四方八方一方通行。

――――――――――――――――――――――――――――


 
 五感の全てが消え失せた世界の中、私はどうにかレミリア・スカーレットとして存在していた。
 とはいえ、自分に意識があるのかどうか、という事すら良く解らない状況だった。脳みそだって消えている筈なので、こうして生まれている思考も、言ってしまえばノイズのようなもの。恐らく、他者には意味を成さない想いの残滓なのだろう。だから、パチェの声が聞こえた気がするのもきっと気のせいだ。
 さて。
 咲夜は助かっただろうか。人間がどのくらい水中で耐えられるのかは解らないけれど、そこまで長い時間ではなかった筈だ。誰かが咲夜に気付いてさえくれれば大丈夫だろう。
 パチェは苦しんでいないだろうか。ただでさえ体が弱いのに、この状況は辛い筈だ。けれど、彼女には困難を乗り越える意志がある。だから大丈夫だろう。
 フランドールは泣いてないだろうか。あの子はいつまで経っても子供のままだから、不安に押し潰されてしまいそうになっているかもしれない。だけど、決して弱い子ではないから大丈夫だろう。
 美鈴は疲れていないだろうか。彼女は妖怪の癖に優しいから、責任を感じてしまっているかもしれない。でも、みんなその力を信じているから、誰かが彼女を支えてくれる。だから大丈夫だろう。
 小悪魔は困ってないだろうか。パチュリーと一緒に居る彼女は世間に疎いから、困惑してるかもしれない。とはいえ、そこは悪魔だ。魔族としての強かさを持っている彼女なら大丈夫だろう
 そして最後に、魔理沙は笑っているだろうか。こんな事態になってしまったから、沈んでいるかもしれない。けれど、彼女は人間らしい強い心を持っているから大丈夫だろう。
 うん。
 もしも誰にも気付かれず、このままこの想いの残滓が散ってしまっても大丈夫だ。みんな強く生きていく事だろう。
 ……辛くないと言ったら、嘘になるけれど。
 そう。辛い。でも、辛いと思う私は、辛いと思考する私はどこに居るのだろう。どこに在るのだろう。脳みそさえ無くなった私が、私を『私』とどう定義しているのだろう。
 自分がレミリア・スカーレットだと、どうして断言出来るのだろう。
 それに、一体どれだけの時間が経ったのだろう。
 一日か、
 一ヶ月か、
 一年か、
 永遠か。
 或いは、一秒にも満たない刹那なのか。
 そしてこの瞬間に、どれだけの時間が過ぎ去っているのだろう。
 時間の感覚すらも消え失せたこの状況でそれを知る術は無い。
 けれど、ゆっくりと、この思考が霧散し始めているのは解る。
 それはまるで、紅茶に溶ける砂糖みたいに、私というものが溶けていく感覚。
 吸血鬼という生き物は、血の一滴からでも体を修復出来るからか、命の概念が他者とは大きく違う。
 だからだろうか。
 消えていく事への恐怖が薄い。『再生出来るから大丈夫』と、そんな不可能な事を考えてしまうほどに。
 でも、無理なのだ。
 何が無理なのか良く解らないけれど、私はもう『レミリア・スカーレット』に戻れない。
 戻れなくなっている。
 嗚呼、
 嗚呼。
 何もかもが溶けて消えていく。

 そんな時。
 見慣れた友人の魔法陣が、見えた気がして、

「……」
 今、何か聞こえたような。
「……!」
 でも、気のせいよね。
 だって私には、もう体が無い。何かを聞く為の耳が、そしてそれを処理する脳みそがないのだから。
 だから、
「……様!」
 眩しい光も、
 懐かしい匂いも、
 響く声も、
 気持ち悪い口の中も、
 誰かの手の感触も解らない。
「……嬢様!」
 解らない、筈なのに――声は、唇から紡がれた。
「……さく、や……?」
 
「お嬢様!」
 
 それは、彼女が私を助けに来てくれた時と、どこか似ていて。
 私達は似たもの同士なのかもしれないと、そんな事を思った。
 


 ぼんやりとした、夢と現の境界線を渡り歩いているかような感覚の中、どうにか体を起こしてみると、何故かベッドの周りには紅魔館の住民+αが集っていた。その中でも一番近くに居るのが咲夜で、何故か彼女は目を真っ赤に晴らしていて――突然、抱き締められた。
「良かった……!」
 状況が良く解らないけれどなんだか凄く心配されていたようで、わんわん泣きながら強く抱きしめてくる咲夜を抱き返す。大丈夫、私はここに居るよ、とそう伝えるかのように。
 そうしたら今度は咲夜の反対側に居たフランドールが抱き付いてきて、更には美鈴と魔理沙までもが飛び付いて来た。重い。でも、普段ならどうにか支えられるだろうその重さが、今はどうしてか支えられない。寝起きだからなのか、体に力が入らないのだ。そうして、わーわー言いながらそのまま五人固まってベッドに倒れこんで……妙に柔らかい何かを押し退けてどうにか顔を出すと、そこには疲れた顔をした友人の姿があった。
「おはよう、レミィ」
「あ、うん。おはよう、パチェ。……えっと、これ、何?」
「自分の胸に聞いてみなさい」
 そう答えて後ろを向いてしまった友人の目にも涙があって、それを支える小悪魔の表情も同様で。一体何がどうなっているのかしら、と思いながら、取り敢えず自分の胸に手を当てて――寝巻きも下着も着けていない事に気が付いて、そこでようやく全てを思い出し、
「さ、咲夜!」
「は、はい!」
 一気に高まった不安と恐怖と共に彼女の名を呼ぶと、すぐ側から答えが返ってきて、目の前に咲夜の顔がやって来た。彼女はトレードマークとも言えるメイド服を着ておらず、ヘッドドレスもなく、化粧すらもしていない寝間着姿だった。
 でも、彼女は自分の力で呼吸し、自分の力で行動していて。
 みんな見ていると解っているのに涙が出てきて、溢れ出す感情が止まらない。改めて咲夜を抱き締めながら、私は生まれて初めて、嬉しくて泣いた。



「それじゃあ、解答編と参りましょうか」
「別にミステリーじゃないけどね」
 友人へとその程度の軽口を叩ける程度にまで復活したところで、私は自室を出てからの状況を説明する事にした。因みに、今はパチェと二人きりだ。
 私の意識が戻りそうだ、という事で、無理に体を起こしてやって来ていた咲夜は美鈴に連れられて部屋に戻され、小悪魔と魔理沙は図書館へ。最後まで残っていたフランドールも、「安心したらお腹空いちゃった」と恥ずかしげに笑って厨房へと向かっていった。聞けばもう台風はとっくの昔に過ぎ去っていて、以前のように妖精メイド達が館内を飛びまわっているらしい。だから、食事の用意はメイド達にさせているのだとパチェが言っていた(意外にも、それなりに美味しいらしい。咲夜の指導が効いていたようだ)。
 まぁ、それはそれとして。
「取り敢えず、最初に聞いておきたいんだけど……パチェが咲夜を見つけた時、ちゃんと廊下に居た? あと、私はどんな感じだったかしら」
「咲夜は廊下に倒れていたわ。そしてレミィは、赤黒い、スライムに近いような物体になっていた」
「確信は、あった?」
 あれが私だって。そう問い掛けると、パチェは「馬鹿ね」と苦笑し、
「私を誰だと思っているの?」
「それもそうね。貴女はパチュリー・ノーレッジ。この私が唯一友人だと認めた魔女だったものね。てっきり、泣き虫のビブリオマニアだと思っていたわ」
「あら、さっきまでわんわん泣いていた女の子はどこの誰だったかしら?」
「さぁ、私にはさっぱり」
「あらそう。それじゃあ話を戻すわね」言って、パチェは真剣な表情に戻ると、「……どうして、あんな姿になっていたの」
「ちょっと、賭けに出たのよ」
 私は今、寝間着に着替えていて、足をベッドの上に投げ出すような形で座っている。見れば太股に傷は無く、綺麗に再生していた。
「賭け?」
「そう。私も咲夜も、生きるか死ぬかの瀬戸際だったから」
 あの時の状況を思い出しながら、パチェに事情を説明していく。
 部屋の水が引き、咲夜と共に外へ出た事。雷の音を聞きながらフランドールの部屋に向かった事。そして地下通路へと下り、落雷が起こり――その衝撃で、咲夜の維持していた空間が破壊され、大量の水に襲われた事。
「咲夜の能力は便利だけど、それに頼りすぎるのも問題になるって事が解ったわ」
「確かにそうね」
 そう、魔女が小さく頷き、そのまま予想もしていなかった言葉を口にした。 
「話を切ってしまうけれど、私もそれを痛感していた所よ。……図書館が、崩壊したから」
「ほ、崩壊?」
 そうして語られ始めた話は、私も危惧していたものだった。咲夜が過剰に能力を使わなければ大丈夫だろうと思っていたその事態が、一度の落雷で引きこされてしまったのだ。
「そう……。だから小悪魔の様子が少しおかしかったのね」
 部屋を去る際、彼女は「私は片付けに戻ります」と言っていたのだ。台風の後始末はメイド達が行っているだろうし、何か妙だとは思ったのだけれど、まさか図書館が崩壊していたとは。
 だというのに、館主である私はスライムになっていて、頼りの咲夜はベッドの上だ。パチェの気苦労は相当なものだっただろう。
「その……ごめんね、パチェ」
「別に良いわ。そこまで切羽詰った状況ではなかったから」
 どうして、という私の問い掛けに、パチェは天井辺りに視線を向けながら、
「レミィは、咲夜の限界が来たらこの紅魔館が崩壊するかもしれない、って考えたみたいだけれど……でも、実際にはそんな事は起こらないのよ。いえ、起こる筈が無いの。何せ、咲夜が拡げているのは空間であって、この紅魔館自体ではないのだから」
「あー……言われてみれば、そうか」
 例えば廊下を広げるにしたって、そこにある柱を横に引き伸ばしている訳では無い。もしそうだったとしたら、この紅魔館の外観すら変わってしまっている筈だ。
「まぁ、扉や家具が壁の間に埋まってしまっているから、結局対処は必要なのだけれど」
「でも、屋敷の崩壊は無いって事ね」
「そういう事。だから焦って指示を出す必要も無く、ゆっくりと確実に片付けを進めているわ」
 つまり、私が想定していたほどの被害は無く、けれど損害は大きかったという訳だ。そう思う私に、パチェが視線を戻しながら、
「それじゃあ、話の続きをお願い」
「解ったわ」
 友人に頷き返し、私は『賭け』の内容について話し出す。
「水に飲まれたあと、私はその弱点から、咲夜は溺水から動かなくなってしまって……そんな時、私は流れてきた木片で足に怪我をしてしまったの」
 身動きも取れず、目の前では大切な従者の灯火が消えかけている状況で流れ出す、死へと繋がる見慣れた紅。
「それを見た時にね、ある事を思い付いて――賭けに出た」
「その状況から? 方法なんて無いと思うのだけれど……」
「私は吸血鬼よ? その再生能力は、例えば血の一滴からでも体を復活させる事が出来るほどに強い。……そこで、逆転の発想」
 怪我を負ったからこそ思い付いた、最後の手段。
「動けないって言っても、体を霧に替える事は出来た。当然、水中で霧になんてなっても、体は維持出来ない。霧は血液と同じように水と溶け合っていって……」
「――まさか」
「そう。私はそこで無理矢理体を修復したの。当然霧と血液はこの体を形作ろうとするけれど、半ば水と交じり合っているから上手くいかない。それでも私は復活を試みて……その結果が、パチェが言うところの紅いスライムね。この体にまでは戻れなかったけれど、それでもああして一つに固まる事が出来た。つまり、体を構成する水分が何十倍、何百倍にもなって、この形を維持出来なくなったようなものね。
 でも、スライムになったとはいえ私は私。少しの間は自由に動く事が出来たのよ。だから、水中に居た咲夜を廊下へと運ぶ事が出来たの。……まぁ、脳みそも体も無い状態だから、だんだんと意識が希薄になって、何だか本当のスライムみたいになっちゃったんだけど――痛ッ!」
 突然パチェが立ち上がったと思ったら、拳骨で殴られた。普通に痛い。
「ちょっと、何するのよ!」
「レミィの馬鹿! なんて無茶をするの!」
 振り下ろした拳を震わせ、本気で怒っているのだろうパチェの声が部屋に響く。
「そんな事をして、もし元の体に戻れなかったらどうするつもりだったのよ!」
 その迫力に少し恐くなりながらも、私は小さく、しかしはっきりと、
「だって……咲夜が死にそうだったんだもの」
 一昔前だったなら、私は確実に彼女を見捨てていただろう。何せ相手は人間なのだ。助けようという気にすらならなかった筈だ。
 でも、今は違う。十六夜・咲夜という人間は、違う。
 それはパチェも同様なのか、何か言いたそうにしながらも、しかし何も言わずに椅子に腰掛けた。そんな彼女へとそっと手を伸ばして、その細く白い手を握り、
「不思議と不安は無かったわ。無意識に、パチェなら何とかしてくれるって、そう信じていたんだと思う」
「……馬鹿」
 その言葉と共に、手を握り返された。
 何か他に、もっと安全な方法があったのかもしれない。けれど、今になってそれを思い付いた所で意味は無い。
 もっと心を強くしなければ、と思う。『弱点』を咲夜に曝してしまった時もそうだけれど、床上浸水が起こっただけであの様だ。自分が成長出来ないのはもう仕方のない事なのだから、せめてその内面を、ああいった状況で冷静に思考が出来るような強い意思を持たなくては。……鍛練ですら成長だから、実際には無理かもしれないけれど、それでも努力はしていかないと。
 フランドールだけを救えれば良いと思っていた過去とは違って、今の私には護るべき相手が沢山入るのだから。
「でも、実際にはどうやって私を助けてくれたの?」
 聞き忘れていたそれを問い掛けると、パチェは机の上に置いてある魔道書へと視線を向け、
「レミィがスライムになっていた事から、私はその体が何らかの理由で融解しているのだろうと考えたの。流石に、その理由までは想像出来なかったけれどね」
 そんな無茶をするとは思わなかったもの。パチェはそう私を責めるように小さく言ってから、
「でも、そこから体を復活させる方法が中々見付からなくて……ようやく見つけたそれは、賭けのような方法だったの」
「私と一緒ね」
「今にしてみれば、最悪の一致よ。私には運命を捻じ曲げる力なんて無いのだから」
 魔法は世界の常識を変える力を持つ。けれど、奇跡を起こす訳ではない。それを理解しているのだろう魔女の表情が曇り、そして溜め息をひとつ。
 しかしすぐに私へと視線を戻すと、彼女は何事も無かったかのように話を続けていく。
「レミィは、賢者の石の効力を知っているわよね?」
「確か、その石があれば水銀から金が作れるのよね」
「正解。だけど、賢者の石にはそれ以外にも効力があって、その中の一つに『不老不死の妙薬を作り出せる』というものがあるの。まぁ、魔法で作り出した賢者の石で生成する薬だから、蓬莱の薬には及びもしないし、魔力が切れたらその効力を失ってしまうのだけれど……相手はレミィだったから、その力に賭けるしかなかった。肉体の再構成にまで辿り着ければ、あとは自己修復を行ってくれると信じるしかなかったの」
 解りやすく言えば、何年か前に行った肝試し――あの時に出逢った、フェニックスを背負っていた少女と同じ事だ。リザレクション。意識の有無は関係なく、破砕した四肢を一瞬にして回復する、蓬莱の力。
 張り巡らされた結界の中に運ばれた私は、そこでそれの焼き増しを行う事になる。しかしあんな一瞬での再生ではなく、賢者の石から作られた薬を使ってのゆっくりとした再生――って、ちょっと待て。賢者の石は錬金術によるものだ。そして錬金術による生命って言ったら――
「――ねぇパチェ、凄く嫌な事を思い出したわ」声が震えるのを感じながら、私は友人へと問い掛ける。「……もしかしてこの体って、ホムンクルスと同じ要領で作られたの?」
「えぇ、そうよ」
 そう、パチェは頷き、
「とはいっても、肉体の抽出までだけれどね。その後からは、エリクサーを使っての工程に入ったわ。でも、肉体さえ再生出来れば、吸血鬼の精神がその体を再構成している筈だから、」
「や、そうじゃなくて」
「ああ、そっち?」そこで私が感じている感覚に気付いたのか、パチェが笑みを浮かべ、「それなら気にしなくて良いわ。媒体はレミィスライムだし、あの方法を厳密に再現した訳じゃないもの。だから、別に人間の精――」
「言わなくて良い言わなくて良い!」
 慌てて止める。そうじゃないと解っても、想像が勝手に一人歩きしてしまって、何だか気持ち悪くなってきた。そんな気分を変える為に、私はパチェに話の続きを促す事にした。
「ええっと、それで?」
「幸運にも、レミィの体は再生を始めてくれて……時間は掛かってしまったけれど、こうして肉体を再生させる事が出来たのよ」
「だから全裸だったのねぇ……」
「そういう事。……今更だけど、体に不調は無い?」
 心配の色を持って聞いて来るパチェに、私は指先から蝙蝠を生み出してみせながら、
「この通り元気よ。本当にありがとう、パチェ」
 笑みと共に告げると、しかしパチェはちょっとむすり、として、
「感謝するぐらいなら、始めから無茶をしないの」
「はーい……」
 手厳しいのだった。

 そうして、あれやこれやと話をしながら時間が過ぎていき、話題が台風のそれに移った時、パチェが意外な事を言い出した。
「そういえば、レミィはまだ、湖の氾濫の原因を知らないのよね」
「え? あれって台風が原因だったんじゃないの?」
 降り続いた豪雨の影響で、湖が耐え切れなくなってしまった結果、ではなかったのだろうか。そう思っていた私に、パチェは難しい顔で、
「確かにそれも要因の一つなのだけれど、直接的な原因は別にあったの」
「別?」
「そう。実はね、今回の氾濫には妖怪の山が関係していたのよ。ほら、これを見て」
 そうしてパチェが取り出したのは、天狗の新聞だった。彼女はそこにある記事を指差しながら、
「前回の台風の時、妖怪の山で地滑りがあったらしいの。その結果、山に堤防が出来てしまって、そこに天然のダムが生まれてしまった。天狗達はそれの処理に追われていたらしいのだけれど、今回の豪雨でそれが決壊。そうして流れてきた大量の土砂と水が湖に流れ込み――」
「そして、氾濫に至ってしまったって訳ね」
 話を聞きながら記事へと目を通していくと、前回の地滑り、そして今回の大雨で起こった天然ダムの決壊についての様子がレポートされていた。排他的な天狗が自分達の暮らす場所をこうして新聞にするのは珍しいと思えたけれど、山の麓には湖があり、こうして紅魔館が水害にあったのだ。対岸にある騒霊の屋敷は元より、下手をすれば人里にまで被害が及んでいる可能性がある。その状況を鑑みて、『自分達も被害者なのですよ』とアピールする必要があると考えたのかもしれない。まぁ、そんな事をしなくても、被害を受けた側は復旧作業で手一杯だろうし、逆にそんな中で新聞なんぞを呑気に発行出来る事の方に批難が向かいそうだ。
「いっその事、どこか高台にでも引っ越した方が良いのかしらねぇ」
 冗談めかしてそう呟いて、しかし返って来た答えは真剣だった。
「かもしれないわね。いつかは、幻想郷に大地震が発生するのだし」
「あー……そういえばそうだった」
 それは、いつぞやの天人くずれが引き起こした異変のツケだ。神社に要石を挿したという話だけれど、それは地震のエネルギーを抑え付けただけであり、その発生を防いだ訳ではないという。つまり、いつかは確実に大地震が起きるという事。
 紅魔館内部の修復は、引越しなども視野に入れておいた方が良いのかもしれない。
「明日から大変になるわね」
「えぇ、本当に。咲夜が復帰するまで、レミィにはメイド達の指揮を取って貰わないといけないし」
「……なんだって?」
 予想外の言葉に固まる私とは対照的に、パチェは困り顔で、
「あの子達、私の言う事はあんまり聞かないのよね」
 それは多分、図書館に籠ってばかりいるのが原因だと思う。と、そんな事を思ったけれど黙っておいた。それよりも、今は告げられた面倒の方が重要だ。
「いきなり指揮を任せられても、昔も今も、私は屋敷の事は殆どノータッチなんだけど……」
「館主の勤めだと思って諦めて。まぁ、フォローはするわ。流石に無理はさせられないもの」
「……そう言って、結局私がてんてこ舞いになってる運命が視えるんだけど……」
「気のせいよ」
「ドリアードは関係ない……。まぁ良いわ。その代わり、今日はもう休むから」
 ぽすん、とベッドに横になりながらそう告げる。対するパチェは「はいはい」と苦笑しながら立ち上がった。そして魔道書を抱え、部屋の扉を開き、
「おやすみなさい、レミィ」
「おやすみ、パチェ」
 
 


 そうして、三十分ほど時間が経って。
「……眠れない」
 ごろごろと繰り返していた寝返りを止め、体を起こしながら小さく呟く。
 眠気はあるのだ。けれどどういう訳か、そのまま眠りに落ちてくれない。まぁ、どう見たってここは私の自室じゃないし、ベッドや枕は普段使っている物とは違っている。だから上手く寝入る事が出来ないのだろう。
 このまま睡魔を待つのにも飽きてきたし、暇つぶしに屋敷の中を散歩でもしてこよう。
 そうと決めると、私はベッドから降り、
「よっと」
 床の上に立ってみると、違和感は感じられない。両脚はしっかりと体を支え、指先まで不備無く動く。全くもって普段通りの私、レミリア・スカーレットだった。
 その事に安心しながら部屋を出ると、廊下には照明が点され、以前よりも間隔が遥かに狭くなってしまった窓の外は夜の闇に包まれていた。
「なんだ、まだ夜だったのね」
 小さく呟きながら窓へと近寄ってみると、普段見ている景色よりも高い。誰も教えてくれなかったから気が付かなかったけれど、どうやらここは二階のようだ。……いや、浸水の影響があった訳だから、当たり前といえば当たり前か。

 そんな事を思いながら廊下を歩いて行き、屋敷の二階を一周してみる。その大半は片付けられているけれど、未だに廊下のカーペットが大きく歪んでいる場所があったり、壊れた扉の残骸が山積みになっていたりする場所があった。けれど、これでもまだ二階はマシな方なのだ。階段を降りた先は、この状況に浸水がプラスされている。いくらメイド達が戻ったとはいえ、その総指揮を取っていた咲夜が寝込んでいる以上、作業効率は半減している筈だ。
 明日から頑張らないとな。そう思いながら部屋に戻ろうとして……さっきまで自分が寝ていた部屋がどこだったのか、解らなくなった。
「……あ、あれ?」
 屋敷の広さが半減している今、その部屋数も減っている。それを忘れて普段の調子で歩いていた為か、まるで夢の中に迷い込んでしまったかのように混乱してしまっていた。瓦礫のような目印があるならまだしも、それらが片付けてあるこの廊下は、まるで初めて足を踏み入れる場所のようにも感じてしまうほどで、何だか調子が狂う。咲夜が屋敷にやって来る前はこの広さが当たり前だったのに、彼女の力ありきの紅魔館に身も心も慣れてしまっていたらしい。
 とはいえ、一階にある自室で眠る訳ではないのだ。別にどこの部屋で眠っても同じかな、と思いながら歩いて行くと、一つだけ扉の隙間から光が漏れ出している部屋があった。中に誰かが居るらしい。
 これこそ光明だろうか。そんな事を思いながら扉をノックをし、その向こう側へと声を投げ掛ける。
「えっと……ここは、誰の部屋?」
 恐らくみんな二階で暮らし始めているだろうから、住民の誰かの部屋であるのは間違いない。まさか魔理沙という事は無いだろう。そう思いながら返事を待つと、
「お嬢様、ですか?」
「ん? 咲夜?」
「はい」
 その返答に促されるように扉を開くと、部屋の中にはベッドの上で体を起こしている咲夜の姿があった。彼女は読んでいたのだろう本を畳むと、柔らかい微笑みと共に、
「どうなされたのですか?」
「いや、その……迷っちゃって」
「迷う……? お嬢様の仮のお部屋は、この隣ですよ?」
 え、という言葉を残して一度咲夜を部屋を出ると、言われるがままに隣の部屋へ。するとそこには私が寝ていた形跡を残したベッドがあって、廊下にある窓から見える景色は数十分前に見たそれと同じだった。……というか、窓から見える景色で判断すれば一発だったじゃないか、私。
 まだまだ精神的な部分までは本調子に戻っていないのかもしれない。そんな事を思いながら咲夜の部屋に戻り、
「確かに隣だったわ……」
「珍しいですね。お嬢様がそういった勘違いを起こされるなんて」
「まぁ、そういう日もあるわ」言いながら、咲夜のベッドの隣にある簡易ベッドに腰掛け、「……ねぇ、なんでこの部屋にはベッドが二つあるの?」
「私が目を覚ますまで、パチュリー様達が付き添って下さっていたんです」
 パチェと小悪魔(昼)、フランドールと魔理沙(夜)、美鈴(朝)の順番で、一日中咲夜の様子を見守っていたのだという。というか、魔理沙がそこまで咲夜の事を心配しているとは思っていなかったのでちょっと驚いた。いつも屋敷に忍び込んでは怒られているのに。私が目を覚ました時もそうだったけれど、彼女は私が思っている以上に私達を大切に思ってくれているのかもしれない。
 それに、フランドール。日中あの子はスライムとなった私の隣で眠り、夜は咲夜の隣で過ごしていたのだという。あの子は誰かを失うという事に慣れていないから、他にどうする事も出来なかったのだろう。
「あの子は咲夜に迷惑をかけなかった?」
「迷惑だなんて。逆に勇気を沢山頂きました」
 困惑していたのだろうフランドール以上に、目を覚ましたあとの咲夜は動揺していたのだという。咲夜の記憶は、目の前の私を助けられずに途切れているのだ。その後目覚めてみれば、当の私はスライムになってしまっている。その動揺は想像し難いものがあった。
「そんな私に、フランドール様はいつも仰って下さいました。『お姉様なら絶対に大丈夫』と」
「そうだったの……」
 ふと、思う。
「私は駄目な姉ね。そうやってあの子に心配をさせないように……あの子だけは苦痛を知らずに微笑んでいられるようにと、そう思って生きてきたというのに。そう願って、戦ってきたというのに」
 理想と現実は違う。それは解っているけれど、でも、私は成長出来ない子供だから、思い描いた理想を現実に出来るのだと信じている。運命を操る力を持つからこそ、尚更に。
 そう思う私に掛けられた咲夜の声は、
「お嬢様」
 五百年の苦痛を覆すような、力強い声で、
「今は、私達が居ます」
 一瞬、何も考えられなくなった。でも、その言葉の意味を理解した瞬間、目頭が熱くなってきて、それでも私は頷きと共に、
「……本当、私は駄目ね」
 この屋敷には最高の門番と最強の魔女とその使い魔、そして完全なメイドが居るのだ。何を恐れる事があろう。フランドールの言う通り、私は――私達は、絶対に大丈夫なのだ。
 その事を実感しながら、洋服の袖で涙を拭う。
「……咲夜には、恥ずかしい所ばっかり見られてる感じがする」
「私はお嬢様のメイドですから」
 その微笑みは答えになっていないようで、でも私にしてみれば何よりも正解に思えた。
 だからだろうか、ここに来てようやく、『レミリア・スカーレット』に戻れた気がする。咲夜達の主であり、パチェの友であり、フランドールの姉であり、そして吸血鬼である私に、戻れた気がする。
 そうしたら燻っていた眠気が一気に押し寄せてきて、堪らず欠伸を一つ。
 歩き回って多少疲れたし、このままならすんなり眠れるだろう……と、そのまま簡易ベッドに横になろうとして、ここが咲夜の部屋なのだと思い出す。でも、出来る事ならこのままここで眠ってしまいたかった。それは多分、咲夜が側に居るからなのだろう。でも、それを直接口に出すのは何だか恥ずかしい。けど、何も言わずにここに横になるのは彼女の主として、というか常識的にも問題があるだろう。
「……」
 ちら、と咲夜の方を見つつ、あれやこれやと考える。「一緒に寝たい」と一言言えばそれで済むのに、それが出来ない自分がもどかしい。
 そうして言葉を捜していると、不意に咲夜から声が来た。
「お嬢様は、これからお休みになられるのですか?」
「え、あ、うん。そうだけど……」
「では……よろしければ、私と一緒に眠っていただけますか?」
「え?」
 予想もしていなかった言葉に思考が止まってしまう。そんな私に、咲夜は少々恥ずかしげに、
「昨日まではフランドール様達と一緒でしたから、何だか淋しくなってしまって。……それにこのベッド、一人で眠るには少々大きいんです」
「そ、そういう事なら、仕方ないわね」
 簡易ベッドから降りると、私はいそいそと咲夜の隣へ腰掛ける。何が仕方ないのかは解らないけれど、どこかほっとしている自分が居た。
 そうしてベッドの上に座ると、台風の直中に居た時の事を思い出す。あれほどの不安と恐怖を、まさか幻想郷で味わう事になるとは思わなかった。本当に大変な目に合ったものだと、今更ながらにそう思う。
 と、咲夜がベッドの上で居住まいを正し始めた。そして改めるように私へと視線を向け、深く頭を下げると、
「――遅ればせながら、助けて頂き有り難う御座います」
「主として当然の事をしただけよ。咲夜は私の物で……フランドール達にとっても、なくてはならない存在なんだから。だからね咲夜、貴女はもっと自分の体を気遣いなさい。解った?」
「はい、お嬢様」
 頷き、そして微笑む咲夜とこうして一緒に居られる事が嬉しくて、心が暖まっていくのを感じる。
 今夜はゆっくりと眠れるに違いない。そう思えた。




 照明を落とし、二人で横になる。
 静かな時間の中、すぐ目の前にある咲夜の顔を眺めていたら、不意にある事を思い付いた。それを自分から言い出すにはとても大きな勇気が必要で、でも時間を掛けると咲夜が先に眠ってしまう。
 短い時間の中での長い逡巡のあと、私は顔が真っ赤になるのを感じながら、
「ね、ねぇ、咲夜」
「なんでしょう、お嬢様」
 開かれた青い目が、真っ直ぐに私を見ている。
 恥ずかしい、
 恥ずかしい、
 凄く凄く恥ずかしい。
 でも、どうにか、言った。
 咲夜に甘えたいと、そう思ったから。
「……えっと、その……だっこ、して」
 一瞬咲夜がきょとんとして、しかしすぐに柔らかく微笑む。そして「解りました」という優しい声と共に、その腕が私の体を抱き締めた。
 それは台風の中、涙と一緒に感じた感触と同じ。
 暖かくて、柔らかい。


 その幸せな感触を逃がさぬよう、私は咲夜を抱き返し、そっと目を閉じる。
 再びこうする事が出来た幸せを、噛み締めながら。












おしまい。





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