五月蝿い世界の不器用な二人。

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□一章。

 大好きな人がいる。彼女の為ならば世界を敵に回しても良いと思えるほどに、強く想い焦がれた人がいる。
 俺は今でも彼女の事を――白雪の事を想っていて、だからこそ何も出来ない自分が大嫌いだった。
 深い闇の中、彼女との記憶を――その喜びに溢れる笑みを、迫力の無い怒りを、淋しげな哀しみを、楽しそうな微笑みを――何度も何度も思い出す。けれど、その暖かな思い出の最後に現れるのは、いつも決まって、苦しげに悲しげに涙を流すあの夜の姿――
「――ッ!」
 跳ねるように体を起こした瞬間、それが夢なのだと気が付いた。
 荒れた息を吐きながら、俺は壁に拳を叩き付ける。不甲斐無い自分が酷く苛立たしく、そして情けない。自責の念に駆られながら起き上がると、そのまま外へ出た。
 煌々と輝く太陽から逃げるように小屋の裏手へと回り、そこにある井戸から水を組み上げる。その冷たい水で顔を洗い、喉を潤すと、幾分か落ち着く事が出来た。
 そして溜め息と共に桶を井戸の中へと放り落とす。勢い良く滑車が回り、派手な水音が周囲に響いた。
「……俺は、何をやっているんだろうな」
 苛立ちとも、焦りとも違う、諦めなような一言が漏れる。白雪の前から逃げ出したのは誰でもない自分だというのに、未だに彼女を想い続けているのだ。それがどれだけ彼女を傷付け、そして自分自身を傷付けたのか理解している筈なのに。
 沈み込んだ気分のまま、俺は小屋の中へと戻っていく。
 どれだけ絶望しようと、後悔しようと、動き始めれば腹が減る。その事実がどうしようもなく嫌で、それでも食事を作ろうとしている自分を殺したくなった。だが、俺には自殺をする勇気も、白雪の居るこの世界から消える根性も無い。
 我ながら最悪だ。そう思いながら窓を開け、換気を良くしてから台所へ。そして漫然と朝食の事を考えながら椅子に腰掛けると、手製の煙草に火を点けた。
 深くそれを吸い、溜め息と共に紫煙を吐き出す。
「……」
 まるで代わり映えのしない風景。
 掛け替えのない存在を失った虚ろな日常。
 そんな、気が狂いそうなほどに単調に過ぎていく毎日は、今日も変わらずに続いていく。
 変わらなければ、とは思うものの動き出せない。俺には、白雪を過去にする事が出来そうにないのだ。だから今日も昨日と同じような一日が過ぎていくのだと思い……しかしその矢先、普段とは違う出来事が舞い込んで来た。
「……ん?」
 吐いた紫煙の先。開け放った窓の外から、何かを引っ掻くような小さな音がする。何だろうか、とそれに意識を向けた瞬間、窓の向こうから白い塊が飛び込んできた。
 それは、雪のように白く美しい毛並みを持つ猫だった。だが、飛び込んだ窓の先に誰か居るとは思わなかったのか、その白猫は俺を見て僅かに動きを止め……しかし、すぐに何事も無かったかのように視線を逸らすと、そのまま我が物顔で日向へ向かって歩き出した。
 何か嫌な予感がしつつもその姿を眺めていると、白猫はこの小屋で一番日の当たる場所へと移動し、あろう事かそこで丸くなってしまった。
 猫は一日の大半を寝て過ごすと聞いた事があったが、まさか縄張りですらない場所で勝手に昼寝を始めるほど傲慢な存在だとは思わなかった。俺は煙草を灰皿に押し付けて火を消すと、面倒臭さを感じながらも椅子から立ち上がり、白猫へと近付いた。
 が、近付けば逃げるだろうという俺の考えとは裏腹に、白猫は気持ち良さそうに目を瞑り、ぱたりと尻尾を動かしただけだった。まるで動じた様子が無い。
 良い神経をしているな。そう思いながら、俺はその短い尻尾を眺めつつ膝を折り、白猫の背中を軽く撫でてみた。だが、それでも白猫は逃げ出さない。……むしろ、俺の方がその柔らかな毛並みの魔力にやられてしまい、そのまま撫で続けていたくなる衝動に駆られてしまった。
「まぁ、猫は嫌いじゃないからな」
 誰にともなく呟いて、以前白雪がそうしていたように白猫を撫で、そして抱きかかえる。思い返してみると、白雪は猫に好かれやすい人間だったようで、城に迷い込んだ猫が居ては良く遊び相手になっていた。俺がそこに混ざる事は無かったが、猫と戯れる彼女の姿はとても楽しげだったのを覚えている。
 まぁ、そうでなくとも猫は可愛いが、しかし飼ってやれるほどの余裕は無い。残念だが、家から出て行って貰おう。そう思いながら立ち上がった瞬間、
「ちょっと止めてよ」
 という若い女の声が聞こえてきて、俺は動きを止めた。その声はとても近い位置から聞こえて――具体的に言えば抱いている白猫の辺りからだ――訝しみながらも視線を落とすと、白猫と目が合った。
 右目が空色。左目が若葉色のオッドアイ。その瞳孔は細められ、まるで睨むように俺を見ている。
「……まさかな」
 喋る獣の友人は居るが、アイツはモンスターに分類される存在だ。まさかただの猫が喋るなんて事はあるまい。俺はそれを馬鹿げた考えだと切り捨て、しかし声の出所を探る為に白猫が入り込んで来た窓へと向かう。
 もしかしたら飼い主でも居るのかもしれない。そう思いながら窓の外を見てみるものの、そこから拡がる風景に人間の姿は無かった。試しに「誰か居るのか?」と問い掛けてみても、何の言葉も返って来ない。
 仕方なく、一度外に出て小屋の周りを確認する。
 玄関周辺、裏手にある井戸の周り、畑、森へと続く小道、里へと続く道。それぞれを順番に見て回るも、どこにも人影は無かった。
「何だったんだ、一体」
 空耳か何かだったのだろうか。それにしてはやけにはっきりと聞こえたが……。そう思いながら白猫を地面へ下ろすと、最後にその頭を軽く撫でて小屋へと戻った。
 そうして玄関の扉を閉めようとしたところで、するりと白猫がその隙間から中へと入り込んでしまった。
「……お前を飼うつもりは無いんだ」
 溜め息と共にそう告げると、俺はその首根っこを掴み上げる。途端に白猫が暴れ出すもそれを無視し、そのまま外へ――
「ちょ、ちょっと止めて! 止めてってば!」
 外に出ようとした瞬間、先程聞こえた少女の声が狭い玄関内に大きく響き渡り、思わず手を放してしまった。咄嗟に『危ない』と思う俺の目の前で、しかし白猫は何事も無かったかのように綺麗に着地すると、呆然とする俺へと視線を上げ、
「全くもう。少しぐらい寝かせてくれたって良いじゃない。こう見えても、私結構疲れてるんだから」
「……」
「ちょっと、聞いてる?」
「あ、ああ、聞いてはいるが……」
 猫が喋っている、という状況に対する驚きが大きく、上手く思考が回らない。対する白猫はその場で伸びをしてから、
「取り敢えず、さっきの場所に戻って良い? 説明はそこでするから」



 そうして再び白猫が窓の側で丸くなり、対する俺は椅子に座って煙草に火を点けていた。
 まるで数分前の焼き増しのようだな。そう思いながらも煙草を吸い、頭を落ち着かせると、俺は白猫へと問い掛ける。
「取り敢えず、最初の質問だ。……お前は喋る事が出来るんだな?」
「そうよ」言って、白猫はごろりと寝返りを打ち、「だから、これは幻聴とかじゃないから安心して」
「笑えない冗談だな。なら、どうして喋る事が出来るんだ」
「さぁ、気付いた時にはこうして喋れたから良く解らないわ。まぁ、昔に何かあったのかもね。覚えてないけど」
 興味が無い、と言わんばかりに白猫が言う。ともあれ、彼女はただの猫ではなかったという訳だ。
 では、一体何なのだろう。喋る猫など有り得ない、とは考えたが、それは自然発生する可能性が少ないという事であって、 実際には人間の言葉を理解する獣は存在している(といっても、そういった獣は同時に知性も高くなるから、そうそう人前に姿を現さなくなるものなのだが)。
 それ以外に考えられるのは使い魔だろうか。使い魔とは、主に魔女や魔法使いが己の研究の手助けや、自身の守護を任せる為に使役する存在の事だ。犬や猫、そして鳥などに魔法を掛け、高度な知恵を与える事で生み出されるそれは、人間と同様に物事を考えられるほどの高い知性を持つという。しかし、中には無理矢理使い魔にされた挙句、主人である魔女や魔法使いとの折り合いが付かずに逃げ出す獣も居るらしい。つまり、そうして逃げ出して来た使い魔の一匹がこの白猫なのではないだろうか。
 或いは……と、そう考えてみるものの、当の白猫が『覚えていない』と言っている以上、俺が勝手に想像を膨らませた所で意味が無いと気が付いた。
 もしそれが嘘だったとしても、詳しく問い質す気は無いのだ。次の質問に移る事にしよう。
「なら、どうして家の中に入って来たんだ?」
「眠かったの。あと、ここには他人に無関心な人間が居るって噂を里で聞いたから」
 こういった長閑な場所にある里や村では、王都などとは違い、近所付き合いというものが尊重される傾向にある。その為、里に住まう者達全員が家族である、といった考えがあり……里から離れて勝手に生活している俺は、彼等に『奇人』として見られていた。そこから白猫の聞いた噂が出来上がったのだろう。まぁ、実際に無関心なので文句も言えないのだが。
 里へと向かう度に向けられる不審そうな視線を思い出し、溜め息と共に脳裏から消していく。とはいえ、もう収穫の時期だ。今日は予定通り森に入って果物を貰い、明日にも里へ顔を出さなければ。
 そんな事を考える俺を前に、白猫の眠たげな声が続いていく。
「それにね、私は旅の猫なのよ。だから、今晩はここに泊めて貰おうかと思って」
「俺の意思は無視か」
「良いじゃない、こんな小さな体を寝かせてくれるぐらい。……あ、ご飯は自分でどうにかするし、夜中にいびきを掻いたりしないから安心して」
「そういう問題じゃない」
 煙草を灰皿に押し付けながら白猫を睨むと、その色違いの瞳と目が合った。
「じゃあ、何が問題なの?」
「……それは、」
 改めて問われて、そこで気付く。一体、何が問題なのだろう。
 こうして無様に暮らしている俺には、白雪との思い出以外に失うものは何も無いというのに。
「答えが出ない? なら、その答えが出るまで私はここに居させて貰うわ」
 すぐに答えられなかった俺へとそう言って、白猫が目を閉じる。それでも何か言葉を返そうとするも、彼女はすぐに小さく寝息を立て始めてしまったのだった。



 そうして、夜。
 何事も無かったかのように時間は過ぎ去り、俺は夕飯の準備を始めていた。
 白猫はあれからずっと眠り続けていて、確かにいびきの一つも掻かなかった。まるで元から俺に飼われていたかのように、静かに寝息を――と、そう思う背中に鳴き声が一つ。
「……起きたのか」
 振り向いた先には、台所へとのんびり歩いてくる白猫の姿があった。彼女は椅子の近くで立ち止まり、ぐ、と伸びをすると、何かを乞うように再び鳴いてみせた。
 小さく響くそれは、人間の言葉を操っていた場所から発せられているとは思えないほどにか細く、嫌に耳に残る。その姿はどこをどう見てもただの猫で、数時間前の会話が本当に幻聴だったかのようだ。
 思わずその細い体に手を伸ばし、優しく撫でていく。
「暖かいな」
 日に当たっていたから、という訳では無い、生き物の暖かさ。久しく忘れていたそれに心の奥が疼くのを感じながら、その頭を軽く撫で……俺はある事を思い付き、台所へと戻った。
 そして保存してあった牛乳を温めると、それを皿へと移し、顔を洗っている白猫の前へと置いた。彼女はそれを一瞥したあと、少々睨むようにしてこちらを見上げてくる。その視線を受けながら、俺は余った牛乳を自分のマグカップへと注ぎつつ、
「飲めよ。そのまま喋る気が無いならな」
「……アンタ、解ってやってるでしょ」
 そう文句有りげに言って、白猫が逃げるように椅子の上へ。その様子に笑みという、酷く久しぶりなものを浮かべながら、俺は皿を手に取り、
「何だ、牛乳は嫌いか?」
「好きとか嫌いとかそういうのじゃないの」
 不貞腐れたように白猫が言う。猫は牛乳に弱く、すぐに下痢を起こしやすい。どうせ巫山戯て喋らないでいるのだろうから、少し嫌がらせをしてやったのだ。
 久々に愉快な気分になるのを感じながら、皿の牛乳もマグカップへと注ぐと、俺はそれを飲み干し――椅子に腰掛けた瞬間、何故俺は笑っているのだろう、なんて事を考えてしまって、
「……どうしたの?」
 そう問い掛けてくる白猫に返せたのは、軽く降った首と、深い溜め息。
 胸が、酷く、痛む。
 ただこうして笑う事すら、白雪に対する後悔へと繋がる。彼女を傷付けた癖に何をしているのだと、そんな風に思ってしまう。それでも、変わらなければいけないと、そう考えてはいるのだ。
 けれど、そう簡単に変われるほど彼女の存在は小さくなく、その思い出は――あの苦しげで悲しげな表情は、どれだけ時間が過ぎようと、こうして俺の心を強く締め付ける。
 そして俺は、それを前へ進めない理由にしてしまっている。
 この境遇に酔っている訳では無い。悲劇の登場人物を気取るつもりも無い。だが、白雪という存在を言い訳にしてしまっているのは否定出来ない事実で――けれどそれ以上に、俺は今でも彼女の事を愛していて、忘れたくなくて、
「なんでも、無いさ」
 答える声は、どうしても小さくなってしまっていた。
 それはまるで、何かに怯えるかのよう。
「……」
 そう、俺は怖いのだ。
 白雪の前から逃げ出した今、彼女との思い出を失う事がとても恐ろしい。俺にはそれしか残されていないからだ。だから現実から目を逸らし、傷付いた心を癒さぬように絶望を感じながら生きてきた。
 だが、そんな事をしても白雪は喜ばない。むしろ彼女は、自由に羽ばたく事の出来なくなった俺を嘆き、悲しむに違いない。……しかし、そうなってしまった原因は白雪にあるのだ。
「なんでも無い、なんて顔じゃないわ」
 と、聞こえて来た声に意識を向けると、白猫が不安げな顔で俺を見上げていた。
「私、何か気に障るような事をしちゃった?」
「……いや、そういう訳じゃない。ただ、少し昔の事を思い出しただけで……本当に大丈夫だ」
 そう小さく呟き、俺は白猫の頭をそっと撫でた。
 何故だろう。その暖かさに触れていると、不思議と安心する。喋るとはいえ、相手が猫だからだろうか。心の奥底は疼くものの、その痛みは表層に現れてはこなかった。
 そうして暫く白猫を撫でていると、彼女は「大丈夫なら良いけど……」と小さく呟き、
「じゃあ、私はご飯を食べに行ってくるから、その間に元気を出してよね」
 その言葉に「解った」と返事を返しながら、今度はその背中を撫でる。彼女の邪魔をする気はないものの、もう少しだけ、その暖かさを感じていたかった。



 その後、何だかんだで白猫の夕飯も作っていた。
 牛乳の件があったからか最初は警戒していたものの、一口食べ始めてみてからは無言の食事となった。彼女が眠り続けていたのは、空腹から逃れようとしていたからだったのかもしれない。
「そういえば、お前は旅をしていると言っていたな」
 ふと、頭に浮かんだ事を問い掛けてみる。すると白猫は「そーよ」と濡れた口元を舐め、そのまま俺へと視線を向け、
「気になる?」
「言いたくないなら無理には聞かないが」
「……つれないわねぇ」
 まぁ、噂に聞いてた通りだけど。そう小さく呟いて白猫は床に丸くなる。そのまま何も答えずに眠ってしまうのかと思いきや、彼女は静かに語り始めた。
「別に目的なんて無いのよ。ただ、こんな風に喋る猫はどこへ行っても気持ち悪がられるから、決まった住処を作らないで色々な場所へ旅をしているの。そりゃあ、時折アンタみたいに受け入れてくれる人も居るけど、やっぱり長居は出来ないのよね。その人に迷惑を掛けるのが嫌だから」
「その割りには、勝手に人の家に入って来た気がするが」
「アンタはほら、他人に興味が無いって噂を聞いてたから」
 そう言って白猫は笑う。けれどすぐに真剣な表情になると、
「で、アンタはどうして独り暮らしをしてるの? すぐ近くにある北の森にはモンスターが棲んでるって話だし、こんなところで独り暮らしをする利点なんて無いように思えるんだけど」
 そう尋ねてくる言葉には、少なからず警戒の色があった。
 旅をしているという白猫にとって、相手がどんな人物であるのか、というのは大きな問題になるのだろう。もし相手が獣をいたぶる事に快楽を感じるような存在だった場合、例えその人当たりがよくても警戒を解く訳にはいかなくなるからだ。
 自分の命を護る為に、否応無しにその観察眼は鍛えられてきたに違いない。……多分。
 そう、多分。それを断言出来ないのは、今日一日のんびりと眠りこけ、更には毒見をするでも無く夕飯を食べ始めた白猫を見ているからだろう。その様子から考えると、この白猫がそこまで深く物事を考えているのかが疑わしく、過大評価になってしまっている気がするのだ。
 だから聞いてみた。
「それは俺を警戒しての事か?」
「そうよ」
「それにしては、日中のお前はかなり無防備だったが」
 というか、日中も何度かその柔らかな毛並みを撫でている。しかし彼女が起きる気配は全く無く、狸寝入りをしている様子でもなかった(まぁ、猫の寝姿を詳しく観察した事はないが)。
 それらを踏まえて問い掛ける俺に、白猫は短い尻尾をぱたりと揺らし、
「あれ、演技」
 そうあっさりと言ってのけた。
「うとうとしてたのは事実よ? でも、アンタが三回撫でに来たのは解ってるし、今貰った夕飯だって、変な物を入れてないかちゃんと見てたわ」
「……本当か?」
 夕飯はともかく、撫でた回数については、丁度その時に起きていただけではないのだろうか。そんな風に思う俺に対し、白猫は不服そうに、
「嘘を吐いてどうするの。この状況で危険な目に合うのは私の方なのに」
 確かにそれもそうだ。嘘を言ったところで、それで彼女が襲われる危険性は消えないのだから。そう納得する俺へと、白猫は改めて視線を向け、
「それじゃ、アンタがここに住んでる理由を教えて頂戴。それが嘘か本当かは私が判断するから」
「勝手な奴だな……」俺は一つ溜め息を吐き、「……別に深い理由は無い。ただ人間が嫌いだからここに住んでいる。それだけだ」
 大切な人を傷付けた結果、俺は何もかもを失った。その結果辿り着いたのがこの小屋だったというだけで、明確な目的を持ってここに住み始めた訳ではなかった。
「それにな、ここはお前が思っているほど危険じゃない。確かに北の森は危険な場所かもしれないが、それは人間がそこに棲む者達の領域を勝手に侵すからだ。彼等は人間が思っている以上に賢く、そして縄張りを荒らされる事を酷く嫌う。だがそれを理解さえしていれば、森の実りを分けて貰う事だって出来るんだ」
 そう言って向けた視線の先には、昼間の内に収穫してきた果物の山がある。これが今の言葉の証明だと言えるだろう。
「ついでに言えば、俺はこれを売って生活している」
 生きる為には食料が必要で、それを得る為には働くか、或いは作物を育てるかしかない。どれだけ辛い過去があろうと、生き物である以上はその枷から逃れられないのだ。
 とはいえ、この生活を始めた当初はそれすらも苦痛だった。けれど死ぬ事すら出来なかった俺は、いつしか生きていくのに必要なものを得る為に働き出した。
 だが、それだけ。あの日、最愛の恋人の前から逃げ出したように、俺は今も逃げ続けている。
「……まぁ、俺の理由はそんなところだ」
 理由にもなっていないがな。そう付け足すと、白猫は「面白み無いわねぇ」と呟きつつも、
「まぁ、悪いヤツじゃ無さそうだし、警戒は解いてあげるわ」
「別に解かなくても構わないが」
「あら、そんな事言うと、もう撫でさせてあげないわよ?」白猫はそう楽しげに笑い、「ともかく、これでアンタへの警戒は解いたから。それじゃ、おやすみなさい」
 そう言って話を切り上げると、彼女は再び丸くなってしまった。
 その姿に呆れつつも、しかし怒りは湧いてこない。何せ相手は猫だから、心のどこかで許してしまっている自分が居るのかもしれなかった。
「……」
 しかし、白猫が眠りに就き、部屋の中が静かになると、途端に気分が落ち込んでいく。
 それはまるで、深い闇に足元から喰われていくかのようだ。それから逃れようとしているのに、それを阻む自分自身の声が響き渡る。
『己に罰を与え続けなければ、笑う事すら許されない。白雪をあんなにも深く悲しませた俺が、楽しさを感じてはいけない』
 それが自分を護る為の自己満足だと気付いている。そんな事をしても白雪は喜ばないと気付いている。こんな風に生きていても、彼女を笑顔にさせる事が出来ないと気付いている……!
 だが、俺は変わる事が出来ない。白雪の前から逃げ出して、もう一年以上経つというのに。
「……俺は、何をやっているんだろうな」
 無意識にそう呟きながら席を立ち、皿を手に台所へと向かう。残してしまった夕飯は明日の朝食に回すとしよう。
 そうして食器を洗い、酷く沈んだ思考を持ったまま風呂に入った。そして濡れた髪を拭きながら寝室へ向かうと、そのまま明かりを点さずにベッドへと横になる。
 暗い闇の中、浮かんでくるのは楽しげな白雪の姿。眠りに就く時は、いつも決まってその笑顔が頭に浮かんだ。けれどその姿は、過去の様々な記憶を思い返していく内に、いつしか苦しげで悲しげなものへと変わっていってしまう。
「……白雪」
 胸の痛みに耐えながら、今日も夜が更けていく。





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