『Alice』

――――――――――――――――――――――――――――


 
 操る糸は複雑な意図。
 繰り出す攻撃は七色の光劇(こうげき)。
 魔彩光に染まるステージの上、吊られた人形達が動き出す。
 踊れ、
「蓬莱人形」
 光を、放つ。 
 途端、紫が驚きを浮かべた。そこにあるのは困惑の色。何故こんな攻撃を行うのかと、彼女はそう考えているに違いない。その困惑はアリスも同様のようで、『何やってるの?!』と言わんばかりの顔をしている。そんな彼女に大丈夫だと笑みを浮かべて、くるりと廻りながら光を操る。
 打ち付けた部位は痛むけれど、それ以上に懐かしさを感じる。三週間という時間は思っていた以上に長かったみたいだ。そんな風に思いながら、相手を倒そうとする目的が低く、当たっても然程痛くない、煌びやかで美しい弾幕を生み出していく。
 そうして六十秒にも満たないダンスが終わり、一瞬にして弾幕は消え失せる。残された私は、静まり返った境内の中で言葉を紡ぐ。 
「……これが私の世界にある『ルール』よ。貴女達とは違って、私達の勝負はスポーツのようなものなの。そしてこれは、博麗の巫女と共に妖怪達が定めたもの。そんな世界の住民が、この世界に悪影響を与えると思う?」
 まぁ、実際にはこれが幻想郷の勝負の全てではないけれど、そこまで告げる必要は無い。紫ならそのぐらいの事は予測出来てしまうだろう。
 でも、これは証明出来る事では無いけれど、私達が他世界に悪影響を与えられる訳がないのだ。何せあの幻想郷には『勘』なんてもので異変を解決してしまう巫女さんが居るのだから。
 とはいえ、心の中を相手に伝える魔法を知らない以上、これは賭けだ。もしスペルカードルールを、弾幕ごっこというものを否定されたら、現状を好転させるような手段が無くなる事になる。祈るような気持ちで、しかしそれを表面に出さないように毅然と立ちながら、紫の言葉を待つ。
 彼女は困惑の残る表情のまま、私へと一歩近付くと、
「……その札を貸してもらえる?」
 差し出された手へと、少し警戒しつつもスペルカードを手渡す。私には当たり前のものでも、彼女には初めて見るものだ。気になる事があるのかもしれない。
 紫はそれをじっくりと眺めてから、無言のままカードを私に返し、
「……負けても死なず、怪我をする程度で済む勝負、ね。でも、勝負である以上は真剣になる……。確かに、スポーツのような感じね」
 ちょっと派手だけど。そう言って、八雲・紫は初めて微笑みを見せて、
「解ったわ。貴女を――そして貴女の世界の私を信じる事にするわ」
 その言葉と共に、紫の体から警戒が解けた。どうやら私の世界が脅威になる事は無いと理解して貰えたらしい。
 一気に緊張感が抜け、座り込んでしまいそうになるのを耐えながら頭を下げ、「ありがとう」と告げる。そして安堵と共にアリスへと視線を向けると、彼女は呆然とこちらを見ていた。
「なに、それ」
 何が起きたのか理解出来ないといった表情で聞いてくるアリスへと、私は少し自慢げに、
「これも私の扱う魔法よ」
「……あんな攻撃を、詠唱も無しに?」
「そう。それがスペルカードの力。まぁ、賑やかだけどね」
「……呆れたわ」
 そう言ってアリスは全身から力を抜くと、大きく息を吐き、私を睨むようにして、
「そんな隠し玉があるのなら、最初から出しなさいよ」
「減るものだから駄目なの」
「知らないわ、そんなの」
 そう不貞腐れるように言って、アリスがぷぃと顔を逸らす。それはまるで子供みたいで、自然と笑みが浮かんだ。
 と、そんな私へと紫が不思議そうに、
「でも、貴女はどうしてこの世界に? 事故だと言っていたからには、何かがあったのでしょう?」
「それは、その……」
 三週間前、私が陥った状況を説明していく。
 説明しながら、ふと、ここが異世界であるというのは完全に仮説の粋を出ていなかった事に改めて気が付いた。今回の戦闘でこの世界にスペルカードルールが無い事を知ったから、それを証拠にする事が出来るけれど……もしこの世界にスペルカードルールが存在していたら、その仮説を立証する証拠がない上に、私が他世界から来たという事を証明する手段も無くなってしまっていた。
 途端、自分がどれだけ細い綱を渡っていたかに気付いて、今更ながらに恐ろしくなった。
 それが表情に出ていたのか、紫は私を落ち着かせるように、
「大丈夫よ。この世界に、貴女という人物は存在していなかった。もし魔界へと向かっていなかったら、私から貴女の元へ出向いていたわ」
「出向いてって……なら、私がこの世界に来た事に気付いていたの?」
「すぐに気付けた訳ではないけれど、一応ね」
 どのような形であれ、妖怪が一人増えれば幻想郷のバランスが僅かに狂う。彼女はそれを把握して、私へと接触しようとしていたらしい。
 しかし、私が魔界へと向かった為にそのチャンスを失った。どうやらこの世界において魔界と幻想郷は相互不可侵が成り立っているらしく、自由に行き来する事は出来ても、何か揉め事を持ち込むような事は禁止されているのだという。
 けれど、それとは別に、紫とアリスは何度か衝突していたらしい。
「……色々あるのよ、私達にもね」
 そう、少しばつが悪そうに紫が言う。アリスが彼女の事を『あんなの』呼ばわりしていたのには、そういった理由があったのだ。
「だから私の方から動く事は出来なくて、貴女が魔界から出てくるのをずっと待っていたの。萃香の話を始めた時に現れたのはただの偶然ね」
 でも、その偶然のお蔭で、私はアリスと勘違いされる事が無く話を進める事が出来た。もし一対一で出逢っていたら確実に勘違いが起こり、取り付く島もなかっただろう。
 とはいえ、結果的には戦闘になってしまったけれど、激昂してしまったアリスをしっかりと止めていれば、話し合いだけで紫を説得する事が出来たかもしれなかった。その為に、私は魔界で準備をしてきたのだから。
 しかし……私は神隠しにあった訳でも、住居ごと幻想郷にやって来た訳でもなく、スキマを通ってこの世界にやって来た。そしてこの世界には『アリス』が存在していて、流石の紫でも幻想郷に住まう住民の全てを把握している訳ではない。
 つまり、最悪の場合、紫が私を見付けられなかった可能性もあった。幻想郷のバランスが狂ったと言っても、例えばそれは人間が一人死んだだけでも変化する不安定なものだ。もし魔界に向かっていなかったら、今もどこかで元の世界に戻る方法を探していたかもしれなかった。
 心身を休める事が出来ず、ボロボロになりながら。
「……」
 今更ながらに嫌な想像が膨らんでいく。過去に感じたものよりも強く苦しい孤独に苛まれながら、延々と彷徨い続けるアリス・マーガトロイドを幻視する。
 駄目だ駄目だと思いながらも魔界へ向かって良かったと、心の底から思えた。
 小さく息を吐き、気分を切り替える。周囲に展開させていた人形達を集めてから、改めて紫に向かい直し、
「お願い、私を元の世界に戻してくれるかしら」
「解ったわ。……でも、すぐに元の世界へ?」
 アリスと、そして魔界への入り口がある方向を見てから紫が言う。私はその言葉に頷きを返し、
「ええ。お願い」
「じゃあ、ちょっと良いかしら」
 言葉と共に、紫の手が私の頭へとそっと置かれた。瞬間、アリスが何かを言おうとしたけれど、視線で止める。
 その一瞬の間に二つの世界の境界を見出したのか、紫は私の頭に手を置いた状態で空に一本線を引くと、
「っと、こんな感じかしらね」
 すっと引かれた一本線に亀裂が走り、まるで口を開くように音も無く開かれていく。その先に見えるのは、ここと変わらぬ、しかし落ち葉が一枚も落ちていない博麗神社の境内だった。
 少し視線をずらすと、落ち葉がまだ沢山落ちているのが見える。まるで神社の一部を切り取ったかように感じる奇妙な光景を眺めながら、私はそっと手を離した紫へと、
「ありがとう」
「別に良いわ。……それよりも、ごめんなさい」
 言って、彼女はすまなそうに、
「あの子の、萃香の宴会に萃められた相手を疑ってしまうなんて……私も、少し余裕を持たなければいけないわね」
 いや、あの鬼は酒が飲めれば誰でも良いんじゃ……と、そう言おうとして流石に止める。もしかしたらこちらの世界の萃香は、何らかの基準に乗っ取って宴会を開いていたのかもしれないからだ。
 代わりに、私は気になった事を聞いてみた。
「……ちょっと思ったんだけど、萃香を幻想郷に呼んでみないの?」
 彼女達の過去に何があったのかは解らない。でも、私の世界にいる萃香は幻想郷へとやって来た。だったら、こちらの世界でもその可能性はあるのではないかと思ったのだ。
「だからその、案外普通に居つくかもしれないわよ?」
「……それもそうね。貴女の言う通り、彼女を招くのも良いかもしれない」
 そう言って、紫が微笑みを浮かべる。それは今までに見た事の無い、素の微笑みに見えた。
 それに少し驚きつつも、周囲を確認して忘れ物が無いか確かめる。その途中、アリスの手の中にあるものに気付いて、
「ねぇ、アリス」
「何よ、アリス」
「その子、貸しておくわ」
 アリスの手には、ボロボロになった盾の欠片を持ったままでいる人形があった。私は壊れる事無く彼女を護りきったその人形を心の中で褒めてから、
「後で取りに来るから」
「いらない」
 即答かよ。
 そう突っ込みそうになる私へと、アリスは畳み掛けるように、
「その代わり、勝手に持っていった本を返して」
「……やっぱり気付いてた?」
「当たり前よ! 私にはもう不必要だって言った途端に目を輝かせて……。その日の夜中に鞄へ入れたところ、ちゃんと見ていたんだから」
「なんだ、起きてたの……」
 我ながら完璧に作戦を遂行したつもりだったのに、どうやら見られていたらしい。でも、この本はどうしても借りていきたい理由があった。それはこの世界の誰にも告げていない事で、だからこそこの場をどう誤魔化そうかと頭を捻る。どうせアリスの事だから私の思惑には気付いているだろうし、言ってしまっても良いのだけれど……ここは黙って行きたいというちょっとしたプライドみたいなものが、素直に答えようと思う私の気持ちを邪魔をする。
 うーん。
 すると、アリスがこれ見よがしに溜め息を吐きながら、手にした人形の汚れを優しく落とし、
「……まぁ良いわ。この子は借りといてあげる。だから必ず、必ず返しに来なさい。……死ぬまでとか、無しだからね」
「解ってる」
 それがどんなに難しくても、可能性が低くても、出来ないなんて言わない。
 だって、これはさよならなんかじゃ無いんだから。
「じゃあ、行って来るね。アリス」
「ええ、行ってらっしゃい。アリス・マーガトロイド」
 笑顔の『私』に見送られて、

 私は、スキマを――世界を越えた。


5

 全ては一瞬。
 スキマを通り抜け、振り向いた時、そこにはもう何も存在していなかった。
「……戻って来れた、のよね」
 境内を見回してみても、タイミングが良いのか悪いのか誰も居ない。神社に参拝客が増えたと喜んでいた霊夢も、普段なら縁側に腰掛けて酒を飲んでいるだろう萃香の姿も無かった。
 どんな世界だろうとも八雲・紫の力は恐らく絶対で、不安になる事はないのだろう。それでも一瞬前まで違う世界に居たのは確かで、早鐘を打つ心臓を治める事は出来ない。
 なんて事を思っていたら、何の前触れも無く、今までの全てが白昼夢だったかのような、そんな不安に襲われた。
 結局、世界が違うというのも終始予測の粋を出なかった。それを裏付ける証拠はあったけれど、私自身が狂っていた可能性だってあるのだ。極端な話、今この瞬間に正気に戻った可能性だって、ない訳じゃあない。
 でも、
「あの世界を否定するのは、結構無理ね」
 胸の中に残る暖かさと痛み、そして戦闘でボロボロになってしまった人形達などは否定出来ない現実だ。アリスに貸してきた分も含めて、結構な数を作り直さなければいけないだろう。
 だから、まずは確認をしに行こう。ここが私の居た世界で――魔理沙が存在する世界だという事を。
「じゃあ、行こうか」
 人形達へと小さく告げて、少々急ぎ足で境内を通り抜け、そこに真新しい小さな社が建っているのを確認してから、神社の外へ。魔法の森へと続く道を進み、道の先に見えてきた香霖堂の脇を通って森へと。
 薄暗い道の途中で見えてきた自宅はしっかりと建っていて、その窓には自作の人形達の姿があった。
 それに安堵しながらも、少し早足で歩いていた体がどんどんとスピードダウンしていく。そうして、その木々を抜ければ霧雨邸が視界に入る、という所で足が止まってしまった。
「……」
 怖い。
 凄く恐い。
 もしそこに霧雨邸が無かったら、という想像が脳裏に浮かんで消えてくれない。或いは屋敷があったとして、そこに私の知る霧雨・魔理沙が本当に居るのだろうか。
 紫の力を頼った以上、大丈夫だとは思っても、溢れ出す不安を止める事は出来ない。
「……もど、ろう」
 一度家に戻り、心を落ち着かせよう。そう決めて、霧雨邸の目の前で回れ右をして、元来た道を引き返す。
 以前だったらここまで臆病になる事も無かっただろう。でも今は、感じる不安や恐怖、孤独を耐え抜く為の鎧を脱ぎ捨ててしまっている。魔界で暮らしている間は、そんな物不要なだけだったから。 
 そうして戻ってきた自宅の前で深呼吸をし、どうしてか震えてしまう手で玄関の鍵を開ける。
「……」
 もし鍵が一致しなかったらどうしよう。そんな不安を感じたものの、小さな音を上げて鍵は開いてくれて、感じなくて良い筈の安堵を感じながら、私は玄関の扉を開いて中へと入った。
 一部屋一部屋、確認するように廻っていく。その間取りや家具には変化は無く、誰が侵入した形跡もない。三週間前、魔理沙に連れられて家を出た時のままだった。
 少し、落ち着く。
 取り敢えず、紫との一戦で消耗した人形などを補充し、部屋にあったウイスキーを気付けとばかりに一口呷って、
「――よし」
 小さく気合を入れてから、今度こそ霧雨邸へと向かった。
 一時間も経たない間に同じ道を往復し、そして先程と同じ場所で足を止める。それでも今度は引き返す事無く、ゆっくりと前に進んだ。
 木々を抜け、思わず瞑ってしまっていた目を恐る恐る開いて、
「あっ、た」
 そこには確かに、見慣れた霧雨邸が建っていた。
 でも、そこに私の知る霧雨・魔理沙がいるのかどうかは解らない。馬鹿みたいに心臓が高鳴り、不安と緊張を混ぜ合わせた感覚に胃が痛くなる。大丈夫だと何度も自分に言い聞かせながら玄関へと近付き、扉を数回ノック。
 すると、少し慌ただしい音と共に誰かが玄関の向こうへと現れ、そして開錠する音と共に扉が開き――
「どちら様――って、アリス?!」
 そこには、三週間前と変わらない霧雨・魔理沙の姿があった。
「一体今まで何処に居たんだよ――って、どうしたんだよその怪我! ボロボロじゃないか!」
 心配してくれる魔理沙に何か言葉を返そうと思うのだけれど、全身から力が抜けてどうにも上手くいかない。
 でも、どうやら私は本当に戻ってくる事が出来たらしい。それだけは、確かに感じる事が出来た。



 通された魔理沙の部屋で、紫との戦闘で出来た怪我の治療を受けながら、私は今日までの話を聞いた。
 三週間前のあの瞬間、魔理沙は永遠亭へと移され、すぐに永琳の応急処置を受けた。とはいえ、意識は失っていたものの怪我らしい怪我は無かったのだという。帽子を被っていた事で、ある程度衝撃が緩和されていたらしい。
 髪を剃らずに済んで良かったぜ、と魔理沙は笑ってから、
「で、お前はどこに飛ばされてたんだ? いくら探しても見付からないから、心配してたんだぜ?」
 どうやら予想通り、私がスキマに飛び込んだ直後、その出口が狂ってしまっていたらしい。しかもそれは私の魔法が原因で生じた状況の為、紫にもどこへ繋がってしまったのかが判断出来なかった。その為、この三週間、彼女達は私を探し続けていてくれたのだという。
「ごめん、心配掛けたわ……」
「いや、こうして戻って来たんだから良いさ。でも、一体どこに居たんだよ? まさか、外の世界にまで飛ばされてたのか?」
「……いいえ、幻想郷の中よ」
 そう、幻想郷の中だったのは確かだ。
 淹れてもらった紅茶を一口飲んで心を落ち着かせてから、魔理沙に問う。
「少しショッキングだけど、詳しく聞きたい?」
「まぁ、出来ればな」
 空気の違いを感じたのか、魔理沙が居住まいを正し、表情を真剣なものへと変える。
 そんな彼女へと、私も同じように真剣な表情で、
「私はね、霧雨・魔理沙が存在しない世界に迷い込んだの」
 この霧雨邸すら存在せず、誰も彼もが霧雨・魔理沙という存在を知らない世界。そこで起こった顛末を、出来るだけ端的に説明していく。……魔界での話は、大分省略したけれど。
 話を聞き終わった魔理沙は紅茶を一口飲み、息を吐いてから、自分の存在を確認するように両手を何度か握り、
「……私の存在しない世界、か」
 嘘だろ、と一笑されると思っていたけれど、やはり彼女も魔法使いか。少なからず、他世界についての知識は持ち合わせていたらしい。
 何かを考えるように暫し無言になってから、魔理沙は私へと視線を戻すと、
「でもまぁ……そうか。大変な事になってたんだな」
「でも、こうして戻って来れたから」
 そう言って微笑むと、彼女も笑みを取り戻し、
「しっかし、その世界じゃ魅魔様が普通の人間だったのか」
「ええ。でも、彼女が本当に魅魔だったのかどうかは解らなかったけどね」
 でも、過去に魔界で出逢った彼女達との繋がりが今も続いているのなら――例え世界が違うといえど、彼女は魅魔であったのかもしれない。
 そう思う私へと、魔理沙は少し過去を懐かしむように、
「でもまぁ、私はその人が魅魔様だと思いたいけどな。悪霊に成っていないのなら、それは幸せな事なんだろうから」
「確かにそうね」
 死んでも尚恨みに取り込まれ続けるというのは、やはり良いものではないのだろうから。
 そうして、紅茶のお代わりを貰いつつ魔理沙と取り留めのない話をして――一時間ほど経った頃、私は腰を上げた。  
「さて、魔理沙が無事だって解ったし、今日はこれで失礼するわ」
「おいおい、怪我の治療をしたばっかりなんだ。もっとゆっくりしていけよ」
 純粋に心配してくれているのだろう魔理沙に微笑み、私は痛みの引いた左腕を軽く回し、
「心配しなくても大丈夫よ。私はアンタと違って妖怪だから、このぐらいの怪我なんて何ともないの」
 魔法での治癒も効いてきているし、全快とまではいかないまでも、もう殆ど回復している。こういう時は、人間を辞めて良かったと正直に思う。
「それにね、少しやる事があるのよ。だからまた後で……そうね、前に言ってた日本酒、頂きに来るわ」
 そう言って立ち上がり、鞄を手に取った所で、一度深呼吸。
「どうした?」
 緊張で胃が痛い。
 魔理沙に対して『怖い』と思うのはこれが初めてかもしれない。
 でも、言わなきゃ始まらないのだ。
 だから。
「一つ、言い忘れてた」
 大事な大事な、ずっと言う事が出来なかった言葉を、告げる。
 彼女の目を見て、真っ直ぐに。

「魔理沙に、返して貰いたい物があるの」



 霧雨邸から出た私は、一度自宅に戻って着替えを済ませてから、確認の為に紫と戦った谷へと向かった。
 そこに拡がっていたものを見て、思わず呟きが漏れる。
「……あの時の違和感は、これだったのね」
 谷の一部が崩れ、散乱していたのだろう瓦礫が一ヵ所に集められていた。しかし私が目覚めた時、あの場所には崩れた様子も、瓦礫も無かったのだ。まさか他世界に飛んでいるとは思わなかったし、そもそも魔理沙が瓦礫の餌食になった瞬間に飛び出したから、瓦礫の散乱具合も解っていなかった。だからあの時、違和感を感じつつも、その違いに気付けなかったのだろう。
 心の中でくすぶっていた何かが氷解するのを感じながら、私はその場を後にする事にした。
 次の目的地は、魔法の森のすぐ近くにある一軒の古道具屋だ。
 霧雨邸に向かった時ほどではないにしろ、軽い緊張を持ちながら道を進み、重く軋む店の扉を押し開き、
「……香霖堂さん?」
 雑多に商品が積み上げられた狭い店内を進んでいくと、予想通り、店の奥には森近・霖之助が居た。
「いらっしゃい、アリス」
 当然そこには魅魔の姿は無く、代わりに、カウンターの上に乗せられた商品を眺める十六夜・咲夜の姿があった。
 彼女は私の姿に気付くと、柔らかく微笑んで、
「あら、アリスじゃない。久しぶりね」
「咲夜」
 その懐かしい姿に、戻ってきたという実感が増すのが解る。でも、突然だとは思いつつも、少しだけ残っている不安を拭う為に問い掛けた。
「……ねぇ、その、紅魔館の様子はどう?」
「様子?」
 私の言葉に、咲夜は一瞬きょとんとした後、
「そうねぇ、最近は寒くなってきたから、お嬢様も部屋に籠りがちで然程忙しくは無いわね。でも、突然どうしたの?」
「えっ、あー、ほら、紅魔館が何かイベントを始めると、図書館にも寄り辛くなるから」
「そういう事ね」
 最近はパチュリーに邪魔者扱いされる事もなくなったから、美鈴と一戦交える事も、咲夜に撃退される事もない。しかしそれも、彼女達が幻想郷に居るからこそ起こる日常なのだ。
 これで紅魔館の存在は証明された。戻って来れたという実感が更に増す。
 魔理沙が存在していた時点で、ここが元居た世界であるともう殆ど確信しているけれど、完璧ではない。まだ確認する事がある。
 軽く話をしてから店を出て、深呼吸。
 次の目的地は博麗神社だ。



 神社へと向かうと、腋を出した見慣れたスタイルの巫女が居た。
「良かった……」
「……何よ突然」
 奇妙なものでも見たかのような反応をする霊夢に笑みを返し、
「霊夢はその格好が似合ってるって意味」
「はい? ……アンタ、なにか悪いものでも食べたの? なんだか気持ち悪いわね……」
 怪訝そうな顔をする彼女に今は怒りも湧いてこない。あるのはただ強い懐かしさと安堵だった。
 それでも、彼女にこれから行う事の許可を取らなければ。
「まぁ、気にしないで。それと……今から少し騒がしくなるけど、放っておいてね」
「騒がしくって、一体何をするつもり?」
 どう言ったものだろうかと一瞬考え、霊夢に回りくどく言う必要は無いと気付いた。だからその目をしっかりと見つめて、告げる。
「魔界の封印を解かせてもらうわ」
「……なんですって?」
「だから、魔界の封印。神社の裏手にある、あれの事よ」
 途端、霊夢を中心に空気が一瞬で変化する。こういう時、私は彼女が博麗の巫女である事を強く実感する。まぁ、こんなシリアスな空気を纏う霊夢と鉢合わせする事なんて殆ど無いし、今後も願い下げだけれど。
 そんな風に思いながら、私は睨んでくる霊夢をなだめるように、
「そんな恐い顔しないでよ。大丈夫、今度は前みたいに、旅行会社が馬鹿をやるような事はさせないわ。折角参拝客が増えたんだしね」
 霊夢の背後にある、新しく出来た小さな社へと視線を向ける。
 その視線に気付いたのか、彼女は暫し逡巡してから、
「……何かあったら、その時は解ってるわね?」
「当たり前よ」
 笑顔で告げる。
 この瞬間、問答無用で退治されたりしない分だけ、彼女と私の間に信頼のようなものが出来上がっているのだろう。……多分。
「……って、あー、そうだ」
「何?」
 まだ棘が抜けていない霊夢へと、全く関係の無い話だと思いながらも問い掛ける。
「……幽香、居るじゃない」
「幽香? アイツがどうしたの?」
「彼女って、花が咲く場所を廻って移動してるんでしょ? ……定住場所とかないの?」
「そんなの私が知る訳無いじゃない」
 霊夢の言葉に嘘は無い。というか、この娘は恐らく嘘なんて吐かないだろう。私は『コイツ大丈夫か?』という顔をしてこちらを見る霊夢へと誤魔化すように手を振って、
「何でもない。ちょっと気になったの。だから気にしないで」
 なんなのよ一体、と霊夢が疑問符を浮かべる。まぁ、突然幽香の話題を出されたのだから仕方ないだろう。でもこの時点で『夢幻館』という単語が出なかっただけで、私的には十分満足だ。
 妙な印象を持たれてしまった感がありつつも、今はそれを訂正する事なく霊夢と別れて歩き出だし――
「あー」
「今度は何?!」
「紫の居場所って、知ってる?」
「紫の?」
「紫の」
「残念だけど知らないわ。でもまぁ、呼べばひょっこり出てくるんじゃない?」
 向こう側の巫女とは反応が違う事に少し驚きつつ、霊夢の言葉には紫を邪険にしているような空気が感じられなくて、何故かちょっと嬉しかった。
 そんな風に思いながら、じゃあ試しにと呼んでみようとして、霊夢の声が来た。
「あ、でも無理だ」
「何で?」
「この前『もう限界だ、冬眠する』って言ってたから。……って、そういえばアンタを探してたわね」
 どうやら睡眠欲の限界に達するまで私を探していてくれたらしい。その事にすまなさを感じつつ、それ以上に嬉しさを感じる。春が来たら、真っ先に彼女へと「ありがとう」を告げようと心に決めた。
 そうして今度こそ霊夢と別れ、神社の奥へと歩き出す。  
 でも……時折思う事がある。彼女は本当に、あの日魔界で戦った巫女なのだろうかと。何故だかは解らないけれど、以前の彼女と今の彼女はどこか違うような気がしてならないのだ。服装だけではなく、その在り方まで違っているように思えてしまう。
 まぁ、多分ただの錯覚だろうけれど。二度目と三度目の勝負までに結構な期間があったし、その間彼女はレミリアを打ち倒したりしている。互いに成長し、見えない部分が変化したに違いない。
 そんな事を考えながら、湧き上がる不安を紛らわせつつ進んで行き、私は神社の裏手にある洞窟へゆっくりと近付いてく。
 そして――見えて来たそれの、正面に立った。
 太陽神が天岩戸に隠れてしまったという神話を再現するかのように、その入り口は巨大な岩で塞がれている。 
 ただの岩では無い。様々な魔法が施され、簡単に移動や破壊が出来ないようにしてある、ある意味でマジックアイテムとも言える物だ。この博麗神社という場所は外の世界と繋がっている唯一の場所である為に、境内で張る結界は役目をなさない。その為に、こうやって物理的に道を塞いでしまったのだろう。
「……」
 この場所に立つのは何年ぶりだろうか。色々と感じるものはあるけれど……でもこれで、ここが元の世界だと完全に信じる事が出来た。
 そうして理解するのは、魔界へと帰れないという事実のみ。
 その事実は、どうしようもないぐらいに辛くて、悲しくて、淋しくて、痛い。それは幻想郷での生活で常に付き纏っていたものだった。
 忘れようにも忘れる事なんて出来ないそれを、以前より強く感じているのが解る。
 嗚呼、間違いなく、ここは私が生まれ育った世界だ。
 それを理解した以上、やる事は一つだけ。
「邪魔な物を、退かす」
 もう私は独りの孤独に耐えられない。失ってしまった故郷を、家族を、もう一度手に入れる事が出来たから。
 だから今度は、本当の故郷を、家族を取り戻す。時間と共に成長し、積み重ねて来た魔法使いとしての力でそれを成し遂げてみせる。
 もう、諦めたりするものか。



 深く深呼吸をして心を落ち着かせてから、周囲に人形を配置。一点へと攻撃を集中出来る場所を探り、人形の位置を修正しながら、威力を倍化する為に人形達にも魔力を注いでいく。
 そうして準備を進めながら、持参した鞄から更に二体の人形を取り出した。純白のそれは過去に神綺から貰い受けた物で、家にある人形の中で最も扱い易く――だからこそ壊してしまうのが恐ろしくて、ずっと仕舞い込んでいた物だった。
 私はそれを左右に従えるように配置し、
「……久しぶり」
「「久しぶり」」
 声を揃えて人形達に答えさせる。でも、まるで彼女達は生きているかのように、無意識の言葉を紡ぎ出す。
「ねぇ」「アリス」「過去に向き合う」「準備は出来た?」
「ええ、ようやっとね」
「それは」「良かった」
「だから貴女達にも、頑張ってもらわないといけないわ」
 言葉と共に、胸に抱えていた二冊の本を空中に固定する。人形を操るのと同じ要領で表紙を開くと、そこに封じられていた魔力が空に舞い、七色の煌きを作り出した。
 嗚呼、懐かしい。
 懐かし過ぎて涙が出そうだ。
「ようやく、戻ってきたんだもの」
 私の為の『究極の魔道書』。もう二度と戻らないと思っていたそれが、再び私の手元に戻ってきた。その事実が何よりも嬉しくて堪らない。
 そしてもう一冊は、アリスから借りてきた彼女の為の『Grimoire of Alice』。奪われてしまっていた私のそれとは違い、アリスの魔道書は少し前まで追記され続けていた最新版。その内容は酷似しているようで違いが多く、だからこそ生み出す魔法は違ったものになる。
 アリスから魔道書を借りてきたのはこの瞬間の為だ。二冊の魔道書を同時に操る事が出来るのならば、威力を倍以上に上げる事が出来る。
何よりも火力を必要とするこの状況で、それを有効利用しない手はなかった。例え魔理沙がすんなり魔道書を返してくれなかったとしても、どうにかして返して貰っていただろう。昔のように力ずくではなく、言葉を使って。
 私と彼女は、もう敵同士ではないのだから。
「……さぁ、始めましょうか」 
 自分自身に言い聞かせるように呟いて、深く深く深呼吸。
 もう二度と唱える事が無いと思っていた呪文を歌うように詠唱し、人形達にはアリスが追記して行った新たな小節を読み上げさせていく。
 悔しいけれど、スペルカードルールが存在しない世界だった為か、魔法使いとしての技量はアリスの方が上だった。それに負けてしまわぬよう、狂いそうになる呪文を無理矢理に矯正し、新たな究極を生み出していく。
 下手をすれば魔法が暴走し、大怪我を負う可能性だってある。それでも、私に躊躇いや迷いは無かった。
 諦める訳にはいかない。もう、諦めるなんて事はしたくない。
 当然、全力を出したにも拘らずこの封印を壊せなかったら……という恐怖はある。それはどうやっても拭い切れないものだ。でも、大切な家族と故郷を失う以上の恐怖なんてありはしない。
 そう。例え魔力の全てが尽き、用意した人形達が全て砕け、体に過大な負荷が掛かろうと、全力を出さなければならない時は必ずある。
 私は、全力を出さなければならない時に、それを出し渋ってしまうような魔法使いにはなりたくない。それこそ、後も未来も無くなってしまうというものだ。
 だから、
 だから!
「絶対に、壊してみせる!」
 限界にまで引き絞った弓を放つかのように、完成した魔法を解き放つ。 
 その瞬間、過去に封印に挑んだ時の記憶がフラッシュバックし、脳裏に様々な記憶が蘇っていく。
 悲しかった事。
 淋しかった事。
 苦しかった事。
「それだけじゃない」
 楽しかった事。
 嬉しかった事。
 幸せだった事。
 色んな事を思い出す。
 魔界での記憶。
 家族との記憶。
 大切な、記憶。
 一度は失ってしまった。
 でも、新しく得る事が出来た。
 私は幸せだろうか。
 私は不幸だろうか。
 解らない。
 解らないけれど、でも、今の私は孤独じゃない。
 だから、頑張れる。
 本気を。
 全力を。
 持てる力の全てを出し切って魔法を放つ。
 諦め続けていた自分自身に――アリス・マーガトロイドに負けない為に。
 私が『アリス』である為に。

 そして何よりも――
「ただいま」
 その一言を、告げる為に。










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