五月蝿い世界の不器用な二人。

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□二章。

 目を覚ました時、最初に感じたのは『夢を見なかった』という違和感だった。
 普段ならば涙する白雪から逃げるように目覚めるというのに、今日はそれが無かった。それに喜べば良いのか、悲しめば良いのか解らないまま、俺は体を起こそうとし……右腕の辺りに何か違和感がある事に気付き、布団を捲り上げた。
「……猫?」
 そこには、俺の腕に寄り添うような形で眠る一匹の白い猫の姿があった。
 一瞬思考が繋がらず、停止した頭のままで白猫を眺めていると、その目が薄く開き、
「寒いから、布団……」
「あ、ああ、解った」
 答えて、その体に布団を掛けて……そこで、ようやく思考が普段の状態に戻り、
「って、ちょっと待て。なんでお前が俺の布団の中で眠ってるんだ」
「……昨日は寒かったのよぅ」
 もぞもぞと布団の奥に――俺の体温で暖まっているのだろうそこへと潜り込みながら、白猫は正解を答えているようで答えていない言葉を返してくる。
 そんな彼女に溜め息を吐きつつ、何気なく寝室の入り口へ視線を向けると、扉が見事に半開きだった。どうやら閉め忘れていたらしい。
 俺は何をやっているんだろうか。そう溜め息と共に思いながら、白猫を残してベッドから降りる。
 カーテンの隙間から覗く外は、明るい日差しに満ちていた。



 白猫が起き出して来たのは、溜まっていた洗濯物を干し終えたあとの事だった。
「おはろーう……」
「……何だその挨拶」
「気にしたら負けよー……」
 まるで寝惚けた人間のようなぼんやりとした反応を返しつつ、彼女は昨日と同じように日の当たる窓の下へ。そのまま二度寝を始めそうなその姿に呆れなながら、俺は朝食の残りを皿に盛ってやると、丸くなった白猫の近くへ置いておいた。
 去り際にその白い毛並みを軽く撫でると、俺は部屋の隅に置いてある木箱を一つ手に取り、そのまま果物を積んだ籠の隣へと腰掛ける。そして、緩衝材を詰め込んである木箱の中へ、出来るだけ傷が少なく、形の良いものを詰め込んでいく。
 果物の種類は林檎が多く、手に取る赤は目にも鮮やかだ。慣れつつある作業の片手間、卸すには問題のあるそれを齧ると、甘みと酸味が口いっぱいに広がった。
「美味いな」
 無意識に呟きながら、白雪も林檎が好きだった事を思い出す。過去の俺は果物に対する興味が薄く、彼女には良くその美味しさや種類などを説かれたものだ。その結果こうして果物を卸す仕事を行っているのだから、人生何が役に立つか解らない。
 そうして作業を続けていると、「何やってるの」という声と共に白猫がやって来た。
「箱詰めだ。今日はこれを里へ卸しに行くんでな」
「ああ、昨日言ってたアレね。あと、ご飯ご馳走様。今朝のも美味しかったわ」
 その言葉に頷くように背後を見ると、用意した朝食は綺麗に無くなっていた。昨日言っていた通り、もう俺の事は警戒していないらしい。
 そんな事を思いながら作業を再開し……ふと、ある疑問が思い浮かび、俺は傷ありの林檎を前足で転がしている白猫へと視線を向け、
「そういえば、お前の名前は?」
「無いわ」
 そう、白猫は当たり前のように言い、
「私は誰かに飼われていた猫じゃないからね。元々名前なんて持ってないの。……で、アンタの名前は?」
 聞かれたから聞いてみる、と言わんばかりにいう白猫に、俺は普段のように答えを返す。
「……置いてきた」
「置いてきた?」
 なにそれ、という表情をしている彼女に、俺は胸が痛むのを感じながら、
「大切な人のところに置いてきて、もうそれきりになっているんだ。だから、俺もお前と同じように名前が無いんだよ」
 そしてそれは、もう二度と俺のところに戻ってくる事は無いのだろう。
「じゃあ、アンタの事は何て呼べば良いの?」
「好きなように。俺もそうさせて貰うさ」
 そう答えつつも、俺は白猫に名前を付けて呼ぶつもりは無かった。何せ彼女は旅の猫なのだ。名前なんて付けられない方が、気軽に旅立てるというものだろう。
「……と、これでよし」
 林檎を詰め終わった木箱に蓋をすると、その場に立ち上がって伸びを一つ。すると、少し意外そうな声が来た。
「あれ、一箱だけなの?」
 そうだ、と答えながら、俺は箱を抱え、
「まずは味を見て貰う。その結果次第で、残りの分を卸すかどうかが決まるんだ」
 もし味が悪いと判断された場合は、今夜から食事に林檎が追加される事になる。とはいえ、そうなった事は今まで一度も無いのだが。
「じゃあ、今日はこれから里に行くのね?」
「そうなるな」
 ついでに、切れ掛けている調味料を買い足そう。そう思いながら箱を玄関に運ぶと、白猫がその上に軽く前足を乗せ、
「じゃあ、私も付いて行くわ。暇だし」
「……出て行く訳じゃ無いんだな」
 少々の呆れと共に呟いて、溜め息を一つ。ともあれ、俺は着替える為に一度寝室へと戻る事にした。



 小屋から歩く事三十分ほど。久しぶりに訪れた人里は、相変わらず長閑な空気に満ちていた。そして、俺に向けられる不審そうな視線も変わらない。まぁ、こちらから打ち解けようという気持ちが無いのだから、それが変化する事は有り得ないのだが。
 そんな事を思いながら、俺は箱を抱えて里の中心部にある青果屋へと向けて歩いていく。すぐ後ろに付いてくる白猫は里に入ってからは一言も言葉を発さず、しかし軽々と人家の塀に飛び乗ってみせる。迂闊に喋って変に思われたくないというだけで、猫らしいその動きを自重するつもりはないらしい。まぁ、猫なのだから仕方ないのか。
 そうして歩いていくと、大きく開けた広場に面するように、この里で唯一の青果屋と、その店先で笑顔を振り撒く店主――エリカ・ホワイトの姿が見えてくる。自給率が高く、食料は買うよりも作る事の多いこの里では、商店というものが成り立ち難い。その為、この青果屋も普段は閑古鳥が鳴いているのだが……今日は数人の女性が商品を眺め、時折手に取りながらエリカから話を聞いていた。
 珍しい事もあったものだ。そう思いながら、俺は店先へと歩いて行き、
「お久しぶりです」
 挨拶と共に軽く頭を下げる。同時に、こちらに気付いたエリカが営業用ではない笑顔を浮かべた。そしてすぐさま女性達に「すみません、少し席を外しますね」と一言断り、俺のところへ嬉しげな微笑みと共にやって来ると、
「久しぶり! 今ね、丁度キミの話をしようとしていたところだったの。取り敢えず、一度店の中へ入って頂戴」
 その言葉に頷き、俺はこちらの様子を窺うような女性達の視線から逃げるように店の奥へ。
 対するエリカは嬉しげな様子のまま、けれど表へと声が響かぬように小さな声で、
「本当に良いタイミングだったわ。表に居るお客様方はね、王都から遥々うちの店にやって来て下さったお得意様なの」
「……お得意様とか、居たんですね」
 思わず本音が出てしまった。対する彼女はそれを気にしないどころか、「今朝になるまであたしも知らなかったけどね」と笑い、
「あの方々はね、キミが持って来てくれる林檎の味に惚れ込んでいるらしいのよ」
「これの味に、ですか」
 言いつつ、店内にある休憩用のテーブルの上へ木箱を乗せて蓋を開ける。そこに詰め込まれた赤に、エリカは「この味にね」と頷き、その一つを手に取ると、
「それに、この林檎はキミにしか採って来る事が出来ない貴重なものだからね。何せあたし達は北の森に入る事が出来ないし」
「それは……まぁ、そうなんですが」
 里の人々は、北の森を『原初の自然が多く残る神聖な場所であり、しかし同時に凶暴なモンスターや獣が生息する危険区域である』と認識している。そんなところから果物を採ってこられるのは、俺のような『モンスターに襲われ難い体質』を持つ者だけなのだ。その為、人々が迂闊に立ち入らないよう、エリカにはその果物が北の森で採られたものだという事実は伏せて販売して貰っていた。そして俺は彼女を通じて森の危険を報告し、人々を危険な森へと近付かせないようにしている――と、エリカに対してはそういう事になっていた。実際には白猫に話した通り、そこに棲む者達に対する理解があれば良いのだが……まぁ、俺にも事情があるのだ。
 そんな事を思いながら、手に取った林檎を一口齧り「ん、美味しい」と幸せそうに呟いているエリカへと視線を向け、
「それで、一体何が『良いタイミング』なんです?」
「あっと、そうだったそうだった! 実はね、この林檎を卸しているのはキミだって事を、この機会に里のみんなにも知って貰おうと思って。そうすれば、『奇人』なんていう悪い印象も無くなっていくでしょうから」
 調味料はともかく、食品は買うよりも作るのが当たり前となっているこの里では、市販されている果物に対する興味が非常に低い。何せ自分の家で作っていたり、隣近所から当たり前に貰ったりするのだ。率先して買おう、という気持ちにはならないのだろう。
 それでも、俺が卸す林檎などの果物は、里の人々にも美味しいと評判なのだとエリカから何度も聞かされてきた。だからこその事なのだと、彼女は言う。
「これがお節介なのは承知してるわ。でも、悪い印象なんてものは、無い方が良いに決まってるとあたしは思うの」
「ですが、俺は……」
 白雪の前から逃げ出し、けれどその思い出にしがみ付き続けている俺は、何かを得る事に酷く臆病になっている。それを失った時の悲しみを、もう味わいたくないからだ。
 エリカとの関係も、彼女のお節介がその大部分を占めている。俺がこうして果物を卸すようになったのも、彼女の発言や行動によるところが大きいのだ。そんな彼女が俺の印象を変えようと人々に働き掛ければ、俺は確実に『奇人』などと呼ばれなくなるだろう。
 だが、それで俺自身が変わる訳ではない。いや、変われる訳ではないのだ。
 そんな風に思っていると、不意に表から声がした。どうやら先程の女性達からお呼び出しが掛かったらしい。俺の返事を待っていたエリカは、それに慌てた様子で視線を向け、
「ごめん、ちょっと待ってて!」
 そう言って木箱から新しい林檎を取り出すと、少々急いで表へと向かっていく。恐らく女性達にもその味を確かめて貰うのだろう。
 俺はその姿を見届けたあと、小さく溜め息を吐く。すると、足元から白猫の声が来た。気が付かなかったが、彼女も一緒に店の中へと入っていたらしい。
「『奇人』だなんて呼ばれてるアンタの相手をするんだから、里でも浮いてるタイプの人なのかと思ってたけど……この店の店主だったのね」
「エリカの事を知ってるのか」
「うん。アンタの家に行く前に、一度だけご飯を貰った事があったの。でも、アンタも隅に置けないわね。性格も良くて胸も大きい美人をたぶらかすなんて」
 そうからかうように言う白猫に溜め息を返す。
 確かにエリカはスタイルが良く、美人だ。俺と違って人望もあるし、栗色の髪をふわりと揺らして働く様は純粋に綺麗だと感じる(そんな彼女と親しげに話しているからか、里の若い男達からは不審そうを通り越して睨まれる事が多々あった)。
 しかし、俺にしてみれば、
「……お節介なだけだ」
 どれだけ親身にされても、俺から返せるものは何も無いのだから。そう思う俺に、白猫は「あらそう」とあしらうように言う。しかし次の言葉は、少しだけ真剣な色があった。
「さっきの提案を断るのも面倒臭い? 人間嫌いの奇人さん」
「いや、ただ怖いだけさ、喋る猫」
 誰かと新しい関係を築く、という昔は当たり前に出来ていた事が、今ではとても恐ろしいのだ。……それに、俺はこれ以上里の人々と馴れ合う気は無かった。
「心配してくれるエリカには悪いが、俺はこのままで良いと思っているんだ。『奇人』だ何だと言われようと、俺は気にしていないからな」
「なら、好きにすれば良いんじゃない?」
 興味が消えた、といった風に白猫が言い、しかし俺の足元から離れない。何となしにその背中を軽く撫でると、逃げる事は無かった。
 そうして、無言のままに白猫を軽く撫でていると、嬉しげな笑みと共にエリカが戻ってきた。
「予想通り大好評だったわ! って、その猫は?」
「すみません、店内に入れてしまって」と、そう答えながら白猫を抱き上げ、コイツの事をどう説明しようかと考え始め、
「驚いた、その猫は君が飼ってたのね」
「え、や、その……」
「里にはそんな真っ白な猫は居ないもの。珍しいと思ってたんだけど、そうか、キミの猫だったのね」
 と、何故か納得されてしまった。いや、確かに俺は猫が好きだし、里に居る猫を時折撫でていた事もあったが、この妙な納得は何なのだろう。まさか、動物に好かれるのは優しい人物である証拠、なんて事を考えているのだろうか。……エリカの事だ、その可能性が高そうだった。
 そうして言い訳の機会を失った俺は、それでもエリカの優しいお節介を断った。
 確かに、それによって『奇人』という評価は変わるかもしれない。けれど、もしそうならなかった場合、この店は『奇人』の採って来た果物を売っている、という悪評が立つ可能性があるのだ。俺はエリカにそういった迷惑を掛けたくなかった。
 そんな俺の言葉に、エリカは悲しそうにしながらも納得してくれた。けれどすぐに諦められる話ではないのか、彼女はまだ表に居るのだという女性達に俺を紹介しようとし――俺はそれを止まらせると、余計な混乱を招かぬよう、店の裏手出口から帰る事にしたのだった。



 青果屋を出る際、エリカから残りの林檎を卸して欲しいという依頼と、今日持ってきた林檎一箱分の報酬を貰った。確認すると普段よりも一割ほど多く、
「これからもよろしく、という事で」
 そう笑うエリカが眩しくて、どうにも居た堪れなくなる。
 俺は明日までに残りの林檎を箱詰めしておく事を告げると、複雑な気分のまま歩き出し、そのまま雑貨屋へと向かった。
 王都から仕入れた物品を数多く取り扱っているこの店は、里で唯一精製された調味料を買う事が出来る。その分値段も張るが、俺の場合、ここで買う以外に入手方法が無いのだから仕方がない。
 切れ掛けていた塩や砂糖などを買い、店を出ると、広場にある長椅子へと腰掛けた。途端、遊んでいた子供を見守る親達の視線がこちらに向いたが、それを無視。ゆらゆらと飛んでいる蝶に目を奪われている白猫を太股の上に乗せると、煙草を一本取り出した。
 少し折れ曲がっているそれを軽く直してから火を点けて、肺を紫煙で汚していく。
 深く吸ったそれを吐き出すと、まるで溜め息のようで。何となしに白猫へと視線を落とすと、「臭い」と一蹴されてしまった。
 そういえば、白雪も煙草は嫌いだった。それなのに、どうして俺はこんなものを吸い始めたのだろう。その切っ掛けを思い出せない。そんな事を、俺はぼんやりと考え……
「あ、あの、」
 という声が聞こえてきたのは、二本目の煙草が半分以上灰に変わった頃の事だった。
 明らかに俺へと向けられたその声に視線を上げると、そこには小柄な少女が立っていた。
 目が合う。
 日に焼けていない白い肌に、青い瞳。風に揺れる長い髪は、この地方では珍しい金の混じった淡い茶色をしていて――そして、手には魔法使いの証である杖がしっかりと握られていた。
「そ、その、それを売っているお店は、どこにあるのでしょうか」
 それ、という言葉と共におずおずと指された指の先には、先程買った調味料の袋が覗いていて、
「……これか?」
 言いながら塩の袋を取り出すと、少女は「そうです」と頷き、
「私、この里にやって来たのは初めて、どこにどのお店があるのか解らなくて……」
 と、恥ずかしげに呟いた。その様子によくよく見れば、少女の着ている服はこの地方の染物には見られない独特の色合いをしていた。恐らく彼女は旅人なのだろう。
 塩は旅の必需品だと聞くし、立ち寄ったこの里で買っておこうという考えなのかもしれない。そんな風に思いながら、俺は少女に雑貨屋の場所を教えていく(旅人なんて殆どやってこない為か、里にある店は宿屋以外看板を掲げていないのだ)。
 少女は俺の言葉に頷き、そして春の日差しのような柔らかな笑顔を浮かべると、
「有り難う御座います」
 という言葉と共に頭を下げ、雑貨屋へと向けて歩いていく。
 何気なくその背中を見送ると、「可愛い子ねぇ」という声が太股の上から聞こえて来た。
「そうだな」
「あら、淡白な反応」
「興味が無いからな」
 そう答えると、白猫は「え、」という驚きの声を上げ、
「……ま、まさか、男色なの?」
 何故か楽しげな色を持って問い掛けて来る彼女に俺は溜め息を吐き、
「違う。そういう意味じゃない」
 恋も愛も、白雪と共に失った。だからもう、誰かに興味を抱いたり、好きになったりするのは止めたのだ。

■ 

 小屋に戻った頃には、もう日が沈み掛けていた。
 段々と暗くなっていく中、部屋の明かりを普段よりも多く点し、林檎を木箱に詰める作業を行っていく。林檎の数自体はそこまで多くないものの、形の綺麗なもの、傷の無いものを選び出し、そしてその大きさを揃えて詰め込んでいく作業はどうしても時間が掛かる。
 黙々と、しかし時折白猫と会話をしながら、林檎の山を崩していく。
「ねぇ、傷物はどうするの?」
「必要ならそれも持って行く。エリカがジャムにして売っているらしいんでな」
「ふぅん。……あ、そういえば、昼間調味料と一緒に何か買ってたでしょ。あれなに?」
 目敏いな。そう思いながらも、俺は無意識に本棚のある寝室へと視線を向け、
「絵本だ」
「えほん? また可愛らし――」
「可愛くない」断言し、「俺は元々この地方の出じゃないんだ。だからこうしてある程度喋る事は出来ても、読み書きが殆ど出来ない。まぁ、この一年で新聞を読める程度にはなったが……ともかく、その勉強の為に絵本を読んでいるんだ」
 その教本に絵本を選んだのは、子供向けの本ならばその表現も簡単で、読み易く勉強し易いから。これもまた、白雪から教えて貰った事だった。
 しかし、対する白猫はつまらなそうに、
「なんだ、勉強の為か。可愛くない」
「可愛さなんて求めてない」
「だからって愛想が無いのもどうかと思うけどね。……で、何を買ってきたの?」
 つまらなそうな顔から一転、俺がどんな絵本を読むのか気になるのか、少々期待に満ちた目で聞いてくる。それに面倒臭さを感じながらも、俺は寝室から買ってきたばかりの絵本を持ってくると、「これだ」と呟きつつ白猫の前へと置いた。
 どうせ表紙を見せたところで内容までは解らないだろう。そう踏んでいたのだが、
「あ、このお話なら知ってるわ。魔女の持ってきた毒林檎を食べたお姫様が、王子様のキスで目覚めるのよね」
「……何で知ってるんだ」
 猫の癖に。そう思いながら、俺も絵本に視線を向ける。それは白雪が好きだと言っていた、彼女と同じ名前のお姫様が登場する物語だった。
 当時白雪がその話をしてくれた時、
『「世界で最も美しい女性は?」っていう問い掛けに、自分と同じ名前の女の子が選ばれるのが何だか嬉しかったの。まぁ、子供の頃の話だけどね』
 そう楽しげに言っていたのを覚えていて、いつか買おうと思っていた作品だったのだ。
 対する白猫は「人間並みの知識はあるのよねー、これでも」と少々恐ろしくも感じる事をさらりと言ってから、
「でも、どうしてキスなのかしらね。元々は林檎の欠片を吐き出して目覚めた筈だけど」
「そう疑問に思う事か?」
 魔法と呼ばれる技術の中には、相手を眠らせたり、その姿を別のものに変えたり、強大な腕力や脚力持たせたりと、対象に特定の効果を与えるものが存在する。
 それらの解除は、時間の経過か、或いは事前に定めた方法によって行われる場合が多い。例えば『水を浴びる』『満月を眺める』『三回回ってワンと鳴く』など、そういった様々な切っ掛けをあらかじめ決めておき、不測の事態が起きた際にすぐに対処出来るようにするのだ。
 逆にそれは、相手に実行不可能な条件を指定した上で魔法を掛ける、という事も可能で、罪人などはそうして捕らえられる事もあるという。だから、
「その絵本の魔女は、目覚めの切っ掛けに『キス』を選んでいただけだろ」
「えー。キスなんて誰とでも出来るじゃない」
「お姫様の事を心から愛する者のキス、とかだったんじゃないか? それなら簡単には目覚めない。高度な魔法は他人の気持ちすらも感知するって話だからな」
 まぁ、これも全て白雪からの受け売りなのだが。
 と、白猫が絵本から俺へと視線を向け、
「……アンタ、結構ロマンチックな考え方をするのね」
「そんな事はないさ」
 ただ、『愛する人とのキス』を解除の切っ掛けにしていた魔女を一人、知っているだけなのだ。
「しかし、お前はなんでそんな事を知っているんだ。昔の事は覚えていないと言ってなかったか?」
 昨日、確かにそう聞いた気がするのだが。そう思いながら俺は作業を再開する。対する白猫は胡坐を組んだ俺の脚の上へと我が物顔でやって来ると、そこで丸くなり、
「知識はあるけど記憶は無いって感じかしら。まぁ、記憶喪失みたいなものじゃない?」
「他人事だな。あと重いから退いてくれ」
「失礼ね、レディに体重の事を言うなんて」
「猫が何を言う」
 本当に調子が狂う。仕方なく白猫をそのままに作業を始め……その合間合間に彼女の様子を窺うと、あろう事か俺の脚の上で眠ってしまっているようだった。
 それに溜め息を吐きつつも、言うほど重くないのでそのまま作業を続ける。すると、不意に白猫が顔を上げ、
「……なんでだろ、ここに居ると落ち着くわ。心地良いってこんな感じなのね」
「それが俺の脚の上か」
「うん。……というか、脚の上もそうだけど、アンタの側に居ると不思議と安心出来るのよ。今までこんな事無かったんだけど……」
 そう言って、白猫が俺の腹へと顔を押し付けてくる。甘えるようなその姿に、俺は思わずその頭を撫でてやりながら、
「お前が覚えていないだけで、俺を誰かと錯覚しているんじゃないか? 例えば、昔の飼い主が俺のような背格好だったとか」
「多分、違うわ」そう言って白猫が顔を上げ、「あのね、私が心地良いと感じてるのは、アンタとこうしてる時の空気なの。或いは『匂い』って言っても良いわね」
「におい?」
 どういう事だろうか。そう思いながら問い返すと、彼女は再び俺の腹へと顔を押し付け、
「匂いっていうのはね、記憶を想起させるものでもあるの。もっと解り易く言うと……例えばどこかへ外出してから帰宅した時、玄関を開けてこの小屋の空気を感じると、何だか『帰ってきた』って思えるでしょ? それはこの小屋の匂いを『家のにおい』だと認識しているからなのよ」
 俺が普段感じるのは、小屋に使われている木々の匂いと、そこに染み付いてしまった煙草の臭い。言われてみれば、確かに俺はそれを『家のにおい』だと感じて生活していた。
「同じように、リラックスする匂いや、苛々してしまう臭いとかもあるわ。まぁ、どの匂いにどんな感情を得るかはその人次第なんだけどね。
で、私にしてみると、アンタからはどこか懐かしい匂いがするのよ」
「俺はお前を飼っていた記憶は無いんだが」
「私も誰かに飼われていた記憶は無いわ。でも、懐かしいと思わせる何かがアンタにはあるの。だからこうしていると何かを思い出せそうな気がするんだけど……」
 そうして白猫が小さく唸り出す。しかし、すぐに「でもなー」と呟くと、
「……なんか、どうでも良くなってきちゃった」
「なんだそれは」
 少々呆れながら答えると、彼女はもぞもぞと丸くなり直しながら、
「アンタの近くに居ると思考能力を奪われるっていうか何ていうか……心地良くて何も考えられなくなるのよね。こんなの初めてだから、上手く説明出来ないわ」
 どうやら本気で説明出来ないのか、白猫はそのまま黙り込んでしまった。その様子に溜め息を吐きつつも、俺はその頭をそっと撫でると、
「……まぁ、言わんとする事は解るがな」
 彼女に聞こえぬよう、小さく呟く。何だかんだ言いつつ、俺も白猫と過ごすこの空気に心地良さを感じ始めているのだ。
 どこか懐かしくもあるそれは、白雪と暮らしていた頃のものと似ている。だからこそ、俺はそれを意識しないように決めると、林檎の箱詰め作業を再開する事にした。
 いくら懐かしくても、もう白雪との生活は戻ってこない。その現実に、押し潰されてしまわぬように。

 そうやって作業を続ける事数時間。途中夕飯や入浴を挟み、一段落付いたところで眠りに就く事にした。残りは明日の朝で十分間に合うだろう。
「それじゃ、おやすみなさい」
「……いや、ちょっと待て」
「なによぅ」
 戸締りを終えて寝室に戻ると、ベッドの上には当然のような顔で丸くなる白猫の姿があった。
「ほら、今晩は冷えるし、こうすれば少しは暖を取れるわ」
「お前が俺で暖を取りたいだけだろ……」
「暖め合うって、素敵じゃない?」
 なんて、意味の良く解らない事を言って白猫が目を閉じる。取り敢えずベッドに腰掛け、これ見よがしに大きく溜め息を吐いてみるものの、既に眠りへと落ちようとしている相手に通じる訳もなく。
 調子が狂うのを感じながら、仕方なく横になる。
 まさかその翌日も、夢を見ずに目覚める事になるとは思わないまま。





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