天のいぬ。

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 どうしてこんな状況になっているのでしょう?
 そんな事を思いながら、私は目の前の空間すら斬らん勢いで振るわれる大太刀を回避していきます。三尺以上はありそうなそれを片手で扱う彼女の技量には驚きつつも、しかし脅威は感じられません。風を読み、そして操る事の出来る私を斬ろうとするにはまだまだ速さが足りないのです。
 ですが、太刀を振るう彼女の表情はまさに真剣で、童顔の顔には必死さが滲んでいます。それなのに可愛らしさを感じるのは元が良いからなのでしょうね。当然のように写真栄えしそうなので、この状況を写真に収めれば新聞の発行部数増加の手助けをしてくれるかも……って、相手を観察している場合じゃありませんでした。
 袈裟に走る白銀を避け、追撃を行う為か刀身を返す彼女から距離を取りながら、私はこんな状況になった切っ掛けを思い出します。
 そう、あれは三日前。取材から帰って来た折に、同僚から自警隊に新しい天狗が入隊したという話を聞かされたのです。とはいっても私はただの新聞記者であり、自警隊との直接の関係はありません。天狗社会の上下関係が厳しいといっても、部署が違えばその勝手も変わってくるものですから。なのでその時は『頑張ってもらいたいものですね』ぐらいにしか思っていなかったのです。
 しかし今日になって、急にその白狼天狗と顔を合わせる事になってしまいまして……それから、えーっと、
「――そう、突然こんな事に」
 大きく空を斬った太刀を構えなおす彼女を見ながら、誰にとも無く呟きを漏らします。
 顔合わせといっても普通に挨拶を交わしただけで、私から喧嘩を売ったつもりはありませんでした。まぁ、「名前の通り犬っぽいですね」なんて言いながら頭を撫でたりはしましたが……って、あ、もしかしてそれが悪かったのでしょうか。この状況になったのはそれからすぐ後でしたし。撫で心地が良かったので少々長い間撫で回させて貰いましたが、あれが彼女の逆鱗だったのかもしれません。うむむ。
 そういえば「辱められた!」とか叫んでいたような気もします。彼女は久々の新人さんだったらしいですから、私の行動でその立ち位置が決まってしまったのかもしれません。
 つまり、犬、と。
 そもそも白狼天狗といえば天狗の中でも地位が低く、下っ端扱いされている者達です。そこへ来て犬なんて呼ばれた日にゃあ、弄られ対象になるのは確実でしょう。……まぁ、天の狗と書いて天狗ですから、実際にはイヌと呼ばれる事にマイナスのイメージを抱く必要は無いのですが、やはり『狗』と『犬』では違うのでしょう。日本語って難しいですね。
「ねぇポチ」
「誰がポチですか!」
 あれ、ちょっとしたお茶目だったのに。最近の若い子は冗談も通じないようで。困ったものです。
「冗談?! 貴女はこの状況でも冗談を言えるのですか?!」
「ええ、まぁ。私は貴女から脅威を感じていないもの」
「ッ!」
 おお、赤くなった赤くなった。耳まで真っ赤ですよ? ですがこんな簡単な一言で理性を欠いているようでは哨戒天狗として勤まりません。山に侵入して来た者の影響力を判断し、それが危険なものか否かを見極めるのが彼女達の役目であり――その判断を相手の口撃で狂わされてしまうようでは哨戒天狗失格だからです。
 それに、怒りというのはどうしても剣先を狂わせるもの。このままだらだらと戦い続けても互いに利益は無いでしょう。
「じゃあ、終わりにしましょうか」
 そう告げると、私の言葉の意味が理解出来ないのか、彼女の剣先が更に大きくぶれてしまいました。ああ、本当に駄目ですねこの娘は。動揺し過ぎです。
「まぁ、リベンジは受け付けてあげますよ――」
 言葉と共に、扇を一閃。
 上から下へ。叩き付けるように生み出した風は視覚出来るほどの密度を持って彼女へと。当然のように彼女が回避行動を取りますが――しかし、その動きは遅過ぎました。
 大太刀を持った姿が一瞬で風に飲まれ、そのまま地面へと落下していきます。まぁ、流石に普段なら耐え切れるのでしょうが、冷静さを欠いていたこの状況では、私が風をどの方向から生み出すのかを把握出来なかったのでしょう。折角の眼も、これでは持ち腐れというものです。
 私達鴉天狗が風を操るように、彼女達白狼天狗は千里先まで見通す事の出来る優秀な眼を持っています。解りやすく言えば千里眼ですね。そしてそれは比類なき状況把握能力を有しているという事であり……例えば今のように一対一で敵と対峙している状況ならば、相手の行動の先を『視る』事も可能なのです。
 とはいっても、それは未来視という訳ではなく、相手の動きや周囲の状況から導き出す行動予測になります。……まぁ、少々無理難題を言っているような気もしますが、我々は人間ではなく天狗です。その程度の事が出来なくては種族としての地位を保てないのです。
「さて、取材にでも行きますか」
 呟きながら視線を落とすと、大太刀を手に彼女が立ち上がろうとしている事に気付きました。ですが、もうそこに戦意は無いでしょう。これ以上戦っても彼女に勝ち目はありませんし、それを理解出来ずに突っ掛かって来るようならただの阿呆だからです。
 当然彼女は阿呆ではなかったようで、私を真剣な目で睨んでくるだけ――って、あれ?
「……」
 なにかこう、視線に敵意がありませんよ? むしろ熱っぽいというか……このままこの場所に留まっていると、何か妙な事に巻き込まれると私の勘が告げています。ですが、妙な事というのは結果的に記事のネタになったりするのです。例えばこれがスクープの切っ掛けだった場合、確実にあとで後悔する可能性が――なんて戸惑っていたら、
「射命丸さん! いえ、文さん!」
 注がれる、すごい、熱視線。
「……何かしら」 
「わたしに稽古をつけてください!」
 嫌な予感的中――!
 しかも皆見てますし、これはどうやってもNOと言えない状況ですよ? あれ、もしかして嵌められた? いやまさかそんな事は無いでしょうが……でも、人目をはばからず戦い始めてしまった私も悪いのでしょう。だったら初めから逃げれば良かったのかもしれませんが、目の前の戦いから逃げてしまうと「お前記者の癖に逃げてんじゃねぇよ」的な空気が生まれるのは必至なのです。嗚呼悲しきかな報道人人生。危険に飛び込んで糧を得る生活……。
 よし、決めました。
「考えさせてくださーい」
 逃げます。だって面倒ですから。最近は大きな事件もありませんし、ネタ探しに忙しいのですよ私は。
 そうしてスタコラと去ろうとする私へと、尚も真剣な言葉が続きます。
「お願いします!」
 無理です。
 って、皆の視線が痛いのは気のせいでしょうか。傍観していた同僚が『やってやれよ』と言わんばかりの目をしています。なら代わってください。無理? そんな殺生な。そもそもですね――
「文さん!」
 あー。
 出来たら耳を塞いで逃げ出してしまいたい。スクープは欲しいですが面倒事は嫌いなのです。ですがまぁ、ここは肯定の意を示す以外に取れる手がありません。
「……解った、解ったわ。だからそう大声で叫ばないで。みんな出てきちゃったじゃない」
 今や自警隊を始め、報道機関に所属する私の同僚達もこの騒ぎに何かネタの匂いを嗅ぎつけたのか顔を出してきています。もしこれで彼女の上司である(つまり自警隊を率いている)大天狗でもやって来た日には、断るにしろ引き受けるにしろ面倒な事になりかねません。というか、もう今の時点で十二分に面倒なのですが。
「ああもう、どうしてこんな事に……」
 嘆いたところでもう遅く、私はキラキラした目でこちらを見つめてくる犬走・椛の相手をする事になってしまったのでした。



 ……とはいえ、逃げられるなら逃げ切ってみたいと思うのが人情というものでして。
 ちょっとした騒ぎが生まれ始めてしまった滝から逃げるように場所を移すと、私は彼女へと問いを放つ事にしました。
「取り敢えず一つ聞かせて。どうして私に稽古を?」 
「わたし、ずっと文さんに憧れていたんです!」
 夢見ていた相手と会話出来ている事が嬉しくて堪らない、的なトーンで返事が返ってきました。……意味が解らない。
「憧れていたって……じゃあ、どうしてさっきは私に突っ掛かって来たの? 貴女はその、私の行為に怒ったのでしょう?」
 私の言葉に、きょとん、という顔をする彼女。うわぁ、反則的に可愛いですが今は何かムカつきます。
「文さんの行為に、ですか? いえ、わたしは怒ってなんていません」
「『辱められた』とか叫んでいたじゃない。まぁ、周りが五月蝿かったから良くは聞き取れなかったのだけれど」
 膨大な水量を誇る滝のすぐ傍で会話をするな、という話でもあるんですが。というか、そんな状況で新人を紹介する方もどうかしていますね。そんな事を思っていると、彼女が少し恥ずかしげに、
「あ、あれは、恥ずかしいです、と言ったんです。まさか、頭を撫でられるとは思っていなかったので……」
 もじもじと俯きながら呟く彼女。ああもう、なんでこう逐一可愛いんでしょうねこの娘。もしこれが演技だとしたら三千世界の彼方へと旅立ってもらいたいところですが、天然みたいなので反応に困るというかなんというか。まぁそれは兎も角、「はずかしいです」と「はずかしめられた」ですか。あー、何か似ている気がするようなしないような。……耳掃除は毎日しているのですが、これじゃあ記者失格ですね。どんなに五月蝿かろうと騒がしかろうと、相手の発言を一字一句間違えずに記録していくのが記者として当然の行いですのに。
「どうやら私が聞き間違えていたみたいね……。なら、どうして突然太刀を向けてきたの?」
 というか問題はそこです。もし彼女が私へと突っ掛かって来なければ、こうして二人で密談めいた事をやらなくて済んだのですから。
「それは、文さんが『私ぐらい倒せないと、自警隊でやっていくには大変ですよ?』と言っていたからです。覚えていらっしゃらないんですか?」
「あー……」
 覚えていますよそりゃあ。でも、あれはあの場に居た天狗達全員へと向けた冗談というかなんというか。ほら、隣に同僚もいましたし、自警隊には古くからの知り合いもいますし。
 でもだからって素直に「あれは冗談だったの」なんて言おうものなら、凄まじい勢いでの謝罪を受けそうで結構怖いですねこの状況。どうやら彼女は名前にある『犬』のように、主人の行動一つで反応を変化させ――
「――って、誰が主人なのよ誰が」
「あ、文さん?」
「え、ああ、ちょっと風の囁きがね……」
 そう呟いて話をごまかします。慕われているのは悪くないですが、変に思われるのは嫌ですからね。
「えっと、そう、風よ。私が貴女へと風を放つまで、結構本気で太刀を振るってこられた気がしたんだけど、あれは一体どういう事?」
 憧れている相手に本気で剣を向けるヤツは居ないでしょう。そう思っての問いに、彼女は困惑気味に、
「わたし、これでも剣の腕が立つと言われてきたんです。以前、大天狗様に褒められた事もあるぐらいで」
 あんの野郎、余計な事を……。そう思う私へと、彼女は言葉を紡いでいきます。
「それで、わたしちょっと浮かれていたみたいです。天狗が天狗になっていた、なんて笑えませんけど……」
「……という事は、私が真剣に相手をしなかったから、頭に血が上ってしまったとかそんな感じなのかしら」
 自分は剣の実力があるんだー! という子供染みたプライドがあったが為に、それを逆なでするような私の行為に逆上してしまったのでしょう。そう思って告げた私に、
「そ、そんな感じです……。それに、恥ずかしながら、文さんを前にして舞い上がっていたみたいで……」
 予想とは違う反応ですが、そう言って彼女は俯いてしまいました。恐らく、頭に血が上った事で、獣の闘争本能が呼び覚まされてしまったのでしょう。獣から妖怪に至った者には良くある事です。
 しかし、この妖怪の山は厳格なる上下関係の出来上がった縦社会です。そこで「頭に血が上りました」などという言い訳は通用しません。そんなもの、押さえ込むのが当然だからです。
 私は溜め息を吐きたい所をどうにか我慢し、彼女へと言い聞かせるように、
「良い? 自警隊に所属する天狗に必要なのは、冷静な判断能力と観察能力よ。その為に、千里を見通す眼を持つ貴女達白狼天狗が警備の中枢を担っているの。それは理解してるわよね?」
「はい……」
「だったら、まずはそこをどうにかしないと。貴女を鍛えようにも、実戦で暴走してしまっては意味が無いのだから」
 よし、綺麗に纏まりましたよ! 自制心を高める鍛練となれば私が相手をしなくてもどうにかなる筈です。というか、武道ならまだしも、心の鍛練は私の専門外ですからね。これで今まで通りの日常が戻って来てくれるでしょう。ビバ平穏。
 ……や、まぁ、どうしてこんなにも必死に彼女を遠ざけようとしているのか、その理由は解ってるいるのです。
 正直恥ずかしいのですよ。嫌われる事の多い記者をやっている為か、こうやって純粋に好意を向けられる事に慣れていないのです。それに、なんだかむずがゆくて。
 そんな私を前に、彼女は悲しげに、
「解りました……。では、一つ文さんにお願いがあります」
「なにかしら」
 まぁ、無茶な事を言い出さなければ聞いてあげましょう。なんて思いながら返事を返すと、彼女は真剣な顔で、
「わたしを罵ってください!」
「解ったわって何言ってるの貴女?!」
 予想外にもほどがありますよ?!
 そう一気に混乱する私へと、彼女は言うのです。
「文さんに罵ってもらうのが一番苦しいですから。それを我慢出来れば……きっと、自制心を高められる筈です!」
 いや、いやいやいや。流石にそれは無いですって。そりゃあ罵倒されながらも耐える事が出来れば自制心が高まるかもしれませんが、私と貴女は今日が初対面なんですよ?!
 そう叫び出したくなるのをぐっと抑え、彼女の顔を見返します。そこにあるのはどこまでも真剣な表情で――だからこそ、そこに裏があるような気がしてきました。あれですかね、これは嫌がらせか何かなんでしょうか。彼女には悪いですが、ここまで来るとそれを疑いたくなってしまいます。
 そもそも、私は子供を相手にしていられるほど暇ではないのです。今日もこれから取材を行い、夜までに記事を仕上げて明日の朝一には新聞を発行しなくてはならないのですから。
 ですので、こうやって巫山戯た態度を取られると流石に堪忍袋も持たなくなってくると言いますか、
「……貴女は阿呆ですか?」
 ほら、口が勝手に言葉を紡いでしまいました。まさか私にそんな事を言われるとは思わなかったのか、彼女が目を丸くしています。もしその好意が本物だったとしても、これで嫌われる切っ掛けを作ってしまったに違いありません。
 少し残念ですが、本人が望んでいるのだから仕方ありませんよね。まぁ、初対面の相手にキレる私も大概ですが、真剣を向けられるよりは遥かにマシです。
「貴女はとんでもない阿呆なんですね?」
 ここまできたら彼女の望み通り罵ってあげましょう。時には心を鬼にして後輩に接するのが先輩の役目ですし、一度ガツンと言っておけば、もうこんな馬鹿な事は言い出さなくなるでしょうから。
 では、
「良いでしょう。いえ、全く持って良くないですがそういう事なら私も腹を決めましょう。元々貴女に稽古をつけるつもりなんてありませんでしたから逆に好都合です。今から貴女を罵って、こんな状況をさっさと終わらせる事にします。そもそもですね、私は新聞記者なのですよ。記事を書き、それを発行する事で生活している訳です。貴女達から見れば華やかな職業かもしれませんが、実際にはそんな事はありません。そんな私に憧れていたですって? 寝言は寝て言ってください。人の表層しか見ていない癖に、その人物の本質まで捉えた気にならないで欲しいものです。愚かしい。そうやって勝手な幻想を押し付けられる側の迷惑を考えた事がありますか? 新人が来たからと言われて挨拶に向かったら、突然剣を突きつけられた者の気持ちが解りますか? まぁ、妖怪に成りたてのお子様には解らないのでしょうね。ですがそれが迷惑だというのですよ。こちらにも仕事というものがあるのです。山に詰めていれば良い貴女達とは違い、私は幻想郷中を回らねばならないのです。その苦労が解りますか? 雨だろうが雪だろうが雹だろうが雷だろうが濃霧だろうが、何か事件が無いかと飛び回らねばならない者の気持ちが――」
 って、あ、これじゃただの愚痴ですね。まぁ、ぶっちゃけ苦労なんてありませんし、事件を探すのは楽しいのですけどね。時には嘘も必要だという事です。無駄に敬語なのがこの嘘の味噌ですね。……一部本音が混じってますけど。
「貴女には――短気で単純なお子様には理解出来ないでしょう?」
 しかしまぁ、語彙が少ないですね私。というか表現の幅が狭過ぎて言ってて少し悲しくなってきました。まぁ、実際に記事を書いていれば様々な言い回しが出て来るものなのですが、口頭となるといまいち上手く言葉が出ません。難しいものです。
「それにですね――」
「……」
 と、気付けば彼女の手が腰の太刀に伸びていました。このまま言葉を重ねていけば、これ以上迷惑を被る事も――って、何か嫌な予感がビビっと。
 先程から、小さく肩を震わせながらも、彼女は一歩も動いていません。その左手は剣の鞘を強く掴んでいますが、しかし右手は柄を握らずにきつく握り締められていて、そしてその表情は俯いたまま窺えず。
 一見するとそれは怒りに震えているようで……でも、見方を変えれば私の言葉を必死に耐えているようで。
 それが勘違いで済めば良かったのですが、小さく鼻をすする音が聞こえてきてしまっては、もうこれ以上彼女に言葉を放つ事なんて出来ませんでした。
「……ほら、泣かないの」
「ッ!」
 俯いている頭を撫でようとした瞬間、彼女が勢い良く顔をそむけてしまいました。
 全く、罵ったら罵ったで(というか取り敢えず文句を言い続けたら)これですか……。一体私にどうしろというのでしょう。
「困ったわねぇ……」
 しつこい子供は嫌いですが、だからといって泣いている子供を見捨てられるほど心は狭くないのです。
 小さく泣き始めてしまった彼女を前に、私はどうする事もできないまま、その場に立ちつくしかなかったのでした。






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