そんな記憶。

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 次の日。
 学校には通い続けるというレアリィと共にマンションを出る。俺としては学校なんかよりもレアリィと一緒に居る時間を増やしたいのだけれど、「せめて一週間ぐらいはお願い」と言われてしまったからには何も言えない。昨日一日休んでいるのでそれは尚更だった。
 まぁ、レアリィが楽しめているのなら良いだろう。そう思いながら二人で通学路を歩いていく。
 いつものように通りを曲がり、住宅地を抜け……校門が見えてきたところで、意外な人物が待っていた。
「先生……何やってるんスか?」
 所在無さげにしている人物――先生に声を掛ける。隣に居るレアリィも何故こんな所に先生が居るのか解らないらしく、不思議そうな顔をしていた。
 俺の声に気付くと、先生は少しだけ緊張した面持ちで、
「おはよう。ちょっと貴方達に用があって、ここで待っていたの」
「そうだったんですか。でも先生、私達は今から授業に出ないといけないのですが……」
 何気に敬語に戻っているレアリィに突っ込みそうになりつつも、授業という単語に頭が反応する。
 今日はいつも通りに部屋を出てきたから、HRまで十五分前後しかない筈だ。つまり、あまり時間がない。その事は解っているのか、先生は申し訳無さそうに、
「ごめんなさい二人とも。でも、これは急いでやっておきたい事なの」
「急いでって、一体どんな事なんですか?」
「彼が私の探し人であるかどうかを確かめたいの。向こうの世界へ帰るまで一ヶ月の時間を取ってはあるけど、早い内に白黒付けて起きたいのよ」
「そう、ですか……」
 俯き、小さく答えるレアリィの手を握りながら、俺は先生に問い掛ける。
「でも、どうやって確かめるんですか?」
「具体的な説明は歩きながら話すわ。まずは準備を整えないと」
「準備?」
「まずは場所の確保ね。貴方が一番リラックス出来て、尚且つ人が居ない所が良いのだけれど……」
 その言葉に、俺は幾つかの場所を思い浮かべながら、
「俺が一番リラックス出来る場所って言ったら……まぁ、家っスね。今は一人暮らしなんで、家族は居ませんし」
「なら、貴方の部屋を使わせてもらうわ。あ、何か壊したり汚したりするような事は無いから安心して」
 レアリィの表情を窺いつつ先生は言う。だが、対するレアリィは俯いたままだった。
 その事に表情を曇らせながらも、先生は話を進めていく。
「それで、家の場所はどこ?」
「レアリィが住んでるのと同じマンションです」
「ならここから近いわね。早速向かう事にしましょう」
 そう言って歩き出す先生のあとを追う。普段よりも余裕無さそうなその姿は、明らかにレアリィの様子を意識していた。
 そうして、学校から離れていく俺達を訝しげな目で見る生徒達を無視しつつ、俺達はさっきまで歩いていた道を戻り始めた。
 遠く、後方から気の抜けた予鈴の音が聞こえる。もうそろそろしたら、担任が教室にやって来るだろう。
 と、不意にレアリィが立ち止まってしまった。
「レアリィ?」
「……大丈夫。何でもない、から」
 小さく首を振り、レアリィが答える。そして無理矢理話題を変えるかのように、先を行く先生に問いを放つ。真剣なその表情に、俺は何も言う事が出来なかった。
「先生。これからどんな事をするのか、彼に説明して頂けますか?」
 その問い掛けに、先生は一歩先を歩いたまま、
「……例えるなら、退行催眠に近い事、かしらね」
「退行催眠……。確か催眠術を掛けた状態で過去の記憶を探るものですよね。忘れている、忘れようとしている記憶を呼び起こす事が出来るという」
「そうよ。もし彼の中に探し人の――前世の記憶が存在した場合、この方法でなら今の記憶に影響を出さずに思い出す事が出来るの」
 問いに答える先生の顔は見えない。しかし、聞こえて来る声のトーンは少しずつ下がっていた。
「でも、自分の記憶ではないものだから、その記憶は変化してしまっている可能性がある。そうなれば、私の呪いは効果を成さず、解除する事も出来なくなる。……まぁ、その時はまた次を待つわ」
「……先生」
「さ、早く行きましょう。『向こう側』に居る時とは違って全力を出せないし、結構時間が掛かりそうだから」
 言って、先生が振り返る。その顔に浮んだ微笑みは少し悲しげに見えた。だが、俺は何も言えず……ただ先生のあとを付いていく事しか出来なかった。
 隣を歩くレアリィを横目に見つつ、思う。
 レアリィの様子を見るに、彼女は俺の記憶を確かめるのを良しとしていないのだろう。俺の部屋で説明をしてくれた時も、良い表情はしていなかった。
 しかし先生は、俺の記憶を確かめ、尚且つそこに探し人の記憶がある事を望んでいるのだろう。転生を繰り返すというその人の記憶が俺に無かったら、先生は再び当てのない旅へと赴く事になるのだから。
 そうこうしている内にマンションへと戻ると、一緒に俺の部屋へと向かう。そうして数分前に出たばかりのドアを開け、レアリィの手を――少しだけ強く握られた彼女の手を握り返しながら中へと入った。
 途端、マンションに入る前からずっと続いていた沈黙が、重く部屋を満たしていく。
 その静寂を破ったのは、意外にもレアリィだった。
「早く、やってしまいましょう」
「……そうね。それじゃ、いつもどこで寝ているの?」
「隣の……」
 言いながら、俺は和室にあるベッドへと視線を向け、
「あのベッドです」
「それじゃ、あのベッドへ横たわってくれるかしら。その方がやり易いから」
「解りました」
 答えながらレアリィの手を離そうとするものの、逆に握り返されてしまった。どうやらこのまま繋いでいても良いらしい。その事に安心しながら、俺は数歩の距離にあるベッドへと腰掛ける。横になろうとすると、心配げな色を湛えたレアリィが隣に腰掛けた。
 その瞬間、感じた安心を吹き飛ばし、今更ながらに不安が胸の奥に広がった。
 所詮は他人の記憶と考えていたけれど、それが俺の中にあるという事は、見ず知らずの相手の記憶を自分のものだと思っている可能性があるのだろう。
 とはいえ、思い出せる範疇に他人の記憶と思われるものなど一つも無い。
 しかし、本当にそうかと言える根拠も無いのだ。
 急に自分という存在のアイデンティティが失われたような気がして、全身に恐怖が走る。だからだろうか、俺は半ば無意識に先生に問い掛けていた。
「大丈夫、なんですよね? 今の記憶が無くなったりとか、そんな事は無いんですよね?」
「心配しなくても大丈夫。今の貴方の記憶と、探し人の記憶は全く別のものだから。それに、もし貴方の記憶が探し人の記憶に影響を与えていても、逆に影響を与えられる事は無いわ。生まれ変わりとはいえ他人の記憶だから、ゼロから始まった貴方の記憶に変化を与える事は出来ないのよ。だから安心して」
「……解り、ました」
 答えながら、仰向けになる。
 そして、視線の先で先生が杖を構えるのが見えた。いつの間に取り出したのか解らなかったそれを見ながら、その声を聞く。
「始めるわね」
 言って、静かに呪文が紡がれていく。俺は心配げな表情を浮かべたままで居るレアリィの手をしっかりと握り返すと、そっと目を閉じた。




 呪文を紡いでいく。もう何度目になるか解らない呪文を。
 今まで、記憶に混乱を起こしている人物や言動が急に変になった人が居るという情報を得ては、女性は世界中を飛び回っていた。しかし、その数多の旅の中で、人間の中に二つの記憶は同時に存在出来ない事を知り……今度は、眠っているかもしれない記憶を起こさずに、その判断が出来るかどうかの試行錯誤を繰り返し始めた。
 そして、女性はある方法に辿り着いた。それは、魔法により擬似的な催眠状態へと導き、更にそこへ女性の記憶にある過去を夢として見させるというものだった。
 ただの催眠状態の場合、自身の記憶しか掘り起こせない。そこで過去夢を見させ、その夢の事を語って貰うのだ。
 本来ならばただの夢でしかない為、質問をしても頓珍漢な答えや何も解らない事が多い。しかし、もしそこに探し人の記憶が眠っていた場合、その夢の世界……女性と探し人達が過ごしていた時代での記憶がある為、探し人の記憶に基づいた答えを返してくれる可能性があった。
 とはいえ、この方法を取り始めてもうかなりの年数が経つものの、過去の世界の夢を自分が住んでいた時代の事だと認識出来た者は一人も居らず……今のところ、探し人達のどちらも見付ける事が出来ずにいた。
 それでも、今回の場合は確率が高い筈だと女性は信じていた。彼を想っているレアリィには悪いと思う気持ちは強い。しかし、探し人に対する謝罪の念は更に強くあった。
 けれど、愛すべき弟子には時間という制限がある。その事を考えつつ――女性は呪文を詠う。
「――そして水よ。過去を移せ。過去を映せ」
 そして魔法は完成する。
 同時に、魔力の籠められた杖先から小さく水滴が零れ落ちる。その透明な雫は彼の唇へと落ち、染み込んだ。
「これで準備は完了。……心配しないで。大丈夫だから」
「……はい」
 小さく頷くレアリィを見ながら、女性は一度目を瞑る。そして、眠りに落ちた彼の意識へと干渉していく――




『どうしたの?』
 隣を歩く彼女に問われる。ボーっとしていたのだろう。一瞬前後の記憶が曖昧になった。
「なんでもない」
『ん、なら良いけど』
 可愛らしく笑う彼女に手を引かれながら、俺は広場を歩いていく。その声が……そして周りの喧騒が、どこか遠くから聞こえてくるような錯覚を感じながらも。
「しかし、そんなに急ぐ事なのか?」
『当たり前だよ! だってあの――様の率いる魔法使い様達が、長かった探索から戻って来られるんだもの!』
 何故か、肝心の名前が聞き取れない。いや、聞こえている筈なのだが、頭がその単語を聞き入れない。その事に首を傾げながらも、はしゃぐ彼女をなだめる。
「まぁ落ち着けって。……でも、もし何か財宝でも見付かれば大騒ぎだよなぁ」
 言いながら、俺は視線を上げた。そこに拡がる城壁と、巨大な王城を眺め――世界の色が変わった。
 ふと気付けば、俺は騎士団長の演説を聞いていた。
 その昔、数々の功績と名誉を得ながらも忽然と姿を消した一人の戦士が居た。その男の存在を神聖視している騎士団長は、『諸君等も彼のような立派な戦士に……』と延々繰り返していた。
 誰もがそんなに立派になれたら苦労しねぇよ。そう思いながら、騎士団長から視線を逸らす。何気なしに見た先に一人の魔法使いが居た。
 その魔法使いはとても美しい人で、尚且つここ何十年とその外見が変わっていないという噂がある人だった。実際、昔から老けた感じが全くしない。
 と、その視線がこちらに向いた。何百という数の兵士が居る中、確かにその魔法使いと目が合ったように思え――俺は叫んでいた。
 愛する恋人を奪い去った王族を呪い、涙を流しながら、激しい怒りに声を上げていた。
 そして俺は――剣を手に走っていた。
 王家の人間とその家臣。そして数日前まで上司や仲間だった奴らを殺した事に後悔は無かった。というより、そんな事を考える感覚が麻痺していた。
 もしかしたら、あの魔法使いに変な魔法でも掛けられていたのかもしれない。そんな事を考えながら、俺は必死で人を殺していく。
 ただ、彼女と一緒に過ごしていく明日の為に。
 そして――俺は遠い青空と、彼女の涙を見ていた。
 痛む筈の傷が痛まないのは、もう死が近いからか。
「この恋が叶わぬならば、俺達の世界が滅ぼうと構わない」
『だから、また出逢えるならば、私達は死ぬ事なんて怖くない』
 我ながら恥ずかしい事を言っていると思う。でも構わなかった。また彼女に逢えるというのなら。
 そして、俺は目を開こうとし――不意にその声を聞いた。
「残念だけど、もう少しだけ我慢してくれると嬉しいかな」
 それは、知らない筈なのに良く知っている男の声。少し悲しげなその声は、何故かはっきりと耳に届き、
「それじゃ、また逢える日まで」
 高く、指を鳴らしたかのような音が響いて――




 静かに呼吸する彼へと、先生が質問をしていく。
「貴方の名前は何ですか?」
 問い掛けに、少しの間を空けて彼が答える。
「解らない」
「……貴方の性別は?」
「男だと思う」
「家族や恋人は居ますか?」
「解らない」
「自分の住んでいる場所や土地を覚えていますか?」
「山の中だったり古めかしい城の中だったり……良く解らない」
「次は――」
 そう言って、問い掛けは続いていく。しかし、彼の答えは「解らない」という答えが大半を占めていた。例え答えられるものがあっても、少し経ってから同じ質問をすると答えが変わってしまっていたりする。
 それはつまり、 
「……彼が生まれ変わりである可能性はほぼ無くなったわ」
 先生にとっては苦痛であり、レアリィにとっては喜ぶべき結果となった。とは言っても、俯きがちでいる先生を前に、それを表情に出す事はない。
 彼の手を握り直しながら、レアリィは確認するように、
「本当ですか?」
「ええ、本当よ……。問い掛けの過半数が解らなかったみたいだし、答えている最中の意識も安定していなかった。つまり、これまで確認してきた人達と同じような反応だったわ」
 でも、と先生は小さく付け足す。
「この前話に出た、彼の友達の事がどうしても気になるの。私の予想通りなら、彼の記憶は改変されている可能性があるから」
 言い、しかし溜め息と共に先生は苦笑する。
「……まぁ、これも希望に縋っているだけね。実際に記憶を弄られていたら、探し人の記憶も同時に変化してしまうでしょうし」
「だから、可能性は『ほぼ』無くなった、なんですね」
「そう。つまり、限りなく白に近いグレーって所かしらね。だから、もう少しこの世界に居て様子を見るのも良いかもしれないわ」
「ほ、本当ですか?」
 予想もしていなかった言葉に、レアリィは歓喜の声を上げる。しかし、慌ててその表情を引っ込めようと俯いた。その姿に女性が小さく苦笑する。
「えぇ。彼がそうである可能性が少しでもある以上、ゆっくりと時間を掛けて白か黒か確かめていきたいの。焦った所で意味は無いし……それに、もし彼に過去の記憶があったとしても、芋づる式にもう一人が見付かるとは限らない。いざとなったら、彼には言わずに探し出すわ。誰でもないレアリィの為にもね」
「先生……」
「二人を探すのが最優先なのは今も昔も変わっていないわ。でも、私と違ってレアリィ達の時間は有限だから、私の我が儘だけを通す訳にもいかないし――それに、なによりも貴女には幸せになって欲しいのよ」
 先生は――レアリィ・コーストという少女に未来を与えてくれた女性は、その少女の幸せの為に笑う。
 対し、今の今まで自分の事しか考えていなかったレアリィは深い後悔を感じていた。そして、利己的過ぎた自分が恥ずかしくなってくる。
 彼に向かって再び杖を構え直している先生へと向かい、レアリィは頭を下げた。
「ごめんなさい、私、自分の事しか考えられなくて……」
 と、下げた頭に先生の手が乗り、そしてゆっくりと撫でられた。
「良いのよ。なんたって好きな人の事だもの。その手を誰かに奪われないように、しっかりと握ってなさい」
 顔を上げると、そこにはいつもの微笑みがあった。だからようやく、レアリィも心から笑う事が出来たのだった。
 そして先生が彼へと杖をかざす。その姿を見ながら、ふと一つの事が頭に浮かんだ。
「それじゃ、彼を起こしましょうか」
「……あの、ちょっと待ってください」
「ん、何?」
「私にも見せてくれませんか? 夢を――先生の過去を。私は今までどんな人達を探していたのか、それを知りたいんです」
 過去に命を助けられ、尚且つ一人前の魔法使いへと育て上げて貰った。その恩から、レアリィは当たり前のように先生の行う事を手伝ってきた。それはこの人探しも同じだった。
 しかし、その手掛かりは殆ど無く……それは今までも、そしてこれからも変わらないものだとも思ってしまっていた。にも拘わらず、ここに来ていきなり、生まれ変わりかもしれない人物が現れた。しかもそれは、好きになった相手が、という最悪な状況でだった。
 だから、昔から語ろうとしなかった先生の過去を……探している二人の事を知りたいと思ったのだ。
「……ダメ、ですか?」
 問い掛けるレアリィに、先生は一瞬躊躇いの色を見せる。 彼に向けていた杖を下ろすと、同時にレアリィへとその体を向けた。
 そして、数秒の後、
「解ったわ」そう呟き、「レアリィにも知っていてもらいたい事ではあったから。……でも、今まで教えなかった理由はね、ずっと隠しておきたい過去でもあったからなのよ。今まで手伝って貰ったレアリィには悪いけど、あれはあの二人と交わした約束だったから」
 泣き笑いのような表情で先生が言う。
「だけど、やっとそうかもしれないと思える人が見付かった。だから、良い機会かもしれない」
「……」
 先生の声を聞きながら、レアリィはまた何も考えていなかった事を痛感する。今まで話をしてくれなかったのは、相応の理由があったからだったのだ。
 普段とは違い、目の前の状況だけに振り回されているのが解る。焦りともいえる感覚に、レアリィは視界が歪むのを感じた。
「ほら、そんな顔しないの。責めてる訳じゃないんだから」
 ゆっくりと頭を撫でられる。
 優しい手の感触を感じながら、自分はまるで後先を考えない子供のようだとレアリィは思う。しかし、今の自分ではそれをどうする事も出来ない。それはレアリィ自身が、自分で自覚している以上に焦っている事の現れなのかもしれなかった。
「でも、これは夢でしかないから、見える景色は断片的なものになるわ。それでも良い?」
「はい」
 確認する先生に小さく頷く。同時に先生の手が頭から離れ……そして、杖が眼前に据えられた。
「少し顎を上げてくれる? ……それじゃあ、いくわね」
 言われた通りに顎を上げ、レアリィは目を閉じた。
 閉じた世界に広がる闇の中、静かに先生の声が耳に響いていく。
 無意識に緊張しているのか、握った手が少し汗ばんでしまっているのを感じる。だが、レアリィは彼の手を離す事が出来なかった。
 そして、
「……おやすみなさい」
 その一言と共に、唇に冷たい感触。同時に、レアリィの意識は眠りへと落ちていく――




『ほら、早く起きろ。早くしないと仕事に遅れるぞ?』
 急かすようで、でも優しく響く声と、肩を揺すられる感覚で彼女は目を覚ました。ゆっくりと目を開けると、そこには自分の顔を覗き込んでくる彼の姿。上手く焦点の合わない中、ぼんやりと返事を返す。
「ん、おはよう……」
『ああ、おはようだ。ほら、早く顔を洗ってこい』
「はぁーい」
 微笑みながら言う彼に返事を返し、体を起こす。まだ眠気が強く残る目を擦り、小さく欠伸をしながら彼女は洗面所へと向かった。
 井戸から汲まれた、冷たく冷えた水で顔を洗う。その刺激に眠気が引くのを感じながら、彼女はタオルを手に取った。顔を拭き、視線を上げ――目の前には美しい女性が立っていた。
 見た事がある気がするのに、その名前を思い出せない。それでも、その外見は忘れられぬほどに美しい人だった。
 誰だったろうか。そう首を捻る。しばらくして、女性が有名な魔法使いだと気付いた。
 でも、まさか自分の所には買い物に来ないだろう。そう思いながら、記憶違いではないかと女性の事をじっと見つめてしまう。と、
『ん、何か?』
 その視線に気付いたのか、女性が不思議そうな顔をこちらに向けた。
「あ、えっと、何でもないです。だた、綺麗だなぁ、って」
『あら、ありがとう。でも、褒めて貰っても必要以上には買ってあげられないのよね。部屋を片付けるのが苦手だから、あまり物を買わないようにしているのよ』
「そうなんですか。なんだか、何でもこなせそうに見えますけど」
『実はそうなの。まぁ、一つの事に特化して頭を使ってきたから、他が疎かになっているのかもしれないわ』 
 一体どんな事を? そう問い掛けようとした彼女の肩を誰かが叩いた。何事かと思い振り返ると、そこには見知らぬ男が立っていた。その背後には豪華な装飾の部屋が見え――彼女は豪奢なドレスを身に纏わされていた。
『やっぱりキミは可愛いね』
 ステキナエガオを張り付かせた男が彼女を押し倒す。城に連れて来られた日から続く陵辱。叫んでも喚いても助けは来ない。それどころか、声を聞いてやって来た男達にも犯される日々。
 それは、声を上げる事を諦め、助けを求める事を諦め、他の情報全てを意識の外へと排除する日々。
 ただ、愛する恋人の事だけを考える日々。
 その記憶が一気に頭に流れ出し――そして部屋の扉が開かれた。血に濡れ、肩で息をする彼を力いっぱい抱き締める。その血が他人の物から彼自身の物に変わっても、彼女は彼を抱き締め続けた。
 そして、
『この恋が叶わぬならば、俺達の世界が滅ぼうと構わない』
「だから、また出逢えるならば、私達は死ぬ事なんて怖くない」
 不安はあった。でも、また再び彼と逢えるなら、一緒に過ごす幸せが約束されるのなら、どれだけ時間が掛かろうと頑張って耐えられる自信があった。
 そして、彼女は目を開こうとし――不意にその声を聞いた。
「何も心配する事は無いんだ。全ては予定通りに進んでいるんだから。誰でもないキミ達のね」
 それは、知らない筈なのに聞いた事がある男の声。こちらを労るようなその声は、何故かはっきりと耳に届き、
「それじゃ、また逢える日まで」
 高く、指を鳴らしたかのような音が響いて――




 ゆっくりと目を開くと、レアリィは彼の隣で横になっていた。未だ眠る彼を起こさぬように体を起こすと、その動きに気付いたのか、先生が隣の部屋からこちらへとやって来た。
「どうだった?」
「えっと……」
 心配げな色を持った先生に問われ、レアリィは記憶の引き出しをひっくり返す。だが、どれも断片的でしかなかった。
 それはまさに夢の記憶のように、掴もうとしても掴めない。それどころか、無理に思い出そうとすれば水を掴むかのように流れ出てしまう。その事を説明すると、
「レアリィが今見たものは、私の記憶に基づいた夢でしかないから仕方ないわ。因みにね、一応やってみた退行睡眠の結果は白だったわ」
「そうでしたか……」
「まぁ、もしレアリィが私の探している記憶を持っていたら、これほどの奇跡は無いのだけれどね」苦笑しながら言い、「それじゃあ、彼を起こしましょうか」
「はい……って、まだ目を覚ましていないんですか?」
「覚ましていないっていうか、起こしていないだけね。魔法に慣れてない彼が自分から目を覚ますにはもう少し時間が掛かるかもしれないわ」
「じゃあ、大丈夫なんですね?」
 何か問題があって、彼が眠り続けている訳では無いんですね? そう問い掛けるレアリィに、先生は頷きを返し、
「心配しなくても大丈夫。少し肩を揺すってあげれば、すぐに目覚めるわ」
 言って、そのままレアリィ達が居るベッドへと来ると思いきや、その姿はキッチンへと向かう。
「私は何か飲み物でも用意するから、その間に彼を起こしてあげて」
 いや、ここは彼の家なんですが。そう突っ込みそうになるも、先生はキッチンへと姿を消してしまっていた。いつも通りになってきたその姿に苦笑しながら、レアリィは隣で眠る彼へと視線を移す。
 寝顔を眺めるのも良いなぁ……などと思いつつ、本当にしばし眺める。
 数分後、まだかしら? という先生の声が聞こえてきて、レアリィは慌てて彼を起こしに掛かった。
 肩に手を置き、優しく揺らす。
「ん……」
「おはよう。一応、終わったから」
「そ、か……」言いつつ、彼が上半身を起こし、「おはよう、レアリィ。因みに俺はどのぐらい寝てたんだ?」
「えっと……」
 自分も眠りに就いていた事もあり、詳しい時間が解らないのを思い出す。とはいえ、窓の外はまだ明るいから、そこまで時間は経っていない筈だ……と、助け舟は隣の部屋から来た。
「丁度三時間ぐらいね。その間に机を借りたわ。あと、キッチンにあった珈琲も」
 その声に彼が視線を向け、そして答える。
「あ、はい……。で、結果はどうだったんっスか?」
「残念ながら、貴方は私が探している人物じゃなかったわ。でも、まだ貴方の友人というファクターがあるから、完全に白になったとは言い切れないの。つまり、貴方の記憶に何らかの細工が施されている可能性は捨て切れていないのよ」
「……」
 その言葉に彼が辛そうな表情を作る。友人だと思っていた人物を疑われ、そして自分の記憶を弄ったかもしれないと思われているのだから。
「だから、その事がちゃんと判明するまで、私達はこの世界に残ろうと思うわ」
「……それって、一ヵ月後に帰るって言うのが無しになったっていう事ですか?」
「そういう事。無理に記憶を詮索して、あるかもしれない過去の記憶を変化させてしまったら意味が無いし……ゆっくりいくつもりよ」
 先生の声に安心したのか、彼が息を吐く。そして、 
「手、握っててくれたんだな」
 こちらを見た彼に言われて視線を落せば、互いの手はしっかりと握られたままだった。魔法によってレアリィも眠りに就いていたというのに、それでもレアリィは手を離していなかったのだ。
「離したくなかったから」
 照れながら言い、レアリィは少しだけ強く彼の手を握り返した。





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