カイナ。

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「あれは今から三年ほど前。体を芯から冷やすような寒さが続いていた冬の事でした。
 私と先生は、この大陸から遠く離れた孤島――そこにある村へと向かって旅をしていました。旅の目的は、過去の記憶の持ち主を探す事。でも、まさか同行している私にその記憶があったなんて、その時は想像すらしていませんでした。
 ですが、今にして思えば、あの時に記憶が戻っていなくて良かったと思います。もし記憶が戻っていて、あの島に向かう事が無ければ、私達はカイナを救ってあげる事が出来なかったんですから」



「怪しいわね、この村」
「……怪しい、ですか?」
 通された宿で荷物を降ろしたレアリィは、同じように荷物を降ろしながら呟いた先生へと視線を向けた。
 季節は冬。冷たい北風が吹く外の様子が嘘であるかのように、ストーブの点けられた部屋の中は、そのまま眠りこけてしまいたいくらいの柔らかな暖かさに包まれている。にも拘らず、先生は厳しい表情のまま、
「私達は突然この村にやって来たっていうのに、村人の対応の手際が良過ぎたように感じたの。まるで、マニュアルでもあるような対応の仕方だった」
 分厚いコートを脱ぎ捨て、椅子に腰掛けた先生がこちらを見る。その視線を受けながら、レアリィは先程まで顔を合わせていた村人達の事を思い返してみた。
「マニュアル、ですか……」
 先生の言葉通り、レアリィ達の訪問は突然の事だった。そんな自分達を村長の男性は笑顔で迎え入れ、この宿と食事を用意し、人々に話を聞きたいと申し出た先生の言葉も笑顔で受け入れてくれた。その様子に、レアリィは『優しい人達だな』、としか思わなかったのだが、どうやら先生は違うらしい。
「当然私が警戒し過ぎている可能性もあるわ。でもね、彼等の対応には見過ごせない問題があるのよ」
 言って、先生が窓へと視線を向ける。そこは寒風吹き荒ぶ冬の世界が広がっていて、
「あ、」
 旅に出る前に聞かされていた話を思い出し、思わず声が出た。
 そもそもこの島は、他大陸との交流を拒み続け、独自の文化を発展させてきた場所だった。故に人々は完全自給での生活を行っているらしいのだが……しかし、狭い島の中では収穫出来る作物にも限界があり、更に冬場は海が凍て付き漁に出る事も出来なくなる。結果、この島は冬季になると度々食糧問題に悩まされてきたという。
 とはいえ、現在では他大陸とも少しずつ交流を行い始め、食糧問題も解決しつつあるらしいのだが――それでも、冬場は苦しむ事が多いとの話だった。だというのに、
「ご飯、沢山出ましたね」
「魚から肉から、この島で取れないようなものまで沢山ね」
「……確かに変ですね」
 どんな食料でも、魔法を使えばある程度保存日数を伸ばす事は出来る。しかし、その数を増やしたりする事は出来ない為、底を尽いてしまえばそれまでだ。更に、どれだけ食料を貯蓄していたとしても、その貯蓄量には顕界がある。しかも今年は冬が長く、まだ終わる気配を見せていない。そんな中で、突然現れた旅人に食事を振舞う余裕があるだろうか?
「旅人には特別に、とかそういう事は……無いですよね」
「無いわね。その結果自分達が死んでしまっては意味が無いもの。それにね、私は一度食事を断ったのよ。私達は食料を持参していますからって。でもね、彼等は私の言葉に首を振った。食料の心配はしないで下さいってね」
 そう言って、先生は小さく溜め息を吐き、
「恐らく、彼等は私達にさっさと出て行って貰いたいのよ。村人の対応が良ければ良いほど、私達の行動も障害無く進み、すぐに結果を判断出来る訳だから。……まぁ、ただの勘違いであれば良いんだけどね」



 翌日。先生と共に村を回ったレアリィは、先生の疑念が事実なのではないか、という思いを強くする事となった。
 その切っ掛けは、村人の対応の良さだ。
 昼過ぎに宿を出たレアリィ達は、村にある家々を一軒一軒周り、探し人に関する情報を探し回っていた。そんな自分達に対し、村人達は嫌な顔一つせずに対応してくれたのだが……しかしそれが一人二人だけではなく、この島に住む村人全員だったとなると、嫌でも怪しく思えてしまう。親切なのだ、という一言で済まされない何かが、村人達の笑顔の裏に隠されているように感じられるのだ。
 今まで様々な国や街を巡ってきたが、見ず知らずの旅人から質問を投げ掛けられて、素直に答えてくれる人は稀だった。何せこちらは『前世の記憶』という、正気を疑われるような事を聞いて回っているのだ。警戒されるのは先生も十分承知していて……それでもこちらの質問に何か違和感を覚えてくれたならば、そこに過去の記憶が眠っている可能性が見えてくる。
 つまり、先生の人探しは相手に否定される事を前提としているのだ。にも拘らず、村人達はこちらの質問を一切警戒せず、真面目に前世について思考し、『解りませんね』と答えをくれた。
 老若男女拘らず、全員が口を揃えて『解りませんね』だ。先生と共に宿に戻った頃には、レアリィの表情は少々青ざめていた。
「……やっぱり、私達を追い出したいんでしょうか。それにしては、気持ち悪いほどに答えが統一されてましたけど……」
「だからこそ、答えを統一しているんじゃないかしら。まさか向こうも、私達が村人全員に話を聞くとは思ってなかったでしょうから」
 言いながら、先生がベッドに腰掛ける。それに続くように、レアリィは無意識に先生の隣へと座りながら、
「でも、どうしてなんでしょうか。旅人を早く返したいのなら、始めから村への立ち入りを禁じれば良いと思うんですが」
「恐らく、彼等は旅人に怪しまれたくないんでしょう。でも、長居をして欲しくもない。だから笑顔で対応して、さっさとこちらの用件を終わらせるんだと思うわ」
 矛盾しているようにも感じるが、完全に拒絶するよりはマシなのかもしれない、とレアリィは思う。
 旅人を拒絶し続ければ、嫌でも『何かあるのではないか』という疑念を与えてしまう。だがそこで敢えて笑顔で対応すれば、疑いを掛けられる可能性は低くなる筈だ。それでも、自分達のように村人の優しさに対して疑念を感じる者が現れる可能性があるが……しかし、その対応自体に害がある訳では無い。ただ村人達が優しく、好意的であるだけだ。大陸に戻ってから『あの村は怪しい』と声を上げても、逆に失礼な奴だと思われるだけだろう。
 しかし、その優しさの理由が解らない。いや、そもそも優しさを疑う事自体が間違っているのかもしれないが……それを素直に受け入れられない薄ら寒さ、気持ち悪さのようなものを、レアリィは感じてしまっていたのだった。
「……何かやましい事でもあるんでしょうか」
「解らないわ……。でも、一つ気になる事があるのよ。この村には、あるものが存在しなかったように思えたから」
「あるもの?」
 疑問符を浮かべての問い掛けに、先生は真剣な、しかし幾ばくかの不安の感じられる表情で、
「レアリィは気付かなかった? 今日、話を聞く為に向かった家の中で、若い女の子が居た家は沢山あったのに……どの家にも、人形やぬいぐるみが存在していなかったのよ」
 言われ、レアリィは昼間の事を思い出す。
 こちらの訪問に対し、『玄関先では何ですから』と室内へ招いてくれた家が二十軒ほどあった。そういった家では応接間に一家全員が揃っており、レアリィ達の問いに家族全員で『解りません』と答えをくれたのだが……そうして通された部屋、或いは廊下や玄関先などに、人形やぬいぐるみなどは一切飾られていなかった。
「確かにそうですね。あと、お人形遊びをしている子供とかも居ませんでした」
 この島が閉鎖的だったのは過去の事だ。大陸との貿易を始めている今、人形などの玩具も島に入って来ていると思われる。そうでなくても、手作りのそれが家に置かれていてもおかしくない筈だ。だが、それが一つも見当たらなかった。
 更に、
「……村に一軒だけらしいお土産屋さんにも、人形関係の物は一つもありませんでした」
 朝食後に訪れた宿内の小さな商店で、笑顔の素敵な老婆がこの村の民芸品、海産物などを多く紹介してくれたのだが……その中に、人形やぬいぐるみといった――人の形を模したものは一つも存在していなかった。
 それを思い出した瞬間、何か不気味な、姿の見えぬ事実の一辺を見てしまったような気がして、レアリィの背中に寒気が走る。そんな彼女に対し、先生は思案顔で、
「当然、私達が見逃していただけっていう可能性もあるけど……でも、それらしいものが何一つ見当たらない、っていうのがどうも気になるの。……まぁ、そこに何かあったところで、行動を起こす訳ではないけどね」
 レアリィ達が行っているのは人探しであって、それ以上でもそれ以下でも無い。何か不可解な現象に出くわしたとしても、危害を受ける前に逃げてしまうのが一番なのだ。
 それに、
「こういった場所で恨みを買うと、村人ぐるみで攻撃を受ける場合もある。逃げ切れる自身はあるけど、そうならないに越した事は無いのよ」
「そうですね……」
 狂気に染められた人々の恐ろしさを、レアリィは嫌というほどに理解している。だからこそ、腫れ物には触る事無く済ませる、という先生の考えを否定する気にはなれなかった。



 次の日。
 夜明けよりも少々早く目を覚ましたレアリィは、明らみ始めた外をぼんやりと眺めていた。枕や布団が違うからかどうにも眠りが浅く、まるで世界に霞が掛かったかのように、眠気が上手く晴れてくれない。とはいえ、中途半端に覚醒してしまっている為か、再び横になったところで上手く眠れそうにもない。
 いっそ先生の布団に潜り込もうかな……。と、まだ先生と出逢って間もない頃、上手く眠れなかった時に良くやっていた事を思う。命を救ってくれた恩人であり、師匠であり、姉のようでも母のようでもある先生の暖かさに触れていると、自然と安心し、眠りに就く事が出来たのだ。
 笑われちゃうかな、と思いつつも、レアリィは隣のベッドで眠る先生の方へと視線を向け――その刹那、窓の向こうに何かが入り込み、無意識に視線を窓に戻した。するとそこには、白く小さい何かが動いていて、
「……猫?」
 眠たげなレアリィの呟きに答えるように、一匹の猫が部屋の中を覗き見るように顔を出した。
 雪のように真っ白な毛並みで、左右色の違う宝石のような瞳を持ったその猫は、レアリィの事をじっと見つめ、小さく鳴き……どうやら部屋の中に招き入れて欲しいのか、前足で窓の格子を小さく引っ掻き始めた。
「……」
 どうしよう、と考える前に、撫でたいという欲求が先に出て、レアリィは少し緩慢な動きでベッドから降りると、窓を開け、白猫を部屋の中へと招き入れた。
 対する猫は人を恐れていないのか、レアリィの足元に近付くと、じゃれるようにその足に纏わり付いて来る。それに少々のくすぐったさを感じながら窓を閉め、膝を折ると、レアリィは白猫を抱き上げ、
「冷たい……。外、寒かったんだね」
 小さく呟き、柔らかな毛並みを持つ白猫の背中を暖めるように優しく撫でる。すると白猫は気持ち良さげに目を細め、レアリィは暫くの間その体を撫で続けた。
 と、不意に背後にあるベッドが小さく軋み、
「……レアリィ?」
「おはようございます、先生」
 白猫を抱き上げたまま立ち上がり、眠気の抜けてきた顔で朝の挨拶。すると先生は「おはよう」と呟いた後、白猫に気付き、
「その猫はどうしたの?」
「窓を開けたら入ってきちゃったんです。もしかしたら、この宿で飼われている猫なのかもしれません」
「人間を恐がる様子も無いし、確かにそうかもしれないわね」
 言って、先生が小さく欠伸をし、ベッドから降りると、眼鏡やタオルなど片手に洗面所へ。その様子を眺めながら、レアリィは抱いた白猫へと視線を向け、
「貴女はここの子なの?」
 小さく問い掛けるも、白猫は不思議そうな顔をするだけで何も答えない。レアリィは「解る訳無いか」と苦笑すると、一度白猫を床に下ろし、自身も洗面所へと向かった。
 歯を磨いている先生の隣で洗顔を済ませ、同じように歯を磨き、髪を整える。そんな日々の一コマが、しかし先生と隣り合わせで鏡に立つ度、まるで夢のように感じる事があった。
 それは先生の外見が変化しないからなのだろう、とレアリィは結論付けている。成長期と共に変化していく自分の体とは対照的に、先生の体は老いる気配をまるで見せない。その顔も、体型も、髪型さえも変わる事が無いのだ。まるで、変化から見捨てられてしまったかのように(まぁ、不老不死なのだから当たり前なのかもしれないが)。
 そんな先生と隣り合わせになる度、成長し、老いていく自分の方が間違っているように感じてしまう。その考えこそ、間違いなのだと知りながら。
 そうして先生と共に部屋に戻ると、白猫は椅子の上で顔を洗っていた。レアリィはその背中を軽く撫でてから着替えを済ませ、厚手の上着を着込むと、自身の杖を入れた鞄を肩に掛け、
「フロントでこの猫を放して来ますね。まだ時間は早いですけど、誰か居ると思うので」
「フロントまで? そこまで行かなくても、廊下に放してあげるだけで良いんじゃない?」
「この子、寒くて部屋の中に入って来たんだと思うんです。だから、暖房の効いていない廊下に放すのは可哀想かなって思いまして」
 部屋の中とは違い、廊下は冬の大気に包まれている。とはいえフロントには大きな暖炉があり、その火は一晩中灯され続けているとの事だった。そこならば、明け方とはいえ十分に暖まっている筈だ。
 そんな風に思うレアリィに先生は微笑み、
「解ったわ。……でも、一応気を付けてね」
「了解です」
 先生の言葉に頷くと、レアリィは白猫を抱きかかえ、そのまま部屋を出たのだった。



 案の定、廊下は寒かった。
 抱きかかえる白猫の体温で暖を取りながら、レアリィはフロントへと続く長い廊下を歩いて行き……暫く進んだ頃、不意に白猫が腕の中で暴れ始めた。
「ま、待って、今下ろしてあげるから」
 思わずそう呟きながら膝を折ると、白猫はレアリィの腕から逃げるように床へと着地。しかしそのまま逃げ出すという事は無く、まるでレアリィの様子を窺うかのように顔を上げた。
「どうしたの?」
 膝を折ったまま問い掛けるレアリィへと白猫は小さく鳴き声を上げ、まるで『付いて来い』と言わんばかりに、廊下のど真ん中を歩き出した。しなやかな体つきの白猫は少し歩くのが早く、レアリィは慌ててその後を追って歩き出す。
 そうしてレアリィは人気の無い廊下を抜け……しかし白猫はフロントへとは向かわず、宿の奥へ向けて歩いていく。大丈夫かな、と思いつつも、レアリィは薄暗い廊下を進んで行き……見えてきた小さな扉の前で白猫が足を止め、こちらを見上げると、『開けて』と催促するように小さく鳴いてみせた。
 思わずそれに苦笑しながら、レアリィは「はいはい、今開けてあげるから」と呟き、扉を押し開く。どうやらこの扉は店の裏口として使われているようで――扉を開けた途端、冷たい風に包まれた。それに体をちぢこませていると、少しだけ開いた扉からするりと白猫が外へ出て行く。何と無しにそれを追うと、改めて冷たい冬の大気に包まれた。
 夜明けの近い空は夜の紫から藍色へと変化していて、少しだけ残った星々が小さく瞬いているのが見える。まるで日が沈んだ直後にも思えるような空の下で一つ呼吸をすると、心も体も何もかもが凛と引き締まるように感じられた。
 と、そんな時だ。
「どうしたのかしら?」
「え?」
 突然の声に視線を戻し、辺りを見回す。しかし周囲には誰も居らず、レアリィは首を捻った。そして数歩距離が離れたところで足を止め、こちらを見上げている白猫へと近付き、「貴女の声……って事はないよね」とそう苦笑し、しかし、
「残念だけど、私なのよね」
 目の前の白猫からそんな言葉が告げられた瞬間、予想外の現実に思考が停止した。しかし白猫は容赦なく言葉を続ける。
「ほら、ぼけっとしてないで歩く歩く。時間が無いんだから」
「……」
「……もしかして、喋る猫と逢うのは初めてなのかしら?」
 窺うような問い掛けに、レアリィはカクカクと連続で頷き返す。そういった者達が居るという事は知っていたけれど、まさか目の前に現れるとは思ってもいなかったのだ。
 そんなレアリィの様子に白猫は驚き、
「あらまぁ。この世界じゃ割りと一般的だって聞いていたのに、案外そうじゃないものなのねぇ」
 この世界において、人語を解する猫や犬というのはあまり珍しいものではない。彼等はこの世界と近しい世界の住人であり、度々こちらの召喚に応じ、時には人間を召喚していく。そう、そこには確固とした信頼関係が存在しているのだ。
 しかし、深い山奥にある、魔法を禁忌とする村で生まれ育ったレアリィは、教育機関に進学していれば一度は経験するだろう彼等との邂逅を行っていなかった。その後、先生と出逢ってからもその機会には恵まれず……結果、こうして大きな驚きを受ける事となっていた。
 とはいえ、若い女性の声で喋る白猫に対する恐怖心などは湧かなかった。寧ろ感動に近いものを覚え、レアリィは急ぎ足で彼女へと近付くと、少々の緊張と興奮と共に、
「は、初めまして!」
「ええ、初めまして。上手く行けば長い付き合いになるだろうから、これから宜しくね」
「はい! ……って、上手く行けば、ですか?」
 疑問符を浮かべるレアリィに、しかし白猫は意味深に、
「取り敢えず、私に付いて来て。慌てず騒がず、でも確実に。……それが出来たら、教えてあげる」
「わ、解りました」
 レアリィは神妙に答え、その言葉に従うように辺りを窺いながらその後を追った。
 白猫は村の中心を走る大通りを避け、太陽に背を向けるように西へと向かって歩いて行く。その方向には民家が無く、畑だらけという事で昨日は回らなかったのだが……どうやらその先にこそ、白猫が目指すものがあるらしい。
 と、少しなだらかな下り坂が現れた。細く狭いそこには遮蔽物が無く、冷たい潮風に煽られる髪を押さえながら更に歩くと、その先に、地震で隆起したと思われる黒い岩で出来た小さな山が見えてきた。民家の密集している東側からすると死角になるらしいそれは、昨日歩き回っていた時には全く気付かなかったもので、
「こんなものがあったなんて……」
 驚きながら呟くレアリィに、先を行く白猫は少し冷たく、
「南の外れに、大きな屋敷が建っていたでしょ? あれはね、港に入る船からこの山を隠す為のものでもあるの」
「隠す?」
「そう。貴女みたいに村の外から来た人に、この場所が決して見付からないようにね。だから、旅人が宿に泊まっている時はここに見張りが立っているんだけど……」
「でも、今は誰も居ませんよ?」
「私達は裏口から宿を出たでしょ? だから貴女がここに居ると誰も気付いていないのよ。まぁ、それでも夜が明ければ確実に誰かがやって来るから、そんなに余裕は無いんだけどね」
「……」
 白猫の意図が読めず、レアリィは黙り込む。それでもこの先に何かある事は確実で、いつでも杖を取り出せるようにしながら彼女の後を追った。
 そうして進んだ先――山には人工的に作られたのだろうトンネルが掘られており、白猫はその奥へと歩いていく。
 肌を突き刺すような冷たい海風が、暗い洞窟の中で奇妙な音色を奏でて消える。否応無しに緊張が高まっていく中、無意識に杖を握り締めながら、レアリィはゆっくりと白猫を追い掛けた。
 遠くに明かりが見えるものの、洞窟の中は夜の闇より尚暗い。どれくらい暗いかといえば、数歩前を歩いているのだろう白猫の姿が全く見えないほどだ。それでも彼女は「急がなくて大丈夫だから」と時折声を上げてその存在を主張する。それでも、吹き抜ける風と洞窟の暗さに、嫌でも不安が高まってきて……いい加減逃げ出したくなって来たところで、トンネルの終わりが見えてた。
 どうやら大きな広場に繋がっているらしい。そう思いながら歩を進め――出口を抜けた先に拡がっていた光景に、レアリィは言葉を失った。

 そこには、人形が――人の形をしたものが、開けた空間を埋め尽くすように所狭しと並べられていたのだ。

 等間隔に灯された明かりの下、手作りなのだろう人形達は皆表情豊かで、店先に並んでいれば良い土産物になりそうなほどだった。しかし、彼等が並べられているのは薄暗い洞窟の中で、その数は膨大。奇妙というより、狂気しか感じられない状況に言葉を失っていると、足元で小さく白猫が鳴いた。
「驚くのは解るけど、まだ先があるの」
 だから付いてきて、と白猫が歩き出す。しかし、その後に付いて行くのはどうしても躊躇われた。山と積み上げられた表情豊かな人形達――その全てに見られているような気がしてきて、足が動かなくなってしまったのだ。
 しかし、白猫は平気な足取りで人形達の合間を進んでいく。次第に開いていくその間に、ここに取り残される恐怖と突き進む恐怖、どちらか軽いかを考え……長い逡巡の後、レアリィはゆっくりを歩き出した。
「……人間と同じくらい恐いものがあるなんて、思わなかった」
 思わず、呟く。今まで幽霊などに恐怖した事は無かったけれど、無機質な冷たさがここまでの恐れを与えてくるとは思わなかった。レアリィは全身に冷たい汗を掻きながら、自分の足元と白猫の短い尻尾の中間辺りに視線を落とし、周囲の人形と決して目を合わさぬように進んでいく。
 その途中、洞窟の中を通り抜けた風が歪な音色を上げ――まるでそれが人形の上げる叫び声のように聞こえてしまい、思わずレアリィは足を止めてしまった。途端、少し前を歩いていた白猫が再び先に行ってしまい、レアリィは慌ててその後姿を追い掛け――
「――、ッ」
 ――少しだけ上げた視線の先。人形と、目が合ってしまった。
 同時に、ここに置かれているのは新しい人形だけではなく、その奥には古びた人形も置かれているのだという事に気が付いた。そして人形達の中には、時間の経過と湿気などにより風化し、その頭からまるで脳漿を垂れ流すかのように中の綿を溢れさせている物もあった。……恐らく、ここにある人形はレアリィが想像するずっと以前より並べ続けられ、そして今もその風習が続いているという事なのだろう。
 その事実にどうしようもない恐怖と狂気を感じ――しかし頭の中に僅かに残った冷静な部分が、レアリィに『宗教』という言葉を思い出させた。
 自分には到底理解する事が出来ないこの行いも、恐らく当事者である村人達にとっては尊い行為なのだろう。……そこにあるのが正の感情なのか、負の感情なのかは解らないが。
 そんな事を思いながら、一刻も早くこの場から逃げ出したい気持ちを抑えて進んでいくと、不意に白猫が足を止め……丁度人形の数が最大となったその場所で、彼女は何事かを呟き始めた。
 数多の視線に曝されながら、その呟きが呪文の詠唱などだと気付いた瞬間、レアリィが立つ空間がゆっくりと揺らめき始めた。
 それはまるで、度の高い眼鏡を掛け、目のピントが合わなくなったような感覚。突然のそれに驚く間も無く、目の前に拡がっていた景色に新しい風景が二重に重なっていき――そして次の瞬間、周囲に広がっていた景色が完全に切り替わった。
 あれだけ大量にあった人形達は一瞬にして全て消え去り、レアリィ達が歩いて来た洞窟の地面は木目調の床へと変化し、広がっていた岩肌は白く積み上げられた外壁に変わっていて、天井から灯されていた明かりはクラシカルなデザインの照明へと変化していた。
「これは、空間転移……?」
 一瞬にして違う場所へと移動したのだろうか? そう思っての呟きに、しかし白猫から返って来たのは否定の言葉だった。
「厳密には違うわ。ここは魔法で二つの空間を同時に存在させていて、今の呪文でそれを入れ替えただけだから」
 その言葉を聞きながら背後に視線を向けると、そこには外へと繋がるトンネルが存在しているのが見えた。つまり今の魔法は、重ねられた二枚の絵を入れ替えるように、人形が並んだ空間とこの空間とを切り替えるものだったのだ。
 そして、
「そうやって隠そうとするものが、この先にあるの」
 言葉の向かう先には、黒く小さい扉があった。鉄板で作れているのだろうその扉は所々錆びており、しかし閂という、とても簡単で、とても絶望的な鍵が取り付けられていた。
 それを見た瞬間、レアリィの中で過去の記憶がフラッシュバックし、杖を握り締めていた指先に幻痛が走る。思わずうずくまりながらそれに耐えていると、白猫が心配げに、
「どうしたの? やっぱり、恐い?」
「……いえ、そういう訳では無いんです。個人的な、事なので」
 疑問符を浮かべる白猫へと苦笑を返しながら、レアリィは立ち上がり――強く杖を握り締める。
 もう、痛みは無かった。
「でも、どうして貴女はその魔法を扱う事が出来るんです?」
「村人の一人がこの空間へと入ろうとする時に、こっそりと呪文を盗み聞きしたのよ。基本的に呪文というのは魔法使いのオリジナルなものだけれど、永続的な効果を持たせる魔法は、そのフォーマットが決まっているものだから」
 火を生み出す時にマッチを擦るように、水を飲む時に井戸や川から汲んでくるように、風を起こす時に団扇で大気を扇ぐように、行動には『決まりごと』が存在する。魔法にもそれを適用する事によって、『AをすればBが働く』といった効果を生み出す事も出来るのだ。例えるなら、『開けゴマ』という呪文で扉が開く、といった具合に。 
 それは手軽である分、こうやって他者に知られると悪用される可能性があるのだが、まさか猫に聞かれていると思う人間も居ないだろう。ある意味で、盲点だったといえる。門の魔法を扱う時など、自分が行う時は気を付けないといけないだろう。
 そう思いながら、レアリィはその場で一つ息を吐き、改めて扉を見つめ、
「では、行きましょう」
 不安げな表情を崩さない白猫へとそう告げて、一歩を踏み出す。その扉の向こうに危険が待っている可能性を考慮しつつも、しかしレアリィは止まらない。
 止まれない。
 刹那、再びフラッシュバックした過去が視界を血色に染め、幼い自分の絶叫と細切れになった両親達の姿が勝手に再生されていく。同時に、暴走を始めた思考は閂で閉ざされた部屋の中に居る存在もまた自分自身であると判断し、だからこそ開放しなくては、という気持ちを生み出していく。
 一歩進む毎に、削るように冷静さが消えていくのが解る。
 一瞬前まで保っていた正気が、紅い狂気に塗り替えられていくのが解る。
「……」
 閂を開けば自分が助かる。
 違う、そんな事は無い。
 もしかしたら、これは罠なのかもしれない。
 でも、関係ない。
 そうだ。
 出してあげなきゃ。
 開放するんだ。
 ここから。
 あの牢屋から。
 出るんだ。
 出してもらうんだ。
 外へ。
 外へ!
 外へ!!
「ちょ、ちょっと、本当に大丈夫なの?!」
「ええ、大丈夫です」
 連れ出された先に待つのは死だ。
 それは阻止しなければならない。
 あの時のように、
 先生が助けてくれたように、
 今度は、
 私が、
「私を――」
 と、心までも凍らせるような温度の閂に手を掛けた瞬間、予想以上の冷たさに、まるで静電気を感じた時のように体が震え――その衝撃で、暴走していた思考が一瞬で正常化した。
「ッ、」
 大きく、息を吐く。
 ……落ち着け、私。
 この中に閉じ込められているのは見知らぬ存在だ。まだ人間なのか、無機物なのかも解らない。そこに、幼き日のレアリィ・コーストは居ない。両親を殺し、村人全員から殺意を向けられ、そして村を一つ全滅させた少女は居ないのだ。
 ここに立っているのは、力の使い方と扱い方を心得た魔法使いだ。だから、落ち着かないと。まだ白猫が信頼出来る相手かも解らないのだから。
 そうして大きく深呼吸を繰り返しながら、冷たい空気を肺に満たし、熱を持った思考と血色に染まった視界を落ち着かせていく。そして、閂に手を掛けた体制のまま視線を落とし、今更のように白猫へと問い掛けた。
「……この扉の中には、一体何があるんです?」
「女の子が一人、閉じ込められているの」
 その言葉を聞いた瞬間、冷静になった筈の体が勝手に動いていた。
 無意識のまま閂を引き、重たい扉を押し開く。

 ――そこには、人形のような少女が居た。





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