五月蝿い世界の不器用な二人。

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□五章。

 今日もまた、夢を見なかった。それに昨日以上の不安を感じながら、俺はゆっくりと起き上がる。
 だが、酷く寒い。無意識に肩を摩りつつ、尚更に気分が落ち込んでいくのを感じながらカーテンを引いてみると、外は雨になっていた。どうりで冷える訳だ。
「寒いのは嫌いなんだよ……」
 無意識にそう呟きながら、俺は布団の中に入り直し、二度寝をしようと目を閉じる。けれど、その闇の中に浮かんだのは白雪の姿ではなく、昨日の顛末だった。

 あのあと、無事に森から生還した俺達を待っていたのは、里を上げての労いだった。
 モンスター、つまり黒狼の討伐は果たせなかったものの、そもそも森から無事に戻ってきた冒険者自体が少なく、その状況に心を痛めていた人々にとっては、『無事に戻ってきた』というだけでも価値のある事だったらしい(因みに、エリカは俺の『モンスターに襲われ難い体質を持つ』という嘘を信じ込んでおり、だからこそ俺が案内をする事を止めなかったのだと言っていた。それでも不安はあったようで、無事に戻ってきた事を心から安堵し、労ってくれた)。
 とはいえ、失敗は失敗。依頼を果たせなかった以上、ファイ達は報酬を受け取る事が出来なかった。どうやらその資金は次へと回され、里はまた新しい冒険者を雇い、討伐へと向かわせるとの事だった。
 そんな里の決定に対して、ファイ達三人は何かを言いたがっていたが、しかし何も言う事は無かった。例えモンスターと意思の疎通が取れるとしても、里の人々にはこの地での生活がある。その事に気付いたのだろう。もし森に住むモンスターが人間を好意的に思っていたとしても、里の人々からしてみれば、彼等は自分達の生活に邪魔な存在でしかないのだから。
 そして、俺達の衣服や剣に付着したオークの血は、里の魔法使いが落としてくれた。それでもまた、ローディから借りた地図と同じように門外不出の魔法で……と、地図を返す際に里長からそんな説明を受けたが、血に汚れた剣と上着を捨ててきた俺にはどうでも良い話だった(例え血が落ちていたとしても、誰かを殺めた武器や、死の臭いが付き纏う上着を小屋に持ち帰ろうとは思えなかったのだ)。
 その後、俺は新しい上着を買うと、引き止めようとする人々から逃げるように小屋へと戻った。そして北の森へ向かい、ミツキに事の次第を説明し、彼女の話に付き合いつつも夕方には帰宅。夕飯を取ってベッドに入り――そうして、ようやく静かな日常に戻ってくる事が出来たのだった。
 ともあれ、本当に散々な一日だった。そう思いながら寝返りを打ったところで、すぐ隣で丸くなっていた白猫がもぞもぞと動き、布団から顔を出すと、
「おはろう……」
「まだ使うのかその挨拶」
 そう呟いた先で、彼女は大きく欠伸をしてから、
「なんだか癖になっちゃってて……。それより、朝ごはんは?」
「あー……解った、今から作る。ちょっと待ってろ」
 そう答えながら体を起こし、ふと、白猫は以前『ご飯は自分でどうにかする』と言っていた事を思い出す。が、既に彼女の分も計算して朝食を作ろうとしている以上、今更その言葉に意味は無いのだろうと思えた。
 


 雨降り以外には何事も無く、穏やかに一日が過ぎていく。
 今まではその穏やかさすらも苦痛だったというのに、ここ数日に起こった騒動の疲れがある為か、今日はそれを気にせずに過ごす事が出来ていた。
 そうして一日が終わり、少々早い夕飯を食べ終えると、俺は何をするでもなく、寝室のベッドの上で白猫の背中を撫でていた。聞こえてくるのは降り続ける雨音だけで、会話は無い。というか、いつの間にか彼女は眠ってしまっていた。
「俺も寝るかな……」
 昨日の疲れも残っているし、今日はこのまま眠ってしまおう。そう思い、ベッドに横になろうとしたところで、玄関をノックする音が響いてきた。
「……誰だ」
 もう俺に用のある奴など居ない筈だ。そう思いつつも、俺は白猫をそっとベッドへと寝かせ、静かに寝室を出る。そして再び響いてきたノックに「今開ける」と答えながら、玄関を開き、
「こんな時間に何の――って、リラ?」
 扉を開いた先。そこには、傘を差し、何やら大きな袋を持ったリラの姿があった。彼女は昨日以上に不安げな表情で俺を見上げ、しかしすぐに視線を下げると、
「あ、あの、昨日里に置いていかれた洋服と剣、持ってきました」
 それは捨てたんだが。そう言ってしまおうと思ったところで、近くから舌打ちが一つ。恐らくはファイなのだろうが、その姿が見えず、
「……一人で来たのか?」
「いえ、三人で来ました。でも、ちょっと貴方にお話したい事があって、二人には待っていて貰おうと思っているんですが……」
 そう答えながら、リラが視線を右へ。それを追うように一歩玄関から出ると、そこには二つの傘が並んでいた。……しかし、ファイから睨まれるのはまだ良いとして、ニアの表情が暗く沈んでいるのは何故なのだろうか。
「……まぁ良い。取り敢えず中へ入ってくれ」
「はい」
 一先ず二人の視線を遮るように扉を閉め、リラを小屋の中へと招き入れると、俺は彼女から受け取った袋を部屋の隅へと立て掛ける。そして白猫へ布団を掛ける為に(寒い、と文句を言われぬように)、一度寝室へと戻ろうとしたところで、不意に洋服を引っ張られた。
「……あの、まずは私の話の聞いて貰えますか」
 そう告げるリラは何故か俯いてしまっていて、その表情は窺えない。けれどその声には真剣な色があった。とはいえ、もうこれ以上面倒事に巻き込まれたくない俺としては、真剣な話など一切聞きたくなかった。しかし、ここで彼女を押し返すとファイに何を言われるか解らない。俺は仕方なく「解った」と答えると、彼女に椅子を勧め、その対面になるよう腰掛けた。
 リラはそれにほっとした様子をみせると、椅子に腰掛け、そして一度頭を下げると、
「昨日は本当に有り難う御座いました」
「別に良い。俺も死にたくはなかったからな」
「でも、貴方のお蔭で私達は死なずに済みました」
 そう言って、リラは真剣な表情で俺を見つめると、
「だから、そうやって謙遜しないで下さい。貴方が厳しい人なんだっていうのは解っています。でも、それでも私達を心配してくれて、助けてくれて……。そんなところが、その……わ、私には、凄く格好良いなって思えたんですから」
「……」
 何か、嫌な予感がする。
 確かに俺はリラ達を助けはしたが、あれは成り行きに過ぎない。というより、自分が生き残る為に少しの妥協を行っただけであって、もし彼女達に協力しても助かる見込みが無いのなら、俺は彼女達を犠牲にして逃げ出していただろう(まぁ、逃げ切れたかどうかは別として)。
 黒狼と交渉した時もそうだ。もし彼が見逃してくれていなかったら、俺は彼女達を生贄にでもしていた筈だ。
 そこまで必死に生きたい訳じゃない。ただ、彼女達がどうなろうと知った事ではない、というだけ。あくまでも俺は、白雪に救って貰ったこの命を無様に散らしたくないだけだ。結果的にオークや黒狼に殺されても――巻き込まれた形である以上、当然巫山戯るなとは思うだろうが――最後まで抗った結果がそれならば、俺は死を受け入れる。
 俺は、白雪以外の『人間』が本当に嫌いなのだ。
 それには気付いていないのだろうリラは、こちらへと熱い視線を向けながら、
「私が暴漢に襲われた時もそうでした。あの時も色々言われましたけど、でも、ちゃんと慰めてくれて……。あれ、凄く嬉しくて、安心出来たんです。あんなに安らいだの、生まれて初めてなくらいに」
 そう言って少しはにかむと、彼女は遠い過去を思い出すようにそっと目を閉じ、
「私、子供の頃はずっと独りぼっちだったんです。家族と呼べる人はいましたが、全く愛して貰えなくて……。辛くて苦しい日々でした。楽しいって思える事が何も無い、苦痛だけの毎日だったんです。……耐え切れなくなった私が、逃げ出してしまうくらいに」
 それはどこか白雪の過去に似ているようで、俺はリラの言葉を止めるタイミングを失ってしまった。そんな俺を前に彼女は苦笑すると、
「でも、外に飛び出してみても、世界は苦痛で満ちていました。……いえ、違いますね。私自身がそうやって暗い世界ばかりを見続けていたから、明るい世界に踏み出す事が出来ずにいたんです。そんな時に出来た友達が、ファイとニアでした。彼等と出逢って、私は楽しい世界を知って……だけど、心にはずっと不安がありました。いつか何もかも失ってしまうんじゃないかって、怖かったんです。それでも私は、そんな不安を押し殺して冒険者になって、色々な経験を積みました。
 ……そして、貴方と出逢ったんです」
 見つめてくるリラの瞳には真剣な色がある。その青い瞳を見返すと、彼女は顔を赤くしながら、
「南の森での事、本当にごめんなさい。ファイが飛び出すのはいつもの事なんですけど、今回は普段よりも酷くて……。でも、貴方のお蔭で、自分達がどれだけ愚かだったのかを知る事が出来ました。今まで私達は、主だった目的を持たずに戦ってきたんです。『自分達に出来る事を精一杯やって来た』って言えば聞こえは良いかもしれませんが、実際にはかなり無計画でした」
 けれど、リラはすぐに慌てた様子で、
「で、でもですね、これでも私達は王都では有名なパーティなんです! 今となっては言い訳になってしまいますけど、それは本当です。モンスター討伐の経験も沢山ありますし、洞窟の探索だって何度も成功させてきました。有名なところでは、大陸の北に棲んでいた夜色の大蛇や、砂漠の骸骨王、それに古城に住む魔女も倒したんです。だから――」
「待て」
 その瞬間、思わず声を放っていた。それは酷く冷たい声になり、リラが小さく肩を震わせる。俺はそれに構わず、淡々と言葉を続けた。
「古城に住む魔女を倒した、だって?」
「は、はい。ここから北の山々を越えて、大きな川を隔てた向こう側に、人々を苦しめている魔女が住んでいる城があったんです。私達はその魔女を倒したあと、南下してこの地域に入りました」
「……そう、か」
 その言葉を聞いた瞬間、全身から力が抜けた。そのまま背もたれに体重を預け、俯く。そんな俺の様子を好意的にでも捉えたのか、リラはそのまま話を続けた。
「あの魔女は強敵でした。でも、そんな相手をどうにか倒す事が出来た私達には、もう敵は居ないって、そういった驕りがあったんだと思います。それに気付く事が出来たのも、全て貴方のお蔭なんです。……それで、ですね、ここからが本題なんですが……」
 視線を上げると、そこには先程以上に赤い顔をしているリラの姿があった。……それが羞恥によるものだと気付いたのは、少し震えているその声を聞き始めてからだったが。
「貴方の、その厳しいながらも真摯な振る舞いに、とても感動したんです。……私は、昔から優しさを欲していました。だから、その、恋人には私を甘やかしてくれる人が良いなって、思ってたんですけど……でも、それじゃ駄目なんだって気付きました。貴方みたいにちゃんと叱ってくれる人が、私には必要だったんです。助けて貰った時の安堵もそうです。私が求めてきたのは楽しい生活じゃなくて、貴方みたいな人だったんだって、そう思って……だから、その……」
「……」
 そうして、意を決したようにリラが言う。
「私、貴方が好きです」



 感情を無理矢理押し殺し、寝室へと戻る。まだ一時間も経っていないというのに、数日振りに戻ってきたかのような感覚があった。
「おかえり」
 不意に響いた声に顔を上げれば、眠っていた筈の白猫が俺を見上げていた。
「……起きていたのか」
「ちゃんと目が覚めたのは今よ。でも、うつらうつらしながら二人の話は聞いていたわ。だから、邪魔者の私は――って、あれ、リラは?」
 そう疑問符と共に問い掛けて来る彼女を抱き上げると、俺はベッドへ腰掛けながら、
「……帰った」
「え? はっきりとは聞こえなかったけど、あの子、アンタへ告白しに来たんでしょ?」
「……断った」
「ど、どうして?! そりゃあニアと比べたらちょっとは見劣りするけど、十分過ぎるぐらい可愛い子じゃない!」
 何故か強く言葉を放つ白猫を抱いたまま、俺は仰向けに横になる。そして、遠く静かに響き続ける雨音を聴きながら、そっと目を閉じると、
「……俺には大切な人が――好きな人が居るんだ」
 それは、俺の人生を大きく変えた一人の少女。
 今も想い焦がれる、愛しい恋人。
 白猫がやって来て、リラ達と出逢って、不思議と心の痛みは消えてきていた。けれどそれは一時的なものに過ぎず、彼女達と一緒に居ながらも、俺は白雪の事を意識し続けている。
 そうでなくても、俺は変化の無い日常に変化が訪れる事を恐れていた。それは、白雪との思い出が消えてしまうと思っていたからだ。
 だが、違った。例え白猫と過ごす毎日が日常になったとしても、俺は白雪を忘れられない。
 それほどまでに深く恋に堕ち、狂おしいほどに愛している。
「……まさに呪いだな」
「呪い?」
 俺はその言葉に頷き、そして静かに過去を回想していく。
「里で『奇人』と呼ばれていたように、俺は昔から誰かと触れ合うのが酷く苦手でな。仲間からも嫌われ、疎まれるのが当たり前の生活だった。だが、そんな俺にも一応友人と呼べる奴が居て、だからどうにか日々を生きていく事が出来ていたんだ」
 そんなある日、その友人が何者かに襲われて大怪我を負った。幸い命に別状は無く、助かったものの……俺は友人を襲った奴等を許す事が出来ず、その報復に向かった。
「だが、甘かった。奴等の本当の目的は俺を殺す事だったんだよ。俺を誘き出す為に、力の無い友人が先に狙われてしまったんだ」
 そうとも知らず、後先考えずに向かって行った俺を待っていたのは、武装した剣士と魔法使いの集団だった。不味いと思った時には既に逃げられない状況で、殺されるのは確実に思えた。
 それでも俺は諦めず、必死に抗い、戦って、どうにかその集団を――友人を襲った奴等を全滅させ……けれどその代償に、瀕死の重傷を負ってしまった。そうやって命を狙われる事は何度かあったものの、そこまでの傷を負ったのは初めてだった。
「住処に戻る事も出来ず、かといって体を休める場所も無い。ああ、俺はここで死ぬんだなって、そう思った。……そんな時、一人の少女が現れたんだ」
 それが、白雪。俺の人生を変えた魔女との出逢いだった。
 今でも良く覚えている。あの日も、今日のような冷たい雨が降っていた。
 血だらけで伏せる俺の側へとやって来た白雪は、何も言わずに俺の傷を魔法で癒し始めた。もしかしたら、その時の彼女には何か魂胆があったのかもしれないし、俺もそれを警戒していた。というより、友人以外の相手から優しさを向けられた事なんて一度も無かったから、それ以外にどうして良いのか解らなかったのだ。
 だが、そうやって警戒し、体を強張らせ続けながらも、俺はその場から逃げなかった。傷のお蔭で動きたくても動けなかった、というのもあるが、それ以上に、真剣な表情で呪文を唱え続ける白雪の姿がとても美しくて、彼女から目を離す事が出来なかったのだ。
 そうしてどうにか峠を越えた頃には、雨も止んで、雲の切れ間から朝日が顔を覗かせていた。
 とはいえ、相手の動機が解らない以上、助かった事を素直に喜べない。そう思う俺の前で、魔力を使い果たし、立っているのも困難になったのだろう白雪は、濡れた地面へ崩れるように腰を下ろすと、
『もう大丈夫だから』
「……そう優しく微笑んだ彼女の姿に、俺は何も答える事が出来なかった」
 あとになって知った事だが、白雪があの場に居たのは、王都からの帰り道に偶然俺を見掛けたからだったらしい。彼女は以前から俺の事を知っていたようで、今日こそは話をしてみようと決めて俺を追い掛け……けれど、俺が武装した集団に襲われている現場に遭遇してしまった。当時の白雪は魔女としての力が弱く、俺を助け出せるような魔法が扱えなかった。だから、どうにか生き延びた俺を必死に介抱してくれたのだ。
 だが、当時の俺はその優しさが信じられなかった。何か裏があるに違いないと、その好意を頭から否定し、少しでも妙な動きをするようならば彼女を殺してやろうとも考えた。その時にはどうにか体を動かせるようになっていたから、疲れ果てた白雪を殺すのは簡単だったのだ。
「でも、俺にはそれが出来なかった。彼女に対する疑念以上に、俺なんかを助けてくれた理由が気になってしまったんだ」
 朝日を受けながら逡巡する俺に対して、白雪の方は一仕事を終えたような清々しい笑顔を浮かべていた。どう見てもそこに魂胆があるようには思えなかったが、捻くれていた俺はその純真さを信じようとしなかった。
 そんな時、白雪が良い事を思い付いた、という顔をして、
『そうだ、貴方を私の城に招待するわ。応急処置はしたけど、まだ傷の手当てが必要だから』
 そう微笑みと共に言われた時には、流石に呆れた。お前には警戒心が無さ過ぎると、思わず説教を始めそうになるほどに。だというのに、
『私一人しか住んでいないから、警戒しなくても大丈夫よ』
 そう言って立ち上がり、ゆっくりと歩き出した白雪の背中は無防備以外の何者でもなかった。だから俺は、そのまま彼女に付いて行く事にしたのだ。いつでも殺せる相手なら、今殺さなくても良い。そんな事を思いながら。
「甘いよな。警戒だなんて結局口だけで、俺は不意の優しさを前に何も出来なくなっていたんだ」
 だが、俺の判断は間違っていなかった。彼女の城に招かれ、そこで決して少なくない時間を共有した事で、俺の価値観は大きく変わっていったのだから。
 ともあれ、こうして俺は白雪の城で療養する事になった。それは長閑で、緩やかな、今まで想像した事も無かったとてものんびりとした生活。最初はそれに裏があるのではないかと疑っていたものの、次第にそれが心地良いと感じられるようになり、
「城での生活が一ヶ月を越えた頃には、彼女と打ち解けあい、色々な話をするようになっていた」
 自分の事や相手の事だけではなく、趣味の事、魔法の事、世界の事……他にも沢山の話題があった。俺は殆ど聞き役だったが、それでも本当に様々な話をした。
 そうした触れ合いの中で、俺はどんどんと白雪に惹かれていき、気付けば彼女の側を離れ難くなっていた。だが、それが叶わぬ恋だという事は解っていたから、彼女と触れ合えるだけで幸せだと、そんな風に思いながら日々を過ごしていったのだ。
 そして、時間は流れ……それから二ヶ月ほど経った頃。
「俺の傷も癒え、いつでも住処へと戻れるようになったその頃に、白雪の方から「好きだ」と告白を受けたんだ」
 まさか彼女から告白されるとは思ってもおらず、その上それが俺を引き止めるようなタイミングだった為に、当時はかなり驚いたのを覚えている。それでも俺はその想いを受け入れ、そしてこちらからも彼女に想いを伝え、俺達は晴れて恋人同士となったのだった。
「あの時、俺は始めて幸せを知り、その暖かさを彼女と共有出来る事を心から喜んだ。そうさ。俺は――俺達は、本当に幸せだった」
 そうして時は過ぎ、城で暮らし始めて数年が経って……ある時、俺の友人が偶然城へと現れた。どうやら俺は死んだと判断されていたらしく、幽霊が出た、と騒ぐ友人の姿は滑稽だった。
 ともあれ、久しぶりに共にした友人との時間は楽しいものだった。だが俺は、自分が生きているという事を他の仲間には知らせないよう友人に頼んだ。ただでさえ俺は嫌われ者だったし、今更戻ったところで居場所なんてありはしない。今や俺の居場所は白雪の隣以外には有り得ず、この命が尽きるまで彼女と共にあろうとしていたのだ。友人はそれを残念がっていたが、最後には理解してくれた。
「……だが、その日の晩の事だ。友人と別れた俺のところへ現れた白雪は、酷く深刻な顔をしていたんだ」
 それは奇妙なほどに大きな満月の浮かぶ、魔力に満ちた青い静謐な夜だった。
 今まで見せた事の無い、酷く思い詰めた表情を浮かべる白雪に、俺はどう声を掛けたら良いのか解らなかった。そんな俺の前で、彼女は杖を構えると、
『私達の、為だから』
 そう言って、ある魔法を発動させた。
 止める間も無く生み出されたそれは――その数年で一人前以上に成長した魔女の魔法は、困惑する俺の体へと作用し……その結果、俺は自身のアイデンティティを失った。
 今にして思えば、白雪には何かの考えがあったのだろう。だが、当時の俺には彼女の行為が全く理解出来なかった。それどころか、『白雪に嫌われてしまったのだ』と、そう思い込んでしまった。だから俺は「どうしてこんな事を」と叫び上げ――そのまま、彼女の前から逃げ出したのだ。
 今でも夢に見る。俺の拒絶に、苦しげに悲しげに涙を流す白雪の姿を。けれど、俺には耐えられなかった。その魔法は、彼女と共に過ごした時間を、思い出を、全て無に返してしまうほどにショックなものだったのだから。
「そうして俺は……って、どうした」見れば、視線の先で白猫がぼんやりとしていた。眠たげにも見えるそれに、俺はその背中をそっと撫で、「……いや、すまんな、退屈な話を聞かせた」
「えっ、あ……そうじゃない、そうじゃないの。退屈なんてしてないわ。でも、その話……」
 少々慌ててそう言って、白猫は何かを言いたげに口を開き、しかし何も言わずに視線を逸らすと、俺の腹の上で丸くなり、
「……ごめん、なんでもない。続きを話して」
「だが……」
「大丈夫。だから、お願い」
 真摯なその声に、俺は「解った」と返事を返す。こんなにも真剣な白猫は珍しいから、少しだけ調子が狂うのを感じた。……いや、彼女に対してこんな話をし始めている時点で、俺は相当に参っているのだろう。
 一度体を起こし、白猫を布団の上に寝かせると、俺は灰皿を手に取った。そして、ベッド脇の小棚から昼間作ったばかりの煙草を取り出し、火を点ける。
「こうやって煙草を吸い出したのもその頃からだ」
 深く吸った紫煙が肺を穢すイメージが頭に浮かぶ。そうやって体は内側から腐敗し、止まらない自己嫌悪に外側から喰い潰される。そうして腐り落ちた時、最後に残るのは一体何なのだろう。
 そんな馬鹿げた事を考えながら、話を続けた。
「幸せだった思い出を過去にしようと足掻き、その全てに失敗した。無様な奴だよ、俺は」
 何も聞かずに逃げ出した以上、今までの関係を取り戻す事は出来ないだろう。それは解っているのに、俺は白雪の事を忘れるどころか、以前よりも強く想い焦がれるようになっていた。
 だが、だからといって白雪のところには戻れなかった。彼女の前から逃げ出したという負い目もあったが、それ以上に、彼女が何を考えて俺から全てを奪ったのか、その理由を知りたくなかったのだ。
「そうして俺はこの土地に辿り着き、この小屋に住み始めたんだ」
 当時の小屋は今よりもぼろぼろで、打ち捨てられたような状態だった。それがどこか自分の姿と重なって見えて、俺はここで暮らす事を決めたのだった。その後俺は北の森でミツキと出逢い、里でエリカと知り合う事になる。
「エリカから聞いた話では、ここは元々森の実りを貯蔵する為に用意された小屋だったらしい。だが、北の森には数多くのモンスターが棲んでいる。一応小屋は建てられたものの、使われる事が無いまま放置されていたんだそうだ」
 だが、今では本来の用途で使われている。これからも同じ生活が続くとは限らないが、俺とミツキの関係が続く限り、ここは果物の貯蔵庫として使われるのだろう。
「そして、数日前にお前がやって来た訳だ。……だが、こうやって自分の事を話すのは、これが最初で最後だろうな」
「どうして最後なの……?」
 背中に響くその問いに、俺は煙草を灰皿へと押し付けながら、
「リラの話に、古城の魔女、という単語があっただろ」
「あ……」
「そうさ。……白雪はリラ達に殺されたんだ」
 灰皿を小棚の上へ戻し、ベッドに座り直す。その脚の上へとやって来た白猫の顔は、困惑しているように見えた。
「昨日の戦いを見る限り、リラ達に白雪を殺せるほどの実力があるとは思えない。だが、リラは確かに『倒した』と言った。もし白雪が生きているとしても、怪我を負わせたのは確実だろう」
 嗚呼、自分の愚かさをこれほど呪った事はない。もし俺が白雪の前から逃げ出していなければ、彼女を護る事が出来ただろうに。
 押し殺していた感情が再び暴れ出し、叫び上げそうになる。俺はそれを必死に抑えながら、白猫にだけは告げておく。
「――だから、決めた。俺はあの三人を殺そうと思う」
 途端、白猫が言葉を失った。それでも、彼女は恐る恐るといった様子で口を開き、
「……本気、なの?」
「当たり前だ!」
 抑え込んでいた感情が一瞬だけ溢れ、思わず強く叫び上げていた。対する白猫は酷く怯えた表情を浮かべ――無意識に伸びた手がその首を掴もうとしていた事に気付いた瞬間、俺は尚更に自分の愚かさを呪った。
「……すまない。お前に当たっても意味が無いと解っていた筈なんだが……」
 言いながら戻した掌には、くっきりと爪の跡が浮かんでいた。どうやら、いつの間にか強く握り締めていたらしい。そんな俺に対し、白猫は俯いて視線を逸らし、
「……別に気にしないわ。でも、その魔女さんはまだ生きているかもしれないんでしょう?」
「俺はそう信じたい。だが、白雪を傷付けた相手を見逃す気もないんだ」
「なら、どうして彼女の前から逃げ出したの?」
 顔を上げ、真摯な瞳で聞いてくる白猫に、俺は胸の痛みを感じながら、
「……恐ろしかったんだ。白雪の魔法は俺から全てを奪った。戦う力も、魔力も、プライドも、何もかもをだ。そうして無力になった俺は、恐らくあの瞬間初めて白雪と対等になれたんだろう。だがそれは、今だからこそ想像出来る事であって……あの時は、ただただ恐ろしかったんだ。俺の全てを受け入れてくれた彼女にその全てを否定されたと思ったら、どうにも出来なくなってしまったんだ……。だから、俺は……」
 言いながら、俺は白猫の視線から逃げるように仰向けになり、
「女々しい事を言っているのは理解している。だが、あの雨の夜から、俺にとっては白雪が世界の全てになっていたんだ。……今でも、そうなんだよ。だから俺は……リラ達を、殺す」
 そうして、部屋に静寂が満ちる。遠く響く雨音は、まだ聞こえ続けていた。
 対する白猫は何も言わない。だが、不意に何かを決意したかのように小さく息を吐くと、
「……バカな男」
 そう言い放ち、そのまま胸の上へと登ってきた。そして、その色違いの瞳で俺を見据え、
「そんなバカな男を放っておくのも目覚めが悪いから、これからも私が側に居てあげるわ」
「……どういう事だ」
「告白」
 一瞬、何を言われたのか理解出来なかった。白猫はそんな俺の返事を待たず、言葉を重ねていく。
「私ね、アンタが好きよ。当然、男の人としてね」
「……お前も、か」
 何故だろう。意外だとは感じなかった。リラから告白を受けた時に、心のどこかで予想していたのかもしれない。だが、それが勝手な自惚れで終わらなかったのが幸福なのか不幸なのか、今の俺には判断出来なかった。
「どうして、なんて聞かないでね。恋に落ちる瞬間なんて、誰にも予想出来ないものなんだから」
「確かにそうだが……それでも、切っ掛けぐらいはあるだろ」
「無いわね。だって、いつの間にかアンタの事を好きになっていたんだもの。切っ掛けなんて関係ないわ」 
 似たような事を白雪にも言われた事を思い出す。懐かしさと共に胸が痛み、同時に白猫に対する申し訳なさで一杯になり……今更のように気付く。
 どうやら俺は、自分で思っている以上に白猫との生活を気に入っていたようだ。リラに対しては全く湧かなかったその『申し訳ない』という感情が、白猫に対しては確実にある。それは決して肯定的な返事に繋がるものではないものの、あるとないとでは大違いだった。
 それなのに、俺の口は勝手に問いを放っていた。
「……種族の違いは無視なのか」
「うん。普通に考えたら無理だって解ってるんだけど……でも、なんでだろ。そんなの気にならないって思えるのよ。それにね、アンタと一緒にいると不思議と心が安らぐの。あと、なんだか放っておけない感じがするのよね」
 少々恥ずかしげに白猫は言う。けれど俺は、彼女の気持ちを受け入れる事が出来ないのだ。
「すまない、俺は――」
「ストーップッ! 叶わないのはもう解っているんだから、こっちがこれ以上悲しくなるような事は言わないで。……私は猫なんだもん。一緒に居る権利ぐらい、頂戴」
「……解った」
 小さく答え、そして白猫の頭を撫でてやろうと手を伸ばす。だが、雪のように白いその体はするりと俺の手を潜り抜け、床へと軽やかに着地した。それを追うように体を起こすと、彼女は部屋の入り口へと歩き出しながら、
「振られちゃったし、流石に今日は一人で眠るわ。おやすみなさい」
 そう言って、白猫の小さな体が扉へ向かっていく。けれどその目の前で体を止めると、彼女は俺に視線を向け、
「ねぇ、本気でリラ達を殺すつもりなの?」
 その言葉に、俺は無言で頷き返す。白猫からの告白で少し勢いが殺がれてしまったが、それで怒りや殺意が治まった訳では無いのだ。
 そんな俺に対し、白猫は悲しげな表情を浮かべ、
「そんな事をして、その魔女さんは喜ぶの?」
「それは……」
「私がその魔女さんだったら、そんな事をされても絶対に喜ばないわ。いくら自分の為だとしても、大好きな人が手を汚すところなんて見たくないから。だから、許せないって気持ちは解るけど、もう少し冷静になって。……お願い」
 そう最後に言い残し、白猫は部屋を出て行った。それを無言で見送ってから、俺は部屋の照明を落とし、ベッドへと再び横になる。
「……」
 解っている。解っているのだ。リラ達を殺したところで白雪は決して喜ばないし、それどころか逆に悲しむに違いない。だが、それでも俺はリラ達を許す事が出来そうにないのだ。
「俺は、どうしたら良いんだ……」
 リラ達を殺す事に躊躇いは無い。だが、その結果白雪が悲しむような事になるのでは意味が無いのだ――と、そう考えだしたところで、俺は自分の考え方が変化している事に気が付いた。
 今までの俺だったならば、例え誰に何を言われても、リラ達を殺す事を迷ったりしなかっただろう。だが、白猫に言われた一言で、俺はそれを迷い始めてしまっている。
 それは俺にとってとても大きな変化で、今までならば拒絶するべき変化だった。だが、自分では変わっていないつもりでも、俺はもう変化してしまっていたのだ。
 それはつまり、俺の中で白猫の存在が大きくなっている、という事なのだろう。だからそう、彼女の想いを受け入れられないのは確かだが、それ以前に彼女へと伝えるべき事を――俺も種族の違いを気にしないとという事を――伝えるべきだった。そもそも俺からその違いに付いて聞いた癖に、その考えを告げないでどうするというのだろう。
 俺なんかを好きになってくれた白猫には、その事だけは伝えなければ……いや、違う。俺はただ、彼女を言い訳の材料にしたいだけだ。
 その言葉は、誰よりも白雪に伝えるべきものだったのだから。
「……俺は……」

 ――だからその瞬間、俺はどうしようもなく油断していた。
 響き続ける雨音の中に混じった異音に、その瞬間にまで気付く事が出来なかったのだから。

 酷く耳障りな破砕音に飛び起きた時には、もう全てが遅かった。
 状況を把握するよりも早く、頭に強い衝撃が走り、俺はそのままベッドへと押し倒された。そして顔や胸、腹といった場所に強い衝撃と痛みが何度も走っていく。
 殴られている。
 蹴られている。
 抵抗しなければ。
 それなのに、上手く体が動かない。頭へと受けた衝撃で意識が少し混濁しているのかもしれない。
 それでもどうにか目を開き、不条理な暴力を与えてくる相手を確認しようとして――俺の上に馬乗りになり、拳を振り下ろしてきている相手と目が合った。
「よぉ、俺の顔を覚えてるか?」
「お前、は……」
 それは、リラを襲っていた暴漢の一人だった。視線を上げれば、更に二人の男が俺を見下ろしている。どうやら彼等は捕らえられていなかったらしい。或いは、牢から逃げ出したのか。
 下卑た笑みを浮かべ、圧倒的優位に立った事に酔いしれているのだろう男は、上手く答えられない俺の様子にご満悦のようだった。そして男は懐に手を突っ込むと、そこから何かを取り出した。照明の落ちた中では良く解らないが、それはハンカチか何かだろうか。そう判断する俺の口元に、男はその布切れを押し付けると、
「俺達を侮辱するとこうなるんだよ」
 抵抗出来ない状況の中、奇妙な臭いのするそれに意識が朦朧としていく。恐らく、何か特殊な薬品でも染み込ませてあるのかもしれない――そんな事を、人事のように思いながら、
「――」
 俺の意識は、闇に落ちた。





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