天のいぬ。

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1

 それから一週間後。
「じゃあ、風を放つから頑張って避けるのよ?」
「はいっ!」
 そこには、椛を相手に扇を振るっている私の姿がありました。
 あの後、彼女はどうにか泣き止んでくれました。しかし、彼女は私の放った言葉が全て『自分の為の言葉』なのだと思い込んでいるようなのです。つまり彼女の中では、『文さんが敢えて汚い言葉を使って自分を罵ってくれた』と、そういった事になっているようでした。
 信頼って怖い、と感じつつも、そこまで慕われているとは思っていなかった私は面食らいました。なにせ彼女は泣き止んだあとに「有り難う御座いました」と微笑んで見せたのですから。
 こうなるともう何を言っても無駄だと観念した私は、彼女の稽古を引き受ける事にしました。それに、ここまで慕われている理由、というのも気になってしまったのです。記者としてではなく、一天狗として純粋に。
 ですが、自分を慕ってくれている理由を本人に直接聞くというのも恥ずかしいものです。新聞記者なのだからその程度の羞恥心など捨ててしまえと思うのですが、やっぱり気にしていると思われると年長者としての威厳がですね? ――なんて自分自身に言い訳をしていたら、あっという間に一週間が経ってしまったのでした。
 とはいえこの一週間、取材の合間合間ではありますが、私達はしっかりと稽古を行ってきました。仲間達の見ている前で彼女の提案を引き受けた以上、もしこれで彼女の技量が上がらないようなら私の責任問題に発展する可能性があるからです。
 まぁ、誰かに物を教えるというのは中々に頭を使うもので、いつの間にか真剣になり……その結果、私も少しずつ教える楽しみに目覚めてきていたりもするのですが。彼女は私の言葉に真摯に向き合ってくれるので、こちらも教えがいがあるのです。
「……でも、気になる事が一つ」
 それは、周囲からの視線。
 私達は滝を背に稽古を行っているのですが、どうにも見物客が多いのです。河童や妖精ならまだしも、自警隊の天狗達までもがこちらを注視している状況はちょっとやり辛いというか。普段は観察する側なので、されるのに慣れていないんですよね……。
 と、そんな事を考えていると、風を全て回避し切った彼女が戻ってきました。その動きは見事なもので、大天狗に褒められるのも頷けるほど。彼女はセンスが良いのです。
 先週の勝負も、彼女が終始冷静な状況でしたら少しは押されていたかもしれません。これなら、若くして自警隊に入隊できたのも頷けます。
「文さん、次をお願いします!」
「解ったわ。……でもその前に、ちょっと聞きたい事があるのだけれど」
「なんでしょう?」
「稽古をしている間、みんなに見られているわよね。……主に私が」
 そう、注視されているのは稽古を受けている彼女では無く、何故か私の方なのです。仕事柄他人の視線や気配には敏感なので、初日からそれには気付いていたのですが……一週間連続で見られ続け、しかもその数が日々増えているとなるといい加減無視していられません。
 そんな私の問い掛けに、彼女は荒れた息を整え、そして笑顔を持つと、
「ああ、それなら気にしないでください。文さんはわたし達自警隊のアイドルですから。みんな興味津々なんですよ」
「……アイドル?」
 記事にすらそうそう書く事が無いその単語に、少々面食らってしまいました。恨まれたり嫌われたりしているのならまだしも、アイドルですって?
「そうです。文さんはあの博麗の巫女の所や、吸血鬼が住んでいるという紅魔館へと自ら進んで取材に行くではありませんか。その勇気や勇ましさは、わたし達の憧れなんですよ」
「あー……」
 そういう事、ですか。 
 山は妖怪の住処であり、他者の侵入を拒む一種の要塞でもあります。ですので、どうしてもそのコミュニティは閉鎖的になりがちなのです。そしてそれは、外からの情報が得られ難くなる事を意味します。
 そうはいっても、私のような報道機関の天狗は幻想郷のアレコレに詳しくないと仕事になりませんので、日々様々な知識を仕入れていきますが――しかし、自警隊など山に籠っている者達となると話は変わってきます。
 例えば自警隊の場合。普段は滝を中心に山の警備に当たっている彼らですが、そもそも山への侵入者自体が少ない為、暇を持て余しているのが現状です。その暇潰しの為に河童と将棋やらをしている事に問題は無いのですが……そうした毎日の積み重ねからか、彼等は新しい知識を得ようとする事に酷く鈍感になってしまっているのです。長寿であるが故に、良くも悪くも成熟し過ぎてしまっている訳ですね。その生き方は妖怪としては間違っていないのですが、結果的にそれが山という狭い世界と、幻想郷という広い世界で暮らす者達との認識の違いを生み出してしまっているのです。
 例えば博麗の巫女、紅魔館の吸血鬼、白玉楼の亡霊、永遠亭の月人、そして神隠しの主犯を例に挙げましょう。
 これらは博麗・霊夢、レミリア・スカーレット、西行寺・幽々子、蓬莱山・輝夜、八雲・紫の事で、彼女達と面識のある者ならば、彼女達がその言葉のイメージよりも結構……いえ、かなり呑気であるという事を知っているでしょう。
 ですが、それを知らない者達からすれば、それらの単語は脅威にも成り得るのです。
 つまり、博麗・霊夢という巫女は幻想郷での規律を持つ者であり、レミリア・スカーレットという吸血鬼はここ数百年来で最強の種族であり、西行寺・幽々子という幽霊は死を操る亡者であり、蓬莱山・輝夜という蓬莱人は不老不死の宇宙人であり、八雲・紫という存在は胡散臭いスキマ妖怪である訳です。
 そして、生み出されたイメージというのは時間の経過と共に様々な憶測や想像によって脚色され、仕舞いには全く別のものへと変化してしまう事があります。見ず知らずの存在を相手にしている訳ですから、そこで極端な変化が起こっていたとしても(例えば女性である筈の人物が男性だといつの間にか言われるようになっていたとしても)、違和感を感じずにそれを事実だと受け入れてしまう訳です。
 幸いにも椛は霊夢達に対してそういった勘違いを持ってはいないようですが、きっと現実を知ったらがっかりするに違いないでしょう。特に霊夢の場合、人妖関わらず人気がありますが、その実体はお茶と煎餅さえあれば生きていけるような人間ですからね。それに一人ぼっちですし。
 まぁ、こうした認識のズレも私達が発行している新聞を読んでいれば少しは改善されるのでしょうが……天狗の新聞には嘘も混じっていますから、記事の内容を信じない者達が多いのが現状なのです。私が発行しているそれのように、嘘の無い新聞が増えてくれれば良いのですけれど。
 それはさておき、ここで霊夢達の実態を披露してしまうのも味気ないので、私はそれとなくその勇敢さなどを肯定しておく事にしました。褒められて悪い気はしませんからね。でも、アイドルというのは流石になぁ……なんて事を思っていると、彼女の口から予想もしていなかった言葉が飛び出してきました。
「……それに、わたしの家系は文さんからご恩を頂いているんです」
「恩?」
 一体どういう事なのでしょう。疑問に思う私を前に、彼女は隠し事を打ち明ける少女のように小さくなりながら、
「はい。これは、まだこの山に鬼が居た頃の話なのですが……」
 それは古い古い昔話。古くから日本に住み着いていた彼女の祖先達が、妖怪へと変化する事が出来るようなった頃のお話。
 ある寒い冬の事。彼女の祖先は仲間達とはぐれ、山の中で孤立してしまったのだそうです。冬の山に食料は無く、日に日に弱り果ててしまい……そんなある日、ついに人間に見付かってしまいました。
 彼女の祖先は必死の抵抗をしたそうですが、弱った体では人間を撃退する事も出来ません。そんな時、可憐な天狗が現れ、颯爽と彼女の祖先を救い――
「救いませんでした」
「救ってないんだ、私」
「はい、救っていないんです。助けを求めたわたしの祖先に対し、それが摂理なのですよ、と仰ったそうです。妖怪は人間を喰らい、人間は妖怪を殺す。それが当たり前の事なのだと」
 確かにそうなのですが、目の前で見捨てましたか。結構酷い事をしますね過去の私。
「ですが、それだけではなく、わたしの祖先が逝くまで見守ってくれていたようなのです」
「そうだったの……って、逝っちゃったら貴女は居ないわよね?」
「え、あ、そうですね。その、逝ってません」そう慌てて続けて彼女はちょっとしどろみどろになり、そして考えを整理するように「その、」と呟いてから、改めて語り出します。
「文さんの存在が、そのまま成す術無く殺されかけていたわたしの祖先を勇気付けたんです」
「私の存在が、背水の陣を敷く手助けをしたって事に――って、あー……そう、思い出したわ」
 そう、確かにあれはかなり昔の事です。彼女の言う通り、この山がまだ鬼神によって治められていた頃の話なのですから。
 そうして一度記憶の封が紐解かれると、あとは一気にその当時の情景が浮かび上がってきました。
 私は彼女の祖先を助けなかったのでは無く、助けられなかったのです。当時の私は今のように強い力を持っていませんでしたから、加勢すれば殺されると解っていたのでしょう。だから綺麗事を言い、見守る事しか出来なかった……。
 嗚呼、思い出しました。
 傷だらけの、しかし尚身震いするほどに美しい毛並みを持った白狼が、雄々しい咆哮と共に人間へと立ち向かっていくさまを。まさかあの状況で反撃に出るとは思っていなかった私にとって、それはとても衝撃的で、だからこそ強く記憶に刻み付けられていたのです。
 今思えば、あの瞬間を忘れずにいたいという想いが、私を記者という道に進ませたのかもしれません。記憶というのは薄れてしまうものですが、記事や記録というものは色あせずに残り続けるものですから。……まぁ、恥ずかしくて彼女にはこんな事言えないですけれど。
「懐かしいわ……。まさかあの時の白狼が、貴女の祖先だったとはね」
 思わず呟いた言葉に、彼女はとても嬉しそうな笑みを持つと、
「覚えていらっしゃったのですか! うれしいなぁ……。……っと、それでですね、わたしの祖先はその窮地をどうにか生き延びて、はぐれた仲間と再会し、この地に住み着きました。そして、将来は文さんに仕えるような天狗になりたいと望んだそうです」
「その結果に居るのが貴女、という訳ね」
「そうです! 文さんに仕えるという夢は叶いませんでしたが、こうして一緒に働けるというだけで、わたしの一族には至上の喜びなんです!」
 嬉しげに、もう本当に心から喜びながら彼女は言います。その表情は私には眩しすぎて、でもどこか羨ましく思えました。
 何だかんだで私も結構長く生きています。そんな中で、まさかこんな大層な望みを持たれているとは思っていもいませんでした。
「……でも、どうして貴女の代になるまでその想いを果たせられなかったの?」
 と、思わず問い掛けた言葉だったのですが、どうやら彼女には地雷だったようです。喜びから一転、一気に萎んでしまった彼女は、それでも気丈に振舞いながら、
「お恥ずかしながら、我が犬走家はあまり人化が得意ではなくて。その為なのか、天狗として高い神通力を得る事が出来ず、わたしが生まれるまで自警隊に加わる事すら出来なかったんです」
「そうだったの……。ごめんなさい、不躾な事を聞いたわ」
 どうりで『犬走』という名前に聞き覚えが無いと思いました。でもだからこそ、彼女が持つ強い想いが納得出来た気がします。……というか、そこまで想っている相手と初めて手合わせをした時に、その相手から馬鹿にされてしまえば、嫌でも頭に血は上ってしまうでしょう。むしろ、そこで失望されなかっただけ私は幸せなのかもしれません。
 ……って、話を聞けば聞くほど、彼女に入れ込んでしまっている感じが。出逢った当初は面倒臭いという気持ちばかりが先行していましたが、今では逆にもっと頼って欲しくなってきています。
「……ま、これじゃあ仕方ないわね」
「何か仰いましたか?」
「いーえ、なんでもないわ。それよりも、稽古を続けるわよ?」
「はいっ!」
 そうして、再び風を放ちます。そろそろ取材の時間なのですが、今日は一日彼女に付き合ってあげる事に決めました。それが彼女にとっても、私にとっても良い方向に繋がる決断になるのだろうと、そんな風に思いながら。



 そんなこんなで時間は過ぎていきまして。
 取材の合間に椛と稽古を行うのが日課となり、それが当たり前の日常となるまで、時間は然程要しませんでした。覚えの良い生徒を相手に稽古を行う事が楽しくなってきたのもありますが、純粋に彼女と一緒にいる時間が大切なものになってきていったのです。
 時には椛と共に取材を行ったり、新聞の製作を手伝ってもらったりもしながら、私達は沢山の時間を共有するようになりました。感覚的には、年の離れた妹が出来たような感じでしょうか。
 そうして、騒がしくも楽しく、緩やかで暖かな時間が過ぎて行き――

 ――神様が、やってきました。

 人生とは予想通りにはいかないものですね、全く。





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