四方八方一方通行。

――――――――――――――――――――――――――――



 心を許した相手に抱き締められるだけで、何よりも強い安堵を得られるのだという事を初めて知った。母親が子供に与える愛情を知らない私にとって、それは驚きで――でも、とても暖かくて。
 思わず抱き返す腕に力が籠ってしまって、咲夜が「ちょっと苦しいです」と言葉を漏らして、慌てて力を抜いて、それでも彼女に抱かれ続けた。
 そうして、暫くの間無言の抱擁は続き……どうにか落ち着きを取り戻したら、今度はそのぶり返しのように恥ずかしさがやって来た。
 羞恥が一瞬にして全身を包み、咲夜の柔らかな胸に埋めた顔が物凄く熱い。冷静に考えたら、これ以上無いほどの醜態を曝してしまっているではないか。このままでは、咲夜の主としての威厳が保てなくなる――!
 そう思って彼女から離れようとするのだけれど、今度は咲夜が放してくれなかった。「無理はしなくて良いんですよ」という微笑みを押し退ける事も出来たけれど、それはそれで子供っぽいと思えて、だから仕方なく、そう仕方なく私は咲夜の背中に再び手を廻した。
 暖かい。
 でも、私はこの暖かさを奪って生きている。奪わなければ生きられない生き物なのだ。……だから、甘えるのはもうお終い。私は吸血鬼、レミリア・スカーレットなのだから。
「……咲夜、有り難う。もう大丈夫よ」
「ですが……」
「心配しないで。これからは、辛くなったらちゃんと言うわ」
 その言葉に「解りました」と頷くと、心配げな表情をしながらも彼女がゆっくりと離れていく。それに淋しさを感じながらも、私はベッドから一歩下がった位置に立った、銀髪の少女の姿を改めて眺める。
 私の手で『十六夜・咲夜』となった少女は、今や完全で瀟洒なメイドとなった。人間なんて使えないと思っていたのに、今では咲夜の存在が必要不可欠になってしまっているほどだ。『弱点』すら曝して、尚且つそれを受け止めて貰ってしまった以上、彼女にはこれからもずっと私のメイドで居てもらわねばならない。今更嫌だって言ったって、もう放してやるもんか。
「ご心配なさらずとも、私はお嬢様のメイドであり続けますわ」
「当たり前よ、そんなの」
 視線を逸らし、恥ずかしさを隠しながら少々ぶっきらぼうに告げる。でも今は、その一言が何よりも嬉しかった。
 けれど、それに浸ってばかりも入られない。
「……意識を切り替えないと」
 自分自身に言い聞かせるように言って、再び咲夜へと視線を戻す。私を取り巻く状況は、まだ何も変化していないのだから。
 嫌になるわね、と思いながらも、咲夜へと状況確認を行っていく。
「えっと、まずは……玄関の防壁はどうなったの?」
「どうにか完成致しました。即席で作ったものですが、その強度はパチュリー様の折り紙付きです」そう咲夜は微笑み、「防壁は正門を完全に塞いでおりまして、それによって水の流れを変えています。その為、湖から流れ込んで来る水は正門から続く外壁を添うように迂回し、紅魔館の裏手へと流れていっているのですが……」
 言って、咲夜が背後へと視線を向け、
「……その水が、壁から入り込んでしまっているみたいですね」
「あれは、その、えーっと……ごめんなさい」
 視線の先には、グングニルが貫いた傷跡がある。それは紅魔館の壁を壊すだけに留まらず、その先にある外壁までも貫き、破壊していた。結果、正門から迂回してきた大量の水が、紅魔館の敷地内、延いては館内へと勢い良く流れ込んで来ているのだ。
「一体、どうしてこのような事を?」
「昔の事を思い出したら、恐くなってきて……それで、つい……」
 正直に告げると、咲夜は「だったら仕方ありませんね」と困ったように微笑んで――直後、何か重たいものが水の中へ落下したかのような音がして、
「――では、このような感じで如何でしょう」
 一瞬前と打って変わって、目の前には疲労が見える咲夜の姿。時を止めて何かをしたのだと気付き、彼女の背後へと視線を向けると、そこには私の作った傷跡を塞ぐように、一メートル近い防壁が出来上がっていた。それにより、流れ込んでくる水は遮断され、上がりつつあった水位も取り敢えずの停止を迎えていた。
「予備の為に作ってあった土嚢を図書館から借りてきました。書置きを残しておいたので、パチュリー様には怒られない筈ですわ」
 当たり前のように言うその姿に、注意しようと開いた口をそのまま閉じる。彼女は完全で瀟洒なメイド。主人に害なす障害があれば、それをすぐに取り除く存在なのだ。だからここで告げるべきは、疲れているだろう体を酷使した事への注意ではなく、
「ご苦労様、咲夜」
 その一言でどれだけ咲夜を労えるのかは解らない。でも、嬉しさの中にも安堵が見える咲夜の微笑みを見て、私の判断は間違っていなかったのだと思えた。
 その後、私は咲夜をベッドの上に上がらせ、二人で雨が止むのを待つ事にした。咲夜は「このままでも大丈夫です」と立ったままで居る事を主張したけれど、今や私の部屋は足首を軽く超えるほどの水が入り込んでいるのだ。そのままでいれば確実に体が冷えてしまうし、何かあった時の対処も鈍くなってしまう。だからこその、ベッドの上だった。
 咲夜の話では、もうパチェも魔理沙も復活しているとの事だった。肉体的な疲労と魔力のガス欠だから、一休みする事である程度の体力(魔力)は戻ったらしい。
「でも、まさかこんな事態になるなんてね……」
 小さくぼやく。今まで、屋敷のすぐ近くにある巨大な湖に対して警戒を抱いた事など無かった。けれど、台風(或いはそれに匹敵する大雨)でこんな状況になってしまうとは。
 今まで平和に暮らしてこられたのは、ただ運が良かっただけなのだろう。『自然』というものの恐ろしさを感じながら、私はベッドに横になる。
 何はともあれ、今は事態が収まるのを待つしかなかった。




 がたん、と何かが落っこちて、その音で目を開けた。どうやらいつの間にか眠っていたらしい。
「なによ、いったい……」
 体を起こしながら床へと視線を向けると、グングニルの余波を受けて壊れかけていた机、その上にあった小さめの本棚が床に落っこちていた。全く、私の睡眠の邪魔をするなんて、躾けのなっていない本棚だわ。
 ぶつぶつと文句を漏らしながら、うにうに言いつつ横になっている咲夜の隣に再び収まる。確か咲夜の方が先にうとうとし始めて、それに釣られるように私にも眠気が来て、そのまま一緒に眠ったんだった。フランドール以外の誰かと一緒に眠る事は初めてだったけれど、案外安心して眠れるものだ――って、
「床?」
 むくりと体を起こし、落っこちた本棚へと視線を向ける。本棚は水に侵されて大変な事になっているカーペットの上に落下していて、その中身を吐き出していた。
 いや、問題はそこではない。
 床だ。
 床が見えるのだ。
「水が、ない?」
 眠る前までは大量にあった水が、今ではその痕跡だけを残して全て消え去っていた。壊れた扉の先、防壁の上に少しだけ開いたスペースから見える外に視線を向けると、雷は鳴っているようだけれど、あれ程強かった雨が殆ど止んでいるように見える。夢でも見ているのかしら、なんて思いながらも床に下りてみれば、普通に歩き回る事が出来た。それに、これが夢では無い証拠に、足の裏に返ってくる感触は酷く冷たく気持ち悪い。……まぁ、靴下のまま降りた私が悪いのだけれど。
「靴は……って、流されちゃったか」
 もし流されていなかったとしても、今からでは履くに履けない。私はベッドに腰掛けると、靴下を脱ぎ、汚れていない部分で足を拭き始め……眠っていた咲夜が目を覚ましたのは、それからすぐの事だった。
「ん……」
「おはよう、咲夜」
「え? あ……お、お早う御座います、お嬢様……」
 少し寝惚けているのか、少々の混乱と共に言葉を返してくる彼女に普段の瀟洒さは無い。けれど、体を起こし「ちょっと顔を洗ってきます」という言葉と共に姿を消し、そして再び現れた時には、普段通りの咲夜に戻っていた。本当、便利な力だ。
 と、そんな咲夜が頭を下げ、
「すみません、お嬢様のベッドで眠ってしまいました」
「別に構わないわ。それよりも床を見て。ほら、水が引けてるの。あんなにも沢山入り込んできていたのに……まさかこんなにも早く水が引けるなんて思わなかった」
 部屋にある時計を見るに、私達が眠っていたのは一時間ちょっとだ。水が引けてくれたのは嬉しいけれど、いくらなんでも早すぎるような気がする。そう思う私に、しかし咲夜の答えは予想外のものだった。
「いえ、これは自然に水が引けた訳ではありませんわ。恐らく、パチュリー様と小悪魔、それに魔理沙の魔法が効いたのだと思います」
「魔法?」
「はい。なんでも、水から木を作る魔法を発動させる、と仰っておりました。ですが……」そこで一旦、咲夜は言葉を濁し、「……途中まで説明を受けていたのですが、その、お嬢様に呼ばれてしまいましたので」
「そういう事なら、説明出来なくても仕方がないわ」
 耐え切れず泣き出してしまった私が悪いのだし。
 それはともかく、水から木を生み出す魔法か……。ちょっと昔にそんな話を聞いた事があったような無かったような。それも、誰でもないパチェの口からだ。あれは一体何の時だったか。思い出せ、思い出せ……
「あー……」喉の奥に引っ掛かった骨を、一メートルぐらいあるピンセットで取ろうとしているような感覚。しかも利き手とは逆の手で。そんなもどかしさを感じながら記憶の引き出しを引っ繰り返し、出てきたものは、「……あー、もしかして、水生木?」 
 ようやく思い出したそれは、五行と呼ばれる、万物は木火土金水の五種類の元素から出来ている、という思想の話だった。何十年か前に、パチェが賢者の石を精製している時に教えてもらったのだ。
 その五行の中で、水生木というものがある。水によって木は養われ、それが無ければ枯れてしまうという意味で、恐らくはその意味合いを魔法に込めたに違いない。それに、魔法というのは世界の常識を変化させるものだから、今頃図書館は森になっているかもしれない。
「って、そうでもないか」
 木は火を生み、火は土を生み、土は金を生む。パチェの事だから、そうした錬金術も行っているだろう。そうすれば、実験に使うなり加工して売り払うなり、木のままで置いておくより確実に価値がある筈だ。
 良く解らない、という顔をしている咲夜に説明したあと、私達は図書館へと移動する事にした。このまま部屋に居続けて、もしまた浸水でもしたら堪らないからだ。
 新しい靴下と靴を用意してもらい(仕舞ってあった予備の靴は、どうにか浸水を免れていたらしい)、履きなれないそれにちょっと苦戦しながら、咲夜と共に紅というよりも黒く汚れてしまっている廊下へと歩き出す。
 とはいえ、大量の雨水に侵されていた為に、廊下は泥や土砂、更には木々の枝や壊れた家具の破片などが散乱していて、正直目も当てられない。でも、床に敷き詰めてあるカーペットは買い換える事が出来ないから、どうにか洗って綺麗にするしかないだろう。
 その時は私も手伝おう、と思う。あと、日中の洗濯などは手伝えないけれど、各部屋の掃除ぐらいは出来る筈だ。メイド達が戻ってくればその手間も不要になるかもしれないけれど、それもいつになるか解らない。レミリア・スカーレットは我が儘である、と自分でも解っているけれど、この状況をただ黙って見ていられるほど、私は傲慢ではないのだ。何より、大切な我が家の為だ。止められたって、手伝いたい。
 私はそんな風に思いながら、どこから流されてきたのか、廊下のど真ん中に転がっている大きな石を踏み付け、
「……この様子だと一階は全滅ね。まぁ、屋敷の一番奥にある私の部屋にまで水が来ていた訳だし、解り切っていた事ではあるんだけど」
「ですが、戸締りはしっかりしておりますから、二階は無事だと思われますわ」
「こんな事なら、自室を二階に作れば良かったわね」
 そうすれば、被害を最小限に抑えられたかもしれないのに。そう思うものの、もう過ぎてしまった事だ。どの道今朝からは二階で寝るしかないのだし、そのまま二階に自室を移してしまっても良いだろう。それに……って、そういえば、フランドールの部屋はどうなっているのだろうか。これからはあの子の部屋も地上に上げる事になるだろうけれど、だからこそ、その惨状を確認しておきたかった。
「ちょっと寄り道していくわ」
 はい、と頷く咲夜を引き連れて、再び廊下を歩き出す。歩かずに飛んでいってしまえばすぐなのだけれど、少し前までは歩く事すら出来なかった場所を歩けるという幸せを、私はもう少し噛み締めていたかった――と、そこで雷鳴が一つ。その音は大きく、近い場所に雷神が居るのだと教えてくれる。その上、完全には止んでいなかった雨がその雨脚を再び強め始めていて、風は未だに強い。ピークを抜けたというだけで、まだ完全に台風が過ぎ去った訳では無いのだろう。
 嫌だな、とは思いつつも、今はこうして自由に行動出来ているのだ。これ以上事態が最悪に転ぶ事はないと思えた。



 鳴り響く雷鳴を聞きながら、咲夜と共に歩いていく事数分。長い廊下を何度か折れた先に、目的である地下通路への入り口と、その周囲を固める防壁が見えてきた。咲夜の話では防壁や床を魔理沙の魔法で凍らせていたとの事だったけれど、彼女の魔力切れが原因なのか、はたまたその魔法にそこまでの持続性が無かったのか、今では氷の『こ』の字も見られない。それでも、即席とはいえ積み上げられた防壁はしっかりと形を残していて、美鈴の頑張りがありありと感じ取れる。あとで褒めてあげないと。
 真っ赤になって照れるのだろう美鈴を想像しつつ、背後に経つ咲夜に問い掛ける。
「咲夜が来た時には、この地下通路は完全に水没していたのよね?」
「はい。ですが、私がすぐに気付いていれば……」
「フランドールは無事だったんだから、もう気にしないの。それにこれは人災じゃなくて天災だし、咲夜に責任は無いよ」
 とはいえ、咲夜が責任を感じてしまうのも仕方ないのかもしれない。何せ私は、彼女に屋敷のあれこれをほぼ一任してしまっているのだから。その中には私達の安全管理も含まれていて、そうでなければメイドである彼女が銀のナイフを武装していないだろう。
 だから、もう終わった事として話を終わらせる。終わり良ければ全てよし、という訳では無いけれど……次から同じ過ちを繰り返さないように尽力してくれれば良いだけだ。それでも責任を求めるとするのなら、この状況を予測出来なかった私が責められるべきだろう。
「……運命を操る力、か」
 咲夜に聞かれぬように小さく呟いて、地下へと続く階段に近付いていく。
 今この瞬間、私の目の前には複数の運命が視え、そしてそこへと繋がる膨大な数の選択肢を捉える事が出来ている。けれどこれは私個人の運命であって、咲夜達の存在は計算に入っていない。つまり、最善だと思う運命を選んでも、蓋を開けてみれば最悪な未来になっている場合もあるのだ。
 フランドールの力が強力過ぎるように、私の能力もまた使い勝手が悪い。咲夜達と一緒に暮らしている以上、この能力を過信する事は、彼女達との平穏の崩壊に繋がる可能性がある。私は小さく頭を振り、意識的に能力の発動を抑え付けると、そのまま階段を降りていく。
 本来ならば点されている筈の証明は全て消えていて、少々長い廊下は完全に闇の中だ(まぁ、夜目の利く私には、泥水で汚れた通路の惨状がはっきりと見えるのだけれど)。その先にあるフランドールの私室の扉は開け放たれていて、可愛らしい小物で満ちた部屋の様子が良く見える……が、何かがおかしい。
 少し急いで階段を下り、通路を数メートル進んだところで、私はぴたりと足を止めた。いや、止めざるを得なくなった。どうやらパチェと魔理沙の魔法も地下にまでは作用出来なかったらしい。魔法が完成するまでに流れ込んだのだろう水により、通路の中ほどから妹の私室まで、私の部屋のように浸水してしまっていた。
 しかし、あの子が助け出される前までは、この通路を水没させるほどの水が、扉一枚挟んだ向こう側に存在していたのだ。本当に、フランドールには恐い思いをさせてしまった。図書館に着いたら、咲夜にそうして貰ったように抱き締めてやろう。そう思いながら踵を返すと、私は点々と残る水溜りを避けるように歩き出し――不意に、何かを踏んづけて、
「わッ――!」
 つるん、と右足が上がり、バランスを大きく崩し、そのまま硬い床に尻餅を付いた。
「あいたたた……」
 いくら体が頑丈に出来ているとはいえ、お尻はお尻だ。普通に痛い。一体誰だ私をこんな目に合わせたのは、と思いながら右足を見ると、気持ちの悪い緑色の物体が纏わりついていた。
「だ、大丈夫ですか、お嬢様!」
「痛いけど、平気……。ねぇ咲夜、それよりもコレ、何」
「これは、水草でしょうか。恐らく、湖に生えていたものが流されてきたのでしょう」
 そう言って、咲夜が私の靴からその水草を取り払って――

 ――その瞬間。
 鼓膜を破壊するかのような轟音が、屋敷を貫いた。

 それが落雷だと、そう理解するまでに数秒掛かった。この瞬間、私は思わず咲夜に抱き付いており、咲夜も私に抱き付いてきていた。当然、『きゃあ!』という悲鳴と共に。……全く、何が吸血鬼と完全なメイドだろう。これじゃあただの『女の子』だ。
 そしてその数秒の内に、押さえ込んでいた私の能力が何度も警鐘を鳴らした。それに反応出来なかったのは、突然の事態に思考が完全に止まっていたから。一度『弱点』を曝すほどに凹んでしまっていた為か、私も本調子ではなかったらしい。
 そうしてようやく、何か私にとって不味い事が起ころうとしていると気付いた刹那、小さく、断続的に、硝子にヒビが入っていくかのような音が聞こえている事に気付いた。しかし、それに気付きながらも、私は雷についての事を考え始めていた。まるで気付いた予感から目を逸らすかのように。
 地震・雷・火事・大山風という言葉があるように、雷は恐ろしいものの代表として扱われてきた。特に雷は落ちる場所を特定出来ない上に、その直撃を受ければ妖怪でさえ死に至る場合がある。そんなものが落ちた日には、火事が起こる可能性が高く――いや、この紅魔館は、パチェの魔法によって結界が張られている。湖の氾濫によって押し寄せてきた大量の水は流石に防げなかったけれど、火事の要因となるようなものはどうにか防いでくれる筈だ。だから安心……いや、出来ない。結界は侵入を防ぐものであって、受け止めるものではないのだから。
 ならば、落雷のエネルギーはどこへ向かう事になるのだろうか。
「……お嬢様」
 震えるような咲夜の声は、しかし私にでは無く、地上へと繋がる階段の方に向けられていて――
 何かにヒビが入っていくような音は、今もはっきりと聞こえ続けていて――
 咄嗟に動く事が出来なかったのは、きっと、私の心が拒絶していたからだろう。もう何も無いと、そう信じていたかったからだろう。
 そう。スペルカードルールの発展により、直接命を狙われる事が無くなったこの幻想郷で、私はとても弱くなっていた。今そこにある危機に、即座に反応出来ないほどに。
 直後。絶望的な音を上げ、限界まで耐えていたのだろう何かが壊れる音がした。それを理解した瞬間にすら、私は『ああ、そこに雷のエネルギーが向かったのか』なんて事を思っていて。
 
 現実逃避を行っていた思考が目の前の状況を認め、逃げるという行動にようやく意識が向いた瞬間、私達は水の壁に喰われていた。
 


 
 咲夜の能力は紅魔館全域に及んでいる。もしその一部が落雷によって崩壊したとしたら、そこへと繋がる空間が連鎖的に崩壊を始める可能性がある。
 つまり、屋敷の内部が縮むのだ。とはいえ、私達が居るこの通路は幻想郷にやって来る前から――咲夜と出逢う前からあったものだ。だから、その影響を受けない。
 しかし、咲夜が隔離した大量の水は、別だった。
「――ッ!」
 階段を破砕して現れた水は、まるで鉄砲水のように一瞬で、私達をフランドールの私室の壁にへと打ち付けた。それでも、咲夜と抱き合っていた事が幸いし、私だけがその衝撃を受け、彼女を護る事が出来た。けれど、それだけだ。
 途切れる事無く流れ込んでくる大量の水に、動く事の出来なくなった私は咲夜の体を抱き続けられず、渦巻くような流れに翻弄されていく。対する咲夜はその中で必死に抗おうとするのだけれど、流れが激しく、私の手を掴む事が出来そうにない。
 そうしている間にも、勢い良く水が流れ込み続けてくる。その量は多く――フランドールを助け出す作業の間にも水は流れ込んできていた。その分の水量がどのくらいかは解らないけれど――この様子だと、この部屋を含めて、再び地下通路を水没させる程の量になっているに違いない。
 ふと、グングニルを召喚して壁を破壊しようかと考える。けれど、今の私はそれを投げるどころか、握り締める事すら出来ない。或いは弾を放てば、とは思うけれど、狙いすらも付けられないこの状況では、咲夜に当たる可能性が高過ぎる。
 そうして様々な手段を考える先で、咲夜がどうにか私へと近付こうとしているのが見えた。でも、そんな事をせずに、彼女にはこの場から脱出して欲しかった。動けなくなるというだけで、私は一晩程度なら水の中で耐える事が出来る。だから、咲夜さえ生き残ってくれれば私は助かるのだ。それなのに、彼女は私の元へと近付こうと必死にもがき続ける。そんな咲夜に『大丈夫だ』と伝える事が出来ない自分が酷く悔しくて――

 そして――咲夜の体から力が抜けた。
 
 声すらも上げられない状況の中、手を伸ばせれば掴める距離にまで近付いた咲夜の指先が、少しずつ遠くなっていく。
 一瞬で、心が絶望に囚われる。それでも私は必死に体へと命令を送る。送り続ける。動け、動け、動け! どうして動いてくれない、私の体! 例え四肢が千切れようと、体を切断されようと、それでも行動出来るのが吸血鬼という存在だろうに!!
 熱を増す思考とは対照的に、体は氷のように冷たく動かない。助けたいのに、助けられない。世界を呪い、自分自身を憎む思考は加速していき、時間だけが過ぎ去っていく。
 叫べない。
 動けない。
 何も出来ない。
 それでも無理矢理に体を動かそうとし――固定された視界の端に、壊れた階段の破片が一つ。
 それは水の流れに乗ってこちらへと迫ると、私の太股を容赦なく抉り、鋭い痛みを残して消えていった。弱点である水の中に居る為か、肉体の強度が落ちているらしい。
 流れ出す血液は決して綺麗とは言えない水と交じり合って消えていく。咲夜の姿は更に遠ざかり、痛みと共に思考が上手く纏まらなくなっていく。能力の視せる運命は死へと至る道ばかりを羅列し、生存へと続く選択肢は無いのだと告げるかのよう。
 それでも私は、諦める事なんて出来ない。最後まで抗い続ける。
 だから――




 魔女がその凄まじい轟音を聞いたのは、美鈴の淹れたお茶を飲み干そうとする瞬間の事だった。機密性が高く、その上防音対策までしてあるこの図書館にまで響いてきたその音は、屋敷と共に、パチュリーの心をも大きく震わせた。
 それは図書館に集まっていた他の者達も同じだったようで、近くに居た小悪魔はカップを掴もうとしていた体勢のまま固まり、可愛らしい悲鳴と共にフランドールが美鈴へと飛びつき、飛びつかれた美鈴は目を見開いたままそれを受け止め――そして本日の功労者の一人である霧雨・魔理沙は、びくりと全身を震わせたあと、しかし何事も無かったかのように、
「あー、こりゃ落ちたか?」
 と、まるで他人事のように言ってみせるものだから、流石にパチュリーも何も言えなくなった。そんな魔女に向けて、若い魔法使いは言葉を紡ぐ。
「火事になったら大変だし、ちょっと見て来た方が良いな」
「……ねぇ魔理沙。どうして貴方はそんなに冷静なの」
 もしかしたら偽物か? そんな突飛な事まで考えてしまうパチュリーに対し、魔理沙は脱いでいた帽子を被り直しながら、
「外の世界には避雷針ってのがあるらしいから、そうそう雷も落ちないんだろうが……幻想郷にゃあそんな便利な物は無いからな。木や民家に落ちて、火事になる事が多いんだよ。……そりゃあ雷は恐いし、今のはかなり驚いたが、だからって震えてばかりもいられない。そうしてる間にも、事態は進行していく訳だしな」
 つまりはそう、彼女はそういった天災に慣れている、という事なのだろう。図書館に引き籠もり続けてきたパチュリーとは知識や経験が違うのだ。その割に美鈴が固まったままなのは、ただ雷が苦手なだけか。
「ともかく、ちょっと見てくるぜ。ここが燃えたら大変だからな」
 そう言葉を続ける魔理沙へとパチュリーは軽く首を振り、「それに関しては心配しなくて良いわ」と言葉を返す。
「何でだよ」
「それはね――」
 と、パチュリーが説明を始めようとした、その瞬間。
 落雷の音とは明らかに違う、何かが大きく歪むかのような音が図書館に響いた。それはまるで、形の合わない木箱を力任せに組み合わせていくかのような、酷くひずんだ耳障りな音で――

 ――直後、図書館が崩壊を始めた。

「ッ?!」
 本棚が倒れる、などという生易しいレベルではなかった。まるで図書館を斜めに傾かせたかのように、壁が、本棚が、そこに詰まった魔道書が、巨大な波のように押し寄せてくる。
 それは魔女が最も危惧し、恐れていた図書館の崩壊だった。
「咲夜が拡げていた空間が壊れた……? でも、どうしてこんなタイミングで……」
「おいパチュリー、ボケッとしてんな! 早く逃げるぞ!」「そうですよ!」
 魔理沙と小悪魔に手を引かれ、図書館の外へと引っ張られていく。しかしその目は崩壊していく図書館に向けられたまま動かない。この場所は、魔女にとって書斎であり、住処であり、宝庫であり、そして歴史なのだ。知識には際限があり、記憶には限界があり、そして魔法には未来が無い。それでも魔道書という歴史を積み重ね、魔女や魔法使いは生き続けてきた。生き延びてきた。生まれながらの魔女であるパチュリー・ノーレッジにとって、それが崩れていく様は、自身の半身の死を目の当たりにしているようでもあった。
 でも、それだけ、だった。
 呆然と目の前の状況を眺めながらも、しかしパチュリーは冷静だった。自分ではもっと取り乱すと思っていたのに、しかし動いている思考は『崩壊の原因』についての事ばかりを考え続ける。何十年も掛けて書き上げた魔道書が、古い知り合いから譲り受けた古書が、もう手に入らないだろう外の世界の雑誌が見るも無残な姿に変わっていくのを眺めながらも、しかし思うのは――
「――咲夜」
 それは魔女として失格かもしれない。何せ、積み上げてきた歴史よりも、共に暮らす家族の心配で頭が一杯なのだから。
「でも、それが間違いだなんて思わないわ」
 それが、現在のパチュリー・ノーレッジにとっての正解なのだ。そんな彼女に「何か言ったか?!」と魔理沙の問い掛けが来た。魔女は崩れ行く図書館から視線を外し、崩壊と共に生まれ続ける振動から逃げるように空へと浮かぶと、
「もう大丈夫だって言ったの」
「聞こえない!」
「もう大丈夫! 小悪魔も、もう手を放してくれて良いわ!」苦しくならない程度に声を張り上げ、そしてパチュリーは先を行く別の金髪と紅髪へと視線を向け、「――妹様!」
「な、なに?」
 声に、美鈴に抱きついたままのフランドールが視線を上げた。その紅い瞳は不安に揺れていて、それでもパチュリーは声を張り上げる。
「一つお願いがあるの! 私達が魔法で造った木を全て破壊して!」
「え……?! でもあれ、後で何かに使うって……」
「気にしなくて良いから、早く!」
 現在、図書館の出口周辺には大量の大木が転がっている。パチュリーの予定としては、その木々を壊れた正門の修復や、紅魔館の改築、更には魔法の実験に使っていこうと考えていたのだが、それをこのまま放置しておけば、押し寄せてくる瓦礫にこの図書館が耐えられなくなる可能性が高まってしまう。無駄なスペース、そして質量は早めに無くしておいた方が良いのだ。自分達の為、そして崩壊後に救い出す魔女の半身達の為に。
 急な運動に苦しげな表情を浮かべているパチュリーに促されるように、フランドールがそれに頷き、大木の山へと視線を向け――そして、そこにある破壊の目が、その小さな手の中に集められていく。
 そしてパチュリー達が図書館の外へ出た瞬間、美鈴に抱きついたままのフランドールが掌を握り締め、同時に爆発音が連続して図書館の中から響いてきた。それによって大木が破壊されたのだと魔女が理解するよりも早く、魔理沙と小悪魔が図書館の扉を閉め――パチュリーはその場に腰を落とした。
 そんな彼女に掛けられたのは、慌てた様子の魔理沙の声。
「お、おいパチュリー、ここに居たら危ないだろ!」
 対するパチュリーは、しかしゆるゆると首を横に振り、
「……いえ、大丈夫よ。扉が閉められた以上、図書館は隔離されたわ。これでもう、中でどんな事が起ころうと、外には何の影響も出ない」
 何故なら、
「図書館の本には危険なものもあるから、事前にこうした対策を取っておいたのよ。……まさか、図書館そのものが崩壊してくるとは思わなかったけれどね」
 失意と共に呟くパチュリーの言葉に答えるように、遠く小さく、しかし確実に図書館内から響いていた音が消え、廊下が静けさを取り戻す。そうしてうな垂れるパチュリーに小悪魔が何か言葉を掛けようとして、しかし何も言えないままに口を閉じると、その小さな体を護るかのようにパチュリーを抱き締めた。
 霧雨・魔理沙はその様子を無言のまま、しかし辛そうな表情で見届け……そして、全員が持っているだろう疑問を、少々躊躇いがちに口にする。
「もう安全なのは解った。でもさ……その、どうして図書館が崩壊し始めたんだ? ここもそうだけど、紅魔館は咲夜の力で空間を拡張してあるんだろう?」
 言いながら、嫌な想像が魔理沙の中に浮かぶ。けれどそれは無いと信じたくて、沈み込んだままのパチュリーの言葉を待つ。
 返事が返って来たのは、外で強い風が二度吹いて、木の枝でも折れたのか、何かが落下したような大きな音が聞こえて来た後の事だった。
「確かに、図書館は咲夜の力で拡張してあるわ。でも、それが解除されたという事は、拡張していた空間を破壊するような何かが起こったか、咲夜の身に何かが起きたか……」
 そうして、少々ふら付きながらも、魔女が廊下に立ち上がる。濡れた廊下に座り込んだ事でスカートが汚れてしまっているものの、それを気にする素振りも見せず、ただ強い瞳で、閉ざされた図書館を見つめ、
「咲夜はレミィと一緒に居る筈だから、彼女の身に危険が及んだとは考え難い。でも、確実に何かが起きたのは確かよ」
「何かって、一体……?」
 不安げに言う美鈴に視線を向け、しかしパチュリーは小さく首を振り、
「解らないわ。でも、拡げられていた図書館の空間が元に戻った以上、紅魔館の各所でも似たような事態が起こっている筈。まぁ、レミィの部屋は無事だと思うけれど……」
「私、見て来ます!」
「わ、私も! お姉様と咲夜が心配だもの!」
 美鈴の言葉に続くようにフランドールが告げ、そして二人一緒にレミリアの自室がある方向へと向けて駆けて行く。もし何か障害が発生していたとしても、あの二人なら大丈夫だろう。
 遠ざかっていくその背中を見送っていると、魔理沙が口を開いた。
「図書館はまだしも、この紅魔館が崩れる可能性はないのか?」
「……無いとは、言い切れない。でも、我が家を見捨てて逃げる訳にはいかないわ。――小悪魔」
 はい、と頷く紅髪の少女へと視線を向けると、パチュリーは真剣な表情のまま、
「多分大丈夫だと思うけれど、保険の為に、図書館へと外から結界を張って。私は屋敷を廻って、崩れそうな場所を補強してくるわ。魔法での補強でも、何もしないよりマシだろうから」
「解りました。……気を付けてくださいね」
 言って、小悪魔が背を向け、そして小さく詠唱を開始する。その名の通り彼女はレミリアと同じ悪魔であり、その力は高い。ここは彼女に任せて大丈夫だろう。そう判断し、パチュリーはゆっくりと漂うに空に浮かぶと、そのまま紅い廊下を進み出し――
「って、ちょっと待てよ! 私に仕事は無いのか?」
「貴女は部外者だもの。これ以上巻き込む訳にはいかないわ。それに、これ以上借りを作るつもりもない」
 そう断言するパチュリーに、魔理沙は「全く、頭の硬い魔女はこれだから……」と溜め息を吐き、そして箒に跨ると、
「利害も何も関係無く、純粋に助けてやるって言ってんだよ。困った時はお互い様だろう? それに、誰かを助けるのに代償を求めるほど、私は落ちぶれちゃいない」
「……本気?」
「誰にモノを言ってんだ。私は麓のヒーロー魔理沙さんだぜ? ……借りたい本も、まだまだあるしな」
 そう言って、力強く笑う。それは、沈み込んでいたこの状況の中で、何よりも強く貴いものに見えて、
「……解ったわ。なら、魔理沙も補強を手伝って頂戴。崩壊しそうな場所があったら、結界を張るなり魔法で固定するなりしておいて。でも、これ以上図書館の本は」持ち出させないから。そう告げようとした魔女の声を遮るように、
「任せときな!」
 言って、まるで風のような速さで魔法使いが飛んで行く。あれで本当に大丈夫なのかと思ったけれど、行ってしまった以上は信じるしかない。そう判断すると、詠唱を続ける小悪魔に一言告げて、パチュリーは廊下を進み出した。



 咲夜が空間を拡げた事によって、紅魔館はその広さと共に部屋数も多くなっている。彼女は空間を拡げるだけではなく、拡げた空間の中に新たな空間を作り出す事が出来るからだ。解りやすく言えば、既存の部屋と部屋との間にもう一つ部屋を作れる、という事。そのお蔭で、この紅魔館は数多の部屋を持つ屋敷になっている。当然廊下も伸びているので、違和感は無い。
 しかし、その空間拡張が解除された今、廊下は酷い有様になっていた。本来の部屋数に戻った為、その中間にあった部屋が壁と壁とに押し潰される結果となり、壁から壊れた扉や家具が突き出てしまっているのだ。
 予想以上に多いその損壊箇所に結界を張りながら、魔女はゆっくりと、随分と短くなってしまった廊下を進んで行く。
 パチュリーが進んでいる方向は、普段はあまり使われていない空き部屋の多い場所だった。空き部屋といえど、ベッドやテーブルなど、必要最低限の家具は取り揃えられており……しかし、最近ではレミリアの思い付いたイベントの際に使用する大道具や小道具が仕舞われる、ちょっとした物置の代わりに使われていた(だからこそ、その損害も大きいのだけれど)。他にあるとすれば、フランドールの私室ぐらいだろう。
「まぁ、妹様の部屋は、咲夜の力の影響を受けていない筈だけれど」
 そう確認するように呟きながら、しかし一応見てみるだけ見てみようと、突き当たった角を右へと折れて――紅く伸びる廊下の先。美鈴が築いた防壁の近くに、何かが倒れている事に気付いた。
 一瞬、思考が止まる。
 それは人間のようで、スカートのような物を穿いていて、その上にはエプロンのような白い布があって、水に濡れた髪は幻想郷には数人しか居ない銀髪で――
「――さ、咲夜!」
 慌てて駆け寄り、うつ伏せに倒れている咲夜を仰向けにさせた。全身を塗らした彼女の顔には生気が感じられず、その肩を揺すってみても反応が無い。
「えっと、こ、こんな時の対処方法は……」
 取り敢えずは仰向けにしたものの、それからの対処が思い出せない。突然の状況に恐怖が生まれ、焦りが加速し、冷静に思考が廻らない。知識はあった筈なのに、その引き出しが開かない。咄嗟に掴んだ咲夜の手はとても冷たくて、思わずそれに涙が出る。そうしたら更に訳が解らなくなって、冷静さがどんどんと失われていく。
 このままでは駄目だと思うのに、何も出来ない。
 そんな魔女を救ったのは、廊下の奥から響いてきた爆発音だった。
「こっちにも居ないよ!」「こうなると……残るは二階しかないですね」「二階ね、解っ――って、パチュリー? どうしたのって咲夜?!」「ちょ、どうなってるんですかこれ!」
 現れたのは、壁をぶち壊す、という実に解りやすい方法で屋敷の内部をショートカットしてきたのだろうフランドールと、最早その暴走を止めるという回路が働いていないのだろう美鈴の姿。
 突然の状況に慌てる二人を前に、パチュリーは咲夜の手を握り締めたまま、
「咲夜、咲夜が……」
 ぽろぽろと涙を流しながら、うわ言のように小さく呟く。彼女もそう、つまるところレミリアと同じ『弱点』を抱えている。捨虫の魔法で自身の成長を止めてしまった事で、レミリア以上には成熟しているものの、その本質は十台の少女に過ぎないのだ。その為、予想外の状況が起こってしまうと、途端に何も出来なくなってしまう。
 フランドールはその姿に感化されて混乱し始め、美鈴は呆然と立ち尽くし――しかし状況を把握したと見るや、彼女はすぐさま行動を開始した。
 美鈴はパチュリーの反対側へと回り込むと、「咲夜さん!」と強い口調で呼びかけ始めた。そして反応が無い事を確認すると、今度はその口元へと耳を近付ける。その目は動きが見られない胸元を注視し――表情を硬くしながらも体を起こすと、美鈴は倒れた咲夜の頭をそっと支え、その顎を上げさせた。そして、口の中に異物が無いか確認し始める。
 そんな美鈴へと、フランドールが呆然と、
「めーりん、何してるの……?」
 対し美鈴は何も答えず、咲夜の鼻を摘み、呆然と座り込む二人を前に人工呼吸を開始する。しかし、呼吸は戻らない。
 表情を更に硬くしながらも、美鈴はすぐに心臓マッサージへと移行する。「一! 二!」と大きく数を数えながら、同時に美鈴は自身の体内を巡る『気』を咲夜に送り込み、三十を数えた所で再び人工呼吸へと戻っていく。
 紅魔館の門番として働いている美鈴にとっては、溺水で死ぬ人間など珍しいものではなかった。何せ屋敷の正面が湖なのだ。過去にも多数の土左衛門を見て来たけれど、幻想郷の水場でもそれは変わらない。むしろ妖精や妖怪が多い分、子供や老人の水死体は外の世界よりも多く感じられた。
 だからそう、溺れ始めた人間を目撃する回数も多いのだ。
 その上、この数年の間で、美鈴は人間と手合わせを行う回数が増えた。その結果、倒した相手が意識を失い、或いは勢い余ってそのまま湖に落ち、溺れてしまう事が多くなった。特にこれからの時期は水温が下がる為か、心停止する者も少なくないのである。そんな人間達を、妖怪である紅・美鈴は放置していただろう。けれど今の彼女は紅魔館の門番なのだ。いくらこの屋敷が悪魔の館だとしても、目の前で溺れる人間を見殺しにする、などといった悪評を広めたくはなかった。
 そういった事から、美鈴は心肺蘇生法を学ぶようになった。その結果、更に挑戦してくる人間が増える事となったのだけれど……まさか咲夜に対してそれを行う事になるとは、美鈴自身夢にも思っていなかった。
 むしろ、そんな状況はやってこないで欲しいと、人間と妖怪の違いを良く知る彼女は切に願っていた。
 けれど、現実は非情で――それを打ち破る為に、美鈴は必死に蘇生法を繰り返し続ける。と、そんな彼女の耳にパチュリーの詠唱が響いてきた。それは肉体の再生能力を高めるもので、魔女がどうにか復活した事を意味していた。残されたフランドールは咲夜の手を握り、不安げにその名前を呼び続ける。

 ――そして。
「ッ、ッ!」
 苦しげな咳き込みと同時に咲夜の呼吸が戻ったのは、それからすぐの事だった。



 ブレイジングスターと見紛うばかりの速度で飛んで行った魔理沙が、永遠亭から永琳を拉致して戻ってきた頃には、もうすっかり台風は過ぎ去っていた。
 紅魔館二階の、空間縮小に巻き込まれなかった部屋に寝かされた咲夜の呼吸は落ち着いていて、後は意識が戻るのを待つばかりとなった。彼女が何故溺水し、そしてどの程度の間呼吸が停止していたのかは解らない。けれど美鈴の処置と、パチュリーの魔法、そして無理矢理連れてこられたとはいえ十全な仕事を行ってくれた永琳の治療によって、咲夜の意識は確実に戻るだろうと思われた。
 そうして今、パチュリーは咲夜の倒れていた、地下へと続く通路の前に居る。
「……」
 台風の名残だろう強い風を遠くに聞きながら、魔女の表情は硬い。
 目の前には、黒と言っても遜色がないほどの色をした水が揺らめき、雨水と一緒に流れてきたのだろう草や葉、更には壊れた木材などが浮かんでいる。
 一度美鈴がこの中に潜ろうとしたものの、ここに溜まった水はスライムのようになっていて、奥深くまで飛び込む事すら出来なかった。そして疑問符と共に上がってきた彼女の衣服は、何故か赤黒く染まってしまっていた。
 まるで、血溜まりの中へ潜ったかのように。
「……」
 そしてこの奇妙な水とは別に、未だに解決していない大問題が一つ。この紅魔館の館主である、レミリアの行方が解らないのだ。
 咲夜の看護の合間を縫って、美鈴達と共に全ての部屋を確認したものの、どこにもレミリアの姿は無かった。彼女は吸血鬼であり、もし空間の縮小に巻き込まれていたとしても、自力で脱出出来るほどの力は持っている。そして、こんな状況でかくれんぼをやっていられるほど馬鹿ではない。
『お姉様が一緒なら、きっと咲夜も安心出来るのにね……』
 そう呟いたフランドールの声が、今もパチュリーの耳に残っている。
 だから、
「……レミィ?」
 普段そうするように、魔女は足元の水へと問い掛ける。当然のように答えは無く、水面にはゴミが浮いたまま、何の反応もない――が、暫くすると、ある変化が訪れた。魔女の声に応えるかのように、水底から何かが浮かび上がってきたのだ。
 拾い上げてみると、それは見慣れたドレスだった。普段は洗濯され、綺麗な白を保っている筈のそれは、今や血色の紅に染まっている。
 スカーレットデビル。
 彼女は、そこに居た。 







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