 この世界の一般人よりも知識の無い俺が魔王候補になる事が出来たのは、魔王という存在がただの傀儡に過ぎない為だ。だから、無知であるが故に大臣達の指示を素直に聞く事しか出来ない俺は、ある意味打って付けなのかもしれない。……まぁ、嬉しくないが。
 だが、魔王になれば何の問題も無くこの城に居座る事が出来るし、それはそれで楽でもあるだろうか、などと思ったりもする。
 しかし、実際には俺よりももっと相応しく、そして実力のある人間が魔王になるに違いない。いくら傀儡とはいえど、ある程度頭の切れる存在でなければ意味が無いのだろうから。
 もし魔王候補から外れた時、どんな風に暮らしていくのかを真剣に考えておかないとな……。そんな風に思いながら、俺は見えてきた部屋の扉を開き、
「ただいま、レアリィ。っと、カイナも一緒だったか」
 元々はレアリィの部屋だったここは、今は俺の部屋という事にもなっていた。そして新しく新調したセミダブルベッドの上にカイナが腰掛けていて、レアリィはその隣で何か手紙と思われるものを読んでいた。と、彼女がその視線を上げ、俺へと微笑み、
「お帰りなさい、五月。訓練はどうだった?」
「いつも通り、付いて行くのもままならない感じだよ。でもまぁ、少しは体が動くようになって来たかな」
 とはいえ、そこには過去の記憶が戻った事の弊害もあった。
 過去の調子で剣を振るうと、鍛え上げられていないこの体は上手く動いてくれないのだ。物心付いた頃から兵士として働き始めていた過去の俺とは違い、今の俺は平凡に暮らしていた高校生の体を持っているに過ぎない。なので、どうしてもその差異が剣を持った時に違和感として現れてしまう。その為、せめて剣だけでも思い通りに扱えるようにと、今は体を鍛えている真っ最中だった。
 ともあれ、俺はカイナに警戒されないよう、彼女から少し距離を取って床に腰掛けると、レアリィの持つ手紙へと視線を向け、
「で、その手紙は?」
「城に残っている魔王候補選出者に徴集が掛かったの。私はもう五月を選んだから良いんだけど……カイナがまだ動いていないから、少しお説教があるみたい」
「そうなのか……って、カイナも魔王候補を探す役目を持ってたのか?」
 問い掛けながら視線を向けると、白いぬいぐるみを抱えたままでいるカイナが小さく頷いた。隣にレアリィが居る為か、少しは警戒が和らいでいるらしい。
「でも、どうしてカイナまで? 幼い子供相手なら警戒心が消えるから、とかそんな理由じゃないよな?」
「そういう訳じゃないわ。ただ単に、カイナの実力が高いから選ばれた。それだけなの」
 言いながら、レアリィが優しくカイナの頭を撫でる。幼い少女はそれにくすぐったそうにしながらも、人形と共にレアリィへと視線を上げ、
「……わたし、頑張るよ」
 小さく、消え入りそうな声でカイナが言う。レアリィはうん、と頷きながらその小さな体を抱き締め、そして開放してから、
「でも、流石にカイナ一人で行かせるのは危険だし、少し話をしてくるね」
 そう姉のような、母のような顔で言うレアリィの姿は少々過保護にも思える。けれど、この世界の常識、そして危険性を思い出している今の俺はそれを止める気にはなれなかった。
 だから俺は頷きと共に、
「解った。でも、いざとなったら俺達がこっそり付いて行く事も出来るし、あんまり熱くなり過ぎないようにな」
「うん、気を付ける」言って、レアリィが微笑み、「それじゃ、ちょっと行ってきます」
 その言葉と共に手紙を畳むと、レアリィはカイナの手を取って立ち上がり、扉へと向かって歩いて行く。と、こちらに背中を向けたカイナの持つ人形の手がヒョイ、と上がり、俺に向けて軽く上下した。どうやら、行ってくる、と手を振っているらしい。
 それに軽く手を振り返しながら、少しはカイナとの距離を縮められているのかもしれない、と思う。そうして扉を開こうとする二人の姿を眺めていると、レアリィがドアノブを掴む直前で扉がノックされた。
「レアリィ、私よ」
 自分の名前を名乗らないその声は、聞き慣れた先生のもの。「ちょっと待ってください」、という言葉と共にレアリィが扉を開いた。
「ごめんね、ちょっと――って、あら、カイナも一緒だったのね」
 俺と同じような驚き方をして、先生が柔らかく微笑む。対するカイナは先生を警戒していないようで、どうやら彼女はレアリィ以外にも心を開いている相手が居たようだった。
 その事に安堵を感じていると、レアリィが先生へと手紙についての話をしていく。それを全て聞き終えた先生は、「頭の固い老人達ねぇ」と溜め息と共に呟き、
「買い物に付き合って貰おうと思っていたんだけど、そんな手紙が来ているんじゃそっちが優先ね。カイナの為にも、ビシっと言ってやりなさい」
「はい、頑張ります」
 そう力強く告げて、レアリィ達が部屋を出て行く。その後姿を先生と共に眺め……ふと、思い浮かんだ疑問を呟いていた。
「……ふと思ったんですけど、先生が話を付けにいけば良かったんじゃないんですか?」
「それでも良いんだけど……カイナの事に関しては、レアリィに全て一任しているの。それがあの子達の為だとも思ってるわ」
 この国でも高い地位に居るのだという先生。その弟子であるレアリィは、その庇護を存分に受けてきた事になる。そしてそれは、結果的に招かれざる感情を呼んでしまっているに違いない。そんな状況で敢えて愛弟子を大変な目に合わせるのは、
「……いつの日か、レアリィには私の元を巣立って貰わないといけないから。出来れば先延ばしにしたい問題だけれど、でも、これはいつか必ず訪れる事。その時にあの子が一人で歩いていけるように、そして誰かを導いていけるように、どんどんと前に出させているのよ。……まぁ、大変そうな時は手助けをするけどね」
 大切にしているからこそ、時には辛い道を歩かせなければならない。その状況で辛い想いをするのは、レアリィだけではなく先生も一緒なのだろう。
 レアリィは愛されているんだな。と、先生の深い想いを感じ……同時に俺は、ある疑問を得ていた。
「……この城に止まり続けないんですか?」
 問い掛けに、先生は哀しげな笑みを浮かべ、
「私は不老不死の存在だから。今はまだ良いけれど、十年、二十年と時間が過ぎていく内に、私の居場所は無くなっていく。……どの時代の、どんな場所でもそうだったから」
 だから哀しくないと、そう笑う。
 でも、その笑顔は今にも涙を流しそうで、苦しげで。けれどそれを止める言葉をすぐに生み出す事が出来ず、まるで先生の言葉を肯定するように視線を逸らしてしまった。そんな俺に、先生は言葉を続けていく。
「そんな訳で、レアリィには頑張って貰っているの。貴方達の中に過去の記憶が戻った事で、今まで以上に大変になっていくでしょうけれど……でも、貴方達二人なら――いえ、四人なら大丈夫だと、私は信じているわ」
 そして、一瞬前までの表情を一変させ、普段の微笑みを浮かべると、
「それじゃあ、買い物に行きましょうか」
「俺と、ですか?」
「そうよ。元々貴方には荷物持ちを頼もうと思っていたし、久しぶりに一緒に出掛けるのも良いかなって思って」
 美術委員として仕事をしていた時は、休憩と称して先生と一緒にコンビニへ行った事が何度かあった。それを思い出しながら、しかし俺は困惑しつつ、
「や、俺、さっき訓練を終えたばかりなんスけど……」
 それに、表情を一変させた先生に何かを言いたかった。けれど先生はお構い無しと言わんばかりに俺の手を掴むと、
「大丈夫大丈夫。若いんだから」
 若い。
 それは、まだ十数年しか生きていないという事。
 ただそれだけだというのに、何か凄く重い意味を感じてしまって。
 楽しげに笑う先生に引っ張られるように、俺は部屋を出たのだった。



 訓練などで城の敷地内に出る事は多くあっても、実際に城の外に出るのは久しぶりだった。
 今日も今日とて門番をしている春風と軽く会話を交わしてから外に出ると、目の前に拡がるのは見渡す限りの街並みだ。兵士をやっていた頃に住んでいた国よりも大きく、学生をやっていた頃に住んでいた街よりも密集しているそこは、遠目からでも解るほどに人々の熱気に溢れていた。
「実は俺、街に出るのは初めてなんスよ」
 口調が高校生時代のそれに戻っているのを自覚しつつ、隣を行く先生に告げる。すると、先生は楽しげに笑い、
「あら、そうだったの。じゃあ、買い物ついでに少し案内してあげるわ。あとでレアリィと買い物に来た時に、迷ったりしないように」
 そうして、俺達は広いディーシアの城下街を歩いていく。
 城とは違い、街には境界線となるような外壁は存在していない。元々、小さな村々が寄り集まって出来たこの街の隣に王城を建てたようなものらしいから、そういった差異が出てしまっているのだそうだ。
 防衛という面で見れば無防備なのかもしれないが、この辺りには野生のモンスターが多く生息する深い森も、豊富な水を湛える海も、敵対する国も存在してない。そういった状況が、この国の豊かな発展に繋がっていったのだという。
 とはいえ、外壁が無くても入国の際には決まった場所から出入りする必要があり、しかし特にこれといった入国審査は行われていないらしい。それは旅人達にとって都合が良いようで、街の広場には様々な人種、そして格好をした人々が溢れていた。肌の色だけならまだしも、人間ですらない者達まで居る。兵士だった頃には何度か目にした事があるその風景も、こうして改めて見ると圧巻だった。記憶が戻る前だったならば、それこそ驚きで声も出なかった事だろう。
「なんていうか……都会って感じっスね」
「そうね。昔に比べて世界は平和になって来たけれど、この国ほど豊かで穏やかな国はそうそう存在していないわ。政治は国民の意見をしっかり反映しているし、王族の暴走による国の混乱も起きないからね」
 王という立場を利用し、好き勝手に行動を起こす存在は少なくない。過去にそれに巻き込まれた一人として、この国はとても理想的な形であるように思えた。
 とはいえ、こういった国が世界へと広がる事はそうそう無いのだろうな、とも感じる。呑気な学生をやっていられた『向こう側』とは違って、こちらの世界は人口増加が起こり難い。敵国からの襲撃や、モンスターや、他世界の存在といった者達によって、一晩で一つの国が消滅する事があるからだ。
 そういった事情から、今もこの世界は平和とは言えない状況にあり……それこそが、この世界が高度なレベルへと発展する事の出来ない理由にもなっていた。
 だからそう、平和に見えるこの国も、いつ戦火に飲まれるか解らないのだ。
 そんな風に思いながら、俺は先生と共に広場を進んでいく。
「因みに、何を買うんです?」
「新しいインクや、ちょっとした日用品ね。あと、新しい本棚を頼んでおこうと思って」
「……ま、まさか、それを持ち帰れとかは言わないっスよね?」
「流石にそこまでの重労働を押し付けたりはしないわ。ただ注文をしておくだけだから」
 そう言って先生は笑い、
「それに、帰りが遅くなるとレアリィを心配させてしまうし」
「ですね。正直、俺も心配になって来ますから」
 書置きを残しては来たけれど、やはり離れている事に抵抗がある。恐らくそれはレアリィも同じだろうと、確信にも似た何かがあった。
「じゃあ、さっくりと買い物を終わらせなきゃね」そう言って、先生が笑う。
 そうして雑踏の中を進んでいき、先生に街の紹介をして貰いながら幾つかの商店や露店、時には通りの隅で占いをしている老婆にまで声を掛けつつ、買い物は進んでいく。
 荷物持ちを任せると言われていた為、多少の覚悟はしていたものの、しかし先生の買う商品は小物ばかりで、その全てが手に提げたトートバッグの中へと消えてしまっていた。
 なんだか手持ち無沙汰な感じはしつつ、しかし疲れている身の上としては正直助かっていた。
 もしかすると、この買い物は俺を連れ出す為のものだったのだろうか。そんな事を思ったのは、先生の口から出た一言が切っ掛けだった。
「こうして二人きりなるのも、久しぶりね」
「そうっスね。まぁ、今の俺にしてみると、貴女のような偉大な人と馬鹿話をしていた事の方が驚きなんですけど」
 俺が兵士だった頃の先生は、王族と同じく住む世界が違う存在だった。それなのに、半年ほど前までは美術準備室で談笑しながら一緒に珈琲を飲んだりしていたのだ。そのギャップに脳が混乱しそうになりつつも、けれどそこにあった女性の姿は紛れも無く同じ人物だった。
 だから、問い掛ける。
「……あの時、どうして俺達を助けてくれたんです?」
「あの時?」
 言ってから、言葉が足りなかった事に気付く。
「アイツを……早苗を助け出そうとした時です」
 それは遠い時代の……今の俺からしてみれば、まだ数日前の記憶。
「紫藤さんから教えて貰った限りでは、俺の国はもう滅んでしまっているという話でした。王子の婚礼を前に逆賊が現れ、王族を含めた多数の者達の命が失われた、と」
「……」
「……あの時、貴女は『気紛れ』だと言っていました。ですが、本当は他にも理由があったのではないのですか?」
 自然と、口調が兵士だった時のそれに戻ってしまうのを感じながら、先生へと向けて言葉を放つ。
 対する先生は、遠く正面に見える城へと視線を向けたまま、
「……私は、救いたかったのよ」
 そう、辛そうな表情を浮かべ、
「あの国で暮らし始めてから、王族の気紛れで、貴方達のように引き裂かれた男女を何人も見てきた。何度も助けようと思って、でも、不老不死の存在である私を受け入れてくれた王族が相手では何も出来なかった。あの頃の私は、まだ一人で生きられるほど強くはなかったから」
 言い訳、だけれどね。そう、自嘲気味に笑う。
「でもね、それでも私は行動を行ってはいたの。内部から王族の意識を変えて、悲劇を繰り返さないように。……そうして、王子が見合いをすると言い出して、少しだけ希望が見えた気がしたわ。相手が名高い名家の令嬢となれば、流石に酷い事は出来ないだろうから」
「でも、違った」
「ええ。……まさかあの子を選ぶなんて思ってもいなかった。いつも花のように笑っていたあの子を王子の部屋で見付けた時は、この目を疑ったわ。……結局私は、何も変える事が出来なかったのよ」
 そう言葉が紡がれ、しかし俺はその言葉の中にあった違和感を問い掛けていた。
「もしかして、アイツの事を知っていたんですか?」
「知っていたも何も、あの子、城の中じゃ結構有名だったのよ? 何度も商品を買ったし、占いを教えたり、マジックアイテムをプレゼントした事もあった。貴方の事も色々と教えて貰ったわ。真面目で優しくて、とても強い人なんだって」
 だから、
「……だから、尚更に許せなかった。王子が、あの国が、この世界が。そして、何も出来なかった自分自身が。……その償いをする為に、私は地下牢へと向かったの。話に聞いていた、一人の青年の武具を持ってね」
「そうだったんですか……」
 つまりは、怒り。
 解りやすく単純な、だからこそ何よりも強い感情に突き動かされて、先生は俺の前に現れたのだ。
 そして……兵士だった俺と、物売りだった早苗の物語は一旦の終わりへと向かった。
「貴方達へと魔法を掛けたあと、私は一度あの場から戻って王城を破壊し、その混乱に乗じて逃げ出したの。そうして、長い時間を生きて……それなのに、いつまで経っても貴方達に掛けた呪いが解ける気配を感じられなかった」
「そういう事まで解るんですか」
 驚きと共にと問い掛けると、先生は静かに頷き、
「あの呪いは特殊なものだったから。……というより、私自身が特殊な存在だから、本来ならば不可能だろう事も可能に出来る場合があるの。それによって私は呪いの失敗を知り、貴方達の記憶を求めて世界中を旅するようになった」
 そうして先生はレアリィと出逢い、学生だった俺と出逢う事になる。けれど、俺達の中に過去の記憶が眠っているとはすぐに判明せず……その裏には友人の存在があった。
「先生は、俺達の記憶を戻したアイツの事を知っているんですよね?」
「まぁ、ね」
「一体、どういう関係なんです?」
 俺の言葉に、先生は無言で俯き、
「……誰にも言わないでね。これは、レアリィにも教えていない事だから」
 解ってます、と頷き返す。すると先生は視線を上げ、どこか遠くを見るようにしながら、
「アイツは……彼はね、神様みたいな力を持った、神出鬼没の交渉人。他者の人生を簡単に狂わせる悪魔。或いは、死神と呼ばれるもの」
 そして、
「……私の、恋人」
「――」
 告げられた言葉の衝撃に、何も言えなくなってしまう。そんな俺へと先生は苦笑し、
「そして、私の本名を覚えてくれている数少ない人の一人。だけど、貴方達の記憶を勝手に元に戻した事は許せないし、許そうとも思えない。……でも、多分、これが正解なんでしょうね。アイツが行って来た事に、間違いはなかったから。……だから、私はいつも失敗ばかり。貴方達を探している間も……」と、何かを言い掛け、しかし先生は小さく首を振ると、「……なんでもないわ。これは、貴方達には関係の無い事だから」
 そう言って先生は小さく微笑み――そして、正面に見える花屋へと視線を向け、
「ちょっと花を買ってくるから、少し待ってて」
 その言葉に反応する前に、先生は少々早足で歩いてく。そのすらりとした背中を見送りながら、俺は思わず溜め息を吐いていた。
「あの野郎……」
 思い出すのは、へらへらと笑う友人の顔。好きな人が居るとは聞いた事があったけれど、まさかそれが先生だったとは思わなかった。
 でも、一つ疑問が残る。それは、友人が俺のクラスメイトだった、という点だ。ヤツも一緒に美術の――先生の授業を受けていた訳で、しかし先生がそれに気付かない筈がなく……って、こちらの記憶を改竄したり、俺とレアリィに掛けられていた呪いを一瞬で解除出来たりする事を考えると、先生に認識されないようにする事も可能なんだろう。
 まぁ、見方を変えれば全てアイツの掌の上だったとも言えるが……その結果、俺とレアリィは記憶を取り戻せたのだ。感謝はせど、文句は無かった。何より、今でも友達だと思っているしな。
 と、そんな事を考えて時間を潰していると、視線の先にガラの悪そうな男達の姿が見えた。旅荷物を持っていないところを見ると街の人間なのか、その格好は身軽だ。けれど腰に挿した長剣が、彼等を剣の使い手だと教えている。
 しかし、数人で固まっている彼等の動きは何かがおかしかった。まるで、集団の中心に何かを隠しているようで……注視しているのを悟られないように観察していると、路地裏に入っていく彼等の間から、幼い少女の姿が見えた。
「……」
 例えそれが彼等の仲間だったとしても、明らかに違和感がある。俺は無言のままに立ち上がり、同時に手持ちの武器が何一つない事に気付いて舌打ちをひとつ。それでも見過ごす訳にはいかず、そっとその後を追い掛け始めた。



 そうして入り込んだ路地の先。褐色の肌をした幼い少女を相手に、五人の男が群がっていた。
 そこに友好的な空気などなく、下卑た欲求だけが渦巻いている。しかし俺の登場によってそれは全て怒りに変換され、こちらに突き立てられた。
「なんだぁ、テメェは!」
「いや、ちょっとアンタ等の事が気になってさ」
 睨んでくる男との距離を取りながら、そう軽く答えてみせる。すると、少女の腕を掴んでいた恰幅の良い男が、
「なんだ兄ちゃん。仲間に入れて欲しいのか?」
 言葉と共に、男がこちらを見定めるような視線を寄越してきた。俺はそれに不快感を感じながら、
「仲間か。今からその女の子に何をするのか、それ次第で考えるよ」
「ハ! 兄ちゃんよぉ、お前、解って言ってんだろう?」
「いやいやいや、集団で女の子を襲うような下衆の事なんて解らねぇって」
 思わず本音を返すと、男達は明らかに怒りのある顔でこちらへと近付いてきながら、
「おいおい兄ちゃん、勇者ぶるのも大概にした方が良いぜ?」
「でも、何もしないよりマシだろ」
「そういうのがウザイってんだよ!」
 言葉と共に、近くに立っていた髪の長い男が剣に手を伸ばした。俺はその動きを目で追いながら、その剣が鞘から引き抜かれるよりも前に、右手に握っていた砂を思い切り叩き付け――そしてその動きが止まった瞬間、男の股間を思い切り蹴り上げた。
「――!」
 声にならない声を上げて髪の長い男が昏倒し、残った男達から「卑怯じゃねぇか!」という声が聞こえて来たけれど無視を決め込む。武器を持っていない以上、このくらいの小細工を仕込んでおかなければ殺されてしまうからだ。
 さて、それは兵士だった頃の知識か、学生だった頃の知識なのか。そんな事を頭の片隅で思いながら、俺は呻きながら地に転がる男の手から剣を奪い、それを構え、「この野郎!」というお決まりの文句と共に突っ込んでくる短髪の男の剣を受け止めた。
 日々のトレーニングの結果か、その荒々しい動きにも十分対処出来る。しかし、使い慣れていない剣という事と、こういった喧嘩を行うのは初めてであるという事が、どうにも調子を狂わせる。俺が行った金的のように、何でもありの喧嘩の場合、知識よりもまず経験が優先されるからだ。
 そんな事を思いながらも距離を取り、襲い掛かってくる剣を受け止め――不意に、声が来た。
「あのー、お兄ちゃん?」
 それは、恰幅の良い男に腕を掴まれたままでいる少女の声だった。それに気付きつつも返事を返せない俺へと、少女の可愛らしい声が続く。
「助けてくれるのは嬉しいんだけど、ぶっちゃけ邪魔かなーって」
「は?」「なんだと?!」
 男達と共に思わず声を返し、何気なく向けてしまった視線の先。
 少女の腕を掴んでいた男の手が、肘からすっぱりと切断されていて、
「――え?」
 理解を得るよりも先に、少女が動き出す。
 その手には、レアリィが持つものに似た一本の杖あり――その先端から、煌めきを放つ刃のようなものが伸びていて、
「よ、っと」
 そんな可愛らしい声と共に少女が杖を薙いだ瞬間、俺へと剣を向けていた男の首に一本の線が走り、
「――?」
 男が何事か口を開いた瞬間、その頭が胴体と離れて地面へと落下した。その後、失われた頭を追うように胴体が前のめりに倒れ、動かなくなった。
「……」
 突然の状況に理解が追い付かない。それは他の男達も同じなのか、腕を切り落とされた男さえ、自身に起きた事に理解が及んでいないようだった。
 それもその筈。切り落とされた腕の断面は、まるで断面写真のように綺麗な姿を曝したまま、一滴の血すら流れ出していなかったのだから。
 そうして、状況は更に最悪へと加速していく。
 金的を受けて地に伏していた男の頭蓋が割られ、剣を持ったまま呆然と突っ立つ男の体が両断されて二つになり、叫び声を上げて逃げ出そうとした一人の首がゴロリと落ちる。そして少女は片腕を失った男へと杖先を突き付け、異国の言葉と思われる単語を軽く、まるで歌うように告げ、
「――刻まれなさい」
 刹那、男の体に網の目のような線が走り――過去に見た映画のワンシーンかのように、その体が一瞬で崩れ落ち、肉片と化した。
 そして、一瞬にして五人分の死体が出来上がった路地の中。杖を懐に仕舞いこんだ少女がこちらへと視線を向けた。
 それは幼い顔には似つかわしくない、どこまでも冷たさのある声と表情で、
「――貴方は何も見ていない。私の姿も見ていない」
「……」
「返事」
「は、はい!」
 氷の瞳に射抜かれて、蛙のようになりながら、それでもどうにか返事を返す。すると少女は満足したのか、年相応の微笑みを浮かべ、
「でも、助けてくれようとしたお礼に、お兄ちゃんは殺さないであげるねー」
 そう、一瞬前までの冷徹さを全く感じさせない声を告げると、少女は俺を置いて軽やかな足取りで歩いていった。
 それを見送ってから、俺は呆然と呟きを漏らす。
「……な、なんだよ、今の」
 上手く状況が飲み込めない。と、不意に、背後から聞き慣れた声が響いた。
「大丈夫で御座いますか、真鳥様」
「え、あ……紫藤、さん?」
 どうして貴女がこんなところに。そんな疑問よりも先に、日常側に存在している人物の登場に心がどうにか落ち着きを取り戻す。同時に俺は、目の前で繰り広げられた状況の異常さをやっと理解出来たのだった。
 取り敢えず剣を投げ捨て、深く息を吐く。対する紫藤さんは、そんな俺の周囲に広がる『血の流れ出していない死体』へと視線を向け
「マスターから真鳥様を御護りするように申し付けられていたのですが……その必要は無かったようですね」
「そう、ですね。どうにかこうして、怪我も無く生きてます」
「では、まずはここから移動する事に致しましょう」
 死体は城の者が処分致しますから、どうかご心配なさらずに。そう紡がれる言葉に頷いて、俺は死体から逃げるように背中を向けた。
 膝は震える事無く体を支えてくれたが、しかしそれ以上の動揺にどうしても歩みは遅くなる。だからという訳では無いが、俺は誰にともなく呟いていた。
「……俺は、あの剣で一体何をするつもりだったんだろう……」
「先程の少女を護ろうとしたのではないのでしょうか」
 普段と変わらぬ様子で返事をくれた紫藤さんに、俺は改めて視線を向け、しかしすぐに下へ逸らすと、
「それはそうなんですけど……」なんて言ったら良いんだろう。「……記憶が戻っているとはいえ、元々俺は、『向こう側』で――凶悪犯罪の殆ど起こっていない国でのうのうと暮らしていた学生でしたから。誰かの命を奪った記憶があっても、この体では、まだその経験がない」
 体感した記憶が残っているといっても、やはりそれは記憶の産物でしか無く、実際に肉を切り骨を絶ち、そして命を潰す感触というものを思い出せている訳では無い。
 結局のところ、『俺』という風に自己を認識して思考しているのは学生だった俺なのだ。思い出したのは記憶であり、経験では無いのだから。
「この世界がそういう世界だってのは思い出していた筈なんですが・・・どうやら、平和ボケしていたのかもしれませんね」
 そう告げた俺に返ってきた言葉は、真剣な色を帯びていた。
「いえ、他者を殺害する事が最善である事など御座いません。私はそう考えます」
「紫藤さん……」
「私は真鳥様の世界を存じ上げません。ですが、真鳥様はその素晴らしさを御理解している。ならば、それを貫き通すべきでしょう。そしてそれを他者が理解しないのであれば、理解出来るようにこの世界を御変えになられるのが宜しいかと、僭越ながら私はそう思います」
「つまり……俺に魔王になれ、と?」
「はい。私は、真鳥様のような御方が魔法様になられる事を望んでおります」
「慰めですか?」
「違います。目の前の恐怖から目を逸らさず、現実を直視出来る強さを持っておられる真鳥様ならば、と思ったのです」
「それは……昔の記憶があるからですよ。記憶が戻る前の俺だったら、確実にあの現場から逃げ出してる」
 ただの高校生が人殺しの現場に耐えられる訳が無い。所謂グロなどと呼ばれるものに対する抵抗はあったけれど、所詮それはネットの中に広がる非現実で、リアルではない。
 以前友人が言っていた。グロ画像には臭いが無い。だから耐えられるのだと。もしあの死体から血が流れ、あの場が死の臭いに満ちた血の海になっていたとしたら、俺は確実に錯乱していただろう。
 だというのに、紫藤さんは首を横に振り、
「存在しない可能性の話をしても、意味がありません」
「……それもそうですね」
 小さく頷いて、俺は広場に出る一歩手前で路地へと振り返る。
 紫藤さんに対して弱音のような言葉を吐いたけれど……もし襲われていたのがレアリィだったとしたら、俺はどんな手を使ってでも彼等を殺していただろう。
 結局、俺もあの少女と変わらない。あの男達と変わらない。自分の都合で相手の命を踏み躙ってしまう人間だ。
 けれど同時に、俺はそんな自分に嫌悪を感じる。それは恐らく、この記憶の半分が人殺しとは無縁の世界で生きていたからなのだろう。
 だから俺は、その嫌悪を忘れないようにしようと思う。
 もしも魔王となった時、"自分"を貫いていけるように。





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