そんな願い。

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 携帯電話のアラームが鳴り響く。
 このアラームが鳴る時は、もう朝飯を食っている暇が無いぐらいに時間が無いんだよな……。寝ぼけた頭の中、そんな事を思う。昨日はそう、布団ではなくコタツで寝てしまったのだ。不安定な姿勢だったせいか体が痛い。その上、上半身は外に出ていたせいか冷え切っていた。
 よし、布団に入りなおして二度寝を――
「って、時間!?」
 潜るようにして布団に入りかけた体を咄嗟に起こす。慌てて時計を見れば、非情にも遅刻ギリギリの時間を示していた。
 急いで布団から飛び起きると、乱暴に着替えながら、冷蔵庫に入れてあったご飯を温め、加熱が終わると同時にそれをラップに包み、塩と同時に一気に握る握る握る。
 大き目なおにぎりを二つほど作ってアルミホイルで包むと、それを鞄に突っ込んだ。海苔を用意する暇すらない。そのまま鞄を玄関に置き、洗面所へ。
 顔を洗い、寝癖を気合で直し、乱雑ながらも髪をセット。
「うし、行くか」
 鏡の前で一つ頷いて、走る。鞄を持ち、玄関の鍵を閉め、エレベーターへ。しかし、その階数表示を見た瞬間、俺は声を上げていた。
「おいおい、よりにもよって最上階に居るのかよ!」
 待つ事を諦め、階段を駆け下りる。数段抜かしで突っ走っていくと、冬の冷たい空気が体に容赦なく突き刺さってきた。
 と、一瞬視線を外に移すと、普段はあまり見る機会の無い高い視線からの街並みが広がっていた。
 ……久々に屋上に出て、星を見るのもアリかもな。
 ふと、そんな事を思う。夏場などは何度か出た事があったけれど、冬に入ってからは一度も屋上に行っていなかった。どうしようか頭の中で予定を考えながらも、しかしスピードは緩めない。
 全力で階段を降りきり駐輪場へ。学校から近い為に普段は徒歩での通学をしているけれど、今日は状況が違う。鍵を外し、自転車に飛び乗る。
 地面を削るかのように、ペダルをこいでいく。
 そして――
「よし、みんな席に着けー。ほら、お前も早く」
 担任の教師と同時に、俺は教室へと辿り着いたのだった。
 上がったままの息を整えながら乱暴に席に着く。こんなギリギリになるのは久々だったせいか、思ったより体力を酷使していた。
 机に突っ伏しながら、朝のホームルームを過ごしていく。一気に動いて体が暖まった為か、冷たい机の感触が気持ち良い。
「それじゃ、今日もしっかりな」
 段々と温くなってきた机の温度を感じながら居ると、いつの間にかホームルームは終わっていた。
 全然聞いてなかったけど、まぁなんとかなるだろ。そう思っていると、
「よう、どうした? 今日はいつも以上にギリギリだったが」
 頭上からした声に視線を上げれば、友人の姿があった。
「あー、今日は思いっきり寝坊したんだよ……」
「珍しいねぇ。てか、昨日はさんきゅーな」
 ああ、と返事を返す。友人が言う通り、ここ最近は全くと言って良いほど遅刻はしてなかったのだ。
 と、その友人が疑問を口にする。
「そうだそうだ。昨日お前、駅前のコンビニに居たか?」
 駅前のコンビニと言えば、昨日夜食を買いに行った場所だ。突っ伏していた体を正すと、俺は答える。
「行ったけど、なんで知ってるんだ? って、あれはやっぱりお前だったのか」
「なんだ、気付いてたのか。知り合いと話してただけだから、声を掛けてくれりゃあ良かったのに」
「遠目だったからお前だとは解らなかったんだよ。まぁ、次があったら確認するわ。……それよりも今は、朝飯を食わんと」
 言いつつ、アルミホイルに包まれただけのおにぎりを鞄から無造作に取り出す。飲み物を用意するのを忘れていたけれど、買いに行くのは面倒だった。
 その上、アルミホイルを剥き始めたところで授業開始のチャイムが鳴り響き出し……しかし俺は気にしない。喉に詰まらせないようにと思いながら、少々塩気の薄いおにぎりを食べていく。
 と、そんな俺に友人は苦笑し、
「先生来るぜ?」
「解ってるけど、これ一個ぐらいは食わないと死ねるからな……」
 溜め息と共に言いながら、おにぎりの山を崩していく。
 とはいえ、友人の顔を見ながら食べるのも品がない。俺はおにぎり片手に、授業が始まる直前の空気を感じつつ教室を見回す事にした。
 一限目は英語。前回配布されたプリントを探す奴や、前回の内容を纏めたノートを見せ合う奴らが多い。それでも、我関せずと携帯電話を弄る奴に……と、居る筈の金髪姿が無い事に気づく。彼女に伴っていた人垣が無くなっているのが良い証拠だ。
 今日は休みなんだろうか。
「なぁ、今日はレアリィは……」
 自分より早くから教室に居たであろう友人に問いかけようとして正面を向くと、ジャストタイミングで教師が入ってきていた。
 全く、タイミングが悪い。
「あ、なんだ?」
「いや、後で良いわ。それより、はよ席戻れ」
「堂々とおにぎり喰ってる奴に言われたくないぜ」
 笑みで言いながら席へと戻る友人を見送りながら、残りのおにぎりを口に含む。もごもごと咀嚼しながら、俺は自分の授業道具を取り出し始めた。
 でも何か、嫌な予感がしていた。



 だが、俺の予感は杞憂だったらしい。レアリィは二限目の途中に遅れてやってきた。
「遅れてすみませんでした……」
 数学の教師にそう言って頭を下げると、クラスメイトの視線を浴びつつ席へと付いていた。
 何か用事があったか、或いは寝坊だろうか。俺よりも後ろの座席に座っている彼女の顔を確認する事は出来ないけれど、大方そんなところだろう。
 そんな事を思いながら、俺は安堵と共に、黒板の内容を書き写していった。

 そうして、噂の転校生が初めての遅刻をした以外、何事も無く一日が過ぎ、今日最後のホームルームが始まっていた。
 いつも通りに担任の声を聞き流し、帰る準備を進めていく。だが、その声の中に自分を指名するものが混じっていた。
「あとは……このクラスの美術委員は誰だ?」
「あ、俺っス」
 いきなりの指名を受け、軽く腕を上げる。
「私もです」
 後ろの方でレアリィが答える声が聞こえた。
「ちょっと用があるから、ホームルームが終わったら一緒に職員室まできてくれ」
「うぃっス」「解りました」
 二人同時に返事を返すと、周囲から好奇の視線を向けられた。けれど担任から俺達に対する説明は無いらしく、次の話題を話し出す。その事もあってか、周りの奴らが小さく野次を飛ばしてくる。何か問題でも起こしたかと、勝手に想像しているのだろう。
 それを鬱陶しく思いながら、ホームルームの時間は過ぎていった。
 そして帰りの挨拶を終えて、俺とレアリィは一緒に職員室へと向かう。部活があるらしい担任は、一度部室に行くと言って居なくなってしまっていた。
「有言実行しろよ……」
 だから生徒から嘗められるんだ。そんな事を思いながらレアリィと共に階段を上っていくと、すぐ隣から心配げな声が聞こえてきた。
「私達、職員室に呼ばれるような事をしたでしょうか……」
 少々俯いて言う彼女は、声と同じく心配げになっていた。それを励ますように笑みを浮かべ、俺は言葉を返す。
「してないしてない。どうせ美術室の片付け云々で連絡事項があるだけだと思う」
「そうだと良いんですけど……」
「大丈夫だって」
 目の前に職員室の扉を見ながら、笑顔で返す。事実、俺達は問題になるような事は何一つしていないのだ。気負ってしまうと逆に変に思われてしまうだろう。
 心配するような事は何も無いよ。そう言いながら、俺は職員室へと続く引き戸を開き、
「失礼しまーす」
「失礼、します……」
 決まり文句を言いながら職員室へ入ると、目の前には教室より少し広い程度のスペースが広がっていて、そこに所狭しと職員用の机が並べられていた。
 それはいつもと変わらない筈の風景。けれど、その中に意外な職種の人々が居た。
「……警察?」
 思わず声を上げる。
 俺の視線の先に居たのは、型に嵌まった制服を着込んだ数人の警察官だった。その声が聞こえたのか、警察官の一人がこちらに注目する。
 やばい、見られた。そう思いながら、俺は彼等から視線を逸らし――しかし、声が来た。
「君達が、一昨日の夜、火事の直前まで美術室に居たという生徒かな?」
 教師達の視線が集まる中、俺はただ、首を縦に振る事しか出来なかった。
 とはいえ、何が起こっているのか全く解らない。もしかして、事情聴取でも受ける事になるのか? いや、そんな馬鹿な事がある訳……と、凍りつきそうになる思考を何とか動かし、俺はこの状況の答えを考える。けれど、どう考えても、事情聴取以外の答えが見付からなかった。最悪だ。
 逃げ出したい気分になりながらも、俺は視線をレアリィへと向ける。すると、彼女は先程以上に心配そうな顔でこちらを見ていた。いきなりの事だ、不安になるのも解る。俺もこれからどうなるのか心配だし。
 その心情を隠すように、そして悟られないようにする為に彼女の前に出る。
 そしてレアリィを護るように立つと、こちらへと近づいてくる警察官達を睨みつけた。

■  

「それじゃ、一昨日の放課後、君が何をしていたのかを教えてくれるかい?」
 職員室に入ってから数分後。
 何がなにやら解らない俺達を待っていたのは、生徒指導室での事情聴取だった。
 なんでも、美術室で作業している間はまだしも、俺達二人には学校を出てから先のアリバイが無いのだという。まぁ、実際にアリバイが成立しない状況だったのは確かだ(因みに、学校で話を聞くのは現場検証のついでらしい)。
 学校を出てから二人きりで、尚且つどこにも寄らずにマンションへと帰った。だから、俺達は第三者の目に触れていないのだ。こんな事になるんなら、変な悪戯心を起こさずに一緒にどこかへ遊びに行けば良かった。
 だが、そう考えてもあとの祭り。最悪な気分に陥りながらも、俺は言葉を返していく。
「ホームルームの時に、放課後に美術室で作業があるって聞いて、それで夜までずっと作業してました。てか、俺達はやってません」
「別に私達は君達を疑っている訳じゃない。でも、一応話を聞かないといけないんだよ」
 そう言いながらも、その警察官はメモを取っていく。
 今頃、隣の部屋でもレアリィが同じような質問を受けているのだろう。と、彼女へと想いを向けようとするのも束の間、警察官の声が耳を打つ。
「それで、作業が終わったあと、君達はどうしたのかな?」
 内心舌打ちをしながらも、あの日の記憶を掘り起こしていく。
「普通に部屋……というか、マンションに帰りました」
「それは二人で?」
「二人でです」
「それじゃ次に……」
 終わりの見えない警察官の問いに答えていく度に、楽しかった記憶が段々と苦痛なものへと塗り変わっていく。その事に苛立ちを感じながらも、俺はある事を思い出した。
 あの日、俺はレアリィに何をしたのか。そして、どこでそれを行ったのかを。
 だから俺は警察官の話を遮るように、身を乗り出しながら言う。
「そうだ、マンションですよ。俺達の住んでるマンションは、出入りする時に監視カメラの前を通らなくちゃなんです。時間的に、俺達が帰ったあとに火事が起きたんスから、それを調べて貰えれば俺達の潔白は証明される筈です」
「マンションの監視カメラか……有難う、調べてみよう。それじゃ、もう一度初めら説明してくれるかな?」
 そうして、その後も同じ問答が何回か続き……やっと解放された時には、もう外は暗くなっていた。
 生徒指導室から出て行く警察官を恨めしく見ながら、レアリィを待つ。数分後、部屋から出てきたレアリィは暗い顔をしていた。
「大丈夫?」
 声を掛けると、彼女は小さく頷き、
「はい、大丈夫です……。でも、何だかずっと質問攻めで、ちょっと疲れてしまって……」
「同じ事を繰り返し聞いてくるしな……。でも、もう大丈夫だと思う」
「そうなんですか?」
「ああ。あの日は一緒にマンションまで帰っただろ? そん時に俺がレアリィに悪戯をして……」
 子供みたいな悪戯。でも、
「でもさ、あの玄関と、暗証番号の認証機械、それと自動ドアの前後には監視カメラが付いてるんだよ。出るにも入るにも、絶対にカメラに映るって訳」
 防犯上の理由から、あのマンションには至る所に監視カメラが設置されている。そしてその映像はフルタイムで録画され、保管されているらしい。
「だからあの日、火事が起こるまでに外出してなかったら俺達は無罪って事にな――って、レアリィは外出してた?」
「だ、大丈夫です、外には出てません。あの火事が起きた時も、部屋の窓から見ていましたから」
「なら大丈夫だ。俺達が白だって事はすぐに証明されるさ」
「良かった……」
 レアリィがほっと胸を撫で下ろす。そこにあった不安は払拭されたようで……その姿を見てようやく、俺も安堵する事が出来たのだった。
 その後、もう一度職員室へと戻り、戻って来ていた担任にも事情を説明。いらない慰めを貰ったあと、俺達はやっと帰宅する事が許された。
「でも、まさか事情聴取を経験するなんてな……」
「普通だったら考えられないですよね……」
 重い足取りで教室へと戻りながら、お互い溜め息を漏らす。自分達が犯人では無いと解っていても、やはり気持ちの良い物では無かった。
 教室へと戻っても、特に会話をする事無く荷物を纏めていく。場の空気が重くなるのを感じながら、俺達は教室を出た。
 外は暗く、吹き抜ける風は酷く冷たい。
 人気の無い玄関で靴を履き替え、外へと歩き出したところで、俺はこの現状を打破する為にある提案をした。
「そうだ。あのさ、突発的な思い付きなんだけど……レアリィは、明日ヒマ?」
「明日、ですか?」
「そう。なんかこのままで居るのも気分悪いし、一緒に遊べれば、と思って。ほら、明日休みだからさ。なんなら明日にでも、この前の約束を叶えようかなって思って」
 畳み掛けるように繰り出したその言葉に彼女は少し苦笑し、けれど何かを考え始めてしまった。
 一緒に遊ぶ事を考えられるのは正直悲しい。でも、相応の理由があるのだろう。いや、あってくれ。そう祈るものの、神は非情な言葉を俺に寄越した。
「ごめんなさい、ちょっと無理かもしれません……」
 こうかは ばつぐんだ! つうこんのいちげき! クリティカルヒット! ……言い方は何でも良い。正直膝を付いて嘆きたくなるほどにショックだった。
 心の中では行けると思っていたせいか、心に受けたダメージは結構デカい。しかし、その事を顔に出さないようにどうにか笑顔を作り、
「そ、そっか。なら、次の機会にでも」
 言ってから、それすらも断られたらどうしよう、という不安に襲われる。けれど、レアリィの次の一言はそんな俺の心を救うものだった。
「本当は行きたいんですけど、ちょっと家にお客様が来ているんです。その為に明日は忙しくて……。でも、夕方からなら大丈夫かもしれません」
「マジで?!」
 沈み掛けていた頭を上げ、速攻で問い返す。対するレアリィは微笑みと共に、
「はい。折角の休日なのに、一日中拘束されたくはないですから」
「良かった……」安堵と共に呟きつつ、俺は顔に笑顔を浮かぶのを感じながら、「なら、決まりだ。どこに行くかは俺が考えておいて良い?」
「お願いします。まだ私、この街に慣れていませんので。……あ、もし予定が変わってしまったらどうすれば良いでしょう?」
「携帯にでも連絡くれれば……って、レアリィの番号聞いてなかったな」
「そういえばそうでしたね。えっと……」
 と、歩きながら話していた為か、気付けば俺達はマンションへと帰り着いていた。
 暗証番号を打ち込み、暖房の聞いたエレベータホールへと入りながら携帯電話を取り出す。「中はあったけぇな……」「ですねぇ」なんて話をしながら、赤外線通信を使って互いの電話番号とメールアドレスを交換し、
「っと。それが俺の番号。何かあっても無くても気軽に電話してきてくれて良いから」
 携帯を畳むレアリィに言う。その姿に、今夜早速メールを送ろうかと考え、
「はい、解りました。暇が出来たら電話かメールしますね」
 楽しそうに笑うレアリィに対して、心が大きく震えた。やばい、凄い可愛い。
 緊張にも似た感覚に鼓動が高まっていくのを感じながら、俺はレアリィと共にエレベーターホールへと入った。
 上向きの三角形で示されたボタンを押して、二人で一緒にエレベーターが来るのを待ちながら、俺は思考を巡らせる。
 今朝、レアリィが居ない事に焦った自分。普段なら、クラスメイトが一人欠席しているぐらいじゃ気にも留めない筈だ。なのに、彼女の場合は違うらしい。ただ遅刻してきただけだったのに、とても安心したのだ。それは多分、先生の事が頭にあるからで……でも。
「ん? どうしました?」
 小さく彼女が首を傾げる。無意識に顔を眺めていたらしい。
「や、何でもない」
「なら良いんですが……」
 ちょっと気になるのか、こちらの様子をちらりと確認してくるレアリィに対し、思う。
 まるでゲームのような話だけれど、俺は今、先生が――一人の人間が世界から忘れ去られてしまっている現実を目の当たりにしてる。でもそれは偶然俺が覚えていただけで、もしかしたら他にも沢山の事が、知らず内に人々の記憶から失われているのかもしれない。
 だとしたら、いつかレアリィの事を忘れてしまう時が来てしまうのだろうか。
 まるで初めから存在していなかったかのように、彼女が記憶から失われてしまう時が来てしまうのだろうか。
「……」 
 そんなのは絶対に嫌だった。
 俺は、隣に居る女の子を失いたく無かった。
 そして、俺は改めて自分の気持ちを再確認する。自分の中で、レアリィに対する想いのベクトルがどんどんと大きくなっているのだと。
 そう、強く痛いほどに感じるのだ。彼女と廊下で衝突した時に生まれた、その想いを。
「あの、一体どうしたんです?」
「や、何でもない」
 俺は、キミが好きだ。 
 この感情を忘れたくない。レアリィとの日常を失いたくない。
 だから、絶対に消えないようにと、俺は強く願った。





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