そんなデート。

――――――――――――――――――――――――――――


 これといって何の問題も起こらず、休日はあっという間に過ぎていった。
 今日解った事は、レアリィは予想以上に日本という国の知識を持っているという事だ。作法や常識を心得ているし、日本語の読み書きも上手。下手をしたら、純粋な日本人である俺よりもこの国の事を知っているのかもしれなかった。
 とはいえ、祭りや花火大会といった大きな行事には参加した事が無いというので、俺はこの街で行われる催しの事を幾つか教え、そこに縁のある場所へと行ってみたりもした。いつかやってくるその日に、一緒に楽しめる事を願いながら。
 そうやって一日を費やし、最後にどこかで甘いものでも、と決めて歩き出した矢先、
「ん、あれは……」
 前方から友人がやってくるのが見えた。タイミング的には最悪だ。見付かるのは嫌だし、俺は思わず方向転換をしようとし、
「あれ、何やってんの?」
 次の瞬間には向こうに捕捉されてしまっていた。全く上手くいかない。こうなったら、逆に相手が驚くような事を言って、さっさとこの場から消えてもらおう。
「何って、デートだよ」
「ま、マジか?!」
 確認するように、友人が俺ではなくレアリィへと視線を向ける。
「マジなの?」
「えっと、あの……」
 対するレアリィは、気恥ずかしげに俯きつつも、しかし否定の言葉は出さないでくれた。
「否定はしないのか……」
 予想以上にうろたえ驚く友人に笑いながら、俺は真実を話す。
「冗談だよ。今日はちょっと遊んでるだけ」
「そ、そうなんですよ」
 本当はデートと言い張りたかったけれど、それは流石にレアリィに悪い。しかし、焦って言葉を返すレアリィの反応に少し悲しくなったりもした。
 墓穴を掘ったかも……そう思い出した俺と同じように肩を落とすと、友人が口を開く。
「んじゃ、レアリィは彼氏とか居るの?」
 その一言に弾かれたように俺が視線を上げると、ニヤリと笑う友人の姿が見えた。
「え、と……」
 困ったように俯いてしまうレアリィを可愛いと思いながらも、その質問の答えにはかなり興味があった。
 というより、すぐに居ないと答えないという事は、付き合っている人、或いは好きな人が居るという事なのだろうか?
「ああいや、別に言わなくても良いんだ。無理矢理聞き出そうとは思わないからさ」
 と、レアリィをフォローするように友人が言う。しかしながら友よ。俺は少し無理をしてでも聞きたかった……。
 そんな俺の思いを余所に――いや、解ってやっているのかもしれないが、友人が話題を変えた。
「あー、そうだそうだ。そんなお二人さんに話があるんだった」
「なんだよ」
「ちょっと重要な話」
 そう言って、友人が微笑みを浮かべた。

 ――その瞬間、世界が反転したかのような、奇妙な感覚に囚われる。

 何故なら、微笑んだ友人の顔が……ただ微笑んでいるだけなのに、いつも見慣れている友人の顔とは全く違って見えたからだ。
 それはまるで、顔のパーツを全て左右反転させたかのよう。一瞬前までと同じパーツで構成された顔なのに、何か違う、そして異質なものに見えた。
 そんな、違和感しか感じない微笑みを顔に浮かべたまま、友人が口を開く。
「説明の前に、基本的な事を先に説明しておこう。まず始めに、生きているものの記憶というのは、肉体でも命でもなく、魂が持っているんだ。その魂は死した後、三つのケースに振り分けられる。一つ目は、人間して生まれ変わるケース。次に、人間以外に生まれ変わるケース。そして最後は、魂という存在が消滅してしまうケース。まぁ、消滅なんて滅多に無いけどね。ともかく、どんな形であれ、生まれ変わる事になった魂は全ての情報をリセットされるんだ」
 コイツはいきなり何を言い出すのだろう。多分ゲームの話なんだろうが、突然過ぎる。そして、何故いつもと口調が違うのか。疑問符を頭に浮かべながらも、俺は友人の話を聞いていく。
「でもね、この輪廻転生のシステムには、ある例外が存在する。それが、魂に記憶があるまま生まれ変わるケース。それが先天的な場合、成長を重ねるにつれてその記憶も失われてしまう。赤ん坊の時の記憶を、成人になってまで覚え続けていられないようにね。でもこれが人為的な場合、ちょっと事情が変わってくるんだ」
「ちょっと待て。お前は一体何の話を……」
「おっと、話の途中で質問をするものじゃないよ?」
 笑みを持った言葉。けれどそれは何か奇妙な力を持っていて、俺は言い掛けた言葉を引っ込めていた。
「質問ならあとでちゃんと聞くから、まずはボクの話を聞いてくれるかな。……えっと、それで、人為的な場合の話。この場合、成長したあとでも記憶が残る場合が多いんだ。まぁ、全ての記憶が完全に残る訳ではないけどね」
 言って、友人は笑みを深め、
「前置きが長くなったけど、ここからが本題。人為的に魂に記憶を残していても、そのあと何度も転生を繰り返していくと、その記憶も薄れていってしまうんだ。でも、それを改善する方法がある」
 そこで一旦言葉を止めると、友人は俺とレアリィの双方をじっと見つめる。そして、何かを確信したかように微笑みを濃くすると、
「その方法とは、魂に切っ掛けを与える、というもの。魂の奥底にある記憶を引っ張り出せるくらいの、衝撃的な切っ掛けをね。だから、今からキミ達にその切っ掛けを与えようと思うんだ。というか、ボクがここに来たのはその為なんだよ」
 長々と喋り終わると、どうぞ、と言わんばかりの視線を向けてきた。
 どうやら質問タイムに入ったらしい。俺は友人の事を、初めて『理解出来ない』と思いながらも、
「なぁ、それは一体何の話なんだ? ゲームか何かか? 突然そんな事を言い出されても、何がなにやらさっぱり解らないんだが……」
「あの、私にも何の事だか……」
 レアリィと二人、当然の疑問を口にする。魂とか記憶とか、突然言われたって理解出来るものじゃない。というか、俺はまだそういったオカルトに興味があるから良いものの、女の子であるレアリィはそうじゃないだろう。正直、無知な状態でこんな話を聞かされたらドン引きだ。
 って、まさか、
「新手の宗教の勧誘か何かか? だとしたら、俺はお断りだ。……考えたくないが、お前との関係も見直させてもらう」
 と、そう告げた俺に否定するように、友人は困った風に微笑んで、
「違う違う。宗教の勧誘とか、ゲームのお話じゃ無いよ」 
「だったら、本当に何を言ってんだ? こんな事をお前に言うのもアレだが……大丈夫か?」
 もしかしたら、これは何かの病気なのかもしれない。そう思う俺に、しかし友人は微笑んだまま、
「心配しなくても、ボクはいつでもどこでも元気だよ。でもまぁ、キミ達が信じられないのも解る。だから、百聞は一見に如かずっていうし、実際に体験してみればすぐ理解出来ると思うよ」
 そう言うと、友人は軽く右腕を上げた。自然と、そこに視線が向かってしまう。
「それじゃ、いくよ?」
 その言葉が耳に届いた瞬間、高く、指を鳴らす音が響いて――



 目の前には、愛しい人の顔。
 繋がれた手の暖かさと、想いの熱さを感じながら、様々な記憶が蘇えっていく。
 楽しい事、嬉しい事、悲しい事、辛い事。
 時には喧嘩もしたけれど、それ以上に毎日が幸せだった。
 そんな、遠い日の記憶。
 自分ではない自分の、幸せな記憶。
 けれど、そこには深い深い絶望があって、それでも失われなかったものがあった。
 だから俺は告げたのだ。
「この恋が叶わぬならば、俺達の世界が滅ぼうと構わない」
 それは約束。
 それは呪い。
 
 いつかまた出逢う為の、遠い日の記憶。



 無意識に止まっていた息を吸うのと同時、俺は自分の見たそれが、己の過去である事を確信した。
「今の――お、俺は……?!」
「私……私は!」
 同時に、レアリィが叫ぶ。けれど対する友人は、笑みを崩さぬまま、俺達に非情な言葉を放つ。
「はいそこまでー。さっき言った通り、今日のボクはキミ達に切っ掛けを与えに来ただけなんだ。だからここで、『ボクと逢った』っていう一連の記憶は消させてもらうよ。でも大丈夫。一度切っ掛けを与えられた記憶は、もうそう簡単には消えないから」
「待て! この記憶は、アイツは……!!」
「それじゃ、また逢える日まで」
 微笑み、友人が再び指を鳴らし――

 ――俺達は、歩道の真ん中に立ち尽くしていた。
「ん?」
「あれ?」
 何故こんな所で立ち止まったのだろうか。その疑問はレアリィも同じだったらしく、俺と同じように首を傾げていた。
 何か、忘れようにも忘れられないような出来事があった気がするのだけれど……同時に頭が『気のせいだ』とも告げてきていた。一日歩き回ったから疲れが出たのだろうか。そう思いながら頭を掻いて――視線の先に、喫茶店があるのが目に入った。
「……えっと、そう。最後にあの喫茶店で甘いものでも食べよう」
「そ、そうですね」
 そうして、俺達は首を傾げながらもゆっくりと歩き出した。
 今から五分前後の記憶が消えている事に、気が付かないまま。



 そうして、一瞬感じた違和感以外には何事も無く休日は進んだ。
 日は落ち、夜の冷たい空気に包まれながら、俺達は自室があるマンションへと戻って来ていた。
 玄関ホールを抜け、エレベーターの前に来た所で、
「今日はありがとうございました。一日楽しかったです」
 柔らかく微笑んでレアリィが言う。その言葉に気恥ずかしさを覚えながら、
「なら良かった。思ったより回るところが無かったから、退屈させちゃ悪いと思って結構焦ってたんだ」
「退屈だなんて、そんな事なかったです。私にとっては初めて訪れる場所ばかりでしたから」
 そう笑って答えるレアリィの表情は、学校に居る時には殆ど見られない自然なものだった。その笑顔を向けてもらえた事を嬉しく思っていると、ほどなくしてエレベーターがやって来た。
「あ……」
 開かれたドアに、レアリィが残念そうな声をあげた。その瞬間、俺は彼女の手を、自分でも考えられないほど自然に握っていた。
 そして、昨日最後に考えた計画を実行させるべく口を開く。
「あのさ、最後に見せたいものがあるんだ」
 握った手を引きながらエレベーターへと入り、最上階と『閉』のボタンを押した。
 ゆっくりとドアが閉まり、閉じられた個室に二人きりになる。
 残念そうなレアリィの声を聞いた瞬間、自然と手が伸びていた。まるでそうする事が当たり前であるかのように。そんな自分の思考と行動に戸惑いながら、俺は横目でレアリィの顔色を窺う。しかし、俯いた顔からはその表情は窺えなかった。
 不味い事をしてしまっただろうか。ならば嫌われる前に――と、手を離そうとすると、
「嫌じゃ、無いですから……」
 そんな消え入りそうな声が聞こえたと思ったら、レアリィの方から握り返してくれて、俺の頭はすぐに思考停止に陥った。
 そして、静かな沈黙が広がり……あっという間にエレベーターは最上階へと昇りきった。
 治まらぬ熱を感じながら、俺達は屋上へと歩を進める。重く閉ざされたドアを開けると、そこには昨日とはまた違う景色が広がっていた。
 そう、雲が無いのだ。大きく広がった夜空には、少ないながらもしっかりと輝く星達が瞬いていた。
 かなり寒いが条件は最高。そう思う俺の隣で、「わぁ……」とレアリィが感嘆の声を上げた。
 澄んだ冬の空気のお陰か、夜空と同じように周囲の夜景も綺麗に見える。それはもう予想以上に素晴らしくて、自分で自分を褒めてやりたくなった。
「本当に……本当に今日は楽しかったです。最後にこんな綺麗な景色も見られましたし」
「俺も、レアリィと一緒にこの景色を見られて良かった」
 心からそう思えた。
 そして、また静かな沈黙が訪れる。二人とも無言のまま、自然と人工物が作り出した芸術を眺め……
「くしゅんっ」
 小さく、レアリィがくしゃみをした。それが恥ずかしかったのか、顔を赤くする彼女を可愛く思う。
「大丈夫? ちょっと冷えてきたし、そろそろ戻ろうか」
「はい……」
 赤面したまま頷いたレアリィの手を引き、出口へと歩き出す。そして頑丈なドアに手を掛け……視線を隣に。
 可憐な少女が、気恥ずかしげに微笑んでいた。
 その事に何か不思議な安堵を感じて、俺も微笑む。夜の風は冷たかったけれど、繋いだ手と心は温かかった。
 そして今度は、屋上へ来た時と逆の順序で部屋へと戻っていく。階段を下り、エレベーターへ。すぐにやってきた箱の中へと乗り込むと、俺はボタンを押した。
 俺の部屋の方がレアリィの部屋より階数が上だ。でも、レアリィを送り届ける為に、俺は自分の部屋のある階では降りなかった。
 そんな機械の箱で出来た未室の中、俺達はさっきまでの興奮の名残を楽しむかのように終始無言だった。会話をしなくても通じ合える無言。そんな不思議な静寂は、悪いものじゃない。
 けれど、そんな気分もお構い無しに、エレベーターは目的の階へと停止した。
 ドアが開く。
 レアリィが一歩前に出る。
 繋いだ手は、離される気配がなかった。
 そしてお互いに無言のまま、エレベーターホールへと出た。けれど、肝心のレアリィの表情を窺う事は出来ない。その手が俺を引くように進んで行ったからだ。
 何も言えないまま、俺は彼女の後ろを付いていく。
 と、手前から三つ目の扉の前でレアリィが足を止めた。その横に並ぶようにして、俺も立ち止まる。
 横目でレアリィの表情を覗き見ると、恥ずかしいのか顔を真っ赤に染めていた。とはいえ、対する俺も同じくらい赤いに違いない。そう思えるほどに顔が熱かった。
 ……でも、このまま最後まで行っちゃって良いのだろうか。っていうかまだ告白もしてないけど――って、待て待て俺。流石にそれは先走り過ぎた。けど、いつの間にこんなに仲が進展したんだっけ。そりゃあ進展して欲しかったけど、なんだか展開がいきなり過ぎる気が……
 と、混乱を起こしだした俺の思考を止めたのは、小さく聞こえて来たレアリィの声だった。
「……あの、今日一日のお礼に晩ご飯をご馳走しようかなって思ったんですけど、なんか凄く緊張しちゃって上手く言えなくて、どうしようかって悩んでたらもう部屋の前で……えと、このあとにご予定が無ければ、なんですけど」
 始めは小さかった声も、最後の方では大きくなっていた。
 真っ赤な顔を更に染めて言う彼女に、言われた俺も更に赤くなってしまう。
「だ、大丈夫、俺は予定無いから」
「ほ、本当ですか? じゃ、あの、寒いですけど少しだけ待っててください。急いで部屋の片付けをしてきますから」
 そう言うと、レアリィは鞄の中から鍵を取り出だし、ドアノブへ。ロックが外れる音を聞き、ドアを開いた。
 扉が開き、部屋の様子が視界に入って――その、廊下の奥。
 六畳間に置かれているコタツに入っている人物が居た。ドアが開ききると同時、その人物が視線を上げ、
『――!』
 瞬間、全員が冷水を浴びせられたかのように固まった。
 一瞬前まであった高揚感は、遥か彼方に吹き飛んでいた。

■  

 一番最初に動いたのはレアリィだった。
 開いたドアを勢い良く閉める。そして、中の状況を隠すかのようにドアに背を当て、俺に向き合った。
「……ごめんなさい。今日はその、晩ご飯をご一緒出来そうにありません」
 先程まで赤く染まっていた顔を、一転して蒼白にさせながら言う。
 俺は、閉められたドアの向こうを未だ見つめながら、レアリィに疑問をぶつけた。
「……今、のは……誰?」
「ごめんなさい。今度、ちゃんと説明します」
「……今じゃ、ダメなのか」
「……ごめんなさい。ちゃんと説明出来る自信、無いので……」
「そう、か……」
 先程の人物が誰だかは解らなかった。
 だが、知っている。
 知っているのに、頭の中で繋がらない。
 あの女性の顔も声も容姿も全て思い出せるのに、誰だったのかが解らない。どこかで、記憶が欠如しているのが解る。
 その事がレアリィには解っているのだろうか。
 俺が知らない何かを、この少女は知っているというのだろうか。
「本当に、ちゃんと説明してくれよ?」
 だから俺は、完全に冷え切った頭でレアリィに聞く。
「はい……」
 答えるレアリィは、今にも泣き出しそうだった。でも、決して彼女を責めるつもりはないから、俺はその頭を優しく撫でる。
「信じるから。誰でもない、レアリィの事を」
「はい……」
 髪から手を離すと、そこで一呼吸。別れの挨拶すらしないまま、俺はその場から駆け出した。
 エレベーターなど待ってられない。冬の冷たい風を切り裂きながら、思いっきり走っていく。
 後ろからレアリィの声が聞こえた気がしたけれど、確認する事はしなかった。
 何がどうなっているのか解らない空っぽの頭で、俺は走り続ける。


□  

 まさかこんな事態になるなんて。
 昨日、レアリィは出かける旨を先生に伝えていた。だから、先生は部屋には来ていないと思い込んでいたのだ。確認をしなかったのも悪いのだろうが、居るなら居るで連絡をして欲しかった。
 それに、中途半端に記憶が残っていた彼が先生を見た事で、魔法によって消されていた記憶を全て思い出す可能性があった。
 そうなったら、嘘を吐いた自分は嫌われてしまうかもしれない。そんな最悪な予想が、楽しかった今日一日の思い出すらも辛いものに変えていく。
 最悪だと、レアリィは思う。あの日廊下で正面衝突をした時から、常に気になっていた相手だったのだ。少しずつ仲良くなって、今日はその関係を一気に進める事が出来た。だからああして、なけなしの勇気を振り絞る事だって出来て――それなのに。
 もう、別れが近付いて来ている。チャンスは、今日ぐらいしかなかったかもしれないのだ。
「こんな、事……」
 一人、レアリィは絶望の闇に囚われる。
 いつの間にか、涙が溢れてきていた。

□  

 帰って来たレアリィを出迎えようと、開錠の音と共に腰を上げていた女性は、そのままの姿勢で固まっていた。
 狙った訳では無かった。ちょっと忘れ物を取りにやって来て、ついでに少し炬燵に入っていただけだったのだ(レアリィ達の尾行は、お昼前にはすでに止めていた。久しぶりに見た彼に、変わったところは見られなかったからだ)。もう帰るところだったし、まさか鉢合わせするとは思ってもいなかった。
 いや、そんな言い訳すら出来ない。これは完璧な失敗だった。
 出来れば、不安定に記憶が残っている状態の彼とは逢いたくなかった。ちゃんと説明をして、意識の土台を固めてから逢おうと計画していたからだ。捜し求める人であるかどうか、それを見極める為に。
 しかし、今の事で記憶に混乱が起こり、覚えているかもしれない過去の記憶に変化が起こってしまう可能性が生じてしまった。
 過去の記憶は今の自分の記憶ではない。例えるならそれは睡眠時に見る夢のようなもの。完璧に覚えていようとしても細部までは思い出せないし、ふとした切っ掛けで消えてしまう事もあるのだ。
 そんな脆い記憶を壊してしまう切っ掛けを、あろう事か自分から与えてしまった。
 最悪な状況だ。いくら悔やんでも悔やみきれない――と、そんな風に自己嫌悪していると、俯いたレアリィが部屋へと戻ってきた。その表情は髪に隠れて窺う事が出来ない。けれど女性は慌ててコタツから出ると、
「ご、ごめんね、レアリィ」
 何も言わず立ち尽くす少女に、女性は頭を下げた。
 元の世界へと帰る日取りが近付いて来ている今、彼と楽しんできたであろうレアリィには、今日という一日は貴重なものになる筈だった。確実に別れが訪れるとしても、その思い出までは消える事はないからだ。
 だからこそ、女性は謝るしかない。帰ってこない大切な一日を、一瞬にして壊してしまったのだから。
「ごめんなさい……」
「……謝らないでください。もう、終わった事ですから」
 小さく響いた少女の声は、酷く冷たい。それは、女性が始めて聞く心からの怒りの声色。
 明確な、拒絶。
「今日はもう、帰ってもらえますか。私、色々と疲れたので」
 氷のように冷たい怒気に包まれた声が、女性を貫いていく。
 それでも、
「ごめ……」
「早く出て行って!!」
「ッ!」
 もう、何も言う事が出来なかった。
 ごめんなさいと呟きながら、荷物を手に取り部屋から逃げ出す。背後から聞こえてくる嗚咽に、女性はどんな言葉も掛ける権利を持っていなかった。
 その嗚咽を遮るように、部屋のドアを閉める。目の前に広がるのは、冷たい空気と綺麗な夜景。
 部屋の鍵を閉めると、女性はドアの前で顔を覆った。深い深い後悔と共に。
 
 
□  

 全力で走り、部屋へと辿り着く。
 荒れた息を整える間も無く鍵を開け、冬の大気に満たされた部屋に戻ると、俺は上着も脱がずにベッドへと横になった。
 頭の中はぐちゃぐちゃで、上手く考えが纏まらない。それでも、俺は今日一日を思い返し始めた。
 レアリィと共に街の各所を回った事。一瞬の空白と、そこから急速に近付いたように感じた二人の距離。そして二人で一緒に見る事が出来た、最高の夜景。
 告白は出来なかったけれど、最高の雰囲気で。
「でも」
 最後の最後に見たあの女性。一体、あの人は誰だったのか。
 記憶にはある。ならば、いつどこでどうやって知り合った人だったのか。どれだけ記憶を引っ掻き回してみても、その答えが出てこない。居なくなってしまった先生と良い、最近は何で――
「せんせ、い……?」
 一瞬、何かと何かが繋がった気がする。
 気がするのだが、何がどう関係あるのかが解らない。
 仰向けになりながら、俺は思考を巡らせる。ここ最近に起こった様々な事。その答えに少しでも近付く為に。




 もし彼を夕食に招待出来ていたなら、今頃は何をしていただろうか。
 枕元にある時計を眺めながら、レアリィはそんな事を思う。
 思い切り泣いたせいか、今はもう何も無い。カラッポの感情を抱いたまま、ベッドに横になっていた。
 もう何も考えたくない。
 それなのに、ぐるぐると思考は流れていく。何故こうなったのかを考える為に。
「……」
 そもそも、彼の事をすぐに先生へと報告しなかったのが、レアリィにとって一番の失敗だったのかもしれない。先生がこの世界に来ている目的は、所在の解らない二人を探す事なのだから。
 いや、だからなのだろうか。惹かれつつある彼の事だから、レアリィは先生への報告を無意識の内に避けていたのかもしれない。
 もし彼が探している人の片割れならば、彼と愛を誓った相手がどこかに存在しているという事になるのだ。
「……そんなの、ずるい」
 自分はまだ、彼の事を何も知らない。それなのにそんな相手が居るなんて、初めから勝負になっていないのと同じじゃないか。
 それでもどうにか頑張ろうにも、始めてのデートがこんな終わり方になってしまった。楽しかった一日が台無しになってしまった。
「こんなのって無いよ……」
 誰も居ない部屋に向かって、レアリィは深い悲しみと共に呟いた。
 そして頭に浮かび出すのは、今日一日の思い出。でも、先生が探している人は、何の苦労も無くすぐに彼と仲良くなっていくのだろう。何故なら、二人が掛けられたのは幸福になる為の魔法。例え記憶が無くても、出逢ってしまえばすぐに関係が進んでいくと、そう先生が言っていたのだ。
 何だか、凄く不条理な話だ。
 使い切った筈の悲しみと、そしてその不条理に対する怒りが顔を出す。
 レアリィ自身、まだはっきりと彼の事が好きだとは言い切れない。だが、確実に好きになり始めていた。だからこそ、先生の姿を見てしまった彼には事の顛末を説明しなければならないと思えた。
 もうこれ以上、彼に対して嘘を吐きたくないから。
 しかし、どれだけ説明しても、魔法という技術が存在しないこの世界では受け入れてもらえない可能性もあった。
 その最悪の未来予想から逃げるようにうつ伏せに寝転がる。けれど心に黒く広がった霧はそう簡単に晴れそうにも無い。

 思考は止まらず、夜は時を刻み続ける。 





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