そんな疑問。

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 朱く染まった廊下を、レアリィと共に歩いて行く。
「まさか、残っていた作品があったなんて思いませんでした」
「そうだな……」
「でも、美術室があんな風になってしまっていますから、その量は少ないんでしょうね……」
「そうだな……」
「でも、どうして火事なんて起こったんでしょう……」
「そうだな……」
 まるで壊れた玩具のように、生返事を返し続ける。そもそも、レアリィの質問自体殆ど頭に入って来ていなかった。
 右から左へと彼女の声が流れていく中、今日一日の事を考える。
 居なくなった先生。
 違和感無く存在する橋本という美術教師。
 もう思い出せない、刹那の夢――記憶。
 一体、なんだというのか。昨日まで何の問題も無く普通に過ごしてきたというのに、まるで今日になった途端に世界が変わってしまったかのようだ。日常に思えていたものが完璧に破綻し、もう何を信じて良いのか解らない。
 糞、最悪だ。
 自分が正しいのか、それとも間違っているのか、それすらも判断出来ないのだから。
「あの……」
「……」
「……」
 それでも、俺の中には記憶として残っているものがある。何もかも思い出せないけれど、先生が居たという事実はあった筈なのだ。そうでなければ、俺は四月からずっと夢を見ていた事になるのだから。
「一体、どうしたんですか?」
「……」
 でも、確認する方法が無いのも確かだ。このおかしな状況で、先生の存在を覚えているのは俺一人だけなのだろうから。
 けど、あの時一緒だった――
「危ないッ!」
 突然、強い力で腕を引かれた。一瞬何が起こったのか理解出来ず、それでも声のした方向に振り向けば、酷く焦った表情をしたレアリィが立っていた。
「一体どうしたんですか! そこ、階段なんですよ?!」
 怒っているのか、声が少し鋭い。それでも何を言われているのか良く解らなくて、視線をレアリィとは反対方向に向けて――息を飲む。俺が立っているのは、二階へと続く階段のすぐ上だったのだ。引き止められなかったら、そのまま足を滑らせ、階下へと転がり落ちていたに違いない。
 逃げるように廊下の端へと移動しながら、俺はレアリィへと頭を下げ、
「マジ、ごめん……」
「ごめんじゃないですよ! 何か考え事があっても、ちゃんと前ぐらいは見て歩いてください!」
 いつもとは違う雰囲気のレアリィに戸惑いながらも、彼女に半ば監視されるような形で一階にある教室へと戻っていく。その間俺は何度も謝り続け……レアリィの許しが下りたのは、『ちゃんと前を見て歩く』という約束を交わしたあとだった。
 正直、ここまで俺の事に意識を向けてくれているとは思っていなかったから、戸惑いは強くあった。けれど教室に戻った頃には、そこまでして貰える事が嬉しく、同時にそこまでの迷惑を掛けてしまった自分の愚かさを呪った。
 そんなこんなで荷物を纏めて外に出た頃には、もうすっかり夜の時間になっていた。レアリィと共にそこへ歩き出しながら、変に考えを巡らせるのは止める事にした。
 レアリィから怒られた事も効いていたし、今更ながらに、頭の中が整理されてない状態で考えるのは賢明じゃないと判断したのだ。それに、また考え込んだりして、レアリィからお叱りを受ける訳にもいかない。
 その上、
「本当に気を付けてくださいね?」
 約束を交わした今も尚、彼女に心配されているのだから。
「大丈夫だよ。考えるのは、家に帰ってからにする」
「なら良いですけど……」
 マンションへと帰る道中も、心配性なレアリィに大丈夫と繰り返す。
 そして思う。昨日、美術室で俺と一緒に先生の手伝いをしたレアリィは、先生の事を覚えているだろうかと。
 先程までの様子を見る限り、レアリィは橋本という教師を受け入れていた。つまり、先生の事を覚えている可能性は低いだろうと考えられる。けれど、聞いてみたいという思いは強かった。
 だから、奇妙に思われる可能性がある事を承知で問い掛ける。
「……あのさレアリィ、ちょっと質問があるんだけど」
「なんでしょう?」
「変に思うかもしれないけど、真剣に答えてくれ。昨日の放課後、一緒に採点の手伝いをしただろ? その時に一緒にいた先生は、綺麗な女の先生だったよな?」
 一瞬、レアリィの動きが止まった。そこには強い驚きがあり、俺の言葉が何かの核心に触れたのは確かだと思えた。
 そして、彼女から返ってきた答えは――
「……な、何を言ってるんですか。昨日は私達と橋本先生の三人で作業をしましたよ? それに、美術の担当に女の先生が居るなんて、私は知りません」
 少し困ったような、否定の言葉だった。
 俺はそれに酷く強い衝撃を受けながらも、どうにか笑みを作り、
「……そ、そうだよな。いや、俺も何言ってるんだろうな」
 心中の動揺を悟られないように、冗談めかして言う。けれど、俺の心中は穏やかさとは掛け離れていた。
 嗚呼、一体全体何がどうなってるんだ。まさかレアリィまで先生の事を覚えていないなんて。そうして、再び膨らみだした思考を遮ったのは、小さく告げられた彼女の声だった。
「あ、ごめんなさい。電話が来たみたいです」
 言いながら、レアリィは提げていた鞄から携帯を取り出し、それを開いた。そして相手を確認すると、少々驚いた顔をしながら通話ボタンを押し、
「もしもし……はい、今から帰る所で……」
 誰からだろうか。一瞬そう気になるものの、詳しく聞くのも野暮ってものだろう。それでも、相手が男だったら嫌だな、などと思いながら俺は思考を巡らせる。立ち止まっている間ぐらいなら、レアリィのお叱りも無い筈だ。
 さて、今一番の問題は、何故俺だけが先生の事を覚えているのか、という事だ。つまりは、何故みんなは先生の事を忘れているのか。もしこれが大掛かりなドッキリとでも言うのなら話が早いだろうけど、たかが俺一人を驚かせる為にこんな大掛かりな事はしないだろう。というか、普通に考えて有り得ない。
 だとすると、次に考えられるのが俺の勘違いだ。でもこれは自分自身の記憶が違うと証明してくれている。けれど、その記憶自体が偽りの可能性もあった。
 今まで気付かなかっただけで、俺は橋本という男を綺麗な女性と勘違いし、良い所を見せようと頑張っていた。そして今日、何かのキッカケで目が覚めた――と、まぁコレが一番違和感の無い回答だろう。でも、絶対に認めたくなかった。
 ああ、想像したら気持ち悪くなってきた。
「はい、解りました。これからそちらに向かいますね。……よし、と」
 筋肉質の男性教諭に愛想を振り撒いていた、という最悪の想像を頭から振り払おうとしていると、通話を終えたのか、レアリィが携帯電話をブレザーのポケットへと仕舞う。それを見届けたあと、俺達は一緒にマンションの方へと歩き始め、
「あの、ごめんなさい。今日は一緒に帰れなくなりました……」
 不意に響いた言葉に足を止める。見ると彼女は残念そうな表情をしてくれていて、
「もしかして、今の電話?」
「はい。今日は母と映画を観る約束をしていたんです。それをすっかり忘れてしまっていて。このまま向かう事になってしまったんです」
「そうなのか」そう答えつつ、俺はレアリィの言葉に安堵を得ながら、「いや、別に謝らなくていいよ。それに、時間が無いなら急いだほうが良いし」
「そうですね……。でも……」
「俺なら大丈夫だって。こんな時間になったのは俺のせいでもあるしさ」
 そう言って歩き出し、住宅地を抜けた先にある大通りに出ると、俺はそこで再び足を止め、
「映画館の場所は?」
「あ……その、詳しくは知らないのですが、駅前に行けば解ると言われました」
「駅前のか。確かに、行けば大きな看板が出てるからすぐに解ると思うよ。なんだったら、案内しようか?」
「いえ、大丈夫です。道は解っていますので」
 微笑んで告げられたその言葉に、どうしても残念に思ってしまう。それでも俺はそれを表情に出さないようにしながら、
「んじゃ、また明日。映画の感想、楽しみにしてるよ」
「はい。それでは、私はこれで失礼します。……でも、本当に大丈夫ですよね?」
「大丈夫。もうレアリィに心配をかける訳にもいかないからさ」
 最後まで俺の心配をしてくれるレアリィに笑顔を返す。その一言に安心してくれたのか、彼女は「また明日」という言葉を残して歩いていった。
 その後姿を見届けながら、綺麗だな、と思う。少々早足で歩くレアリィは背筋がすっと伸びていて、同じように歩いている学生達とは全く雰囲気が違っていた。
 そうして俺は、その後姿が見えなくなるまで見届けて、
「……さて、俺も帰るか」
 小さく呟いて、マンションへの道を進み出したのだった。

 
□ 

 急ぎ足で歩く。急に学校から居なくなったと思ったら、隠れ家の方へ行っているらしい。しかも、美術室を燃やした犯人と一緒に。
 小さな怒りを覚えつつ、レアリィの歩は緩まない。
「嘘まで吐かせて呼び出した上に、犯人と一緒だなんて。一体、あの人は何を考えてるんだろう……」

 そう一人呟きながら、彼女は目的地へと急ぐ。





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