お姉ちゃん。

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 ライブやコンサートの間だけ、リリカはルナサを『お姉ちゃん』と呼ぶ。
 それは普段姉へと使っている『姉さん』よりも可愛らしいから、自分に対するファンも増えるに違いない! といったリリカの魂胆が元では無く、音の溢れる演奏中での意思疎通を明確に図る為の手段だった。
 彼女達三姉妹の奏でる楽曲は即興演奏である事が多く、演奏中のコミュニケーションはアイコンタクトで行われる。だが、躁の気があるメルランは興に乗ってくると、事前の打ち合わせなどを無視して暴走を始めてしまう事がある。そんな時、リリカはルナサへ『お姉ちゃん』と、その口の動きで相手を指定するのだ。普段が『姉さん』なのであまり違いは無さそうなのだが、そこは姉妹。どうにかなっていた。
 具体的には、『お姉ちゃんが姉さんを抑えて』といったところだろうか。メルランの暴走は、リリカやルナサのテンションすらも強制的に押し上げる。それに引っ張られてしまったら、ライブ自体が破綻してしまうのだ。
 その為の『お姉ちゃん』
 その為のだけの、けれど特別な呼び方だった。

■ 

 最近は紅魔館に呼ばれる事が多いと、ルナサは思う。というよりも、あの長い冬が終わってから、定期的に紅魔館で演奏を披露する機会が出来た、というべきか。
 それは紅魔館のメイド長である十六夜・咲夜と知り合った事が大きな理由で、つまりこの演奏は彼女の主であるレミリア・スカーレットに捧げられるものだった。
 レミリアは吸血鬼だ。この幻想郷でも上位の力を持つその存在は、しかしながら弱点が多い。その中の一つに、雨の中では外出出来ない、というものがあった。流れる水を渡れないが為に、雨の中でも動けなくなってしまうらしい。その結果、彼女は雨の日になると必ず暇を持て余す。
 そんな主へとメイドが用意するようになったのが、ルナサを長女とするプリズムリバー三姉妹による演奏だった。
 初めはテンションの高い楽曲を演奏していたものの、次第にその曲想も変化していき、今では楽器を変えた新しいアンサンブルの発表すらも行うようになった。それは同時に紅魔館へと訪れる頻度が高まった事を意味していて――初めは梅雨時だったそれもいつしか半年に一度、数ヶ月に一度と間隔が狭まっていき、今では月に二度ほど演奏に訪れていた。
 今やルナサ達の演奏はただの暇潰しでは無くなり、時間を割くに足るコンサートとしての意味合いを持っている。それは姉妹にとって喜ばしき事であり、同時にメルランのテンションも鰻上りになってしまう、という事でもあった。

 そうして今日もトランペットの音色は見事に暴走を始め、それに引っ張られるようにルナサのヴァイオリン達も奏でる音色が激しくなっていく。最早曲調は別のものへと変化し、収まるポイントを自ら見失うかのように駆け抜ける。
 だから今日も、リリカから「お姉ちゃん!」という無音の声が飛んだ。それを見て初めて、ルナサは自身が妹の音色に引っ張られていた事に気付くのだ。
 メルランの持つ『躁』の音色というのは、その中に『鬱』の音色も孕んでいる(高まるだけ高まったエネルギーは、限界を超えれば落下するしかないからだ)。その為、『鬱』の音色を操るルナサは無意識に『躁』の音色に釣られてしまうのだった。
 焦り顔を見せるリリカに「ごめんなさい」の意味を籠めて、ルナサはメルランの暴走を抑え込み、リリカのアレンジに合うようにその音色を導いていく。ルナサがメルランの『躁』の音色に引っ張られるのと同じように、メルランもルナサの『鬱』の音色に引っ張られる。つまりルナサとメルランは、互いの音色で互いを影響し合う事が出来るのだ。それを理解している長女は、どうにか楽曲を纏め上げてみせた。
 そして、演奏が終わる。その結果生まれたのは、少ないながらも暖かみのある拍手。安堵と共に視線を上げれば、そこには紅魔館に暮らす者達の感動に満ちた表情があった。
「今回も素晴らしかったわ」
 席を立ち、興奮に頬を赤く染めたレミリアが言う。それがメルランの音色の力だけでは無い事は、相手が吸血鬼であるという事実が証明してくれている。どれだけルナサ達の力が強かろうと、それを軽く上回る吸血鬼には敵わないのだ。
 だからこそ、喜びを胸に三姉妹は軽く一礼。
 レミリアに続くように紡がれる咲夜達の賞賛を聞きながら、本日のコンサートは幕を閉じた。



 そうして今日も気分良く楽器を片付け始めたルナサは、その一言へ咄嗟に反応出来なかった。
「ルナサは、普段から『お姉ちゃん』って呼ばれてたかしら」
「え?」
 顔を上げた先には咲夜の姿。今この状況では何の仕事も無いのだろう彼女は、普段よりも少し緊張の抜けた表情をしていた。
「以前から気になっていたのよね。演奏の途中、リリカはルナサを『お姉ちゃん』って呼んでるでしょう? 多分、気のせいじゃないと思うのだけど」
 流石は完璧なメイドといったところだろうか。レイラの死後、演奏隊として活動を始めてから一度も看破された事の無い事実に気付くとは。……まぁ、隠してすらいないのだが。ルナサはそんな事を思いつつ、
「確かにそうよ。演奏中に『姉さん』とだけ呼ばれても、私かメルランのどちらか解らなくなってしまうから。まぁ、名前で呼ぶのが確実なのでしょうけれど……」そこでちらりとメルランの様子を窺いつつ、「私達の演奏はアドリブが多いから、一言で軌道修正が出来る方が問題も少ないの」
 というよりも、ルナサ達は演奏時に楽譜を用いない。『本当に優れた音楽は騒音と変わらない』というポリシーを持つ彼女達にとって、楽譜など取るに足りないものなのだ。
「そうだったの。でも、それなら普段から『お姉ちゃん』って呼ばせるようにすれば良いんじゃない?」
「そこはほら、リリカ次第だもの」
 と、そう答えたルナサの表情から何を感じ取ったのか、咲夜は少し意地悪げに微笑み、
「恥ずかしいの? ルナサお姉ちゃん?」
「そ、そういう訳じゃ……」
 演奏時限定の呼称な為に普段は気にしていないが、だからこそ改めて呼ばれると、どうにもくすぐったい感じがしてしまう。そもそも演奏中は楽器を操り騒音を生み出す事に意識を向けているから、自分がどう呼ばれているのか、などというのはただの確認――極端に言えば、白か黒かの札を見せられているかのようなものなのだ。
 けれど今は素の状態だ。『お姉ちゃん』と呼ばれる事に、ルナサは少しだけ羞恥を感じてしまっていた。
 それでも、それは一瞬の事。そもそも彼女は『姉』なのだから、呼称が変わったところで特に問題は無かった。そんなルナサの様子に、咲夜は少し残念そうに、
「なんだ、残念だわ。ルナサお姉ちゃんが慌てるところなんて珍しいから」
「だからって、そうやって連呼されても困るのだけれど」
「ちょっと楽しくなってきちゃって。それに、『お姉ちゃん』って響きが何だか心地良いの」
 そう言って笑う咲夜は、もしかしたら少しメルランの音色に影響されてしまっているのかもしれない。今の彼女は、完全で瀟洒なメイド、という二つ名が似合わぬほどに可憐な微笑みを浮かべているのだから。
 そんな咲夜に困惑しつつも、しかし強く止める事はしない。咲夜との付き合いも長くなってきて、彼女が普段の瀟洒なイメージを覆すほどにお茶目――というよりも、天然な空気を発する事があるのを知っているからだ。そういったギャップが彼女を強く印象付け、その魅力を更に高めているのだろう。
 そういった意味では、自分は目立たない方だ、とルナサは思う。プリズムリバー三姉妹を知る者の大半が、背が高く、音色も動きも激しいメルランをリーダーだと思っているだろうし、小柄な体で一生懸命に幻想の音色を奏でるリリカの姿を印象強く記憶する筈だ。そんな二人に挟まれて、ルナサの奏でる音色は――『鬱』の音色は暗くなる。
 とはいっても、ルナサには目立とうという気持ちは無い。ただ、こちらの事を『お姉ちゃん』と呼んでくれた咲夜と自分があまりにも違うから、少しだけ悲しくなった。
 それを表情に出さぬまま、ルナサは楽器の片付けを再開しつつ、
「まぁ、好きにすると良いわ。困るとは言ったけれど、迷惑では無いから」
 それは、困惑はするけれど不快では無い、という事。少し矛盾しているような気がしたけれど、そこはなんというかニュアンスで感じて貰えれば良いかしら。とルナサは思う。
 そうして、片付けを進め――
「……ルナサお姉ちゃん」
 不意に聞こえて来たその小さな声に、ルナサは顔を上げた。けれど誰に呼ばれたのか解らず、視線を巡らせ……少し恥ずかしそうなレミリアの姿が見えた。
 その顔は赤く、不安げで、思わず抱き締めてしまいたいほどに可愛らしい。そう思うルナサの正面で、レミリアは困ったようにはにかみ、
「ん……。確かに心地良いものね、『お姉ちゃん』って響きは」
 一瞬、ルナサはレミリアが何を言っているのか良く解らなくなった。だってそう、あのレミリア・スカーレットが、自分に向かって『お姉ちゃん』と言ってのけたのだから。
 驚きに固まるルナサを他所に、リリカの隣で物珍しげにキーボードを眺めていたフランドールが顔を上げ、そしてレミリアを挑発するように微笑むと、
「あらお姉様、それは私に対する侮辱かしら」
「違うわ、フランドール。私には姉が居ないから、それがどんなものなのか解らないのよ。だからちょっと呼んでみたの。でも……うん。なんだか素敵な気分になるわね」
 同じ姉であるルナサには解る。下に妹が居るという状況は、常に自分が『姉』として胸を張り続けなければならない、という状況に繋がる。そうでなければ世間に対する示しがつかず、妹に対しても格好がつかない。だから姉という存在は常に『姉』であり続けなければならない。
 だからこそ、ただ甘えられる『お姉ちゃん』に対する憧れにも似た何かが、いつも心の中にある。咲夜の一言は、レミリアの中にあるそれを刺激してしまったのだろう。
 対するレミリアもそれを解っていて、けれど止められない様子だった。
 おずおずとルナサの正面にやってくると、レミリアはその顔を見上げた。不安げに揺れる瞳は幼い少女のそれで、そこに紅い悪魔と恐れられる吸血鬼の気配は無い。
「……お姉ちゃん」
 だから、ルナサに出せる応えは一つだった。
「どうしたの、レミリア」
 敬称を使わず、家族のように親愛を籠めて、自然にその名前を呼ぶ。
 そうしたら思わず手が動いてしまって、そのままレミリアの髪をそっと撫でていた。流石にそれには恥ずかしくなったのか、彼女は赤かった顔を更に真っ赤にして、
「きょ、今日も良い演奏だったわ!」
 少々声を裏返しながら言うと、さっと踵を返し、椅子のある場所まで急ぎ足で戻ってしまった。その様子に咲夜と共に微笑みながら、けれど悪い気分ではなかったとルナサは思う。
 騒霊として生まれたルナサは、姉ではあるものの、妹達の成長を見守ってきた訳ではない。そもそもプリズムリバー三姉妹は、レイラ・プリズムリバーという人間が生み出した、レイラの姉達の幻想だから、初めから今の身体を持って生まれたのだ。
 だからルナサは、年齢の割りには幼いレミリアを相手にした時、体感した事の無い『幼い妹』というものに触れたような気がしたのだ。
 レミリアはもう恥ずかしがって、ルナサの事を『お姉ちゃん』と呼んでくれないかも知れない。けれど、ルナサの方から呼んで貰いたくなるほどの暖かさが、彼女の心には満ちていた。
 これもそれも、咲夜が『お姉ちゃん』と言い出したのが切っ掛けだ。ルナサはヴァイオリンを仕舞ったケースの蓋を閉めると、咲夜に感謝を伝えるべく顔を上げ――
「それじゃあ、次の予定はどうしましょうか。ルナサお姉ちゃん」
「――え?」
 思わず声が出た。見れば、そこには先ほどと同じように微笑んでいる十六夜・咲夜の姿。
「どうしました、ルナサお姉ちゃん」
 改めて咲夜が言う。その瞬間、ルナサの頭から『感謝』の二文字は完全に吹き飛んでいた。
「……や、その……」
 不味い。ルナサは咲夜に対して『お姉ちゃん』と呼ぶ事を否定しなかった。それはつまり、十六夜・咲夜がお茶目、もとい悪戯心を働かせるのを止めなかったという事だ。
 いや、違う。咲夜にしてみれば、それは『主だけに恥をかかせる訳にはいかない』という献身的な気持ちだったのかもしれない。だが、その一言は周りの者にも「ルナサの事を『お姉ちゃん』と呼んでも良いんだ」といった空気を与えてしまう。
 不味い。ルナサが改めてそう思った時には、笑みを浮かべたパチュリー・ノーレッジが言葉を紡いでいた。
「そうね。ルナサお姉ちゃん達の都合さえ良ければ、来週にもまた演奏を聞かせて貰いたいものだけれど」
「良いですねー。私もルナサお姉ちゃんの演奏大好きですから」
 パチュリーに続くように、その隣に腰掛けていた小悪魔も続く。名は体を表すというが、『小悪魔』という名称を与えられているだけあってその判断に迷いが無い。そしてその眼は確実にこの状況を楽しんでいた。
 こうなると、もうルナサには止められない。近くで楽器を片付けていたメルランとリリカも当然のように「どうしようか、ルナサお姉ちゃん」と『姉さん』という呼称をあっさりと捨て去っており、リリカから借りたのだろう小さなカスタネットを弄っていたフランドールまでも、おずおずとした様子で「私もルナサお……お姉ちゃんの演奏楽しみだわ!」と言い出す始末。可愛いなぁもう。
 って、そうじゃない。焦りと共にルナサは視線をある一点へと向ける。そこに腰掛けている、紅色の髪を持った少女――最後の砦である紅・美鈴は、しかしルナサの期待には答えてくれなかった。
「……頑張ってくださいね、お姉ちゃん」
 その外見から時折不名誉な別称で呼ばれる事のある美鈴だけに、その言葉には同情の色があった。でも、それでも彼女も楽しそうで。
 一体全体どういう事だろう。紅魔館のメンバーは、皆『お姉ちゃん』に飢えていたとでもいうのだろうか。
 そんな馬鹿な事を考えてしまうほどに、ルナサは動揺してしまったのだった。





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