目覚め。

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 女性が城を空けた期間は二週間程度でしかなく、その内情にこれといった変化は無い。しかし、他世界でやっと見付ける事の出来た青年の来城は、少しだけ城の空気を変化させているように思えた。
 まぁ、彼はこの世界の事を何も知らないのだから、変な事をしてしまっていたとしても仕方が無いけれど。そんな事を思いながら、女性は空達と共にレアリィの部屋へと向かっていた。
 そうして長い廊下を抜け、大切な弟子の部屋の前に立つと、
「レアリィ、居る?」
 数度のノックし、告げる。
 今更な話だが、女性には名乗るべき名前が無い。とはいえ、彼女はその状況に不便さを感じてはいなかった。不老不死である為、同じ場所に留まり続ける事が出来ない女性にとっては、誰かの記憶に残る『名前』は不要なものでもあったからだ。
 そしてその『名前』は、大切な過去の記憶に――ある一人の青年との思い出に繋がっている。だからこそ、女性はレアリィにすら本名を告げる事は無い。それでも、いつか彼女には……と、そう思っていると、
「先生……?」
 扉の向こうから、窺うような声が聞こえて来た。女性はその言葉に頷き返し、
「そう。貴女のお師匠さんよ」
「ちょっと待っててください。今開けますので」
 その言葉に続くように、扉がゆっくりと開かれ、
「お帰りなさい、先生」
「ただいま、レアリィ」
 微笑んで言うレアリィに、女性も微笑みを持って言葉を返す。と、レアリィはそのまま視線を女性の後方へと向け、
「空さん達もお帰りなさい」
「ただいま。約束通り、探し出してきたわ」
「有り難う御座います。でも、まさかこんなにも早く探して来てくれるとは思いませんでした。さ、皆さん中へどうぞ」
 そう言って一歩身を引いたレアリィに頷きながら、女性は空達と共に部屋へと入った。
 部屋の様子は変わりなく、しかし前より少し片付けられていた。そしてそんな部屋のベッドに、少々警戒している彼が腰掛けていた。
 自分が記憶を消した、という事を念頭に置きつつ、女性は彼へと近付き、
「久しぶり。そして、初めまして」
「……貴女が、レアリィのお師匠さんですか」
 彼の言葉に、そうよ、と頷き返す。しかし彼の態度は変わらず、自然と悲しみを感じる。
 記憶を消す以前まで、彼とは仲が良かった。美術教師とその委員という間柄であった為に顔を合わす機会も多かったし、何より女性は彼を好ましく思っていた。美術委員の枠を一つ空けておいたのも、彼にならばレアリィを任せられるかも、などと思っていたからだった。
 もし彼とレアリィの中に過去の記憶が無かったならば、今頃は『向こう側』の世界で、三人顔を合わせて進路関係の話をしていたに違いない。
 だからこそ、そんな状況を引き起こしてしまった自分を戒めるように、女性は彼を真っ直ぐに見つめ、
「私の事は……そうね、レアリィと同じように先生とでも呼んでくれるかしら。もう、そう呼ばれる資格は無いけどね」
「資格?」
「ええ。半年前まで、私は貴方の本当の先生だったから」
 苦い笑みで言う。
 だが、今ここで彼に過去の記憶の確認をしても、それが無意味だという事は解っていた。その魔法を掛けたのは自分自身であり、その効力は女性が一番良く解っているのだから。
 しかし、だからこそ問題がある。
 女性が彼とレアリィに施した魔法は、対象の記憶から、一部の人物やその人物と関わった記憶を封じ、空いた記憶に自己で統一性を持たせるというものだった。
 例えば、レアリィからは彼の事と学校での生活の二つの記憶を失わせ、その空いた部分の記憶にレアリィ自身が『こうであっただろう』という記憶を補完させた。結果レアリィは、あの学校に転入せず、空達と出逢い、女性と共にこちらの世界へと戻ってきた、という記憶を持って生活している。
 そこに多少の混乱は発生するが、しかしそれを確認する術をレアリィは持たない。そしてそれは彼にも同じ事が言えた。
 とはいっても、過去の記憶を完全に消し去った訳では無い。ただ封じただけであり、思い出せなくなっただけの状態にある。所詮補完した記憶は想像に過ぎず、実際のそれの前では、まるで夢のようにすぐに消えてしまうのだ。
 だから、
「出来ればすぐに貴方達の記憶を元に戻してあげたいけど……でも、それには問題があるの」
 彼とレアリィの記憶は、すぐに元に戻す事が出来る。だが、全てを思い出させてしまうと、今ある記憶と探し人の記憶とが混在し、記憶の混乱が起こる可能性がある。しかし自分は、それを回避する方法を未だ発見出来ていない……。
 そう思う女性の正面に回ったレアリィが、不安げな様子でこちらを見上げ、
「記憶を戻すって……もしかして、先生が私達の記憶を?」
 問い掛けに、女性はレアリィの瞳を真っ直ぐに見つめ、 
「そうよ。――貴女達の記憶を封じたのは、私」
「そんな……!」
 嘘だ、と言わんばかりの顔をするレアリィに、女性は首を横に振り、
「本当よ。そして、それには大きな理由があるの」
 告げる。
「レアリィ達にはね、私が探していた二人の記憶があったの。そしてその記憶は不安定な形で呼び起こされ、レアリィ達の記憶を変化させてしまう可能性があった。だから私は、貴女達の記憶を封じたのよ」
「私達の中に、探し人さん達の記憶が……?」
 驚きに目を見開くレアリィに、女性は静かに頷き、
「そう。半年前のあの日――」
 門から突如現れたモンスター。二人が思い出した記憶。起こり始めていた記憶の混乱。『再び逢わせる』という約束。
 そして、過去の二人に掛けた呪いと、それを解かないでくれと頼まれた事。
 動揺が見て取れるレアリィ達に心が痛くなりつつも、女性は言葉を続け、
「中途半端には記憶を戻せない。かと言って完全に戻せば、記憶の混在が進んでしまう。何か方法が見つからない限り、現状維持でいくしか方法がないの……」
 視線が落ちる。
 全ては自分が招いた事態だ。この状況を変えたい気持ちは強くても、何も出来ないもどかしさが苦痛でならなかった。
 そしてそんな女性を更に押し潰すかのように、部屋の空気も重くなっていく。
 と、そんな空気の中、一番困惑が多いだろう彼が口を開いた。
「取り敢えず……俺とレアリィが忘れている記憶がどんな物なのか、教えて貰えませんか? 貴方――先生の話が本当なら、俺達は同じ学校に通っていた筈ですから」
 そして彼に続くように、レアリィも口を開き、
「私も、お願いします。思い出す事は出来なくても、思い出には触れてみたいですから」
 過去の話を真実だと裏付ける記憶がない以上、彼等に話をしても、それを現実だったと受け入れる事は出来ない筈だ。
 でも、知りたいという気持ちは痛いほど解った。
 思い出す事が出来ないとしても、そこには二人で過ごしてきた時間があったのだ。それを知りたいと思うのはごく自然な事だろう。だから女性は二人に頷き返すと、何から話してあげようかと記憶を辿り始め――不意に、部屋にノックの音が響いてきた。
 軽やかなノックは数回続き、しかし扉の向こうから己を告げる言葉は無い。
 部屋に居る全員が、誰が来たのだろう、と首を傾げ――それに答えるように聞こえてきたのは、
「みんな揃っているようなんだけど、開けてくれるかな」
 楽しげな、男の声。
 しかしそれは、部屋に居る全員が聞いた事のある声だった。
 そんな予想もしていなかった人物の登場に、真っ先に反応したのは女性だった。突然の事に固まる皆を差し置いて歩を進め、部屋の扉を開け放つ。
 開かれた扉の向こう。廊下には笑顔を持った一人の男が立っていた。
 その容貌は高校生ほど。まるで作り物めいた笑みを浮かべるその男は、正面に立つ女性に向かって笑みを止めると、
「久しぶり、千絵(ちえ)」
 そう、遥か過去に捨てた女性の名前を平然と呼んだ。
「な……?!」
 予想外のその行為に、女性の思考が停止する。問い詰めようとした言葉は彼方へと飛び、男に掛けるべき言葉が見付からない。
 男はそんな女性の姿に自然な微笑みを浮かべ――しかし、すぐに元の作り物めいた笑みを顔に浮かべると、
「さ、始めようか」
 そう言って部屋の中へと入り、後ろ手に扉を閉めた。
 そして呆然と男を見やる彼とレアリィに視線を向け、
「二人とも、もうちょっと近付けるかな?」
 男の指示により、レアリィがベッドに腰掛けている彼へと、まるで暗示に掛けられたかのようにふらふらと近付いた。そうしてレアリィを隣に置いた彼も同じようにふらふらとしていて、女性は男が『力』を使ったのだと知った。
 そうして、男が軽く右腕を上げる。
 その動きの意味するところを女性は良く知っていた。だから、慌ててそれを止めようとして――
「それじゃ、行くよ」

 ――高く、指が鳴らされた。
 
   
□   


 朱色に染まる放課後の教室。
 俺は彼女と共に何気ない話をしていた。
 すると、不意に部屋の扉が開かれた。
 一体誰が来たのだろうか、と彼女と共に視線を向けると、
「よう」
 そこには、見慣れた友人が立っていた。
 何しに来たんだよ。俺はそう笑みと共に問い掛けようとして、
「二人とも、一体ここで何してるんだ?」
 そう言って、友人は笑い、
「帰るところがあるだろ?」
 言葉と共に、高く指を鳴らす。

 刹那、世界が暗転した。

 

 
 女性の視線の先。
 指が鳴らされた瞬間、レアリィがふらりと倒れ込み、そして彼女を抱き止めるようにして彼もベッドに倒れた。
「レアリィ!」
 叫び、女性は抱き合うようにして倒れた二人へと駆け寄り、その様子を確認する。
 ただ意識を失っているだけなのか、二人の顔色や呼吸に変化は見られない。その事に安堵を得ると同時、部屋の中に空の声が響いた。
「アンタ、二人に何をしたの?!」
 その叫びに、しかし男は平然とした様子で腕を下ろすと、
「忘れたものを思い出して貰ったのさ」
 激昂する空に構う事無く、作り物めいた笑みを崩さずに言う。
 それはつまり、
「二人の記憶を元に戻したのね?」
 女性の問い掛けに男は頷き、
「そういう事だね」
「この馬鹿! そんな事をしたら、二人の記憶が……!!」
 思わず、声を荒げてしまう。
 記憶が混在するというのは、二色の絵の具を混ざり合わせるようなもの。一色になってしまったそれを、再び元の二色に戻すのは不可能なのだ。
 そうならないようにと記憶を封じたのに、その決断を一瞬で無駄にした男は、
「彼等なら大丈夫だよ」
 そう、笑みで言ってのけた。だが、女性はそれで納得出来る訳が無く、
「無責任な事を言わないで!」
 叫び、女性は男へと詰め寄り、
「これから先、大変な思いをするのはあの子達なの! どうせハルの事だから、二人の記憶を戻しただけで、他の処置は何もしていないんでしょう?!」
「うん」
 それでも笑みを崩さない男の頬を、思い切り叩く。
 この男の力は誰よりも良く知っていた。そしてその性格も、癖も、朝食に何を好むのかも。だからこそ、何もフォローをしようとしない男に、そしてその無茶苦茶な力に腹が立つ。
 と、そこへ、疑問の色を持った空の声が聞こえてきた。
「もしかして、二人は知り合いな訳?」
「……知り合いなんてものじゃないわ」
 不機嫌な顔を隠す事無く、女性は告げる。
 だが、今は詳しい話をしている状況では無いし、するつもりも無かった。レアリィ達が目を覚ます前に、もう一度魔法を掛け直さなければならない。
 そう思うと同時に、女性は鞄から杖を取り出そうとし――しかし、男に腕を掴まれ、それを止められた。
「放して」
「まぁ、そうカリカリせずに」
 楽しげに言いながら、しかし作り物めいた笑みではない、素の表情を女性だけに向け、
「そう心配しなくても大丈夫だよ、千絵」
「――ッ!」
「人間はさ、結構順応性が高いから。それは千絵が一番良く解ってるだろ?」
「だからって……!!」
 わざわざ二人を混乱の中に叩き込む必要など無い。女性は掴まれた腕を振り解き、杖を取り出し、
「なら、当の本人達に聞いてみるのはどうかな?」
 再び作り物めいた笑みを浮かべ、男がレアリィ達へと視線を向けた。
 それに釣られるようにして女性が視線を移すと、そこには小さな動き。
 倒れた二人が、ゆっくりと目を覚まそうとしていた。





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