五月蝿い世界の不器用な二人。

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□四章 

 結果的に、俺はリラの頼みを引き受けざるを得なくなった。
 あの時、リラへと「無理だ」と告げようとしたところに、タイミング悪くエリカが戻ってきてしまったのだ。しかも話の一部が聞こえていたらしく、彼女は俺の手を力強く掴むと、
「貴方は本当に『英雄』ね。あの森の案内を引き受けるなんて!」
 ……その言葉はリラの提案よりも予想外だった。どうして決定事項なんですか、と突っ込むのを忘れたほどだ。
 里の人々にとって、北と南に広がる森は危険の代名詞となっている。いくらモンスターの討伐を依頼したといっても、そこを案内しようとする人間は存在しないのだ。しかし、冒険者であるリラ達にしてみれば、誰かしらの道案内が欲しいところ。そこで白羽の矢が立ったのが俺だった(こんな事になるのなら、『モンスターに襲われ難い体質を持つ』なんて嘘を吐くんじゃなかった)。
 だが、俺は北の森ならばともかく、南の森についての知識は持っていない。だから無理だと断ろうとしたのだが、エリカが俺の手を握ったまま歩き出してしまった為にその機会を失ってしまった。彼女はそのまま俺を里長の息子――ローディ・エルランド、というらしい。今まで知らなかった――のところまで連れて行くと、何やら彼と話し込み始めた。そしてローディが部屋にある棚の鍵を開け、そこから一枚の紙切れを大事そうに取り出し、
「これは里の男達が代々書き足してきたものだ。これを貴方に貸し出そう」
 そう言って手渡されたのは、南の森の簡易的な地図だった。
こんなものがあるのなら、俺にではなくリラ達に渡してやれば良いだろうに、と思ったのだが、
「いくら森へと向かう冒険者さんが相手でも、これは見せる訳にはいかないの」
 と、エリカがこの里の『考え』を教えてくれた。自分達の生活を変えてくれるかもしれない相手に対しても、その閉鎖的な部分は変わらないらしい。
 個人的には酷くどうでも良い上に、ローディの言う『里の男達』の中に俺も含まれている、という事実に嫌気が差していたのだが、もうその時点で逃げ切れる筈も無かった。
 こうして、俺の意思は無視されたままリラの頼みを引き受ける事となり――一度小屋へと戻った俺は、森へと向かう装備を整えていた。
「全く、面倒臭い……」
 そう小さく呟きながら、帯剣用ベルトに剣の鞘と、地図を入れた筒を取り付け、洋服の内側に鎖帷子を着込む。
 そうして準備を整え、寝室を出ると、そこには三者三様の表情で俺を出迎えるリラ達の姿があった。正直彼女達を再びこの小屋に入れるつもりはなかったのだが、「逃げられたら困る」などとのたまうファイに押し切られる形で入り込まれてしまったのだ。
 俺は何をやっているんだろうな……。そう思いながら寝室の扉を閉めると、白猫へと猫じゃらしを振っていたニアが視線を上げ、俺の腰辺りをまじまじと見てから、
「それはまた古いデザインの剣ですね」
「元々この小屋にあったものだ。特に思い入れがある訳じゃない」
 言いながら、剣の柄に軽く降れる。というか、ニアに言われるまでこれが古いデザインなのだと知らなかったほどだ。俺にとってみれば、この剣はファイの腰に差さっているものとなんら変わらない。
 しかしニアはそうではないのか、俺へと少しだけ高揚した目を向け、
「これは多分、南の大陸の意匠を汲んだものですね。今では見られないタイプの装飾です。最近の剣は、使い勝手以上にその装飾が凝ったものになっていまして……ボクの剣もそうなのですが、技術が向上した事により、こうした部分にも手間を掛けられるようになっているんです。因みに、ボクのこの剣は杖の代わりもしてくれます。普通の剣だと魔力に耐え切れずに壊れてしまうんですが、これはその負荷にも耐えられるように加工がしてあるんです。まぁ、刀身が細いので、激しい打ち合いには向かないんですけどね」
 と、聞いてもいないのに語り出す。昨晩の事と良い、このニアという少女は説明をするのが好きらしい。或いは、これも独り言なのかもしれない。まあ、耳障りな声をしている訳ではないから、適当に聞き流しておけば良いだろう。彼女もそれを気にしていないようだし。
 が、ファイにとってはそれすらも許し難いらしく、話を続けるニアに文句ばかり言っている。彼女が説明していようとお構い無しだ。個人的に耳障りなので意識的に無視しているが、正直五月蝿かった。
「ご、ごめんなさい。ファイったら、まだ貴方の事を許せないみたいで……」
 と、流石に見かねたのか控えめにリラが言う。その様子を見るに、どうやらこれは日常茶飯事らしい。とはいえ、出逢ってまだ一日しか経っていない俺がここまで五月蝿く感じるのだから、リラ達の感じている気苦労は相当なものに違いない。そんな風に思いながら、俺は外へと歩き出し、
「いや、別に謝る必要は無いさ。気にもならん」
「なッ、テメェ! やっぱり何か企んでるんだろ?! そうなんだろ!」
 そう食って掛かってくるファイの語彙は少なく、同じ事を繰り返し叫び続けるばかり。
 本当に、五月蝿い。



 そうしてやって来た南の森は、予想以上に陰鬱で、薄暗い場所だった。北の森と同じように木々が生え、同じように雑草が生い茂っているだけだというのに、その空気がまるで違うのだ。
 一言で言えば、淀んでいる。この森に入り込もうとする人間を排除しようとするばかりに、結果的に森そのものを腐らせ始めているような、そんな感覚。
 嫌な場所だ。そう呟こうと思ったところで、足元に居る存在に先を越された。
「嫌な場所ねー」
「……確かにそうだが、いや、どうしてお前がここに居る」
 視線を向ければ、そこには小さく首を傾げる白猫の姿があった。その雪のように白い姿はこの森には場違い過ぎて、どこか現実感が狂いそうになる。そんな俺に対し、白猫は当たり前のように、
「心配だから」
「何が」
「アンタが」
 言って、彼女はその色違いの目を先頭に立つファイへと向け、その声を潜めると、「あの子、多分リラが好きなのね。でも、昨日からやる事なす事全部空回りしてるから、その分の憤りをアンタにぶつけているのよ。……気付いてた?」
「いや、全く」
 ああ、だからあんなにも必死だったのか。そう納得する俺に、白猫は「ほらみなさい」と叱り付けるように言い、
「だから、私が目を光らせておいてあげる。流石に、背中には目は無いでしょ?」
「すまんな」
 恋だの愛だの、そういった呪いに囚われた存在がどれだけ厄介なのかは、実体験から理解している。だから正直にそう告げると、白猫は少々驚き、しかしすぐにいつもの調子で、
「ご飯と寝床の恩義よ。……アンタの作ったご飯、結構美味しかったから」
 そんな意外な言葉が来て、今度はこちらが面食らう。そうか、残さず食べてくれていたのは、腹が減っていただけではなかったのか。
 と、最早日常となりつつある日々の事を思い――同時に、どうして俺はこんな場所にいるのだろう、という事を強く思う。寝不足でもあるし、さっさと小屋に帰って眠ってしまいたい気分だった。
 ……そうだな。まだ森に入ってから然程進んでいないし、面倒事が起きる前に、俺の意向を述べておいた方が良いだろう。
「リラ、ニア」
「はい」「なんでしょう」
 どんどんと先へ突き進もうとしているファイを止めていた二人が振り返る。そんな彼女達を前に、俺はローディから借り受けた地図を取り出し、
「改めて言うが、俺はこの森に詳しい訳じゃない。むしろお前達と同じように全くの無知だ。だから、これ以上俺が道案内をする事は出来ない」
「で、でも、里の人が貴方なら大丈夫だって……」
 そう不安げに言うリラに、俺は手元の地図を開きながら、
「リラから話を聞いたあと、この地図を借り受けていたんだ。恐らく、これがあるから俺にも案内が出来ると踏んだんだろう。これは、代々里の人間が書き足してきた地図らしいからな」
 面倒な事になりかねないので、『モンスターに襲われ難い体質を持つ』という嘘の事は伏せておく。対するリラは俺の言葉に困惑し、ニアは地図を覗き込みながら、
「そんな貴重なものがあるのなら、ボク達の案内も可能では?」
「逆だ。これを貸すからお前達は勝手に進んでくれ。地図は……そうだな、あとでこっそり返してくれればそれで良い」
 生きていればな、という言葉は告げずに飲み込んでおく。
 彼等が討伐しようとしているモンスターというのは、北の森に棲むミツキのような、森を治める長と呼ばれる存在に違いない。そういった相手は人間を軽く凌駕する力を持ち、そして頭も切れる。数人の人間でどうにか出来るほど簡単な相手ではないのだ。
 つまりそう、この森を進むという事は、常に死の危険性が付き纏うという事。俺はこんな場所で死にたくないし、何より面倒臭い。まぁ、地図をリラ達に渡してしまうと、あとでエリカやローディに何か言われる可能性があるが……命を失う危険性を考えれば、それらを天秤に賭けるまでもなかった。というか、エリカ達が森の近くまで見送りに来なければ、俺は森に入る前に地図を手渡していただろう。
 ともあれ、俺はニアに地図を手渡そうとし、しかしその瞬間に五月蝿い怒声が来た。
「そんな地図なんて信じられるか! 第一、それが本物だっていう証拠はどこにあるんだよ!」
 どこにも無いに決まっているだろうが。そう返したくなりつつも我慢する。俺だってこんな地図が信じられるとは思っていないのだ。
 そもそも、森は生き物だ。人の手が入っていない以上、踏み固められていない道はすぐに消えて無くなってしまうし、目印になるようなものも変化していく。そんな場所相手に地図を用意したところで、それは転ばぬ先の杖にはならない。無用の長物とまでは言わないが、頼りにならないのは確かだった。
 しかし、ファイはどうしても俺を悪者にしたいらしい。
「リラを助けたのだって、何か魂胆があっての事なんだろ!」
 言い掛かりにもほどがある。というか、あの時の謝罪は嘘か。
 そう思いながら溜め息を一つ。人間不信に拍車が掛かっていくようなこの状況が苦痛でならない。もし俺がこの森を完璧に案内する事が出来たとしても、これでは話にならないだろう。
 もう良い。それを帰る口実にして、この場から立ち去ろう。そう決めて、白猫へと視線を落とし――刹那、彼女が前方へと毛を逆立てて威嚇し始めた。同時に、ファイの背後に複数の気配を感じ……俺はこんなにも早く森の住民に狙われた不幸を呪いながら地図を仕舞った。
 対するファイは「黙ってないで答えろよ! テメェはやっぱり――」と怒鳴りながらも、すぐに背後の気配に気付いたらしい。そのまま「何か企んでるんだろ!」と声を上げつつ、その手を剣の柄へと伸ばした。正直、頭に血の上り易いただの馬鹿だと思っていたのだが、咄嗟に状況を判断する能力は持ち合わせていたようだ。ファイを止めようとしていたリラもそれに気付き、騒ぎから離れていたニアは既に詠唱に入っている様子だった。
 さて、俺はどうしたものだろうか。戦闘の混乱に乗じて逃げるのも手なのだが、周囲を囲まれているかもしれない以上、迂闊な行動はそのまま死に繋がる可能性が高い。それならば、この戦闘が終わるまで彼等に協力した方が良いだろう。
 生き延びる為には、妥協する事も必要なのだから。
 そうして全員の視線が前方へと向けられた瞬間、酷く耳障りな雄叫びと共に、オークと呼ばれる者達が飛び出してきた。
 豚とも猪ともつかない顔に、薄汚れた太い体。手には巨大な斧が握られており、その動きは鈍重ながらも迷いが無かった。
 その明確な殺意に背筋が震えるのを感じながら、それでも俺は彼等と交渉の余地があるのかどうかを見極める。北の森とは大分勝手が違うだろうが、無駄な殺し合いをする必要はないだろう。そう判断しながら、まずはオーク達の動きを止める為に声を上げようとし――だが、遅かった。
「死ね、化け物!」
 駆け出したファイがオークへと斬り掛かり、同時にニアの魔法が放たれる。それに断末魔の叫びを上げるオークの姿を眺めながら、俺は彼等との交渉が不可能になった事を知った。
 そして、もう一つ重要な事が決まった。それは、俺達がオークに敵だと見なされたという事。こうなった以上、もうただでは森の外に出られないだろう。
「……最悪だ」
 忌々しさと共に吐き捨て、剣を抜く。自分の考えを主張していなかった俺が悪いのは解っているものの、こうも考えなしに突っ込むとは思わなかった。その張本人であるファイは「どうだ、俺の実力をみたか!」などと騒いでいるが、俺にはそれに視線を向ける気すら起こらない。
 状況を見れば彼の一撃とニアの魔法でオーク達の動きが止まり、一応はイニシアチブを取ったといえる。しかし、その結果死の危険性も増えてしまったのだ。彼はそれに気付いていないのだろう。
 出来れば平和的に終わらせたかったのだが……仕方が無い。オーク達には悪いが、生き残る為に抗おう。
 この命は、白雪に救って貰った大切なものなのだから。



 恐らくは気合なのだろう声を上げながらファイが斬り込み、ニアがそのフォローを行い、更にリラがその二人を守るように魔法を展開する。
 前衛、中衛、後衛のバランスの取れたその動きを視界の端に捉えながら、俺は剣を構え直す。
 刹那、雄叫びと共に振るわれたオークの斧を左に回避し、その右腕を斬り付ける。少し前にリラが剣に魔法を掛けてくれたお蔭か、手入れをしていなかった剣でもどうにか傷を与える事が出来ていた。
 だが、普段から剣を扱っている訳では無い為、然程動き回っていないにも関わらず疲労が大きい。とはいえオークの数は減ってきているから、このまま押し切れれば……と、そう考えていると、リラから声が来た。
「あ、あの、大丈夫ですか?」
「……俺か?」視線も向けずに淡々と答える。「生きては、いるさ」
 言葉と共に一歩を踏み出し、ファイの背後へ加速するオークに剣を向ける。ニアのフォローからも外れたそれの腹に剣を突き刺し、しかし同時に斧が薙がれた。無理矢理な一撃は上への角度を持って迫り、俺の首を両断しようと加速し――咄嗟に剣を放して倒れ込む。
 直後に響く風切り音に竦み上がりそうになりながらも、俺はどうにかそのオークから距離を取った。……糞、今ので寿命が十年縮んだ。
 対し、斧の重さに引っ張られるように回転したそのオークは、俺の剣を下に地面へと倒れ、耳障りな悲鳴を上げて動かなくなった。そしてそれが最後の一体となったらしく、ファイが勝利の雄叫びを上げた。
 ……あれが他の獣やモンスターを威嚇するかもしれない可能性を考えないのだろうか。そう思いながら、俺はオークの体に突き刺さった剣を抜こうとし――不意に、頭上からか細い鳴き声がして、
「おろしてー……」
 見れば、木の上に避難していたのだろう白猫の姿があった。その不安げな様子を見るに、自分では下りられなくなってしまったのだろう。
「……お前は何しに来たんだ」
 思わずそう突っ込みながら、その木へと手を掛けて登っていく。木登りは得意ではないものの、どうにか白猫を救出する事が出来た。……余計に疲れたが。
 そうしてリラ達の元へ戻ると、今度は「待てよ」というファイの声に止められた。それに視線を向けると、彼は俺を睨みながら、
「話の続きだ。お前が何を考えてるのか全部答えやがれ!」
「……五月蝿い。どうせ何を言っても信じないだろうが」
「そ、それはお前次第だ! さぁ、早く答えろ!」
 そうファイが叫ぶものの、面倒臭いのでこれ以上は無視。俺は心配げにこちらを見ているリラと困ったように苦笑しているニアへと視線を向け、
「解っているとは思うが、こうなった以上、俺達はオークに敵と見なされただろう。つまり、確実に命を狙われる状況になったという事になる。ついでに、里が潰される可能性も増えた」
 今のところ、森へと入らなければモンスターは襲ってこない、という状況が続いている。だが、こうして冒険者が討伐に現れたのは今回が初めてでは無く、過去に何度も彼等は縄張りを荒らされてきたのだ。今回の戦闘が直接の原因になるかは解らないが、危険が増えたのは確実だろう。
「この状況から取れる方法は三つ。逃げるか、突き進むか、交渉するかだ」
「交渉……ですか?」
 驚きと共にリラが言う。どうやら彼女も、そしてその隣に立つニアも、モンスターや獣は無条件に討伐するものだと考えているようだ。……状況は違うものの、相手に対して無関心だった俺とは大違いだな、とそんな事を思いながら話を続けていく。
「そうだ。恐らくこの森には、長と呼ばれる、ここに棲む者達を治める者が居る筈だ。そいつと交渉し、この森に人間の手が入る事を理解して貰う。まぁ、その話をあのオーク達が聞くかどうかは解らないが――いや、或いはあのオーク達の中に長が居るのかもしれないが――もしそれが出来れば、無駄な戦闘を行わずに森を出られるし、里への危険も無くなる筈だ」
「そ、そんな事が出来るんですか?!」
「成功する可能性はかなり低いだろうがな」
 だが、俺が北の森に初めて入った時は、そうやって小屋に戻ったのだ。けれど、あの時は長であるミツキが直接出向いて来てくれたからどうにかなったのであって、単身森の奥へと進んでいたら確実にモンスターの餌になっていただろう。そして、それはこの状況も変わらない。もし交渉が可能だったとしても、長のところへ辿り着くまでに死んでしまう可能性の方が高いのだ。
 まぁ、リラ達が奇跡的に長を討伐出来た場合、森に棲む者達は恐れをなして手を出してこなくなるだろうが……それだけの強さが彼女達にあるとは思えなかった。
「で、リラ達はどうする。俺は逃げるぞ」
「私達は――って、逃げるんですか?」
 意外そうな顔で聞き返してくるリラに、俺は少々疲れが増すのを感じながら、
「当たり前だ。……何か勘違いしているのかもしれないが、俺は方法を提示しただけで、交渉役をやるつもりは無い」
「そ、それは……」
 どうやら勘違いしていたのだろうリラとニアが言葉を失う。とはいえ、もしこの森の長が俺の予想している相手ならば、交渉が成功する可能性はあるかもしれないが(ついでに言っておきたい事もあるのだが)……だとしても、このまま森を進むのは危険過ぎる。今の戦闘は偶然にもイニシアチブを取れたから良かったものの、四方を囲まれたり、或いは背後から奇襲を掛けられたりしたら一溜まりもないだろう。
 冒険者にとって、依頼の失敗は自分達の信用を下げる事に繋がるらしいが、それも命あっての物種だ。無茶をする理由は一つも無い。と、そう思ったところで、
「何言ってんだ! 里の人達が殺されるかもしれないんだぞ?! 俺達が行動しなくてどうするんだよ!」
 馬鹿が再び騒ぎ出した。それはまるで夢物語を語る子供のようで、正直見ていられない。流石に耐え切れず文句が出ていた。
「五月蝿い。少しは黙っていろ」
 交渉するにしろ殺すにしろ、この広大な森の中から長を見付け出すのがどれだけ難しい事か、ファイは理解していないのだろう。或いは、過去の経験から妄信的に『自分達なら出来る』と思い込んでいるのか。時にはそうした思い込みも力になるが、この状況では無謀なだけだ。
「理想と現実を履き違えるな。やるというのなら、お前一人で――」
「いえ、私も行動する事を選びます」「ボクも」
 そう揃って告げられたリラ達の言葉に絶句する。そんな俺に、リラが少々気恥ずかしげに、
「呆れられるのは解っています。でも、私達はその為に冒険者になったんです」
「その通りだ!」
 みたか、と言わんばかりにファイが声を上げる。……本当に向こう見ずな連中だ。
「なら、お前達は勝手に頑張ってくれ。俺は逃げさせてもらう」
 そう呟きながらオークの死体を引っ繰り返し、その腹に刺さった剣を引き抜くと、その刀身に付着した血を振り払う。そして鞘に戻そうとしたところで、
「……返り血が、落ちない?」
 見れば、剣にべっとりと付着したそれがまるで落ちていない。試しにその緑色の血に触れてみると、ぬちゃりと糸を引く、奇妙なほどに強い粘着質を持っていた。
 何なんだ、これは。そう思いながら、気持ち悪さと共にそれを拭い――ふと、ある事を思い出す。
 それは過去の記憶。ある時、白雪が言っていた事があった。モンスターの中には、自分達に敵意を向けた相手を確実に屠る為に、その血へと魔力を通わせ、それを目印にして仲間を呼ぶ存在が居るのだと。
 もしこの血がそうだとするのなら、一人で逃げるのは不可能になったと見て良いだろう。むしろこの状況でファイ達から距離を取れば、その瞬間に囲まれ、殺される可能性が高い。
「どうしたんですか?」
 突然言葉を失った俺を不審がったのかどうなのか、リラから声が来た。そんな彼女に見せるように、俺は剣を掲げ、
「……最悪だ。どうやら、逃げるにも逃げられそうにない」
「どういう事ですか?」
「この返り血は、他のオークを引き寄せる効力を持っている可能性が高い。そうでなくても、こうして血が付着し続けているのは異常だ」
「確かにそうですね……」
 そう答えながら、ニアが軽く片足を上げる。周囲の死体から流れる血を踏んだ靴底は、緑色の糸を引いていた。 
「剣にしろ衣服にしろ、俺達は彼等の血を大量に付着させている。もし俺の予想通りだとしたら、血の付いた道具を捨てない限り、森を出てからも襲われる可能性があるだろうな」
「そ、そんな……」
「まさか、そんな事が出来るモンスターがいるなんて……」
 リラとニアが表情を曇らせ、絶望を口にする。いくら冒険者だといっても、彼女達はまだ若い。経験以上に知識が少なく、故にその衝撃も大きいに違いない。
 だから、言っておく。
「お前達の意気込みは素晴らしいものなんだろう。だが、いざという時には逃げる決断をしろ。それは決して恥じる事じゃない」
 ――悔いを残す、事はあるが。
「とにかく、まずはこの場を離れるぞ。立ち止まっていれば、その分襲われる可能性が増えるからな」



 その後、二度オークと戦闘になった。
 相手の数は一度目と変わらず、十体以下。その登場方法も物陰から突然現れるという変化の見られないもので……だからこそ、右も左も解らない俺達にとっては何よりも恐怖を煽られる事となった。
 そう、右も左も――つまり里の方向が解らなくなってしまったのだ。
 唐突に現れるオークを相手にしている為、俺達の立ち位置は目まぐるしく変化する。その結果訪れるのは、歩いて来た道の喪失。周囲が草木に覆われ、目立った目印も無いこの薄暗い森の中、草木を掻き分けて出来た道が自分達の作ったものなのか、それともオーク達が刻んできたものなのか解らなくなってしまったのだ。
 結果、「オークの血に仲間を呼び寄せる効果があるかもしれない以上、里に戻れるか!」と声を荒げていたファイも、今では里へと続くのだろう方角へ向けて黙々と歩いている。しかし、その方向も正解なのか定かでは無い。森の長によって結界でも張られているのか、或いは何か別の要因があるのか、この森では方位磁針が役に立たないのだ。つまり俺達は、微かな記憶と勘を信じて歩を進めている状況にある(一応地図を確かめてはいるが、方角が解らない為にまるで役に立っていなかった)。
 会話は無い。肉体的な疲労以上に、『もしこの道がオークの刻んだものだったとしたら』という不安、そして再びオークに襲われ、彼等に殺されるかもしれないという恐怖から、自然と言葉は消えていた。
 かくいう俺も、正直に言えばかなり疲れている。しかし、不安や恐怖などといったものは少ない。昔取った杵柄、というのには語弊があるが……命を狙われる事のあった過去、というのも役に立つ事があるものだ。
 そんな事を思いながら、時折白猫の様子を確認しつつ歩いていく。猫は人間よりも嗅覚や聴覚が発達しているから、何か変化があれば報告するように頼んであるのだ。しかし、今の所なんの変化も無いようで、その足取りに疲労が見え始めた以外には――と、不意に目の前を歩いていたリラがよろけた。何かにつまずいたのか、それとも体力の限界が来たのかは解らないが、咄嗟にそれを抱き止める。その様子に先頭を歩いていたファイ、その後ろを歩いていたニアも足を止めた。
 覗きこんだリラの顔には強い疲労が見て取れる。歩き難い森の中を迷い、そして三度の戦闘を行ったのだ。目に見える以上の疲労と恐怖がリラの体を蝕んでいるのだろう。
「あ、有り難う御座います……」
「気にするな。それよりも、しっかりと歩いてくれ」
「はい……」
 そう小さく呟いて、しかしリラは俺の体から離れず、逆に抱き付くように身を寄せてくると、
「……ごめんなさい。ちょっとだけ、このままで……」
 現実ではなく理想を選んだとはいえ、それだけで強くはなれない。俺の手を掴むリラの手は震えていて、隠し切れない怯えが浮かんでいた。
 それは心配げにこちらを見るニアも同様だった。唯一恐れが浮かんでいないのは、俺を睨むファイだけで――しかし、その表情にも色濃い疲労が見て取れる。先頭を歩いている以上、常に周囲を警戒せねばならない上に、前衛として剣を振るってもいるのだ。必要以上に疲労してしまっているに違いない。
「……怖いか?」
 誰にともなく呟いた問い掛けに、腕の中に居るリラが無言の頷きを返した。俺はそれに答えるように、静かに言葉を続けていく。
「俺もだ。だが、俺はこんなところで死ぬつもりも、殺されるつもりもない。それはリラも同じだろう?」
 そう告げた言葉に、またしても無言の頷きが返って来た。だからそのまま言葉を続ける。
「生きてここを出る為ならば、俺はお前達に協力を惜しまない。ニアの指示に従って、ファイの言う事だって聞いてやる。だから、リラも頑張ってくれないか」
 言い放つのではなく、諭すように言葉を紡ぐ。正直こんな事までしてやる義理は無いのだが、この状況では仕方がない。……それよりも、こうした嘘があっさりと口に出るようになってしまった自分に強い苛立ちを感じた
 そのまま暫くの間無言が続き……顔を上げたリラから返って来たのは、
「……はい」
 という、決意の籠った言葉だった。その直後に、「さ、先を急ぐぞ!」というファイの声が響き渡り、慌ててリラが俺の体から離れていった。
 その様子を眺めながら、俺も歩き出し――リラに抱き付かれた辺りからずっと続いている視線に答えるように、白猫へと視線を向け、
「どうした?」
「……私もだっこ」
「……状況を考えてくれないだろうかな」
「……だっこ」
 拗ねた子供のように頑なに繰り返すその様子に、怒りや呆れは湧かなかった。それは恐らく、彼女がそういう猫なのだという事が解っているからなのだろう。
 らしくない、と思いながらも、俺は「仕方ないな」と溜め息を吐いて白猫を抱き上げた。
「オークが来たら放り投げるからな」
「……解ってるわ」
 言葉とは裏腹に不満げに白猫が答える。その様子にファイが『真面目にやれよ』と言わんばかりの目で睨んできたが、今回は流石に言い返せない。逃げるように視線を逸らして、歩き出す彼等のあとを追っていく。
 そうして再び里を目指し、道無き道を進み続け……その状況に変化が訪れたのは、それから十分ほど経った頃の事だった。偶然か、或いは作為なのかは解らないが、オークに襲われる事無く進み続けていたところで、不意に白猫が声を上げたのだ。
「ちょっとストップ」
「何だ?」
 好い加減白猫を抱き続けるのにも疲れてきていて、少々答えるのが面倒になりながらも言葉を返す。すると、彼女は小さく鼻をひくつかせながら、
「やっぱり高い位置の方が解りやすかったわね」
「だから、一体何なんだ」
「水よ。この近くから水の匂いがするの」
 まるで予想していなかったその言葉に、「ま、マジかよ!」とファイが叫び、リラとニアも同様に驚きを浮かべた。各自の持つ水筒の水は、戦闘後の水分補給や細かい傷の洗浄などで既に尽き掛けていて、全員が水分を欲し始めていた。その水が綺麗なものならば、良い休憩場所になるだろう。
 ファイ達にも元気が戻り、暗かった表情に少しだけ光が戻る。けれど俺はそう素直に喜ぶ事は出来なかった。
 飲み水があるという事は、そこが森に棲む者達にとっても憩いの場所である可能性が高い。この広い森の中で、水場が一ヶ所だけという事もないだろうから、過剰な心配なのかもしれないが……下手をすれば、その近くにオークの住処がある、という事も考えられる。
 元気を取り戻した彼等に、俺はそれを告げようとし――それよりも先に、ファイが白猫へと視線を向け、
「なぁ、それはどっちの方角なんだ?」
「多分、このまま真っ直ぐで大丈夫よ」
「よし! それじゃ一気に行くぜ!」
 そう、残っていた気力を全て使うかのようにファイが駆け出し、リラ達がそれに続いていく。その後ろ姿へ声を放ったところで、もう彼等を止められはしなかった。
「……あれ、私達は行かないの?」
「行く。行くが……お前、もう少し考えてくれ」
「どういうこと?」
 文句を言われる理由が解らない、と言わんばかりに白猫が言う。その様子を見て、彼女が善意でそれを告げたのだと気付き、だからこそ目の前が暗くなるのを感じた。
 何事も無ければ良い。そう願いながら、俺はファイ達を追う為に歩く速度を速めた。



 背高な雑草を掻き分け、進んだ先――そこは、別世界だった。
 鬱蒼と生い茂っていた草木が嘘のように消え去り、大きく開けたそこには太陽の暖かな光が差し込んでいた。そしてその中心には、嘘のように透明な水を湛える池がある。どうやらそれは湧き水が溜まって出来た物のようで、その豊富な水が森へと続く小さな川を作っていた。
 無言のまま、しかし何かに急かされるように池へと駆け寄っていくファイ達の後ろ姿を見ながら、俺は視線を上げる。
 そこにある空はとても青く、そしてどこまでも遠い。ずっと薄暗い森の中に居たからか、手を伸ばしても届かないその青が、今は純粋に懐かしく思えた。
 そうして視線を戻し、警戒も無く湧き水へと手を伸ばすファイ達を眺めながら、この場所について考える。
 今まで歩いてきた森の中は、どこまでも薄暗く閉鎖的だった。それなのに、どうして同じ森の中に、こんなにも明るく開放的な場所があるのだろうか。まるで世界がぐるりと反転してしまったかのようだ。
 と、そんな風に考えていると、「ねぇ」という白猫の不安げな声が聞こえてきた。
「何だ?」
「ごめん。やっぱりここは不味いかも。詳しく言えないんだけど……凄く不安になるの。何だか別世界に入り込んだみたい」
 水があると言い出した本人が何を言う。そう言い返そうかとも思ったものの、その『別世界』という言葉は理解出来た。確かにそうと言えるほどに、この場所の空気は今までと違い過ぎているのだ。それはまるで、何かで区切られていたかのようで――
「……ああ、そういう事か」
「何か解ったの?」
「ああ。ここにある違和感の理由が理解出来た」
 つまりここは、正真正銘別世界なのだ。恐らくは、結界の内側に存在する場所なのだろう。
 結界というのは、万物の内と外とを区切る力を持つものだ。それは、真冬の大地に真夏の世界を作り出す事すらも出来るもの。それを張り巡らせれば、暗く鬱蒼とした森の中に、静謐な空気を持つ楽園を作る事も可能なのだ。
 それを踏まえて考えると、ここを利用している存在は南の森の空気を嫌っているという事になる。或いは、オーク達の縄張りに近付きたくないというところだろうか――と、そこまで考えた所で、周囲に複数の気配が生まれた。それに耳を立てる白猫へと、俺は諦めと共に呟きを漏らす。
「お前の言う通り、ここは不味かったらしい」
 現れたのは、通常のものよりも一回りほど大きい狼の群れ。彼等はこちらが気を抜く瞬間を狙っていたのか、統率の取れた動きで俺達を囲んでいく。どうやら、この場所を縄張りとしていたのは彼等狼だったようだ。
 ミツキがそうであるように、この辺りの狼は土地の魔力の影響でより大きく、より賢く変化している。その結果、人間のように魔法を扱う事すらも出来るようになり……こうして、池の周囲に結界を張る事までやってのけたのだろう。
 さて、どうしたものか。そう思う俺の正面で、ファイ達が慌てて剣を抜こうとし――しかし、狼の唸り声にその動きを止めてしまった。一度気が緩んだ事で、恐怖が今まで以上に現れてしまったのだろう。
「馬鹿が」
 小さく呟き、白猫を放すと、「ちょ、ちょっと?!」という彼女の声を無視して歩を進め、小さな肩を震わせているリラへと近付き、
「リラ。ちょっと頼みたい事があるんだが」
「な、なんですか?」
 怯えと恐れと混乱を持ちながらも顔を上げたリラに、俺は「彼等と対話の出来る魔法を、この場で唱える事が出来るか?」と問い掛ける。すると、彼女は混乱しながらもどうにか杖を握り直し、
「で、出来ますけど……何をするつもりですか?」
「話をするんだ。このままじゃ、俺達は全員彼等の夕飯になってしまうからな」
「わ、解りました」
 了承と共に杖を構える彼女の姿に、狼達が一歩距離を詰めて来る。その動きに怯えるリラ達三人を前に、俺は狼達へと視線を向け、
「攻撃する気は無い。解るだろ?」
 と、恐らくは通じないだろう言葉を放ち――しかし、狼達の動きが止まった。もしかしたら、ミツキと同じように人間の言葉を理解出来ているのかもしれない。だが、流石に状況が状況だ。意思疎通は正確に取れるようになっていた方が良いだろう。
 そうして、リラが蚊の鳴くような、震える声で詠唱を始めた。
「じゅ、術式三十七、風の制約の解放……。我に従いし風の意思よ、彼の者に新たなる声を与え、響く世界の音色を届けよ……」
 呪文と共にリラの杖先に緑色の魔法陣が生まれ、そこから風が吹き抜けていく。それはまるで一陣の風を全身に受けたかのようで、暫く切っていない髪が風に煽られた。俺はそれを直すように軽く頭を振り、
「すまないな。それじゃ、リラ達は下がっていてくれ」
「え?」
「言っただろう、話をすると。今から彼等と交渉をしてくる」
 そうでもしなければ、もうこの状況を抜け出せないだろう。そう思いながら、一応ファイの出方を窺ってみると、彼は剣の柄を握ったまま動けずにいるようだった。それでも俺の視線に気付くと、顔を真っ赤に染め、どうにか剣を抜こうとして――しかし、それが出来ない。剣を抜いたら襲われるかもしれない、というこの状況で、目の前に迫る死の影に怖気付いてしまったのだろう。
 次にニアを見れば、彼女は不安げに俺を見返し、「……お願いします」と言葉をくれた。ここで俺を止めない以上、彼女の優先順位は明確に決まっているのだろう。それは酷いと言われる事かもしれないが、それでもこの状況では正解だと思えた。
 そして、最後にリラへと視線を戻すと、
「考え直してください! 交渉なんて、出来っこありません!」
 止められてしまった。だが、逃げるという選択肢が無くなり、戦ったところで負けは必須の状況だ。何もしないで喰われるよりは、抗った方がマシだろう。
 それに、
「大丈夫だ。狼が相手ならば、まだ交渉の余地があるんでな」
 言って、彼女に背を向けて歩き出し――最後に白猫を見ると、俺へと向けて「気を付けて」と小さく鳴いた。どうやら魔法は正常に発動してくれているらしい。
 そうでなくても白猫の表情は不安げで、だから大丈夫だと伝えるように頷いてみせる。そうして、俺はこちらを睨む狼達の正面に立つと、
「この中に、北の森に棲む白狼の弟はいないか? 居るのなら、俺と少し話をしよう」
 大きく放ったその言葉は、広場の静けさに飲み込まれて消えていく。しかし狼達は互いに顔を見合わせるように視線を合わせ始め――そして、群れの奥から更に大きな獣が現れた。 
 それは、一匹の黒い狼。
 その巨躯には一点の汚れも無く、動きには気品すらも漂う。しかし、薄く開いた口から覗く鋭い牙の存在が、それが肉を喰らう獣だと教えてくれる。
 圧倒的な存在感と、決定的な死の気配。
 ミツキと初めて出逢った時にも感じた、こちらの動きの一切を封じるような緊張が走る。それでも、俺はどうにか口を開いた。
「お前が白狼の――いや、ミツキの弟だな?」
「……どうしてそれを知っている」
 返って来たのは、警戒に満ちた低い声。それに気圧されそうになりながらも、俺は黒狼に一歩近付き、
「アイツの友達だからさ」
「ふん、そのような戯言が信じられるか。貴様のような人間が、我が姉上に――」と、彼はそこで何かに気付いたのか、その表情を険しいものに変えると、「――いや、貴様は違う」
 その様子に、俺は一瞬だけ背後に居るリラ達に意識を向けてから、
「体が臭いのは勘弁してくれ。さっきまでオークに襲われ続けていたんだからな。……で、俺と話をしてくれる気にはなってくれたか?」
 彼がミツキの弟ならば、今の一瞬で俺の本質を見抜いたに違いない。だからこその問い掛けに、黒狼は穢れたものを見るような目で俺を睨み、
「いいだろう、偽りの人間」
「その言い方、出逢った頃のミツキにそっくりだ。黒い犬」
 と、意図的に出した『犬』という単語に、しかし黒狼は何の反応もせず、
「……話と言ったな。一体何だ」
「その前に一つ聞かせてくれ。この森の長はお前なのか?」
「いかにも」
 警戒がありながらも、そう答える姿は正しく威風堂々。俺に以前の力があったとしても、仲間や友人を前にこうも堂々と胸は張れなかっただろう。……そもそも嫌われていたしな。
 それはともかく、これで交渉する相手が解った。それがミツキの弟である事に幸運を感じながら、俺は改めて黒狼へと視線を向け、
「長であるお前に頼みがある。勝手にお前達の縄張りに入り込んだ事は謝罪する。だから俺達を見逃して欲しい。……それが身勝手な言い分なのは解っているさ。だが、俺はお前とその交渉をしようと思っているんだ。それに――」そこで、少しだけ声を潜め、「――お前達に忠告がある」
「……忠告、だと?」
「ああ。単刀直入に言えば、この状況について、だ」
 そう言って、俺は周囲を囲む狼達を眺め、
「こうやって出迎えられたんだ。ここがお前達の縄張りで、そこに他者が入り込むのを嫌っているのは理解出来た。だが、こうして俺達がこの場所に入り込めた以上、お前達の縄張りも常に安全では無いという事になる」
 というより、
「以前にもこの場所へ人間が入って来た事があるんだろう? だからこうやってすぐに迎撃に現れた。違うか?」
 問い掛けに答えは無く、しかし忌々しげな唸りが返ってきて、それが正解なのだろうと勝手に判断。俺はそのまま話を続けていく。
「人間というのは弱いながらも強大な力を持つ生き物だ。いくらお前達が強い力を持っているとしても、数十、数百の人間が相手になったら確実に敵わない」
「……」
「いや、こうやって森に入って来てくれるだけマシだろう。もし森へ火でも放たれたら、殺されるより無残な結果が待っているだろうな」
 住処を追われた獣が新しい住居を見付けるのは相当に難しい。それが、通常の獣よりも力と知識を持ってしまったモンスターとなれば尚更だ。どこへ逃げても人間に襲われる事になる。
「……貴様、何が言いたいのだ」
「この森の開拓は避けられないと考えろ。そして、これ以上人間には歯向かうな。それが俺からの忠告……いや、警告だな」
 刹那、黒狼の姿が目の前に迫り――目を見開いたその瞬間には、俺はその太い前足で地面に抑え付けられていた。背中の痛みを感じる暇すらないそれに、凄まじい恐怖が駆け巡る。
 そして、黒狼の口が開き――死では無く、声が来た。
「警告だと? 笑わせるな! 我等はこの森に棲まう者! だというのに、貴様はこの森が失われるのを黙って見ていろとほざくのか!!」
 叫びと共に、その鋭い爪が俺の体へと食い込んでいく。それは洋服の下に着込んでいる鎖帷子すらも突き破り、鋭い痛みを与えてくる。俺はそれに耐えながら、震えそうになる声を必死に抑え、
「ああ、そうだ。言っただろ、人間は強大な力を持つと。それはどんな存在が相手でも発揮される。……お前は、ドラゴンという生き物を知っているか?」
「知っている。最も賢く、そして最も強き空の王だ」
「彼等には昔から敵は無く、故に人間達を嘗め切っていた。だからだろうな。いつの間にか力を付けていた人間に討伐されて、今ではその姿を消しつつある。……そうさ。自分達の力を過信していた結果、アイツらは家族を、仲間を、帰るべき故郷を失ったんだ。 
 ……お前達も、その道を歩みたいのか?」
「ならば!」
 俺の体を更に強く地面に押し付けながら、黒き狼が叫ぶ。
「ならば、我等にどうしろというのだ!」
「んな事は――自分で考えろッ!」
 肺を圧迫され、上手く呼吸が出来ない中で、それでも渾身の力を込めて黒狼を突き飛ばす。そうしてどうにか立ち上がると、俺は息を整え、
「……人間達はこの森の一部に手を入れ、道を作ろうとしているだけだ。結果的に人間の往来が増えて、お前達は棲み難くなるだろうが……それでも、大人しくしていれば討伐される事は無い」
「我等にプライドを捨てろというのか!」
 再び飛び掛らん勢いで叫ぶ黒狼に、俺は「違う!」と強く否定し、
「プライドを捨てろと言っている訳じゃない。だからって、人間に媚びろという訳でもない。ただ、少しの妥協が必要なだけだと言いたいんだ。……人間という生き物は、もうお前達の想像を超えた領域に居る。長い時代を生きてきたお前達には受け入れ難いかもしれないが、それが事実なんだよ」
 故に、
「奴等を、侮るな」
「貴様……」
「それにな、ミツキが言っていたんだ。『もし弟が望むなら、北の森に受け入れるのもやぶさかではない』ってな。だから、こんな馬鹿な警告が出来るんだ。……説明が逆になったが」
 だが、この森にはオークも棲み着いているから、それは簡単な話ではないのかもしれない。こうして縄張りを明確に区切っている以上、共存しているとも思えないからだ。
「とにかく、これが俺の警告したい事の全てだ」
 ミツキの弟に出逢ったら伝えよう、と思っていた事は全て話せた。まぁ、まさかこんな状況で話をする事になるとは思わなかったが。
 ともあれ、これで黒狼が考えを変えてくれると祈るしかない。……もしこのまま意識を変えないようなら、近い将来、彼等は確実に討伐されるだろう。
 そう思う俺を、黒狼は射抜くように睨み、
「――貴様は、何者だ」
「さぁな。少なくともお前達の敵ではないし、味方でもない」
「……ふん、喰えない男だ」
「ミツキにも良く言われるよ。――さぁ、次は交渉と行こうか。出来ればこのまま俺達を見逃して欲しいんだが」
「愚かな事を。我等がそう簡単に人間を見逃すと思うのか」
「思うさ。俺は、お前がミツキと同じように賢いと信じているからな」
 まぁ、俺がこうやって警告をしているとは、流石のミツキも思っていないだろうが。むしろ彼女からは『勝手な事をするな』と文句を言われてしまうかもしれなかった。
「……貴様が我が姉上の友であるという証拠はなんだ」
 疑うというよりも、確かめるかのように問い掛けて来るその言葉に、俺は何かないかと暫し考え、
「残念だが今は無いな。あとで北の森に来てくれれば、ミツキがそれを証明してくれるんだが」
 と、唯一確実であるその方法を提示すると、黒狼は馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに、
「巫山戯るな。それが我等から逃げる為の嘘かも知れぬのに、そんな戯言を信じろというのか、偽りの人間」
「その通りだ。俺には、お前に信じて貰う以外の手段が無いんだよ、黒き狼」



 白雪から聞いた話の中に、送り狼、というものがあった。なんでも、狼というのは自らの縄張りを護る為、そこに入って来た人間のあとを付けて監視するのだという。人間からしてみれば恐ろしい話だが、しかし実際には狼を恐れる他の獣が寄ってこない為、逆に安全に里へと戻る事が出来るのだそうだ。
 遥か東方にある、白雪の祖先が暮らしていたのだというその国の話は、こうして経験してみるとこれ以上無いほどに安心出来るものだった。
 そうして、行きの壮絶さが嘘のように、あっさりと森の入り口へと戻ってくる事が出来たところで、背後を付いて来ていた黒狼から声が来た。
「後日北の森へ行く。その時に貴様も顔を見せろ。……もし逃げるようなら、里に暮らす人間の命は無いと思え」
「解ってるよ。それより、信じてくれて有り難うな」
 そう感謝を告げると、黒狼は忌々しげに俺を睨み、けれど何も言わずに森の奥へ駆けて行った。
 それを見送ったあと、俺は里へと向けて歩き出し……しかし、残りの三人が付いて来ていない事に気が付いた。一体何をやっているのかと視線を向けると、そこには呆然とした顔で固まっているファイ達の姿があった。
 彼等の視線は俺の抱いている白猫――ではなく、俺の顔に注がれている。正直、そうやってじっと見つめられるのは気分が悪かった
「どうしたんだ、一体。無事に森を出られそうなんだ。喜ぶなり何なりすれば良いじゃないか」
「て、テメェは一体何をしたんだ」
 そう問い掛けて来るファイにあるのは、不審と疑念と――そして恐怖。予想していた事ではあったものの、俺はこの『理解出来ないもの』を見るような視線が大嫌いだった。
 それでも一応「交渉だ」と一言答えると、
「そ、そんなの答えになってねぇよ! どうしてお前があの狼と交渉出来たんだ!」
「聞いていただろう。俺は北の森の白狼を……あの黒狼の姉を知っているんだ。だから交渉出来た。というか、相手が黒狼だったから交渉出来ただけで、もし森の長がオークだったとしたら、俺達は今も森の中だろうな」
 或いは、もう殺されているか。
「なんにせよ、助かったんだ。それで良いだろう」
 そう面倒臭さと共に告げると、対するファイは困惑と共に、
「よ、良くねぇよ! そんな……モンスターと友達だとか、そんな馬鹿げた話があるか!」
「あー……」そうか、この少年はまずその時点で理解出来ていないのか。今更な話だが、白猫のように意思の疎通を取れる獣や、ミツキや黒狼のように人語を解するモンスターは、この世に数多く存在している。それがこの世界の真実だ。だからそう、人間が一番優位に立っていると思い込まされて育ってきたのだろうこのファイという少年は、モンスターは全て敵だと妄信的に思い込んでいるに違いない。つまるところ、「……馬鹿はお前だ」
「何だと!」
「意思の疎通が出来る相手なんだ。そこで友情が生まれようが、愛情を育もうが、何の問題も無いだろう。――逆に聞くが、この白猫も、お前にとってはあのオークや黒狼達と同じモンスターなのか?」
「そ、それは……違う、けど……」
 文句を言いたいのに言い返せない。そんな悔しげな表情を浮かべながら呟くファイに、俺は酷く冷たい声になるのを自覚しながら、
「だったら、理解しようと努力しろ。世の中には、お前の常識を覆すような現実が数多く拡がっている。……それに、もし会話さえ出来ていれば、俺達はオークを殺さずに済んだかもしれないんだ。それを忘れるな」
 とはいえ、実際にはそう簡単な話では無いし、固定観念を引っ繰り返すような事を理解するのは難しいだろう。けれど、何事も理解しようとするところから始めなければ意味がないのだ。
「俺はそれを理解してここに立ってる。……さぁ、解ったなら歩け。そのまま突っ立っていると、またオークに襲われかねないからな」
 そう三人に注意を促してから歩き出す。ここは森の入り口で、まだオークの縄張り内なのだ。ぼんやりしていれば確実に報復を受けるだろう。
 それでも、どうにか無事に戻ってこられた事には変わりない。
「さて、帰るか」
 静かに抱かれている白猫へと呟くと、彼女は「うん」と小さく頷き、そして気の抜けた声で、
「あー、お腹空いたー」
「俺もだ。今夜は何にするかな……」
 予想外の出来事が重なり過ぎて酷く疲れた。だから今夜は栄養のあるものでも食べようか。そんな事を考えながら、俺は白猫を抱いて歩いていく。 





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