四方八方一方通行。

――――――――――――――――――――――――――――


  
 昨日の夜から嫌な予感はしていたのだ。
 試しに視てみた運命は確実に何か不味い事態が起こると警鐘を鳴らしていたし、屋敷のメイド達も普段以上に落ち着きがなかった。彼女達は妖精で、つまり自然から生まれた存在だ。だからその『自然』というものの様子には何よりも敏感で、まるで地震が起こる前に逃げ出す鼠みたいに、今朝の内にはその全てが屋敷から姿を消していた。
 それでも行動を起こさなかったのは、そこまで酷い事態は起こらないだろう、という楽観的な予想があったからだ。現在の幻想郷において、身の危険を感じるほどの状況に陥る可能性は皆無に近い。思い返してみれば、私が霧で幻想郷を満たした時も、西行寺の庭師が春を集めた時も、幻想郷が花で満たされた時も、自然災害のレベルにおいては相当なもので――しかしそれでも、そこまでの窮地には陥らなかった。
 或いは、もし馬鹿な人間や妖怪が私を討伐に現れたとしても、そんなものは簡単に迎撃出来るという確信があった。この屋敷には最高の門番と最強の魔女とその使い魔、そして完全なメイドが居るのだ。その上私は吸血鬼。霊夢辺りがガチで潰しに来ない限りは絶対に大丈夫だという自信があった。 
 そう。私は妄信的なまでに、自分の、この紅魔館の実力を信じていた。
「……」
 でも、甘かった。
 座り込んだベッドの上で、私は絶体絶命のピンチに陥っている。最早この場所から一歩も動けず、逃げ場を失った私は抵抗する事すら出来ない。突如襲い掛かってきたそれに囲まれながら、この時ばかりは自分が吸血鬼である事を呪った。
 死ぬ事はないと解っているのに、しかし何も出来ないこのもどかしさ。試しに弾幕を放ってみるも、部屋の家具が壊れるだけでどうにも出来なかった。
 ベッドで寝ていた私がこうなのだ。地下で眠っていたフランドールは更なる恐怖に曝されているに違いない。咲夜の助けが間に合ってくれている事を祈りながら、私は改めて部屋の惨状へと視線を向けた。
 破壊された部屋。孤立したベッド。その上にいる私。そして――周囲に溢れる、黒く濁った大量の水。
 水。
 流水。
「――最悪だわ」
 小さく呟き、襲い来る絶望と恐怖に目を閉じる。
 けれど、響き続ける雨音が、容赦なく私の心を抉っていく――



 事の発端はなんだったのか、と問われれば、それは昨日から振り出した大雨だろう。
 強い風を伴いながら雨脚を強め始めたそれは、夏の暑さを洗い流すかのように降っていた秋雨とは全く異質なもので、しかしこの紅魔館の中に居る分にはその影響を受けずに過ごす事が出来ていた。
 とはいえ、私は雨の間は外出出来ない身の上だ。暇潰しの為にやって来た図書館で、いつものように魔道書を読んでいた友人にその話題を持ち出したのは、雨の日の恒例行事のようなものだった。
「ねぇパチェ。昨日から降ってるこの雨は、いつまで続くかしらね」
 問い掛けに、魔女は本から視線を少しだけ上げて、すん、と小さく鼻を鳴らし、
「そうねぇ、大気の状態が妙に不安定だから、具体的な予想は出来ないわ。それとねレミィ、これはただの雨じゃ無いわ。台風よ」
「……あれ、台風ってちょっと前にも来なかったっけ?」
 それはまだ数日前の事だ。強い風と共に降り続いた豪雨の影響で、幻想郷の至る所で被害が出た。特に人里では強風によって家屋が倒れたりしたらしく、相当酷い被害になったらしい。
「確かに数日前にも来たわね。でも、台風というのは続けて上陸する事もあるの」
「一度でお終い、という訳にはいかないのね」
 自室から図書館に来るまでの間に、暴雨を伴った風の音を何度も聞いた。ただの雨にしては何か様子がおかしいと思っていたけれど、そうか、台風だったのか。
 そう納得する私へと、パチェは再び魔道書へと視線を戻し、
「まぁ、この屋敷は窓が少ないし、造りも堅牢で風雨には強いから、今回も耐えてくれるでしょう。でも、今年のように連続で上陸してくるのは珍しいとしても、この先も台風はやって来るし、それが紅魔館に被害を与える可能性は零じゃない。そろそろ、何か対策を考えないといけないかもね」
「そうねぇ」
 いくら造りが堅牢とはいえ、予期せぬ状況で壊れる可能性だってある。それに、少ないとはいえ硝子窓があるのだし、暴風対策に板張りをした方が良いのかもしれない。
 とはいえ、今から咲夜達に仕事を任せようとは思わなかった。こんな強風の中で外に出たら、思わぬ怪我をしかねないからだ。今回は紅魔館に耐えてもらうしかないだろう。
 と、そんな事を考えていたら、不意にパチェから声が来た。
「あら?」
「ん?」
「ピークを超えたのかしら。雨は止んだみたいね」
「そんな事まで解るの?」
「ええ」
 精霊の声に耳を傾ければ簡単なものよ、とパチェは笑い、そして再び本の虫になってしまった。そんな彼女に「ちょっと外の様子を見てくる」と告げると、私は図書館を出た。
 紅い廊下を進み、図書館から最も近い窓に近付いてみると、確かに雨も風も嘘のように止んでいた。秋の虫も鳴き始め、雲が勢い良く流れる空には小さく星の瞬きまで見えて。
「なんだ。これなら対策を考えるのは後でも大丈夫ね」
 そう楽観的に決めて、私は再び図書館へと戻った。

 選択のミスがあったなら、この瞬間だ。
 もしこの瞬間に何か対策を講じていたら、あんな状況にはならなかっただろう。

 それからすぐにパチェとの話を切り上げた私は、部屋に戻り、眠りに就いた。再び雨に降られたら、と考えたら外には出られないし、図書館で潰せる暇にも限界がある。このまま退屈に時間を過ごすよりは、いっそ早く眠ってしまって、朝から霊夢の所にでも行こうと考えたのだった。
 そうして、私の意識は眠りに落ち……暫くして、不安を煽る、巨人の唸りのような音によって私は目を覚ます事になる。
「何……?」
 再び強く風が吹き始めたのだろうか。そんな事を思いながら布団から顔を出すと、轟々と響く風の音がよりはっきりと聞こえて来た。どうやら眠る前よりも風が強くなっているようで、嫌な不安が高まっていく。その上、周囲から奇妙な水音まで聞こえて、どうにも気持ちが落ち着かない。
「……」
 ……駄目だ。咲夜に甘い飲み物でも作って貰って、気持ちを落ち着かせる事にしよう。そう思い、私はいつもと同じようにベッドから降りようとして――本能が、その動きを止めた。
 寝惚けていた意識は一瞬で覚醒し、無意識の内に召喚したグングニルを右手に強く握り締める。まるで、人間に襲われる事が日常だった時代に戻ったかのように、忙しなく周囲を確認し――すぐに、自分が拒んだ物の正体に気が付いた。
「……水?」
 水。水、水、水!
 扉の隙間から入り込んで来たのだろうそれは、ベッドの周囲に充満し、照明を落とした室内でゆらゆらと揺らめいていた。
『吸血鬼は流れる水を渡れない』
 弱点の一つであるそれが警鐘を鳴らしたのだと気付いた時、私はグングニルを送還し、ベッドに座り込んでいた。そしてこの状況を日本語で『床上浸水』という事を思い出しながら、強い焦燥と共に声を放つ。
「――咲夜!」
「お呼びですか、お嬢様」
 呼べば答える私のメイドは、珍しく少し疲れがあるように見えた。その上、普段は綺麗にセットされている髪も、汚れのないメイド服もずぶ濡れで、完全に濡れ鼠だ。
「これは一体どういう事なの」
 そんな咲夜の様子を含めての問い掛けに、彼女は隠せぬ困惑を浮かべながら、
「それが、まだ完全に状況を把握してはいないのですが……どうやら、湖が氾濫してしまったようなのです」
 この紅魔館は豊富な水量を湛える湖の畔に建っている。雨が降れば当然のようにその水かさは増し、氾濫を起こせば大量の水が周囲へと溢れ出る事になる。そんな、知識としては知っていた状況が、この台風によって実際に引き起こされてしまったらしい。……それは、この状況を甘く見ていた私のミスだった。
 急激に高まっていく不安に胸が締め付けられるのを感じながら、私は咲夜を睨みつつ、
「屋敷に水が入り込んで来たのはいつ頃」
「まだ三十分も経っておりません。何せあっという間でしたので……」
「その間、お前は何をしていたの」
「これ以上の浸水を防ぐ為に、美鈴やパチュリー様と共に防壁の作せ――」
「この馬鹿!」
 嫌な焦りが緊張にも似た焦燥感を加速させ、思わず強く叫んでいた。ああ、どうして咲夜はこういう時に機転が利かないのだろう。他の事なら完璧なのに――!
「今すぐに、フランドールを助けに行きなさい!」
 激昂と共に言葉を放つ。途端咲夜の表情に理解の色が浮かび、そして次の瞬間には姿を消していた。
 私の妹、フランドール・スカーレットの私室はこの紅魔館の地下にある。最近では自由に屋敷の中を出歩いているとはいえ、その部屋の位置だけは変わっていないのだ。
 湖からは最も遠い、屋敷の最奥にある私の部屋がこの有様である事を考えると、既に地下へと入り込む水は飽和している可能性が高い。まずは屋敷に入り込む水を防ぐ、という咲夜の発想は間違っていないけれど、この屋敷には地下があって、そこには私の妹が――流水相手では何も出来なくなってしまう吸血鬼が居るのだ。……とはいえ、咲夜は普段から私達姉妹を吸血鬼として捉えずに生活しているから、その弱点にまでは頭が廻らなかったのだろう。
 咲夜が閉め忘れていった扉の向こう。紅く伸びる廊下を眺めながら、思わず声が漏れていた。
「……フランドール」
 大切な大切な、私の妹。
 咲夜は優秀なメイドだ。そしてこの屋敷には彼女の他にパチェや美鈴、小悪魔が居る。咲夜一人では無理な事でも、彼女達が協力してくれればフランドールを助ける事が出来るだろう。そう、信じるしかなかった。

 そうして、今に至る。
「……嗚呼、」
 背中を丸めて、自分自身を抱くように腕を廻す。決して短くない時間を共有してきた咲夜達の事を、私は誰よりも信頼している。だから、フランドールは大丈夫――そう本心から思っているのに、心の奥底から絶望と恐怖が滲み出す。
 フランドールが危険な目に遭うという状況は、過去に何度も出くわして来た。しかし今回のように、私が直接あの子を助けに行けないという状況は初めてで、居ても立ってもいられない。だというのに、私はベッドの上から動く事すら出来ずにいる。
 何が最強の種族だろう。ただそれだけでは命に関わりもしない、言ってしまえば一番影響力の少ない部類の弱点が及ぼす状況に、私はその言葉通り手も足も出ない。人間ならば、他の妖怪ならばなんの障害にもならないだろうこの状況で、吸血鬼である私はどこまでも無力なのだ。
 信仰深い人間ならば、こんな時、神に祈りを捧げるのだろうか。
「……」
 悪魔とは、元を正せば神に仕えていた天使の事だ。父なる者の意に逆らい、堕天された結果、彼等は悪魔となった。ならば、ならば。私が心からの祈りを捧げれば、神に届くのではないだろうか?
 例えその『神』が助けてくれないとしても、幻想郷には八百万もの神が居る。その中の一人ぐらい、フランドールを助けてくれる為に力を貸してくれても良いのではないだろうか――なんて、馬鹿な事を考えながら体を起こす。
 神は助けてくれない。何の救いも与えてくれない。どんな敬虔な信者が相手だろうと、それは変わらない。ある意味で『平等』なのだろうその神の采配の事は、誰でもない私自身が良く理解している。何故なら、こうして私が生きているのがその証拠だ。人間を喰らわねば生きられない存在である私は、それこそ八百万の祈りを喰らってきたのだから。
 それでも、神を信じる人間は――私を悪魔だと蔑む人間達は、この状況を『天罰』だと言うのだろう。神は我等を見捨てていないと、そう歓喜の声を上げるのだろう。けれど、私はこれが罰だとは思わない。これは、ただの自然災害だ。
 だから、私は神などでは無く、咲夜達を信じ、彼女達に祈りを捧げよう。いつの時代も、弱者を救うのは神ではなく、勇者や英雄と呼ばれる人間なのだから。どれだけ世界が変化しようと、その図式は変わらない――
 ――と、そんな事を思う私の視界に、一つの影が現れた。それは恐らく、誰からも感謝されない、けれど英雄と呼ばれるのだろう少女の姿。
「……魔理沙」
「よぅ、久しぶりだな」
 箒に跨ったまま笑ってみせる霧雨・魔理沙は、まるで普段と変わらない。ちょっと遊びに来た、と言わんばかりの気軽さで部屋の中へと入ってくると、何かを待ち構えるかのように少し待ってから、
「って、どうした、元気が無いな。世界の怪獣ごっこでのお出迎えは、もう終わったのか?」
「そんな気分でも、状況でもないのよ」
「まぁ、屋敷が完全に浸水しちまったらなぁ。でも、どうしてレミリアはベッドから降りて――って、ああ、流水相手だと動けないんだっけか」
 数多くある吸血鬼の弱点の一つが、それだ。吸血鬼という生き物は(その強制力に個体差はあるものの)、流水が相手だと体を全く動かせなくなる。
 その為、今の状況で床に下りた場合、私は二歩目を踏み出す事が出来ない。空を飛んでいても同じ事で、まるで見えない壁があるかのように体が停止してしまう。それは自分の意思ではどうにも出来ない、本能レベルの拒絶なのだ。
 十字架に強く、そして日光にもある程度の抵抗のある私は、日中でも日傘一本で外出する事が出来る。だからこそ、その反動であるかのように、流水に対する抵抗力がかなり弱い。そしてそれは妹であるフランドールにも言える事だった。
 そうして改めて状況を確認した事で、不安が更に高まっていく。そんな私を励まそうという魂胆なのか、魔理沙が少々明るい声で、
「でもな、実は私も立ち往生中なんだ。台風が過ぎ去ったと思ったら、目に入っただけだったみたいでな。パチュリーが寝てる間に本を借りようっていう計画は大失敗に終わっちまった。だから外にも逃げられなくて、さっきまで図書館で時間を潰していたんだ。こっそりとな」
 悪びれた風もなく、魔理沙は悪戯小僧のように笑う。
 蔵書量の増加に伴い、パチェの根城である大図書館は地下だけではなく一階にもそのスペースを拡げ、現在の出入り口は地上に存在している。そこに居たのだという魔理沙がこうして元気にやっているのだから、図書館は浸水を免れたのかもしれない(というか、パチェの事だから何かしらの対策は取ってあったのだろう)。
 そう思いながらも、私には魔理沙の言葉の中に引っ掛かるものがあった。
「目に、入った……?」
「ん、その様子じゃ知らないのか。それじゃあ、魔理沙先生が教えてやろう」
 私が喰い付いて来た事が嬉しいのか、そう言って魔理沙が微笑んだ。そして、彼女は箒に乗ってふわふわと浮かび続けながら、
「まず、台風っていうのはな――」
 熱帯で発生した低気圧の内、風力の強いものを台風と呼ぶのだという。場所によってはサイクロン、ハリケーンなどとも呼ばれるそれは、暴風雨によって地上に大きな被害をもたらす原因となる。例えば、この状況のように。
「そして台風の目っていうのは、その中心にある空間の事をいう。この目が大きければ大きいほど、その台風の威力も大きいって事になるんだ。だから、目の中が一番風や雨が強くなる……と思われがちだが、実は違ってな」
 何故なら、
「台風の中心は風向きが乱れる為に風同士が打ち消しあって、逆に風が吹かなくなるのさ。その結果、目に入ると風や雨が嘘のように止む。しかも、時には青空すら見えるんだ。……でもな、そこを過ぎた時が一番恐ろしい」
「過ぎた後が?」
「ああ。台風の目を抜けた後ってのは、吹き返しって呼ばれる、風向きが正反対になる現象が起こるんだよ。だから、目を抜けた後は、壁や何かで防げていた風雨の直撃を受ける場合が多くてな。目に入る前よりも大きな被害が出やすいのさ」
 つまり、そうして再び吹き荒れ出した暴風雨に対し、湖はそのキャパシティを越えて氾濫してしまった、という事か。そして紅魔館が浸水の被害に遭い、現在進行形で降り続ける嵐に、魔理沙は動けずに居る――
「……勉強になったわ」
「そりゃ良かった」
 そう笑顔を見せる魔理沙に対し、ここで微笑みの一つも返せない状況なのが嫌になる。それでも、私は改めて彼女へと視線を向け、
「霧雨魔法店店主、霧雨・魔理沙」
「な、なんだよ、改まって」
「貴女に依頼が――いえ、お願いが、あるの」
 人間に対して『お願い』をするなんて、長い人生の中で初めてだ。そんな私の正面、空に浮かび続けている魔理沙の表情は驚きに満ちていた。まさか私からその単語を告げられるなんて、夢にも思っていなかったに違いない。
 それでも、私は構わずに言葉を続ける。
「私の妹を、フランドールを助けて欲しいの。あの子の部屋が地下にある事は、魔理沙も知っているでしょう?」
「知ってるけど……って、まさか、この水で?!」
 理解に至った瞬間、魔理沙が驚きに声を上げた。それに頷きを返し、高まり続ける不安を抑え付けながら、
「……さっき魔理沙が言ったように、私達吸血鬼は流水を渡れない。水の中に入ると、動けなくなってしまうの」
 そう、ただ動けなくなるだけ。でも、
「でも、部屋を満たすほどの水の中に放り込まれると、もう自分の力ではどうにも出来ず……そのまま、死ぬ事になる」
 それは、今この瞬間にも起こっているかもしれない、最悪の事態。最も影響力の少ない弱点が引き起こす、だからこそどうやっても抗う事の出来ない、死。
「咲夜をフランドールの部屋へと向かわせているけれど、この水の量だもの。咲夜一人では対処出来ないかもしれない。だから、魔理沙にも力を貸して欲しいの」
 卑怯な手段だと、自分でも思う。依頼ではなく『お願い』である以上、相手に対する強制力は低い。けれど、だからこそ、霧雨・魔理沙には有効な手段になる――私はそう考えた。全てはフランドールを助け出す為に。
 そんな私に、魔理沙は真剣な表情で、
「お前は逃げないのか?」
「フランドールが助かってからで十分だわ。あの子と私の置かれた状況は、天と地ほどに違うもの」
「確かに、水中と地上だからな……」そう言って、何かを決めるように魔理沙は小さく頷き、「解った、私も咲夜を手伝ってくるよ」
「有り難う……」
 言い慣れない感謝の言葉が、この時ばかりは自然と口に出来た。そんな私に、魔理沙は苦笑にも似た笑顔を浮かべ、
「フランドールの事が心配なのは解る。でもな、お前が殊勝だと何だか調子が狂うんだよ。だからさ、そんな風に萎れてないで、いつも通りに『お前に任せたよ』って言い放ってくれりゃ良いんだ。そうすりゃ私も気負わずに返事が出来る。っていうか、そういった我が儘を当たり前のように言ってのけるのが、吸血鬼レミリア・スカーレットってもんだろう?」
「……そう、ね」
 酷い言いようだけど、それでも少しだけ笑う事は出来た。魔理沙はそれに満足げに頷くと、
「そんじゃ、ちょっと助けに行ってくるぜ」
 箒の先端を廊下へと向け、帽子を押さえながらそう言って――一陣の風を残し、魔理沙が飛んで行く。
 一瞬で遠ざかっていくその姿に期待をかけるだなんて、一昔前ならば考えられなかった。でも、私は知っている。霧雨・魔理沙という少女がどこまでも真っ直ぐで、そして、何事にも一生懸命になる少女だという事を。
 人々にあまり好かれていないという魔理沙が、決して人々から恨まれていないのは、そういった要因があるからなのかもしれない。そんな事を思った。

 そうして、魔理沙の姿が消えて。 
 吉報をもった咲夜が部屋にやってきたのは、それから一時間以上経っての事だった。



 私の部屋を出た後、咲夜はすぐに美鈴達の所へと向かったのだという。私が咲夜を呼ぶまで、彼女達は紅魔館正面玄関前で、これ以上の水が屋敷の中へと入らぬように即席の防壁を作る作業を行っていて……具体的には、パチェと小悪魔が魔法で土嚢(のようなもの)を作り出し、それを美鈴と咲夜で積み上げていたらしい(この時点で、誰も魔理沙の姿に気付いていなかった)。
 咲夜は土嚢を積み上げる作業を小悪魔に任せると、美鈴と共に紅魔館地下へと続く通路に向かった。その時点で浸水は踝を越え、空を飛んでいくしかないような状況だったらしい。
 そうして辿り着いた先で待っていたのは、完全に水没した地下通路への入り口だった。フランドールの私室まではその地下通路を更に進む必要があり、例え潜って進んだとしても水圧の関係で扉が開かない可能性がある。そう判断した咲夜は空間の拡張を行い、新たに作り出した部屋へと水を逃がす事を決め、美鈴は通路へと更に水が入り込まぬよう、周囲にある家具や壁を壊し、それを使って即席の防壁を作る作業を始めた。
 しかし、ただ単純に空間を拡げると言っても、一の空間を百に拡げてお終い、という訳にはいかない。紅魔館は既に大小様々な空間拡張が行われている為に、不用意に空間を拡げると他の空間との干渉が発生し、拡張した空間が連鎖的に崩壊し始める可能性がある。最悪の場合、この紅魔館自体が崩れ出す可能性もあるのだ。
 もし咲夜が妖怪だとしたら、そうした危険など関係無く無尽蔵に空間を拡張させる事が出来るだろう。けれど彼女は、十六夜・咲夜は人間なのだ。そのキャパシティには限界があり、それを超えた場合にもやはり崩壊が起きる可能性がある。それを理解しているからこそ、咲夜には大きな焦りがあったという。
 それでも、私のメイドは迷わなかった。咲夜は地下の空間を拡げて新たな部屋を作り出し、そこへと通路を繋げて水を逃がし始めた。そして、それ以上の浸水を防ぐ為に美鈴が防壁を築き、水の流れを押し止めていく。
 白黒の魔法使いがそこへ現れるのは、作業を始めてから暫く経っての事だったらしい。少しずつではあるものの、地下通路に溜まった水が減り始めた中で、魔理沙は美鈴の手伝いを始めた。
『水を止めるってのは、こういう事を言うんだぜ』
 その言葉と共に彼女が完成させた魔法は、コールドインフェルノ、という氷の魔法。四つの宝玉から生み出される冷気の炎は、美鈴の築く防壁を凍らせると共に、それを更に堅牢な物とし、そしてその隙間から流れ込んできていた水をも凍り固めていく。
 これにより、地下への浸水を完全に防ぐ事に成功すると、咲夜は水の逆流を防ぐ為の空間維持に努め、魔理沙はそのまま廊下を進んでくる水を魔法で塞き止め続け、手の空いた美鈴は複数のバケツを用意し、通路の水を汲み出し始めた。
 そうして、約三十分後。
 地下通路から完全に水が失われ、水溜りが少し残る程度になった所で、水を大量に吸って重くなった木製の扉を美鈴が開いて――飛び出してきたのは、涙を浮かべたフランドール。
『ドアが開かなくて、でも壊したら駄目な気がして、誰かが来るのをずっと待ってたの』
 わんわんと泣きながら、どうにかそう告げた妹の私室は、しかし私の部屋のように水に侵されてはいなかった。
『何故フランドール様のお部屋は浸水を免れていたのでしょうか。地下通路は完全に水没していましたのに』
 咲夜はそう疑問符を浮かべていたが、答えは簡単だ。というか、私もその報告を聞くまで完全に忘れていた、ある事実。それは、フランドール・スカーレットが破壊の力を有している、という事。
 あの子の能力が暴発して部屋が壊れてしまう事が無いように、フランドールの私室は他のどの部屋よりも頑丈に作ってあったのだ。当然のようにその機密性は高く、部屋に水が浸入してくる事も無かった。妹を思う気持ちが、そのまま転ばぬ先の杖になってくれていた、という訳だ。 
 フランドール救出後、一行は図書館へと向かう事になった。図書館は図書館で、パチェによる二重三重の対策があったお蔭で全く浸水せずに済んでいたらしい。
 しかし、廊下にはまだ大量の水があり、フランドールはそこを進む事が出来ない。その為、魔理沙が引き続き水を凍らせ、その上を飛んで図書館へと向かったという(流水ではなく氷(固体)の上ならば、自由に行動出来るからだ)。
 とはいえ、廊下を満たす水の量は多く、そしていくら魔法とはいえ一瞬で水を凍らせる事は出来ない。そうしてどうにか図書館へと辿り着いた時には、三十分近い時間が経っていて――そこで、魔理沙の魔力が尽きてしまった。
『もー無理。すっからかんだぜ……』
 その一言と共に魔理沙がダウンし、その直後、小悪魔に抱かれたパチェが図書館へとやって来たのだという。こっちは体力の限界だったようで、むきゅー、とも言えないほど疲れ切っていたらしい。
 その後、咲夜が私の部屋へと報告にやって来て――報告を終えた後、彼女はパチェ達の看病を行う為に図書館へと戻っていった。 

 そして私は、未だにベッドの上に居る。
 咲夜は空間を更に拡げて水を逃がす事を提案してきたけれど、それは却下しておいた。理由は先の通り。疲れ切っている咲夜にこれ以上無茶をさせる気はなかった。それに、この状況が人為的なものではなく、ただの水害である以上、水は必ず引けて行くのだ。
 フランドールが無事だと解った事で、私の最大の不安は消えている。だから、私は去り際に問い掛けてきた咲夜へと、
「私は大丈夫よ。すぐにパチェと魔理沙の手当てをしてあげて」
「……畏まりました」
 そう答えた咲夜の顔には、『本当に宜しいのですか?』という心配げな色があった。でも、私は彼女を笑顔で送り出し……そうして再び一人になった。
 今は横になりながら、布団の中で丸くなっている。

 ――止まらぬ恐怖に、震えながら。

「……馬鹿ね、私も」
 咲夜に対して、久しぶりに嘘を吐いた。
 確かに『フランドールを失うかもしれない』という不安は消えた。けれど、私自身の安全が確保された訳ではない。今もベッドの周囲は水で満ちていて、豪雨が降り続き、暴風が屋敷を揺らしているこの状況で、吸血鬼の感じる恐怖というのは人間には決して理解出来ないものだろう。
 我が儘を言って咲夜を引き止めるのは簡単だ。彼女もそれに頷いてくれるだろう。けれど、この紅魔館が湖の底に沈むというのならまだしも、このまま耐え続ければ私は確実に助かるのだ。だから、我慢した。
 我慢したけれど――でも、こわい。
 ベッドの上で小さく体を丸めながら、私はきつく目を閉じ、両耳を塞いだ。




 どのくらいの時間が、経っただろう。
 暗闇の中。
 夢なのか、現実なのかも良く解らない中。
 丸めた背中の先にある、今は閉じられている筈の扉に、ずっと前から意識が向いている。
 何かその先に気配があるような――或いは、もう何者かが部屋に入り込んでいるかのような、心を削る圧迫感。
 過去も、未来も、現実さえも見失う。
 今がいつで、ここが何処で、敵が誰なのかすらも解らない。
 私に出来るのは、ベッドの上で小さくなり、ただ震える体を抑える事だけ。
 こわい。
 今にも、銀のナイフや白木の杭を打ち込まれるのではないだろうか。
 或いは、無機質な銃口が、もう私の頭へと突き付けられているのではないだろうか。
 一度始まった思考は加速を始め、心の内へと侵食していく。
 そうして零れ出したのは、忘れ去った筈の、過去の記憶。
 激しい不安と恐怖に塗れた、絶望の記憶。
「……」
 破砕された屋根から入り込む日光。
 周囲を満たす水の流れ。
 撃ち込まれた銃弾は銀の祝福を受け、 
 囚われた私は牢獄の中。
「――」
 あの時、私にナイフを突き付けた男は、下卑た笑いを貼り付けながら言ったのだ。
『動けない吸血鬼など、ただの小娘と変わらんな』
 そうして、ナイフが、振るわれて。
 腕を。
 足を。
 服を。
 そして、私、は、
「――あ、」
 不安は痛みの記憶を揺り起こし、
 恐怖は慟哭の記憶を揺り起こし、
 絶望は喪失の記憶を揺り起こす。
「あ――!」
 限界にまで引き絞られていた緊張の糸が弾け、私は跳ね起きる勢いと共に背後へとグングニルを放っていた。
 紅い神槍は呆気なく木製の扉を破壊し、屋敷の壁を壊して外へと飛んでいく。私はそれを確認する事無く、荒く肩で息をしながらベッドへと倒れこんだ。
 より一層風雨の音が激しくなり、そして入り込んでくる水の量も増えたけれど、今はそんな事を気にしている余裕すら無かった。
 ただただ、酷く強い恐怖が全身を震わせる。
「私、は……」
 吸血鬼は流水を渡れない。流れる水の中では動けない。それは直接死には繋がらない弱点ではあるものの、しかし人間に殺される可能性が最も高まる弱点でもあった。ここが幻想郷で、紅魔館の中で、私の命を狙う相手は居ないと自分自身に納得させようとしても――心の奥底にある、五百年分の不安、絶望、そして死への恐怖は拭えない。
 何より、今は自分自身の『幼さ』が憎い。
 どれだけ永い時を生きようと、私の成長は止まったまま進まない。それは肉体だけではなく、精神面での成長も無いという事。百の挫折、千の経験、億の知識を得ようとも、結局何も変わらないし、変われない。それが、レミリア・スカーレットという存在が抱える本当の『弱点』だ。
 私は変われないのだ。自分自身を成長させる事が――変化させる事が出来ないのだ。だからこうした八方塞がりの状況に陥ると、途端に何も出来無くなる。どうして良いのか解らなくなる。
 五百年以上生きているのだ。今までだって、何度かこうして流水の上で孤立した事があった。そしてその上で、何人もの人間に襲われた事だってあった。でも、その時の経験を今に生かせない。知識があるのに何も出来ない。何故、というのは愚問だろう。つまるところ、学習というものすら成長の一種なのだから。
 何も、何からも学べない私は、全て誰かの真似をして生きるしかなく、だからこうして独りになれば、どうしようもなく幼く弱い本質を曝す事になる。
 だから、この状況が酷く恐ろしく、怖い。そしてその強い恐怖と、逃げ場がないという焦燥などから来るストレスは、私の弱い心で耐えるには過剰過ぎた。それでも館主として、姉として、吸血鬼として、レミリア・スカーレットとして、必死に耐え続けて――でも、こわくて。
 部屋へと入り込む水の水位は上がり続け、降り続ける雨は止む気配が無く、強い風は堅牢な屋敷を紙のように揺らし、いつの間にか響き始めた雷鳴が世界を震わせる。
「――」
 ああ、だめだ。
 だめだだめだだめだ。
 れみりあすかーれっとであろうとするいしすら、くだけてしまう。
「ッ――」
 強く強く枕を抱えて、溢れ出そうとする嗚咽を必死に耐える。それでも恐くて怖くてどうしようもなくて、震えるほどの恐怖が全身を包み、逃げ出したいのに逃げられない。誰か誰か誰か。頼れる相手なんて居ないのに助けてくれる誰かを求める。私は吸血鬼で悪魔で、そんな相手を助けてくれる存在なんて居やしないと気付いている。神も勇者も英雄も、私を助けてくれない事ぐらい、解って、いる、の、に――
 駄目、だ、
「ぅ、あ――」
 張り続けていた虚勢が、砕けた。
 最早流れ続ける涙を拭う事すら出来ず、言葉にならない声を上げ、少しでも恐怖から逃れようと体を丸める。
 泣いて叫んでそれでも泣いて。そうでもしないと恐怖に心を喰われそうで。
 誰か、と助けを求め、
 誰も、と心がそれを否定する。
 素直に助けを求められないのは、私が吸血鬼だからだろうか。子供のように泣きながらも、自分は人間とは違うと、そう思っていたい――そんな、小さな小さな自尊心。
 でも、現実の恐怖を前に、プライドなんて保っていられない。
 いや、今までは保つ事が出来たのだ。五百年間、ずっとずっと恐怖を押し殺してこれたのだ。
 けど、ここにきて、酷く呆気なく限界が来てしまった。
 もう止まらない。もう戻れない。どんな恐怖や逆境にも耐える事が出来た『レミリア・スカーレット』が砕けてしまった。
 嗚呼、
 嗚呼。
 でも、それでも。
 私が、
「……」
 最後に、
「……や」
 求めた、
「……くや」
 ものは――
「……」
 ――違う。
 違った。
 ずっと叫び続けていた。
 ずっとずっと呼んでいた。
 館主としてのプライドも、姉としての威厳も、吸血鬼としての誇りも、レミリア・スカーレットとしての生き様すらも関係なく。
 いつだって、どこだって、こんな私を助けてくれる、たった一人の従者の名前を!
「さくやぁ!」
 
「――お呼びですか、お嬢様」

 部屋へと入り込む水の水位は上がり続け、降り続ける雨は止む気配が無く、強い風は堅牢な屋敷を紙のように揺らし、いつの間にか響き始めた雷鳴が世界を震わせる。
 そんな不安と恐怖と絶望に染まった世界の中、ぼろぼろと涙を流して、くしゃくしゃに歪んだ視界の先。
 やって来た咲夜の姿を見ただけで、私は救われたのだと、そう思えた。





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