お姉ちゃん。

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 三日後。
「……冷静に考えると、飢えていたのかもしれないわね」
「あや、何か仰いましたか?」
「いえ、何も」
 取材に来ていた射命丸・文を前に、ルナサは三日前のちょっとした異変についてを思い出していた。うっかり口に出てしまったのは、それが思っていた以上に衝撃的だったからか。
 そう、衝撃的だった。
 こと勝負事において、ルナサは自他共に認めるほどの強さがある。そんな彼女が『絶対に敵わない』と思うだけの戦力が紅魔館には揃っており――そしてそれ以上に、彼女達はルナサにとって大切な観客だった。そんな彼女達が一斉に自分の事を『お姉ちゃん』と呼び出し始めたのだ。動揺しない訳がない。だからこそ、その時は冷静に考えられなかった事が、今になってようやく考えられるようになっていた。
 それが、『お姉ちゃん』に対する飢えだ。
 紅魔館の面々は、アウトサイダーの集りでもある。本来は孤高である吸血鬼の姉妹を初め、本と共に生きる百年の魔女、名無しの悪魔、人間を凌駕する力を持ったメイド、そして鈴の音を響かせる紅い中華娘と、一見すればどこにも共通点が存在しない。それなのにも拘らず、彼女達の繋がりは家族のように強い。
 そう、家族のようだからこそ、そこに明らかな欠落がある。それが『姉』だ。
 とはいえ、その役割から考えてみれば、咲夜か美鈴が姉の位置に収まる筈で、そもそもレミリアはフランドールの実姉だ。問題無いように見える。しかし、レミリア・スカーレットという少女は、その年齢の割りにとても幼い。それを考えると、彼女に仕える咲夜と美鈴――文句を言われても、決して文句を言い返せない彼女達――は、『姉』というより、むしろ『母親』の立ち位置に居るように思えた。
 そしてレミリアの友人であるパチュリーは、恐らく『父親』の位置だ。レミリアから文句を言われ、言い返す事の出来る彼女は、しかし図書館の中から殆ど出てこない。それはある意味、外へと働きに出ているのと一緒と言えよう。屋敷の地下に図書館を構えながらも、その存在は一歩外れた場所にあるのだ。
 更に小悪魔は、フランドールと同じ『妹』だろう。或いは、腹の底では何を考えているのか解らないその姿は、悪戯好きな『弟』という立ち位置かもしれなかった。
 そして、肝心の『姉』だ。
 そもそも姉というのは、母親の次に年齢の高い女性であり、しかし子供である存在だ。家族に対して文句を言い、言われ、しかしその立場はより身近なものになる。それがルナサのイメージする『姉』であり――レイラから貰った『姉の幻想』は、そういったものだった。
 だからルナサにとっての『姉』はそういうもので、そして紅魔館にはそういった存在が足りないのだと思えたのだ。
 と、そこまで考えて、天狗が拡げている新聞のバックナンバーが眼に入った。その中に、元気に笑う霧雨・魔理沙の姿が見えて、
「……魔理沙か」
 あの少女は、まるで男の子のように溌剌としている。それはルナサのイメージだと『妹』や『弟』に当て嵌まるだろう。けれど、レミリアにしてみるとどうだろうか。
 日光の下を元気に飛び回り、自分へと率先して勝負を挑んでくる、輝かしい金髪の女の子。けれど、咲夜(『母親』)にはあまり頭が上がらず、パチュリー(『父親』)の書斎に忍び込んでは盗みを働き――そして、文句を言って、言い返されて、喧嘩のように弾幕ごっこをしても対等に戦える。それはまるで、ルナサのイメージする『姉』のようではあるまいか。
 本人が幼いからそう認識されていないだけで、あと数年もして魔理沙が女としての色香を持つようになれば、彼女は今以上に紅魔館に馴染む存在になるのかもしれない。
 と、リリカの淹れた紅茶を飲みながら考えていると、文が開いていた手帳を一ページ捲り、
「では、最後に今後のスケジュールについて教えてください。次のライブの写真を、今回の記事に使わせて頂こうと思うので」
「次は……いつだっけ?」
『お姉ちゃん』の印象が強過ぎて、紅魔館で決めた筈の予定を全く覚えていなかった。そんなルナサに、メルランが笑みを浮かべ、
「駄目だねルナサ姉さんは。次は、えっと……いつだっけ、リリカ」
 隣に座るリリカへと笑顔で聞くメルランに、リリカは溜め息と共に「姉さん……」と呟いてから、
「四日後に、紅魔館でコンサートを開くの。その次は、白玉楼の宴会にお呼ばれしてる。その次が……」
 と、ルナサの頭に全く残っていないスケジュールを話していくリリカを見つつ、出来た妹だとルナサは一人嬉しく思う。姉である自分がこれでは、失望されてしまうかもしれないけれど。
 そうして取材が終わり、文が帰り支度を始めたところで、不意に玄関から物音が聞こえて来た。
 誰か来たのだろうか。そう思いながら、リビングに集った全員が物音の方へと視線を向けて――現れたのは、
「よう、友達のところへ遊びに来たぜ」
 笑みを浮かべた霧雨・魔理沙だった。噂をすれば影がさす、という事なのだろうか。その姿にルナサが驚いていると、リリカが笑みを浮かべ、
「あ、魔理沙。いらっしゃい」
「久々だな、リリカ。香霖の勧めてた楽器、調子はどうだ?」
「結構上々だよ。まさかロシア人形からあんな音が出るとはねー」
 ……どうやら、結構仲良しさんらしい。そういえば初めて魔理沙と逢った時、ルナサは魔理沙へと「リリカの友達?」と尋ねている。その時に貰った肯定は冗談だと思っていたのだけれど、実際にはその関係は本当の友情を結ぶまでに至っていたようだ。
 リリカは結構アクティブだから、魔理沙との馬も合うんだろう。そうルナサが思っていると、
「あやや、珍しいですね。貴女がこの屋敷に訪れるなんて」
 いつの間にやらカメラを取り出した射命丸・文が、興味深そうな表情を隠さぬままに腰を上げていた。取り敢えず魔理沙とリリカの写真を一枚撮るらしい。
 その様子に魔理沙はげんなりとした様子を見せながら、
「珍しいって、どうしてお前がそんな事を知ってるんだよ。……って、まさかお前、まだ私の周りを嗅ぎ回ってるのか?!」
「当然です。事件を起こしたり、異変を解決にしに行ってみたりと、記事になりそうな事の中心にはいつも貴女がいるんです。そういった人物をマークするのは当然の事でしょう?」
 ふふん。とさも当たり前だ、と言わんばかりに文は言う。魔理沙はその様子に肩を落とし、
「このストーカー天狗め……」
 小さく言って、そのままふらりふらりとルナサの隣へ。彼女も可哀想ね、と思うルナサへと、魔理沙が視線を向け――いや、それどころか顔ごと寄せて来た。そのまま抱き付くようにルナサの耳元へと口を寄せ、
「咲夜から聞いたぜ、ルナサ『お姉ちゃん』」  
「――ッ?!」
 思わず顔を引くと、しかしそこには少し不安げな表情を浮かべた魔理沙の姿があった。
「や、別にからかうつもりは無いんだ。ただ、私も姉ってのを知らないからさ。だから、出来ればで良いんだが、少しの間だけ――」
 と、そう語る魔理沙の表情は、普段の巫山戯たものとは違った、年頃の少女のものだった。彼女はルナサの思う『姉』になる素質はあっても、まだまだ幼い子供なのだ。彼女も彼女なりに苦労していると聞くし、時には心を預けられる『お姉ちゃん』の存在が欲しくなってしまうのだろう。
 だから、ルナサの心も少し動いて――けれど、この場にはその状況を私欲の為に楽しむ存在が一人居た。
「お姉ちゃん、ですって?」
「――射命丸、お前には関係ない」
 真剣な表情で魔理沙が言い、その様子に尚更ルナサの心は揺れ動く。けれど文は――噂好きの天狗は、こういった時、敢えて空気を読まない。取材相手には礼儀正しい彼女だけれど、突っ込むべき事は突っ込んで聞いてくる。それは記者としてのポリシーなのだろう。
 だから、スクープの臭いを嗅ぎ付けた時の彼女には容赦が無かった。
「いえいえ、聞き捨てなりませんねー。これは調査に向かわねばっ!」
 心の底から嬉しそうに微笑んで、射命丸・文が風と消えた。彼女の発行する新聞はルナサや魔理沙といった少女達のゴシップがメインだ。その記事は民衆の興味を引けば引くほどに良く、それに被害を覚える者の心理など関係ない。
 その上、幻想郷において天狗は強者であり、彼女達に喧嘩を売るのは自殺行為となる。だから、弱者であるルナサは泣き寝入りするしかないのだ。
 けれど、目の前の少女は違った。霧雨・魔理沙は、自ら天狗に喧嘩を売っていける人間だった。
「ったく、話の途中だってのに……。仕方ない、まずは耳聡い天狗を止めてくるぜ」
「魔理沙……」
「ルナサお姉ちゃんは私んだ。天狗なんぞに邪魔されて堪るか!」
「魔理沙ー?!」
 流石に『お持ち帰り』は無理だから――! そう叫び掛けた時には、もう魔理沙の姿は無かった。その行動の素早さに彼女の本気が窺えて、ルナサの心に不安が過ぎる。
 とはいえ、これが自分の生活を変えるほどの大騒動に発展するとは、この時のルナサには想像も出来なかった。 



 二日後。
 魔理沙が文に負けたのだという事を、ルナサは配られてきた号外にて知る事となった。
 その一面には自分の、いつ撮られたのか全く記憶に無い笑顔の写真(憎らしいが可愛らしく撮れている)と共に、「今日からみんなの『お姉ちゃん』!」という意味の解らない見出しが乗っかっていた。
 全く読む気がしないので、取り敢えずメルランに渡してみる。すると彼女は大爆笑を始め、腹を抱えて笑い出してしまった。その様子にリリカが記事を覗き込み、そして噴出した。
「これ凄いよ。ルナサ姉さんの事が五割り増しぐらいに書いてある」
「それ、笑うところ?」
「もしメルラン姉さんが『一目見ただけで目を奪われるような絶世の美女であり、可憐でおしとやかで物静かである』とか書かれてたらどうする?」
「それは……笑うわね」
 というか、噴出すのは間違いない。そう思うルナサに、リリカは「でしょう?」と微笑み、
「この記事はそんな感じなの。で、姉さんがみんなに『お姉ちゃん』と呼ばれても良いと思ってる、って書いてあるわ」
「……とんだ失態ね」
 恐らく文は負けた魔理沙から情報を聞き出し、紅魔館へと向かったのだろう。そしてそこで数日前の演奏会の事を聞き出し、ルナサが『お姉ちゃん』と呼ばれる事に対して難色を示していないという部分を誇張し、記事にまでしてみせた。
 この時点で、この号外は幻想郷の各所へと配られてしまっている筈だ。こうなってしまった以上、ルナサは様々な相手から『お姉ちゃん』と呼ばれる事になる。
 最早事態はルナサの手を離れ、収拾出来ない状況にまで広まってしまっていた。
「……二日後の演奏、どうしようかしら」
 思い浮かぶのは魔理沙と、そしてレミリアの姿。こんな状況になってしまった以上、ルナサへと与えられる『お姉ちゃん』という言葉はとても軽いものになってしまった。真剣に『お姉ちゃん』と呼んでくれた彼女達には、これは悲しい出来事になるだろう。
 どんどんと、心が沈んでいくのを感じる。メルランの笑い声はまだ止まない。リリカは何度も号外の記事を読み直している。
 嗚呼、私達の明日はどっちだ。
 そう思いながら、ルナサは遣る瀬無さと共に目を閉じ――





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