この青い空の下、君の隣に。

――――――――――――――――――――――――――――




「――霊夢! ……う?」
 あれ?
 声と共に飛び起きた私は、何故か自室の――霧雨邸のベッドの上に居た。
 上手く状況が掴めず、混乱の浮かぶ頭を持ちながら目を白黒させていると、すぐ隣から声が返って来た。
「私はここよ」
 声に視線を向けると、そこには珍しく疲れた表情の霊夢が椅子に腰掛けていて、私へと優しく微笑んだ。
「え、あ……?」
 間抜けな声が出る。これは一体どういう事だ?
「私は霊夢と戦ってて……いや待て。そもそも私は外の世界で……!」
 慌てながら右手を見ると、子供っぽい手に指が五本生えていた。そのまま妙に力の入らない体を起こし、焦る心を抑える事が出来ないままに布団を剥ぎ取ると、寝巻き変わりに穿いているズボンの中に手を突っ込んだ。そのまま恐る恐る足に触ってみると、醜く腫れていた火傷の跡が無い。ズボンを少し下げて覗き込んでみれば、シミ一つ無い太ももが顔を覗かせていた。
 それに心の底から安堵しつつも、まだ頭には不安がある。だから私はベッドの近くにある棚から手鏡を手に取り、恐る恐る覗き込み……そこにあった若いままの顔に、安堵の息が漏れた。
「でも、一体どういう事なんだ?」
 手鏡を置きつつ呟く。もう何がなんだか解らない。
 そんな私へと霊夢は苦笑し、そして棚の上に置かれた小瓶を手に取ると、
「これに見覚えが無い?」
 言って、私にその小瓶を手渡してきた。それは普段私が実験に使うサンプルを保管する為に使っている小瓶で、今は何も入っていない。しかし頭の隅に、これに何かを入れた記憶があった。
「あー……確か、」
 そう、確か、アリスの家にあった薬を興味本位で貰って来たんだった。絶対駄目だと注意を受けたけれど、こっそり幾つかくすねて小瓶に入れ、家に持ち帰った記憶がある。だが、それが一体――と、そう思考を動かしていた所で、部屋の中に意外な人物が入ってきた。
「ああ、漸く目が覚めたのね」
「……えーりん?」
 月の頭脳であり町のお医者さんでもある彼女がどうして私の家に居るのだろう。
 それを問い掛ける前に、天才はすぐに答えをくれた。
「色々と混乱しているでしょうけれど、最初に結論を言っておくわ。貴女が今まで見ていたのは、全て夢よ」
「……夢?」
「そう。レム睡眠時に脳が見せるアレね。そしてその原因は、その小瓶に入っていた薬」
 言いながらベッドの傍までやって来ると、永琳は私の手の中にある小瓶へと視線を向け、
「貴女が飲んだこの薬は妖怪用に――小瓶に僅かに残っていた成分から見て、私がアリス用に調整したものだったから、人間である貴女には強い副作用が出てしまった。その結果、貴女は夢の世界に閉じ込められそうになってしまったの」
 ああ、だからあの時、アリスは絶対に駄目だと強く注意してきたのか。てっきり冗談かと思っていたけれど、まさか本当に危険な薬だったなんて。
 って事は、
「じゃあ何か? あの外の世界も、私の娘も……あの十五年間の月日が、全部夢だったって事か?」
 疑念と共に問い掛ける私に永琳は頷き、
「ええ、そうよ。貴女は一週間以上眠り続けていて、その間に十五年という月日が経ったと錯覚したの」
 普段見ている夢がそうであるように、状況が転々と変化しても、そこに違和感を持つ事は少ない。そういった現象が積み重なり、結果的にそれが十五年という時間の経過を錯覚させたのだという。
「じゃあ、どうして霊夢が私の夢に?」
「それは……」
 答えようとする霊夢の声に続くようにして、そのすぐ背後の空間に亀裂が走った。
 亀裂は口を開くように無音で広がり、そこからにゅるりと顔を覗かせた女性は、私の顔を見ると少し驚き、そして微笑んで、
「良かった。目が覚めたのね」
「紫……」
 呟く声がどうしても小さくなる。しかし、今度は本物らしい。夢の中で見た少女の顔をちらりと思い出しながらそんな事を思い、同時に合点が行った。
 と、それが顔に出てしまったのか、霊夢が小さく頷き、
「私があんたに逢いに行けたのは、紫の力で夢と現実の境界に隙間を開いて、そこへ私の意識を送り込んだから。あんたを起こせるかどうかは賭けだったけど、結果はこの通りね」
「賭け?」
「そう。あんたの夢の中で、私は一度帰ろうとしたでしょう?」
 あの夢の世界は薬の効果によって生み出されたものだった。そしてその主人公は私の為、私が『幻想郷に帰りたくない』と考えてしまうと、外から入り込んできた霊夢ですらその影響を受けてしまう。だから彼女は一度私に背を向けて、しかし私が迷った事で再び夢の世界に留まる事が出来た。
 そして今度は、弾幕を放つ事で強制的に私の意識を弾幕ごっこへと向けさせた。私にとって霊夢との弾幕ごっこは日常の象徴でもあるから、それを切っ掛けに目覚めを促そうと計画していたらしい。
 でも、私が『まだまだ弾幕ごっこを続けたい』と願ってしまったから、夢の一部である娘の声が聞こえてしまった。それでも結果的に霊夢を選んだ事で、私は夢の世界から覚める事が出来た。
「途中で時間が無いって言ったのは、夢の世界に干渉出来る時間が限られていたから。あれ以上長く留まり続けていると、今度は私が戻って来れなくなっていたのよ」
「……結構危ない所だったんだな」
 変わらない姿のままで現れた霊夢に疑問を抱かなかったのは、それが夢の中だったからだ。そして夢の中であるという事を霊夢が直接指摘しなかったのは、それを告げても信じない事が解っていたからだろう。夢の中を現実だと思い込んでいた私に『ここは夢だ』と告げた所で信じられる訳が無いし、もし信じたとしても、目を覚ます方法が無い。今回は消えていく霊夢を追いかけるような形で目を指す事が出来たから良かったものの……もし家にやって来た霊夢を引き止めず、弾幕ごっこを行う事が無かったら、恐らく私はあのまま夢の世界に居続ける事になったのだろう。そこには幸せがあると、どうしてか信じてしまっていたのだから。 
 となると、だ。そもそもの発端である結界の穴はどうなったのだろう。もしかするとあれも夢だったのだろうか? それを霊夢と紫に問い掛けると、彼女達はあっさり頷き、
「夢に決まっているでしょう。結界に穴が開くようになるまで放置するなんて有り得ないわ」
「霊夢の言う通りよ。そりゃあ神隠しを行っているのは私だけれど、幻想郷の住民が外に迷い出てしまう前に結界の揺らぎは元に戻すもの」
 そう答える二人の言葉を聞いて、今度こそ全身から力が抜けた。どうやら全てが私の夢だったらしい。
 でも良かった。外の世界が本当にあんな風なのかは解らないけれど、結界の外へ放り出されたら最後、相当辛い目に合うだろうという事を実体験……とは違うが、嫌という程感じる事が出来たのだから。
 と、安堵する私を他所に霊夢が静かに立ち上がった。そして小さく「じゃあ、私は帰るわね」と告げると、振り返る事無く部屋を出て行ってしまった。
 あっさりとしたその動きに何か言おうとするも、間に合わない。助けてもらえたのに、まだ感謝の言葉すら言えていないのだ。思わず私はその背中を呼び止めようとして……嬉しげな紫の声に邪魔された。
「でも、本当に良かったわ。みんな心配してたんだから」
「……本当かよ?」
「ええ、本当よ。特に霊夢が一番、ね」
 突如音信不通になった私に対し、一番最初に疑問を持ったのは霊夢だったらしい。彼女の勘は私の為にも働いてくれたらしく、わざわざ様子を見にこの霧雨邸にまでやって来た。しかし何をやっても起きない私を不審に思い、彼女はすぐさま永遠亭へ飛んだ。
「あの霊夢が妙に急いでやってくるんだもの。あれには驚いたわ」
 それでも話を聞いた永琳はすぐに状況を理解し、複数の仮説を立て、紫へと手助けを求めた。
 そして呼び出された紫が隙間を開き、私の夢に干渉したのだという。
「でも、良くそんな事が出来たな」
 改めて聞かされ、驚きと共に問い掛けると、紫は笑みと共に、
「私だけの力じゃないわ。霊夢が頑張ったから、貴女を助ける事が出来たのよ」
 その言葉に、ますます何かお礼を言わなくては、という気持ちが大きくなっていく。だから私は力の入らない体でベッドから降りると、フラフラする体を何とか動かしながら神社へと向かおうとし――今度は永琳に止められた。
「こら、まだ無茶をしてはいけないわ。眠り続けていたお蔭で、体力がかなり落ちているんだから」
「でも、」
「気持ちは解るけど、今は安静にしていなさい。食事だって点滴で取っていたのよ?」
 言いながら永琳が腰を下ろし、私の左手を手に取った。それに従うように視線を落とすと、手首に包帯が巻かれているのに気が付いた。夢の中で怪我をしていたのは右半身だったから、左腕にある違和感には気が廻らなかったらしい。
 動いた事でずれてしまっていたガーゼを直しながら、永琳が言葉を続ける。
「話すのは辛くない?」
「それは大丈夫。……あー、でも、水を一杯くれないか?」
 口から水分を取っていなかった為か、口の中が気持ち悪くて――それを告げた瞬間、自分の口臭が気になって、途端に恥ずかしさが爆発した。うわぁ、霊夢に口の臭い女だと思われなかっただろうか?
 そんな事を悩みながらいると、永琳が私の手を放して立ち上がった。恐らく台所に向かうのだろう彼女の姿を赤い顔で見つめていると、視界の左の方から一本のペットボトルが生えてきた。 
「はい、お水」
 立ち上がった永琳を止めながら、紫が何処からか取り出したそれを手に取る。良く冷えているそれは本来なら知識の中にしかなかった存在で……でも、夢の中では当たり前のように飲んでいた、という記憶があって、一瞬飲むのを躊躇った。
 それでも喉の渇きとべたつきは気になる乙女心。思い切ってキャップを回して蓋を開け、「一気に飲まないで」という永琳の言葉に頷きつつ、小さな飲み口に口を付けた。
 冷たい。
 少しだけ飲んだ水分が食道を通り、胃へと流れていくのを強く感じる。そのままもう二口程飲んだ後、キャップを締めてボトルを棚の上に置いた。
 ……暫くして、吐いた。
 長い時間使っていなかった事で胃の機能が弱り、突然入ってきた水分に対応出来なかったらしい。近くにゴミ箱が転がっていたのが何よりの幸いだった。
 永琳に付き添って貰いながら洗面所に向かい顔や口を洗うと、ゴミ箱の中身を捨て、溜め息と共に部屋に戻った。
 とても、疲れる。
 やはり夢は夢なんだと痛感する。辛い記憶は沢山残っているけれど、現実の辛さに比べたら全然だ。
 そんな事を思いながらベッドに腰掛けると、永琳の声が来た。
「もう一度聞くけど、話すのは辛く無い?」
「ああ、何とかな」
「じゃあ、一つ質問をするわね。貴女が見た夢がどんなものだったのか、ざっと話してみて」
「えっと……」
 夢の中の認識とはいえ、私の中には十五年分の記憶がある。その全てを覚えている訳ではないけれど、印象強く記憶しているものは多かった。それらを話していくと、永琳は納得したように頷き、
「どうやら、ある程度は薬本来の作用も出ていたみたいね」
 外の世界に向かったのは、私の中にそういった欲求が少なからず存在していたからなのだという。でも、そこに悪夢という薬の副作用が発生し、夢の世界から戻る事が出来無くなった。辛いと感じた事柄も、私が無意識に「これは嫌だ」と感じていた事が具現化したものだったのだそうだ。
 だから、私が知らなかったりする事は夢の中では起こっていなかった。例えば幻想郷を出てすぐに立ち寄ったデパートも内部の記憶があやふやだし、アルバイトをしていた時だって、どこでどんなアルバイトをしていたのかは良く覚えていない。ただ、私はアルバイトをしていた、という認識だけが残っていた。
 そして霊夢と弾幕ごっこをした時に怪我が完治していたのは、それこそ夢だったからこそ、だったらしい。弾幕ごっこという状況に相応しい格好や舞台を夢の主人公である私が強く望んだから、夢そのものにも変化がおきたというわけだ。
「悪夢を見せる程の副作用がある薬にそこまでの自由度があったのは、その薬が本来、飲んだ本人の抑圧された思いを発散させるものだったから。解りやすく言うと、良い夢を見る為の薬だったからよ」
 だから私の夢も悪い事ばかりが起きた訳ではなく――例えば自殺を計った私が助かったように、一応は救いとなるものが存在していた。
 しかし、そこは妖怪用の薬。その強い作用は人間には毒となり、悪夢と呼べるような出来事の比率が増えてしまう。そして、いつしか夢は悪夢だけになり、夢を見る者を死へと追い詰める。
「でも、貴女はまだ幸運な方だったといえるわ。アリスに渡している薬は、元々人間だったという彼女に合わせて効果を人間用のそれに近づけた物だったから。もし妖怪用の薬で悪夢だけを見続けたら、三日も持たずに発狂して死んでいたでしょうね」
 薬というのはその成分によって毒にもなる。それを痛感して、私は自分の愚かさを改めて呪った。
 と、それが表情に出ていたのか、永琳が私の顔を覗き込みながら、
「大丈夫? 話を聞くだけでも結構疲れるから、この続きは後にでも……」
「いや、大丈夫。まだ話があるなら、続けてくれ」
 答えた私の顔をじっと見て、そして永琳は小さく頷き、
「じゃあ、続けるわね。……今言ったように、貴女が飲んだ薬はアリス用に調整したものだった。だから、貴女は一週間近く耐える事が出来たの」
 しかし、眠っている最中の私には特に変わった様子はなく、だからこそ夢の中に入り込むタイミングが掴めなかったのだという。しかしそれを見定める事が出来たのは、霊夢の勘に寄る所が大きかった。
 もしタイミング悪く私が悪夢を見ている時にやって来ていたら、霊夢もそれに巻き込まれていたのだ。そうなったら最後、霊夢の意識も夢の中に閉じ込められてしまっていたのだという。
「本当、危ないところだったんだな」
 結構どころじゃなかった。そう思っての呟きに、話を聞いているだけだった紫が頷き、
「少しは泥棒にも懲りた?」
「ああ。今度からは、危険が無いか確かめてから盗む事にするよ」
 困ったように微笑む紫へ苦笑と共に答えていると、永琳が持参したのだろう鞄を自身の膝上に載せた。
 そしてごそごそと中を探り、液体の入った小さな小瓶を取り出すと、
「最後になったけど、これが貴女専用に作った解毒剤よ。見た目はアレだけど、効き目は確実だから」
「……これを飲むのか?」
「飲むの」
 手渡されたそれは綺麗過ぎる青色で、逆に気味が悪い。まじまじとそれを眺めていると、永琳は鞄を閉じながら、
「寝る前に必ず飲みなさい。目を覚ませたとはいえ、副作用が完全に収まるとは限らないから」
「でも、また吐いたりしたら……」
「大丈夫。その頃には胃の調子も戻っているでしょうから、ゆっくり飲めば戻す事は無いわ。でも、もし目覚めている時でも、何か不調を感じたらすぐに薬を飲む事。妖怪用の薬を飲んでしまったのだし、何が起こるのかは私にも予測出来ないから。解ったわね?」
「解った」
 もうあんな夢を見るのは沢山だ。だから私は素直に頷き、小瓶を棚の上に置くと、そのまま背後にあるベッドへと倒れこんだ。薬を飲まなくてはいけない以上、博麗神社に向かうのは休んでからにしよう……そう思っての事だったのだが、どうしたものか、もう起き上がる力すら入らない。
 そんな私の頭を軽く撫でながら、紫が口を開いた。
「私の力でどうにか出来たら、もっと早く夢から救い出せたのだけれどね……」
「……どういう事だ?」
 思わず問い返した私に、紫は普段見せぬ淋しげな表情で、
「薬を飲んだ後の状態から、飲む前の状態へと戻すのは簡単なのよ。でも、この薬が夢を見せる役目を持っていたのが問題だったの」
 夢を見るか否かというのは人によって違う上に、ノンレム睡眠中でも人は夢を見る可能性があり、夢というものの境界はとてもあやふやなのだという。そこへ夢を見せる薬の効果が付属した為、更にあやふやになってしまった。しかも夢というのは常に変化し続ける物の為、その瞬間の境界を変化させても、すぐに別の変化によって打ち消されてしまうのだ。
 そんな状況にある私を無理矢理元の状態に戻すと、意識が夢に取り残され、廃人のようになってしまう可能性があった。だからといって薬の副作用を取り除いても、それが夢を見せる薬である事までは変化しない。そしてその薬は妖怪用だった為、例え副作用が無くても人間には毒になる可能性がある。
 それならばと薬の効果を変化させようと思っても、体内に吸収されてしまった薬と私の間には境界が存在しない。同じように人間用に変化させる事も不可能。
 結果、夢の世界に居続けていた私を紫の力で救い出すには危険が多いと判断され、霊夢が私の夢に干渉する事になったのだという。
「本当は私も手伝いたかったのだけれど、変化の激しい夢の世界と現実の世界とのスキマを開き続けるのが大変で、一緒に行く事は出来なかったの」
 現実世界とは違い、夢は突然山から海に移動したりする事がある。夢の主人公である私はそれに違和感を感じる事は無いけれど、他所から干渉してきた身となると堪ったものではない。意識して隙間を開きなおさないと、変化前の世界に取り残されてしまう場合があるのだ。そうなると、夢の世界に干渉している霊夢が夢の世界に取り残されてしまう事になる為、注意をし続けていたのだという。
「出来れば霊夢以外にも誰かを一緒に向かわせたかったけれど、霊夢だけで手一杯……。まさか、他人の夢に干渉するのがこれほど難しいとは思わなかったわ」
「そうだったのか……。でも、ありがとうな。お前が居てくれなかったら、霊夢が私の夢の中に入ってくる事すら出来なかったんだ。だからさ、そんな顔をしないでくれよ」
 紫が持つ力のお蔭で、今の私があるのだ。だからいつものように笑っていてもらわなくては困る。
 そう告げた私に少しだけ驚いた顔をして、すぐに紫はいつものように笑って見せた。
 その後、暫く二人と話をした。他愛の無い話は全て幻想郷に関する事で、なんだかとても安心する。
 しかし、落ちた体力と言うのは横になっているだけでは戻ってきてくれないらしい。永琳と紫が帰った後になっても、私は思うように行動する事が出来なかった。

 一時間後。
 歩けないなら空を飛べば良いじゃない、という事に気付いた私は、力の入らない体で何とか着替えを済ませた。そして永琳から貰った薬をスカートの中に仕舞って家を出ると、相棒である箒に乗って博麗神社へと向かった。
 しかし、体力が落ちている時は真っ直ぐに飛ぶ事すら難しく、ふらふらと蛇行しながら境内へ突っ込むと、そのまま縁側まで何とか飛び、着地した。
 どうにか靴を脱いで畳の上まで転がっていくと、呆れ顔の霊夢に迎えられた。
 だから私は、逆様に見える彼女へといつものように笑って、
「霊夢」
「ん?」
「ありがとな」
「別に」
 素っ気無く答えて、霊夢がお茶を飲む。
 その何気ない風景が、広がる畳と緑の匂いが、静かな風が、戻って来られたのだという事を強く強く実感させる。
 嗚呼、良かった。
「……しかし、とんだ墓穴を掘っちまったぜ」
「そこから引っ張り上げるのも大変なんだから、これからはあんな馬鹿な事はしないでよね」
「ああ、解ってる」
 私の居場所はこの幻想郷なのだ。外を夢見るような悪夢など、もう二度と見たくない。
 そんな風に思いながら、私は霊夢の近くまで寄って行き……手でちゃぶ台を少しだけ押し退けると、その膝に頭を乗せた。そのまま友達の顔を見上げ――不意に、目に涙が浮かんでしまった。
 それを霊夢に悟られぬよう腕で目元を覆うと、優しい声が落ちてきた。
「お帰り、魔理沙」
「ただいま、霊夢」
 普段言い合う事が無い台詞。だからこそ心に染みて、溢れ出す嗚咽を止める事が出来なかった。

 漸く涙が収まって、それでも霊夢の膝枕に甘え続けていると、少しだけ眠気が襲ってきた。それは同時に悪夢の記憶を脳裏に浮かばせて、慌てて私は目を見開き、襲い来る睡魔とどう闘っていこうかと考え始めた。
 と、それに気付いたのか、霊夢が私の髪を軽く撫で、
「一度目が覚めてるんだし、眠っても大丈夫だと思うわよ? それに、あんたが起きるまで私が傍に居てあげるから」
「でも、」
「不安なのは解るわ。でも、疲れたら眠って休まないと、体力を回復させ始める事だって出来ないのよ? だから、無理はしないの」
 そう言って、霊夢が私の頭を畳の上へと下ろし、
「……もし何かあったら、また助け出してみせるから」
 見上げるままの私にそう告げて、霊夢が寝室の方へと向かっていく。
 彼女を止めるべき言葉はいくらでもあった。でも、私はそれを告げる事が出来なかった。
 何故ならば私は、博麗・霊夢という少女の事を良く知っているからだ。そして彼女が大丈夫だといったら、本当に大丈夫になる事も知っている。
 だから私は霊夢を信じる事にした。
 寝室へと向かうと、普段あまり使われる事が無い客人用の布団が敷かれていた。しかしそれは偶然にも干したばかりなのか、横になると仄かにお日様の匂いがした。湿っぽい魔法の森ではあまり嗅ぐ事が出来ないその香りは、どうしてか優しい気持ちにさせてくれて、自然と心の力が抜けていく。
 仰向けに横たわり、ゆっくりと目を閉じる。
 どうやら思っていた以上に疲れていたらしく、まるで引っ張られていくように眠りの中へ落ちていく。
 願う。
 今度は幸せな夢が見られるように。また、この場所で目が覚められますように。
「……」 
 でも、そんな悩みが杞憂だという事は解ってる。だって私には、霊夢という大切な友達が居るのだから。 
「おやすみ、霊夢」
「おやすみ、魔理沙」
 元気になったら、また変わらない日常が戻ってくる。
 だから今ぐらいは、霊夢の好意に甘えよう。
 暖かな布団の中でそんな事を思い、私は眠りへと落ちた。





――――――――――――――――――――――――――――
次へ

戻る

――――――――――――――――――――――――――――
目次

top