そんな和解。

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 次の日。
 一ヶ月という月日は長いようで、しかし使い方を間違えればとても短いものになってしまう。それを回避する為に、俺とレアリィはこれからの事を話し合っていた。
 まぁ、話し合いと言っても、俺の部屋で朝食後のコーヒーを飲みながら、なのだが。
 その朝食は全てレアリィの手によって作られた物だった。
 昨日教室から返って来たあと、俺はレアリィに食事をご馳走した。そのお返しにと、今朝はレアリィが料理を作ってくれる事となったのだ。
 なので、晩飯はキッチン周りの説明を兼ねて一緒に作り……今朝目を覚ましてみれば、見事な朝食が出来上がっていたのだった。
 というか、金髪蒼眼のレアリィが味噌汁から始まる日本料理を作ったのはかなり意外で、しかも美味しかった。唯一問題があるとすれば、二人とも起きる時間が遅く、半ば昼食の時間に被ってしまった事ぐらいだろう。そんな遅い朝食を食べながら、今夜の夕食は俺が作ると約束する。
 そうして食事が終わり、少しゆっくりとした時間の中、レアリィが口を開いた。
「まずは、先生とちゃんと話をしなければいけないと思うんです。聞くべき事は沢山ありますし」
「まず聞かなきゃいけない事は、俺の記憶について、か。実際、まだ先生があの女の人だっていうのが頭で理解出来てないんだけど……」
 と、小さくぼやいた途端、レアリィが焦りの色を浮かべた。
「どしたのレアリィ?」
「えっと、あの……重要な事を忘れていたのを思い出したんです」
 問い掛けに、レアリィは困ったように苦笑すると、
「この部屋にやって来た最大の理由を忘れていました」
「最大の理由?」
 俺の言葉に頷くと、レアリィは自分の鞄を手に取った。そしてそこから杖を取り出し、
「そうです。まず、先生の事が頭の中で結び付かないのは、まだ魅了の魔法が完全には解けていないからなんです。そして最大の理由というのは、その魅了を解く事。その事も説明する予定だったんですけど、昨日は色々あったのですっかり忘れてました……」
 恥ずかしげに言うレアリィに、しかし俺は驚きながら、
「その魔法、解く事が出来るのか?」
「多分、ですが。本来ならばすぐに解除の魔法を実行するんですが、この世界だと『常識』に縛られてそう上手くいきません。ですから、昨日は魔法についての話を説明していったんです。そうやって多少でも理解が深まっていれば、魅了が解ける可能性が上がりますから」
「そうだったのか……。ごめん、それなのに俺は、何も考えずに部屋を飛び出しちまったんだな」
 混乱があったとはいえ、無計画な行動過ぎたと後悔する。
「いえ、あの状況では仕方なかったと思います」
 だが、レアリィは優しく微笑みを返してくれた。しかし、その表情がすぐに曇ってしまう。
「それでも、どうやって携帯電話のアドレスや履歴、それに写真などを改変したのかは私には解りません……。でも、ご友人さんが魔法使いで、魅了の魔法を私達に使ったのだとしたら、魅了を解くと同時に記憶が戻る可能性があります」
 言いながら、レアリィは杖を構え、
「何はともあれ、まずは魅了の解除を行いますね」
「解った、やってくれ」
 俺が答えると同時に、レアリィが小さく呪文の詠唱を始めた。その言葉はやはり異国の言葉で、俺にはどんな呪文が紡がれているのかは解らない。
 だからだろうか。まるで歌のように声は響き、部屋を満たしていく。
「――そして解き放て」
 最後の一小節と思われるものが詠い上げられて、それと同時に、対面して座っている俺達の中心に小さな風の渦が発生した。
 それを確認すると、レアリィがつ、と杖を動かす。
 瞬間、
「――ッ?!」
 まるで扇風機の『強』の風を受けたような感覚。風の渦が中心から弾け、顔面に向かって風が吹き抜けていった。
「どうですか? 今ので一応魅了を取り払ったんですが……」
 少し自信無さそうにレアリィが言う。
「もし魔法に対する知識が無かったら、今のはただの風と認識してしまいます。でも、今では魔法に関する知識がありますから、そういうものだ、として体が反応します。そうする事で、魅了によって偽装されていた記憶が解け易くなる筈なんですが……」
 聞こえて来たレアリィの言葉と同時に、先生の顔を思い出し――
「――思い、出せる」
 それは、先程まで繋がらなかったのが嘘のように簡単に、先生と女性の姿が重なった瞬間だった。
 良かった……そう思いほっと一息つく。しかし、レアリィは困惑の色を浮かべていた。
「どうした?」
「いえ、あの……一応自分にも魔法を掛けたのですが、何故かご友人さんの姿を思いだせなくて……」
「アイツの事が?」
 言われて、同じように俺も友人の事を思い出そうとする。
 しかし、
「名前……」
 やはり、友人の名前を思い出す事は出来なかった。
 だから当然のように混乱が走って、思わず声が出ていた。
「何で、なんだ……?」
「これは予想ですが……私の力ではご友人さんの魔法を解く事が出来なかったんだと思います。この世界では全力で魔法を使えないというのもありますが、私もまだまだ未熟なので……」
「そうなのか……。でも、先生の事は思い出せるようになったんだ。ありがとうレアリィ」
 俯き気味になってしまっているレアリィに感謝を伝える。
 こうして思い出せるようになってみると、何故忘れていたのかが解らないほど鮮明に簡単に、先生の声や姿を思い浮かべる事が出来た。
「取り敢えずアイツの事は置いておこう。向こうが覚えてるって言ってきた以上、アイツが存在していたのは確かなんだしさ」
「解りました。でも、この事も先生にも聞いてみないといけませんね。先生なら魅了に掛かっていない筈ですから、私達が思い出せない事も覚えているかもしれませんし」
「となると、やっぱり早めに先生に逢いに行かなきゃだな。でも、レアリィは平気……?」
 一昨日の夜、怒りに任せて先生を追い出してしまった話は聞いていた。
 短い一ヶ月を効率良く使う為に、出来ればすぐに先生の所へ向かいたい。しかし、急いで先生の所に向かって、二人がまた口論になってしまったら意味が無いのだ。
 けれど、答えるレアリィの瞳にははっきりとした意思が籠められていた。
「まだ完璧な心の準備は出来ていませんが……でも、もう大丈夫です」
「なら、今日にでも先生の所に行こう。俺達の疑問を解決する為に」




 某所。
 空の、「夜城が淹れたコーヒーが飲みたい」という一言により、夜城は使い慣れないキッチンで格闘していた。
 今は、一昨日帰ってきてからずっと沈んだ表情のままでいる女性からなんとかコンロの使用方法を聞きだし、やっとお湯を沸かし始めたところだった。
 女性に何かあったのかもしれないが、根掘り葉掘り聞くのは野暮……という事で二人は何も聞いていなかった。
 それよりも、夜城には美味しいコーヒーを淹れる、という事しか頭になかった。
 豆を挽き、沸いたお湯でカップを温める。ドリッパー等は元居た世界と似た物があった為、別段迷う事無く工程を進めていく。
 そうして、数分後にはコーヒーの豊かな香りが部屋に満ちていた。
「よし、と」
 昨日から二人は女性の部屋ではなく、使われていない別の部屋で寝泊りをしていた。
 女性の部屋と間取りは同じものの、家具などは殆ど置かれていない。あるのはコタツと布団、そして小型のヒーターぐらいだ。とはいえ、コタツがドン、と居座っている為に、殺風景さというのは殆ど感じなかった。
 湯気を立てる珈琲を盆に載せると、夜城はキッチンから続く六畳間へ。そこにあるコタツに入り、うとうとと眠たげな顔をしている空の前へ珈琲を置いた。
「ほら、お望みの品」
「ありがとー」
 眠たげに微笑むと、最愛の恋人がゆっくりと珈琲を口にする。
 その正面に腰を下ろすと、夜城もコーヒーを飲み始めた。空に淹れたものよりも少し濃い目だが、それでも満足な味に仕上がったと彼は思う。
「ん、美味しい」
「そう言ってもらえると何よりだ」
「やっぱりさ、お店とか開いたら繁盛しそうじゃない?」
「んな事は無いって。俺なんかよりも美味く淹れる奴はごまんと居るだろうからな」
「そんなものかしら」
「そんなもんだ」
 そして会話が途切れ、部屋に静寂が満ちる。
 時計すらない部屋の中、ゆったりと時間が過ぎていくのを感じる。これは眠たくなるのも解る気がした。
 そんな時だ。夜城の耳にドアベルの音が聞こえて来た。音の大きさからしてこの部屋ではなく、女性が居る部屋だろうと予測する。
 耳を澄ました夜城を見て、空が眠そうな声で聞く。
「んー、何かあった?」
「いや、隣に客が来たみたいだ。勘違いじゃなければ、だが」
「まぁ、私達には関係無いね」
「確かにそうだな」
 答えて、夜城は珈琲をもう一口。そして、ぽつりと呟く。
「殺人鬼、探さないとな」
「うん。まぁ、まずはこの世界に慣れないとだけどね」
 言いながら、空は欠伸を一つして、
「でも今は、この眠気がさいゆーせん、かな……」
「ん、そうか」
 答える声が本当に眠そうだと、夜城は感じる。それは夜城自身も同じ事だった。
 炬燵に入れた足は元より、窓から差し込む光が温かい。まるで引き込まれるように眠気が高まっていく。
 一度コタツを出て、待っていたのだろう空の隣に移動すると……抗う事なく、夜城は眠りについた。




 そこは少々年季の入った二階建てのアパートだった。左右に二階建ての部屋があり、中心に階段がある。俺とレアリィは、その階段を上がって右にある部屋のドアの前に居た。この部屋に先生が居るらしい。
 返答がある事を期待しながら、俺はドアベルを押した。軽い電子音が、二人だけしか居ない廊下に響く。
 けれど、暫く待っても応答は得られなかった。
「居ないのか……」
 落胆しながら言う。と、
「一応中に入りましょう。合鍵は持っていますから」
 言いながら、レアリィが鞄から鍵を取り出した。そのまま俺と入れ替わるようにドアの前に立つと、彼女は手に持った鍵をドアノブへと差し込もうとして……その動きが止まる。
 少し躊躇い、だがすぐにレアリィはドアノブを回した。
「……開いてる」
 鍵が掛けられていると無意識に思っていたドアが、鈍い音を上げて開いた。
「危ないから鍵を閉めるようにって決めたのに……」
 小さく呟きながらレアリィが部屋の中へと入っていく。そのあとを俺も続いた。
 しかし、入ってすぐにある六畳間には誰も居なかった。
「居ない、か……」
 思わず呟く。しかし、レアリィは慣れた足取りで本や紙束が詰まれた部屋を奥へと進んでいく。
 俺の居る位置からは死角になる場所にもう一つドアがあるらしい。レアリィはその正面に立つと、ゆっくりとそのドアを開き――レアリィの動きが止まった。
「先生……」




 ドアの開く気配がした。
 カーテンの閉じられた薄暗い部屋の中、机に向かっていた女性はゆっくりと視線を上げた。夜城が着たのだろうか。そう思いながら書きかけの書類の脇へとペンを置き、椅子ごと扉へ振り返る。
 流れていく部屋の景色の終わり。そこには、最愛の弟子が立っていた。
 途端、
「え?」
 酷く情けない声が出た。まさかレアリィの方から自分の元へとやってくるとは思っていなかったからだ。
 実際の所、女性にはレアリィとの和解の方法が考え付かずにいた。長い付き合いであるレアリィが見せた激昂に、女性はどう対処して良いか解らなかったのだ。
 だから今も、気を紛らわす為に空や夜城を別の部屋へと追い払い、静かになった部屋の中で様々な資料の整理し、書類を纏めていたのだ。
 そして、そんな現実逃避の最中にレアリィが現れた事で、女性の思考は停止してしまっていた。
 そんな女性を余所に、
「先生……」
 小さくレアリィの声が響き、女性の思考は現実へと引き戻された。
 同時に、レアリィが部屋の中へと入って来た。その後ろには、昨日のデートの相手が続く。こちらの姿を確認すると、彼もレアリィと同じように「先生」と呟いた。
 彼が自分の事を思い出しているという事は、レアリィが魅了の魔法を解いたのだろう。と、それを確認する前に、女性の口からは謝罪の言葉が漏れていた。
「ごめんなさい……」
 安直な謝罪だ。そう自覚する。けれど、女性に出来る言い訳は無かった。とはいえ、二人でこの部屋にやって来たという事は、その仲に亀裂が入らずに済んだのだろう。しかし、終わり良ければ全て良し、という訳には行かない。レアリィの貴重な一日を潰してしまったのは、もう取り消せない事実なのだ。
 だが、レアリィから返って来た声は怒りでは無く、
「大丈夫です。ちゃんと解ってもらえましたから」
 いつも通りに響いてくるその声を聞き、視線を上げる。見れば、レアリィには怒りや悲しみの表情は無かった。
 しかし、その事に喜ぶのも束の間、頭へと入ってきた単語は反射的に質問の形へと変化した。
「解って貰えたって……?」
「全部、です。魔法の事から先生の事まで、一応の事は全て話しました。もちろん、探し人さんの事も。それと、彼に掛けられていた魅了の魔法は私が解きました」
「そう、だったの」
「はい。……これ以外の方法を思い付かなかったので」
 少しだけ不安げに言うレアリィに、女性は小さく首を振り、
「彼は私の魔法が作用しなかった特例だもの。その判断は間違っていないわ。それに、その記憶を更に混乱させてしまったのは私なんだから。だから、その……まだ怒ってるわよね」
「……それは、当然です。でも、先生に聞かないといけない事も出来てしまって……それに時間も無いですから」言って、レアリィは表情を真剣なものにし、「今言った通り、彼には理解を得られました。だから、この話は『向こう側』に戻るまで置いておきます」
「解ったわ。……ありがとう、レアリィ」
 最後にもう一度頭を下げる。『向こう側』に戻ったら改めて謝ろう。女性はそう心に決めた。
 そして椅子から立ち上がると、 「取り敢えず、リビングへと行きましょう」
「はい」
 普段のように答えてくれるレアリィに安堵しながら、女性は六畳間へと進んだ。
 そして、二人と対面するようにコタツの前で正座すると、少しだけ高い視線からレアリィに問い掛ける。
「それで、私に聞きたい事っていうのは?」
「あ、はい。えっとですね……」
「ごめんレアリィ、最初に俺から質問させてくれ」
 話し始めたレアリィを、その隣に座る彼が止めた。その顔を見、レアリィが頷く。そして表情を改めると、彼が口を開いた。
「まず、先生に聞きたい事があります。俺の友人の事です」
「友人」
「はい。えっと――」
 そうして彼の口から語られたのは、クラスメイトだというある男子生徒の話だった。
 消えたウェブサイトと携帯電話のメモリー。彼にはその友人との記憶が頭にあるのに、その名前を全く知らない。そして、レアリィはその存在を忘れている……
「先生が俺に魅了の魔法を掛けたように、アイツも俺達に魔法を掛けたんじゃないかって考えたんです。それで、先生ならアイツの事を覚えているんじゃないか、魅了に掛からず記憶が残っているんじゃないか、そう思いまして」
「そうだったの。でも、貴方の友人ね……」
 いつも通りに話し掛けて来る彼を見ながら、自分の魅了を解いたレアリィの成長に喜びが浮ぶ。同時に、彼がその友人の名前を『覚えてない』のではなく『知らない』と言っている事にある引っ掛かりを覚えながらも、女性は記憶を探り始め――ふと、頭にある疑問が浮んだ。それは、レアリィ達のデートを尾行していた時に感じたもの。
 彼に関する、ある可能性。
「その質問に答える前に……レアリィ、ちょっと良い? 彼の魅了を解いたのは今日なの?」
「そうです」
「解ったわ。じゃあ次は貴方。レアリィに魅了を解かれるまで、私の事を思い出せた?」
「先生が居たって事は覚えてました。でも、姿も声も思い出せなくて。この前レアリィの部屋に居るのを見たあとも、今日になるまで先生だとは信じられませんでした。だから、一応思い出せてはいないです」
「最後にレアリィ、彼に私の事を説明したのはいつ?」
「昨日です」
「解ったわ」
 矢次早の質問に二人が不思議そうな顔をする。しかし女性は、そんな彼女達を無視するように思考する。
 女性の心に浮んだ疑問とは、彼が自分の探し人である可能性はどの程度あるのか、というものだった。
 まず、魅了に掛かった状態で彼は女性の事を覚えていた。それは、記憶の一部を変化させる魅了の魔法ではあり得ない事だ。しかし、もし彼が女性の捜し求めている相手であるのならば、話は別となる。
 女性が過去に掛けた呪いは、永遠の転生と記憶の復活を行う力を持つ。
 記憶が戻るメカニズムは、本来なら消去される筈の魂の記憶を消去させないだけ、という簡単なものだ。しかし、死というシステムに組み込まれた魂は、本来ならそのような変化をする事はあり得ない。
 けれど、その呪いをかけた時――遥か過去に死を捨て、魂の在り方が変わってしまっていた女性は、それが可能なのだと確信していた。
 けれどその頃は、『一人の人間に二つの記憶は同時に存在出来ない』という事実を知らなかったのだ。
 もし過去の記憶が戻っても、生まれ変わった人物としての生活がある。そんな中で、あっさりと過去の二人に戻れる訳が無く――むしろ、生まれ変わったからこそ、出逢った二人が不幸になる可能性が高かった。
 あの王族惨殺から数十年後。ある書物からその事実に気付いた女性は、何一つ手掛かりの無い状態から二人を探し始めた。再び二人で過ごしたいと願った彼等をむざむざと殺してしまった罪を少しでも償う為に。そして、その転生と記憶の呪いを解く為に。
 もし彼が転生先の人物である場合、記憶のどこかに転生前の記憶がある筈だ。そしてその記憶が、女性の魔法を効かなくしていたと考えられる。それでも一応魅了の状態になったのは、彼自身に魔法に関する知識や魔力が無かった為だろう。
 以上を踏まえて、今の質問をした。その受け答えで解った事は、彼に過去の記憶は無いだろう、という事実。過去の記憶があるのなら、微かにしか覚えていない女性の姿からでも全てを思い出す事が出来るだろうからだ。これにより、彼が探し人である可能性がダウンする結果となった。つまり、彼が女性の事を覚えていたのは、この世界の『常識』に邪魔をされて、完璧な形で魅了が掛かっていなかったからなのだろう。
 しかし、可能性が無くなった訳ではない。過去の記憶を、一時的にだが呼び起こす方法がある。その方法を使えば、彼が探し人であるか完全に判明するだろう。そんな望みの薄い期待をしながら、女性は彼の問いに答えていく。
「えっと、そう。彼の友人の話よね。その特徴を教えてもらえるかしら」
「えっと、髪が少し長めで、中肉中背。身長は百六十センチくらいで、良くゲームの雑誌や漫画を読んでて……あ、出席番号は二十八番でした」
「えっと……」 
 彼の教室の様子を思い出す。二十八番となると、あのラグビー部の子の後ろだから……
「……ん?」 
 思い出せない。
 美術室には、六人同時に座る事が出来る長方形の机が十ある。それに出席簿順に六人ずつ座らせていき、授業を進めていた。
 授業中には席を動く生徒が多いが、出席などを取る時は別だ。常に名簿の名前と本人とを確認しながら点呼を取っていく。だから、受け持っていた教室の生徒の名前と人数は覚えている筈なのに……出てこない。
 二十五番から三十番の生徒が座っている机を思い出す。しかし、その中の一人が完全に記憶から抜け落ちていた。
「まさか、私が……?」
 水面に出来た波紋のように、一気に混乱が広がる。だが、聞かないといけない事がある。
「その子との付き合いはどのくらい?」
「入学した時からなんで、もう二年近くになると思います」
「つまり、四月から私の授業を受けていたって事ね」
 ふとレアリィ視線を向けると、彼女は困惑と共に、
「私も見ていた筈なんですが、思い出せなくて……」
 知識も魔力も無い彼だけに友人の記憶が残り、魔法使いである女性達にはその記憶が残らなかった。それはつまり、女性達に魅了が掛けられた事になる。
 しかし、女性は常にマジックアイテムを使い、自分の体に作用する魔法を防御し続けている。それは長年の癖であり、自らを護る術でもあった。
 そんな女性に魔法を掛けたというのだ。それは自分なりに防御策を行ってきた女性のプライドを傷付けた。
「悔しいわね……。まさか私が魅了を喰らうなんて」
「先生も、でしたか……」
「えぇ。一応出来るだけの防御をしていた分、結構衝撃を受けたわ」
「それじゃあ、なんで俺だけがアイツの事を? まぁ、名前は忘れてますが……」
 不安げに聞いてくる彼に、女性は自信無く答える。
「ごめんなさい、私にも解らないわ……。でもね、貴方が持っているその記憶も、実際には偽りが混じっている可能性があるわ。だから、もしこの先その友人に逢う事があっても、過去の記憶に従って会話をしようと思わないで欲しいの。その子は、貴方の記憶の中にある人とはまるっきり別人である可能性もあるから」
「この記憶が、偽り……」
「そうよ。それが魅了という魔法の効力。辛い事だとは思うけど、これは貴方の為だから」
 その言葉に、彼が辛そうに頷いた。
 その様子に心が痛むのを感じながら考える。魔法に対する防御はしていても、この世界では常に魔力を消費出来ない以上、それは完璧ではなかった。そこを突かれた可能性が高いのだろう。
 そう結論付けると、女性は彼の言っていた言葉を思い出しながら、
「それと……レアリィの話がウェブサイトに載っていた文章と似ていたって言っていたけど、それはどういう事なの?」 
「前にアイツからゲームの攻略を頼まれた事があって、その時にそのゲームの公式ページに行ったんです。そのページで見たゲームの用語説明の内容が、レアリィの話に良く似ていて」
「ゲームの内容が、ね」
 実際にあり得ない事ではないと女性は思う。
 人々が空想し妄想する大半の現象・技術は、数多ある世界のどこかに存在している。それを、女性は身を持って体感してきたからだ。
「この世界に存在しない魔法技術が人々に想像されるように、偶然そのサイトの設定が私達の世界のそれと似ていただけかもしれないわ。でも、そのサイトが消されているという事は、何らかの意図があったのかもしれないわね」
「意図?」
「そのサイトが貴方の友人の仕込んだものだとしら、だけどね。もしそうだとするなら、貴方に私達の世界の情報を意図的に教えようとした可能性がある。なんの目的なのかは解らないけれど」
「そうですか……」
「……で、そのサイトを見て、何か違和感を感じたりしなかった?」
「いえ、そんな事はなかったです」
「ん、解ったわ」
 知識を得た事によって記憶に何らかの影響が出るかと思ったが、そういった事はなかったようだ。
「残念」と二人に聞こえぬように呟いてから、女性は改めて彼の『友人』について考える。彼に情報を与え、そして自分達の記憶を弄れるほどの存在……と、不意にある人物の顔が思い出された。その人物なら、この程度の芸当は指先一つで――いや、軽く指を鳴らすだけでやってのけるだろう。
 だとするなら、生徒として学校に通っていた理由も解る。アイツは私を――と、その思考を遮るように、部屋の中にチャイムの音が響いた。
「誰でしょうか……あ、私が出ます」
 言って、レアリィが立ち上がる。その姿を見届けつつ、玄関へと視線を向けた。
 その鍵を開け、レアリィがドアを開ける。そこには、少し驚いた顔をした夜城の姿があった。



 
 開いた扉の先には女性の弟子が立っていた。
 当たり前のように女性が出ると思っていたせいか、少し驚く。しかしすぐに表情を改めると、夜城は口を開いた。
「あー……買い物に行こうと思うんだが、店の場所が解らない上に、この世界の金を持っていない事に気付いてな。両替でも頼もうと思ったんだが……」
「あ、はいっ。えっと、ともかく上がってください」
 焦りつつ、しかし笑顔で言う女性の弟子に迎えられ、『自分達はお互いに自己紹介をしていなかった』と今更ながらに思い出す。本来ならこんな風に馴れ合うつもりもなかったのだが、今では状況が変わってしまっていた。
 貴重な協力者を見付ける事が出来たのだ。これ以上我を張らず、折りを見て自己紹介でもしよう……そう思いながら部屋へと入る。
 六畳間には、女性と見知らぬ顔の男が一人居た。どこかで見た気もしないでもないが、恐らく気のせいだろう。
 そんな風に思いながら、夜城は女性へと視線を向け、
「少し話があるんですが……」言ってから、やって来た次の日に敬語を使うなと女性から言われた事を思い出す。「あー……話があるんだが、少し良いか?」
「ちょっと待って」
 言って、女性が夜城から視線を外し、弟子と男に向き合い、
「ちょっと席を外すわね」
 はい、と返って来た答えに頷くと、女性が立ち上がろうとし……コタツに手を掛け、腰を上げた所で聞いてくる。
「買い物に行くのよね?」
 どうやら玄関での話が聞こえていたらしい。夜城はその言葉に頷き、
「ああ、ウチのお姫様に夕食を作る為にな」  今日まで、女性の部屋にあった餅やみかん、即席麺などで腹を満たしてきた。特に即席麺は最初に食べた時はその味に驚いたものの、しかし慣れてくれば少し濃い目の麺類に過ぎず、今朝の時点で飽きてきていた。その結果、今夜からは自炊しようと考えるに至ったのだった。
「なんで、こっちの世界の金と手持ちの金とを両替して欲しい。あと、店の場所を教えて貰えると助かる」
「解ったわ……って、そうだ」
 何か思い付いたのか、女性が弟子達へと視線を向けた。
 だが、そのまま何も言わずに立ち上がり、奥の部屋へと歩いていってしまった。
「なんなんだ……?」
 思わず声が出る。見れば、視線を向けられた弟子達も訳の解らそうな顔をしていた。
 そして、突然訪れた無言にどう対処しようかと考えを巡らせ始めた頃、女性が戻ってきた。
「レアリィ達二人で、道案内をして来てくれない?」
『え?』
 女性の一言に、綺麗なくらいに三人同時に声が出た。
「あの、大丈夫ですけど……何故いきなりそんな事を?」
 と、弟子が問う。それは夜城も同意見だった。
 それに微笑み返すと、女性が説明を始める。
「これからの約一ヶ月が、『向こう側』へ戻るまでの準備期間になるわ。だから、その間に交流を深めてもらおうと思って。何か問題が起きた時でも、お互いの事が少しでも多く解っていればフォローも出来るってものだしね」
「……そういう事なら」
「あの、俺もですか?」
 困惑した顔でいう男に、女性は頷き、
「えぇ。と言うより、地元の人である貴方の協力がないと始まらなかったりもするのだけど……」
「いえ、俺も大丈夫です。でも……」
 言って、男がこちらを見る。夜城はそれに答えるように、
「俺も構わない。というより、街に詳しい奴が居てくれた方が助かる」
 そう言葉を返したのだった。





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