五月蝿い世界の不器用な二人。

――――――――――――――――――――――――――――

□三章。

 翌日。
 夢を見ない違和感よりも、夢の中ですら白雪と出逢えない不安に少しずつ心が蝕まれていくのを感じながら、朝食を取る。まるで呪いだと自嘲しながら、しかしそれを振り解けない。
 そうして気分を落ち込ませながらも食事を終え、林檎を木箱へと詰める作業を始めた。
「……」
 黙々と手を動かしている間は無心になれて、少しだけ心が安定を取り戻す。
 そして箱詰めを全て終えた頃には、どうにか普段の調子を取り戻す事が出来ていた。
 俺は何をやっているんだろうな、とまるで口癖のようになってしまった言葉を呟きながら、寝室に戻って着替え始め、
「なぁ、お前は今日も付いて来るのか?」と問い掛けながらベッドへと視線を向けると、そこに白猫の姿は無かった。それはまるで陽射しに融けてしまった雪のように、影も形もない。どうやら、アイツは俺に何も言わずに出て行っ――
「ねー、私のご飯はー?」
「……まぁ、そんな事だろうと思ったさ」
 小さく溜め息を吐き、俺は声のする台所へと歩いていく。どうやら、林檎を箱に詰めている間に起き出していたらしい。寝室の扉に背中を向けていたから気付かなかったようだ(因みに、昨日の夜から寝室の扉は半開きのままだ)。
 朝食の残りを軽く温め、皿に盛ってやると、白猫が「いただきます」の言葉と共に食事を始めた。俺はその様子を眺めながら椅子に腰掛け、煙草に火でも点けようかと上着のポケットに手を伸ばし――そこで、外から物音が響いてきた。
 一つは馬の鼻息。そしてもう一つはそれをなだめるエリカの声だ。俺は彼女を迎える為に玄関へ向かうと、その扉を開ける前に白猫へと問い掛けた。
「今日も付いて来るのか?」
「そのつもりー」
 当たり前のようなその言葉に「解った」と返事を返し、そのまま外へ。エリカと軽い挨拶を交わすと、俺は彼女と共に林檎の詰まった木箱を荷台へと積み込んでいく。
「ん、今年はいつもより数が多いみたいね」
 そう嬉しそうに言うエリカに頷き返し、
「今年は豊作だったようです。まぁ、だからといって、必要以上には採れないんですが」
 俺が分けて貰っている森の実りは、そこに棲む者達の食料の余剰分でしかない。彼等から『採るな』と言われれば、いくら頼まれても俺は果物を収穫する事が出来なくなるのだ。
 そんな事情を知らぬエリカは、「上手くいかないね」と苦笑し、作業を進め……
「よし、これで積み込みは終わりね。それじゃあ、荷台に乗ってくれる?」
「解りました。戸締りをしてくるので、少し待っていて下さい」
 そう告げて一旦小屋へと戻ると、寝室に置いてある鍵をポケットに突っ込み、朝食を食べ終えて大きく欠伸をしている白猫を抱きかかえた。そして小屋の鍵を閉め、積み上げられた木箱の隣へと乗り込むと、馬の嘶きと共に荷台が動き出す。
 馬は少しずつ加速し、それに伴って振動も強くなっていく。
「ちょ、これ、すっごい、揺れて!」
 と、その激しい振動に驚く白猫を抱き直しながら、開いた手で木箱を押さえる。小屋へと続く道は舗装されていないから、どうしても振動が強くなってしまうのだ。そして俺は、その振動で積み上げた木箱が崩れたりしないよう、毎回こうして押さえ役を与えられていた。
 正直、この尻から響いてくる振動は嫌いだ。だが、普段の倍以上の速度で流れていく風景だけは好きだった。
 こうしている間だけは、失った過去の情景を、自然と思い出す事が出来るから。



 激しかった振動も里に入るとぐっと弱くなり、馬の進む速度も落ちてきて……それが完全に止まると同時に、白猫が俺の腕から飛び出した。途中から完全に無口になっていたが、どうやらかなり恐ろしかったようだ。
 俺はそれに続くように荷台を降りると、エリカと共に木箱を店の奥へと運んでいく。この青果店は彼女一人で切り盛りしているから、こうして果物を卸す時は、荷の積み下ろしやその開封、時には陳列も行う事になる。
 当然作業中は里の人々に見られる事になるが、俺はエリカを手伝っているだけ、という認識になっている。つまり、『奇人』である俺がエリカの店へ果物を卸している、という情報が知られる心配はないのだ。もし疑問に思われた時には、『小屋の近くを馴染みの行商人が通るから、彼に商品の代理購入をして貰っている』と答えるように頼んである。エリカの言葉なら誰も嘘だと疑わないから、里の人々はこの林檎が北の森に生っているものだと気付かないだろう。
 そうしていつものように作業を行っていき、それら全てが終わったのは、里に着いてから三十分ほどした頃の事だった。普段よりも木箱の量が多いといえど、もう何度も繰り返してきた作業だから、そう手間取る事もないのだ。
「……これも成長と言うんだろうか」
 過去を――白雪の事を強く想い続けていても、それで腹は膨れない。だから俺は、あの小屋で暮らしていく為に様々な事を学んできた。
 変化を拒みながらも、生きていく為に少しずつ俺は変わっているのだ。その事実に改めて気付かされて、自然と気分が落ち込んでいく……と、里長から借りているのだという馬を返しに行っていたエリカが、白猫を抱いて戻ってきた。
「どうしたの、暗い顔して」
「……いえ、別に」
 小さく答えると、エリカは何故か淋しげな表情を浮かべた。けれどその場で膝を折り、白猫を放して立ち上がった時には、既に普段の笑顔が戻っていて、
「ともかく、お疲れさま。今からお茶を淹れるから、この子と少し待っててね」
 この子、という言葉に頷くように白猫が俺のところへやって来た。その体を何となしに抱き上げると、そのまま休憩用の椅子に腰掛ける。
 見ればテーブルには既にお茶の準備が整えられており、エリカが手際良くそれを淹れていく。
 今日のように果物を卸した日は、こうしてお茶を貰って帰るのが恒例となっていた。しかも今日は白猫用のミルク(雑貨屋に売っていたらしい)まで用意してあるとの事で、すぐに帰る訳にはいかなくなってしまっていた。……まぁ、普段も彼女のペースに乗せられる事が多く、すぐに帰れた例が無いのだが。
 そうして二つのカップにお茶が淹れられ、エリカが床に白猫用の皿を置く。それを飲めるように白猫を放し、その頭を軽く撫でてから椅子に座り直すと、対面に腰掛けたエリカが嬉しそうに微笑んでいた。
「猫、好きなんだね。その子を抱いてる時のキミは、凄く優しい顔をしているよ」
「……そう、でしょうか」
 自分では全くそんなつもりはないのだが。そう思う俺に、エリカは「そうなのよ」と微笑みを強め、お茶請けの焼き菓子へと手を伸ばす。俺はその様子にどう答えたものだろうと考えながら、少々熱いお茶を一口。茶葉の種類などは解らないが、素直に美味しいと感じた。
「でも、今回も無事に入荷出来て良かったわ。本当にお疲れさま」
「いえ、そんな事は」
「本当に感謝してるんだから。……キミが居なかったら、今頃この店は潰れていたかもしれないし」
「潰れるって、流石に大げさですよ」
 そう答えた俺に、しかしエリカは「大げさじゃないのよね、これが」と静かに呟き、
「キミは知らないだろうけど……五年ぐらい前まで、この辺り一帯はある金色のドラゴンの縄張りだったの」
「……ドラゴン」
「うん。晴れた日になると、北にある山の向こうから飛んで来て、里の上をぐるぐる回って行くの。直接里が襲われる事は無かったんだけど、いつ襲い掛かってこられるか解らなくて、あたし達はいつも不安に怯えてた。そんな時、あたし達の訴えを王様が聞いて下さって、討伐隊が結成される事になってね。同時に、ドラゴンを倒したら勇者の称号を与えるっていう勅命も出されて、王都には腕の良い冒険者が沢山集まったらしいわ」
 ……ああ、その話なら良く知っている。第一陣が約三十人、第二陣が約五十人という大人数で結成された大部隊だった。比較的魔法使いが多く、空を飛ぶ相手への対処方法を――ドラゴンの討伐方法を理解した陣形が組まれていた。
「凄い戦いだったって話よ。何人も犠牲者が出て、戦闘は何日にも渡ったって。でも、どうにか討伐隊はその金色のドラゴンを倒したの。そうして、あたし達はその恐怖から怯えずに済むようになった。……でも、その戦闘で王都に被害が出たらしくて、この里からも王都復興の資金を捻出する事になって……」
 あの戦闘で王都にある城が半壊し、周囲にあった防壁もその七割ほどが崩れ落ちた。それを復旧させる為の資金を、ドラゴン討伐を訴えていた村や里から掻き集めたのだろう。
「母さんが生きてた頃からこの店の経営は芳しくなかったのに、そうやってお金を持っていかれちゃったから、本当に立ち行かなくなっちゃったの。それでもなけなしの貯金を使ってどうにか営業してたんだけど、それにも限界が来ちゃって……もう店を畳まないと駄目かな、って本気で考え始めたところに、キミがやって来た。
 北の森の実りは普段食べてる果物よりもずっと美味しいものだったから、すぐに売り上げに繋がって、それでどうにか店を畳まずに済んだの。まぁ、今もかなり苦しいんだけどね」
 そう言ってエリカは苦笑し……そして改めて俺を見つめ、静かに微笑むと、
「つまりね、キミはあたしとこの店を救ってくれた恩人なの。だからって訳じゃないけど、これからも宜しくね」
「……はい」
 そう答えながら、差し出された細い手を握り返す。けれど、まさか恩人とまで言われるとは思っていなかったから、正直動揺してしまう。同時に、その純粋な好意が辛い。俺はただ生きる為にそうしただけで、そこまでの感謝を貰う事など何一つしていないのだから。
 俺はエリカに対する後ろめたさを感じながら手を放し、お茶をもう一口。同じようにカップを取った彼女は、今は閉ざされている店の入り口へと視線を向け、
「……それなのに、『奇人』は無いよね」
 独り言のように呟かれたその言葉に答えるように、テーブルの下から小さく鳴き声が上がった。エリカはそれに驚きを浮かべ、しかしすぐに嬉しげな表情と共に席を立つと、
「貴女もそう思うわよねー」
 そう白猫へと告げ、その頭を軽く撫でていく。その姿を眺めながら、エリカだけが俺を『奇人』だと言わずに接してくれる理由が、ようやく解った気がした。
 そうして、暖かな空気が部屋に満ちる。
「……」
 ――だが、駄目だ。どうしても白雪の影がちらついてしまって、その暖かさを本心から感謝出来ない。
 そう、どんな事にも、俺の行動には白雪という――過去という枷が付く。けれど、彼女を愛した過去を失う苦痛に比べたら、俺は枷を外すどころか、逆にそれにしがみ付くだろう。それだけが、俺に残されたものなのだから。
 それでも、エリカが出してくれるお茶はいつも暖かだった。もしかしたら、彼女には俺の苦痛を見抜かれているのかもしれないと、そう錯覚するほどに。
 だから、という訳ではないけれど、自然と言葉が生まれていた。
「……俺も、感謝しています」
「え?」
「貴女のお蔭で、少しは人間嫌いが克服出来そうですから」
 あの小屋で暮らし始めた当初、俺は里に近付く気すら起きていなかった。誰も彼もが敵で、味方など存在しないように思えていたのだ。
 そんな俺を受け入れてくれたエリカの存在は、俺にとって感謝すべきもので……例えその好意の全てを受け入れる事が出来なくても、積み上げてきたこの関係までは否定出来ない。
 簡単に言ってしまえば、俺はエリカの事を嫌いではないのだ。
 だからそう。白猫を抱き上げ、心から嬉しそうに微笑む彼女の姿は、とても尊いものに見えた。 



 そうして、俺達は他愛の無い世間話を続け……二杯目のお茶を飲み干したところで、俺は腰を上げた。
「では、俺はこれで。お茶、有り難う御座いました」
 そう頭を下げる俺の足元で、白猫が小さく鳴き声を上げる。どうやら感謝の意を伝えているらしい。その様子に微笑むエリカに見送られながら、俺達は和やかな空気のまま店を出た。
 見上げた空はもう暗くなり始めており、吹きぬける風は震えるほどに冷たい。既に周囲に人影は無く、家々には暖かな光が灯っているのが見える。それに背を向けるように歩いていると、足元から小さく声が来た。
「そういえば、あの木箱はどうやって持って帰るの?」
「あれは持ち帰らない。今日卸した分の林檎の在庫が切れたら、エリカが小屋まで持って来てくれるんだ」
「へぇ、そういう事だったのね。納得納得」
 どうやらそれがずっと気になっていたらしい。人間臭い事を考えるものだと感じながら、俺はそのまま里の外へと歩き出す。
 とはいえ、里の内と外との境界は酷く曖昧だ。北側の区切りとなっているのは、山々からの吹きおろしに揺れている防風林だけで、柵などは巡らされていない。南北にモンスターの棲む森があるとはいえ、そこに棲む者達は自分から人間を襲う事はないから、強固な壁を必要としていないのだ。だから、里は本当に平和な空気に満ちている。
 けれど今更のように確認してみれば、里の北には背の高い見張り台が建てられており、その隣には詰め所となる小屋がある。過去にはそこに人が立ってドラゴンを見張り、その動きを監視、警戒していたのだろう。
 とはいえ、今では事件らしい事件も起きない為か、里には自警団などが存在しない。それほどに人々の結束が強く、故に余所者である俺は受け入れられ難いのだ。……まぁ、こちらから歩み寄るつもりもないのだが。
 そういった意味では、エリカにも悪い事をしていると思う。俺と一緒に居る事で、彼女にも迷惑が――と、そんな時だ。
 小屋まであと半分ほどに差し掛かったところで、若い女の叫び声と、それを押さえ込むような男の怒号が聞こえてきた。
 どこかで誰かが襲われているらしい。そう冷静に判断しながら、一度立ち止まる。
 正直このまま帰っても良いのだが、響き渡る悲鳴は相当に悲痛で、このまま通り過ぎるのは流石に夢見が悪かった。俺は面倒臭さを感じながらも、声のする方へと歩き出す。
 小屋へと――厳密には森へと続く道は背の高い草木が多く、大人でも腰を屈めれば簡単に隠れる事が出来る。例え女を押し倒し、その上に覆い被さっていたとしても、その姿を完全に隠せてしまえるのだ。
「まぁ、音までは隠せんがな」
「だ、誰だ?!」
 草木を割って入った先。そこには三人の男と、彼等に押し倒されている少女の姿があった。
 男達の風体は汚らしく、その周囲には旅荷だと思われるものが散乱している。そしてそれもかなり薄汚れており……恐らくは物取りを繰り返して各地を転々としている者達なのだろう。
 里は治安が良い。だからこそ、その周囲に生える薬草を採る時など、人々は自衛手段を持たぬままに外出する事が多い(と、エリカから聞いた事があった)。しかし、こうして人間や、或いは野生の獣に襲われる危険性があるという事を忘れてはいけないだろう。
 そしてそれは、襲う方にも言える事だった。
「下衆が」
 言葉と共に、少女に馬乗りになっている男の顔面へと蹴りを放つ。次に、地面に放置した剣を掴もうとしている二人目の男の手を踏み躙り、その髪を掴みながら膝を相手の鼻面へ。そして俺は剣を拾い上げると、怒声と共に剣を引き抜いた最後の男にそれを放り投げた。
「な、」
 という男の言葉を聞きながら、不恰好にそれを避ける男へと近付き、その股間を蹴り上げる。男が相手ならこれ以上効果的な一撃は無いだろう。
 声にならない声を上げて男が悶絶し、その手から剣が落ちる。それを拾い上げると、仲良く鼻血を流している男達の股間も蹴り上げておいた。これで暫くは動けない筈だ。
 さて、こいつらをどうやって処分しようか。そう考えながら抜き身の剣を鞘へと仕舞っていると、白猫から声が来た。
「……アンタ、強いのね」
 意外そうなその言葉に、俺は軽く首を振り、
「いや、運が良かっただけだ。こいつら三人が全員地面に膝を付いていたから対処出来ただけで、三人同時に襲い掛かって来られていたら確実に負けていたさ」
 だから、ただ幸運だっただけ。もし今の俺が強い力を持っていたとしても、後ろから不意打ちを受ければ一溜まりも無いだろう。現にそうやって殺され掛けた事があるから、それは嫌というほど良く解っていた。
 対する白猫は俺の言葉が信じられないのか、少々訝しげに、
「……まぁ、良いけどね。じゃあ、ちょっと里に行って人を呼んでくるから、アンタはその子の介抱をお願い」
 と、こちらの答えを待たずに駆け出してしまった。恐らくは物陰に隠れて助けを呼ぶのだろうが、俺は介抱が不得意なのだ。とはいえこの状況で俺が里に戻ったら、そのまま犯人にされかねない。
「仕方ないか……」
 小さく溜め息を吐くと、どうにか起き上がろうとしている男達の股間を更に蹴り上げ、のた打ち回るその体からベルトを引き抜いていく。そしてその手首を縛り上げると、蹴りを入れながら周囲に転がし、薄汚い旅荷や剣などを里の方へと放り投げた。
 そうして一応の安全を確保してから、少女の側へ膝を付く。見れば、少女は自身の顔を両腕で覆ったまま、うわ言のように「嫌だ、助けて」と繰り返していた。ショックが大き過ぎて、状況を判断する事が出来ないのだろう。
 取り敢えず、もう危険は無いのだと安心させる為に、出来るだけ優しく声を掛ける事にした。
「……あー、その、お嬢さん?」
「ひッ」
 ……逆効果だったようだ。少女は俺の言葉に引き攣った悲鳴を上げ、背中をずるようにしながら、どうにかこちらと距離を取ろうともがき始める。こんな状態で彼女の体を抱き起こそうものなら、確実にヒステリーを起こして暴れ出してしまうだろう。
 一体どうしたものか……。と、そう悩み始めた矢先、里の方から誰かが駆けて来るのが見えた。白猫が呼んだ里の人間がもうやって来たのだろうかと、俺はその場に立ち上が――
「テメェ、よくも俺の仲間を!」
 ――突然響いたその声は、よく斬れそうな剣の切先を伴っていた。
「――ッ!」
 立ち上がり掛けていた体を思い切り後ろに倒し、転がりながら距離を取る。もし膝を付いたままだったら、少女を襲っていた男達のように不意打ちを喰らっていただろう。全く、その事を考えていたばかりだというのに、俺は一体何をやっているんだ。
 そう思いつつ体を起こすと、数歩先に一人の少年が立っていた。里では見ない顔だ。短く切られた髪は赤茶色で、小柄な体に長剣を手にしており、俺を睨むその瞳には強い殺意があった。
 だが、俺はどうして斬り掛かられた? そう疑問符が浮かぶ中、まだ十台半ばなのだろう彼は俺の事を更に強く睨み付け、
「死ね!」
 直線的な言葉と共に、再び一刀が振るわれた。俺はそれをどうにか回避しながら、少年を説得するかこのまま逃げ出すかどうかを考え――背後から魔力の気配。嫌な予感と共に振り向くと、握り拳大の火球が目の前に迫っていた。
「何なんだ一体ッ!」
 悪態と共に右腕を振り上げ、それを無理矢理受け流す。当然のように上着に火が点き、しかしそれを鎮火する暇も無く、少年の剣を必死に避けていく。その剣筋は年齢に似合わぬほどに鋭く、怒りでそれが単調になっている今だからこそ回避出来ているようなものだった。
 それでも何とか距離を取り、荒れた息を整えながら少年へ視線を向ける。右腕の火は、魔法で生み出された炎だった為か動き回っている内に消えていた。けれど、危険な状況である事には変わりない。
 と、気付けば少年の背後にもう一人、横たわっている少女へと別の少女が駆け寄っているのが見えた。彼女もまた見ない顔だ。肩まで伸ばされた髪は栗色で、整った顔を心配げに曇らせている。そしてその手には細身の剣が握られていた。
 少年の発言から考えるに、彼等二人は襲われていた少女の仲間なのだろう。
 暗くなりつつある中、転がした男達の姿は草木の影に隠れてしまっていて全く見えない。つまり俺は、彼等に強姦魔だと勘違いされているのだ。そう判断すると同時に、
「逃げんじゃねぇよ!」
 容赦無く剣が振るわれる。それを紙一重のところで避けながら、俺は周囲に転がした男達へと近付こうと動き回り――けれどその剣はこちらの自由を許してはくれない。
 最悪だ。逃げるにも逃げられそうに無い上に、この状況では彼に何を言っても無駄だろう。
 それでも俺は、必死に逃げ道を探し――
「……ま、待って、ファイ……。その人は、違うの……」
 ――怒濤の状況を止めたのは、小さく、けれどはっきりと響いた少女の声だった。
 目の前の少年がそれに動きを止め、俺は彼から逃げるように距離を取り……視界に入った少女の姿を見た瞬間、思わず足が止まった。
 そこには、昨日俺に雑貨屋の場所を尋ねてきた、あの少女が座り込んでいたのだから。



『すみませんでした!』
 その言葉と共に、俺に剣を向けて来た少年と、魔法を放ったのだという少女が頭を下げる。
 正直、謝られたところでどうこうするつもりは無く、さっさと家から出て行って欲しいのだが……しかし、二人は頭を下げたまま動こうとしない。その様子に溜め息を吐いていると、暴漢に襲われていた少女が白猫を抱えて外から戻って来たのが見えた(少年達が玄関を閉め切ってしまったせいで、あとから戻って来た白猫が中に入れずにいたのだ)。
 彼女は白猫を放すと、少年達と同じように深く頭を下げ、
「あの、本当に……ごめんなさい」
「……解った、解ったから、取り敢えず頭を上げてくれないか」
 そう告げて少女達から視線を逸らすと、俺は耐え切れず煙草に火を点けた。そしてそれを深く吸いながら、こんな事になってしまった経緯を思い出す。
 あの時。
 悲痛に響いた少女の声は、少年の動きを完全に止めてくれた。そこに里の男達が現れ、彼等が暴漢の姿を見付けてくれた事で、どうにか俺の疑いが晴れたのだった。
 が、しかし、俺が『奇人』である以上、里の男達から何を言われるか解ったものではない。
 俺はこれ以上付き合っていられないと判断し、逃げるように小屋へと戻り、着替えを済ませ……妙に静かな小屋の空気に、白猫を置いてきてしまったのだと気が付いた。
 面倒な事になる前に逃げてきたというのに、疑われるのを覚悟で戻らなくてはならないのか……。そう思いながらも、俺は上着を着込み直し――そこへ、少年達が押し掛けてきたのだった。
 そうして頭を下げ出した彼等を前に、俺は二度目の溜め息を吐く。
 ……襲われていた少女の心には、まだ不安がある筈だ。三人の男に襲われ、それを助けた俺からも逃げようとしていたほどに、彼女は深い恐怖の底へと落ちていたのだから。恐らく、今も相当に無理をしているに違いない。にも拘らず、彼女は俺に頭を下げ続けている。その姿は酷く痛々しく、これ以上見ていられなかった。
 俺は煙草を灰皿へ押し付け、柄じゃないな、と思いながらも、不安げに顔を上げた少女へと視線を向け、
「取り敢えず、その白猫を貸してやるから、寝室に――そこにある部屋にでも引っ込んでいてくれないか」
「で、でも、」
「お前さんはもう休んだ方が良い。俺には酷く無理をしているように見えるんでな。……まぁ、それをお節介と言うのなら、もう俺からは何も言わない。今すぐここから出て行ってくれ」
 俺の言葉に少女が小さく体を震わせる。酷い事を言われたと、そんな風に思っているのかもしれない。けれど彼女は白猫を再び抱きかかえると、もう一人の少女に支えられながら、ゆっくりと寝室へ歩いて行った。
 そして半開きになっていた扉が閉まる音を聞いたところで、俺は気まずそうな顔で突っ立っている少年を無視し、煙草の箱を手に取った。だが、やけに軽い。それに嫌な予感がしつつも、二本目を吸おうとし……けれど手製の箱の中には、やはり一本も煙草が残っていなかった。
 それに自然と舌打ちをしながら、俺はこちらの様子を窺っている馬鹿へと言葉を放つ。
「慰めにも行かないのか」
「ッ!」
 途端、少年が弾かれたように駆け出した。その様子に大きく溜め息を吐いて、俺は背もたれに体重を預ける。
「……なってないな」
 まるで過去の自分を見ているようで非常に腹が立ち、同時に心が酷く痛む。
 直後、強く扉を閉める音が響き渡った。
「……本当に、なっていない」
 大きな音はそれだけで不安や恐怖の原因となるだろうに、あの少年はそんな程度の配慮すら出来ないらしい。
 だが、もう知った事ではなかった。あとはもう彼等の領分なのだ。俺に出来る事といえば、焼け焦げた上着をいつ買い換えるか、その予定を考えるぐらいだ。
 少しは貯金しておくつもりだったんだがな……。そう思いながら、俺は気だるさと共に目を閉じた。



 瞼の裏。
 何よりも深いその闇の中に浮かび上がるのは、遠い日の風景。
 もう取り戻す事が出来ない幸せな日々。
 愛する恋人との日常。
 
 白雪は、若いながらも高い実力を持った魔女だった。とはいえその力をひけらかす事はせず、他者の為に魔法を使う事の出来る、言わば『良き魔女』だったのだ。
 けれど彼女を良く知らない者達からすれば、その豊富な魔力、精度の高い魔法、そして人々から支持されるカリスマは畏怖の対象となる。
 俺が白雪と出逢った時には、既に彼女は王都の人間から『古城の魔女』と呼ばれ、恐怖と害悪の象徴のような扱いを受けていた。
 しかし、そうして忌み嫌われる魔女も、その中身はただの少女だ。目に見えない悪意に涙する事も少なくなかった。
 その度に俺はどうして良いのか解らず、無様に右往左往するだけだった。それでも、別れの日に近付く頃には自然に慰められるようになってはいたが……それも完璧ではなかった。
 白雪に笑っていて欲しいのに、それが出来ない。それはとても苦痛で、そして何も出来ない自分が酷く苛立たしかった。
 それでも彼女は、俺に向かって言ってくれたのだ。
『貴方が――ツクヨミが側に居てくれるだけで、私は救われるの』
 その言葉に嘘は無かったのだと信じたい。だが俺は、白雪を救うどころか、涙に暮れるその姿を見守る事しか出来ず――結果的に、彼女を失った。
 今更な話だが……白雪の前から逃げ出す事になったあの瞬間、彼女と何か一言でも言葉を交わしていれば、俺達の運命は変わっていたのかもしれない。
 或いは、震えていたその細い体を抱き締めてやれるほどの余裕が俺にあれば、今も彼女と一緒に暮らせていたのかもしれない。
 あの時の白雪に迷いや困惑はあれど、悪意は無かったと思うから。
 だから俺は、あの日の行動を後悔し続ける。
 もう取り戻せない、白雪との幸せな日常を想いながら。



 扉が開く音と共に、目を開く。
 そのまま音の方へと視線を向けると、沈痛な表情をした魔法使いの少女の姿があった。彼女は俺の姿を見ると、そのまま真っ直ぐこちらへとやって来て、
「リラは、あの子は今、ファイが様子を看て――」
「――黙れ」
 俺は背もたれに預けていた体を戻し、少女を軽く睨み付けながら、
「俺はお前達に興味は無い。彼女が落ち着くまでは部屋を貸すが、それだけだ。さっさと出て行ってくれ」
 そう突き放すように告げた言葉に、少女は驚いたように目を丸くする。しかしすぐに何かを思い付いたのか、彼女は床に直接腰を下ろすと、
「では、今からボクは独り言を呟きます。それなら構いませんね?」
 予想外なその提案に、咄嗟に言葉を返せない。対する少女はそれを肯定と受け取ったのか、仲間達の居る寝室の方へと視線を向けながら、
「リラは今、ファイが様子を看ています。……あ、自己紹介が遅れました。ボクはニア・パープティ。貴方が助けて下さったのがリラ・ライラックで、勘違いで斬り掛かってしまったのがファイ・ソフォーラと言います。この土地には、契約している冒険者ギルドから請け負った仕事でやってきました」
 ギルドとは同業者組合の事だ。そして冒険者とは、報酬と引き換えにモンスター討伐や洞窟探索、果てには赤ん坊の世話から人殺しまでもを行う者達の事を指す。まぁ、どうでも良い情報だ。
「仕事の内容は、モンスターの討伐。聞いた事がありませんか? 里の南にある森の事です」
 里には東西に舗装された道が伸びており、それが主要の交通網となっている。そして、少女――ニア・ハープティの言う南の森というのは、里の南から伸びる未舗装の道を行った先にある深い森の事だ。
 この小屋の先に拡がる北の森以上の深さを持つそこは、それ故に様々な動植物、そしてモンスターの住処となっており……そこを抜ければ、国王様とやらが御座す王都へと辿り着く。しかし、人間が突っ切って行けるほど南の森は安全ではない為、王都へ向かうには舗装された道を通って森を大きく迂回する事になる。つまり南の森は、王都へと至る際の大きな障害となっているのだ。その為、里の人々は南の森に手を入れようと躍起になっているらしい。だが、そこに棲むモンスターの前に何度も敗れて来た……。
 それから考えるに、恐らく里長が王都の冒険者ギルドに依頼し、モンスター討伐を頼んだのだろう。
 そんな事を考える俺を前に、ニアは表情を暗くし、
「明日にはその森に向かうと決めて、ボク達は休息を取っていたんです。相手が凶暴なモンスターである以上、万全な状態で挑まなければいけませんから。それなのに……」
 彼女達は今日、どうやって森で立ち回るかを決める作戦会議を行っていたらしい。その中で、毒を受けた場合の対処法を話し合っている時、毒消し薬の残りが少ない事にリラが気付いたのだという。そして、彼女はそれを買ってくると宿屋を出て行き……けれど、雑貨屋には立ち寄らず、里の周囲に生えている薬草を採りに向かってしまった(市販されている薬よりもその効力を調整し易い為に、冒険者は自分で薬草を調合する事が多いのだそうだ)。
 その結果、彼女は暴漢に襲われる事になる。
「ボクが悪かったんです。彼女の性格を考えれば、市販のものでは無く、お手製の毒消しを作ると解っていたのに……。……貴方には、どれだけ頭を下げても足りません」
 そう言ってニアが頭を下げる。座ったままでのそれはもう殆ど土下座のようで、正直見ていられない。
 だから俺は、毒を吐く。
「……能天気だな。俺は聖人か?」
「どういう事ですか?」
 頭を上げたニアが首を傾げる。その表情は年頃の少女のそれで、冒険者なんぞをやっているのはとても似合わないように思えた。
「俺がお前や、寝室で寝ているのだろう彼女を襲うかもしれない可能性を考えないのか? 俺はここに一人で住んでいるが、そうでは無いかもしれない。もしかしたら、今この瞬間、あの部屋では死体が転がっているかもしれない。或いは、俺の仲間があの二人を犯しているかもしれない。……そうは考えないのか?」
 ついでに言えば、
「この瞬間、お前は俺に殺される可能性を考えないのか?」
 まぁ、喋る猫、なんて存在を無条件に受け入れた俺が言えた話ではないが……それはそれ、これはこれ、だ。
「さぁ、下らないお喋りは終わりだ。そこから消えてくれないか」
 と、そう言い放った瞬間、寝室の方から素っ頓狂な叫び声が上がった。それは恐らくファイと呼ばれる少年のもの。突然のそれに何事かとニアが視線を向け――その頭に、俺は空になった煙草の箱を放る。放物線を描いたそれが後頭部に当たると、彼女はびっくりした顔で俺を見上げた。
「ほら、油断をするな」
 俺の言葉にニアは視線を下げ、立ち上がりながら煙草の箱を拾い上げた。
 これで反論も出ないだろう。そう思いながらその動きを眺めていると、彼女は箱をテーブルの上へと置き、
「……貴方は優しい人ですね」
「は?」
 予想外の言葉に間抜けな声が出た。一体彼女は何を言っているんだ? そう困惑していると、ニアは真っ直ぐに俺を見つめ、
「確かに、ボク達は貴方を全く警戒していませんでした。今のお言葉にあった通り、この瞬間に殺されているのかもしれません。……ですが、本当にそれを行うつもりなら、そんな事は初めから言わない筈です」
 と、そう言って、ニアは初めて笑ってみせた。ボク、という少年のような一人称を使う癖に、その微笑みはとても可愛らしく……まるでこちらの心に染み込んでくるような優しさと暖かさに満ちていた。
「それに、こんな事を言ったら尚更甘いと言われるかもしれませんが……ボクは、こうして指摘までしてくれる貴方が悪い人だとは思えません。だから優しいと、そう感じました」
 そして最後に軽く会釈をし、ニアが寝室へと戻って行く。その姿を呆然と見送ったあと、俺は深く溜め息を吐いた。
 ……もしかしたら、俺は酷く余計な事を言ってしまったのかもしれない。



 ファイが素っ頓狂な声を上げた原因は、白猫が突然喋り始めたから、らしい。
 リラとニアは魔法使いであるが故に白猫の特殊性に気付いており、然程驚いていなかった(それから考えるに、白猫は魔法によって喋れるようになったのだろう)。
 その混乱が収まった今、何故か俺はリラと二人きりで寝室に居る。いや、正確には二人と一匹か。白猫はベッドに座るリラの膝の上で気持ち良さそうに撫でられていた。
「で、俺に何の話があるんだ」
「改めて、お礼を言いたくて。……助けて下さって、本当に有り難う御座います」
 そう言って、リラが白猫を圧迫しない程度に頭を下げる。けれど俺は彼女から目を逸らしながら、
「気にするな。それよりも、今は自分の心を休ませた方が良い」
「こころ、ですか?」
「そうだ。あの二人ならともかく、俺が相手だと恐ろしさがあるだろう?」
 襲われていたリラの視線で見れば、あの時の暴漢も俺も変わらない。彼女が助けを求めていたのはファイ達にであって、俺ではないのだから。
 しかし、対するリラは少し俯きがちに、
「大丈夫です。……ああいうのは、初めてじゃないですから」
「……そうか」
「本当は、対策とか、あったんですが……でも、ダメですね。上手く、出来ません、でした」
 言いながら恐怖がぶり返してきてしまったのか、ぽろぽろと、宝石のような涙がリラの頬を伝っていく。その様子にどうしたら良いか迷いながらも、取り敢えず俺は彼女へと近付き――その途端、抱き付かれた。
「こわ、くて……怖くて……!」
「……大丈夫だ。もう、大丈夫だから」
 面倒臭さを感じつつも、一応慰めておく。と、見れば白猫がするりとその身を移動させ、俺の枕の上で丸くなろうとしていた。流石にそれは止めろと声を上げたくなったが、こんな状況ではどうにも出来ない。流し目でこちらを見てくる白猫を睨みつつ、俺はリラの背中を軽く叩き、
「怖かったなら泣いて良いんだ。人間には、それが出来るんだから」
 誹謗中傷から必死に耐えていた白雪へと送った言葉を、そのまま告げる。……涙する体を支えるという、彼女にやってやる事が出来なかった行為を、出逢って間もない少女に行っている後ろめたさを感じながら。
 そうして、どれほどの時間が経っただろうか。
 閉じた扉の向こうから、やれ「飛び込む」だの、やれ「止めるな」だのという言葉が聞こえ始めたところで、リラが顔を上げた。そして服の袖で涙を拭い、真っ赤に泣き腫らした目で「えへへ」と笑い、
「ごめんなさい、泣いちゃいました」
「気にするな」
 そう告げて彼女から離れる。途端、リラが名残惜しそうな声を上げた気がしたが、俺はそれを意識的に無視し、
「……今晩はこの部屋を好きに使ってくれて構わない。だが、夜が明けたら出来るだけ早く出て行ってくれ。俺は、他人と顔を合わせているのが酷く苦痛なんだ」
 回りくどい方法は取らず、目障りなのだ、とそう告げる。リラがそれに表情を歪めたが、こればかりは譲れなかった。
 そして返事を待たずに部屋を出ると、扉のすぐ正面にファイと、それを引き止めているニアの姿があった。
「今の話は聞こえていたか? 解ったなら、お前達も今日は泊まっていくと良い。俺には別の寝床があるんでな」
 どうせ盗まれるような物も無いのだ。彼女達の存在を気にしながら一晩を過ごす気は無いし、今夜はアイツのところで眠らせて貰うとしよう。そう思いながらの言葉に、ファイが声を上げた。
「ちょっと待ってくれ! 俺はアンタに言いたい事が――」
「黙れ。聞くつもりは無い。ほら、さっさと中へ入れ」
「なッ?! テメェ、一体何のつもりで――!」
 と、相当怒りの沸点が低いのか、一応は恩人である俺に切れ出すファイをニアが押さえ込み、
「解りました、そうさせて貰います」
「こ、こらニア、放せよ! 放せ!!」
 ファイがそう怒声を撒き散らすも、しかしニアに引っ張られて部屋の中へと消えていく。
 それに溜め息を吐きながら台所に戻り、そこにある椅子に腰掛けると、ようやく静かさの中に戻ってこられたような気がした。
「……俺は、何をやっているんだろうな」
 人助けをしたいのか、それとも他人を排除したいのか、その線引きが酷く曖昧だ。まぁ、昔から泣いている相手にだけは強く出る事が出来なかったから、ある意味でこれが普通なのかもしれないが――それでも、自分という存在が揺らぎ始めているのは確実な気がした。
 それは以前にも感じた事のある変化の気配。その時は白雪をより強く求める結果になったが……恐らく今回は、彼女を忘れていくという、最悪の状況に至る可能性が高いように思えた。
 駄目だ。それだけは絶対に駄目だ。俺にはもう、白雪との思い出以外に縋るものが無いのだから。
「……」
 ……変化の切っ掛けはあの白猫なのだろう。彼女が現れた事で、変化の無かった生活が少しずつ、そして確実に歪み始めてしまった。けれど、今から白猫を追い出したところで何も変わらない。むしろこの状況から普段の調子を取り戻さなければ意味が無いのだ。
 とはいえ、他人が三人も居るようなこの状況では、普段の調子も何もあったものではない。俺は緩慢な動きで椅子から立ち上がると、上着を着込み、小屋の鍵だけを持って外へ出た。
「……少し冷えるな」
 風は無いものの、空気は冷え込んでいる。それでも、その透明な静けさが心地良い。そう思いながら、俺は月明かりの下を歩き出し、北の森へと足を踏み入れた。
 冷たく、しかしどこか煌めいて見える森の空気を肺に満たすと、白雪と暮らしていた城での生活を思い出す。あの場所は周囲が森に囲まれていて、空気はその純粋な魔力に満ちていた。
 ゆっくりと、別れの記憶に触れないようにしながら、永遠に続くと思っていた幸福な日々を思い出す。
 幸せだった日々を、思い出す。
 そうして歩いていく先。月光によって青白く染められた深い森の奥から、神々しさと禍々しさを併せ持った気配が現れた。
 それは、この森の長である一匹の白い狼。
 その巨躯には一点の汚れも無く、動きには気品すらも漂う。しかし、薄く開いた口から覗く鋭い牙の存在が、それが肉を喰らう獣だと教えてくれる。
 身震いするほどの美しさと、気高く孤高な存在感。
 そんな相手が最初に発したのは、威嚇でも、警戒でも無く――親しみの込められた嬉しげな声だった。
「久しいな、友よ」
「久しぶりだな、孤高の犬」
「犬では無い、狼だと言っておろう」
 文句有りげに言う白狼――ミツキに、俺は「愛称ってのはそんなものだろ?」と軽く答えながら、木の幹へと寄り掛かる。対する彼女は「お主も変わらんのぅ」と小さく零してから、
「して、こんな時間にどうしたのじゃ。よもや、ついに考えを変える気になったか?」
 楽しげに言うミツキに、俺は小さく首を振り、
「いや、残念ながらそうじゃない。実は少し厄介な事になってな」そこで、俺は今日起きた出来事を軽く説明し、「迷惑なのは解っている。だが、今夜は森で眠らせて貰えないだろうか」
 そう問い掛けると、ミツキは少し不満げに、
「そう謙遜するな。許可など取らずとも、儂はお主に文句を言うたりはせぬよ。……しかし、お主は変わらぬな。その中身に相応しくない振る舞いをしおる」
「それは言わないでくれ」
 不満ありげなミツキに、俺は胸の痛みと共に答える。
 彼女は初見で俺の本質を見抜いたような存在だ。こちらから過去を明かさなくても、ある程度の事情を察してしまっている。だからこそ、ミツキの期待に対して何も応えられないのが辛く、哀しかった。……だが、
「俺だって好きでこうしている訳じゃない。白雪が望んだから、こうしているだけなんだ」
「それはもう何度も聞いたわ。……まぁ良い。森への滞在を認める代わりに、少し儂に付きおうて貰おうか」
「……お前の長話は聞き飽きたんだが」
 本音と共に告げると、ミツキは楽しげな笑みを浮かべ、
「そう言うな。これは儂の楽しみでもあるのじゃから」
 そうしてミツキが森の奥へと歩き出し、俺もそれに続いていく。森の中は奇妙に静かで、時折獣達の視線を感じる。けれどそこに敵意は無く、むしろ『また来たのかコイツ』という感じだ。一昨日林檎を採りに来たばかりだから、尚更そう思われているのかもしれない。
 と、一歩先を行くミツキから声が来た。
「しかし、お主は未だに過去に囚われておるのか」
「……ああ」
 俺がミツキと出逢ったのは、白雪のところから逃げ出し、あの小屋で暮らそうと決めた晩の事だった。つまり俺は、その頃から何一つ変れていないという事になる。
 だが、変わるつもりも無かった。そうやって変化を拒絶し続ける事でしか、俺は自分の心を護れないのだ。だからそう、例え最後に別れの記憶が待っているとしても、俺は幸せだった白雪との思い出を捨て去る事なんて出来ない。彼女との思い出はどれも笑顔に溢れていて、とても暖かなものなのだから。
 ああ、そうだ。白雪との生活は幸せに満ち溢れていた。
 魔女として堂々と公の場に出る事を嫌っていた彼女は、外出する事が少なく、俺達は一日中一緒に過ごした。
 朝は鳥のさえずりで目覚め、昼は暖かな太陽の下で食事をし、夜は月の魔力を感じながら眠る。そんな毎日が当たり前のように続いていたのだ。
 時には喧嘩をして丸一日口を利かなかった事もあるし、悲しみに暮れて二人で涙を流した事もある。それでも、やはり印象強く残っているのは、白雪の幸せそうな笑顔ばかりだった。
 
 そもそもの出逢いは、とある戦闘で瀕死の重傷を負った俺のところへ白雪が現れた事から始まる。
 彼女の魔法によって一命を取り留めた俺は、白雪の城に厄介になりながら、傷が癒えるのを待ち続ける毎日を送る事となったのだ。
 とはいえ、傷のせいで碌に動き回る事が出来なかった俺は、殆どの事を白雪に世話して貰いながら過ごし……次第に、甲斐甲斐しく看病してくれる彼女の優しさに惹かれ始めた。
 それでも、最初はその優しさを疑い、何か裏があるのではないかと思ってしまっていた。だが、毎日一緒に生活していれば、そこに敵意が無い事は解ってくる。いつしか警戒も消え、俺は『白雪の事が好きだ』と、そうはっきりと自覚するようになっていった。
 けれど、俺には彼女へと想いを伝えられない理由と、自分の恋心を否定したい理由があった。だからそれを意識しないように努め――けれど上手くいかなかった。自分の中に芽生えた感情は、論理で押さえ込めるほど柔なものではなかったのだ。
 そうして俺はずるずると城に厄介になり続け……俺達が出逢ってから三ヶ月ほど経った頃、俺は当の白雪から告白を受ける事になる。
 まさか彼女が俺の事を好きになってくれるとは思ってもいなかったから、その時はとても驚いたのを覚えている。そしてその印象強い告白は、今でも鮮明に思い出す事が出来た。
『私、ツクヨミが好き。男の人として、好きなの。
 本当はね、ずっと前からツクヨミの事は知ってたのよ。だからあの時貴方を助けて、こうして話をするようになって……興味本位だったそれが、いつの間にか好きに変わってた。自分でも予想外なんだけど、私、貴方の事が本当に好きなの。
 ……ああもう、そんなに見ないでっ! こんなにも誰かに惹かれるなんて生まれて初めてだから、凄く恥ずかしいの!』
 そう言って真っ赤な顔を両手で覆い隠してしまった白雪の姿に、見ているこっちも恥ずかしくなってくるのを感じながら、それでも俺はその告白を断ろうとした。
 相思相愛だったのは願っても無い事だったが、それ以上に深い問題が俺達の間にはあったから。
 けれど、白雪はそんなものは関係ないと微笑み、
『例えどんな問題が立ち塞がろうと、私は貴方を愛していきたいの』
 ……そこまで言われて、誰が断れるというのだろう?
 こうして俺達は恋人同士となり、幸せな日々を過ごしていく事になる。そしてその想いは今も消えず、この胸の中にあった。

 だから俺は、ミツキに何と言われようと、過去を断ち切る事は出来ないのだ。
「……これを失ったら、俺はもう生きていけないからな」
 そしてこの言葉は、もう何度も彼女に告げてきたものだった。
 ミツキに思うところがあり、日々様々な事に頭を悩ませているのは理解している。俺がこの森の実りを得られるのは――ここに棲む者達に対する理解を得られたのは――全て彼女のお蔭で、言ってしまえばこうして今日まで生きてこられたのもミツキの存在があったからこそなのだ。その恩に報いる為に少しは協力しているが、しかしこればかりはどうにも出来なかった。
 そんな俺に、ミツキは深く溜め息を吐き、
「そうは言うが、儂はお主に期待しておるのじゃぞ?」
 それに応えてやりたいという気持ちはあるし、それだけの恩は貰っている。けれど、俺が返せる言葉は変わらないのだ。
「すまない。お前には感謝しているが、やはりこれだけは譲れない。俺は、もうこれ以上大切なものを失いたくないんだ」
 そういつも通りの答えを返すと、ミツキは少々悲しげに、
「お主は一生そうして生きていくのか、友よ」
「……ああ。俺には、もうそうするしか生きる方法が解らないんだよ、孤高の狼」



 次の日。
 結局明け方までミツキと話をする事になった俺は、夢を見ないほどに短い眠りのあと、少々眠気を引きずりながら小屋に戻った。
 だがそこにはリラ達の姿は無く、代わりに謝罪の言葉を綴った手紙が残されていた。小さく几帳面な字からして、これを書いたのはリラなのだろうか。そんな事を思いながら寝室に戻ると、ベッドの上には丸くなった白猫の姿。とはいえ眠ってはいなかったのか、彼女はすぐにその頭を上げ、
「どこ行ってたの?」
「友人の所だ。……猫であるお前なら未だしも、誰か他人がいる状況で呑気に眠れるほど、俺も無用心じゃないんでな」
 そう答えながら着替えを用意し始めると、白猫はどこか不機嫌な声で、
「私の心配は無しなんだ」
「アイツらを危険だと判断していたら、そもそも家に入れてすらいないさ」
「それ、矛盾してる気がする。私と他人の違いは何? 危険は感じて無いんでしょ?」
 自分となら一緒に眠れるのに、リラ達とは眠れない理由は一体何なのか。そう問い掛けて来る白猫に、俺は部屋の扉へと手を掛けながら、
「人間か否か、だ。俺は、人間という生き物が大嫌いなんだよ」
 白雪だけは例外だが。あとは、最近ではエリカぐらいか。
「まぁ、ある程度の折り合いは付けているがな。そうでもしなかったら、この世界では生きていけない」
 そう最後に呟いて部屋を出る。その刹那、白猫の何か言いたげな顔が見えたが、背中に言葉は投げ掛けられなかった。
「……さて、風呂だ」
 意識を切り替えるよう、誰も居ない居間にそう呟いて、風呂場へと向けて歩いていく。リラ達に使われていたらどうしようか、という懸念はあったが、流石に風呂を使われた形跡は無かった。
 そうして風呂に入り、着替えを済ませると、俺は部屋の掃除を行う事にした。潔癖症という訳では無いが、やはり他人に使われたベッドで眠るというのは気持ちが悪い。最低限シーツなどは変えなくては。
 俺は再び丸くなっている白猫を抱き上げ、そのシーツを外そうとし、
「そのベッド、誰も使ってないわよ。そこで眠ったのは私だけ」
「本当か?」
「嘘を言ってどうするの。あの子達、アンタがこの小屋を出て行ったあと、すぐに三人揃って帰っていったわ。あのファイって子のプライドが、ここに泊まる事を良しとしなかったみたい」
『アレは何か企んでいるに違いない! 今すぐに帰るぞ!』と、彼はそう捲し立て、止めようとするニアの制止も振り切って、リラの手を引いて去って行ったらしい。……となると、あの手紙はニアが書いたものか。
「……いくら里に近いとはいえ、夜道を出歩くのは危険だと思うんだがな」
「それはあの子達も解ってたみたい。だけど、理屈でどうにかならないのが感情ってものじゃない?」
「まぁ、それもそうか」
 リラの涙も、ファイ達の行動も、そしてここに立っている俺自身も、理屈では抑え切れない感情の結果にあるものだ。それを解っているから、もう俺は彼等に対して何の言葉も放てない。
 しかし、そうなるとベッドメイクは不必要になりそうだ。それでも、軽く部屋の掃除ぐらいはしておこう。そう思いながら白猫を下ろし、歪んでしまったシーツを敷き直した所で、床に何か輝くものがある事に気が付いた。
 何だ? そう思いながら拾い上げてみると、それはネックレスだった。銀色の細い鎖に、丸みを帯びた剣と杖、そしてハートをあしらったチャームが付いている。恐らく、若い女性向けに作られたものに違いない。
 しかし、俺はこんな物を持つ趣味は無く……そこから導き出される面倒臭さに言葉を失っていると、白猫から声が来た。
「もしかして、忘れ物?」
「……そのようだ。お前、里まで届けてきてくれないか?」
「無理よぅ。あの子達には喋れるってばれちゃったけど、だからって宿の中にまでは入れないもの。入り口で追い出されちゃうわ」
「確かにそうだな……」
 そうして深く溜め息を吐く。必要な時以外には里に向かいたくないというのが本音なのだが、こうなってしまった以上は仕方がない。新しい上着を買う必要もあるし、出向くしかないのだろう。
 諦めついでにもう一つ溜め息を吐いて、ポケットにペンダントを仕舞うと、俺は外出の準備を整え、
「お前はどうする」
「一緒に行くわ。暇だし、お腹も空いたし」
「残念だが、里で飯は喰わんぞ」
「えー」
 というやり取りを行いながら小屋を出て、里へと向けて歩き出す。
 舗装されていないこの道は凹凸が多く、雑草は思う存分背を伸ばし、剪定される事の無い木々が好き勝手に枝葉を伸ばしている。まぁ、元々は森だった場所を切り崩して作った道だというから、鬱蒼としているのは仕方ないのだろう。
 だからという訳では無いが、この道は夜になると飢えた野犬が出る事があった。森に棲むモンスターと違い、王都の方から流れてくるのだという彼等は、田畑を荒し、時には人間に襲い掛かって来る事がある。
 そんな道を、最も危険の高まる夜中に帰って行ったというのだから、ファイの感じた危機感は相当のものだったに違いない。一応その気持ちは理解出来るが、しかし流石に無謀過ぎる。ミツキの加護がある俺ですら、そうそう夜には出歩かないというのに。
 こんな調子では、彼等は南の森へ向かっても死ぬだけだろう。あの森にはミツキの同属である狼の他にも、オークと呼ばれるモンスターが住み着いていると聞く。独自の縄張り、独自の生態を持つ彼等は狼達以上に凶暴なようで、里ではその存在を忌避する声が多くある。ああしてファイ達のような若い冒険者が借り出されている事を考えると、恐らくオークを殺す為に相当数の戦闘が行われ、逆に打ち倒されてきたのだろう。
 昨晩ミツキと交わした会話の中にも、そのオークの話題があった。南の森に棲む仲間達を心配している彼女は、詳しくは語らなかったものの、何か対策を考えているようでもあった。もしかすると、そこに棲む狼達が北の森へと移り住んでくる日が近いのかもしれない。そうなれば、今までのように森の実りを貰う事は不可能になるだろう。
 エリカには悪いが、こればかりは俺にはどうにも出来ない事だった。例え王都からのお客様とやらが文句を言ってこようが、それは覆せない。人間には人間の生活があるように、ミツキ達にはミツキ達の生活があるのだから。
 そんな事を思いながら歩いて行くと、リラが襲われていた場所に差し掛かった。俺はそこで起こった一連の出来事を思い出しながら、白猫に聞き忘れていた事を問い掛ける。
「そういえば、どうして昨日はファイ達が先にやって来たんだ? お前は里の男達を呼びに向かったんだろう?」
 あの時間差がなければ、俺は上着を一着駄目にせずに済んだのだ。思わず恨みがましくなってしまうのを感じながら答えを待つと、白猫は申し訳なさそうに、
「ごめんね。あの子達もリラの事を探そうとしていたみたいで、木陰から声を出したらすぐに走り出しちゃって」
「そうだったのか……。仲間思いなのは良いが、度が過ぎるのも問題があるな……」
 一も二も無く駆け出してしまう気持ちも解らなくはないが、時には落ち着く事も必要だろう。と、そうやって白猫と話している内に、里へと辿り着いていた。
 しかし、
「……何か妙だな」
 俺の事を見る人々の視線が、以前のそれと変わっている。今までは不審そうな視線や睨むような視線ばかりだったというのに、何故か今日はそれが感じられない。それどころか、俺へと笑みを向けてくる相手までいるではないか。
 一体何が起きているのだろう。まるで世界が一変してしまったかのような、奇妙な薄ら寒さを感じながら、俺は逃げるように宿屋へ向かって歩いて行き――そこで、こちらへと駆け寄ってくるエリカの姿が見えた。
「やぁ、英雄さん!」
 英雄? 一体何の事だろう。まぁ、確実に俺の事では無いだろうし、別の誰かに声を掛けたに違いない。そう思いながら宿屋へ入ろうとしたところで、慌ててエリカに止められた。
「ちょ、ちょっと待った! あたしはキミの事を呼んだのよ!」
 つまり俺が英雄らしい。……正直意味が解らない。
「冗談は止して下さい。どうして俺が英雄なんです?」
 疑問と共に問い掛けると、エリカはまるで、自慢の弟の功績を話す姉のように、
「女の子を暴漢から救ったって話じゃない! 今、里はその話で持ちきりよ!」
「……」
「これで、キミを『奇人』だなんて思う人は居なくなった筈だわ。本当に良かった!」
 そう心から嬉しそうに言って、「っと、こうしちゃいられない! あたしはこれで失礼するね!」という言葉と共にエリカが去っていく。あの様子を見るに、里の誰かに今の話をしに行くつもりなのだろう。
 それを止める事も出来ないまま、その後ろ姿を呆然と眺める。
 昨晩、俺はリラを助け、そしてファイ達に勘違いで襲われた。その後、里の男達がやって来て、俺は面倒から逃げるように小屋へと戻った。だがあの時、ファイ達が小屋へやって来るまでに時間があった。それは恐らく、リラが動けるようになるまでの時間だったのだろうが……彼等はその間に、里の男達から説明を求められたに違いない。結果、『奇人』がリラを助けた、という話が男達によって里に伝えられ、最終的には『英雄』だなんて大層な扱いにまで変化してしまったのだろう。
 当人にそんなつもりは無い上に、捕まった暴漢がどうなったのか、という事の顛末すら知らないというのに。
「……とはいえ、どうしてこんな事に」
 今までは『奇人』だと忌み嫌っていた相手だというのに、たった一つの功績で印象が反転するものだろうか? そう考えて、人間の認識なんてそんなものか、と溜め息と共に納得する。
 そもそも『奇人』という蔑称は、部外者である俺を差別する意味合いで使われ始めた言葉だ。けれど今回の事で俺は里に害を為さないのだと判断され、そして恐らくエリカが「やっぱり彼は良い人だったのよ!」と言い回り、その認識を一変させたのだろう。
 そう考えると、『英雄』だなんて言い出したのもエリカである可能性が高いような気がする。その好意は嬉しいものの、流石にそれは勘弁して欲しかった。
 ともあれ、気苦労の種が増えたのは確かだ。途端に心労が襲い掛かってきて、それから逃れるように宿屋の壁へともたれ掛かる。自然と溜め息が出た。
 そして俺は、「ご愁傷様」という白猫の声にうな垂れる事で答えながら、この状況でリラと逢う危険性を考える。もしこのまま彼女と逢えば、『英雄』と被害者少女の関係に様々な憶測が為される可能性が高い。今も話が拡がっている最中だろうから、それは確実に妙な噂を――なんて、暢気に考えていたところへ、
「あ、あの、」
 まるでデジャブのような声が掛けられ……思わず閉じてしまっていた目を開けば、あの日と同じように小柄な少女が立っていた。
 目が合う。 
 日に焼けていない白い肌に、青い瞳。風に揺れる長い髪は、この地方では珍しい金の混じった淡い茶色をしていて――そして、手には魔法使いの証である杖がしっかりと握られていた。
 まるで同じ。しかしその表情は、あの日のそれよりも幾分か硬い。それが緊張によるものなのか、或いはそれ以外の要因なのか、心を読む魔法を知らない俺には知る由もない……と、現実逃避気味に思考を重ねていると、リラが軽く頭を下げた。
「昨日は、有り難う御座いました」
「いや、それはもう良い」言って、俺はポケットの中にあるものを取り出し、「忘れ物だ。ベッドの脇に落ちていた」
 そう告げる俺をまじまじと見つめ、そして思い出したかのようにリラが胸元へと手を当てる。そして、そこにある筈の物が無いと気付いたのか、
「全く気付きませんでした……。度々、有り難う、御座います」
 ネックレスを受け取りながら、リラがそう呟く。けれどその言葉尻に違和感を感じて、何気なくその手元に視線を向けると、鎖の接続部が歪んで壊れてしまっていた。
 恐らく、暴漢に過度の力で引っ張られ、引き千切られてしまったのだろう。それでも洋服に引っ掛かっていて……俺のベッドに腰掛けた際に落下した、といったところだろうか。
 そう思う俺の前でリラは暫し俯き、千切れたペンダントを大事そうに洋服のポケットへと仕舞った。そんな彼女を慰めるように白猫が小さく鳴き、それに答えるようにリラがしゃがみ込み、その毛並みをゆっくりと撫でていく。
 そうしてどうにか落ち着いたのか、立ち上がり、再び俺へと向けられた瞳には、強い意志が宿っていた。
「もう泣きません。今日は昨日よりもずっと危険な場所へ向かいますから」
 それはつまり、南の森へ向かうという事なのだろう。その瞳にある決意は、そこにある危険も覚悟との上だと語っていた。
 けれど、所詮決意は決意だ。その声には恐怖が感じられるし、杖を握り締めている手には余計な力が入っているように見える。自分で思っているほど、彼女は強くないのだ。
 とはいえ、俺には関係の無い事だ。ペンダントをリラに返した以上、もう彼女と関わる理由も無い。さっさと家に帰って飯を――と、そう考える俺を前に、リラが言葉を続けていく。
「それに、貴方が干渉を嫌う事も解りました。でも、一つだけ頼みたい事があるんです」
「頼み?」
「はい。――貴方に、南の森の案内をお願いしたいんです」
 予想もしていなかったその言葉に、俺はペンダントを届けに来てしまった事を強く後悔する。
 こうした面倒は、俺が一番忌避していたものだったのだから。





――――――――――――――――――――――――――――
次へ

戻る

――――――――――――――――――――――――――――
目次

top