そんな別れ。

――――――――――――――――――――――――――――


 久しぶりとなる美術室の扉を開くと、もう部屋の中には三人の先客が居た。
「来たわね」
 微笑みながら言う先生に促されるように、俺達は美術室の中へと入っていく。
 がらんどうとした部屋の中、壁に開いた穴を見つつ……結局犯人は誰だったのかまだ解っていないのを思い出す。しかし、流石に先生達も犯人は知らないだろうと踏み、疑問は心の中に留めて置く事にした。
「さて……一応聞いておくけど、忘れ物はない?」
 俺達から視線を移し、夜城達に質問をしている先生の声を聞きながら、ちょっと美術室の中を見回してみる。いつもとは違う風景に興味を引かれつつ、黒板の下に何かがある事に気が付いた。
 あれには見覚えがある。授業の時に片付ける事もあったあの箱には――
「それじゃ、そろそろ始めてもらおうかしら」
 先生の声が響き、俺は意識を切り替えた。
「まぁ、しばらくしたら戻ってくるけどね」
 微笑みながら言う先生に、レアリィが少し不安げに言う。
「でも、気を付けてくださいね。お城の部屋の片付け、してあげたくても出来ないんですから」
 レアリィの言葉に、体を小さくしながら先生が答える。
「えっと……はい、解ってます」
「あと、ちゃんとご飯は自分で作って食べてくださいね。忙しいからって疎かにしないでください」
「……はい、ちゃんと作ります」
「それと……」
 と、軽く立場が逆転している先生とレアリィに苦笑しつつ、俺は夜城達にも別れの挨拶をする事にした。
「二人も気を付けてな」
「ああ。……って、そうだ。今度俺達が『こちら側』に戻って来た時は、お前達に飯を振舞わせてくれ」
「そうね。二人には色んな事をやって貰ったから、そのお返しにって事で」
「別に気にしなくて良いんだが……でも、楽しみにしてるよ」
「待っててくれ」
 笑顔で言い合う。他世界に友人が出来たのだと、今更ながらに感じながら。
 と、小さく肩を叩かれた。それに視線を移すと、話が終わったらしい先生の姿があって――耳元で小さく囁かれた。
「レアリィをお願い。貴方の中に私の求める記憶があってもなくても、貴方がレアリィの想い人である事実は変わらないのだから」
「……」
 先生の顔が離れ、真剣な色を持つ瞳に見つめられる。その瞳を見返し、俺はしっかりと頷いた。
「頼んだわね」
「はい」
 答えつつ……疑問符を浮かべたレアリィに見つめられ、その手を握り返しつつ何でもないと答える。
 キミの側には俺が居ると、そう告げるように。
 そうして、先生が俺の側を離れ――しかし不意に立ち止まると、
「そういえば、まだ言って無かったわね」その言葉と共に先生は微笑み、「ありがとう。貴方の先生で居られたこの一年、とても楽しかったわ。もう美術の授業は見てあげられないけど……これからも宜しくね」
「こちらこそ、宜しくお願いします」
 それはもう『この学校の教師をやる事は無い』という宣言なのかもしれない。先生の教えてくれる授業は楽しかったから、それは結構残念だった。
 それでも、先生との関係はこれからも続いていく。俺のパラダイスは終わらないのだ。
「それじゃあ、お願い」
 先生がそう告げると、夜城が美術室の中心へと立った。それに寄り添うように少女も続く。そして夜城は俺達に背を向けつつ、
「今回は俺が門を。その方がこの剣の力の証明になるだろうから」
「解ったわ」
 短い返答に小さく頷くと、夜城は手に持った剣らしきものを頭上へと掲げた。少女が一歩下がるのを確認すると、それを縦に振り下ろし、
「約束は果たされ、今門が開く。世界よ、ここに繋がらん」
 言葉と共に、剣の軌跡に変化が訪れた。
 一本線だった線が円を描くように広がり、果てには青白く光る巨大な魔法陣を描き出したのだ。
「……すげぇ」
 目の前の出来事に、俺は思わず声を上げていた。
 レアリィに見せてもらったものを見て、魔法というものを理解していたつもりだった。しかし、目の前に広がる現実は予想以上だったのだ。
 けれどレアリィには驚き以上の何かがあったのか、
「まさか、本当に門を開けるなんて……」
 呆然と呟かれたその声は、強い悲しみに満ちていた。
「レアリィ?」
「え、あ……大丈夫。あとで理由、説明するから……」
 答える声は小さい。どうやら、あの剣で門を開いたという事実が、レアリィにとっては酷く衝撃的であったらしい。
 詳しい事情は解らないけれど、俺はその言葉に頷き、小さくなってしまった彼女の体を引き寄せた。
「それじゃ、俺達は先に」
「この門は安定してるけど、維持時間は短いからすぐに続いてね。それじゃ、また」
 と、門の正面。剣を仕舞った夜城達の声が響く。先生はそれに答えるように、
「すぐに私も行くわ。……それじゃあ二人とも、元気でね」
 少し俯きがちで居るレアリィの頭をそっと撫で、先生は夜城達のところへと歩いていき――その背中から声が来た。
「元気出しなさい、我が最愛の弟子。貴方の才能は、あの剣の上を行く」
「でも、あれは、」
「この私が太鼓判を押しているのよ?」
 その言葉に、レアリィが視線を上げた。そしてしっかりとその背中を見つめると、
「……私、頑張ります。敬愛する師匠の太鼓判を、無下にする訳にはいきませんから」
「よろしい」
 振り返ると、先生は笑顔で頷いた。そしてその背後、夜城達が門へと一歩進み、
「じゃな」
「またね」
 小さく言い、まるでマジックのように、二人の姿はこの世界から完全に消えていた。
「次は私の番ね」
 床に置かれた荷物を持ち、先生が門へと近付いて行く。
 だがその直後、どこからか、高く指を鳴らしたかのような音が鳴り響き――
「今のは――って!?」
 先生の言葉と同時、門に描かれた文様に少しずつ変化が訪れた。青白く光っていたそれが、段々と黒に変わっていったのだ。
「一体何で……?!」
 それを見たレアリィが驚きの声を上げる。同時に、先生は魔法陣の正面から数歩後退し、
「ねぇレアリィ、何で変化してるのかしら」
「解りません! でも、繋がっている先が変わった以上、危険なのは確かです!」
 動揺しながら呟く先生と、焦りながら叫ぶレアリィが何の話をしているのか、俺には全く解らない。それでも、何か不味い状況になっているのは解った。
 そして次の瞬間、
「何か来ます……!」
 レアリィの声と共に、魔法陣に更なる変化が訪れた。今はもう黒一色に染まったそれの中心に、小さく亀裂が生まれたのだ。
 先生はそれに舌打ちをし、「あの馬鹿!」と良く解らない事を叫んだあと、
「逃げるわよ! あの感じじゃ、出てくるのが人間じゃないのは確かだから!」
「でも、この世界に何かを召喚するなんて! しかも、さっきまではちゃんと門として発動していたのに!」
「門の方向性を操作した馬鹿が居るの! それよりも、早く――」
 そう叫ぶ先生の声を遮るように、門に生まれた亀裂が大きく広がり――軽やかな着地音と共に、一匹の獣が美術室の中に現れていた。
 真っ黒な体毛に燃えるような鬣(たてがみ)を持つそれは雄のライオンに似ていた。しかし、明らかに顔つきが凶暴であり、隠しきれない程の大きな牙と爪を持つその体は、普通のライオンより一回り以上大きいように感じた。
「何だ、アレ」
 突然現れたそれに、俺は呆けた声を上げる事しか出来ない。けれど、『向こう側』の住民である二人は違っていた。
「最ッ悪……! よりにもよって変異種じゃない!」
「早く逃げましょう!」
 レアリィ達の声が耳に響いても、俺は咄嗟に動く事が出来なかった。
 その上、二人が上げた声に気付いたそれが、巨大な唸り声と共に低く体を身構えた。狩りの姿勢に入ったのだろうと頭が理解すると同時、一気に恐怖に襲われた。
 今にも飛び掛らんとするそれに睨まれながら、必死に足を動かそうとする。しかし、恐怖に支配された体は上手く動いてくれなかった。だから、
「は、早く!」
 そう叫ぶレアリィに強く手を引かれた瞬間、二歩目を踏み出せなかった俺は足をもつれさせ、無様に倒れた。
「ッ!」
 刹那、巨大な獣が飛び掛ってきて――



 ――不意に、頭の中に声が響いた。 
『何を恐れているんだい?』
 いや、流石にこれはヤバいだろ。焦るだろ。耐えられないだろ。
『落ち着け。ていうか、全く何を言っているんだか。あの頃のキミならすぐに倒せたモンスターなのに』
 あの頃?
『そうだよ。さぁ、思い出すんだ。終わってしまったキミの事を』
 その声が友人の物だと理解した瞬間、再び頭に言葉が響いた。
『キミは何も忘れていない。ただ、思い出さなかっただけなんだよ』
 楽しそうな言葉。
 だが次の瞬間、何かが外れ、噛み合い、そして元の形へと戻った感覚がして――



 ――俺は、壊れた壁側へと思い切り体を転がしていた。
 瞬時に立ち上がり、体勢を立て直す。一気に視界が開かれ、恐怖に染まっていた体に自由が戻って来ているのが解る。
 目の前にはライオンの変異種。確か、酔狂な魔法使いがキメラを作った時の失敗作だったか。その上一部地域で繁殖したらしい……そんな『昔』の記憶が頭に溢れる。
 ああ、友人の言う通りだ。全て『思い出せる』。その事実に胸が熱くなるのを感じながら、俺は目の前のキメラの意識を引く為に、その反対側で立ち尽くしている先生へと叫んだ。
「おい、何か武器は無いのか?!」
「武器?! いきなり何を……!」
 動揺する先生に軽く舌打ちしつつ、何かなかったかと記憶を辿る。
 剣は無い。鎧も着ていない。しかも、今の俺は『昔』と違って鍛えていない。
「糞!」
 履き捨てつつも、視線はキメラから外さない。
 一度で喰らい付けなかった為か、ゆっくりとした動きでこちらに近付こうとするキメラとの間合いを稼ぎつつ、俺は黒板の方……つまり彼女達の方へと移動させられていた。どうやら俺達を同時に狩る魂胆らしい。
 と、足元に箱があるのに気付く。
「……忘れてた」
 武器ならばあった。
 足でその箱を動かすと、思い切りキメラへと向かって蹴りつけた。
「?!」
 その動きに一瞬キメラが怯む。その瞬間に俺は箱から転がり出た小刀をいくつか手に取った。そして安全の為に付けられているカバーを取り外しながら、先生へと向かって叫ぶ。
「ボケっとしてないで、何か魔法を唱えてくれ! それでも王国一の魔法使いか!!」
 俺の言葉に先生がハッとするのが見えるが、気にしていられない。左手に持ったカバーを思い切りキメラへと投げ付けた。
 嫌がるように後ろへと飛びのくキメラへと向かって、更に右手に持った小刀を投擲。『昔』とは勝手が違う状況ながらも、上手く飛んでくれた。
 四本の内一本がキメラの右前足に刺さり、怒りの籠った呻き声を上げた。
 それを確認し、再び小刀のカバーを外し投げ付ける。一度傷を負った為か、キメラはカバーにすら嫌悪感を示して唸りを上げた。その動きに警戒しながらも、俺はその巨大な顔面へと小刀を投擲し――
「水よ――!」
 先生の声が響き、投擲した小刀が水に覆われた。その水はキメラへと向かう小刀の速度を上昇させると、同時に水から氷へと変化していく。魔法により軌道修正も掛けられたのだろう。鋭利な氷の塊となった小刀は、その全てがキメラの体へと突き刺さった。
 その様子を見ながら、すぐに次の小刀を拾う。
 三本ほど同時に拾ったところで、先生から声が掛かった。
「小刀を一本程持って! それを媒体に剣を作るから!」
 その声に頷くように、俺は小刀を持った右腕を先生の方へと差し出す。
 直後、キメラが動いた。威嚇するように唸りながら体を伏せると、俺へと向かって飛び掛ってきたのだ!
 それはまるで巨大な砲弾のような勢いで、
「糞が!」
 回避すれば彼女達が襲われる。どうにかその軌道を逸らそうと、俺は左手にあった小刀を投擲し――その瞬間、突如として生まれた風の刃がキメラへと襲い掛かった。
 顔面を深く抉るその風に、キメラの軌道が反れる。そのまま俺達の脇を飛び越え、キメラは暖房器具へと盛大にぶち当たった。
 それを見届けつつ、俺は彼女達へと振り返り、
「……怪我は無いか?」
「うん、大丈夫」
 一瞬、彼女をどちらの名前で呼んだら良いか迷う。
 それは『昔』の記憶が戻った事により気付けた事実。つまり、彼女の中に俺の……
「小刀を!」
 先生の声に思考を中断。俺は右腕を先生へと差し出し直した。
「――一つになりて刃と化せ。湧き上れ!」
 言葉と同時。まるで大気から水を生み出したかのように、右手全体が水の膜に包まれていく。その水は意思を持ちながら小刀へと集まり、凍りながらその長さを増していく。
 数回の呼吸のあとには、氷で出来た長剣が出来上がっていた。
「強度は高め。……あの時の貴方なら行ける筈よ」
「ありがとう。それと、俺はアンタを恨んでなんかいない。またこうして、彼女に逢えたんだから」
「え?」
 驚く先生の声を聞きながら彼女を見やると、愛する恋人は嬉しそうにはにかんだ。
 そうして、俺はキメラへと視線を戻す。その巨体は壊れた暖房器具によって更に傷を負っているものの、そこから抜け出そうと暴れる元気は残っているようだった。しぶといヤツだ。
 俺はキメラに止めを刺す為に動き出し――背中に先生からの声が来た。
「私を許してくれるの……?!」
「許すだなんてそんな。俺は、」一瞬彼女を見、「感謝してる」
「私もです。またこうやって彼と逢えたんですから」
 微笑む彼女が答える。
 その声に頷きつつ、俺はキメラに向かって走り出した。
 けれど、どうにも速さが出ない。鍛えていた『昔』とは違い、体が思い通りに動かないのだ。これなら真面目に筋トレをしていれば良かった。そう思いながら、俺は剣を腰に構えた。加速のベクトルを乗せ、それをキメラの腹へと突き刺す。
 瞬間、巨大な呻き声が美術室内に響いた。
 すぐに剣から手を離し、痛みにより我武者羅に動かし出したキメラの足に当たらぬように飛び退いた。そして彼女へと視線を向け、
「あの足、封じられるか?」
「やってみる!」
 彼女の声を聞き、俺はキメラとの間合いを取った。そして背後から、彼女の詠唱が聞こえて来る。今ならば、その言葉の意味が全て理解出来た。
「自由な風よ、戒め無き風よ、今ここに生まれよ。自由を奪う風よ、戒める風よ、今全てを捕らえよ。吹き抜けろ!」
 そして詠唱が終わると同時、我武者羅に動いていたキメラの足がその動きを封じられ、四肢を伸ばした状態で固定された。
「そんなに長くは持たないから、早く!」
 背中に届く声に頷きを返し、俺はキメラの腹に刺さった剣を手に取った。
 それを力の限り捻り込みながら、
「ぅおらぁ!!」
 全力で上へ。
 魔法で出来た剣だからだろうか。肉や内臓、骨を簡単に切り裂き、キメラの腹から上へと剣を振り上げる事が出来た。
「!!」
 体を引き裂かれた事でキメラが更に強く声を上げる。体にヤツの体液が降りかかってくるが、しかし容赦などする気がなかった。
 振り上げた剣を頭上で構え、そのまま袈裟に斬り落す。
「――!!」
 声にならないような声を上げ、キメラが大きく体を痙攣させた。その痙攣が起こると同時、大きく開いた傷跡から脈打つように血が溢れ出した。
 そのまま痙攣はどんどんと小さくなり……その動きが止まる。俺は警戒しながらもゆっくりと近付き、キメラの息の根が完全に止まった事を確認。最後に剣をキメラの腹に突き刺した。
「疲れた……」
 やはり、力の入り方から動き方まで、昔とは全く勝手が違っていた。
 その事を思いつつ、彼女の方へと視線を向ける。こちらへと駆け寄ってくるその姿を見ながら……俺は全身の力が抜けていくのを感じていた。
 気が抜けたからだろうか。なんとか踏ん張ろうと思うも、足に力が入らない。
 そのまま倒れるようにして、俺は意識を失い――それが完全に闇に喰われる刹那。また頭の中に声が響いた。
『お疲れさま』
 楽しそうな声に無性に腹が立つも、言い返す為の力すら入らなかった。
 そんな俺を気に掛ける事無く、ヤツはどんどんと話を進めていく。
『さてはて。これはいわゆる予定調和でね。つまり、ボクの本当の出番じゃ無いんだ。いやぁ、実を言うと登場するタイミングを間違えちゃったんだよね。だから今回はこれでさよならなんだ。でも、また逢える日を楽しみに待ってるよ』
 豪く勝手なヤツだと思う。しかし、
『まぁ、またちょくちょくちょっかいを出すかもしれないけど……そん時はよろしくな』
 最後の最後。
 いつもの友人のように言うのを聞いて――俺は完全に意識を失った。




 まるで糸が切れた人形のように倒れてしまった彼の元へ、慌てて駆け寄る。
 彼の体には先程のモンスターの血が大量に付いてしまっていたが、彼女は気にする事無く彼を抱き締めた。
 と、先生の声が彼女の耳に届いた。
「もうかなりの年月が経ってしまった……。それなのに、貴女達は私を許してくれるの……?」
 戸惑いの色を持つ先生の声に、彼女は頷きながら、
「はい。先生が私達の事をずっと探してくれていたっていうのが解りましたから。それに、『昔』の私は今まで時間の概念の外に居ましたから、長い年月が経っていたっていう実感がないんです」
「本当に……?」
「本当に、です。彼もそうだと思いますけど……私達が先生に呪いを掛けて貰ったあの日から、私達の時間は進んでいないんです」
「そうだったの……」
 薄っすらと涙を浮かべる先生に、大丈夫だと微笑み掛ける。
 そして、さっきまで彼を抱き締めていたと思っていたのに、また彼を抱きしめている事に気付き……二つの記憶が混ざり始めているのだと気付く。
 だがそんな事は、腕の中に居る彼が怪我をしていない、という事実の前に吹き飛んでいた。
 そうして、ゆっくりと息をする彼を眺めていると、
「でも、どうして記憶が戻ったの? 貴女達の中には、過去の記憶が無かった筈なのに」
 眼鏡を外し、涙を拭っている先生に、彼女は一瞬前の出来事を思い出しながら、
「えっと、彼が転んだ時に、頭の中に声が聞こえてきて」
「声?」
「はい。知っているようで知らない男の人の声で、『キミは何も忘れていない。ただ、思い出さなかっただけなんだよ』って。その言葉を聞いた途端、噛み合っていなかったものが全て噛み合ったような感覚があって……それで、全部思い出したんです」
 自分でも良く解らない説明だな、と彼女は感じる。恐らく、同じ体験をしていない先生には解って貰えないかもしれない。しかし、先生の返答はそんな彼女の予想とは違うものだった。
「そんな芸当が出来るとしたら、やっぱりアイツしかいないわね……」
「心当たりがあるんですか?」
「昔ちょっとね。でも、よく彼の中に過去の記憶があるって解ったわね。彼の方も貴女の中に過去の記憶があるって解っていたみたいだし」
「なんていうんでしょう……。外見は全然違うんですけど、何だか被るんです。過去と今の彼の姿が。残像のように見えるって訳ではないんですけど……説明し難いですね……」
 本当に説明し難かった。
 彼の姿を見ていると、過去と今の二人の姿が見えるのだ。それはダブって見える訳ではなく、完全に同一のものとして感じる事が出来ていた。
 彼等は彼である。つまりそうとしか説明のしようがないのだった。それは多分彼の方も同じだろう。
 彼女の答えに先生は腕を組み……少し考えたあと、
「憶測だけど、それは私が掛けた呪いの効果ね。そうやって相手を感じ取ることで、貴女達は無くした記憶を求める筈だったのでしょうね」
 先生の答えにそうなのだろうと納得しかけ、けれど疑問が浮かんだ。
「でも、そうしたら初めに逢った時に解ったんじゃ……?」
 当然の疑問。もしお互いの事が解るのなら、二週間以上も前に自分達の記憶は戻っていた事になるのだ。
 問い掛けに、先生は怒り……というよりも苛々のある表情を浮かべ、
「レアリィがこの学校に転入した……いえ、私がこの学校で教師を始めたあの日から、私達は魅了の魔法に掛けられていたのよ。それに、そこのキメラを召喚したのも、貴方達の記憶を元に戻したのも、これだけの騒ぎなのに誰も様子を見に来ないのも、全部アイツの――彼の友人の仕業に違いないわ」
「彼の友人さんが?」
「ええ。それならば、全ての辻褄が合う」
「でも、本当にそんな事が出来る人が居るんですか?」
「居るのよ。アイツはそういう存在だから」
 眼鏡の奥に少し厳しさを持ちながら先生は言う。でも、その言葉に恨みがましい色は感じられなかった。
 だが、『存在』という事は人ではないのだろうか。その事を問おうとして……先に先生から質問が来た。
「一つ、質問しても良いかしら」
「あ、はい。なんでしょう」
「今日が、何月何日何曜日か解る?」
 突然何を聞いてくるのだろうか。彼女は頭に浮かんだ日にちを答えようとして、
「えっと……あれ?」
 何故か答えられなかった。
 同時に二つの答えが頭に浮び、答えようにも言葉に出来なくなってしまったのだ。
「あ、そんなに悩まなくて良いわ。次に、貴女の名前を教えて」
「それは、えっと……」
 焦る。自分の名前を答えるだけなのに、先程と同じように答える事が出来ない。一つずつ答えれば良いのだろうが、何故かそれすらも出来なかった。
 混乱する彼女に、先生は優しく、
「ごめん、無理に答えなくて良いわ。何故答えられないかと言うとね、恐らく過去の記憶が完全に今の記憶と同調しているからなの」
「同調、ですか?」 
「ええ。今、貴女達の頭の中には同時に二つの記憶が存在している事になる。でもね、人の脳っていうのは、二つの人生を同時に記憶する事は出来ないの。それに本来なら過去の記憶が戻っても、本来の記憶の持ち主であるレアリィの記憶がメインに残る筈。でも、今回はアイツの影響により一気に記憶が混ぜられ、同調してしまった」
「確かに……」
「だから、貴女達の記憶を安定させない事には、今後の日常生活に問題が発生してしまう。とはいっても、時間が経てはこの状況にも慣れては来る筈よ。だけど、今まで通りに生きていく事は出来なくなると思うわ」
 自分の名前さえすぐに言えなくなってしまっているのだ。普通に生活するのが難しくなってしまうのは手に取るように解った。
 しかし、
「でも、もう私の……私達の記憶は一つのものになってしまってます。それをどうにかする方法があるんですか?」
 一つになってしまったものを、もう一度別れさせる事など出来るのだろうか。
「出来る事は出来るわ。でも、それは貴女達をまた引き裂いてしまう事になる……」
 彼女は考える。記憶が戻った自分達を引き裂く方法となれば――
「それは……もしかして、私達の記憶を弄るって事ですか?」
「そうよ。レアリィがこの学校に通い出したあの日から今日までの記憶を、貴女達の中から封印するの」
 辛そうに言い……しかし視線を上げて先生は言葉を続ける。
「でも、そのまま過去のように離れ離れにはさせないわ。硝子の剣の事があるから、一度は『向こう側』に戻る事になるけど……絶対にまた、貴女達を逢わせる。だから、私に貴女達の記憶をもう一度預けて欲しいの」
 彼女の視線の先。そこに居るのは王国一と謳われ、同時に自分の師匠でもある美しい女性。
 信用に値する人物であるのは間違いなく――そして実際に、自分達は出逢えたのだ。だから、
「……私は、先生を信じます」
 気絶している彼を抱き締め直し、彼女は答える。
「多分、彼も解ってくれると思いますから」
「ありがとう……。その想い、絶対に裏切らないから」
 真剣な色を持って答える先生に微笑みを返す。
 とはいえ、不安はあった。恐怖もあった。離れたくないと願う自分も居た。しかし、『絶対』の方法を提示してくれた先生を信頼しないでどうするのか。
 少し揺らいでしまった『自分』を説得しながら、心の安定を得る為に彼女は彼へと視線を向けた。
 と、視線の端。杖を構えた先生が見えた。
「じゃあ、始めるわね」
「もう、ですか?」
「時間が経ってしまえばしまうほど、貴女達の記憶の同調は更に進んでしまうと考えられる。つまり過去の記憶すら曖昧になり、記憶を弄り難くなってしまうの。やっと出逢えた二人には本当に悪いけれど、早めに記憶を封印するしかないのよ……」
「解り、ました」
「本当に、ごめん……。って、重要な事を忘れてたわ。その前に貴女達に掛けた呪いを解かないと……」
 慌てたように言う先生に彼女は制止の声を掛けた。
「出来ればその呪いは解かないで貰えますか?」
「でも……」
「ごめんなさい、これだけは彼と相談して決めたいから」
 先生が探し続けていた期間を考えるなら、今回のようにお互いが出逢えた事は奇跡のようなものなのだろう。だが、この呪いが残っているなら、例え今の彼女が死んだあとも、彼と出逢える可能性があるのだ。
 彼とずっと共に居たいと盲目的なまでに願う彼女にとっては、呪いを解いて欲しくない、というのが本音だった。
 だから、
「だから、また私達が出逢ったあと、今封印した記憶も元に戻してください。そうじゃなきゃ、意味がないですから……」
 小さく呟く彼女に先生はしっかりと頷きを返し、
「約束するわ。貴女達を……過去と今の四人の男女を、絶対に再び出逢わせると」
「はい……」
 先生の言葉に彼女は頷く。彼の顔を見つつ、大丈夫だと、そう『自分』に言い聞かせながら。

 そうして詠唱が始まり、美術室の中に先生の声が響いていく。
 その声を聞きながら、彼女は今にも泣きそうな表情で小さく呟いた。
「またね」

 そして、最愛の恋人へそっと口付けをし――




 俺は目を覚ました。





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