彼女の世界。2

――――――――――――――――――――――――――――

□  

 城の正面玄関を守護する兵士達に会釈をしながら、レアリィは五月と手を繋ぎつつ城内を進む。
 その途中、周囲にメイドや兵士の姿が見えなくなったところで、レアリィは五月へと視線を向け、 
「そういえば……城壁を越える前、一応、と言ったのを覚えていますか?」
「ああ、覚えてる」
「あの後、私達は詰め所を取って城門を越えましたよね。でも本来なら、あの場所で春風さん達から幾つかのチェックを受ける事になっているんです。でも、私はもう顔パスになっているので……もし五月さんが怪しい人物でも、私と一緒ならば何も問われる事無く城の中に入れてしまうんです」
「だから『一応』で、ああして春風さんが睨んできた訳か」
「そういう事です」
 本来ならはチェックシートを使い、入城を希望する者全てに確認を取る。だが、いざという時に単独行動が取りやすいよう、城に勤める人間の一部は、その出入りを自由に行っても構わない権限を持っている。それはその顕現を持つ者に同行して来た相手にも適応される為、兵士達はその人物を怪しむ事が出来ても、実際に調べる事が出来ないのだ。
 いつか問題が起きそうなものなのだが、今回のように機密事項――魔王候補の事――を含む場合がある為、そう簡単に変化させる事が出来ないのが現状だった。
 そんな説明をしつつ廊下を歩き、階段を上り、レアリィは五月と共に自室へと向かう。
 とはいえ、まさかたった一晩で戻ってくる事になるとは思わなかったと、レアリィはそう思う。奇跡的にも一度で門が開き、五月と再会出来て……その上で、空達と再開出来たのは本当に幸運だった。硝子の剣についてはまだ良いイメージが持てないが、便利な道具だと思って割り切っていくしかないのだろう。どんなに努力を重ねても、あの剣のように正確に、尚且つ簡単に門を開く事は不可能だからだ。
「悔しいけど、どうにもならない……」
 小さく、五月に聞こえぬように呟きを漏らす。
 それと同時に角を曲がり、自室のある廊下を進み……レアリィは見慣れた扉の前で立ち止まり、一瞬その正面にあるカイナの部屋へと視線を向ける。
 けれどすぐに視線を戻すと、いつものように部屋の鍵を開け、
「ここが私の部屋です。……どうぞ」
 言葉と共に扉を開き、自室へと五月を招き入れる。同時に、普段から掃除を心掛けるようにしていて良かった、と思いながらレアリィは座布団を用意し、彼を座らせ……それでも、見られて恥ずかしい物は無いかと部屋を見回してから、自分の荷物をベッドの上へ。
 そして、くるりと彼に向き直り、
「お茶を用意してきますので、少し待っていてください」
「ん、解った」
 頷く彼に微笑んで部屋を出る。そして、レアリィは正面にあるカイナの部屋の扉をノックし、
「……カイナ?」
 問い掛けに、部屋の中からの反応は無い。思わず扉に手を掛けると、そこには鍵が掛かっていた。
「……」
 部屋の中で眠っているとしたら、鍵は掛かっていても中から反応は返ってくる。それが無いという事は……恐らく、彼女はもう城を出てしまったのかもしれない。
 別れの挨拶が出来なかった事を悲しく思いながら、レアリィは廊下を歩き出し――不意に、部屋に男性を招いたのは彼が初めてだった事に気が付いた。しかし、それに対して恥ずかしさはなく、まるで当たり前のように感じられる。
「もしかして……記憶が弄られる前は、五月さんともっと仲が良かったのかな」
 解らない。でも、出来ればそうであって欲しい。そう思いながら、レアリィは廊下を曲がり、階段を下り……目的の部屋へと着く直前、一人の男が廊下を横切るのが見え、
「あ、イフナさん」
 思わず、レアリィは男に声を掛けていた。
 呼び止められた男、春風・イフナは一瞬辺りを見回し、すぐにレアリィの姿に気が付くと、人の良さそうな微笑みを浮かべてやってきた。
「や、レアリィ。何か用かい?」
「いえ、イフナさんが城内に居るのは珍しいなって思いまして」
 イフナはこの城の兵を纏める兵士長の一人だ。若いながらも高度な技術を持つイフナは、兵士からの信用も高い。しかし、普段ならば兵士と訓練などを行っている為、城内で出くわす事は少ないのだ。
 対する彼はレアリィの問いに苦笑すると、少し苦労の見える表情で、
「いやね、実は大臣から呼び出しがあって」
「大臣から?」
 オウム返しに問い掛けるレアリィに、イフナは周囲の様子を確認し、そしてそっと耳打ちするように、
「ほら、もう探し始めてるんでしょ? ……魔王様」
 イフナの言葉にレアリィは驚きを得つつも、しかしそれを表情に出さないようにしながら、
「探している?」
「あ、誤魔化さなくても大丈夫。もう話を聞いたから。魔王様の事、魔王候補の事……魔女先生の代わりに、レアリィが候補を探しに出かけようとしているって事もね」
 その言葉にレアリィは「そうでしたか」と返事を返し、演技を止めると、そのまま本心からの疑問を口にする。
「でも、どうしてイフナさんがその事を?」
 問い掛けに、イフナは少々困ったように微笑み、
「なんかねー、結構将来有望らしいよ、僕。だから教えてくれたみたい。これからもよろしく頼むって、大臣から直々に言われちゃったよ」
「となると、最年少で兵士団長になるのも夢じゃないかもしれませんね」
 兵士団長とは、二十人規模の兵士を纏める兵士長の更に上、この城の戦力を統括する事の出来る役職の一つだ。まだ二十代前半のイフナがその役職に就く事が決まれば、このディーシアの歴史に名を残す天才が生まれる事になる。
 だが、対するイフナは「どうだろうねぇ」と曖昧に微笑み、 
「でもまぁ、いつものように気張り過ぎずに行くつもり。……という訳で、これからちょっと書類を整理しなくちゃだから、僕は行かせて貰うね」
「あ、はい。呼び止めてすみませんでした」
「いえいえ」
 柔らかく微笑んで、軽く手を降りながらイフナが廊下を進んでいき……不意にある事を思い付いて、レアリィはその背中を呼び止めた。
「あ、あの、」
「なに?」
「その……頑張ってね、イフナ兄さん。ミナ姉さんも、きっと喜んでいると思うから」
 昔に戻ったかのようにそう告げると、イフナが一瞬だけ驚いたように目を見開き、しかしすぐに嬉しそうな微笑みを浮かべた。そして彼は「ありがとね、レアリィ」と嬉しげな様子のまま言って、廊下の奥へと歩いて行った。
 レアリィはその姿を見送り、そのまま無意識に自室へと戻ろうとして、
「って、早くお茶の用意しなきゃ」
 当初の目的を思い出し、少々慌てながらレアリィは目的の部屋へと。そこはメイドや執事の休憩室になっており、ティーポットなども複数準備されているのだ。
 ノックと共に部屋に入ると、レアリィは顔見知りのメイドに微笑み、
「あの、ティーポットとカップを貸して貰えますか?」




「……遅いな、レアリィ」
 一人ぼんやりとレアリィの帰りを待ちながら、俺は小さく呟きを漏らす。 
 お茶の準備と言っていたから、変に心配する事はないのだろうが……すぐに戻ってこないのが少々気になった。しかし、城の構造が解らない以上、迂闊にこの部屋からは出られない。
 何ともならない状況の気晴らしに、ベッドの横にある窓から外を眺めようと立ち上がり――それと同時に部屋の扉が開かれ、俺は半ば無意識にそちらへと視線を向けた。
 するとそこには、フリルの沢山付いた、真っ黒なドレスを着ている幼い少女が立っていた。
 可愛らしいというより、綺麗な風貌を持つその少女は、俺の姿を見た瞬間、
「ッ?!」
 一体何が起こったのか解らない、といった風な顔をし、目を白黒させながら硬直してしまった。
 レアリィの部屋の扉を開けたら、彼女ではなく、俺という見知らぬ男が立っていたのだ。驚くのは当たり前だろう。とはいえ、俺は誤解の無いように弁明をしようとして、
「ッ!」
 逃げられた。
「ちょ、ちょっと!」
 慌てて声を掛けるも、もうその姿は扉の向こうへと消えてしまっている。確実に誤解されたと思われるこの状況に、俺はどうしたものかと視線を落とし、
「ん?」
 そこに、先程の少女が持っていたと思われるぬいぐるみが落ちていた。頭からだらりと耳が垂れているところをみると、これは兎を模したものなのだろうか。……あまり可愛くないな。
 ともあれ俺はそれを拾い上げ、半開きになった扉から顔を出す。すると、廊下を走る少女の後姿が見えて――咄嗟に、ぬいぐるみを手に叫ぶ。
「落としたよー!」
 しかし、少女は止まらない。どうやら逃げるのに必死でこちらの言葉が耳に届いていないのか、彼女はそのまま廊下を曲がって行ってしまった。
 とはいえ、相手は小学生ぐらいの女の子だ。今から追えばすぐに追い付けるだろう。
「……行くか」
 ぬいぐるみを返すだけだしな。そう小さく言い訳をして部屋を出ると、俺は少女を追う為に走り出し――



 ――五分近く走っても、俺は少女に追いつく事すら出来ずにいた。
「どうして、こんな、事に……」
 荒れた息を吐きながらそう呟き、俺は部屋を出た当初の事を思い出す。
 走り出してすぐに、少女の背中を見付ける事は出来た。だが、俺が追い掛けて来たと気付いたらしい彼女は、足を止めるどころか一気に加速し、こちらを降りきらん勢いで走り始めたのだ。
 その加速に驚きつつも、俺は走るペースを上げて追走を続け……今もまだ走り続けている。
 城の中を上へ下へと走り回ったせいか、今自分がどこに居るのかすら解らない。息は上がり、かなり苦しく、それ以上に擦れ違う兵士やメイドさん達の視線が痛い。
「止まって、くれよ!」
 荒い息と共に声を出しつつ、走る。
 走るものの……いい加減体力が限界に近い。それでも俺は必死に走って――不意に、こうして追い掛けるのがいけないのではないか、と思い付いた。俺が追うから少女が逃げる、という簡単な理屈だ。
 だから俺は、広く長い廊下にさしかったところで声を張り上げ、
「もう、追いかけない、から! 俺の、話を、聞いてくれ!!」
 そう叫びながら足を止め、体面も関係なく床に転がって荒い息を吐く。そうして息を整えていると、視界の端で少女が足を止めたのが見えた。
 その姿が再び走り出してしまわぬように、俺は顔に浮かぶ汗を上着の袖で乱暴に拭いながら立ち上がり、大きく呼吸しながら少女を見やる。というか、この状況を客観的に見たら、俺は確実に不審者扱いされそうだ。
 ともあれ、対する少女は不安げな表情で俺を見ており、しかしその顔に疲れはなく、息も上がっているようにも感じられない。それから想像するに、彼女は何らかの魔法を使って加速していたのだろう。
 そんな事をぼんやりと思いながら、荒れに荒れた息を何とか整え、俺は右手に持っていたぬいぐるみを少女に見せ、
「これ、落としたよな……?」
 そこでようやくぬいぐるみを落とした事に気が付いたのか、少女は自分の体を少し慌てた様子で確認したあと、小さく頷いた。それに頷き返しつつ、俺は言葉を続ける。
「俺はこれを返したいだけなんだ。解ってくれるか?」
 先程と同じように、少女が頷く。
「解ってくれたか……。なら、これを――」
 言いながら一歩前に進んだところで、少女が一歩後ろに下がった。もう一歩進むと、同じように少女が後退する。……試しに後ろに下がってみたが、彼女は前進してこなかった。
 俺はその事に肩を落としつつ、
「手渡しじゃ嫌なんだな?」
 少女が頷く。
「解った」
 とはいえ、流石に投げて渡す訳にはいかないだろう。他に方法は……と思いつつ視線を巡らすと、花瓶の置かれた台が目に入った。俺はその台にぬいぐるみを起き、少女と距離を取り、
「ここに置いておくから、持っていってくれ」
 その言葉と共に、少女から大きく距離を取る。すると、彼女は不安げな表情のまま、それでもゆっくりと台に近付いて来てくれた。
 それに安堵と疲労の混ざった息を吐き……不意に、自分が今どこに居るのか全く解らない事に気が付いた。
 外観、そして走り回った体感から、この城はかなりの広さがあるのは解る。だが、案内をしてくれたレアリィが居ないこの状況では、彼女の部屋に戻るのは不可能に思えた。しかも、俺は幼い少女を全力で追い掛け回していたのだ。下手をすれば不審者として捕らえられる可能性があった。
 全身から血の気が引くのを感じつつ、ようやっとぬいぐるみを手に取った少女へ改めて視線を向けると、俺は情けなさを感じつつも、
「あのさ……その、レアリィの部屋まで案内して貰えないか?」
 問い掛けに、ぬいぐるみを胸に抱いた少女は俺をじっと見つめ……小さく頷くと、彼女は無言のままこちらに背を向けて歩き出す。
 道案内をしてくれるのだろうか。その姿に安堵しつつ、不用意に距離を詰めないように気を付けながら、俺は少女の後を追ったのだった。

   
□  

 カイナが不審な男に追い掛けられている、という話がレアリィの耳に届いたのは、自室から五月が消えている事に首を傾げ、再び廊下へと出た時の事だった。
 部屋の前を通ったメイドからその話を聞いたレアリィは、慌ててカイナの姿を探し始めた。同時に、男の容貌が五月に酷似している事に気付き、
「一体、あの二人は何を……」
 呟きながら城を歩き回る事十分程。謁見の間へと繋がる曲がり角を曲がったところで、正面からカイナが歩いてくるのが見えた。
「カイナ!」
 思わず声を上げると、こちらの姿に気付いたのか、不安げな表情を浮かべたカイナが駆け寄ってきた。彼女はそのままレアリィに抱き付き、
「お姉ちゃん……!」
 強くしがみ付いて来るその体を抱き返しつつ、レアリィは一体何があったのかと問い掛けようとして、
「……良かった、戻ってこれた……」
 安堵の色を持った五月の声が、数メートル先から聞こえてきたのだった。



「あの子が落としたぬいぐるみを返そうと追い掛けたら、全力で逃げられちゃってさ」
 お茶を飲みつつ、五月は苦笑し、
「必死で追い掛けて、でも追い付けなくて……それでもどうにかぬいぐるみを返したんだけど、今度は俺が迷子になってて。恥ずかしい話だけど、あの子にこの部屋まで案内して貰ったんだ」
 参った参った。そう苦笑を強めつつ言う五月に、レアリィは眉を下げた微笑みを浮かべ、
「ごめんなさい。あの子はカイナ・カイラ・コーストと言って、私の義妹なんです。人見知りというか……少々対人恐怖症なところがありまして、怖い事があると、ああして逃げ出してしまうんです。それでも、私が側に居れば、ある程度我慢出来るようなんですが……」
 言いながら、カイナと初めて逢った時の事を思い出す。それはレアリィにとって辛い記憶の一つであり――無意識に、両手を強く握り締めていた。しかし、五月に心配させないように無理に顔を上げ、話を続ける。
「でも、決して悪い子では無いので……嫌わないであげてください」
 その言葉に、五月はお茶のカップを置きながら頷き、
「怖い思いをしたってのに、俺をここまで送り届けてくれたんだ。悪い子じゃないってのは解る。むしろ俺の方が悪い事をしちゃったな。知らなかったとはいえさ」
 少々俯きながら彼が言う。どうやら、カイナに対して不快感を持っている様子はなさそうだった。しかし、不安は高まり、
「……カイナの事、どう思いますか?」
 思わず放った問いに、しかし五月は特に悩む事も無く、 
「美人さんだと思うよ。まぁ、今日は不安な顔しか見られなかったけど」
「……私の前では笑ってくれるんですが、やっぱり人前だとダメみたいで」
「そうなのか。じゃあ、俺の前でも笑ってくれるように努力しないとな。でも、第一印象がアレだとキツイかなー……」
 その言葉と共に悩み出した五月の姿は、まるで初めて逢った親戚の子供と、どうやって仲良くなろうかと悩んでいるかのようで、彼がカイナに悪い印象を持っていないという事を確信する。その事に安堵し、レアリィは微笑みと共に小さく息を吐いた。
 と、そんな時、部屋の中にノックの音が響き、
「紫藤です。コースト様、いらっしゃいますでしょうか?」
 少々ハスキーな女性の声が、扉の向こうから聞こえてきた。
「あ、ちょっと待ってください」
 突然の事に疑問符を浮かべる五月に、レアリィは「メイドです」と告げて立ち上がる。
 そして扉を開くと、そこには他のメイドとは違う漆黒のメイド服に身を包んだ長身の女性が立っていた。均等の取れた体に無駄な肉は無く、しかしそこに残された女性らしい曲線は惚れ惚れするほどに見事で、セミロングの髪は柔らかく癖が付けられている。
 そんな美しいメイド――紫藤・ミナ(しとう・みな)がこちらへと深く一礼する。対するレアリィは、過去には「ミナ姉さん」と呼んでいた彼女を見上げ、
「どうしたんですか?」
「コースト様が御連れになった男性について、少々御質問したい事があるのです」
 あまり表情を表に出さないミナは、魔王候補の事を知る人物の一人だ。同時に、レアリィが先生の代わりに魔王候補選出に出た事も知っている。なので彼女へは五月の事を早めに知らせておこうと思っていたものの、カイナと彼の追いかけっこという騒動があった為、完全に失念してしまっていた。
「あー……ごめんなさい、ミナのところに報告に行くのをすっかり忘れてました」
 対するミナはこちらの言葉に「いえ、確認を怠った私(わたくし)が悪いのです」と、こちらの事をフォローしてから、
「では、やはり……」
 そう窺うような言葉に「そうです」と頷き返し、レアリィはミナに部屋の中を見せる。そして、何事かと目を白黒させている五月に苦笑しつつ、
「彼が、私が選んできた魔王候補……予定の方です」
「予定、と申されますのは?」
「まだ魔王候補になるか否かを決めてもらっていないんです。なので、この城に一週間ほど滞在してもらって、このディーシアの事を知ってもらおうかと思いまして」
 とはいえ、レアリィにしてみると、五月に魔王候補になって貰いたい、というのが本音だった。しかし、彼には彼の生活があり、更には住む世界が違う。難しい願いだという事は理解していた。
 それでも――と自分勝手な事を思いながら、レアリィはミナへと視線を戻し、
「先生と相談をしていないので、今後どうなるかは解りません。それでも、魔王候補と同等の扱いをお願いします」
 対するミナは、レアリィの背後、慌てて居住まいを直す五月の姿を改めて見つめ、
「承知致しました」
 その言葉と共に、深く頭を下げた。そして彼女はレアリィに断ってから一歩部屋の中へ入り、丁寧に扉を閉めると、五月と向き合い、
「私は紫藤・ミナと申します。貴方様の御名前を御伺いしても宜しいでしょうか」 
 その姿に五月が慌てて立ち上がり、少々の動揺と共に、
「あっと……真鳥・五月と言います」
「真鳥様」
 まるで記憶に刻み込むかのように言い、ミナが彼へと深く頭を下げ、
「御用が御座いましたら、私を始め、城内に居りますメイドに何なりと御申し付け下さい」
「わ、解りました……」
 妙に緊張して見える彼の姿に、ミナが小さく微笑む。まるで主従が逆転して見える二人に可笑しさを感じていると、ミナがレアリィの方へと体を向け、
「コースト様、一つ御願いがあります」
「なんでしょう」
「今後の御生活の為にも、メイド達に真鳥様を御紹介して頂きたいのです」




 そうして、俺は紫藤さんの提案によりメイドさん達の前で自己紹介を行う事となり……しかし俺は、目の前に広がる人だかりを前に緊張で強張った笑顔を浮かべ続けていた。
 おかしい。レアリィ達と共に休憩室と呼ばれている部屋に向かった時点で、そこには三人ほどしかメイドさんが居なかった筈だ。なのに、『メイド達を招集して参ります』という言葉と共に紫藤さんが部屋を出て行ってから数分の間に、男女合わせて二十人以上の視線を全身に受ける事になっていた。そしてその後も次々とメイドさんが現れ、大量の視線に曝される事に慣れていない俺は、緊張に固まったまま動けなくなっていたのだった。
 しかし、紫藤さんのようにヘッドドレスから靴に至るまで、全身黒で統一されたメイド服を着ているメイドさんは一人も居らず、全員が白いヘッドドレスにエプロン、そして黒いロングスカートのドレスを着用していた。更に男のメイド――いわゆる執事も多く、彼らはタキシードを着込んでいた。
 そんなメイドさん達には俺が魔王候補(予定)であるという事は当然伏せられているのだが……しかし、その目には好奇心、奇異、興味などなど、様々な感情が籠っている。どうやらカイナと追いかけっこをしてしまった事で、俺という存在は既に城に勤める大半のメイドさん達に知られる事となっていたようだった。
 唯一の救いは、俺の名前と顔を確認すると、皆すぐに仕事に戻ってくれた事だろうか。
 そうして俺は、止まらずに次々とやってくるメイドさん達へと挨拶、そして緊張に固まった唇をどうにか動かして自己紹介を続け……休憩室から紫藤さん以外のメイドさんが消えたところで、レアリィに問い掛けた。
「これで、全員……?」
「えっと……今ので半分ぐらいでしょうか」
 あれで半分……。そう呟きながら肩を落とすと、レアリィは苦笑と共に、
「お疲れさまです。それでも、メイド長を始めとした人達は全て来られたので、もう部屋に戻っても平気だと思います」
 その言葉に、紫藤さんが頷き、
「残ったメイドには私の方から説明しておきます。真鳥様、御時間を頂き有難う御座います」
「そんな事は……。でも……」
 外に聞こえる事が無いよう、俺は声を潜め、
「こうして自己紹介をしてしまうと、もしも俺が魔王になった場合、『魔王』という存在がどんなものなのか悟られたりしてしまうんじゃ……」
 魔王になるという事は、人前にも顔を出し、更にはこの城に住む事になるのだろう。それなのに、城内で仕事を行っているメイドさん達に俺の事を紹介しても大丈夫なのだろうか。
 そう思う俺に、レアリィが小さな声で教えてくれた。
「魔王様のお世話するメイドは、この城の内情を全て知っているんです。なので……もし五月さんが魔王様になった場合、魔王として人前に出る時以外、私の友人としてこの城に居てもらう事になります」
「じゃあ、魔王として人前に出る時は?」
「その時は、魔法やメイクなどで外見を変えてしまいます。もし何か喋る時は、魔法で声を偽造したりするんです。……でも、基本的に魔王様は人前に出ないので、心配しなくて大丈夫だと思います」
 正しく傀儡――人形である訳か。そんな風に思っていると、部屋に若い男が入って来た。
 二十代前半の、朗らかな笑みを持った優しそうな男だ。彼はレアリィ達に挨拶し、俺の正面に立つと、毒の無い笑みと共に口を開いた。
「こんにちは。僕は春風・イフナ。一応兵士長をやっています」
「初めまして。真鳥・五月です」
「まどりさつき……良い名前だね。僕の事はイフナって呼んでくれるかな。その代わり、僕は五月君と呼ぶので」
 微笑みながら言うイフナ。しかし、春風という苗字には聞き覚えがあった。それはこの城に入る時に……
「イフナさんは、詰め所で逢った春風・始さんの息子さんなんです」
 補足するように告げるレアリィの声に納得する。
 外見は余り似ていないが、イフナも春風さんと同じような殺意を放てるのかもしれない。そんな事を考え、勝手に肝を冷やしていると――イフナが俺の耳元に顔を寄せ、まるで内緒話をする子供のような小さな声で、
「……君が、魔王候補って事だよね?」
「?!」
 突然の言葉に体が強張る。その予想外の問い掛けに、俺はどう答えるべきかと焦り出し、
「ごめんごめん、驚かそうとした訳じゃないんだ」
 その言葉と共にイフナが顔を引っ込め、しかし笑みの消えた真剣な表情で、
「でも、もしかしたら魔王候補を狙う人も居るかもしれないし、今みたいに突然問われても、動揺しないように気を付けた方が良いね」
「は、はい……」
 条件反射で返事を返し、試された事に気付く。
 確かに、俺がこの城に滞在している理由は迂闊に話す事が出来ないもの。イフナの言う通り、悪意のある人間が居ないとは限らない以上、気を付けないといけないだろう。
 と、そのイフナの呟きが意外だったのか、
「イフナ! 貴方……」
 意外にも大きな声で紫藤さんが口を開いた。しかし、自身が出した声の大きさに気付き、少々赤くなりつつ……彼女は声を潜めて言葉を続けた。
「……貴方、いつ事情を知ったのです?」
「五月君がカイナと追いかけっこを始める少し前ぐらいかな。長々と注意事項を聞かされて、さっきまで渡された書類にサインしてたんだ。……で、お茶でも飲もうと思って廊下に出たら、レアリィが友人の紹介をしてるって話を聞いてさ。それでちょっとやってきたんだ」
 真剣な表情から一変、微笑みで答えるイフナに、紫藤さんは溜め息を吐き、
「真鳥様がそうであったから良かったものの……もし人違いだったらどうするのです? 冗談では済まされないのですよ?」
「大丈夫大丈夫。ミナが普段より辺りを警戒してるのを確認済みだったからね」
 イフナの答えに内心驚く。紫藤さんの姿は常に視界の隅にあったけれど、特別周りを警戒しているようには見えなかった。それを彼は一瞬で見抜いたというのだ。
 その驚きはレアリィも同じだったらしく、紫藤さんへと視線を向け、
「そうだったんですか?」
「……はい。真鳥様は魔王様の候補であられ……失礼しました。その御予定の御方であり、コースト様はそのパートナーです。無許可では御座いましたが、少々警戒はしておりました」
「いえ、構いません。むしろ、私達の心配をしてくれて有り難う御座います。……でも、全く気が付きませんでした」
 驚きを持って言うレアリィに、同じように驚きつつ頷く。そんな俺達にイフナが微笑み、
「大丈夫。僕もよーく意識を集中してないと解らないから」
「……イフナ。それでも軽率だと言うのです」紫藤さんはイフナを軽く睨みつつ、「今後は、このような軽率な行動を取らないで。解りましたね?」
「はい、了解です」
 本当に解っているのかいないのか……変化しない微笑みを浮かべてイフナが答えた。と、そのまま今度は俺へと視線を移し、
「そうそう。魔王候補予定っていうのはどういう事なの?」
「えっと……その、俺はまだ、魔王候補になるか決めてないんです。だから、この一週間は見学に来たみたいなもので」
 出来れば魔王候補となって、レアリィの居るこの城に居続けたいとは思う。しかし、俺はこの世界の住民ですらなく、元の世界での生活もある。答えを出すには、まだまだ考える時間が必要だった。
 そんな俺の答えにイフナは頷き……少々何かを考えてから、
「でもさ、一週間の間、ずっと暇を持て余すのもアレだと思わない?」
「まぁ、確かに」
 この世界に来たのは良いものの、この一週間の間に何をするのかは全く決まっていなかった。何か考えがあるかとレアリィへ視線を送ってみるも、返ってきたのは困ったような苦笑だけだった。どうやら何も予定が無かったらしい。
「何も無さげかな?」
「何も無さげです」
「それなら、僕に良い考えがあるんだけど」
 まるで子供のように楽しげに微笑んで、イフナがその考えを告げた。


□  

「……授業、ね」
 五月やレアリィ、部下であるメイド達が居なくなった休憩室で、恋人である青年に向かって紫藤・ミナは口を開いた。
「でもイフナ、貴方に授業をする暇はないでしょう?」
 兵士長であるイフナには、自身の部隊を纏め上げ、常に士気を高める義務がある。それ以外にも会議などで拘束される事があり……そんな状況に居る人間が、どうやって授業を行うというのか。
 そう思うミナの隣に座るイフナは、いつものように微笑みながら、
「戦闘訓練の時に同行してもらって、素振りとかそういう簡単な事を体験してもらおうかなーって。やる気があるなら、みんなと一緒に走ったりとかね」
「つまり、一対一では無いという事なのね?」
「そゆこと。それで、ミナにもお願いがあるんだ」
 言って、彼は自身が飲んでいたお茶をこちらへと寄越し、
「この世界の歴史とか、政治とか、そういう事を五月君に教えてあげて欲しいんだけど……ダメかな?」
 受け取ったお茶を飲みつつ、先程までの事を思い出す。イフナの提案した授業を承諾した二人から、意外な事実を聞かされたのだ。
「真鳥様は、この世界の住人では無いのですものね」
「だから……どうかな?」
「……確かに、全くこの世界の歴史を知らないのも大変でしょう。でも、特定の候補を贔屓するような事は……」
 出来ない、と言いかけ……イフナが何やらにやーっと意味深な笑みを浮かべているのに気付き、言葉を止める。
「何かしら、イフナ」
「……残念。ミナの間違いを訂正出来ると思ったのに」
「私の間違い?」
 何を言っているのだろうか。私は何も間違いなど……と、ミナはそう言い掛け、イフナの言いたい事に気が付いた。
「まさか、まだ真鳥様が魔王候補となると御決めになっていらっしゃらないから……だから贔屓にならないと言いたいの?」
 その問い掛けに、イフナは微笑んで頷き、
「そう。魔王候補になるかもしれない一般人に何を教えようと、まだ魔王候補になってないんだから大丈夫」
「それは詭弁だと思うのだけれど?」
「でも、五月君は何も知らない、出来ない一般人なんだよ? もしこのまま魔王候補になったって、恐らく確実に魔王になる事は出来ない。だったら、魔王候補として相応しい知識を勉強させて、もし魔王になった時に困らないようにしてあげるのが、魔王様をフォローする役割を持った僕達の優しさってものじゃない?」
「た、確かにそうかもしれないけど、でも……」
 段々とこちらに身を寄せながら喋るイフナに、ミナは何とか否定を返す。しかし、対する彼は楽しげに言葉を続けていく。
「それに、魔王候補選出者にクレアやナギさんがいる以上、他の候補は確実に高い能力を持っているだろうね。そんな中に放り込まれるかもしれない……まるで迷える子羊みたいな五月君に、この世界の住人だったら誰もが知っている常識や歴史、護身術レベルの剣術を教えるだけなんだよ?」
「……」
 お互いの吐息を交換出来る距離までに、イフナの顔が迫っていた。その距離にはもう慣れている筈なのに、どうしても顔が熱くなるのを感じる。
 しかし、イフナは止まらない。
「それを贔屓と言える?」
「……」
 逃げられないように両手を掴まれ、額と額をくっつけられる。
「言えないよね?」
「い、言えない……」
「だよね」
 言いながら、イフナの唇が首筋へと触れていく。そうする事で、彼はこちらから冷静な思考力を奪おうとしているに違いない。言い包められては駄目だ……と、そんな風に思いながらも、ミナはイフナから離れられない。
 それでも、最後の抵抗のように、彼女は彼に問い掛ける。
「でも、どうしてそこまで真鳥様を気に掛けるの?」
 問い掛けに、イフナは普段浮かべているものとは違う、とても優しい微笑みを浮かべ、
「誰でもないレアリィの……僕達の可愛い妹の為に、お兄ちゃんが一肌脱ごうと思ってさ。……だから、お姉ちゃんも一肌脱ごう?」
 顔が熱い。そして近い。一肌と言いつつ、このままだとイフナにメイド服を脱がされるような気がする。
 それでもミナが思い出すのは、遠い日の記憶。自分を姉として慕ってくれたレアリィとの、暖かで優しい記憶。だがそれは、自分が魔王の――この国の事実を教えられた事で失われ、自分達の関係は主従のそれに変化してしまった。
 だが、ミナは今でもレアリィを愛していて、彼女を『コースト様』と呼ぶ度に心が重くなるのを感じている。出来る事なら、昔のように姉と呼ばれ、彼女を『レアリィ』と呼ぶ事の出来る関係に戻りたいと思っているのだ。
 だから、レアリィの為ならば、これも贔屓ではないのだろうと思ってしまって……無意識に頷いたミナに、イフナは彼女の前でしか見せない、憎らしいほど真摯な顔で、
「それじゃ、解ってくれたミナにご褒美をあげる」
 何がご褒美なのかは解らないが、唇を奪われ――二人の背後にある扉が静かに閉まる。
 そうして閉ざされた休憩室の扉は、それから暫く、開かれる事は無かった。





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