上書きの始まり。

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 ぼんやりと何も考えず、ただ五月の腕に抱かれ続けていると、不意に部屋の扉がノックされる音が響き、
「紫藤です。コースト様、いらっしゃいますでしょうか?」
「あ、はい」
 答えつつ、後ろ髪を引かれながらもレアリィはベッドから起き上がった。そしてその動きに当たり前のように付いて来てくれる五月に微笑みながら、扉を開くと、
「失礼致します」
 言って、ミナが深く一礼する。けれど、珍しく彼女の表情には少しだけ困惑があり、
「御話は存じております。……私の名は紫藤・ミナ。コースト様、そして真鳥様、覚えていておられますでしょうか?」
 確認するように聞いてくるミナに、
「覚えてます。……ミナ姉さんの事も、イフナ兄さんの事も」
 過去の記憶と共に、レアリィは頷きを返した。
 メイドという存在と深く触れ合っていた経験は『レアリィ』にしかない為、『早苗』の記憶に干渉されている部分が少ないのだろう。更にミナはメイドの中でも特殊な位置に居る相手だ。付き合いも長い事もあって――過去に姉のように慕っていた事もあって、様々な記憶が明確に残っていた。
 だが、彼の方はどうだろうか。そう思いながら傍らに立つ五月へと視線を向けると、
「大丈夫です。俺も憶えてます」
 頷きと共に答えが返ってきた。
『一』と知り合いだったメイドの人数は解らないが、『五月』の場合は殆どゼロだ。彼の方でも変化無く記憶に残っていたのだろう。
 そんな事を思いながら視線を戻すと、ミナが再び頭を下げた。そして彼女は表情を柔らかくさせ、
「有り難う御座います。マスターに御話を御聞きした時には驚きましたが、安心致しました」
 その言葉に、レアリィは一瞬首を傾げ、
「マスターって……あ、先生の事でしたね」
 はい、とミナが頷く。
 記憶違いでなければ、初めてレアリィがミナと出逢った頃から、彼女は先生の事をマスターと呼んでいたのだ。
「でも、どうしてそう呼ぶようになったんでしたっけ?」
「過去に、私はマスターから様々な御恩を頂きました。今こうしてメイドとして勤める事が出来るのも、全てその御蔭なのです。私はその御恩に報いる為、御主人様であられます魔王様とは別に、『マスター』と御呼びする御許しを頂いたのです」
「そうでした……。一度聞いていたのに、ごめんなさい」
 そう言いつつ、すぐに思い出せなかった自分に焦る。忘れないようにと己を戒めつつ、話題を変える事にした。
「それで……夜城さん達の自己紹介はどうなりました?」
「滞りなく進んでおります」
 言い、ミナはレアリィと五月を交互に見、
「ですが、御必要とあればもう一度真鳥様を御紹介する事も出来ます」
「俺を? でも、俺の自己紹介はやったばかりですよ」
「存じております。ですが、御二人は現在、その御記憶が不安定な状態にあると御聞き致しました。そしてその御記憶は、過去が混ざり合ってしまう状態にあるとも。ですから、過去の御記憶を思い出して頂くのでは無く、また新しく我々の事を御記憶し直して頂ければ、と思ったのです」
「つまり、記憶の上書きを行うという事ですか」
 ミナの名前や、先程の『マスター』に関する話もそうだが、すぐに思い出せる事とそうでない事が確実に出来てしまっている。同時に、思い出した記憶が間違っているのかどうなのかを判断する事が出来なくなっている状態にもある。
 ならば、無理に思い出したり考え込んだりして記憶の混乱を早めるより、もう一度新しく覚え直してしまった方が効率が良いだろう。ミナが提案しているのは、まさにそれだ。
「でも、何故五月の紹介になるんです? 私達の記憶が混乱している状態にあると、みんなにそう伝えてしまった方が早い気がしますけど」
「一度はそれを考えたのですが、マスターが『禁忌を犯していると知られると不味いから、それは駄目』と仰られまして」
「禁忌……って、そうでした。門の魔法を使用するのは、本来なら禁忌に当たるんでしたね」
 門を開く魔法を知り、そして実際に使っている事もあり、その事実を完全に失念していた。
 それでも、その事実を隠しながら皆に説明する事も出来るだろう。だが、どこかでボロが出ないとも限らない。ならば、始めから語らないようにするのが一番安全、という訳だ。
 そう思うレアリィの呟きにミナは頷き、
「ですから、名目上は『前回居合わす事が出来なかったメイド達との顔合わせ』という事で、再度真鳥様の御紹介を行わせて頂きます。同時に再確認という事で各メイド長、兵士長にも召集を掛けておきますので、その折にコースト様にも我々の顔と名前の確認を行って頂ければと思います」
 つまり、その自己紹介にはレアリィの記憶の上書きの意味も含まれているのだ。
「解りました。そういう事なら……良いよね?」
 確認するように五月に問い掛けると、彼は頷いて、
「ああ。それじゃ紫藤さん、よろしくお願いします」
「畏まりました。それでは、御予定が御決まり次第御伝え致します」
 言って、ミナが深く頭を下げた。
 レアリィはその姿を眺めつつ、友人や同僚を思い出せないかもしれない不安を忘れる事にする。彼等の事を思い出せないのはもう仕方が無く、だからこそ新しく憶えていけば良いと、そう思うのだ。残酷かもしれないが、しかし自分はその道を――五月と歩む道を選んだのだから。
 そうして、頭を上げたミナが「失礼致します」と言葉を残して部屋を出て行き――扉が閉まるその瞬間、一瞬だけ見えた彼女の微笑みは、お姉ちゃんと慕ったミナ姉さんのものだった。
 その事に嬉しさを感じていると、隣に立つ五月から質問が来た。
「そういえば、禁忌ってのはどういう事なんだ?」
「もう忘れちゃったの? この前ちゃんと教えたのに」
 そう笑みで言い、彼の手を引いて再びベッドへと戻りながら、レアリィは説明を始めた。
「遠い昔、世界中で盛んに門が開かれていた時代があってね。その中には失敗も沢山あったけど、それ以上に多くの世界との交流が深まり、様々な人々や技術がこの世界に持ち帰られたの」
 でも、
「様々な可能性を持った技術が溢れた事で、それを独占しようとする者が現れた。それは次第に規模を増し、国家間の争いにまで発展していって――その争いを止める手段として、偉い人達は門の魔法を禁忌とし、扱えなくしたの」
 門を開く際に必要になる魔力は、相手に隠し切れるような量ではない。その為、門を開こうとする者はすぐに発見され、晒し者として次々に民衆の前で殺されていったらしい。そうして『門』の魔法自体が廃れていき、処罰を恐れた人々はその魔法に関する知識を口外しなくなった。その結果、知識は伝達されずに消えていき――今では完全に過去の産物として扱われているのだ。
 そう説明を続けながら、レアリィは五月と共にベッドへ腰掛け、
「今はマジックアイテムを使って外に漏れる魔力を抑える事が出来るから、誰にも知られずに門を開く事が出来ているんだけど……でも、この魔法が禁忌である事には変わりない。今の時代にそれを罰する法律は無いけど、だからって口外して良い事でもないの」
「過去には極刑に科せられてた魔法だもんな……。解った、気を付けるよ」
 しっかりと頷く五月に頷き返し、自分も気を付けなければ、とレアリィは思う。
 こうして出逢えた自分達の関係を壊さぬ為……そして、自分を信じて門の魔法を教えてくれた、先生の信頼に背かない為にも。



 そうして、夜。
 滞在が伸びる、という理由で行われた五月の紹介は、一度目とは違う方法が取られた。
 自分の名前を答える事が出来ない五月の為、普段は会議などに使われる大広間の一室にメイドや兵士達を招集し、ミナが代表して五月の紹介を行うようにしたのだ。そしてそんな彼に対し、メイド達は一人ずつ自分の名前と割り当てられている仕事を告げて挨拶とし、順に部屋を出て行く。
 そうやって、五月の紹介は比較的滞りなく進んでいき……その全てが終わった今、肩の力を抜くようにしてレアリィは息を吐いた。同じように、ステージからこちらへと近付いてくる五月も息を吐き、
「当たり前だけど、前回以上に疲れたよ」
 苦笑と共に言う彼に、「お疲れさま、五月」と微笑み返す。
 一度目の時よりも時間が掛かっている上に、大量のメイドや兵士達の視線に晒されたのだ。精神的にも肉体的にも疲れが出てしまうのは仕方がないだろう。
「それで、レアリィの方は大丈夫だったか?」
 心配げに聞いてくる彼に、レアリィは頷き返す。
 無理に名前を思い出そうとせず、もう一度彼等の顔を憶え直そう、と思いながら自己紹介を聞いていた為、仲の良かったメイドや知り合いの兵士達などの名前をすんなりと記憶に刻む事が出来た。これで、メイド関係の記憶については混乱を最小限に抑えられるだろう。
 そう五月へと説明をしていると、
「真鳥様、コースト様、御疲れ様でした」
 声と共に、盆にカップを二つ載せたミナがやって来た。レアリィは仄かに湯気立つそれを五月と共に受け取り、
「有り難う御座います。ミナのお陰で、混乱を起こさずに済みそうです」
「それは何よりです」
 そう言って微笑むミナに、レアリィも微笑み返し――
「――ん?」
 開け放たれた部屋の入り口付近で、何やら動くものがある事に気が付いた。恐らくそれはスカートの一部で、黒地にフリルの沢山付いたその形には見覚えがあった。
 それに気付いた瞬間、レアリィは部屋の脇へと片付けられた机の上にカップを置き、
「どうした、レアリィ?」
「カイナが来てるみたいなの」
「あの子が?」
 五月の言葉に無言で頷く。見間違える筈はない、あのスカートはカイナのものだ。
 そう思うと同時に「ちょっと待ってて」と五月に告げると、レアリィはゆっくりと部屋の入り口へ歩いて行き、
「カイナ?」
「……」
 予想通り、そこにはカイナが居た。
 いつものように黒地のドレスを着込み、胸の前でぬいぐるみを抱いた彼女は、不安げにこちらを見上げ、
「……レアリィ?」
「うん?」
「……何か、いつもと違う気がする……」
 戸惑いながら言うカイナの言葉に、少々驚く。しかしレアリィはすぐに笑みを持つと、カイナへと今まであった事をざっと説明し、
「――私と五月は過去の記憶を思い出したんです。でも、私はカイナの事をちゃんと覚えているから大丈夫ですよ」
「本当……?」
「うん、本当に」
 その言葉と共にレアリィは幼い義妹を抱き締め、その不安を取り除くように彼女の頭を軽く撫でる。すると、おずおずとこちらの背中にカイナの手が回り、
「ん、お姉ちゃん……」
 小さく響いてくる声に頷き返し、レアリィはカイナを抱き締める腕に少しだけ力を籠めたのだった。



 五月の自己紹介が終わったあと、彼、そしてカイナと共に部屋に戻ったレアリィは、その後ある場所へと足を運んでいた。
 自室のある廊下を更に奥へと進み、見えてくる階段を上へ。兵士団長などの高い地位を持つ者以外の進入を禁止しているエリアへ堂々と入って行き、見えてきたある一室の前で立ち止まった。
 質素な作りの扉は、レアリィが初めてこの扉を目にした時から変わっていない。懐かしい気持ちが胸に生まれるのを感じながら、レアリィは三度、扉をノックし、
「レアリィです。……先生?」
 尋ねるように声を放つと、すぐに中から返事が返ってきた。
「居るわよ。鍵は開いてるから、入ってきて」
 その声に従うように扉を開き、「失礼します」の言葉と共に中へと入る。
 広々としたその部屋の壁には、ぐるりと囲むように本棚が置かれ、多種多様な本が詰め込まれている。そして入りきらない本は床に詰まれ、更にその上には書類や衣服、マジックアイテムなどが無造作に詰まれていた。
 部屋の奥には大きな木製の机があり、レアリィと向かい合う形で椅子に腰掛けている先生は、机の上にある書類の山と睨めっこをしている真っ最中のようだった。
 その様子を見ながら机の正面にまで進み、くるりと部屋を見渡してから、
「この部屋に来るのも、こうやって先生と二人きりになるのも、なんだか久しぶりで……なのに、どこか初めての事のようにも感じます。変な感じです」
 そう言って微笑むレアリィに、先生は静かに頷いて、
「あとで過去の貴女達……一と早苗に正式に謝罪するわ。このまま呪いを解かずに行く、というのは受け入れたけれど、まだ私は二人に謝ってはいないから」
「そんな、良いですよ。私も彼も気にしていませんし」
 だが、先生は小さく首を振り、
「これは、私なりのけじめなのよ。貴女達を探し続けた、長い長い旅の最後の締め括りの、ね」
 言って、その顔に微笑みを持つと、
「でも、これでレアリィと一緒に居る時間も減っちゃうわねぇ」
 過去の日に先生と出逢ってから、その殆どを一緒に過ごしてきたのだ。これから遠く離れて暮らしていく、という訳でもないのに、何故か淋しさが浮かぶ。
 けれど、レアリィは微笑みを浮かべ、
「でも、私は先生の弟子で、同時に家族ですから。これからもずっと一緒ですよ」
「……そうね」 
 深く、その言葉を噛み締めるように先生が微笑んだ。そして、手にあった書類を無造作に机の上に乗せ、
「それで、私のところに直接来たって事は、何か相談事?」
 優しく聞いてくる先生に、レアリィは無言で頷いた。昔から、何か悩み事や辛い事があると、こうやって先生の自室にやって来ては相談し、泣いていた。最近では殆ど無かった事なのだが、憶えてくれていたらしい。
 その事に心が暖かくなるのを感じながら、しかし気持ちを切り替え、レアリィは先生を真っ直ぐに見つめ、
「先生に確認して欲しい事があるんです」
「確認?」
「はい。――私達がカイナと出逢った、あの旅の事をです」
 瞬間、先生の表情に影が差した。しかし、レアリィはそれを無視し、
「あの子との事も、忘れたくない、そして忘れてはいけない記憶の一つです。なので、今から話す私の記憶に、間違いが無いかを確認して欲しいんです」
「……解ったわ。取り敢えず、座って」
 促されるままに先生と机を挟んで対面に座り、そのままお茶を用意して貰い……そして先生が居住まいを正し、
「それじゃあ、初めて。レアリィ・コーストが覚えている、あの子との出逢いを」





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