剣を持ったお姫様。

――――――――――――――――――――――――――――

4

 次の日。
 里に降りた私達は……というか私は、早速驚きを得る事になった。
「ほ、本日千秋楽……」
 タイミングが良いのか悪いのか、本日でこの演劇は終了、というのぼりが幾つも並び、風に吹かれて揺らめいていた。
 しかし、まだ開演まで一時間以上ある為か、流石に人の入りはまばら。どうやら劇場内で演劇を見る事が出来そうだ。
 と、そわそわとしながら歩く私に、隣から楽しげな声が来た。
「あらあら。やっぱり少し急ぎ過ぎたみたいね」
「す、すみません、幽々子様……」
 顕界へと降りるのが早かった理由は、私が焦る心を治める事が出来なかったからだ。そして今も、落ち着く事すら出来ていない。
 そんな私に、幽々子様は優しく、
「構わないわ。楽しみを待つ時間というのも、良いものだもの。……でも」
「……でも?」
「……ううん、何でもないわ。後で解る事だから」
「?」
 何か言いたそうにしつつも、しかし幽々子様は微笑みのまま。しかし、そこに少しだけ真剣な色を見た気がして、私は首を傾げた。
 だが、それ以上に心が焦る。
 浮かんだ疑問は頭の隅に追いやりつつ、私は幽々子様を引き連れて、劇場の中へ入る為に歩き出し――不意に、
「……全くこんな時に!」
 という声と共に、劇場の裏から慧音が飛び出してきた。
 その顔には普段見慣れぬ焦りがあり、一体何事なのだろうかと私は首を傾げ、
「――! 妖夢か?!」
 見つかった。
 そして彼女は一瞬で私の正面へと走り寄ると、少し上がった息を整える事もせず、
「丁度良い所に! ちょっと来てくれ!!」
「え、えぇー?!」
 声を上げるがもう遅い。
 慧音に手を掴まれた私は、そのまま劇場の中へと吸い込まれた。

……

「……つまり、こういう事ですか? 役者さんの一人が怪我をしてしまって、代役を探しても見つからない。そんな時、私を見つけて声を掛けたと」
 実際には拉致という感じだったが。
 兎も角慧音や他の人々から聞いた話を総合すると、今呟いた通りの事が起こっているらしい。
 少し戸惑いのある私に、しかし慧音は必死な表情のまま、
「ああ、その通りだ」
「ですが、私は演技なんで出来ません……」
 今までそれに触れ合う機会すら無かったのだ。いきなり本番の舞台に、しかも千秋楽の日に立ち会えなどと、無謀以外の何者でもない。
 しかし、慧音は私を安心させるように言葉を選びながら、
「大丈夫。主人公が殺陣を行うシーンがあるんだが、そこでの切られ役なんだ。少々立ち回ってもらうが台詞も無いし、出番も少しだけだから」
「ですが……」
「頼む! 人数合わせなら誰でも出来るが、実際に剣を……練習無く剣を扱えるのは、今この場では妖夢しか居ないんだ……」
「……」
 頭を下げる慧音に、しかし言葉を返せない。
 出来るなら頷きたい。というより、普段の私なら頷いている所なのだろう。こうも必死に頼まれたら、断る事など出来ない。けれど……けれど、今はあの人の姿を見たいという気持ちが強いのだ。  
 慧音もその事には気付いている筈。それでも尚頭を下げるのは、里の皆が楽しみにしている演劇だからこそ、なのだろう。
 一体どうしたら……そう悩み始めた私の背後から、不意に声が来た。
「慧音」
 瞬間、鼓動が跳ね上がる。
 一瞬で固まってしまった私の横を、彼がゆっくりと通り過ぎる。そして慧音の頭を上げさせ、少し言葉を交わすと、こちらに振り向い、た。
 私より身長が高く、細い体。少し長く癖のある黒髪。舞台に立つ為か化粧をしているその顔は中性的で、
「――ッ」
 一瞬ちらりと見ただけで、私はもう彼の顔を見る事が出来なくなった。
 顔が熱い。恥ずかしい。早鐘を上げる鼓動が耳に五月蝿い。もっとしっかりその顔を見つめたいのに、高まり続ける緊張に体が動かない。
 けれど彼は、そんな私へと覗き込むようにしながら、
「キミが、妖夢さん?」
 その声はすんなりと耳を通り脳へ突き抜け全身を満たす。
 私の名前を呼んでくれた。ただそれだけの事なのに、この体は壊れてしまいそうで。けれど彼はそんな私の動揺や緊張に気付く事無く、真剣みを持って言葉を続ける。
「慧音から話は聞いたよ。突然こんな事を頼まれては、迷惑なのは解っている。でも、どうか――」
 私に協力を仰ごうと、彼の言葉が続く。
 唯一正常に動いていると思う耳から入ってくるその声は、どうしてか思い描いていたものとそっくりで。ただその声を聞いているだけで思考は廻らず、緊張は止まらず、壊れそうな体は今にも倒れてしまいそう。
 嗚呼、もう少し上手く立ち回れると思っていたのに。
 と、
「……妖夢さん?」
「は、はい!」
 響いてきた心配げな声に、物凄く素っ頓狂な声が出た。それでも視線は上げられなくて、そんな私に彼は諭すように、
「頼む。引き受けて頂けないだろうか?」
 自分がこれからどうして良いのかが解らない。でも、これを否定したら、彼に嫌われてしまうかもしれない。
 ――それだけは、駄目だ。
「えっと、その……ほ、本当に、私、なんかで……?」
「ああ。キミの協力が必要なんだ」
「わ、解り、ました……」
 小さな声でそう答えて頷くのが、今の私の精一杯。

 でもこれで、完全に逃げ道が無くなった。
 私は、この人が好きなのだ。
 心の底から、自分でも理解出来ないぐらい、強く。

……

 そうしてOKを出した私は急いで楽屋へと連れて行かれ、軽い化粧を施された後、大急ぎで着替えを行う事となった。しかし、着慣れぬ衣装と舞台に立たなくてはいけないという緊張、そしてあの人の近くに居るという興奮が私から冷静さを失わせていく。
 けれど慧音から模擬刀を二本受け取り、それを構え始めたら、少しだけ落ち着く事が出来た。普段使い慣れている楼観剣と白楼剣とは重さも尺も違うけれど、しかし剣を構えている時は無意識に意識が切り替わる。その切り替えは完璧なものではないが、それでも先程までの状態に比べたら、十分過ぎる程に冷静になる事が出来ていた。
 これも鍛練のお蔭だろうか。でも、想い人の近くに居るだけでこうなってしまうようでは、まだまだ精神的に未熟過ぎる。改善しないと。
 軽く剣を振りながらそんな事を考え、しかし急かされるようにして、私への演技指導が始まった。
 台詞も無く、ただ殺陣に参加するだけとはいえ、立ち回るのは然程広い訳ではない舞台の上。一歩間違えば怪我をする可能性もあるし、最悪観客に怪我をさせてしまう可能性だってある。そうならない為の最低限の動きを教えられ、実際に軽く型を行い、それを何度か繰り返していた所で……興奮を帯びた観客の声と共に、幕が上がった。
 そして私は最後にもう一度動きの確認をして、あとは出番を袖で待つ事となった。
 体を動かした事で、かなり落ち着きを取り戻す事が出来ていた。しかし、すぐ目の前で演技を行う彼の声を耳にする度、心が大きく震えていく。
 立ち振る舞う彼の声は朗々たるもの。少し強めの照明の下で動き回っている為にその顔を確認する事は難しいが、けれどその動きはとても生き生きとしているように思えた。
 そして、
「妖夢、出番だ」
「はい」
 聞こえて来た慧音の声に頷いて、大きく深呼吸。そして私は役者達の中に混じり、舞台へと歩き出した。
 物語の内容は、妖怪に襲われている娘を、彼が……主人公が助け出す所から始まる。
 助けた娘は近くにある村に住んでいた。是非お礼がしたいという娘に案内されて主人公が村へとやってくると、何かがおかしい。実りが多く豊かそうに見える村なのにも拘らず、どうも村人達に覇気が感じられないのだ。
 訝しんだ主人公が娘にそれを問いただすと、実は妖怪が村を牛耳っているのだという。妖怪達はせっせと働いた村人の蓄えを、その力を使って搾取していたのだ。
 それに怒った主人公は妖怪退治に繰り出し、村に害成す妖怪達を倒すべく奮闘していく。
 その最中、妖怪に操られた人間が主人公と戦うシーンがあり……そこが、私の出番となっていた。
 照明が暗くされ、夜という設定になった舞台。他の役者達と一緒に袖から出ると、観客席から声が上がった。もう何度も切り倒されている彼等の登場は、お決まりだからこそ応援したくもなるのだろう。けれどその中には、少々驚きの声も混ざっていた。半霊と一緒に居るせいか、私の姿が目立ってしまっているのかもしれない。
 それを思ったら一気に緊張が高まり出し……しかしそれを遮るように、先頭に立っていた男性が彼へと向けて啖呵を切った。
「やいやいやい! てめぇかぁ?! ここいらで調子こいてる野郎ってのは?!」
 打ち合わせ通りなら、挑発から始まり主人公がそれを軽くあしらい、しかし妖怪に力を与えられている男は刀を抜き、
「お前ら! この生意気な野郎を殺っちまえ!!」
 男性の声と共に全員が刀を抜き、それを習うように私も刀を抜き、構える。
 そして彼が刀を抜くのを待ってから、
「おらぁ!!」
 最初の一人が切り掛かった。
 後は、切られる順番を待つだけだ。けれどこの待っている最中も観客に見られている為、気を引き締めていなければいけない。更に男達もすぐに負けてしまう訳では無い為、少しずつ間合いを取り、立ち回らなければ――
「ぎゃあ!」
 ぎゃあ?
 そんな台詞聞いてない、と思う私の目の前で、五人居る男達が一瞬の内に切り伏せられていく。流石に負けるのが早すぎるだろうと混乱し始めた私へと、彼がゆっくりと間合いを詰めて来た。
 そして振り下ろされた剣を受け止め、弾き返して後方へ下がる。対する彼は私と同じように後方へと下がると、脇差しを抜き二刀での構えを取った。そして静かに、容赦なく私へと距離を詰める。
「くッ!」
 一体どういう事なのか。威力を込められた一撃を受け止め、弾き返し――無意識に打ち返す。
 混乱が拡がり、しかし体に染み付いた剣の心得は打ち込まれる刀を次々に受け止めていく。その度に観客からは声が上がり、私達を包み込んでいく。恐らく、これも演出の一つだと思われているに違いない。
 だが、狭い舞台の上で、尚且つ暗い状況で戦わされている身にもなって欲しい。彼の表情を窺おうにも、その長い髪と暗さに隠れて良く解らない。
 と、そう思考を挟んでしまっていた為か、一瞬の隙を付いて彼の剣が振り上げられた。それを受け止めた私は、しかし普段とは勝手の違う模擬刀に力加減を誤り、
「ッ!」
 瞬間、刀は手から弾き上げられ、観客席の方へと吹き飛んだ。しかし、観客席へと落ちてしまう可能性があったそれは、舞台と観客席の間に生まれた見えない壁に防がれ、落ちた。
 突然の事に観客から驚きと混乱の声が上がる。それは私も同じだった。
「……結界?」
 どうしてそんなものがこんな所に? というか、あるならあるで、どうして教えてくれなかったんだろう?
 殺陣の最中だというのにそんな事を考え――次の瞬間、相対していた彼が振るった剣の一撃をぎりぎりのところで受け止めた。どうやら、彼は殺陣を中止するつもりは無いらしい。彼の刀を弾いて間合いを取り、柄を両手で握ると、私は彼へと再び相対した。
 体に冷静さが生まれていくのが解る。それはドキドキしてはいるけれど、しかし感じている緊張は別のものへと変化した。
 劇は続く。戦いは続く。負けて死ぬ事は無いけれど、怪我はするかもしれない。だったら、もっと真剣にならなくては。
「――ッ」
 深呼吸と共に息を整え、地を蹴った。
 彼の立ち回りは予想していたものよりも遅く、剣筋もそこまで速いものでは無い。それに、私の剣と流儀が似ているのか、攻撃の流れはある程度予測出来ていた。あとは小回りを聞かせて立ち回れば……負けは無い!
 一度は混乱した観客も、一対一の殺陣の様相に再び興奮を高めていく。まるで、それが彼の狙いであるかのように。
 そして幾度かの打ち合いのあとに彼と間合いを取り、息を整えた時――不意に、私はある事に気が付いた。
「……負けなきゃ」
 いつの間にか本気になりかけていたが、主役は彼で私は斬られ役なのだ。そろそろ負けてしまわないと不味いだろう。
 そう判断した私は、彼へと突っ込む勢いはそのままに、彼の刀を受ける為に敢えて遅れて斬り掛かった。
 しかし、それが間違いだった。
 攻撃のタイミングを遅らせた私に対し、彼の攻撃は先程までと同じ速さだった。その結果、腕を下ろす体勢のまま、私は彼の攻撃射程に入り、
「ッ?!」
 切り上げていた彼の刀が私の左腕を打ち付け、その衝撃で袈裟に斬り込んでいた私の剣筋がブレた。しかし動き出したベクトルは止まらず、私の刀は彼の顔面へ。彼は咄嗟にそれを回避しようとし――次の瞬間、大きな音を上げて後方に倒れた。
 剣を振り上げていた所で体を逸らせたのだ。踏ん張りが効かなくなってしまったに違いない。
 妙に冷静な頭でそう思い、刹那、全身から一気に血の気が引いていくのを感じた。
「ど、どうしよう……」
 彼に怪我を負わせてしまったかもしれない。それに、まだこの先にも演劇は続いていくのだ。しかも、妖怪が人間の村を襲い始めた理由などの、エンディングに関わって来るような重要な展開が待っている。けれど私が彼を倒してしまった事で、そこから先の物語が滅茶苦茶になってしまった。よりにもよって、今日は千秋楽だというのに。
 どうしようどうしようどうしよう……。
 混乱と動揺が全身を包み込み、刀を持ったまま突っ立つ事しか出来ない。観客達は何が起こったのか理解出来ていないのか、呆気に取られた顔で私を見ていた。
 このままじゃ駄目だと思うのに、何をしていいのか全く解らない。真っ白になってしまった思考では、もう考える事すら出来ないのだと知った。
 と、そんな時だ。まるで私に救いの手を差し伸べるかのように、突如女性の笑い声が響き渡った。

5

 その瞬間、劇場を包んだのはざわめきと驚きだった。
「よくぞその男を倒してくれたわ」
 楽しげな声と共に現れたその女性は、私の頬をそっと撫でながら妖艶に微笑んだ。
 でも、私には何が起こっているのかが全く解らない。
 どうして……どうして貴女がここに居られるのですか?
「紫様……」
 突如隙間を開いて現れた女性――八雲・紫は、優雅な動きで観客席へと体を向けると、
「これで邪魔者は消え去ったわ。この村は、今度こそ私のものになる」
 そう、まだ演劇が続いてる事を告げた。
 しかし、紫様の登場という状況に驚いていない者は居ないのだろう。静けさに包まれた劇場で、誰一人声を発する事が出来ずに居た。
 当然私もその中の一人で、これからどうして良いのかが解らず、助けを求めるように紫様を見上げ……不意に、私のすぐ側で声が上がった。
「……まだ、終わっていない」
 それは彼の……声? いや、何か違う。何かが違う。何故ならば少し低めだったその声は、今や少し高めの声に変わっていたのだから。
 それに混乱する私の目の前で、彼がゆっくりと立ち上がり、そして着ていた着物に手を掛けた。
 同時に紫様が私達と距離を取り……彼はそれを待ってから、
「今度は、本気で相手をしよう!」
 ドン、と。
 まるで照らし合わせたかのように鳴り響いた太鼓の音と共に、暗かった照明が完全に落とされ、舞台が暗転。しかし太鼓の音は続き、その激しさを増して行く。
 そして、その腹に響くその音色が最高潮に達した瞬間、一際大きく響いた音と共に一斉に照明が灯され――現れたのは、儚い影。
「――この姿で」
 太鼓が鳴り響く。
 いつの間にか天井から舞い始めた花びらの中、私の正面に立った彼――いや、彼女の顔は、普段見慣れぬ凛々しいもの。
 直後、太鼓がもう一度大きな音を上げ、乱打が終わる。
 再び訪れた奇妙な程の静けさの中、優雅に舞い散る花の中、幽々子様は私へとそっと手を差し出し、
 
「妖夢、手伝いなさい」


6

 遠く、声が聞こえる。
「! 貴方達、仲間だったの?!」
「そう。今までの姿も、そして今の戦いも、全ては貴女を倒す為の嘘!」
 太鼓の音が響く。
 彼はもう居ない。
 動き始めた演劇に、歓声が上がる。
 声が聞こえる。
「かくなる上は……!」
 結界で区切られた舞台の上、紫様の隙間から魑魅魍魎が溢れ出す。
 対する幽々子様は、優雅に舞うように、死蝶霊を生み出していく。
 太鼓が鳴り響く。
 戦闘が始まる。
 歓声が上がる。
 彼はもう居ない。
 死蝶霊に触れた魑魅魍魎が砂へと変わる。
 歓声が上がる。
 歓声が上がる。
 彼はもう居ない。
 太鼓が鳴り響く。
 太鼓が鳴り響く。
 彼はもう居ない。
 戦闘が続く。
 戦闘が続く。
 彼はもう居ない。
 ……。
 ……。
 彼はもう居ない。
 ……。
 ……。
 ……彼が、居ない。
 



 彼は、居ない。





 気付けば、演劇は終わっていた。


7

 本番終了後、紫様の力を使って楽屋へと移動した私は、やり遂げた顔をしている二人へと声を放った。
「……一体、どういう事なんですか」
 私の言葉に、二人の動きがぴたりと停止したかと思うと、私の表情を窺いつつ、
「あはは……。怒らないで、ね?」
「今日の事は、私と幽々子で決めた事なのよ」
 そう幽々子様に続くように紫様が口を開き、そしてこの演劇のタネ証しが始まった。
「私が男役をやっているのを知っていたのは紫だけ。他には誰にも教えていないの」
「それで、着替えや移動は、私の力を使って時間を省略したの。冥界から直接だと、妖夢に見つかってしまうから」
「でも、妖夢が気付いていなかったとは思わなかったのよぅ」
「私も、妖夢なら気付くと思っていたんだけど……」
「……すみません」
 小さく頭を下げて呟いた私に、しかし幽々子様は首を振り、
「謝るような事じゃないわ。何も言わなかった私達も悪いんだもの」
 そして……化粧を落としていないままの顔で、幽々子様は聞いてきた。
「そうそう、聞きそびれていたけれど……妖夢は一体、誰を好きになったの?」
 ――その、瞬間、
「――――」
 何かが、ぴしりと、割れるような音が、聞こえて、


――――――――――――――――――――――――――――


 その瞬間、大きな音を上げて扉を開け、慧音が楽屋へと飛び込んできた。
「紫! 幽々子!!」
「……じゃあ、私はこれでー」
「ま、待て!!」
 そう慧音が叫び、伸ばした手の先に居た紫は、笑みを持って隙間の向こうへと消えていた。
「逃がしたか……!」
 悔しげに呟き、空を掻いた手を下ろす。しかしすぐに顔を上げると、慧音は幽々子へと視線を向け、
「何かするなら、一言ぐらい言っておいてくれ……。妖夢にやられた時はどうしようかと思ったぞ……」
「ごめんなさいね。物語の黒幕が紫なら、最後にこういうどんでん返しも必要かと思って」
「全く……」
 呆れと共に慧音が言葉を返す。けれどその言葉に怒りは無く、結果的に大盛況に終わった事への喜びもあるのだろうと幽々子は感じた。
 だが、慧音は表情を改めると、
「しかし、お前が男装をして来るとは……。皆、彼が西行寺・幽々子だったとは気付いていなかったから、かなり驚いていたよ」
「それはもう、見抜かれないように頑張ったもの。それに、今日は最初からああするつもりだったの。太鼓や花びらの演出も、ずっと考えていた事だから」
 微笑んで幽々子が告げ、そしてタネ証しの続きを始めていく。
「まず……」
 全ての始まりは半年以上前に遡る。
 外の雑誌を読んでいた紫が、突然『これよ!』という声と共に西行寺家へと現れた。いきなりの事に驚く幽々子に紫が差し出した雑誌には、ある演劇が紹介されていた。
 だがその演劇は一風変わっていて、どうやら登場人物全員が女性で構成されており、男役も女性が行うのだという。
 面白い試みだとは思いつつ、しかしそれがどうしたのだろう、と首を傾げる幽々子に、対する紫はとてもとても楽しそうな笑みを浮かべ、
『普段はおっとりしている幽々子が凛々しい男性を演じたら、一体どんな演技が見られるのかしら』
 という、少々無謀に思える言葉を告げた。
「始めはすぐに正体が解ってしまうからって、相手にしなかったの。でも……」
 紫が用意した黒髪のカツラに、身長を高く見せる厚底の靴。更に化粧をして肌の色を明るくした結果、姿見の向こうに居たのは西行寺・幽々子ではない別人の姿だった。
 更に声を作り、歩き方を変え仕草を変え……といった事を繰り返していく内に、少しずつ幽々子も乗り気になっていた。
 そして紫が台本を持って里へと向かい、演劇を行うという話が進んでいく。
「それでも、里に下りるまではすぐに見抜かれてしまうかと思っていたけど……存外平気だったのには驚いたわ」
 実際、幽々子が男として舞台に上がっているとは、役者を始め誰一人として思ってはいなかった。
 中には幽々子と面識があり、似ていると思う者は存在した。
 しかし、そう思う者達程、
『まさか、彼女がそんな事をする筈が無い』
 そう判断し、疑う事が無かった。
 何故ならば、普段の幽々子を……あの掴み所の無い、柔らかく微笑む彼女を知っているからこそ、凛々しく朗らかに笑う彼とを結び付ける事が出来なかったのだ。
「あと、演技は紫と一緒に猛勉強したの。剣の勉強もその時に。まぁ、元々剣の嗜みは持っていたから、然程苦ではなかったわ。……少しは様になっていたでしょう?」
 妖夢へと視線を向けつつ、幽々子は微笑む。一応は剣の指南役である妖夢相手にあれだけ立ち回る事が出来たのも、過去にも剣の指南を受けていたからこそだ。だが幽々子自身、まさかこんな風に役に立つとは思っていなかった。
「何事もやってみるものね」
「だが、次は事前に言ってくれよ?」
 確認するように問い掛ける慧音に、幽々子は微笑み、
「ええ、解っているわ。今回は、妖夢にも迷惑をかけてしまったもの。……本当、今日はご苦労様、妖夢」
  

――――――――――――――――――――――――――――


 幽々子様が何か言っている。けれど今の私には、その言葉の欠片も耳に入っては居なかった。
「……ハ」
 なんだか、一気に体から力が抜けてしまった。
 壊れてしまいそうな程に想い焦がれていた相手は、敬愛すべき主だったのだ。
 想い人は消えた。そもそも存在してすら居なかった。これで悩みも解消、だ。
 今まで通り、幽々子様を護る剣として、西行寺家の庭師として働く事が出来る。
 これで全部元通り。
 全てが、元通り。
「……」

 ……本当に?
 深く深く、心にヒビが入ってしまったのに?

「……ッ」
 力が抜ける。
 目頭が熱い。
 嗚呼、
 嗚呼。
 嘘だ。
 元通りになんて、なる筈が無い。
 視界が歪む。
 涙が溢れる。
 熱い。
 苦しい。
 今心に浮かんでいる感情は、一体何なのだろう。
「……」
 私は、あの人に恋をしていた。
 まるで、王子様に恋焦がれるお姫様のように。
 王子様。
 そう、王子様。
「……幽々子様」
 彼は、私の理想だったのだ。
 叶う事の無い、しかしどこかで願っていた、
「……私だけの、王子様」
 思い出した。
 それは『if』の向こう側。叶う事の無い、くだらない夢。
 でも、だからこそ、ずっと消える事が無かった、儚い夢。


 その人は、私がこの世に生を受けた時から傍に居てくれた、大切な人だった。
 私はその人が大好きで大好きで大好きで、とてもとても大切だった。
 将来の夢はその人のお嫁さんとか、そんな風に考えてしまう程に。

 けれど、成長していくにつれて、私は気付いていく。
 私とその人は同性で、そして主従の関係で。お嫁さんになんて、なれる訳がなかった。それに……小さな頃の私は、お嫁さんという言葉の意味を、良く理解出来ていなかったに違いない。
 だから芽生えた感情は呆気なく消え去って、私はそれを受け入れた。

 ――でも。
 
 想いの残滓は心の奥底に残っていて、いつしか叶う事が無い幻想を作り出した。
『もしも、あの人が男性だったなら』
 それはただの夢物語。叶う事が無い、ただの夢。
 でも、だからこそ消えずに残り続けた、私の夢。
 あの人の、お嫁さん。
 多分、『痛い事を考えていたな、私は』とかそんな感じで終わる、小さな夢。

 でも、それでも、私は、
 ……私は!
「――ッ」
 ……見付けて、しまったのだ。
 あの日、あの瞬間、舞台に立っていたあの人を。
 絶対に存在する事が無い、けれどずっと忘れる事も出来なかった、王子様の姿を。 
 あんな一瞬でも、魅了されるには十分過ぎた。
 だってこの心は、無意識に、あの人を求め続けていたのだから。
   
 涙が止まらない。
 こんなにも一方的に、私の恋は終わった。


8

 無言のまま屋敷へと戻った時には、もうすっかり夜の世界になっていた。
 二人きりで居る事は辛いが、もうどうしようもない。夕餉の仕度とお風呂の準備をしたら、今日は先に眠らせてもらおう。
 そう考えながら私は玄関を開き、帰り際から無言だった幽々子様と共に廊下へと上がった。
 そして明かりを灯そうとした所で、不意に背後から服を掴まれた。
「……幽々子様?」
 失礼ながら、今日はもう何も考えたくない。
 そう思いながら視線を向けると、暗い廊下に立ちながら、幽々子様は沈んだ表情で、
「――ごめんなさい、妖夢」
「ッ。……いえ」
「でも、ごめんなさい」
「……そんな事はありません。大丈夫です」
 何について謝っているのかなんて、言われなくても理解出来る。恐らく、私が傍に居ない時……他の役者に挨拶をしている時にでも、慧音から聞いたのだろう。
 それに……幽々子様も、まさか自分が一目惚れの対象になっていただなんて、想像もしていなかったに違いない。男装した自分に逢えば、私がすぐに気付くと思っていたぐらいなのだから。
 ……まぁ、気付けなかったからこそ、私はそこに王子様を見つけたのだけれど。
 でも、今このタイミングで謝られても、どうにもならないのだ。
 例え体の半分が幽霊だとしても、そこにある精神は人間や妖怪と同じもの。だから同じように喜怒哀楽があり、そして同じように悩みを抱える事もある。時には恋をして、そして失恋を知る事だってあるのだ。
 そして私はこの西行寺家に使える庭師で、剣士で、
「……」
 女だった。
 どれだけ自分を戒めようと、鍛え上げようと、その事実だけは変わらない。変わりようがない。
 でも、だからって、こんなに辛い思いをする事になるなんて思わなかった。恋愛のアレコレなんて良く解らないけれど、失恋がこんなに悲しいものだとは思わなかった。
 相手が相手だった分、理想が現実になってしまった分、その衝撃が大きかったのかもしれない。
 そんな事を考えていたら、なんとか大丈夫だと答えたのに、押さえつけていた涙が再び溢れ出してきた。
 もう嫌だ。
 これ以上、何も考えたくない。何もしたくない。
「失礼、します……」
 涙を見られぬよう俯いて告げて、幽々子様の手を振り払うように歩き出す。でも、それよりも早く、私の体は幽々子様に抱きしめられていた。
「ゆ、幽々子様……?」
 一体何をするのかと問い掛ける私に、返って来た声は辛そうな響きで、
「……辛い時は、泣いて良いの。我慢するだけ、苦しいだけだから」
「……ッ」
「こんな事、貴女を騙していた私が言えた事じゃないけどね……」
 そう告げる幽々子様に何か言葉を返そうとしたけれど、でも、溢れ出す涙はその言葉をかき消した。
 そうしたらもう止まらなくなって、どうしようもなくなって。
「……ぅ、うぅ」
 全身から力が抜けて、ただ子供みたいに。
 私は、声を上げて泣いた。



 色々と考えるのは、今は止めてしまおう。
 明日から、またいつもの私に戻れるように、今だけは。
 私は――魂魄・妖夢は、王子様に護られるか弱いお姫様では無く、お嬢様を護る剣士なのだから。

 だって、そう。
 私が恋したあの人は、この世界には存在しないのだから。
 夢を見るのは、もうお終い。
 涙と一緒に、流してしまおう。
 全部、全部。
 辛く悲しい、この気持ちと一緒に。




 でも、それでも。
 最後に、一つだけ。


「大好きでした。王子様……」






end

 
 

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戻る

 

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