『Alice』

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3

 私、アリス・マーガトロイドは魔界人だ。魔界で生まれ育ち、人間から魔法使いと成った。学ぶべき事は沢山あったし、受け継いでいくべき事も沢山あった。毎日が勉強や研究、そして辛い鍛練や訓練の繰り返しだったけれど――幸せだった。
 そんなある日、魔界に巫女と魔法使いと悪霊と妖怪が現れた。彼女達の動機は様々で、その切っ掛けは民間の旅行会社だったのだけれど……その頃の私はただ魔界を防衛する為だけに戦いを挑み、あっさりと負けてしまった。 
 それでも生半可にプライドだけは高かった私は、皆の反対を押し切って究極の魔道書を持ち出し、愚かにもリベンジに向かってしまった。そう、愚かな選択だった。その魔道書に記された魔法が究極だとしても、私自身に扱いこなせる技量が無ければ意味が無い。結果、私は彼女達に勝つ事が出来ず、しかも魔道書まで奪われてしまった。
 今度こそ、完膚なきまでの完敗だった。それはどうしようもなく悔しくて……そしてそれ以上に、大切な大切な私だけの魔道書が、もう二度とこの手には戻らないのだという現実が、酷く悲しく辛かった。
 そうして私は全力を出す事を止めた。この先、未熟な自分が愚かな死を迎えない為に。
 それから暫くの間、私は意気消沈としていた。その時宿の代わりに使っていたのが、今の家でもあった。すぐに魔界に戻りたかったけれど、皆の反対を押し切ってまで出てきてしまったという負い目と、傷の治療、そして小さなプライドがそれを躊躇わせた。
 でも、いつまでもそんな生活を続けていられなくて、私は魔界へと戻ろうとして――しかしその時には、魔界へと続く洞窟は完全に塞がれていた。
 誰がそれを行ったのかは解らない。恐らく霊夢か紫だろうけれど、正確な所は今も解らないままだ。
 そうして、私は魔界に戻る事が出来なくなった。いともあっけなく、家族と故郷を失ったのだ。その時の絶望は筆舌に尽くし難いものだった。……他世界の存在とはいえ、成し得た再会で泣いてしまうぐらいに。

 ふと、私が人形を作り始めた理由はそこにあるのかもしれないと、そんな事を思う。
 独りの時間、どうしようもなく襲ってくる孤独を紛らわせる為には、何かに没頭するのが一番だったのだ。



 通されたのは、彼女――神綺が暮らしている屋敷だった。
 何も言っていないのに、目の前に出されたのは子供の頃良く作ってもらったミルクティーだった。一口飲むと味付けが殆ど変わらず、治まった筈の涙がまた溢れてしまいそうになって、慌てて目元を押さえた。
 そうしてゆっくりとミルクティーを飲んでいると、正面の席に魔界の神様が座った。
「美味しい?」
「……うん」
 小さく答えて、次に何を言えば良いのか解らなくなった。いや、というよりも、神綺が何を考えているのかが解らない。この世界にも『アリス』は存在している筈だ。それなのに、突然現れた私に何の疑いの目も向けないというのは、一体どういった事なのだろう。
 恐い。
 拒絶されなかったから大丈夫だと、素直に喜べない。そう思っていると、
「……私が何も言わないのが、不思議なのかしら」
 顔に出ていたらしい。小さく頷くと、神綺は優しく微笑んで、
「ここは私の世界だもの。誰かがやってくればそれに気付くし、怪しい人達がやってきたら迎撃もする。でも、アリスちゃんにそんな事はしないわ」
「……でも、私、は、」
 言いたくない。言いたくない! 言いたくない!!
 でも、言わなくてはいけない。言わなくては、いけない。この場所に足を踏み入れてしまった以上、どれだけ辛くても、告げなければならない。
 私が、『私』である為に。
 だから、
 私は、
「私は――アリス。アリス・マーガトロイド。……貴女の『娘』ではないわ」
 告げた声はどうしても震えて、最後は消え入るようになってしまった。
 でも、それが事実だった。この魔界という場所は神綺の世界。そして彼女は神様であり、全てを生み出した母親でもある。だから、それを否定しなくてはいけない。例え目の前に座っているのが神綺だとしても、私の知る神綺とは別人なのだから。
 辛い。
 それでも、説明を始める。私がこの世界の住民ではない事。そして戻る方法を探している事。でも、それは自分一人で行うから手伝いはいらないという事など……アリス・マーガトロイドという、この世界に在らざる者が陥った状況と、行おうとしている事の全てを。
 神綺は何も言わずに全てを聞き終えると、話し終えた私へと暖かく微笑んで、
「アリスちゃんがこの世界の人ではないという事は解ったわ。でもね、アリスちゃん。例え貴女が私の娘ではないとしても、貴女が『アリス』である事には変わりないの」
 何故、なんて愚か過ぎる質問は出来ない。だって彼女は神様だから。全知全能なる者だから。
 私の手の中にあるミルクティーの味付けが元居た世界の物と殆ど変わらなかったのも、つまりそういう事だ。何も言わなくても彼女は全てを理解し、把握する。それでも私がアリス・マーガトロイドであると告げたのは、ある種の意思表明みたいなものだ。これ以上、彼女に甘えてしまわない為の、自戒のようなものだ。
 でも、そんな事なんて関係ないと言わんばかりに、神綺は優しく、
「それにね、例え世界が違うとしても、私はアリスちゃんの事を大切に思うわ。アリスちゃんの世界に住む私が、貴女を想うように」
 それは無条件の許容。決して裏切らない愛情。まるで許しのような、大いなるものに包まれる感覚。
 彼女は馬鹿だ。甘過ぎる。もしそんな事で寝首を掛かれるような事態に陥ったらどうするのだろう?
 ……答えは解りきっている。その瞬間になったって、彼女は微笑むに違いないのだ。
 だから、だろうか。
 この世界に迷い込んで良かったと思ってしまった。他世界の存在だとしても、彼女に逢えて良かったと思ってしまった。
 いや、違う。本当は里で夢子の姿を見掛けた時から、こうなる事を望んでいたのだ。でも、不安と恐怖で素直になる事が出来なかった。
 心の奥底に仕舞いこんでいたものが、優しく修復されていく感覚。
 嗚呼、ここは何もかも違うけれど、何もかも同じだ。でも、胸に浮かんだ一言を告げる事は出来なくて、代わりにミルクティーを飲む。暖かくて優しくて、甘かった。

■ 

 ぼんやりと、まるで心地よい夢の中に居るような感覚を感じながら休んでいると、部屋に夢子がやって来た。
 神綺に『私はアリス・マーガトロイドである』と伝えた後、様子を見にやって来た夢子へと同じ説明をしたのが三十分ほど前。彼女も私を好意的に迎え入れてくれて、それがとても嬉しかった。
 その後、夢子は夕飯の支度をしてくると言って台所へと向かったのだけれど、どうやら何かあったらしい。彼女は何かを訴えるような視線を私と神綺に注いで来た。
 彼女にそんな表情をさせるのは、この状況を考えるに一人しか居ない。恐らくは夢子から情報が伝わり、私の元へ姿を現す気になったのだろう。夢子が何も言わないのは、もう既にここまでやって来ているからか。
 だから私は軽く身なりを整え、深呼吸をして心を落ち着かせ、テーブルの上で遊ばせていた人形達の居住まいを正せて相手を待つ。

 そして――彼女が現れた。

 漆黒のブラウスに紅のスカート。日に焼けていない白い肌はまるで人形のようで、しかしそれは紛れも無く自分自身だった。
「――初めまして、アリス」
「……初めまして、アリス・マーガトロイド」
 答える声も同じもの。だからこそ、そこに明らかな断絶があるのが良く解る。神綺から話を聞いて、その生まれ育ちが私のそれと殆ど同一だという事を知ったからこそ、それを強く実感した。
 彼女はあの戦いを経験していない。彼女はあの挫折を、後悔を、孤独を経験していない。彼女は『アリス』であり、アリス・マーガトロイドではない。その違いは大きく、同じ顔をしているのに相手の考えている事がまるで解らない。だからこそ、ある一つの感情が際立ってしまう。
 だから私達はまるで挨拶の延長のように、その言葉を口にした。
「「気持ち悪い」」
 自分と同じであり、しかし絶対に違う生物が目の前にいるという事実が何とも言えない嫌悪感を生み出して止らない。鏡を相手にするのとは違うからこそ生じる、どうしようもなさ。
 それでも同時に漏らした呟きは、互いの印象を少しだけ和らげる力を持っていたらしい。黒い少女へと視線を向け、私は自分が本調子に戻りつつある事を感じながら、
「素敵な黒い服ね。まるで似合って無いわ」
 思わず本音が出てしまった。そんな私の言葉に、アリスは哀れむような視線を向けてくると、
「あら、私にはそんな愛らしいドレスを着る神経が解らないわ」
「センスが無いのね」
 言い捨てる。すると彼女は、嘲笑うかのように冷笑を浮かべ、
「いつまでも人形を手放せないようなお子様がセンス? 笑わせるわね」
「道具で実力を推し量るような未熟者に言われたくないわ」
「甘えを棄て切れなかっただけでしょう? だからのこのこ現れて」
「あら、私がどこへ向かおうと勝手だわ」
「強がり?」
「引き籠もりよりマシね」
「研究に時間を費やせない半人前に言われたくはないわ。何、魔道書までしっかり抱えて。恥ずかしくないの?」
「自分の力を効率良く発揮する為のファクターを見下すなんて知識が無いのね。貴女こそ、恥ずかしくないの?」
 どうやらお互い性格も似通っているようだ。だとするなら、次のタイミングで彼女はこう言うだろう。
「「可愛げのない女」」
 だから同じタイミングで言い放つ。同時に、彼女に感じている嫌悪感は、即ち自分に感じているコンプレックスだという事に気付いて嫌になる。相手が鏡ではないからこそ、それが際立って見えてしまうのだ。それはアリスも同じだったのか、彼女は小さく咳払いをすると、
「まぁ良いわ。取り敢えず、家に来なさい。どうせ寝る場所も無いんでしょう?」
「……え?」
「……何、その間の抜けまくった返事は。もしかして、意外だった、とか言い出すんじゃないでしょうね」
「いや、その……」
 もしかしなくても意外だった。確実に拒絶されると思っていたのに。
 そんな私へとアリスは小さく溜め息を吐き、
「別に部屋を貸すぐらいの事なら構わないわ。――もしかして貴女、自分自身を部屋に招けないほど独りが好きなの?」
「……自分の胸に聞いてみなさい」
 畜生、一本取られた気分だ。それでも、寝床を確保出来たのは良かっ――
「え、アリスちゃんは私と一緒に寝るんじゃないの?」
「え?」 
「あ、アリスちゃんじゃなくて、アリスちゃんの方ね」
「いや、解らないから」
 黒い方に突っ込まれて、神綺がきょとんとする。それから漸く言葉が足りなかった事に気付いたのか、
「貴女」
 と、白い細く指で私を差し、優しく微笑んで、
「アリスちゃんの世界の私が……あと、その世界の魔界がどんな様子なのかお話して欲しくて」
 そんな事聞かなくても全て理解して把握しているだろうに。アリスがそんなような視線を一度神綺へと向け、そのまま私へと視線をずらし、
「……って言ってるけど、どうするの、『アリス』」
 アリスの言葉にはどうしようもなく棘がある。でも、刺さった棘は抜いてしまえば良いだけの話だ。
 別に断る理由も無いし、今晩は神綺を独占させてもらう事にした。



 夜の闇が広がる魔界の空の下をアリスと共に歩いていく。周囲には魔法による灯りが幾つも灯り、暗さを感じる事は無い。 
 結局、アリスも一緒に神綺の屋敷に泊まる事になった。とは言っても、屋敷には客人用の着替えなどが常備されていなかった為、私達はアリスの家へと就寝道具に取りに向かっていた。
「素直じゃないわね」
「……五月蝿い」
 つっけんどんに答えるアリスの頬は少し赤い。私と同じように、彼女も神綺に甘えたいのだろう。例え他人同士といえど、一応は同じ『アリス』だ。そのくらいは予測出来る。
 そうして少し急ぎ足のアリスに連れられてやって来た彼女の家は、私が幼い頃暮らしていた家に酷似していて、しかし所々相違点があるように見えた。
 奇妙な感慨深さを感じながら、敷居を跨ぐ。
 当然のように使用している家具は違っていたけれど、部屋の間取りに変化は無いらしく、私は懐かしさを感じながらアリスの自室へと入った。
「……へぇ」
 予想通りとはいえ、通された部屋の様子は私の自室と全く違っていた。人形遣いとしての力を磨いた私とは違い、アリスは道具を使わずに魔法や魔術を駆使するらしい。部屋の中には数多くの書籍が積み上げられ、机の上には実験用の道具が雑多に片付けられていた。
 それはどこか既視感を感じる風景。何だろうと思っていると、アリスがこちらを軽く睨みつつ、
「何?」
「別に。貴女にも蒐集癖があるのね、と思って」
 開いたスペースに取り敢えず積んでみた、と思われる魔道書やマジックアイテムの数々を見ながら告げると、アリスはほんの少し表情を和らげ、
「あら、貴女もなの?」
「ええ、私もなの。……まぁ、希少な本を手に入れても、すぐに魔理沙が――」
 と、その名前を口に出した瞬間気が付いた。この部屋の、『家主にはどこに何があるのか解っているけれど、他人から見たら散らかっているようにしか見えない』部屋の様相は、あの霧雨・魔理沙の部屋によく似ているのだ。
「……変なの」
 彼女が居ない世界なのに、よりにもよってアリスの――違う可能性を持った自分自身の部屋に魔理沙の影を見るなんて。
 変な話。だからちょっと、悲しくなった。
「変なのは貴女よ。それに、魔理沙って誰?」
「え? ……ああ、やっぱり貴女は知らないのね」
 アリスの言葉に、私は暗くなってしまった表情を見られぬよう、何気ない風を装って視線を逸らし、
「魔理沙っていうのは――」
 霧雨・魔理沙というのは、人間で、女の子で、金髪で、魔法使いで、ちょっと言葉遣いが男っぽくて、白黒な服装で、空を駆るその姿は一度見たら忘れられないくらいに輝いていて――そして、私の人生を変えた存在で。
「彼女と最初に出逢ったのはもう五年以上も前。その時は敵同士だったけどね」
「……敵?」
 聞きなれない単語を聞いたかのように聞き返してくるアリスに、私は小さく頷き、
「……当時、私の住んでいた世界である事件――というか、戦いがあったの」
 切っ掛けは、旅行会社が勝手に組んだツアーだった。
 観光目的であった筈のそれは、しかし人間界側からすれば――いや、妖怪退治を行っている巫女から見れば、魔界からコンスタントに魔物が送られてきているようなものだった。
 巫女はその原因を突き止める為に動き出し、更には魔法使いや悪霊、妖怪までもが魔界へとやって来た。私は防衛の為に彼女達と戦い……最終的には魔界神までもを巻き込んだその戦いは、魔界側の敗北に終わった。神である神綺ですら、彼女達には敵わなかったのだ。
 当然、私も負けてしまった。でも、幼かった私は諦める事が出来なくて、 
「究極の魔法が記された魔道書を持って彼女達に再戦を挑んだの。けど、それを使っても私は彼女達に勝つ事が出来なくて、その上その魔道書すら奪われて……。そうして私は、全力を出す事を止めるようになった」
 別にここまで言う必要は無かったかな。そう思いながらも、「ともかく、それが魔理沙との出逢いね」そう言葉を切った私へと、アリスは不可思議そうな顔をして、 
「魔理沙って相手については解ったけれど……なによ、その『全力を出す事を止めるようになった』って。全力で戦わなかったら、勝てる勝負にも勝てなくなってしまうじゃない」
「違う、そういう意味じゃないわ。相手の力量を判断して、無茶をしないというだけの話よ。それに……もし全力を出して負けてしまったら、今度こそ本当に後が無くなってしまうじゃない。大切な魔道書と故郷、それに家族を失って、私はそれに気付いたの」
「故郷と、家族も?」
 どういう事? そう聞いてくるアリスへと、
「私が幻想郷へとリベンジに出ている間に、魔界へと続く洞窟を封印されてしまったの。だから今の私は、魔界で暮らしている訳ではないのよ」
 そう、出来るだけ普通に答えたつもりだったけれど、どうやら上手く表情を作れていなかったらしい。
 アリスはばつが悪そうに、
「……ごめんなさい、不躾な事を聞いたわ」
 そう言って彼女はベッドに腰掛けると、「貴女も座りなさいよ」と小さく呟いてから、少し躊躇いがちに、
「……答えたくなかったら別に良いけど……その、自分の家に戻れなくなった気分って、どんな感じだったの?」
 アリスの言葉を聞きながら、床に積まれた魔道書を少し片付け、出来たスペースに座る。そうして見上げた先にある窓からは、魔界の暗い空が見えた。
 まるで、 
「まるでこの魔界の空のような、真っ暗な穴に突き落とされたような感じだったわ。右も左も何もかもが解らなくなって、暫くの間、目の前の現実を受け入れる事が出来なかった」
 まだ幼かった私には、幻想郷で生きて行く術が解らなかった。その当時には既に食べなくても死なない体にはなっていたけれど、人間であった頃の常識はそう簡単には抜けてくれない。喉は渇きを覚えて、腹は空腹に鳴いて、体を動かす力すら出なくなった。
 そんな時、唯一話し相手になってくれたのは――話し相手としたのは、神綺から貰った二体の人形だった。
 負け続きでボロボロになったそれを心の支えにして、ぽっかりと開いた心を持ちながら日々を暮らしていくしかなかったのだ。
「当然、魔界への道を再び開けようと、毎日のように神社に向かったわ。でも、どうやっても、どんなに繰り返しても、その封印を壊す事が出来なかった」
 もしかしたら今の自分なら――とは思うけれど、過去の私にはそこまでの力がなかった。究極の魔道書があれば、と何度も何度も思って、それを失ったのは自分の責任だという事に気付いて悲しくなった。
 でも、それを奪った相手を恨む事はなかった。自分の力が及ばなかったにも拘らず、それを棚に上げて相手を恨むというのは、愚か者がする事だと理解していたから。
「そうして時間が過ぎて行って、強過ぎる絶望は諦めへと変化していったわ。もう幻想郷で暮らしていくしかないって、認めるしかなかったの」
 そして私はアリス・マーガトロイドと名乗り始めた。言うなればそれは、新しい生活を始める為の儀式のようなものだった。魔界で幸せに暮らしていた『アリス』にはもう戻れないのだと、自分自身に認めさせる為の。
「幻想郷の暮らしは、蓋を開けてみればそこまで辛いものじゃあ無かった。いつの間にか私はそれに順応して……アリス・マーガトロイドとしての生活が日常になった頃には、知り合いや友人も出来て、幻想郷での暮らしが当たり前になっていた」
 でも、だからこそ、故郷がどんどんと記憶の産物になっていく事が辛かった。悲しかった。戻れないと理解していても、胸の痛みだけは続いた。
 容赦無く過ぎていく時間の中、私はそれらを必死に抑え込み続け、胸の奥に仕舞いこんでどうにか鍵をした。
 アリス・マーガトロイドとして、明日も笑えるように。
 だから、
「だから、本当はここに来る予定じゃなかった。世界が違う以上、ここは私が知る魔界じゃないし……ここに来れば、胸が痛むのは目に見えていたから」
「……」
 それなのに、私は魔界へと足を運んでしまった。その結果夢子に出逢い、そして神綺に抱き締められて――胸の奥に掛けていた鍵は呆気なく壊れ、更には受け入れられてしまった。偽者だと呼ばれる事も無く、非難される事も無く、『アリス』として。
 アリス・マーガトロイドとして受け入れられたのなら、まだマシだったかもしれない。でも、今、私は『アリス』としてこの魔界に居る。
 だからもう、元の世界に戻ったところで、待っているのは苦痛だけ。魔界には戻れず、神綺にも逢えないという、どうしようもない現実だけがある。
「……私は馬鹿ね」
 呟きは小さく消えて、後には何も残らない。こんな話は今まで誰にもした事が無かったから、余計にそれを感じた。
 と、部屋に充満してしまった暗い空気を払拭するように、アリスが強い意志のある瞳を私に向け、
「でも、封印されただけで、魔界への道は残っているんでしょう?」
「それは……そうだけれど」
 だったら。彼女はそう強く言う。
「だったら、どうしてそんな暗い顔をしているのよ。もし私が貴女と同じ状況に陥ったとしたら、絶対に諦めたりしないわ。それを成し得る力が、この体にあると信じているもの」
「成し得る、力……」 
 魔法。
 アリスは言葉を続ける。
「過去に挑戦した時には無理だった。でも、今の貴女ならどう? 例え今の貴女にも無理だったとしても、未来の貴女ならそれを可能に出来るかもしれない。
 魔法の鍛練に終わりは無いわ。日々を積み重ねていけば、過去に起こせなかった奇跡を生み出す事だって出来る。だから私は生きている限り諦めず、抗い続けるわ。ここでの生活が、家族が、何よりも大切だもの」
 強く、言い切る。
 自分と同じ顔で、同じ声を持つ存在が、自分が諦めた事を諦めないと断言する。
 それは何よりも強く、自分自身の言葉よりも確かに心を打った。
「……そうね。まだ、私は生きているんだものね」
 なんだか、憑き物が落ちたような気分だ。たった一言でこんなにも気の持ちようが変化するとは思わなかった。
 そうだ。まだ私は生きている。幼かった私が無理だった事でも、今の私になら出来るという事は沢山ある。
 アリスの言う通りだ。もしあの封印を今の私が解く事が出来なかったとしても、更に未来の自分なら不可能では無いかもしれない。
 下がり気味だったテンションが再び上昇するのが解る。「ありがとう」とアリスに告げると、彼女は少し照れたように視線を外しつつ、
「……で、やる気が出たのは良いけど、どうやって元の世界に帰るつもり?」 
「それは、その……まだ、考えて無い」 
 里を出て、夢幻館を見て、そこから誘われるように魔界へとやって来てしまった為に、その方法を模索してすらいなかった。
 なので、少し考えてみた。
「確実に世界を越え、的確に元の世界へと戻る方法、か……」
 魔法による転移を行うにしても、そう簡単にぽんぽん成功するようだったら、今頃他世界からの住民がごまんと押し寄せているだろう。しかし、そういった状況になっていないという事は、それがどこまでも不可能に近い事を意味する。例え魔界に住む魔法使いや神様である神綺の手を借りたとしても、絶対に戻れるという保証はないだろう。本来世界は一つで完結するものであり、他からは不可侵であるものなのだから。
 八雲・紫のように世界と世界の境界を操る事が出来るのならば別だろうけれど、私にはそんな力は無いし―― 
「――って、紫よ!」
 そうだ、紫だ。八雲・紫が居るじゃないか。
 そもそも私は彼女のスキマに飲まれてこの世界にやって来たのだ。彼女の力を持ってすれば、確実に世界を越え、的確に元の世界へと戻る事が出来るだろう。
 と、名案とばかりに叫んだ私に、しかしアリスはかなり怪訝そうな顔で、
「紫って、誰? ……もしかして、あの八雲・紫?」
「そうよ。って、彼女はこの世界にも存在しているのね?」
「まぁ、してるけど……貴女、あんなのと知り合いなの?」
 嫌なものを見た、と言わんばかりの表情でアリスが告げる。どうやらこの世界の彼女はあまり良く思われていないらしい。……まぁ、私の世界の八雲・紫が良く思われているかと問われれば、首を捻る所でもあるのだけれど。
 でもまぁ、それでも彼女の事は嫌いじゃないから、アリスの言葉に頷き返しつつ、少し嫌な気分になった。一緒にお酒を飲んで、同じ皿の肴を食べて、他愛の無い話をするぐらいの関係ではある以上、あんなの呼ばわりは無いと思ったからだ。
 それに八雲・紫はどんな妖怪よりも聡明だ。詳しい事情を説明すれば、何も知らない状況からでも理解を働かせてくれるだろう。
 けれど、理解してくれたとしても、協力してくれるかどうかは別問題だ。

 何せこの世界の彼女は、私の事を知らないのだから。
 

4
 
 そうして、気付けば三週間程経っていた。
「ここは居心地が良過ぎるのよ!」
 神綺の書斎から借りてきた本をテーブルの上に置きながら、誰にとも無く愚痴る。すると、部屋に戻ってきたアリスが明らかに呆れのある溜め息を吐き、
「何その言い訳」
「……五月蝿い」
 アリスが淹れてくれた珈琲を受け取り、少し濃い目のそれを飲みながら椅子に腰掛けた。
 そう、居心地が良いのだ。多少の変化はあれど魔界の空気は元居た世界と同じものだし、住民達からも好意的に受け入れられていて、生活に不便は無い。
 そして何より、魔界は魔法のメッカだ。今までに様々な書籍や魔道書を読み、多種多様な魔法や魔術、妖術、奇術、その他諸々を見てきたけれど、やはりこの場所にある知識の量は規模が違う。そして、その質も違う。
 幻想郷にある魔法は、様々な魔法系統が混ざり合った複雑なものだ。例えば、水の精霊であるウンディーネを呼び出せる癖に、火の魔法を使う際にサラマンダーを呼び出さず、火神アグニの力を借りる魔女が居たりするように。
 しかし、魔界の魔法は違う。他の魔法系統を受け入れる事無く、延々と受け継がれ、幾千幾億の淘汰と進化を経て成り立った一つの系統だ。私の人形操作術もその魔法技術があった故に得られたもの。つまり私は、長い長い時間を重ねて生み出された魔法の最先端に居る事になる。
 そして世界が違うという事は、その最先端も違ったものになっている事を意味する。私は新たな知識を得る為、魔道書の解読や読書に没頭し、『気が付いたらいつの間にか一日が終わっている』という生活を続けてしまっていた。人間の頃と時間の感覚が違ってきているのもそれに拍車を掛けたらしい。
 とはいえ、ただそれだけに時間を使っていた訳ではない。
 この世界の八雲・紫についての情報収集を行い、それを踏まえた上での交渉方法の模索は当然の事、交渉が失敗してしまった時の為に他世界転移魔法の情報も掻き集め、更には第三、第四の方法も探し始めていた。
 でも、どれだけ方法を模索したところで、私は紫の力を知ってしまっている。彼女が頷いてくれれば大丈夫だろうと、無意識に思ってしまっている。だから確実に、私は彼女の力を頼ってしまうだろう。一度断られようと、十度断られようと、百度断られようと……頼ろうとしてしまうだろう。理由は簡単だ。便利な道具があれば、人は怠惰を覚える。それだけの話。例え他に方法があっても、命を落とす可能性があっては意味が無い。意味が無いのだ――なんて事を考えて、『嗚呼、自分はこんなにも弱くなってしまったのか』、と思いっきり凹んで逃げるように読書に没頭して時間を浪費する事三週間、でもあった。何やってんだろう。
 それ以外には、神綺と過ごす時間が多かった。私から彼女の元へ行く事と、彼女が私の所へやって来るのと、どちらが多かったのかは解らないけれど、時間があれば彼女と過ごした。
 そう、過ごしていただけ。話をしている時間よりも、一緒の時間を過ごしている事が多かった。凹みながら本を読んでいる時も、食事の時も、時には寝る時にさえ。
 過去を共有していない以上、初日の夜に語った事以外に話す事は無くて、でも話し始めれば自然に言葉は続いて、二人きりでいても緊張する事も違和感を感じる事も無くて。まるでそれが普通であるかのように、当たり前であるかのように時間を過ごす事が出来ていた。まるで、存在しない過去を積み重ねていくかのように、自然に時間を消費した。
 私はそれが心地よくて、自分と彼女との間に何の繋がりも無いという事実を忘れそうに――いや、時には忘れていた。
 神綺と二人で居る時や、アリスや夢子達と過ごしている時、私はその事実を忘れていた。意識的にではなく、完全に無意識に。
 ある日、独り暮らしの間に鍛えた料理の腕を披露して、神綺やアリスを驚かせた。
 ある日、魔道書に記された魔法の解釈についてアリスと口論して、夢子に止められ、ケンカは駄目だと怒られた。
 ある日、アリスと魔法を競い合って、家を一軒吹き飛ばしかけた。
 ある日、神綺と買い物に出かけて、アリスと間違われ続けて、訂正する度に驚かれた。
 ある日、アリスと服を交換して、でも神綺は全く騙されなくて、逆に驚かされた。
 ある日、ある日、ある日――思い返してみれば、読書以外にも色々やっていた。
 そういった時、私は『アリス』になっていた。
 夢が叶った気がしたのだ。
 過去を取り戻した気がしたのだ。
 費やした時間の分だけ、元の世界に戻った時の反動が大きくなる事は解っているのに。
 それでも、まぁ、なんというか、
「……得たものは沢山あったし」
 そうやって自分に言い聞かせるように呟いていると、テーブルを挟んで対面に腰掛けていたアリスが私へと鋭い視線を向け、
「あらそう。じゃあ、私の部屋から持っていった魔道書は置いていきなさいね」
「あら、気付いてたの」
「当たり前よ。自分の部屋から物が無くなれば誰だって気付くわ」
「良いじゃない、一冊ぐらい」
「馬鹿言わないで。戻ってくる当ても無いのに」
「それは大丈夫よ」
 だって、
「『死ぬまで借りておくだけ』だから」
 言ってから驚いた。
 何言ってんだ私。
「何言ってんのアンタ」
「……なんだろうね」
 沢山の選択肢の一つに、このまま甘え続け、この世界の住人になってしまう、というものもある。何せ魔界の神様がOKを出しているのだから。
 正直、その誘いは魅力的過ぎた。だってここには、失った私の全てが――例え細部が違ったとしても、存在しているのだから。
 でも、どれだけそれが魅力的でも……ここは私が生まれ育った世界ではないのだ。どれだけ懐かしくても、どれだけ愛しくても、全て別物でしかない。そもそも誘いが魅力的に思えるのも、奇跡的に受け入れて貰えたからこそで、これは本来想定外の出来事だったのだ。
 まぁ、それが言い訳だという事には気付いているのだけれど。
 例え他人同士だろうと『家族』になれる。『親子』にだって、なれる。そんな事、初めから解っていた事だ。けれど、もう二度とあの孤独を味わいたくない私は、もう独りに戻りたくなかった私は、それを受け入れたくなかっただけなのだ。
 だからこうして、目の前の現実から逃避するように時間を費やした。元の世界へと戻る選択を行えば、待っているのが苦痛だけだと解っているから。
 嗚呼、本当に私は弱くなってしまった。この世界に迷い込んだ当初は、『こんな程度の状況、自分で解決してみせる』と息巻いていたぐらいだったのに。
 でも、
 でも。
 霧雨・魔理沙を思い出した。
 彼女が居ないともう一度気付き直した。
 あの、魔法の森で味わった絶望がフラッシュバックした。
 嗚呼。
 アイツは、こんな所でまで、私を苦しめるのか――
「――なんて、ね」
 悔しいけれど、魔理沙が居ない世界は少し静かで、物足りないのだ。彼女の言葉が自然に出てきた瞬間、それに気付いた。実感した。良くも悪くも、その影響力が大きいという事を再確認した気分だ。
 それこそ、腐れ縁という奴か。
 だから、出来るとか出来ないとかそういったもの関係無しに、
「帰ろう」
 そう思えた。



「――だから、私は私の居るべき世界に帰る事にする」
 数日後、元の世界へと戻る為の準備を整えた私は、神綺の屋敷へと足を運んでいた。
 夢子達にはもう別れを済ませて、最後に訪れたのが彼女の所だった。いっそ何も言わずに行ってしまおうかとも思ったけれど、やっぱりそんな事は出来なくて、最後の別れを告げに来た。
 溢れそうになる感情を必死に抑えて、決意を告げる。
 私を『アリス』として受け入れてくれた魔界の神様は、突然の言葉に悲しそうに表情を曇らせ、
「そう……」
 と小さく呟いた。彼女にそんな表情をさせたくはなかったけれど、もう決めた事だ。決めていた事だ。私は、この世界に居続ける事は無い。
 そんな私へと、神綺はどうにか微笑んで、
「アリスちゃんがそう決めたのなら、私は止めないわ」
「ごめんなさい……。そして、ありがとう。貴女に逢えて、本当に良かった」
 違う世界に迷い込んで、それでも私という存在を受け止めてくれる人が居てくれた事は大きかった。もしあのまま一人さ迷い続ける事になれば、ここまでの精神的な余裕を取り戻す事は出来なかっただろう。
 心の余裕。それが無ければ八雲・紫相手に頼み事をすることなんて出来ない。彼女は気紛れな妖怪の一人で、誰にでも手を差し伸べてくれる神様ではないのだから。
 そんな風に思って、ふと、幻想郷に新しい神様がやって来た事を思い出す。八百万に何人プラスしようと変わりない、という認識でしかなかった私には何の変化もないけれど、例えば霊夢にとっては神社の集客が増えたり、山の妖怪にとっては神徳を授かったりと、大きく変化が起こっている。
 その違いは恐らく信仰の有無があるのだろう。でも、これからもこの先も、私は幻想郷の神々に信仰を捧げる事はないだろう。私が信じる『かみさま』は、ただ一人だけなのだから。
「じゃあ、『いってらっしゃい』、アリスちゃん」
 最後の抱擁と共に、浮かぶ涙を拭う事もせずに神綺が言う。
 それは別れの言葉ではなく再開の言葉だった。だから、抑えていた筈の涙が勝手に浮かんできてしまって、それを誤魔化すように強く抱き返す。愛しい人と離れる事への本能的な『嫌さ』が一気に膨れ上がって、無意識に抱き締める腕に力が籠った。
 嗚呼、私はこの人の愛情を裏切るのだ。彼女にとって私は『アリス』であって――『神綺』の娘なのであって、そこに世界の違いなど関係無い。神綺の言葉を聞いて、それを今更ながらに思い知った。
 私は馬鹿だ。これが最後だなんてどうして思ってしまったのだろう。
 神綺にとって、私は元の世界へ帰る訳じゃない。ただ、外へと出掛けて来るだけなのだ。私がそう思っていなかったとしても、彼女はそう信じて、私を送り出そうとしてくれている。
 その優しさを、愛情を一心に受けた今……もう彼女達に、『神綺』に違いなんて無くなった。
 だから、告げる言葉は一つ。
「……いってきます、『お母さん』」
「うん……。気を付けてね、アリスちゃん」
 優しく、言葉は続く。
 
「私は――私達は、貴方の帰りを待っているから」



 ゆっくりと、幻想郷へと向けて歩を進めていく。
 遠ざかっていく魔界に想いを馳せつつ、一歩先を行くアリスの姿をそれとなく眺めていると、私の視線に気付いたのか、彼女は不思議そうに、
「何?」
「え、あ……その、見送りに出て来てくれるとは思わなかったから」
 真っ白になっていた頭を動かし、少し動揺しながら言葉を返す。そんな私へと小さく苦笑してから、アリスは足を止めて振り返り、
「別に深い意味なんて無いわ。ただ――」
 少し、悲しそうに微笑み、
「これは別れじゃないんでしょう? でも、すぐには戻って来られないだろうし……私が相手なら、変に感傷的になる事も無いと思って」
「……確かに、そうね」
 この世界に再び戻る事がどれ程難しいか、私もアリスも理解している。八雲・紫のような特殊な力を持っている訳ではない私にとって、他世界へと渡る事は、生涯成し得られるかどうか解らない程に難しいのだ。でも、それを不可能だとは思わなかった。
 神綺達がそれを望んでくれていて、私もそれを望んでいるのだ。出来ないとは決して言わない。言わせない。確実に世界を越え、またここに戻ってくる。
 その為にも、私は元の世界でやらなければならない事がある。何よりも大切なものを取り戻す為に。
 だからこそ、私は戻る。望まずともやって来てしまったこの世界で得たものを、無駄にしない為に。
 それにこれは別れではないのだから――淋しくて辛く、悲しくて苦しいけれど――笑顔を浮かべた。
「ありがとう、アリス」
「別に気にしなくていいわ。もし逆の状況だったら、貴女もそうしたでしょう? アリス・マーガトロイド」
 歩き出しながら、アリスが告げる。
 逆の状況。私が魔界に居て、アリスが他世界からやって来て。色々あって――『家族』になって。
 アリスとも長い時間を共有した。色んな事を話して、口論して、でもすぐに和解して。双子とはこんな感じだろうかと、そんな風に思った事もあった。
 そのくらい私達は似ていて、違っていて、同じだった。
「……確かに、私も同じ事をしていたに違いないわ」
 そう答えてから、今更のように、アリスに嫌悪感を感じていた時期があった事を思い出した。
 私と様々な点が違っているといっても、その本質は同じもの。自分という存在を心の底から嫌悪している訳では無い以上、こうなるのも必然だったのかもしれない。
 いや、違うか。赤の他人だなんて思っていたぐらいなのに、この三週間という時間の中で、そう思える程に心情が変化したという事だ。三週間前の私がそれを望んでいたのか否かは判らないけれど、決して悪い変化じゃないと思えた。
 そして、決して短くない道を二人で歩き、外へと出た。
 鉛色の雲に覆われた空は暗く、吹き抜ける風は皮膚を裂くように冷たい。この三週間程で、冬は一気に進んだようだった。
 今から一緒にレティを殴りにいこうかしらねぇ、なんて話ながら境内を進んでいくと、以前と同じように掃き掃除をしている巫女と出くわした。
「あら――って、アンタ、双子だったの?」
「違うわ」
 アリスが言葉を返す。そのつっけんどんな態度を見るに、あまり仲良しという訳でもないらしい。
 取り敢えず、巫女をどう呼べば良いか迷って……結局当たり障りの無い、だからこそ妙にも感じる名称で呼んだ。
「あの、博麗の巫女さん」
「何?」
「八雲・紫の居場所を教えてくれないかしら」
「……紫の?」
 良かった、どうやらこちらの世界でも巫女と紫に関係はあったようだ。と、安堵を得る私を他所に、巫女はあっさりと、
「残念だけど、アイツの居場所なんて知らないわ。必要な時には居なくて、不必要な時には居るようなヤツなんだから」
 と、そもそも興味が無い、といった風に教えてくれた。
 てっきり知っているかと思っていたのに、少し拍子抜けした感じだ。霊夢にも直接聞いた事は無かったけれど、もしかしたら彼女も知らないのかもしれない。
 さて、どうしようか。
 私の知る中で、霊夢以外に紫と知り合いだと思われるのは幽々子と阿求ぐらいだ。冥界に行けるかは解らないから、取り敢えず次は里に向かって阿求に話を聞こう。もし逢う事が叶わないなら慧音を頼る。それでも駄目なら――
 と、色々と考えつつ、もしかしたら今日は神社にやってくるかもしれないし、私はアリスと一緒に少し待つ事にした。
 巫女に一言断って、住居の縁側に腰掛ける。流石に中へ入り込んでコタツに入ろうとは思わなかった。寒いけれど、これでも妖怪だ。季節変化による気温の上下ぐらいならどうにでも出来る。
 しかし、待ち時間を一瞬で消費する事なんて出来る訳が無く、アリスと取り留めのない話を始め――暫くすると巫女が見回りに行き、アリスと二人きりになった。
 神妙な空気を持つ境内で、自然に会話は消えて行って、いつの間にか無言になる。
 そのまま、まるで変化の無いように見える博麗神社境内を眺め……一体この三週間の間に何回宴会が開かれたのかしら、なんて思って、
「そういえば、萃香は居ないのね」
 神社に居付いた酒飲みの姿が見えず、思わず口に出た。するとアリスは不思議そうに、
「誰?」
「あれ、アリスは知らないのか。となると、この世界に彼女は居ないのかしら」
 もし居たとしたら魔界の住民だろうと関係なく萃めようとするに違いないから、幻想郷にやって来ていない可能性が高いのかもしれない。
 萃香の事だ。どこか見知らぬ場所で今も酒盛りをしているのだろう、きっと。
 そんな風に思いつつ、説明を始める事にする。
「えっとね、萃香っていうのは――」
 その刹那、何の前触れも無く、
「――私の古い友人よ。でも、どうして貴女がそれを知っているのかしら」
 瞬きの間に、八雲・紫が現れていた。
 紫色のドレスに卍傘を差し、スキマから上半身だけをのぞかせている彼女の表情はこちらを試すようで、その真意は伺えない。現れたこのタイミングが偶然なのか作為なのかも解らない。そもそも彼女の真意を見抜くなんて不可能だ。だから出来るだけ驚きを隠し、隣で驚いているアリスを制して事実を話す事にした。
「彼女と知り合い――というか、定期的に宴会に巻き込まれるからよ」
「嘘」
「嘘じゃないわ。萃香。伊吹・萃香。彼女の力は密と疎を操る力。百鬼夜行を生み出す鬼の力。身長は私より低くて、角が二本。酒飲みの宴会好きで、酔ってない時が無いぐらいで、その上中身の減らない瓢箪を持っていて――」
 みるみる内に、紫の表情が変化する。
 純粋に驚いているのだろう彼女を見るのは初めてかもしれないと思いながら、私は萃香について知りうる限りの情報を全て提示していく。この世界の萃香との相違点がどれ程のものか解らないけれど、それを勘繰っていたら話が進まない。私とアリスのように、殆ど違いはないと信じながら話し続け、
「――とまぁ、こんな感じかしら。信じてもらえた? あと、一応貴女の事も知っているから、八雲・紫についても少しは説明出来るけど」
「いえ、良いわ。それよりも……貴女は一体何者なの?」
 戸惑いと、そしてそれ以上に強い疑いの色を持つ表情で聞いてくる紫へと、私は気圧されないように注意しながら、
「私はアリス・マーガトロイド。こことは違う幻想郷から、この世界に迷い込んでしまったの」
「……外からやって来たのではなく?」
「ええ、そうよ。でも、それは自分の意思じゃなくて、事故に巻き込まれた結果なのよ。だから、私には帰りたくても帰る手段が無い。一応方法はあるけれど、確実に戻れる保障がまるで無い」
 まぁ、出来ないとは言わないけどね。
「でも貴女なら、貴女の力なら、それが可能な筈。境界を操る、その力なら」
「……」
「私は貴女の力を借りたいの。元の世界に帰る為に」
 私の言葉に一瞬だけ逡巡した後、紫はスキマから完全に姿を現しながら、
「貴女が萃香を知っていた事は認めるわ。でも、だからといって、私が力を貸す理由にはならない。貴女の知る八雲・紫がどんな存在であれ、私が貴女と逢うのは今日が初めてだもの。無理を言わないで」
 それは当然の話だ。だから、どうにか説得を始めようとして――私が考えを纏める前に、アリスが口を開いていた。
「待ちなさい」
「何かしら」
「貴女にはそれを為し得る力があるんでしょう? なら、力を貸してあげれば良いじゃない」
 射抜くような視線を向けながら告げるアリスに対し、紫は表情を変える事無く、
「――幻想郷に災厄を招く種になるかもしれないのに?」
「……なんですって?」
 そうだ、その通りだ。紫からしてみれば、私の世界に居る八雲・紫が他世界への侵略を目論んでいる可能性も考慮しなければいけないのだ。私は斥候として、こちらの世界に送り込まれた人材なのかもしれないのだから。
 でも、そんな事は有り得ない。貴女が幻想郷を愛するように、私の知る紫も幻想郷を愛しているのだから。
 そう伝えようとするよりも早く、紫が言葉を紡ぐ。
「それに、魔界の住民を信じろというのも無理な話。アリス、それは貴女も解っている事でしょう?」
「ッ!」
 アリスの頬に朱が差す。それは魔界の住民を少なからず危険視しているという事。あの暖かな世界を否定しているという事だ。
 一応は予測していた状況ではあったけれど、どうしようもない怒りが込み上げて止まらない。その瞬間、アリスは紫へと動き出していて――彼女を止めなければいけないのに、その判断が遅れてしまった。
 だから、
「私達を理解しようともしない癖に!」
「アリス!」
 制止の声は届かず、戦いの始まりを告げるように、アリスが魔法を発動させてしまった。
 冷え切っていた周囲の温度が更に下がり、一瞬で生み出された氷弾が紫を包囲するように展開し、増殖を繰り返しながら高速で放たれる。しかし紫はそれを踊るように回避しながら、何気ない動作で私達へと光を放った。
 それはあらぬ場所から放たれる無限の超高速飛行体。明らかにこちらを殺す勢いで生み出されたそれはまるで豪雨のよう。暗黒色の光が、一瞬にして視界を埋め尽くしていく。
「ッ!」
 もし断られたらもう一度頼み込みに来よう、なんて気持ちは一瞬で吹っ飛んだ。高速で飛来するそれを紙一重で回避しながら、詠唱へと入るアリスを守護するように人形を飛ばす。到底防ぎ切れる数ではないけれど、無いよりはマシだ。続くように予備の人形を周囲に配置しようとして――こちらからは攻撃出来ない事に気付いた。
 魔界を侮辱するようなあの態度には怒りを感じるけれど、だからといってアリスの攻撃を手伝えば、八雲・紫の力を借りようとしている自分の立場が危うくなる。自己の利益だけを考えたくは無いけれど、彼女の力は何よりも強く確実なのだ。耐えるしかない。
 でも、黒衣のアリスは違った。激昂してしまったのだろう彼女は盾による防御で生まれた時間を使い自身の魔法を発動させ、直後背後に現れた紫へと蹴りを放つ。紫はそれを手にした傘で軽く防ぎ、アリスの顔面へと向け魔法陣を展開。その魔方陣を打ち消そうとアリスが腕を上げた瞬間、横薙ぎに傘が振るわれた。人形達の盾は呆気なく打ち壊され、その一撃がアリスの細い体を捉えようとした瞬間、紫が立っていた場所へと火柱が吹き上がった。それが先程アリスが発動させた魔法なのだと気付いた時、視界一面に傘が開いていた。
「しまッ――」
 車輪のように高速回転する卍傘に吹き飛ばされ、息が止まる。それでもどうにか体勢を戻そうとした瞬間、九尾の狐の追撃が来た。
 そういえば式神が居たんだっけ。そんな事を今更ながらに思い出しながら、境内に植わっている大木へと激突した。
 痛い。凄く痛い。
「アリス?!」
 遠く、アリスの上げた悲痛な声が聞こえた。全く、私を心配する余裕なんてないだろうに。なんたって相手はあの八雲・紫なのだから。
 でもまぁ、このまま殺される訳にもいかない。咄嗟に受身を取る事が出来た自分を褒めつつ体を起こし――上空に気配。反射的に盾で防御するも、硬質な音と共に盾が破壊され、成す術も無く三体の人形が消し炭へと変わる。
 不味い。
 そのまま転がるようにしてどうにか距離を取り、しかし、停止した体を狙うように再び八雲・藍が現れる。高速回転する彼女の一撃を既の所で回避すると、彼女はそのままスキマに消えず、私へと向けて大量のクナイを投擲してきた。刺さったらただでは済まないそれに血の気が引くのを感じながら、残り少ない人形達に盾を展開させつつ必死に逃げ回り――
「橙」
 嗚呼、こっちの世界でも八雲一家は揃っているのか。
 刹那、鬼神の一撃が人形達を消し飛ばし、私の身体を容赦なく打ち付ける。一瞬の浮遊感と共に体が舞い上がり――次の瞬間、まるで蝿でも叩くかのように下方向への加速が追加された。
「――ッ」
 衝撃に声も出ない。一応これでも妖怪をやっている以上、物理的な衝撃にはある程度強いけれど、如何せん相手が悪過ぎる。
 どうしよう、左腕の感覚が無い。繋がってはいるのだろうけれど、もし無くなっていたら最悪だ。人形を作るのに倍の時間が掛かってしまう。嗚呼、最悪だ。
 でも、まだ死んではいないから、立ち上がる。  
 息を整える。一応左腕は有ったけれど、次の瞬間には消えてしまいそうなほど攻撃に容赦が無い。どうしようもない。誰だよ八雲・紫に協力を頼むとか言い出したのは。
 私か。
 でも、このままじゃあ本当に不味い。魔法で防壁を生み出すにしたって、呪文を唱え上げる余裕すら無い。人形達の数も少なく、しかもこちらから積極的に攻撃する事は出来ない。もしスペルカードを使うにしたって、これじゃあカード宣言も何も――
「って、別に宣言する必要は無いわよね」
 気を抜いた瞬間には首が飛ぶ。心臓が止まる。存在が消滅する。そんな状況下で悠長に宣言なんてしていたら、命が幾つあっても足りやしない。
 でも、それでも、普段はそれが当たり前で――って、そうだ。それが当たり前だったのだ。私の場合は、私達の世界の場合は。
 なんだ、あるじゃないか。この状況で、私の世界がこの世界を脅かすものではないと示す方法が一つだけ。信じて貰えるかは解らないけれど、それでも行わない訳にはいかない。殺されてしまってからじゃあ、何もかもが遅いのだから。
 そうして、懐から一枚のカードを取り出した瞬間、
「やはり、信じる事なんて出来ないわね」
 アリスが放つ魔法を回避しながら、しかし私をしっかりと見て紫が言う。
 それは当然の事だろう。そもそも信頼の値が低く、突然攻撃までされてしまえば、信じろというのが無理な話だ。それでも、私はここで諦める訳にはいかない。
 だから、言葉を放つ。
「――いいえ、信じてもらうわ」
 貴女達の戦いとは違う、私達の世界に存在するルールを持って。

 さぁ、『弾幕ごっこ』を始めよう。





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