五月蝿い世界の不器用な二人。

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□七章

 暗く沈んでいた世界に、一条の光が差し込んでくる。暖かなそれに導かれるように、俺は静かに目を開いた。
 と、すぐ目の前に、俺の顔を心配げに覗き込んでいる相手が居た。その宝石のような瞳と目が合うと、その目に見る見る内に大粒の涙が浮かび始める。
 途端、俺は激しい感情の波に飲み込まれ、しかしどうしたら良いのか解らなくなった。どうにも前後の記憶が曖昧で、自分が一体どんな状況に居るのかも解らないのだ。頭を埋め尽くす疑問に、激情は一瞬で強い不安と恐怖に塗り代わり――それでも俺は、そっと手を伸ばし、ぽろぽろと流れ続ける彼女の涙を優しく拭う。
 嗚呼、今だけはこの体にされた事を喜ぼう。
 この体ならば、こうして彼女を抱き締める事が出来るのだから――!
「――ッ!」
 抑えきれぬ感情に啼きながら、俺は彼女を――白雪を強く抱き締める。これが夢だろうと何だろうと関係ない。もう彼女を離したくなくて、離れたくなくて、自分の行動を抑える事が出来なかった。
 そんな俺の背に彼女の細い腕が回り、精一杯に抱き返されて……そうしたら、もう嬉しさと愛しさで頭の中が滅茶苦茶になってしまって。
 疑問も不安も全て吹き飛ばし、俺はただ純粋な喜びに涙を流した。



 どうにか落ち着きを取り戻したのは、それから五分以上経ってからの事だった。子供のように嗚咽し、過去の別れを悔いる俺を白雪が慰め始めてくれていたところで、いつの間にか俺の部屋へと入り込んで来ていたファイが声を上げたのだ。
「い、一体どうなってんだ! ってか、何でお前がここに居るんだよ、古城の魔女!!」
 どうやら声を上げる元気があるのはファイだけであるらしく、何故か酷く疲れた様子のニアは目を白黒させていて、リラに至っては完全に蒼白になっていた。とはいえ、そう怒鳴られたところで俺にも理由は解らないのだ。
 俺はやけにだるい腕を持ち上げて涙を拭うと、改めて白雪へと視線を向けた。肩甲骨の辺りにまで伸ばされた緑の黒髪に、黒曜石のような美しい瞳。線が細く小柄な体は、東の果てにあるという島々の血を引いていて――と、そのなだらかな胸から臍へのラインを眺めたところで、今更のように白雪が全裸である事に気が付いて、俺は慌てて彼女に布団を被せた。白雪はそれにきょとんとしてから、すぐに「ありがとう」と柔らかく微笑み……そしてその場で居住まいを正すと、彼女は俺達の顔を順番に見てから、
「取り敢えず、状況を把握出来ているのは私だけみたいだから、今から順番に説明していくわ」そう言うと、白雪は俺へと視線を向け、「まず、暴漢に襲われた事は覚えてる?」
 その問いに、俺は記憶を手繰り……リラの告白から始まった様々な感情の交錯と、窓を破壊して這入り込んで来た男達の事を思い出す。
「ああ、覚えている。って、そういえばアイツは――白猫はどこに行ったんだ?」
 こうして白雪と出逢えた以上、アイツにも改めて……と、そんな風に思いながら視線を巡らせ始めたところで、彼女の手が軽く上がり、
「ここに居るけど?」
「……白雪?」
 何を言っているんだ? そう思いながらの問い掛けに、彼女は微笑みを強め、
「つまりね、私があの白猫だったの」
 その瞬間思考が止まり、それでも「嘘だろう?」と言葉を返そうとしたところで、
「う、嘘だろ――?!」
 と、俺よりも先にファイが声を上げた。その顔は何故か赤くなっており、驚きよりも恥ずかしさに震えているように見える。対する白雪はそんなファイへと楽しげな笑みを向け、
「彼がこうして目を覚ました訳だし、もう調子は戻ったかしら?」
「――ッ!!」
 その言葉にどんな魔法が掛かっているのか、一瞬で目を逸らしたファイがその場で地団駄を踏み始めてしまった。この少年がここまで恥ずかしがり、その上悔しがる姿を見るのは初めてで……どうやら相当に恥ずかしい秘密を白雪に握られてしまっているらしい。
 と、半分泣きそうになっているファイは、それでも彼女を睨み付け、
「こ、この魔女が!」
「あら有り難う。でも大丈夫よ、誰にも言わないから。アンタの覚悟は評価してるし」
 そう白雪が言った途端、更に食って掛かろうとしていたファイが動きを止め、何故か俺へと真っ直ぐな視線を向けてきた。しかし、ファイが怒鳴ったり睨んだりしてこないのは恐らくこれが初めてで、嫌われていた筈の俺としては何か裏があるような気がしてしまう。
 しかし白雪はそんなファイの様子に微笑むと、「それじゃ次に行くわね」と話題を切り替えるように言い、
「次は……そうね、今更だけど自己紹介をしておきましょうか。アンタ達は私の名前だけじゃなく、彼の名前も知らないでしょ?」
「ハ、んな訳ねぇだろ――って、あれ?」
 馬鹿を言うな、と言わんばかりに答えたファイが言葉を止め、おかしい、という顔で俺の顔をまじまじと眺めてきた。同時に、リラが愕然とした様子で俺を見つめ、
「嘘……。私、名前を聞いてない……」
 信じられない、と言った様子で呟くリラの声を聞きながら、そういえば名前を告げていなかった事を思い出す。そんな俺の隣で、白雪はリラへと「そう心配しなくても大丈夫よ」と労るように言い、
「『名無しの権兵衛』って言う、相手に名前を教えなくても違和感を覚えさせないようにする魔法があって、彼にはそれを掛けてあるの。だからアンタ達は彼の名前を知らないのよ」
「では、どうして彼にそんな魔法を?」
 唯一動揺が少ないように見えるニアからの問い掛けに、白雪は俺を見上げ、
「彼の名前は結構有名なのよ。そこから面倒事に巻き込まれて欲しくなかったから、私が勝手に魔法を掛けたの」
 その言葉に、今まで名乗らなくてもやってこられた理由を納得する。今更ながらに考えてみれば、
名前は置いてきた、で通じる訳が無いのだから。
 そしてこの魔法は、恐らく俺が白雪の前から逃げ出したあの時に掛けられたものなのだろう。確かに俺の名前は一部では有名で、そこから要らぬ因縁を付けられる可能性があったのだ。それなのに、俺はその優しさに気付く事すら出来なかった……。
 その後ろめたさから、俺は無意識に白雪から視線を逸らしてしまっていた。すると、布団の中から伸びてきた彼女の手が、俺の手をそっと握り締め、
「ごめんね。私があんな事をしなければ、こんな事には……」
「違う。悪いのは俺のほうだ」
 その言葉と共に白雪の手を握り返すと、俺はずっと告げたかった言葉を口にする。
「すまなかった。あの時の俺は、どうしようもなく馬鹿だったんだ」
「そんな事無いよ。……でもね、あの時――」
 と、そう白雪が言葉を続けようとした時、それを止めるようにファイが咳払いを一つ。どうやら説明を続けろと言いたいらしい。
「……アンタ、デリカシーが無いのね」
「うるせぇ。文句があるならさっさと説明してからにしやがれ。こっちは解らねぇ事ばかりなんだ」
「はいはい、解ったわよ」
 そうあしらうように白雪が言い、ファイ達へと改めて視線を向ける。同時に、繋いだ手が少しだけ強く握られ……それに答えるように俺も彼女の手を握り返す。
 全てが元通りになった訳では無いけれど、互いに対する想いは変わっていない。それが何よりも嬉しく、だからこそ辛かった。
「それじゃあ、改めて自己紹介ね。
 私の名前は白雪・アマステラ。ご存知の通り、古城の魔女と呼ばれていた魔法使いよ」
「俺はツクヨミという。今更だが、これが俺の本名だ。……まぁ、お前達には馴染みの無い名前だろうがな」
 白雪は俺の名前を『結構有名』だと言ったが、それは今から五年以上前の話なのだ。里人達ならばまだしも、まだ若いファイ達は聞いた事も無いだろう。そう思っての言葉に、しかしニアが驚きを浮かべ、
「も、もしかして、『金色』の……?」
 確認するように呟く彼女に、白雪が「そうよ」と頷き、
「ニアの想像通り、彼がその『ツクヨミ』よ」
 その言葉に彼女は更に驚き、けれどすぐに納得の色を浮かべると、
「そうでしたか……。まだ幾つかの疑問はありますが、でも、貴方が――ツクヨミさんがどうしてあの黒い狼と交渉出来たのか、その理由がようやく納得出来ました。……でもまぁ、流石にこれは予想外でしたが」
 そう言って苦笑するニアは、ミツキと同じように俺の本質を理解してくれたらしい。だが、残された二人はそうはいかない。例によってファイが「ど、どういう事だよ!」と声を荒げた。ニアはそれに曖昧に微笑み、白雪は「まぁ、順番に説明するからちょっと待ってなさい」と彼をいなすと、
「でも、どこから説明しましょうか。まず、私が白猫であるって事はファイが証明してくれるとして、」
「て、テメェがちゃんと証明しろよ!」
 と、割り込むように放たれたファイの叫びに、けれど白雪は微笑みを浮かべ、
「あら、猫に言われるほど落ちぶれてないんでしょ?」
 確認するようなその一言に、対するファイは酷く狼狽し、
「う、ぐッ……。わ、解ったよ! 俺が証人だよ! それで満足か?!」
「うん、満足。……まぁ一応説明すると、私があの姿になっていたのは、アンタ達にやられた傷を癒す為だったの」
 と、さらりと聞き捨てならない事を言われ、思わず握った手に力が籠る。けれど白雪は大丈夫だと言うように俺の手を握り返し、
「でも、まさかアンタ達と再会する事になるとは思わなかったけどね」
「……ちょっと待て。じゃあテメェは、初めから俺達の事を騙してやがったのか?」
 疑念と共に放たれたその問い掛けに、白雪は「違うわ」と首を横に振り、
「白猫をやっていた時には、過去の――魔女だった頃の記憶が全く無かったの」
「馬鹿言うな。んな話が信じられるか!」
「あのねぇ、私を追い込んだのはアンタ達なのよ? もし過去の記憶があったなら、ツクヨミを南の森に同行なんてさせなかったわ」
「……あー、少し待ってくれ。俺にも詳しい話を教えてくれないか」
 リラから『古城の魔女を倒した』という話は聞いたが、その動機や具体的な結末までは聞いていないのだ。そう思っての言葉に、言い争いを続けようとしていた白雪とファイが言葉を止め、代わりにニアが説明してくれた。
「ツクヨミさんには話していませんでしたね。ボク達は過去に彼女と――古城の魔女と戦った事があるんです。その目的は、魔女の拘束。人々に害を成す存在だと言われている彼女を――」
 と、ニアの言葉がそこまで続いたところで、俺は思わず口を挟んでいた。
「待ってくれ。白雪は誰かの害になるような事はしていない。それは側に居た俺が証明出来る」
「ですが、城の周囲に拡がる森は半ば異形化していて、城下にある村の生活を脅かそうとしていました」
「……森が異形化?」
 呟きながら白雪を見ると、彼女はあからさまに視線を逸らしてしまった。俺はそれに溜め息を吐きながら、
「なぁニア。その森は、生っている果物が普通のものよりも大きかっただろ」
「はい。確かに大きかったですね」
「あれはな、村の為に白雪達魔女が手を加えてきたものなんだ。だから、形は悪いが味は良い。唯一の欠点は、手入れをしないと木々が異常な速度で育ってしまう事だ」
「……確かに美味かったな」
 小さくファイが呟き、しかしすぐに白雪を睨み付ける。彼女はそれを受け流しながら、
「色々あってずっと手入れが出来なかったのよ。でも、村のみんなはそんなに混乱してなかったでしょ? 何せあの森はね、私の曾お婆様が残したものなの。だから過去にも何度か異形化してて、その都度魔法で元に戻してきたのよ」
 にも拘らず白雪に疑いの目が向いたのは、恐らく村を訪れた旅人が原因なのだろう。何も知らない者から見れば、確かにあの森は脅威になる。生っている果物は元より、森の中には意思を持った老木も存在するのだ。不気味以外の何者でもないだろう(まぁ、実際に話してみると気さくな良い奴なのだが)。
 そしてその訴えが国王に届き、魔女の拘束が計画されたに違いない。
「アンタ達が言ってた『人々に害を成す』ってのも、全部嘘。多分、私の城と森を壊して自分の領土を広げたい、王都のお偉いさん達がでっち上げたものでしょうね。あの人達、私の事が――というか、私の家系が大嫌いみたいだから」
「では、立ち寄った村で誰も恐怖に震えておらず、それどころかボク達に『やめてくれ』と頼んできたのは、貴女の魔法でも何でもなく……」
「本当に何もしてないからね。でも、凶作だと皆が困るから、大地に魔力を循環させて土地が痩せないように注力はしていたわ。……つまりね、あの城を任されてきた魔女っていうのは、あの辺り一体の生命線の役割もしているのよ」
 でも、と白雪は溜め息を吐き、
「誰かさん達のせいで、村の生産は酷く落ち込んでいるでしょうね。非常食にもなる森の実りも、もう木々ごと切り倒されてしまっているでしょうし」
「し、信じられるか!」
 それでも尚疑おうとするファイに、白雪は「ほんと難儀ね、その立場」と呟いてから、
「別に信じなくても良いわ。状況的に私はもう死んでるし、今更何を言っても遅いもの」
「そ、それもそうだが……。なら、どうしてテメェは猫の姿になってたんだ? 俺達を騙してねぇって言うのなら、そこが一番不自然じゃねぇか」
「アンタ達と戦った時、私は窓から外に――そこに拡がる崖へと落ちたでしょ? あれでアンタ達は私が死んだと判断したみたいだけど、私は落下の衝撃を魔法で緩和して、その場を離れていたの。でも、怪我だらけの体じゃ逃げるに逃げられない。だから、治療の効果を上げる為に白猫の姿になったのよ」
 体が普段よりも小さくなれば、治癒に掛ける魔力も自ずと減ってくる。それを狙った白雪の行為は、しかし失敗に終わる事になってしまったらしい。
「ツクヨミは知らなかっただろうけど、私は今までにも何度か猫になった事があったの。でも、弱ってた体じゃ魔力の調節が上手く利かなくて、予想以上に強く魔法が掛かっちゃって……そのまま、自分の記憶まで封じ込めちゃったみたい。……もしかしたら、無意識の逃避だったのかもしれないけどね」
 最後は少し悲しげに言い、けれど白雪は改めて俺を見上げると、
「この小屋にやって来たのは本当に偶然。多分、ツクヨミが北の森に興味を持っていたのを、白猫になった時にも朧げに覚えていたんだと思うわ。
 それでも、私の心の奥底には、ずっと何かを捜し求めるような気持ちがあった。それはとても漠然としたもので……どこへ行っても解消されなかったその気持ちが、ツクヨミと出逢ってからは不思議と消えていたの。だから私はここに残り続けた。
 でも、その気持ちが消えるのは当然なのよね。だって私は、ずっとツクヨミを捜し求めていたんだもの。そういった意味では、私は何も忘れていなかったのかもしれないわ」
 その言葉を聞きながら、俺は毎日のように見ていた夢を全く見なくなった理由を理解した。
 白雪の事を想い続けて夢を見ていたのだ。姿が違うとはいえ、当の本人と一緒に眠っていた事で、俺は無意識に安堵を得ていたのだろう。
「俺は本当に馬鹿だな……」
「そんな事無いわ。私だってずっとツクヨミに気付けなかったんだから」
 そう告げる白雪の声は、白猫のそれとは少し違っている。魔法によって無理矢理喋っていた為に、どうしても実際の声色とは変化してしまっていたのだ。更に俺は、白猫の声が白雪に似ていると意識する事すら出来ないほどに参っていた。もし気付いていれば……とは思うものの、それは今更な話だった。
「……なら、どうして貴女の姿が元に戻ったんですか?」
 不意に響いてきたリラの声は、彼女のものとは思えぬほどに暗く沈んでいた。対する白雪はそれに一瞬だけ気まずそうな表情を浮かべ、けれどすぐに真剣な表情になると、
「それを説明する前に、リラ達に感謝を伝えないと。嫌味とかそういう訳じゃなくて、純粋に貴女達二人には感謝してるの。本当にありがとう」
「……どういう事だ?」
 話が見えない。そんな俺に、白雪がここ二日間の出来事を教えてくれた。……あの男達に何かされたのは覚えていたものの、まさか丸二日間も昏睡していたとは思わなかった。
 それを踏まえて考えると……こうして白雪が人間の姿に戻った以上、記憶を失っていたとはいえ、彼女の立場はリラ達をただ利用しただけのようにも取れる。白雪本人にはそのつもりがなくても、リラ達の心理としてはどうしても納得出来ないだろう。
 それでも、白雪は真剣な表情で、
「私がこの姿に戻れたのは、王子様と――ツクヨミとキスをしたから。私は自力での魔法解除以外に、それも解除の切っ掛けにしていたの」
「……キ、ス?」
 呆然と呟くリラの声を聞きながら、俺は以前白猫と交わした話を思い出す。あの時に思った『愛する人とのキスを解除の切っ掛けにしている魔女』というのは、誰でもない白雪の事だったのだ。そしてそれは、俺達が恋人同士になった頃から続く習慣で……彼女が白猫に姿を変えた時も、それを条件にしていた、という事になる。
 そして白雪は、非情とも言えるほどにあっさりと、その事実を告げた。
「つまりね、私達は恋人同士なの。彼が貴女の告白を断ったのも、私の存在があったからよ」
「――ッ!」
 刹那、リラがベッドへと駆け寄り――そして止める間もなく、防ぐ間もなくその腕が振るわれた。
「巫山戯るな! そんな話が信じられるもんか! お前は私を利用したんだ!!」
 乾いた音が響き渡るのと、おしとやかだったリラからは想像出来ない怒声が響き渡るのは同時だった。突然のそれに思考が止まりそうになるも、俺は更に殴り掛かろうとするリラから白雪を護る為に、彼女の上に覆い被さり……けれど覚悟した衝撃はやって来ない。
 そっと視線を上げれば、ファイとニアが暴れるリラを取り押さえていて――彼等の腕の間から覗くその表情は、激しい憎悪と悲しみに歪んでいた。
 思わずそれから視線を逸らすと、俺の腕の下で白雪が体を起こした。そして、赤くなった左頬に構う事無くリラを見据えると、彼女ははっきりと断言してみせた。
「どう思われようと構わないけど、でも、それが事実よ。だから私は何度だって言うわ。ありがとう、リラ」
「――ッ!!」
 悔しげに表情を歪め、リラが崩れ落ちる。それを見つめる白雪は、とても強い表情をしていた。……だが、それは当然なのだろう。彼女は『魔女』だ。嫌われる事も、恨まれる事も、何もかも受け入れて『魔女』になったのだ。その覚悟は何よりも強い。
 それでも、その心まで鋼になった訳ではない。それを知っていて、そして彼女達の対立の中心にいる俺は、このまま黙っている訳にはいかなかった。
「すまない、リラ。追い討ちを掛けるようだが、白雪の言葉は全て俺が証明する。俺達は恋人同士で、俺はとある事情からこの小屋で暮らしていただけなんだ」
「……じゃあ、あの時の、否定は……」
「恋人を倒したと目の前で言われたんだ。……あの時の俺は、お前達を殺すつもりでいた」
 そして今も、その殺意は俺の中にある。だが、こうして元気な白雪と再会出来た以上、リラ達を殺したところで何の意味も無い。それを解っているから、俺は感謝だけを告げる。
「だが、結果的に俺は白雪と再会する事が出来た。だからリラ、そしてニア。有り難う、お前達のお蔭で助かった」
 彼等に対する殺意はあるが、その感謝は本物だ。だからこそ、余計にリラを傷付ける事になるのだろう。もしかしたらファイに殴られるかもしれない。そんな事を思いながら彼の様子を窺うと、しかしファイは俺を睨むどころか俯いていて――次の瞬間、ニアの平手が飛んで来た。
 乾いた音と共に、鋭い痛みが頬に走る。けれど、それを放った当人が最も辛そうな顔をしていた。
「……私達がツクヨミさんに干渉したのであって、そちらに非が無いのは解っています。ですが、感情は抑えられません」
「それが人間だ。恥じる事じゃない」
 そう言葉を返すと、ニアは俺から視線を逸らし、
「……でも、どうしてツクヨミさんの意識が戻られたんです? 古城の魔女、貴女が何かしたんですか?」
「私は何もしてないわ。もし私が白猫の姿のままだったとしても、ツクヨミはこうして目を覚ましていた筈よ。つまり、全部ニア達のお蔭なの。だから……そうね、私に襲い掛かってきた事は、これで無かった事にしてあげる」
 そう微笑みと共に言う白雪に、ニアは辛そうな表情で彼女を見つめ、
「……私達は冒険者です。自分達の行った仕事には誇りを持っていますし、相応の覚悟もしています。それでも、貴女のようには笑えません」
「当たり前よ。何せ私は、愛する人と再会出来たんだもの」
 そしてその言葉は、俺にも言える事だった。白雪と再会出来た事で、一年以上も塞ぎ込んでいた自分が嘘だったかのように心が軽くなったのだから。
 と、そこでファイが動きを見せた。苛立っているのだろう彼は、一直線に白雪の正面にまでやって来る。それに気付いた瞬間、俺は白雪を自分の方へと引き寄せ――次の瞬間、ファイは白雪を睨みながら思い切りベッドへと蹴りを入れ、
「……テメェも難儀だな、古城の魔女」
「これが私の生き方だもの。この姿に戻った以上、こうなるのも覚悟の上よ」
 ああそうかい、と吐き捨てて、ファイが視線を逸らす。そこに怒りは感じられても、俺達に対する敵意は見られなかった。
「……やっぱり、私じゃ駄目なんですか」
 と、小さく響いてきた声に視線を向ければ、そこには俯いたままでいるリラの姿があった。その表情は窺えないが、俺は正直な気持ちを告げる。
「ああ。俺は白雪でなければ駄目なんだ。それには惚れている以上の理由もある。……良い機会だ。白雪に逢わせたい奴も居るし、一度外へ出る事にしよう」



 二日も眠っていた為か、体を起こすとかなりふらふらした。それでもどうにか着替えを済ませ(白雪には俺の服を貸した)、全員で外に出ると、煌々と光る満月が俺達を出迎えてくれた。
 こんな夜にならば、彼女も月を眺めに出てくるかもしれない。そう思いながら北の森へと視線を向けると、そこから白銀の毛並みを持つ狼が現れた。俺はそのタイミングの良さに少し驚きながらも、彼女の登場に動揺する白雪達より一歩前に出ると。
「どうしたんだ、孤高の犬。お前が森から出てくるなんて珍しいじゃないか」
「ここ数日、やけに小屋の方が騒がしかったからのぅ。ちと様子を見てやろうと思うてな、こうして出向いてみたんじゃよ」
「すまない、心配を掛けた。実は少し寝込んでたんだ」
 その言葉に驚くミツキに、俺はこの二日間の事をざっと説明する。……自分の事とはいえ、眠らされていた為か少々実感が湧かないのだが。
 そんな俺に対し、ミツキはこちらを叱るように、
「全く、お主という奴は……。こうして無事じゃったから良かったものの、これからは気を付けるのじゃぞ?」
「解っているよ。というか、俺はもう見知らぬ誰かを助ける事は無いさ。こんな面倒は二度と御免だからな」
 そう断言すると、ミツキは俺をまじまじと見つめ、
「ふむ、どうやら前向きになってきたようじゃな。してその切っ掛けは……お主かのぅ?」
 その言葉と共に、ミツキが得物を狙うかのような鋭さで白雪を睨め付ける。対する白雪は流石に気圧されたのか、慌てて姿勢を正すと、
「は、初めまして。白雪・アマステラと言います」
 そんな彼女を見定めるように、ミツキが目を細め……そして口元に笑みを浮かべると、
「そう畏まらんでも良いぞ、古の魔女。お主の話は友から聞いておる。……しかし、ほんに希有な魔力じゃのぅ」
「瀕死の俺を癒す事が出来るくらいだからな。そして、前に話した通り、彼女が俺の護るべき相手だ」
 俺がこの土地に流れ着いたばかりの頃、今日のように月が綺麗な夜に、俺は一度だけミツキへと弱音を吐いた事があった。今から思えば顔から火が出るほどに恥ずかしい事をしたものだが、その時に白雪の事も話してあったのだ。そしてそれは、ある約束を結ぶ切っ掛けになっていた。
 対するミツキは俺の言葉に頷き、
「再会出来たとなれば何よりじゃよ。では早速じゃがあの約束を……っと、そうじゃそうじゃ、言い忘れておった。昨日、久しぶりに森へ弟がやって来てのぅ。お主の事を教えろと捲し立てられたわ」
「そうだったのか……って、まさかお前、黒狼に何も教えていないとか言わないだろうな」
 嫌な予感と共に問い掛けてみると、案の定ミツキは楽しげに笑い、
「当然じゃ。疑問の答えは、やはり己の眼で確かめねば意味がないからのぅ」
 その言葉に、適当な事を言って誤魔化すミツキと、それに食い下がる黒狼の姿が目に浮かんだ。一見すると微笑ましくも感じるが、しかし俺にとっては問題がある。
「それ、俺が黒狼に文句を言われるだけじゃないか……?」
「さて、儂には何の事じゃかさっぱりじゃな」そうミツキは悪ぶれもなく言い、「ともあれ、弟はまた今夜にも森に来ると言っておったから、あとで顔を合わせてやってくれ」
「解ったよ。それじゃあ、その前に約束を果たしておこうか。お前にもその目で確かめて貰いたいからな」
「……ね、ねぇ、ツクヨミ。一体何の話?」
 俺の服を軽く引っ張り、こっそりと問い掛けて来る白雪に、俺はミツキとの関係を軽く説明してから、
「ミツキから森の果物を貰う代わりに、俺は人間を北の森へと入らせないようにしていたんだ。その為に、俺は『モンスターに襲われ難い体質を持つ』という嘘を吐いて、俺だけが森の実りを採れるとエリカに思い込ませた。幸いにも彼女はそれを信じてくれていたから、特に苦労は無かったよ」
「そうだったんだ……」
「それで……リラ達への説明も含めて、白雪に頼みがある」
 俺は白雪の正面に立つと、その目を見つめ――言う機会は訪れないだろうと思っていた言葉を、万感の想いと共に告げる。
「――俺に掛けた魔法を解いてくれ」
 その瞬間、俺達の間に走った感情は、決して肯定的なものだけではなかっただろう。互いに互いを想い続けていたとはいえ、その別れは最悪なものだったのだ。一瞬たりとも相手の事を悪く思わなかったといえば、確実に嘘になる。
 それでも俺は白雪を想い、白雪は俺を再び受け入れてくれた。だからこれは、俺達が元通りの関係に戻る為の、最後の枷なのだ。
「……解った」
 複雑な表情で言い、白雪が俺へと一歩近付く。そして、俺の胸へとその両手を押し付けると、
「杖が無いからちょっと反動があるかもしれないけど、それは我慢してね」
「構わない。思いっきりやってくれ」
「うん。……じゃあ、行くよ」
 一つ深呼吸を行うと、白雪の唇から静かに呪文が紡がれていく。
「――我は継承者。古の契約により、風を奏で、水を抱き、炎を律する。ありとあらゆる意思の基、森羅万象を我が意の元へ。可変の変化を選択し、我は世界を創り出す」
 呪文とは意思だ。意思は魔力を別の力へと変換させ、世界の理を捻じ曲げる。そしてそれは熱という感覚を持ち、白雪の掌から俺の中へと入り込んでくる。
 それは久しく忘れていた、魔力が全身に満ちていく感覚。
「色を組み替え七色に、その在り方を組み替える。形を入れ替え一色に、その存在を差し替える。全ては我が意の成すままに、その可能性を選び出す」
 全身を巡る魔力を感じながら、俺は目を閉じる。
「生まれ出でよ選択肢。失われた可能性を呼び戻し、在るべき姿を復元せよ」
 月の魔力。大地の息吹。森の囁き。その全てが懐かしい。
「……目覚めて、『ツクヨミ』」
 そして、魔法が完成する。

 ああ、これでようやく元通りだ。
 俺は目を見開くと同時に、大きく、啼いた。



 鋭い牙に、炎を吐く巨大な口。黄金の鱗に護られた体には一対の翼が生え、長い尻尾は別の生き物のように自在に動く。
「ドラゴン――!」
 それが、俺の本来の姿だった。
「素晴らしい! それがお主の在るべき姿か、友よ――いや、黄金の竜よ!」
『そうだ、孤高の狼。これで約束は果たした。……今まで有り難うな』
 いつか白雪と再会出来た暁には、ミツキに俺の本来の姿を見せる。それが俺達の交わした約束だった。正直叶えられない約束だと思っていたのだが、実際にはこうして完璧な形で果たす事が出来たのだ。俺にはそれが純粋に嬉しかった。
「何、礼などいらぬわ。儂等は友であろう?」
『そうだったな』
 そして、その信頼に応えられて良かった。そう思いながら俺は地面に腹を付き、翼を畳むと、伏せのような格好になる。そうして首を下げると、その根元に白雪が抱き付いてきた。
 それは当たり前だった彼女との触れ合い。酷く懐かしいそれに胸が熱くなる。
 けれど、響いてくる白雪の声には少しの不安があった。
「……これで、元通りだよね?」
『ああ、元通りだ』
 何もかも、とはいかない。けれど、俺達はまた一緒に歩いていく事が出来る。それは確実だ。それに俺は、もう二度とこの姿には戻れないと思っていたのだ。だから嬉しさも一入で……と、そんな風に思っていると、視線の端に驚きに固まるファイ達の姿が見えた。その様子を見るに、どうやら最初に叫んだのは彼だったようだ。
 まぁ、驚くのも無理はないだろう。そう思いながら、俺は彼等の正面へと顔を向け、
『今まで黙っていたが、これが俺の……』
「待ってツクヨミ。それ、確実に聞こえてないから」
 そう言うと、白雪が何やら呪文を唱え、魔法を発動させる。そういえばすっかり忘れていたが、本来ならばモンスターと呼ばれる俺の声は人間には届かないのだ。
 では改めて、
「今まで黙っていたが、これが俺の本来の姿だ。驚かせて悪かったな」
「……声が、聞こえる」
 呆然とリラが呟く。そんな彼女に対し、白雪は俺の首元に抱き付いたまま、
「ねぇリラ。私はね、ツクヨミがこの姿の時に告白をして、そして今も変わらず彼を愛しているの。ついでに言うと、彼の言葉なら魔法無しで理解出来るわ」
「一緒に勉強したからな。だから俺も人間の言葉を理解出来るし、人間になっていた時にも然程苦労せずに済んでいたんだ」
 それでも完璧ではなかったから、絵本を買って勉強していたのだが。そう思う俺の正面でリラは俯き、
「……だから、彼女じゃないと駄目、なんですね……」
 そして、泣き笑いのような表情で顔を上げると、
「どうやっても、私に勝ち目は無いんですね」
「その通りよ。私に負ける気は無いからね」
 堂々と、その想いを誇るように白雪が言う。だがそれでも、彼女はリラを心配しているのだろう。それは勝者の哀れみではなく、純粋な心配だ。口では強い事を言っても、心まではそうならないのが、俺の愛する白雪・アマステラという少女なのだから。
 と、不意に白雪が俺の首元から離れると、数歩離れた位置で立ち止まった。丁度視界の中心となるそこで、彼女は表情を曇らせながら、
「……でも、ごめんね、ツクヨミ。私が貴方を人間にしなければ、私達は今も平和に暮らせてたのに」
「白雪……」
「私ね、聞いちゃってたの。あの日、ツクヨミが友達と話してた事を」
 それは今から一年以上前。白雪との生活が当たり前になっていた俺のところへ、偶然友人がやって来た日の事だ。
 白猫だった時の白雪に話した通り、俺は彼女の側を離れるつもりはなかった。けれどあの時の――そして今まさに当時の事を振り返っているのだろう彼女の表情にあるのは、とても苦しげで悲しげな色。その姿に手を伸ばそうとしても、この体では彼女を抱き締めてやる事すら出来ない。
 嫌な予感がするその位置で、白雪は視線を逸らすように俯くと、
「……やっぱり、嫌だったんだよね」
「何がだ」
「あの時、ツクヨミは言ってたじゃない。『人間は俺達を殺す存在だ。だから俺は奴等が好きになれない』って。だから、私……」
「ち、違う!」
 その言葉を聞いた途端、思わず声が出ていた。俺はそのまま首を伸ばすと、こちらの声に体を震わせ、尚も辛そうに俯き続ける彼女へとそっと鼻先を触れさせながら、
「それは誤解だ、白雪。確かに俺はそう言ったが、あの言葉には続きがあるんだ」
「続き……?」
「ああ。『人間は俺達を殺す存在だ。だから俺は奴等を好きになれない。……だが、その全てが俺達を憎んでいる訳ではなかった。中には俺達の事を理解し、愛してくれる者も居る。お前を襲った奴等の事は未だに許せないが、だがそれが全てではないと気付いたよ』。……俺は、友人にそう言ったんだ」
 対する友人は、『お前は本当に死んでしまったんだな。まるで以前とは別人みたいだ』と笑っていたのを思い出す。けれどそれを見届ける前にその場を立ち去ってしまったのだろう白雪は、俺の言葉に顔を上げ、
「本当、に?」
「本当だ。そうでなければ、俺は白雪に惚れる事も無かった」
 白雪と出逢い、そして彼女に恋をするまでの一ヶ月間、俺は彼女の事を疑い続けていた。白雪の優しさを感じながらも、人間に殺され掛けた直後という事もあり、そう簡単に価値観は変化しなかったのだ。けれど、白雪と日々を過ごし、魔女であるというだけで同じ人間から排他される彼女の姿を見ている内に、『彼女は俺の知っている人間とは違う』と、そう感じられるようになった。そうして始めて、俺は人間にも様々な考えを持つ者が居るのだと知り……そしてそれが、彼女に対する恋心へと発展していったのだ。
 だからそう、俺は今でも人間が嫌いだ。だが、俺の為に動き回ってくれていたエリカを殺そうとは思わないように、彼等を嫌いだからといって、それがそのまま敵意や殺意に繋がる訳ではなかった。
 それに、里の人間が黄金の鱗を持つドラゴンを――俺の事を恐怖するようになったのは、俺が何も考えずに里や王都の上空を飛び回ったからだ。人間に対して全く興味を持っていなかった過去の俺は、それが小さな彼等にどれだけの恐怖を与えるのか解っていなかった。その結果、俺は友人に怪我をさせる事となり、更には自身も瀕死の傷を負った。
 つまり、元を正せば全て俺が悪かったのだ。まぁ、その結果白雪と出逢えたのだから、この運命に文句は言えど、呪う事はない。
「……だが、俺はお前に嫌われてしまった」
 俺の一言が誤解を生んだのだとしても、結果的に白雪の魔法で人間の姿になった。そしてそれは、ドラゴンである俺を否定したのと同じだ。白雪以外の人間を今以上に嫌っていた過去の俺にしてみれば、その時のショックは筆舌に尽くし難いものがあった。
 そしてそれ以上にショックだったのは、白雪が俺を人間に変えた、という事実だ。彼女はドラゴンである俺を愛していると、種族の違いなど何の問題では無いのだと、そう言ってくれていたのに。それなのに――
「ち、違うわ!」
 途端、白雪が大きく叫んだ。その拍子に彼女を鼻先で少し押してしまい、その軽い体が俺の頭に乗る形になる。城に居た頃は良くそうやって戯れあったものだが、しかし今の白雪にあるのは必死な表情だった。
「ツクヨミの事を嫌いになる訳ないじゃない! あれは、同じ姿になったら同じ目線で話が出来るかもって思ったからなの! ツクヨミに人間を――私を好きになって貰いたかったから!」
 だからこその、『私達の、為だから』。
 その言葉の意味を、俺は今になってようやく理解する。俺が人間の全てを嫌っていると思ったからこそ、彼女はそういった手段に出たのだ。
「私だってツクヨミの事が大好きで、色々と考えていたんだもの」
「そう、だったのか……」
 白雪がそうだったように、俺も勘違いをしていたのだ。だというのに、俺は彼女の気持ちを確認する事無く勝手に絶望し、その場から逃げ出して……あろう事かその命を危険な目に合わせてしまった。
「俺は……」
 深い後悔と共に呟くと、白雪がそれを否定するように、
「ツクヨミは悪くないわ。勘違いした私が悪いの」
「違う。勘違いさせてしまうような事を言い、白雪の話を聞かなかった俺が悪いんだ」
「でも、私だって……」
 白雪はそう言葉を続け、しかしそのまま黙り込むと、俺の鼻筋に額を押し付けた。そして小さく「……馬鹿みたいだね」と呟き、
「いつもは、こんな風に何でも話せていたのにね」
「そうだな……。だからこそ、俺達は不安になったのかもしれないな」
 種族の違いを超えて、俺達は互いを知った。それでも、心のどこかにその違いに対する不安があったのだ。そしてそれは無意識に大きな棘となり、俺達の心に突き刺さってしまっていた。
 だが、こうして改めて互いを知った事で、その棘が――一度は俺達に別れを与えたそれが、ようやく抜けてくれた……。
 嗚呼、俺達は、やっと再会する事が出来たのだ。
 ……そんな俺の視界の端で、明らかに取り残された感じのあるリラ達と、完全に呆れ顔をしているミツキの姿が見えるが気にしない事にした。今はただ、暖かな白雪の体温を――
 と、不意に「なッ?!」という驚きに満ちた声が聞こえて来て、俺は白雪を乗せたまま頭を上げた。その瞬間、リラ達が声よりもこちらの動きに驚いたように見えたが、俺達にしてみればこの程度の動きはいつもの事だ。白雪は俺の鱗を掴むと、振り落とされぬように体を更に密着させてくる。その自然な動きを再び感じる事が出来たのが、俺には何よりも嬉しかった。
 そして視線を向けた先。小屋の影になる場所に、少々慌てた様子で体を起こしている黒狼の姿があった。あの様子だと、俺の姿を見て驚いたのかもしれない。だから少しからかってみた。
「どうしたんだ、黒い犬。もしかして腰を抜かしたんじゃないだろうな?」
「そ、その呼び方は――だが、まさかそんな事が……」
「その様子じゃと、お主は友の正体にまでは気付いておらんかったようじゃのぅ、我が弟よ」
 楽しげな調子で言うミツキに、黒狼が驚愕の色を浮かべた。そして俺を改めて見上げると、
「で、では、貴様があの時の人間だというのか?!」
「その通りだ。この姿では初めまして、だな」
 こうして上から見下ろすと、巨大だった黒狼の姿を小さく感じた。だがそれでも、彼は圧倒的な存在感を放ち続けている。まぁ、流石に死の恐怖は感じないが……と、そんな事を思う俺から視線を逸らすと、黒狼は実姉であるミツキへと視線を向け、
「あ、姉上は知っておられたのですか?!」
「何を当たり前の事を。儂に解らぬ事など無いのじゃぞ?」
 そう言って笑うミツキの微笑みは、正しく姉の慈愛に溢れたものだ。コイツはこんな表情も出来るんだな、と思うと同時に、似たような優しい微笑みを何度も見てきた事を思い出し、俺はあまりにも一方的にミツキを頼っていたのだと、今更のように気付かされた。
 こうやって今日まで生きてこられたのはミツキのお蔭だというのに、俺は自分の都合の良い時にしか彼女のところへ逢いに行っていなかった。それでも、ミツキはいつも笑顔で俺を迎えてくれたのだ。しかし、俺はその優しさに何も返す事が出来なかった……。
 と、それが顔に出てしまったのか、白雪が少し不思議そうな顔で見つめてきた。同時に、ミツキが俺を見て――儚く微笑む。それはエリカが俺に向けてくれるものに似た、優しく、けれどどこか物悲しい微笑みだった。
 それに白雪が気付き、一瞬だけ驚いたような顔をしたあと、
「……罪な男ね、ツクヨミって」
 そう、少しだけ責めるように言う。
「まぁ、誰にも渡さないけど」
「ちょっと待ってくれ、何の話だ?」
「気付いて無いならそれで良いわ」
 そう言って白雪が改めて抱き付いてきた。一体何の事なのか解らないが……まぁ、解らない事を悩んでも仕方がないだろう。多分。
「……貴様は、」
 と、響いてきた声に視線を向ければ、黒狼が俺を見上げていた。その目にはもう敵意は無く、あるのは疑問の色だけだった。
「何故貴様は人間の味方をしている。森で聞いた話が事実だというのなら、人間に故郷を、家族を奪われたのではないのか。……よもやドラゴンともあろうものが、その小娘に誑かされたなどとは言うまいな」
「ああ、その通りだ」
 あっさりと肯定すると、黒狼が面食らったように目を白黒させた。それにミツキが呵呵と笑い、
「そうかそうか。だから儂等に協力せぬのだな」
「前にも言った通り、俺は白雪の味方だからな。人間は元より、お前達の味方をするつもりもないんだ。……すまないな、本当に」
「気にするでないわ、友よ。それよりも、そう謝ってくれるな。儂もお主を利用しようとしていたようなものなのじゃからのぅ」
 そうして、本当に何の事も無かったかのように笑うミツキの優しさと強さに、俺は言葉を返せなくなる。と、不意に白雪が体を起こし、
「協力とか味方とか、一体どういう事?」
「そういえば、まだ白雪には話してなかったな。
 俺が森の実りを貰い、人間を北の森へと立ち入らせないようにしている間に……いや、それ以前から、ミツキは森に棲む者達の力を蓄えさせ、同時に里の情報を集めていたんだ」
 遠い昔、北の森と南の森は一つの巨大な森林だったらしい。ミツキはその頃から人間の脅威を予感し、警戒し続けていた。けれど人間達はその予想を遥かに超える勢いで力を付け、その数を増やし始めた。その結果考え出された策がそれだったのだ。
 まさか自分の姉がそんな事を考えているとは想像もしていなかったのか、黒狼が酷く狼狽した様子で、
「あ、姉上、どうしてそのような事を! 後手に回るような方法を取らずとも、我等の力があれば人間など容易く滅ぼせましょう!」
「……さてなぁ」
 はぐらかすように言うミツキに黒狼が詰め寄り、その鋭い牙を露わにしながら食って掛かった。そこには強いプライドと、人間相手に負ける筈はないという絶対の自信が窺える。けれどそれは、自分自身の首を絞める縄になりかねないものだ。それを良く知っている俺は、黒狼を止めるように少々大きく声を放つ。
「止めろ。それは全てお前達の為なんだ」
 途端、黒狼が動きを止め、どういう事だ、と俺を睨み付けてくる。だがそれに答えるよりも早く、ミツキから責めるような声が来た。
「……友よ、それは言うなといっておいたじゃろう」
「すまない。だが俺は――」
 と、そう言葉を重ねようとしたところで、黒狼の視線がミツキへと向いた。そして彼は実の姉へと『南の森の長』としての顔を向け、
「北の森の長よ。一体どういった事なのか、詳しく説明をして頂きたい」
「……むぅ」
 どうにも話したくないのか、ミツキはつい、とそっぽを向いてしまった。彼女のそういった頑固な姿を見るのは初めてで、けれどその頑固さの一因には俺の存在も絡んでいる。俺が北の森へ迷い込んだ事が、ミツキの計画を一気に押し進めてしまったのだから。
 そう。責任は俺にもあるのだ。
「……なぁ、黒い犬。説明も何も無いと思わないか? 南の森の現状を考えればすぐに解る筈だ」
「まさか……」
「そうさ。お前の棲む森が人間によって奪われないように、ミツキは里を襲う計画を立てていたんだ」
 しっかりと力と情報を蓄え、決して人間に負ける事の無いように、彼女は一人で計画を練り上げていた。そんなある日、俺が北の森へと迷い込み……その本質を見抜いたミツキは、俺の協力が仰げないと解ると、ある提案をしてきたのだ。
 それは、俺に森の実りを与える代わりに、里の詳細を調べて来て欲しい、というものだった。
 人間になった直後であり、食料の得方すら解らなかった俺は、その提案に頷き……里の人口や戦力、その動向を定期的に報告し、更には『モンスターに襲われ難い体質を持つ自分だけが北の森に入る事が出来る』という嘘を吐いていく事になる。
 数日前にエリカのお節介を断ったのも、実際には里の人間の意識を北の森へと向かわせないようにする為だったのだ。
 その結果、どこをどう押さえればあの里を制圧出来るか、という計画が出来上がっていた。更に、ミツキの力ならば俺を元の姿に戻せたらしく、それを条件として更なる協力を求められた事もあったのだが……しかし、俺は戦力としての協力をするつもりはなかった。人間の姿でいるのは苦痛でも、しかしその姿は白雪が望んだものだったのだから。
 そして時が過ぎ――
「こら友よ、流石に喋り過ぎじゃ。それ以上話すと儂でも怒るぞ?」
 と、ミツキに爪を立てられた。地味に痛いそれに「すまない、悪かった」と俺は慌てて言葉を返す。けれど、これだけは黒狼に言っておかねばならないと感じたのだ。
 そう思う俺の視線の先で、黒狼が一歩ミツキへと近付き、
「……姉上」
 暗く、それでいて不安と疑問に満ちた声が響く。対するミツキは、夜空に浮かぶ満月を見上げながら、
「まぁ、そういう事なのじゃよ。……とはいえな、儂はこの計画を諦めようと思うておるのだ」
 小さく響いたそれは、俺も知らなかった彼女の決意だった。
「もし里を抑えても、すぐに王都から冒険者や兵士が派遣されて来るじゃろう。そうなったら最後、儂等は命も住処も全て奪われてしまう。……どう抗っても、負け戦になるのは確実なのじゃよ」
 この姿に戻った俺やミツキ達は、人間を軽く凌駕する力を持っている。だからといって、何十、何百という人間を相手に戦える訳ではない。下手をすれば、たった一人の人間に殺されてしまう可能性だってあるのだ。
「それでも、儂は救いたかった。南の森の者達を――そして何よりも、愛するお主を」
 その言葉に黒狼が小さく震えた。口では大きな事を言いつつも、彼もまた人間がどれだけ強大であるのかを理解しているのだ。けれど北には、今も清浄な森を護り続ける姉が居る。彼女に顔向け出来ぬような存在にならないよう、彼は抗い続けていたのだろう。
 しかし、それももう限界に来ている。人間が繁栄を求める以上、そう遠くない内に南の森へ開拓の手が入る筈だ。下手をすれば、北の森もその手からは逃れられないかもしれない。そんな状況で反旗を翻せば、狼やオーク達は一匹残らず討伐されてしまうに違いない。
 それならば、まだ現状を維持していた方が良い。里の人々は北の森を崇高な場所と感じ、南の森を恐怖の満ちる場所だと考えている。その認識は森の開拓を防ぐ事は出来なくても、森の消滅は招かない筈だ。
 それでも、いつかは森が失われる時が来るかもしれない。けれどそこに至るまでの時間は、次の住処を探す為に使う事が出来る。その間に南の森の狼達が北の森へ移住する事も出来るだろうし、或いは全く別の新天地を探す事も可能だろう。
 ミツキが作り上げた計画は、里を襲う事ではなく無く、失われるかもしれない森を護る事を目的としている。しかし、彼女達は変わる必要があった。モンスターでありながら人間をやっていた俺には、それが良く解る。
 だから、言わずにはいられない。
「この世界は、もう人間の為に存在しているんだ。奴等は住処も、食料も、何もかもを自分達で生み出し、発展させていく力を持っている。それは俺達モンスターには不可能な事だ」
 どれだけ高い知能を持っていようと、俺達には新たな何かを生み出す想像力や発想力、技術力が無い。その差は巨大な壁となり、俺達と人間の間に横たわっている。
「時代は変化し、もうこの星の主役は人間に移ってしまっている。前にも言った通り、俺達には少しの妥協が必要になってしまったんだ」
 人間には敵わないから、我が物顔を止めて大人しくなろう。俺が言う妥協とはつまりそういう事だ。しかしそれは俺達モンスターにしてみれば酷く屈辱的な事だった。
 何せ俺達は、自分達がこの星の支配者だと信じて生きてきたのだから。
「貴様は……貴様は抗わぬのか、偽りの人間!」
 失望と絶望と、それ故に抑えきれぬ怒りを爆発させたのだろう黒狼を前に、俺は静かに目を伏せ、
「……俺はもう抗ったよ、黒き狼」
 その結果に得たのが、白雪への――人間への恋心だったのだ。これ以上の惨敗は無い。
「我等は、我等は……ッ!」
 悔しさを滲ませながら、黒狼が歯を軋ませる。それを慰めるように、ミツキがその隣に寄り添い……不意に、白雪が俺の鼻先から地面に降り立つと、
「あの、ちょっとしゃしゃり出ても良いでしょうか」
 その言葉に黒狼が威嚇するように唸り出し、しかしミツキがそれを抑えると、白雪へと試すような視線を向け、
「何をするつもりかのぅ、古の魔女」
「少々時間稼ぎをば」
「その意図は?」
「私は純粋な人間ですが、貴女達の味方でもありたいと思っています。その証明になれば、と」
 そうして再び俺の鼻先に戻ってくると、白雪が自分の考えを小さく説明してくれた。
「ああ、それは良い考えだ。それに、俺はもうここには居られないからな」
 この姿に戻った時に思わず啼いてしまったから、もうこの場所に何物かが居るのだと里に知られてしまっている筈だ。暫くすれば、警戒の為に里の男達が様子を見に来るに違いない。
 立つ竜が跡を濁さずに済むように、ここは白雪に頑張って貰う事にしよう。
 俺の同意に彼女は満足げに頷くと、完全に蚊帳の外となっていたリラ達へと視線を向け、
「リラ・ライラック。ファイ・ソフォーラ。ニア・パープティ」
「……はい」「んだよ」「なんでしょう」
 三者三様の表情で答えるリラ達を前に、白雪は魔女らしい、とても意地悪な笑みを浮かべた。
 そして、彼女達へと感謝と別れの言葉を告げる。
「貴女達には、ちょっと勇者になって貰うわ」
「ゆ、勇者?」
「取り敢えず、まずはツクヨミ達の姿を隠すわね。って、あー、流石に広域魔法は素手だとキツイかな……。ちょっとニア、杖貸して。リラの物より汎用性高そうだから」
 自分が指名されるとは思っていなかったのか、ニアが珍しく驚いた表情を浮かべ、けれどすぐに腰に刺している剣の鞘を外し始めた。だがそれを止めるように、ファイが一歩前に出ながら、
「ちょっと待て。俺達に拒否権はねぇのかよ」
「嫌なの?」
「突然言われて『ハイ解りました』って頷けるほどお気楽じゃねぇ」
「でも、勇者の称号は魅力的だと思うけど」
 国王よって与えられるその称号は、その後の人生を一変させるほどの力を持つ。富や名声は思いのままで、国によってはその政に口を挟む事が出来るようにもなるらしい。
 白雪の言葉に否定的ではあっても、やはり魅力的な提案ではあるのか、ファイが一瞬動揺し――それに追い討ちを掛けるように、白雪が『良い事を思い付いた』という顔をして、
「なら、私が冒険者であるアンタ達に依頼をするわ。それなら何の問題もないでしょう?」
「いや、そりゃねぇけど……ったく、容赦ねぇなこの魔女が……。……取り敢えず一応聞くが、報酬は?」
 ファイの問いに、白雪は暫し思案したあと、
「んー。城の宝物庫に本物の魔剣や聖剣がいくつかあるから、それを好きなだけ持って行って良いわ。もし使わないなら、売ってお金にしてくれて構わないし」
「ま、魔剣?! ……さ、流石に冗談だろ?」
「本当よ。魔女なんてやってると、そういったアイテムを手に入れる事が多いの。でも、正直宝の持ち腐れなのよね。だから報酬はそれで」
 そうあっさりと言ってのける白雪に、ファイは動揺を隠せぬ様子で、
「で、でも、テメェの城は……」
「宝物庫とか、そういったものは魔法で隔離してあるから大丈夫。まぁ、もしそれが破られていたとしても、お金になりそうな魔道書とかマジックアイテムはすぐに作れるから、それを報酬の代わりにさせてもらうわ」
「すぐに作れるって、もしかして自作の魔道書を売ってるのか?」
「当たり前じゃない。そうじゃなかったら、一人であの城を維持していけないわ」
 生きていく為に必要な食料や衣服、そして日々老朽化していく城の補修など、生活にはどうしても金が掛かる。それを賄う為に、白雪はしっかりと働いていたのだ。
「それじゃ、改めて交渉するわ。依頼の内容は勇者になる事。その報酬は勇者の称号と城の宝物。……これで私の依頼を引き受けてもらえるかしら」
 白雪の問い掛けに、ファイがリラ達へと視線を向け……面を合わせた三人の顔に浮かんだのは、どこか諦めにも似た表情だった。突然の状況が重なり過ぎて、深く考える事を放棄してしまったのかもしれない。
 そんな風に思いながら成り行きを眺めていると、ファイがニアの前から一歩横に体を動かした。そして、ニアが自身の剣を白雪へと手渡し、
「その依頼、引き受けさせて頂きます」
「交渉成立ね」
 そう楽しげに微笑むと、白雪が剣を受け取った。そして彼女は、不機嫌そうに視線を逸らしているファイの肩を軽く叩き、
「まだ『三人』で居てもらうわよ? その間に、どうにか答えを出しなさい」
「……逃げ道塞ぐ気かよ、この魔女め」
「あんな話を聞いちゃった以上は、ね。それに――」
 白雪はその言葉と共に剣の柄を握ると、そのまま剣を引き抜いた。途端、古城の魔女の二つ名を体現するかのように、刀身から白く輝く雪のような魔力が溢れ出し、剣の軌跡を幻想的に彩った。彼女はそれに満足そうに頷くと、俺にとびきりの笑顔を向け、
「――私はね、ハッピーエンドが好きなのよ」



 そうして、白雪が朗々と呪文を唱えていく。
 杖という、魔力を制御する為の道具を手にした今の彼女は、戦闘に特化した魔法使いであるリラ達に引けを取らぬほど速く魔法を発動させる。その精度は高く、そして何よりも美しい。それこそが、白雪・アマステラという魔女の本領だった。
 それを見慣れている俺はともかく、リラ達は驚きに固まったまま動かない。そうしている間にも俺やミツキ達の姿は結界で隠され、その代わりに俺の死体を模した巨大な造形物が生み出された。その完成度は妙に高く、この目を一瞬疑ってしまったほどだ。流石は白雪だと言えるだろう。
「……なぁ友よ。その反応は間違っておらんか?」
「何故だ? 出来が良ければ、その分里の人間に看破される可能性が減るだろ」
「……盲目というのは、ほんに恐ろしいものじゃのぅ」
 悲しげに、というか少し残念なものを見るような目でミツキが言う。失礼過ぎる物言いだが、否定出来ないので黙るしかない。
 最後に激しい戦闘が行われた形跡を偽装すると、白雪は構えていた剣を下ろした。そしてそれを鞘に戻すと、「ありがとう」という言葉と共にニアへと返し、そのままファイ達に勇者になる為の方法を説明していく。
「……と、そんな感じで。大変だろうけど、ボロが出ないようにお願いね。まぁ、大半は私が立ち回って押し切るから、逆に意識されると困るんだけど」
「でもよ、本当に上手くいくのか?」
「半分ぐらいは事実だもの、なんとかするわ。それに、こうでもしないと里の人達は意識を変えないでしょうし」
「だけど……」
 引き下がらないファイの言葉を制するように、白雪が唇の前で人差し指を立てた。彼女はそのまま視線を里の方へと向け、耳を澄ますようにしながら、
「……もう来たみたいね。あの数なら男衆だけかしら」
「そ、そんな事も解るのか?」
「アンタ達と戦った時とは違って、今の私は調子が良いからね」
 そう言って白雪が微笑む。それと同時に、里へと続く道に松明の炎が見えてきた。
 それはゆっくりと、こちらを警戒するように小屋の方へと近付いていく。俺がそれを伝えると、白雪がニアへと抱き付いた。そのまま彼女にしがみ付き、その胸元へと顔を埋める。どうやらもう演技は始まったようだ。
 そして、男達の姿が完全に俺の視界に入ったところで、一団の先頭を歩いていた男が声を上げた。
「一体何が――」
 あったんだ。そう告げようとしたのだろう彼は――里長の息子であるローディは、俺の、黄金の鱗を持つドラゴンの死体を見てその言葉を失った。同様に背後からやって来た男達も言葉を失い……その混乱が覚めぬ内に、白雪がその場に崩れ落ちた。
 それにローディ達が気付き、慌てた様子で白雪達の元へと駆け寄っていく。そして改めて「一体何があったんだ」と問い掛けて来る彼に、白雪は辛そうに俯きながら、
「もう、全て終わりました……」
「終わった……? という事は、あのドラゴンは死んでいるのか?」
「その通りです。この方々のお蔭で、私は救われました」
 白雪がそう告げた瞬間、男達から歓声が上がった。それに黒狼が忌々しげな表情を見せるが、仕方が無い。彼等はこの場所に来るまで、討伐されたと思っていたドラゴンの啼き声に怯え続けていたのだ。その恐怖が失われた今、自分達が救われた事を喜ぶのは至って普通の反応だった。
 だが、白雪やリラ達は、男達の歓声を拒絶するように動きを止めている。その様子を訝しんだのか、ローディが困惑の色を浮かべ、
「ど、どうしたんだ、一体。ドラゴンはもう討伐されたのだろう?」
「はい……。ですが、私は最愛の人を失ってしまいました……」
 深い悲しみと共に答える白雪に、ローディが「最愛の人?」と呟き、言いながら気付いたのか、そのまま小屋の方へと視線を向け、
「まさかとは思うが、お嬢さんは彼の……?」
 その言葉に、喜びに包まれていた男達の様子が変わっていき……同時に、リラ達が沈痛そうな様子で視線を落とす。その様子に男達の疑念が高まったところで、白雪がニアに支えられながら立ち上がり、
「申し遅れました。私はステラと申します。あの人が――夫がお世話になりました」
「お、夫?」
 この地方で定められた婚姻の年齢に達しているかいないかの年齢でしかない白雪から告げられた一言に、男達の間に衝撃が走る。けれど白雪はそれに構わず、彼等を丸め込むように言葉を続けていく。
「はい。とは申しましても、私達は喧嘩別れをしておりまして……私は、旅に出てしまったあの人を追ってこの大陸に入りました。そして、どうにかこの小屋へと辿り着き、こちらの方々から詳しい話をお聞きしました。
 その後、幸いにもあの人は目を覚まし、私達は再会する事が出来たのですが……そんな時に、突然あのドラゴンが現れたのです」
 そこで、白雪が俺の死体の近くに創り上げた血溜まりへと視線を向けた。途端、ローディ達がそれに息を飲み、最悪の想像に表情を歪ませ、
「まさか、彼は……」
「はい……。私は逃げる事を望んだのですが、あの人は『お前を護る』と、そう言って剣を取り――ッ」
 堪え切れなくなったように、白雪が再び崩れ落ちる。それをニアが支え、少し慌てた様子でリラも駆け寄っていく。
 対する男達の中からは、悔しげな呟きや、モンスターに対する怒りが漏れる。……いくら俺が『英雄』と呼ばれるようになっていたとはいえ、彼等との関係は薄い。だからもっと淡白な反応を予想していたのだが、これは予想外だった。
 とはいえ、これは白雪の演技によるところもあるのだろう。因みに、『ステラ』という偽名は彼女が昔から使っているもので(主に古城の魔女を敵視している相手に使っていた)、そこに演技臭さは全く感じられない。そうやって他人を完璧に欺く白雪の姿は、正しく『魔女』だと言えた。
 そんな俺の想い人は、ニア達に支えられながら、どうにか再び立ち上がったところだった。この世の苦痛を全て背負ったかのようなその姿には心が痛むものの、白雪の演技を邪魔する訳にはいかない。唸りそうになるのを必死に堪えながら、俺は事の成り行きを見守っていく。
 立ち上がった白雪は「度々すみません……」と小さく呟き、そしてリラ達へと頭を下げ、
「貴女方のお蔭で、彼の死は無駄にならずに済みました」
 その言葉に、ローディが改めて俺の死体へと視線を向け、
「では、冒険者さん達がドラゴンに止めを?」
「そうです。その勇姿は、正しく勇者のようでした」
 途端、男達の間にざわめきが走る。恐らくはリラ達に歓声を送りのだろうが、白雪の前という事で遠慮があるのだろう。けれどそれを無視するように、ファイが事前に抜いておいた剣を鞘に戻し、その音で男達を惹き付けてから、
「あんなドラゴン屁でもねぇ。これが俺達の実力だ」
「……とはいえ、かなり苦しい戦いでしたが」
 ファイに続くように、苦笑と共にニアが言う。途端、耐え切れなくなったのだろう男の一人が「勇者の誕生だ!」と声を上げた。
 この大陸には、『ドラゴンを倒した者には勇者の称号を与える』という勅令が今も残っている。そう、俺を――ドラゴンを殺した者は、国王から『勇者』として認められるのだ。
 男達の歓声はすぐに拡がって行き、場は先ほど以上の興奮に包まれる。どうやら里の人々はファイ達を好意的に受け入れているようで、故にその喜びも大きいように感じられた。
 だが、ここからが本番だ。事前の打ち合わせ通り、歓声の中でファイ達は喜びの表情を浮かべながらも、しかし疑問有りげに、
「けど、不思議な事があったんだ。俺達は北の森に背を向けて戦ってたんだが、あのドラゴンは森へと被害が出ないように攻撃してきたんだ。まぁ、そのお蔭で助かったんだが……前に聞いた話じゃ、里にも手を出さなかったっていう話だし、このあたりには何か不思議な力でもあるんじゃないだろうか」
 と、本人は普通に話しているつもりなのだろうが、ファイの言葉にしては言葉が硬いように思えた。というか、後半の言い回しが少し変だ。それでも堂々と言ってみせたから、そこに違和感は無いが……こうして客観的に見ていると少々演技臭い。それをフォローするように、ニアが森へと視線を向け、
「この辺りには古くからの自然が多く残っています。それはボク達魔法使いからすると、質の良い魔力を得られる場所、という事にもなるんです。そしてそれは、時に結界の役割を果たし、害悪から人々を守護してくれる事もあります。元々北と南の森は一つの大きな森林だったと言われていますし、里もその恩恵を受けているのかもしれません」
「確かに、里はこの辺りの森を開拓して出来た場所だ。その可能性は高いのかもしれないな」
 ローディがそう呟き、周囲の男達も一様に考えを巡らせ始める。
 しかし、守護といっても、一方的に人間を襲うモンスターは少ない。ミツキ達狼はその典型で、俺達ドラゴンはそもそも人間を襲わない。だが里の人々からすれば、それは『いつモンスターに襲われるかも解らない状況』となってしまう。つまり彼等は、何もしなければ俺達に襲われる事は無い、という事を理解していないのだ。
 故に、モンスターに襲われないのは『森の恩恵』を受けているからなのだ、と彼等に思い込ませ、『自分達は森に護られている』とその意識を変化させる。その後、森の開拓の是非を考え直してもらう――それが、白雪の提案した森を護る方法だった。
 ファイ達を勇者に仕立て上げたのは、里の人々の意識を変化させ易くする為だ。だが、万が一その意識が変化しなかった場合は、彼等に国王へと直接掛け合って貰う事になっていた。
 とはいえ、人々の生活がこれからも続いていく以上、それで南の森の開拓を止められる訳ではないだろう。それでも、ミツキ達がこれからの事を考える為の時間は作れる筈だ。……いや、時間はいくらあっても足りないか。『ずっと見下してきた人間が、今や自分達を凌駕するほどの力を持っている』という現実を受け入れ、その上で、彼等の怒りを買わぬように生き方を変えねばならないのだ。そうしなければ討伐されてしまうと解っていても、その決断はそう簡単に下せるものではないだろう。
 ともあれ、その『森の恩恵』を強調する為、ニアが言葉を重ねていく。
「となると、南の森が淀んでいたのにも何か理由があるのではないでしょうか。恐らくこのドラゴンも、あの淀みを嫌って北の森へ現れたのだと思いますから。なので――モンスターの討伐に向かったボク達が言うのも何ですが――里の安全と、そして南の森の浄化の為にも、これ以上森に手を出さない方が良いような気がします」
「だが、我々にも生活がある。あの森をどうにかしない事には……」
「それは解っています。ですが、こうしてドラゴンが現れてしまった以上、里が森から得ている恩恵は消え掛かっている可能性が高いと思います。もしかしたら、今後は直接里を襲うようなタイプのドラゴンが現れるかもしれません。いえ、ドラゴン以外にも、森のオークや狼達が里へ襲い掛かってくる可能性もあります。
 ボク達冒険者は依頼を受ければどんな事だってしますが、それでも失われた自然の恩恵を取り戻す事だけは出来ないんです。それは王都の大魔法使いにも不可能でしょう。……部外者の意見ですが、それは忘れないで下さい」
 真摯に響いたニアの言葉に、ローディ達が再び考え始めた。
 南の森を開拓すれば王都への道が近くなり、里は発展する。けれどその代わりにドラゴンが現れるようになってしまったら意味が無い。
 今までならば里の発展を選んでいたのだろうが、白雪達の演技によって『里がドラゴンなどのモンスターに襲われるかもしれない』という危険性が提示された事で、彼等の意識は確実に変化しているように見えた。ここで白雪がもう一押しを――と、そこで、里の方から駆けて来る一団があった。同時に白雪達もそれに気付き、男達も同じように視線を向け……その一団が持つ松明の明かりよりも早く、エリカが白雪達の前へと飛び込んできた。
「一体何があったの?! 彼は――あたし達の英雄は?!」
 酷く慌てた様子のエリカを、彼女を追って来たのだろう若い女達が引き止める。その様子からして、矢も盾も堪らず駆け出してきたのだろう。
 着替えている最中に聞いた白雪の話では、俺が暴漢に襲われたとファイが里へ伝えに行った時も、エリカはああして一人で飛び出そうとしていたらしい。とはいえその時は里の人々が説得し、どうにか彼女を止めたとの事だったのだが……しかし、今回は彼女を引き止められなかったのだろう。だからそう、この状況はエリカにとっては最悪のものになっていた。
 エリカには恩を感じていたし、まさか彼女がそこまで俺を心配してくれているとは思っていなかったから、その辛そうな表情に心が痛む。それでも俺は、事情を説明するローディの姿を黙って眺め続けるしかなかった。
「冒険者さん達が……いや、勇者様達がドラゴンを殺してくれたんだ。だが、彼は……」
「そん、な……」
 深い絶望に表情を歪め、エリカが崩れ落ちる。
 この状況に後悔は無いが、それでも自分の愚かさが嫌になる。エリカには家族のように親身にして貰ったというのに、何一つ恩を返す事が出来なかったのだから。……嗚呼、俺は本当に馬鹿だ。
 この姿が彼女には見えないと解っていても、俺は胸にある感謝を伝える為に、地に伏せるように頭を下げた。
 今までお世話になりました。もう二度と貴女の淹れた紅茶は飲めないですが、あの味と優しさは忘れません。
「有り難う――」
「――え?」
 ほんの小さな呟きだったというのに、ゆっくりと、驚きと動揺の混じった顔でエリカが顔を上げた。そして何かを探るように周囲へ視線を向け……不意に、目元を強く拭った。そのまま自分一人の力で立ち上がると、彼女は深く息を吐き、「こちらこそ」と、誰にとも無く呟いた。
 そうしてエリカは目元を赤く腫らしながらも、普段の強い輝きのある瞳を取り戻し、リラ達を見つめると、
「彼がどんな風に戦ったのか、教えてくれる?」
「は、はい」
 少々の動揺を見せながら、それでもどうにかリラが『俺の活躍』という嘘を語り始め、それを白雪達がフォローしていく。その中で、エリカは白雪の存在に驚きを浮かべ、けれどどこか納得したように話に頷いていた。
 そして全ての話を聞き終えたあと、彼女はローディへと視線を向け、
「勇者様があたし達の里を護ってくれて、こうして忠告までしてくれている。なら、それを蔑ろになんて出来ないと思うわ」
「そうだが、しかし……」
 エリカの言葉があっても、ローディ達の意見はまだ一致していないようだった。彼等にしてみると、やはり里の発展は望むべきものなのだろう。
 と、そんな時、不意にリラが口を開いた。
「あ、あの、聞きたい事があるのですが」
 それは白雪の台本には無い台詞で、演技を続けていたファイ達の顔に少なからず動揺が走る。けれど、それを無視するようにリラは言葉を重ねた。
「今までも、こちらから手を出さなければ、モンスターに襲われる事は無かったんですよね?」
「ああ、その通りだ……いえ、その通りです。里が直接襲われた事は一度もありません」
「でしたら、私は今のままの関係を続けるのが一番なのではないかと思います。皆さんの様子を見る限り、森の開拓を止めるのは難しいのかもしれませんが……人間とモンスター、このどちらかのバランスが崩れたら、この平和も一緒に崩壊してしまうような気がするんです」
 ローディ達に向けられたその言葉は、同時に俺やミツキ達へと向けられた言葉でもあったように感じられた。
 人間はこの先も数を増やし続け、いつか必ず俺達モンスターの住処にまでその手を伸ばしてくるだろう。けれど人間達が俺達の存在を許容し、そして俺達が人間達の存在を理解していけば、争いを生まぬままに共存出来るのかもしれない。
 俺は悲観的な事ばかりを考えていたが、そうして人間側が妥協してくれる可能性も存在していたのだ。能天気に楽観は出来ないが、もしそれが実現されれば、未来は決して悲観に満ちたものにはならないだろう。
 そして改めて考え出すローディ達を前に、ニアに支えられ続けていた白雪が不意に顔を上げ、彼女の腰に差し直されていた剣を抜き去ると、
「……お話中失礼致します。もう、耐えられません」
 一瞬で言葉を失う周囲を前に、白雪は酷く暗い声でそう呟くと、剣先を俺の死体へと向け、
「――炎よ!」
 叫びと共に生み出されたのは、灼熱の火球・ファイアボール。
 剣先に浮かび上がった巨大な魔法陣から放たれるそれは、闇夜に紅い軌跡を残しながら容赦なく俺の死体を燃やしていく。
 そして燃え盛る炎が紅から白へとその色を変化させた瞬間、轟、と一際強く死体が燃え上がり――そのまま幻のように消え失せる。あとに残ったのは多少の灰と、死体が存在していた事を窺わせる焼き跡だけだった。
 白雪は荒れた息を吐きながら剣を下ろすと、息を飲む周囲を前に再びその場に崩れ落ち、
「っ、あ――!」
 全てを否定するように慟哭する。
 今までどうにか冷静さを保っていた白雪が見せた激情に、男達が気まずそうに視線を逸らし、エリカがその瞳に再び涙を浮かべた。けれど彼女はそれが流れ落ちる前に拭い去ると、
「里が発展すれば、みんなの生活は豊かになる。それが素晴らしい事だっていうのはあたしにも解ってるわ。でも、モンスターに襲われる危険性や、こうして大切な人を失う可能性だって増えるんでしょう? あたしは、そんな思いをする人をこれ以上出したくないわ……」
 エリカの言葉に、彼女のあとを追ってきた女達が「私も」と頷きを返し、護るべき者が居るのだろう男達もその意見に同意していき……そして、彼等の視線がローディへと向いていく。この場での意思決定権を持っているのは彼だから、自然と判断を仰ぐ流れになったのだろう。
 ローディは腕を組み、暫し考えたあと、背後に立つ里の人々へ向き直り、
「最終的な決定は父と話し合ってからになるが……俺自身は、里の発展を望んでいる」
 途端、周囲にざわめきが走った。けれどローディはそれを抑えるように、
「だが、それを急いだ結果、大切なものを失ってしまっては意味が無いとも気付かされた! 王都との関係も大切だが、そもそも俺達は森と共存して生きてきたんだ。それを忘れてはいけないのだと思う。……そして何よりも、俺達は里の英雄を失った。まずはその魂を弔おう」
「そう、だね……」
 エリカがそう小さく呟き……そしてその場に居る全員が、『人間の俺』に黙祷を捧げてくれたのだった。

 その後、エリカは涙を流し続けている白雪を立ち上がらせると、その体を支えながら里へと歩いて行った。それを護るように男達も歩き出し、最後にローディがファイ達へと視線を向け、
「勇者様方も、一度里へお越し下さい。詳しい話を里長にして頂きたく思いますので」



 松明の明かりが遠く消えていき、森の周辺が元の静けさを取り戻したところで、俺は深く息を吐いた。同時に、黒狼が鋭い視線をこちらに向け、
「あれで本当に大丈夫なのだろうな」
「絶対とは言えないさ。これからも人間は増え続けるし、王都からの干渉も止まないだろうからな。それでも、今回の事が彼等の意識を変える筈だ。その間に、今度はお前達が変わっていけば良い」
 そう告げると、黒狼は俺から視線を逸らし、そして南の森へと歩き出しながら、
「それがお前の言う『少しの妥協』か、偽りの人間。いや――愚かな竜よ」
「ああ、そうだ。俺はお前にもそれが出来ると信じているよ、黒き狼」
 対する黒狼は忌々しげに俺を睨むと、しかし何も言わず、そのまま森へと駆けて行く。その体はすぐに夜の闇へと混ざり、見えなくなった。
 その姿をミツキと共に見送ると、彼女は俺を見上げ、しかし珍しく不安げに、
「……儂も変われるだろうかな、友よ」
「そう不安になるな。お前は、人間達が変わっていくのをずっと見てきたんだろう? なら大丈夫さ。人間だってある日突然別の存在になった訳じゃない。時間を掛けてゆっくりと変わってきたんだ。お前も黒狼も、そうやって変わっていけば良い」
 それが難しい事だとは理解しているが。そう思う俺の隣で、ミツキが苦笑し、
「過去を延々と引きずっておったお主に言われると、ちと心配が残るのぅ」
「……それを言うなよ」
 思わず返す声が小さくなってしまう。そんな俺へとミツキは笑みを浮かべ、
「じゃが、お主の想いは本物じゃった。儂はそんなお主を信じる事にしよう」
 そう楽しげに言い、彼女は月を見上げた。それに続くように、俺も視線を上げ、
「有り難う、ミツキ。お前には感謝してもし足りない」
「止めてくれ。儂はお主とこうして語らい、月を見上げるのが楽しみだっただけのじゃから」
 そうして静かに、いつものように二人で月を見上げる。場所も姿も何もかも違うけれど、彼女と共有するこの静謐な空気だけは変わらない。俺にはそれが嬉しかった。
 暫くそうしていると、不意にミツキが何かを決意したかのように、小さく「よし」と呟き、
「儂も人間の事を改めて学ばねばらなん。儂等がどこまで妥協せねばならぬのか、その線引きもまだ曖昧じゃからな。その為に少し協力して欲しい事があるのじゃが……なぁ友よ、その大きな頭を少し下げてくれんか?」
「解った」
 一体何をするつもりなのだろうか。そう思いながらも、俺はミツキの隣に寄り添うような形で頭を下げる。彼女はそれに満足げに頷くと、再び月を見上げ――大きく、啼いた。
 雄叫びのように力強い咆哮が、夜の空気を震わせる。その刹那、ミツキの頭上と足元に、青白く輝く魔法陣が生まれた。人間の魔法陣とは違うシンプルなそれは、俺達モンスターが魔法を発動させる際に生み出すもの。単純であるが故に、より純粋に魔力を力へと変換する事が出来るのだ。
 そして次の瞬間、展開した魔法陣が淡い光を放ちながら動き出す。
 それはゆっくりと回転しながら、月を見上げるミツキを挟み込み――
「……嘘、だろ?」
 思わず声が漏れる。
 俺はその魔法を良く知っていた。何せ、それが全ての始まりだったのだから!
「――ッ!」
 驚きに目を見開くと同時に、ミツキの巨躯が光に包まれる。けれど一瞬で光は収まっていき……そのまま、彼女を被っていた光と魔法陣が幻のように消えていく。
そうして再び静寂が戻ってきた時、そこには年端も行かない幼い少女が立っていた。
「……む、外見年齢を間違えたかの」
「お、おま、」
「じゃがまぁ、人間というものを学ぶには丁度良いのかもしれんな。どうだ友よ?」
 そう言って微笑むミツキは、今や十台前半の少女の風貌をしている。その肌は雪のように白く、けれど長く美しい髪は濡羽色をしており、黒狼の体毛に似たそれは彼女なりの愛情表現なのだろうかってそうじゃない。そもそも魔法は術者の意識が反映されるもの。つまり普段から意識しているイメージがそのまま魔法に反映されるという事であって、だから俺は白雪のイメージしていた『人間のツクヨミ』という姿になった。だからそう俺は初めから洋服を着ていてしかしミツキは日常生活において洋服を着るという概念が嗚呼まどろっこしい!
「まずは服を着ろ!」
 物珍しげに両手を開いたり閉じたりしているミツキにそう怒鳴ると、彼女はきょとんと目を丸くした。それに構わず、俺は言葉を続ける。
「体毛に覆われている狼と違って、人間は裸で出歩いたりはしないんだ。反撃する牙も爪も無い今の状況で、もし襲われでもしたらどうするんだ!」
 と、明らかに見当違いだと解っていても言わずにはいられない説教を始めてしまった俺に対し、ミツキはくすぐったげな笑みを浮かべると、
「解った解った。こうやって裸を曝すのは、お主の前でだけにしておくよ」
 と、時と場合によっては大変な誤解を生みそうな一言をさらりと言う。それに動揺していると、彼女は再び月を見上げ、
「じゃがな、この体でなら、人間に直接意見を言う事も出来るじゃろう? まぁ、流石に正体は明かせぬが……そうやって弟達が変わる為の時間を作ってやりたいんじゃよ。皆、そう簡単には変われぬじゃろうからのぅ」
 変化していく人間を観察し続けていたミツキと違い、黒狼達の頭は古き時代を引きずっている。今日の出来事は彼等狼の変化の切っ掛けにはなるだろうが、そう簡単には変われないものだ。その為に、そして今度は人間の視点から人間を観察する為に、彼女は少女の姿になる事を決めたのだろう。
 そんな風に思っていると、ミツキが何気ない動きで俺の鼻先へと近付き、
「――」
 上唇のあたりに触れる、柔らかな感触。それがミツキの唇なのだろうと頭が理解するよりも早く、彼女は小屋の方へと歩き出し、
「お主の家を貰い受けるぞ。今度は、あの魔女と共に遊びに来ると良い」
 そうして最後に振り返った彼女は、少し赤い顔のまま微笑み、
「幸せにな、我が親愛なる黄金の竜。……儂はいつまでも、お主を待っているよ」
 そうして、最後の最後にとんでもない事をしてくれたミツキが小屋の中へと消えていく。
 対する俺は、その姿を呆然と見送り――

「ごめんね、ツクヨミ」
 そんな言葉と共に白雪が戻ってくるまで、その場を動く事すら出来なかった。





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