「おはよーございます」

――――――――――――――――――――――――――――

 



「お、おはようございます!」
「おはよーございます!」
「い、良い天気ですね!」
「良い天気ですね!」
「――好きだ!」
「――好きだ!」
「愛してる!」
「愛してる!」
「うおおおおおおおおお!」



 そうして始まった『響子ちゃんに愛してるって言って貰おう大会』(仮称)を横目に、僕は深く溜め息を吐いた。理由は色々あるけれど、何よりもまず掃除の邪魔だ。命蓮寺へと続くこの参道は広く長いとはいえ、その入り口付近に人だかりが出来ているのだから。
 その人だかり――つまり、響子さんのところに詰め寄っているのは、僕の友人などを含めた計七人。顔ぶれや人数、男女比などは変化するものの、ここ毎日のように大会は開かれている。昨日は酒屋の主人が列の中に混じっていて、愛しているの「あ」の字を告げようとした瞬間に奥さんに捕まり、阿鼻叫喚を響子さんが山彦るという酷い状況が起きたりしていて、まぁ毎日がお祭騒ぎだ。
 愛を叫ぶ方も、それを繰り返す響子さんも楽しそうで、掃除の邪魔という部分さえなければ微笑ましい状況……なのかもしれない。
 個人的には、そうもいかないのだけれど。そう思いながら二度目の溜め息を吐いたところで、背後から声が来た。
「おはよう。今日もご苦労様」
「あ、ナズーリン。おはようございます」
 振り返った先に立っていたのは、ナズーリンだった。彼女は会釈する僕に苦笑気味の笑みを向けると、
「にしても、今日も響子は大人気だね」
「ですね。最初はぬえの悪ふざけだったらしいですけど、まさかこうも盛り上がるとは思いませんでした」
 山彦である響子さんは、大きな声で挨拶されると、その言葉をそっくりそのまま言い返してしまう。それを悪用してぬえが色々言わせて遊んでいたようで、最終的に愛の告白にまで至ったらしい。それがこう、巡り巡って里の若い男達の耳に入り、「響子ちゃん可愛いし、ちょっと困らせてやろうぜ!」という悪戯心から『愛してる』を連呼したところ、予想以上にドキドキして楽しくなってきたらしく――その結果がこの、男女問わず愛しているの大合唱、だった。
 幻想郷は娯楽が少ないから、こうしたちょっとした事がすぐに流行ったりするのだけれど……でも、今回のこれは本当に頭が悪かった。それはナズーリンも思うところなのか、彼女は小さく溜め息を吐き、
「楽しそうなのは良いけれど、傍から見ると馬鹿っぽい事この上ないね」
「確かにそうですね……。そういえば、ぬえはどうしたんです? 今朝はまだ見てないですけど」
「ああ、ぬえなら裏庭にいる。寺の鐘でビートを刻んだ罪で、船長に吊るされている真っ最中だ」
「今朝の鐘が妙にリズミカルだったのは、ぬえの悪戯だったんですね……」
 朝六時に叩かれる鐘の音が、今朝は少々おかしかったのだ。そういえばその話を誰かに聞こうと思っていて、でも『響子ちゃんにLOVE大会』(仮称)が始まってしまった為にすっかり忘れていた。
「ぬえも懲りませんね」
「本当だよ。まさか居候まで増やすとは思わなかった」
「でも、妖怪的には、マミさんはキーパーソンだったんでしょう?」
 そんなような事を、響子さんから聞いている。……過去形だった気もするけれど。そう思う僕に、けれどナズーリンは曖昧に笑い、
「どうかな……。そもそも妖怪社会には団結力がない。マミゾウが豊聡耳・神子と相対する事があったとしても、彼女が妖怪社会を率いて豊聡耳・神子と戦う事はなかっただろう。あるとしたら、聖に率いられた私達が相対する事くらいだろう、かな!」
 と、不意にナズーリンが背後の地面を踏みつける。どうやら、石畳に使われている石の一つが少し浮き上がっていたようで、彼女はそれを踏み固めるように体重を掛けつつ、
「まぁ、心配する事はないさ。里に被害は及ばせない」
「無理はしないで下さいね。……あと、その石の隙間から悲しげな泣き声が聞こえる気がするのは気のせいですかね」
「気のせい気のせい」
 或いは耳の錯覚だよ。そう涼しい顔で言い切るナズーリンに苦笑しつつ、僕は本堂の方を見やり、
「そういえば、そのマミさんは?」
「今頃化粧中じゃないかな。今日は稗田家で話をしてくると言っていたから」
「ああ、阿求の」
「絵に描かれるという話をしたら、急に張り切り出してね。やはり、綺麗に描かれたいんだろう」
 そう言ってナズーリンが微笑み、けれど僕をじっと見つめ、
「しかし……君の場合、絵に描かれたら性別が解らなくなりそうだ」
「や、止めてくださいよ! これでも気にしてるんですから!」
「良いじゃないか、女顔。髪も綺麗だし、モテそうだけれど」
 確かに僕は女顔だ。男にしては長めの髪をしている事もあって、女の子に間違われる事も多い。それに、畑仕事に精を出している訳でもないから、日にも焼けていないし、ひ弱と言われても否定出来ない。ガタイの良い三人の兄と一緒に並ぶと、一人だけ貰われっ子が混ざっているかのように見えるほどだ。
 でもそれは、両親の放任と、『あんたはお兄ちゃん達みたいにならなくて良いからね。絶対なっちゃ駄目だからね!』という母の言葉があったからで……というか、うちの母は女の子が欲しかったらしく、僕が男らしく育つ事を本気で嫌がっているのだ。だから、家の手伝いをする時は力仕事を任せて貰えず、家事の手伝いに回る事が多かった。
 そうして十四年。気付けば男の癖に掃除が好きになって……今では、寺の手伝いとして日々掃除などをして生活しているのだから、人生何があるか解らない。
 でも、だからって、それで女の子にモテる訳ではないのだ。 
「外の世界じゃどうか知りませんが、ここは幻想郷ですよ? 人気の男性像は、常に筋骨隆々、『妖怪から私を護ってくれる人』なんです」
「でもそれは、護られる側の意見だろう? 例えば巫女のように戦える少女なら、そうは思わないと思うけれど」
「……だと良いんですけど」
 そう苦笑しつつ、僕は話を戻す。
「にしても、阿求も頑張ってますよね。ナズーリンも話を聞かれたんでしょう?」
「一応ね。まぁ、幻想郷に来たばかりの頃だったから、まだ勝手が解らなくて、友好度は低めにしてくれるように頼んだけれど……そういう意味では、二冊目の幻想郷縁起が少し楽しみだよ。きっと、笑い話になる。こんなにも里に馴染むとは思っていなかったからね」
 里に命蓮寺が出来てから、既に一年以上。以前からあった小さな寺は、大人達と住職の話し合いの結果、命蓮寺と併合し、僧侶達もこの寺に勤めるようになっている。墓の管理も命蓮寺側に移された形だ。
 妖怪寺と揶揄される事の多い命蓮寺だけれど、特定の場所に妖怪が集まる、という意味では博麗神社とまるで変わらない。むしろ、聖様は人妖分け隔てなく受け入れてくれるのだから、神社とは比べ物にならないだろう。でなければ、墓地のすぐ近くに寺を建てた聖様達に文句が出た筈だし、慧音先生も黙っていなかった筈だ。何より、ここまでの信仰は集まらなかったに違いない。
「そう考えると、君が寺の手伝いを始めてもう半年か。早いものだね」
「あと、なんだかちょっと不思議な感じです。命蓮寺が出来た当初は、ナズーリンとこうして会話するようになるとは思わなかったですし」
「それもこれも、聖の教えがあればこそ、さ」
 里へ訪れる妖怪は多く、会話をする機会も多い。しかし、こうして親しく話をするようになる事は稀だ。そういう意味で、命蓮寺の『近さ』というのは、妖怪に対する印象を明るいものに変える力があるように思えた。
「そういえば、」
「はい?」
 無意識に響子さんへと向けていた視線を戻すと、ナズーリンが少々真剣な表情で僕を見つめていて、
「目の下に隈がある。眠れないのかい?」
「あ……いえ、その、ちょっと考え事を。別に平気です」
 実は全然平気じゃないけれど、でも、
「自分で何とかしなきゃいけない事が、あるもので」
「失せ物なら力になるよ?」
「いえ、無くしてはいません。……いないからこそ、苦しいんです」



『響子ちゃんに愛してる!』(仮称)が取り敢えず終了したところで、僕は響子さんと一緒に参道の掃除を始めた。
 基本的に、僕と響子さんは朝の七時頃から仕事を始め、一緒にお昼ご飯を食べ、午後の仕事をして、夕方に帰宅する。手伝いとはいえ、この参道の掃除の他に、本堂の掃除や法事の準備、草木の手入れなどなど、やる事は多いのだ。
 でも、何かしら話をしながら作業をしているし、時々ぬえが何かやらかしたり、寺にやってくる老人や子供達の相手をしたりする事もあるから、一日が過ぎていくのはあっという間だ。何より、響子さんや寺の皆と触れ合う時間は楽しいし、掃除全般は好きだから、この生活は結構性に合っているのだった。
 気付けば彼岸も終わり、日に日に秋めいてきている今日この頃。掃き掃除の頻度も増えてきて……でも、もっと落ち葉が溜まったら焼き芋でも出来るかな、なんて話をしながら箒を動かしていると、ふと響子さんが顔を上げ、
「そういえば、この前のお彼岸の時に思ったんだけど、お萩と牡丹餅って何が違うの?」
「季節が違うだけで同じ物らしいよ」
「へー、そうなんだ。ちょっと賢くなったわ」
 えへへ、と笑って掃き掃除を再開する響子さんと出逢ったのは、半年ほど前の事だ。彼女はそれ以前からこの命蓮寺に入門していて、今と同じように勤行を行っていた。
 あの日は亡くなった爺ちゃんの命日で、一家で墓参りに来ていて……彼女と交わした最初の一言は、今でも鮮明に覚えている。
「こんにちは」
「こんにちは!」
 それはビックリするくらいの大声で、第一印象としてはかなり衝撃的だった。だから僕はまじまじと彼女の事を注視して――箒を手に微笑む響子さんが、とても可愛らしい女の子である事に気付いたのだ。
 その外見から一目で妖怪だと解ったけれど、僕は純粋に見とれてしまった。小説の一文じゃないけれど、『笑顔の可愛らしい女の子』がそこにいたのだから。
 一昨年の夏に失恋してから、誰かに恋をする、という感覚が希薄になっていた僕にとって、その出逢いは衝撃的だった。一目惚れといえるくらいに、一瞬で魅了されていたのだ。
 そこからの行動は、自分でも驚くくらいに早かった。響子さんと仲良くなる為、寺の手伝いとして働きたいと考え、命蓮寺の門を叩いたのだ。……でも、僕はお寺という場所に厳めしい、厳しいイメージを持っていたから、正直命蓮寺の門を叩く時には緊張した。そうして出て来たのが雲山を連れた一輪さんだった時は、いくら恋の為とはいえ早まったかと、己の浅はかさを呪ったものだ。
 でも、違った。この命蓮寺は、僕の思い描いていた『寺』とは大きく違う、優しく暖かな雰囲気の場所だったのだ。
 人間も妖怪も変わらず受け入れられ、春の日差しのような暖かさに包まれる。戒律もさほど厳しくなく……『挨拶は心のオアシス』という一文は、響子さんの元気な挨拶に感銘して追加したのだと聖様が言っていた。
 そんな響子さんは山に住んでいて、仕事の合間に山の話をしてくれる。天狗のこと、白狼のこと、河童のこと、他にも沢山。それは僕のような里の人間が知る事の少ない、阿求が聞いたら羨みそうな日々の話だ。同じように響子さんは里のアレコレを知らないから、僕からは里の話をしている。人間のこと、商店のこと、生活のこと、他にも色々。日々様々な事が起きる幻想郷だから、話題は尽きない。何より、そうやって会話を重ねる事が出来たから、すぐに響子さんと仲良くなれたのだと思う。
 もっと響子さんの話を――彼女自身の事を聞きたいと思うし、僕の事を知って貰いたい。僕の想いを、彼女に伝えたい。……まぁ、過去の失恋から、告白へと一歩踏み込めないのが問題なのだけれど。
 こんな欲深い僕は、お坊さんには向いていないのだろう。でも、仏教の思想を知る事で、人生観が少し変わったような気がするのは確かだ。
 そもそも里の宗教観は、神仏習合などの影響もあって、『良いとこ取り』だ。祝事においては祝詞を奉り、仏事においては経を唱える。ここ数年はカフェの店主が張り切っていて、クリスマスケーキだって売られているくらいだ。以前、『そういうところは外と変わらないね』とナズーリンが笑っていた事もあった。
 そんな宗教観に染まって育ってきた為、僕は仏教がどんなものなのか良く解っておらず、それを知ろうともしていなかった。でも、今はそれを知りたいと思うし、今まで興味の無かった事でも率先して知っていこうと思える。
 それは僕にとって大きな変化だった。放任されて生きてきて、何でも選べる気になっていたけれど、でも僕は、その『選ぶもの』を知らなかったのだ。それでは、そもそも選択する事すら出来ない。
 これからどうしていくかはまだ解らないけれど、でも、もっと色々な事を知っていき、そうして自分だけの何かを選びたいと思うのだ。
「……」
 ……にしても、だ。『響子ちゃんに愛してるって言って貰おう大会』(仮称)について、当の響子さんはどう思っているのだろう。日々楽しそうに受け答えをしているから、苦痛という訳ではなさそうだけれど……
「……」
「どうしたの、難しい顔して」
「え、あ……その、」
 首を傾げて聞いてくる響子さんに、一体どう問い掛けたものか。そう思ったところで、視界の端――里の方から一人のお婆さんがやってくるのが見えた。
 彼女は、僕等に気付くと微笑みを浮べ、
「おや、こんにちは」
「こんにちは!」「こ、こんにちは」
「二人とも、お勤めご苦労様です」
 そう小さく笑って、お婆さんはお墓場の方へと歩いていく。そこに、彼女の旦那さんのお墓があるのだ。
「毎日欠かさずお掃除かぁ……。愛だねー」
「そうだね」
 おしどり夫婦で有名な二人で、旦那さんが亡くなった時は、そのまま後を追ってしまいそうなほどだった。でも、家族の支えもあってどうにか悲しみから脱し、こうして毎日お墓参りに訪れている。
 響子さんは、そんなお婆さんの背を憧れに満ちた表情でじっと見つめ、
「良いなぁ……。今まで沢山夫婦を見てきたけど、ああいう深い絆で結ばれた夫婦には憧れるよー」
 死が二人を分かつまで、ではなく、死が二人を分かとうとも愛し合える。そんな相手と出逢える可能性は、きっと僕が思うよりも低くて、だからこそ貴いものなのだ。
「あー、良いなぁ。やっぱり、旦那様の事は『あなた』って呼びたいよね」
 そう夢みがちな笑みで告げる響子さんに、僕は苦笑気味の笑みを浮べ、
「そこに同意を求められても困るなぁ……。っていうか、響子さんは、その…………結婚願望、あるんだ」
「あるよー」
 笑顔で、しかもあっさりと告げられた言葉に、なんだか良く解らない強い衝撃を受ける。そんな僕とは対照的に、響子さんは少々照れた様子で微笑み、
「私が山彦だからっていうのもあるのかもしれないけど、呼びかけてくれる相手が欲しい時があるの。私、結構淋しがり屋だから」
 えへへ、と響子さんは笑う。
「……」
 山彦は、一人では響かない。一人では存在出来ない。そんな彼女がパートナーを望むのは確かに当然なのかもしれず……だからこそ、笑顔で『愛してる』と言葉を返す響子さんの様子が頭に浮かぶ。
 苦痛が走る。
 でも、対する響子さんは微笑むのだ。
「だから、命蓮寺に入門して良かったって思うの。私はここで、家族を得られたから」
「……家族」
 それは、少し予想外の言葉だった。そう思う僕を前に、響子さんは嬉しそうに笑い、
「うん。私みたいな妖怪は親が居ないから、想像でしかないけど……でも、家族ってこういう感じなんだろうなぁって思える暖かさが、ここにはあるじゃない?」
「あるね。来るもの拒まずどころか、両手で受け止めてくれる感じっていうか」
「それもこれも、聖様のお陰かな。私はそれに感謝してるの。まぁ、あのお方を封印した人間達は許せないけど……でも、こうして幻想郷で出逢えた事を――その運命を思うと、何も言えなくなっちゃうよね」
「……そうだね。みんなが封印されてしまっていた事を肯定する訳じゃないけど……だけど、ああして聖様が封印されていたから、今の僕達がある訳だし」
「これもまた運命の出逢い、かな。色んな人の、複雑な人生が絡み合って運命が出来上がっていく、っていうのが、良く解る感じだよね。……でも、こういうのも、吸血鬼は操作しちゃうのかな?」
「どうなんだろう。紅魔館のメイドさん曰く、『お嬢様の運命操作は、己の人生に相手を巻き込むものであり、アカシックレコードを書き換えるものではないのです』って言ってたけど」
 それは、どれだけ強大な力を持っていようと、全てを自由に出来る訳ではない、という事であり、当時は驚いたものだ。
 因みにその話を聞いたのは、メイドさんが薬膳料理の作り方を尋ねて来た時の事だった。なんでも、主人に毒を盛るブームが過ぎ去ったから、今度は健康的な吸血鬼を目指すメニューを考案中であるのだとか。……不思議なメイドさんもいたものだと思う。
 来週辺り、また話を聞きに来るとか言ってたっけ。そう思う僕の正面で、響子さんが疑問符を大量に浮べていて、
「えっと、つまり、どういう事?」
「自分の運命に他人を巻き込む事は出来るけど、その人の運命――生死とかを改変する事は出来ないって意味だと思う。……多分」
 人生は可変だけれど、しかし死は確定された事実だ。あのメイドさんが言っていたのは、つまりそういう事で、
「僕等の出逢いが運命に約束されたものなら、いくら吸血鬼でもこの出逢いを変える事は出来なかった、って事かな」
「つまり、私達超凄い?」
「そういうこと」
「そういうこと!」
 すごーい! と声を上げ、響子さんが嬉しげにくるりと回る。その瞬間、響子さんのスカートが軽く翻り、その細い太ももがちらりと見えて、
「――ッ」
 ……ふと思うのは、寺のお坊さん達の苦労だ。
 聞けば、本来寺というのは女人禁制の場所であるらしく、戒律を守る為に僧は女性と距離を取るらしい。でも、命蓮寺では尼僧の方が多く、船長やぬえ、マミさんなど、僧ではない妖怪も寝泊りしている。……それもまた修行だと言われればそれまでなのかもしれないけれど、色々と我慢するのが大変だと思う。同じ男として、本当にそう思う。
 何しろ、読経の時間にぬえが乱入してくるような日々だ。彼女のワンピースは丈が短いから、飛び回られると当然見える。見たら見たで、スカートの中には『馬鹿が見る』と文字が浮かんでいるのだけれど、男の心理としてはどうしても気になってしまう訳で――それは日々悟りを開こうとお勤めに励んでいるお坊さん達も一緒の筈で、だからもう本当に凄いなぁと思うのだ。
 正直、僕には真似出来ない。
 まぁ、相手が妖怪だから、とお坊さん達は割り切っているのかもしれないけれど……でも、僕にはそれも出来ない。何せ、初恋の人が妖怪だったのだから。
「……」
 里の中には妖怪を毛嫌いし、強く恐れている人も居る。実際に妖怪は恐ろしい存在なのだろうし、里の外には危険も多いのだろう。
 でも、里の中に居る以上はそうした危険とは無縁だし、慧音先生のように人間の為に力を使う妖怪も居る。そうした場所で生まれ育った僕には、妖怪も恋愛対象に含まれているのだ。
 一番上の兄は、そんな僕を甘ちゃんだと笑う。『妖怪の恐ろしさを知らないから、そんな事が言えるのだ』と。でも、妖怪の恐ろしさとは一体何なのだろうか。きっと兄は、人間を喰らう事だ、と答えるに違いない。
 でも、どうだろう。僕はまだ、人間を食べる妖怪と出逢った事がない。
 妖怪の知り合いは何人か居て、中には腐れ縁と呼べるような相手も居るけれど、誰も人間を食さない。当然、寺の皆も同様だ(そもそも、仏教は殺生を禁じている)。……まぁ、僕の知らないところで食べているのかもしれないけれど、でも、僕は彼女達から食料として見られた事はない。それは断言出来るし、それを疑うのは失礼だ。
 つまり、僕を取り巻く状況においては、人喰いの妖怪は存在しない。そこに居るのは、人間とはどこか違う価値観を持つ隣人達だけなのだ。
 なら……ならば、響子さんは人間の事を――僕の事をどう思っているのだろう。そう思った時、不意に山の方から強めの風が吹き抜けた。
 天狗が飛んで行ったのだろうか。良くある事だけれど、掃いたばかりの落ち葉が完全に散ってしまうのは頂けない。あと、風向きが逆だったら幸せになれたかもなぁ……と、僕はそう思う気持ちを心の奥底に仕舞い込みつつ、
「この時期の突風は困るよね。掃除しても無駄になるし」
「早く葉っぱが落ち切っちゃえば良いんだけどね。……って、あ、ちょっとストップ」
「うん?」
 と、言われたとおりに動きを止めた僕の正面に響子さんがやってきた。その、思っていたよりも近い距離にドキドキする僕の前で、響子さんが手を伸ばしてきて、
「髪に落ち葉が付いちゃってる」
「あ、ありがとう」
 そう告げる目の前に響子さんの顔があって、髪を払われる感触に意識が向かない。そんな僕を前に、響子さんはどこか含みのある笑みを浮べ、
「にしても、サラサラの髪だよねー。嫉妬しちゃうわ」
 そんな事、と言おうと思ったところで、響子さんの指が髪の間に入り込んで来て、
「えいっ」
「わっ」
 わしゃわしゃと髪の毛を掻き混ぜられて、更に近付いた響子さんとの距離に固まってしまう。それでも、僕はどうにか口を開き、
「きょ、響子さん?」
「私クセっ毛だから、ストレートの髪には憧れるっていうかー」
「そうなんだ……って、答えになってないよ?!」
「良いではないか、良いではないかー!」
 笑顔と共にもみくちゃにされて、恥ずかしがればいいのか止めればいいのか良く解らない。ただ一つ解るのは、響子さんが凄く楽しそうで、とても可愛いという事だ!
 それでも次第に手の動きは落ち着いて……だけど、響子さんは僕の髪の中に手を突っ込んだまま下ろさない。その上、彼女の目にはどこか期待が混ざっているように感じられて――
「……っ」
 僕は、震える手をどうにか上げて、彼女の髪へと触れた。
 掻き混ぜるような事はしない。癖のある髪の中へ指を潜り込ませると、内から外へ梳くようにその感触を堪能する。何より、くすぐったそうにする響子さんがとても可愛い。それに、妖怪である彼女は、耳の付いている場所が人間と違う。だから髪の生え方も少し違っていて、視覚と触覚の食い違いにちょっとだけ困惑する――……と、一見冷静そうに描写してみたけれど、当の僕はもう、顔真っ赤な上に心臓バクバクで冷静さなんて欠片もない。
「ッ」
 指先から感じられる暖かさと、すぐ目の前にある響子さんの顔に緊張が更に高まり、でも離れられない。
 と、指先が彼女の耳の付け根あたりに触れて、響子さんが「ゃ、」と赤い顔で小さく呟いた。……以前ぬえが「響子って犬っぽい」と言っていた事があったけれど、今ならその気持ちが良く理解出来る。出来過ぎて色々辛い。
 ――でも、流石に限界だ。これ以上触れていたら、抑えている何かが壊れてしまいそうな気がする。その結果嫌われてしまったら意味がないし……と、そう思いながらも、暫く響子さんの髪の感触を堪能し、そっと手を戻す。すると、対する響子さんは少々残念そうにしながらも、同じように僕の髪から手を離していった。
「……」
 響子さんの指がずっと頭に触れていたからか、手櫛で乱れを直す髪の付け根に熱があるように思える。それをどうしても意識して、彼女も同じように思っているのだろうか、なんて考えてドキドキしていると、ふと響子さんが笑みを漏らし、
「なんか楽しいなぁ、こういうの。私に向かって声を発してきてた人間達も、こんな感じだったのかな」
「こんな感じって……それは、外の世界での事?」
「うん。私が、ただの山彦だった頃の事」
 響子さんは、外の世界からやって来た妖怪なのだという。最初にその話を聞いた時は驚いたけれど、良く考えてみれば当たり前だ。幻想郷の人間はそうそう山に登らないし、山彦を聞こうともしないのだから。
「懐かしい話だけどね。前にちょっと話したけど……私が生まれた山の、その正面にある山は観光地になってたの。確か、パワースポットって呼ばれてる場所だったらしくて、夫婦やカップルで登ってくる人間が多くてね。一回ふざけて『リア充爆発しろ!』って山彦返したら大変な事になったっけ」
 くすくす笑う響子さんの様子を見るに、相当な事になったようだ。でも、りあじゅうってなんだろう。獣の名前だろうか。それを問おうかと思ったけれど、楽しそうな響子さんを邪魔したくなくて、僕は彼女の言葉を促すように頷き返す。
 対する響子さんは、過去を懐かしむように、けれど儚く微笑みながら視線を下げ、
「でも、山の中の観光地だからね。立派なお寺とかあったんだけど、段々観光客が減っていって、私は山彦として存在するのが難しくなっちゃって……そんな時に、幻想郷の噂を聞いて、ここにやってきたの。だけど、ここは私の求めていた世界じゃなかった。
 幻想郷に来て妖怪としての存在が確立されたのは良かったけど、でも、人間は山に入ってこないじゃない? 幻想郷の山は妖怪の住処になってるから、山彦を聞こうとしてくれる人なんて誰もいなくて。
 それで、『どうしたものかなぁ』って思ってた時に、宝船を見て、弾幕ごっこを知って、『ああ、ああいう表現方法もあるんだ』って感心したんだ。それからすぐに天狗の号外が来て、里に命蓮寺が出来た事を知って……私は、入門を決めたの。
 妖怪が、妖怪としての存在意義を無くしていく世の中に無常を感じてた、っていうのが一番の理由だけど……外の世界に居た頃から、お寺には興味があったんだ。目に見える位置にあって、でも決して届かないものだったから」
「じゃあ、なりたくてなったって事なんだ。尼さんに」
「え、なってないよ?」
「え?」
 と、お互いに疑問符を浮べ合い、
 あれ? と同じように首を傾げ、
「え、だって……響子さんは出家してるんだよね?」
「してないよ。だってここに住んでないし」
 そういえばそうだ。
「……って事は?」
「貴方と一緒。在家の信者で、寺のお手伝いだよ」
 そう微笑みと共に言う響子さんに、僕は体から力が抜けるのを感じつつ、
「は、半年一緒にいて、初めてそれを知ったよ……。でも、そっか。出家してるなら山にある家に帰る事もないんだよね」
 何せ、家を出ると書いて出家だ。……ああもう、これだから思い込みというのは恐ろしい。そんな僕に、響子さんは笑みを浮かべ、
「里の人達と違って、私はちゃんと仏教徒やってるからね。勘違いするのも仕方ないわ」
「……じゃあ、今後出家したり?」
「どうかなー、それはないかも。山で読経してたら人間から恐れられるようになったし、人の世も悪くないなぁって最近思うから。在家としてしっかり五戒を守って、仏様の教えに近付ければ良いかなって思ってる」
「それは……ああ、でも、無理に『悟ろう!』って思うのもまた欲だろうから、そういう風にあるがままを受け入れて、日々のお勤めを行う方が、むしろ悟りに近付くのかな」
 良く解らない。
 解らないから、人は悟ろうとするのだろうか。それもまた想像でしかないけれど。
「貴方はどうするの?」
「僕は……どうだろう。まだ、何がしたいのか、何が出来るのかも解らないから」
 でも、響子さんの生き方を知って、また了見が広がったように思える。寺に勤める以上、出家するかしないか、それ以外に選択肢がないように感じていたけれど……でも、そんな事はないのだ。実際僕だって、敬虔な仏教徒ではない癖に寺の手伝いをしている訳だし。
 人生は色々だ。今は満足している響子さんだって、かつては苦悩と共にあったのだ。それは寺のみんなも同じなのだろう、きっと。
 でも、だからこそ、誰かと一緒に歩めるのなら、苦しい道も乗り越えて行けるのではないか、と思えて、
「……」
 ふと、安易な考えが頭に浮かんだ。
『響子ちゃんに愛してるって言って貰おう大会』(仮称)。ふざけたお遊びだけれど、それが『愛を告げる大会』である事には変わりない。だったら、未だ告白する勇気の出ない僕でも――なんて、そんな事を考えてしまった。
 彼女との関係がどうなるのか。それもまた、僕の人生を決める大きな要素になっているのだから。
 ならばこそ、僕は。
「……あ、あのさ、響子さん」
「ん?」
 微笑む彼女は、まだ僕の目の前にいる。その距離に緊張が高まるのを感じながら、僕は意を決し、
「お……おはようございます」
「――おはよーございます」
 笑顔で、響子さんが一歩僕から距離を取った。緊張の只中にある僕は、それに少し安堵しながら、
「……あの、その、」
 深く息を吸い、響子さんを真っ直ぐに見つめ、
「僕は、響子さんの事が、好きです」
 告げた声は少し震えていて、格好がつかないものだった。でも、それでもしっかりと想いを告げられた。だから、と思う僕の正面、対する響子さんは微笑んだままだ。
 返事も、山彦も返ってこない。
「……って、あれ、えっと……」
 全く予想していなかった状況に頭が真っ白になり、先ほどまでの緊張とは違う冷たい汗が流れ出す。そんな僕を前に、響子さんは笑みのまま、
「もっと大きな声を出さないと、山彦は返ってこないよ?」
「っ、う……」
「……」
 響子さんの笑顔が辛い。激しい鼓動が邪魔をして、上手く呼吸も出来ない。それでも、僕は深く息を吸い、
「――す、好きです!」
「…………」
 半ば破れかぶれになりながら叫んだ声に、しかし響子さんは何も答えない。
 応えてくれない。
 それが何を意味するのか理解し、苦痛に目の前が真っ暗になったところで、僕の大声が聞こえたのだろう一輪さんがお堂の方からやって来て、
「どうしたの? 何かあった?」
 問い掛けに、響子さんが僕から視線を逸らし――先ほどまでとは違う、いつも通り、と思える笑みを浮べ、
「いえ、何でもないですよ。ちょっと遊んでただけです」
「なら良いんだけど――って、掃除中に遊んでちゃ駄目でしょ?」
 ごめんなさい、と苦笑する響子さんを前に、僕は何も言えず……一輪さんに心配を掛けたくなくて、どうにか笑みを浮べる。

 それから掃除が終わるまでの時間、僕と響子さんの間に会話はなかった。



 夕方。
 夜のお勤めが終わり、山へと帰っていく響子さんを見送った後、僕は今までずっと耐えていた溜め息を吐いた。
「……」
 後悔したところで何も始まらないけれど、それでも『何であんな事を……』と思ってしまうのを止められない。でも、あの時はあれでいけると思ったのだ。だからこそ、苦痛も大きい。何より、『響子さんも僕の事を想ってくれている筈』と思っていた部分があったから、尚更に辛く……でも、その驕りが失敗に繋がったのだ。
「……はぁ」
 僕はもう一度溜め息を吐き、下がっていた顔を上げ――
 ――すぐ目の前に、傘を差した少女が立っていた。 
「うらめしやー!」
「……何やってんの、小傘」
「あっれ、驚かないの? おかしいな……。うらめしや?」
「何故疑問系」
 二度目の溜め息を吐いた時点で、足元に彼女の下駄が見えていたから、驚かせてくるんだろうなぁ、というのが予測出来ていたのだ。そういうところにも気を配らないと、ドッキリ系は失敗しやすい――という事を教えてあげようかと思ったけれど、今はそういう気分じゃないので止めておいた。
「……小傘は良いよね。悩みとかなさそうで」
「に、人間に馬鹿にされた! 私にも悩みはあるし!」
「具体的には?」
「そ、それはそのぅ……」
 あからさまに視線を逸らし、唐傘と目を合わせて「ねぇ?」とかやっているけれど答えになってない。僕はそれに小さく息を吐き、
「で、突然出てきてどうしたのさ」
「お腹空いた」
「知らないよ」
「えぇー。だってさぁ、お彼岸終わって墓場に来る人減っちゃったんだもん!」
「出口は向こうです」
「取り付く島も無い?! ――って、あ、そうだ! 今度里の子供達連れて来てよ。季節外れの肝試しみたいな!」
「嫌だよ……。夏の終わりにやったけど、最終的に一番怖かったのは小傘じゃなくて、無言でゴール前に立ってたナズーリンだったじゃん……」あれは解っていた僕でも怖く、様子を見に来た寅丸様が一瞬固まったほどだった。
 それは夏の終わりに、墓場の奥にある林で開かれた肝試し大会での事だ。ナズーリンの役目はゴール地点からの誘導で、つまりは『ここがゴールだよ』と示す係だった。けれど、途中まできゃーきゃー楽しんでいた子供達が、ゴール付近で『ぎゃー!』というリアルな悲鳴を上げて逃げ出すという状況が起きてしまったのだ。
 とはいえ、ナズーリンは驚かそうというつもりはなかったらしい。彼女曰く『ゴールまで怖く、というのがこの肝試しのコンセプトだったから、私は明かりを持たずに待っていたんだ。するとどうだろう。ゴール近くまでやってきた子供達が突然叫び出した。それが一度ではなく二度、三度と続いてね。まさか自分が怖がられているとは思わなかったから、周囲に何か居るのではないかと、小ネズミ達と一緒に警戒してしまったよ』との事だった。
 つまり、暗闇の中で浮かび上がったナズーリンの影に最初の悲鳴が上がり――その後、子供達の持つ明かりによって、警戒する彼女とネズミ達の眼が闇の中で紅く光る、という状況を生み出してしまって嗚呼もう思い出しただけでも怖い。 
 そんな僕と同じように、思い出し震えを起こしていた小傘が、はっと表情を改め、
「り、リベンジリベンジ!」
「無理」
「人間に無下にされた!」
 とまぁ、こうやって騒がしく会話する程度には小傘と仲が良い。というか彼女は、里の子供なら誰でも知っている怖くない妖怪の一人だ。里にも良く顔を出すし、その度に誰かを驚かそうとして無下に扱われている。
 そんな小傘と出逢ったのは、十年くらい前のこと。良く覚えていないけれど、僕は彼女に驚かされてとても驚いてしまったらしい。それに味を占めた小傘は僕を見る度に驚かすようになり、しかし対する僕はそれに慣れ、結果的に全く驚かなくなってしまった。そうしたら、今度は驚かない一人としてライバル扱いされてしまい、絡まれる回数が増え、結果的に話をする機会も増えて今に至っている。
 ……まぁ、色々あって一時的に疎遠になっていたけれど、僕がこうして寺の手伝いを始め、小傘がお墓場で人を驚かす事を覚えてからは、以前と同じように会話をする機会が多くなり、雑談に興じる事も増えていた。
 と、対する小傘が場の空気を改めるように、
「んじゃあ……改めて聞くけど、アンタの怖いものって何?」
「小傘じゃないのは確かかな」
「酷い!」
「じゃあ、饅頭怖い」
「ふふん、もうその手には乗らないわ!」
「あの時は、まさか本当に饅頭を持ってくるとは思わなかったよ……」
 小傘は、誰かを驚かす側にしては素直過ぎるのだ。すぐに相手の言葉を信じるし、疑う事も少ない。だからみんなに馬鹿にされている。……でも僕には、その素直さが眩しいのだ。何より、彼女の行動力や、何度失敗しても挫けない前向きさ、直向さには憧れすら覚えている。……まぁ、どうせ図に乗るから、口に出す事は無いけれど。
 でも、そんな小傘が相手だからだろうか。何も隠す必要の無い相手だと解っているから、悪いと思いつつも、言葉を生んでいた。
 彼女なら、誰よりもしっかりと話を聞いてくれる気がする。そんな甘えと共に。
「それに……今日はさ、もう怖い思いをしてるんだ」
「ど、どんな?!」
「……一昨年の夏祭りの時と、同じ感じ」
「あー……」
「……」
「……そっか。失恋か」
「……うん」
「そりゃ怖いね。確かに怖い。アンタは二度目な訳だし」
「……うん「で、相手は誰なの?!」って、食い付き良いな!」
 ぐっと顔を寄せてくる小傘に思わず突っ込む。さっきまであった寂寥感は完全に吹っ飛んでいて、小傘とはもうシリアスになれないと思った。……まぁ、僕等の関係を思うと、それで良いんだろうけれど。
 そうして、脱力と共に近くの燈篭に寄り掛かる僕に対し、小傘は好奇心丸出しの楽しそうな顔で、
「だってさぁ、これでも色々考えてたのよ? でも、アンタの方から恋の話が出た訳だし、それはもうテンション上がるでしょ!」
「それはそれで凹むけどね!」
「で、一体誰なのよ。あのネズミ? 雲山を引き連れてる尼さん? ぬえ? マミゾウ?!」
「……秘密」
「あ、あのセーラー服か! 脱がしちゃうのか!」
「違うし」
「え、じゃあ星ちゃん?」
「何故にちゃん付けだし」
「寺で一番素直に驚いてくれるから!」
「ああ、うん、確かにそういうところあるね……」
「じゃあひじりん!」
「じゃあってなんだ失礼過ぎる」
「違うの?! ホモなの!?」
「何故に?!」
「だってほら、近年稀に見る母性とおっぱいだよアレは」
「いや、うん、確かにそうだけどぉ」
「たゆんたゆん。ふにふに」
「何だその、触った事があるみたいな言い方」
「慧音の方が大きかったけどね!」
「なんだと」
「こう、驚かせついでにがしっと」
「がしっと?!」
「むにっと」
「む、むにっと……」
「だから思うの。これはもう、慧音派とひじりん派で熾烈な争いが起きるに違いないと!」
「起きないから!」
「あとさ、雲山って雲だから分身出来そうじゃない? つまり雲山×雲山。これね!」
「帰れ!」
「否定しない?!」
「肯定出来るか!」
 どうしようちょっと楽しくなってきた。そんな僕の様子に笑みを深めると、小傘は唐傘を軽く回しつつ、
「良いじゃんか、教えろよー」
「傘回すな困ってるだろ」
「べろーん」
「やめい」
「れろーん」
「もっとやめい!」
 左頬を唐傘に、右頬を小傘に舐められ、僕は目の前に立つ彼女の肩を押して距離を取らせる。対する小傘はニヨニヨと笑い、
「初心でやんのー」
「黙っとけ」
「昔から変わんないよねぇ、アンタは」
「知ったような風に言う」
「全部知ってるから言うのよ」
「お前は誰だ」
「わちきは神様じゃよ、ってね」
 それは、僕等の中ではお決まりとなった掛け合いだ。それを聞いてようやく、小傘の優しさに気が付いた。
 多々良・小傘。僕の友人。忘れ傘の妖怪。
 九十九神。
「このやり取りも久しぶりだねぇ」
「確かにね」
 そんな風に懐かしむ過去がある程度には、仲が良い。でなかったら、彼女の為に肝試し大会なんて計画しなかった。
 ……まぁ、ぶっちゃけて言えば初恋の相手である。振られたけれど。
「元気出た?」
「何とか」
「じゃあ、本題。――アンタの事だから、まだ相手の事が好きなんでしょ?」
「……まぁ、ね」
「だったら、はっきりした方が良いよ。諦めるなら諦める。まだ頑張るなら頑張るで、さ」
「……小傘は凄いよね。悩みとかなさそうで」
「悩んで悩んで苦しんで、この姿になったからね」
 そう儚く笑って僕から離れると、彼女は唐傘を肩に担い、
「――頑張れ、若人。何か辛い事があったら、私が驚かせて、忘れさせてあげるから」
 それじゃ、またね。そう笑って、多々良・小傘が闇へと消える。どろん、と消える。
 気付けば、夜の帳が下りていた。
「……ありがとう、小傘」
 まだ辛さはあるけれど、小傘と話をした事で、沈み込むほどではなくなっている。それに――
 ――僕はまだ、この気持ちを諦められない。それを理解出来た。
 そう思ったところで、ふと視界の右手に動くものがあった。
 本道の外れ、お墓場の入り口の方だ。一体誰だろう。もしかして、この前騒いでいたゾンビだろうか。いや、キョンシーだっけ? あの子、意外に子供受けが良くて、一時期「やーらーれーたー遊び」が流行ったんだよなぁ、という事を思い出しつつ、何にせよ騒ぎになると問題だから、寺の誰かに話を――と思ったところで、その影が月の下に現れて、
「って、響子さん?」
「えっと、その……忘れ物、しちゃって」
 ちょっとばつの悪そうな顔で言って、響子さんは本堂の入り口へと向かっていく。けれど彼女は、その戸に手を掛けた状態で――こちらに背を向けた姿で動きを止め、
「……さっきの妖怪、時々墓場に現れる子だよね。……仲、良いんだ」
「え? いや、うん、どうだろう、うーん……」
 もはや腐れ縁の領域なので、仲が良いというかなんというか……。好きになった過去があるから無下には出来ないんだけれど、でもそれ以上にウザい時とか面倒な時がある相手なのでこう……と、言葉を濁すしかない僕に背を向けたまま、
「別に良いけど」
 と、そっけなく告げて響子さんは本堂へと入っていき……けれどすぐに戻ってくると、改めて山へと帰っていく。
 そこには怒り、というか苛々があるように思えて、心がまた痛み出すのを感じる。でも、仕事終わりの時はずっと笑顔だったし、どうして急に……と考え出したところで、ふと、小傘との会話を響子さんに聞かれていたのではないか、と思い至った。
「……不味い」
 小傘の去り際の印象が強過ぎて、おっぱいだのホモだの、聞かれると不味い会話をしていたのをすっかり忘れていた。だから響子さんは怒っていたのだろうか。嗚呼、やっちゃった……と、そうリアルに頭を抱えたところで、
「ん? そんなところでどうしたんだい?」
 部屋から出てきたナズーリンが、僕を見つけて首を傾げていた。
「どうも、顔色が今朝以上に優れないようだけれど」
「……実は、大きな失敗をしちゃいまして」
「失敗か……。私で良ければ話を聞こうか? それで少しは楽になるかもしれない」
「……」
 小傘に甘えたばかりだけれど、誰かに話を聞いて貰いたい気持ちは強い。むしろ、小傘とは全く別の立場であるナズーリンの意見も聞いてみたい気持ちがあった。
 だから、
「……恋愛の話なんですが、良いですか?」
「恋愛、か。私に的確なアドバイスが出来るかは解らないけれど、それで良ければ」
「すみません、ありがとうございます。実は、その……」
 響子さんの名前を伏せつつ、僕は妖怪相手に恋をして、そして失敗をし、失恋した事をナズーリンに話していく。それは改めて自分の愚かさを振り返る行為でもあって、脳裏に響子さんの笑顔が浮かんで辛くなる。
 そうして、苦痛と共に話を終えた僕に対し、ナズーリンは「ふむ」と一つ頷き、本堂の縁側に腰掛ける。そして、僕を手招きしつつ、
「取り敢えず座ると良い。……あと、一つ聞きたいんだけれど」
「何でしょう」
「相手は響子だろう?」
「な、何故それを?!」
「正解か」
「ッ!」自爆した! そう思う僕を前に、ナズーリンは苦笑し、
「君は正直者だね。感情が顔に出やすい。それを考えると、響子も君の気持ちに気付いているんじゃないかな」
「……そう、なんでしょうか」
 小さく呟きながら縁側へ上がり、ナズーリンの対面に正座する。対する賢将は、僕の呟きに頷き、
「恐らく、響子の方も君の事を憎からず想っていた筈だ。だからこそ、言わせて欲しい。
 ――君は馬鹿だ」
「……はい」
「響子に対する山彦遊びについて、今朝、馬鹿馬鹿しいという話を二人でしたばかりだろう? それなのに、何故そんな馬鹿げた遊びに縋ってしまったんだ。……何より、好意を寄せてくれている相手から、遊びの延長で告白されて嬉しいかい?」
「……嬉しくないです」
 勇気が出なかった、というのは言い訳でしかない。嫌われても仕方がない事を、僕はしたのだ。
「解っているならちゃんとしよう。そして、ここからが本題だ」
「――はい」
 ナズーリンの雰囲気が変わる。だから僕も居住まいを正し、彼女の視線を真っ直ぐに受けた。
「これは恋愛の相談だ。だからこそ、最初に言っておくべき事がある」
「はい」

「えっちなのはいけないと思います」

「ッ?!」
「あ、違った。違わないけれど」
 そう冷静に言い間違いを正すと、ナズーリンは改めて僕を見つめ、
「在家の五戒の一つ、不邪淫戒。それには婚前交渉も含まれる。更に相手は妖怪だ。その覚悟はあるかい?」
 不殺生戒。不偸盗戒。不邪淫戒。不妄語戒。不飲酒戒。これが、在家が守るべき五つの戒だ。命蓮寺はそこまで戒律に厳しい寺ではけれど、それでも守らねばならない一線は存在する。
 そして、それ以上に問題となるのが種族の壁だ。
「何より、君は既に失敗しているじゃないか」
「それは、その……もう一度、ちゃんと告白したいと思っています。遊びの延長ではなく、しっかりとした告白を」
「なら、もしそれが上手く行き、両想いになれたとして――どうする? 人間と妖怪の価値観は違う部分があるし、何より生活様式もまるで違っている場合も多い。君が考えているほど、その壁は低くないよ」
「それは、解っているつもりです。それに僕は、種族の違いを気にしません。僕は、響子さんという女の子に恋をしたので。もし違いがあるなら、一緒に乗り越えて行きたいと思うんです」
「一緒に、か。……確かに、大切な人と一緒ならば、どんな困難も耐えていけるものだ。それを知っているからこそ、言おう。――簡単な道じゃないよ」
 言葉の重さが違う。夢想家と言われればそれまでの僕とは違って、ナズーリンには歩んできた過去があるのだ。
「苦難も後悔もあるだろう。想い人よりも素敵な相手が現れる事だってあるかもしれない。喧嘩をして、互いを嫌いになって――喰われるかも。失った心は、私でも探し出せないからね」
「……。……悪い想像は、結構します。でも、それを否定出来る気もするんです」
 彼女は妖怪だ。何が切っ掛けで全てが反転するか変わらず……でも、何が起きても変わらない可能性だってあるのだ。
 だから、
「僕は、この気持ちを疑う事は出来ません」
「若いなぁ」
「……」
「でも、本気なんだね」
 真っ直ぐに頷き返す。対するナズーリンは、けれどそこで笑みにはならず、
「だけど私は、気安く頑張れとは言えないよ」
「解ってます。だからナズーリンに相談したんです」
「そういうところは抜け目無いのに、どうして馬鹿をやるのかなぁ。もし私が響子だったら、君の事を嫌いになるね」
「うぅ……」
 返す言葉も無い。そんな僕に苦笑すると、ナズーリンは体から力を抜き、
「でも、その直向さは大事だよ。昼間の事を真摯に謝り、改めて機会を貰えるよう頼む。それが一番だろうね。きちんと謝れば、響子も解ってくれる筈だ」
「きちんと謝れば……」
 あんな勢い任せの告白ではなく、真っ直ぐに自分の想いを伝える、その機会を得る為に。 
「――僕、やって見ます。あと、話を聞いてくださって、ありがとうございました」
「いや、寺の仲間の悩み事だ。気にしなくて良いし、何かあったらまた相談してくると良い。君達の問題である以上、私からしてあげられる事は少ないけれど……それでも、話を聞くくらいは出来るから」





 翌日。
 一晩色々考えた結果、やはり朝一番に――朝のお勤めが始まる前に謝ろうと決めた僕は、うっすらと明け始めた空の下、寺の参道で響子さんを待つ事にした。
 朝晩の冷え込みは日に日に強くなってきていて、防寒対策をしてきたというのに結構寒い。でも、それに意識が向かないくらいに、僕は緊張していた。
「……響子さん、話を聞いてくれるかな」
 昨日一日で、僕に対する好感度がどれだけ下がってしまったか解らず、今までのような友達付き合いが出来るかどうかも解らない。変にギクシャクしてしまうのは嫌だし、距離を置かれるように求められるのはもっと嫌だ。それなのに、どうして僕はあんな事を……。――でも、過ぎた事を悔やんでも仕方ない。今は前向きに考えるべきだ。……でもなぁ。
 と、ぐるぐるぐるぐる考える間にも日は昇り、妖怪の時間が終わりを告げる。そうして本堂から一輪さんがやってきて、僕の姿にちょっと驚き、でも笑顔を浮べ、
「おはよう。今日は早いのね」
「おはようございます。……ちょっと、色々ありまして」
「そう。でも、何かあったら言いなさいよ? 最近顔色が悪いように見えたし」
「ここ最近、ちょっと寝不足で。でも、大丈夫です」
 一輪さんを安心させるよう、笑みと共に告げて、僕は改めて山の方へと視線を戻す。そんな僕の背後で、朝六時を告げる鐘の音が…………って、あれ?
「もう六時?」
 朝のお勤めの時間だ。僕等の仕事は七時くらいから始まるのだけれど、朝食の準備を手伝ったりする響子さんは、この時間には寺にやってきているのが常だ。それなのに、彼女の姿が見えなかった。
 寝坊、だろうか。この半年、一度も遅れた事のなかった彼女が? 
「……」
 ……もしかして、何かあったのだろうか。そう思うと共に、どんどんと不安が高まってきた中で、本堂からナズーリンが顔を出し、
「おはよう。響子は……一緒じゃないようだね」
「おはようございます――って、やっぱり響子さん、来てないんですか?」
「まだ来てない。遅刻をするような子じゃないから、君と話し込んでいるものかと思っていたんだけれど……」
「……。……僕、響子さんの様子を見てきます」
 彼女の家がどこにあるのかは、響子さん本人から聞いている。あまり人間の立ち入らない方だけれど、それでも向かう事は出来るだろう。
「私も同行しようか?」
「大丈夫です。こうして夜が明けた以上、もう妖怪達も眠ってますし」
「それもそうだ。だけど、気を付けるようにね」
 はい、としっかりと頷いて、僕は山へと向かって歩き出す。
 心を満たす緊張は、その意味合いが変化し始めていた。


 
 鐘の音と共に動き始めた里を出ると、僕は林の中の道を早足で歩いていく。  
 遠く左手に見えるのは、朝霧に沈む霧の湖と、紅魔館だ。位置的に考えると、響子さんの家はその向こう側にある。
「……」
 響子さんは大丈夫だろうか。……そして彼女は、僕の話を聞いてくれるだろうか。
「…………」
 響子さんに謝るというのは……その後に告白をしようと考えるのは、つまり彼女に恩情を貰うようなものだ。
 でも、それを貰える可能性は低く、告白だって断られる確率が高いのだろう。だから……それで断られてしまったら、今度はすっぱりと響子さんの事は諦めよう。……まぁ、それが言うほど簡単な事でないのは解っているけれど、無理だと解った事をうじうじと悩むのは嫌だし……何より、結論の出た事を何度も蒸し返して、響子さんにこれ以上嫌われたくない。
 失恋という事実を改めて受け止めて、新たに人生を歩んでいくのだ。
「……考えたくないけど」
 本当に、失敗した時の事は考えたくない。かなり引きずるのは過去の経験から解っているし。
 そう思いながらも林を進み、僕は少しずつ上り坂になっていく道を歩いていく。
 段々と紅魔館が近くなり、けれどその背を見るように歩き続け、目指すは山の中腹だ。響子さん曰く、この辺りは天狗の管轄から外れているらしいけれど、それでも見付かると厄介なのは変わりない。ある事ない事記事にされて、寺に迷惑が掛かってしまったら一大事だ。
 そう思ったところで、前方から物音が響いてきた。
 それに慌てて隠れようと思うものの、しかしここは歩き慣れぬ林の中。一体どうしたら――と、そう慌てる僕の耳に届いたのは、響子さんの声だった。
「え、あれ? こんなところでどうしたの?」
「あ、あれ? 響子さん? ――って、響子さん!」
 慌てて叫びながら、僕は無意識に響子さんの元へと駆け寄り、
「だ、大丈夫? 怪我とかしてないよね?」
「別にしてないけど、突然どうして……って、あ、もしかして、心配で見に来たの?」
「う、うん。いつもなら寺に来てる時間なのに、来る様子がなかったから」
「ごめん、何かあった訳じゃないから心配しないで。……実はその、ちょっと寝坊しちゃって」
 そう苦笑気味に笑う響子さんに変わった様子はなくて、僕は安堵と共に息を吐く。そうしたら、一気に力が抜けて――そのまま崩れ落ちそうになり、僕は慌てて近くの木に手を突、
 あ、
「ッ!」
 ずるっと掌で木を撫でるようにしながら、前のめりになる。咄嗟に足を前に出そうとするのに、それすら上手く出来なくて――そんな僕を、響子さんが慌てて支えてくれた。
「だ、大丈夫?!」
「大丈夫……。いや、その、ちょっと寝不足で」
 ここ最近は辛くて眠れなくて、昨日は徹夜だった。後悔と緊張と不安とで、ゆっくり休む事すら出来なかったのだ。そこに響子さんの不在という状況が起きて……でも、何事も無くて安心して、ちょっと気が抜けたらしい。情けないな、という思いと、咄嗟に響子さんが助けてくれた事を内心喜びながら体を起こす。
 ……でも、まだ何も解決していないのだ。もっと気を引き締めないと。そう思いつつ右手を見ると、軽い擦過傷が出来ていた。じんじん痛い。どうやら手を突いたのは松の木だったようで、ざらざらと硬いその幹で傷を作ってしまったようだ。
 でも、そこまで痛くないし――と、そう思う僕の手に、響子さんの視線が向かい、
「……人間は傷の治りが遅いもんね。うちで手当てしてあげる」
「でも、」
「良いから、こっち来て。それに、少し休んでいった方が良いわ。……私が思ってた以上に、疲れてるみたいだし」
 その言葉と共に踵を返し、響子さんが歩き出す。その動きに一瞬躊躇い、けれど僕は彼女の後を追って歩き出した。

 響子さんの家は、そこから五分も経たない場所にあった。里に建つものよりも古めかしい、小さな民家だ。空き家になっていたものを再利用しているとの事で、この近くにはこうした古民家が幾つか存在するらしい。
 以前慧音先生から聞いた話によれば、それはかつて存在していた集落の名残であるらしい。しかし、幻想郷が結界によって隔離された事で、山で暮らす妖怪が増え、人々は一ヶ所に集まってその脅威を退ける必要があった。その結果生まれたのが、今の人里なのだという。
 そうした歴史も、知ろうと思わなかったら一生知らなかったんだろうなぁ……と、そう思っていたところで、響子さんが足を止め、
「あ、その奥から湧き水が出てるから、傷を洗っておいて」
「ん、解った」
 言いながら見やる先には、岩の間から懇々と湧き出る水と、それを受ける木の桶があった。血で汚れては不味いだろうと、一度桶を退かし……流れる水を手で受けると、それは驚くほど冷たかった。
 それに驚きながらも、僕は傷口の汚れをしっかり落とす。ついでに水を一口飲んで、頭と心をすっきりさせた。それでも、緊張は高まっていて……逃げ出したくなるような気持ちを抑えながら桶を戻すと、僕は玄関で待つ響子さんのところへ戻っていく。
 そうして通された家の中は、綺麗に片付けられていた。
 広さは十畳あるかないか、だろうか。土間があって、囲炉裏つきの座敷があって、奥には竈と米櫃がある。積んであるのは野菜や果物ばかりで……不殺生戒と不飲酒戒をきちんと守っているのだろう。
 そう思う僕を座敷に通すと、響子さんはいつの間にか手に緑色の葉っぱ? を持ちつつ、
「じゃあ、右手を出して」
「う、うん……」
 差し出した手を布で拭いてくれた後、彼女がその葉の汁? を傷口に塗っていく。いや、汁というか、なんだろう。水気のある冷たくてグニグニした何か、なのだけれど。
「な、何なのそれ」
「結構前に、永遠亭のうさぎから貰ったサボテン。アエロって名前で、傷薬の代わりになるの」
 弾幕ごっこをすると、小さな擦過傷が出来る。妖怪にとっては傷の内に入らないような傷らしいが、しかし響子さんはそこまで傷の治りが早い妖怪ではないらしく、ある時永遠亭のうさぎ――恐らくは鈴仙――に相談したらしいのだ。何か良い傷薬はないか、と。
 その結果渡されたのが、アロエの鉢だったのだという。実際に効果が高いようで、里でも育てている家があるのだとか。全然知らなかった。
「この辺りだと自生してないし……それに、うさぎのお師匠さんの手が入ってるらしいから、ある意味新種だって話だけどね」
 丁寧に、僕が痛みを覚えないよう、響子さんは処置をしてくれて……でも、それが終わると同時に会話が途切れてしまいそうで、僕はそれとなく周囲を見回しつつ、
「……あ、あれ、天狗の新聞だよね。読んでるんだ」
「一応ね。小説が目的だから、他の記事はあんまり読んでないんだけど。……はい、終わり」
「ありがとう、響子さん。……って、小説?」
 うん、と頷いて響子さんが立ち上がり、手にしていたアロエを竈の脇へと置きにいく。僕の目にした新聞は、そこに重ねて置いてあったもので、
「少し前から始まった連載でね」
 作者は、古地・あかりという人で――内容は、『心を読む能力』に目覚めてしまった少女が、苦しみながらも大切な人を見付けようとする話、であるらしい。
「結構面白いの。――この、恋愛小説」
「……」
 告げられた言葉に空気が固まり、けれど響子さんは三歩ほどの距離を置いた場所から僕を見つめ、
「心が読めるって事は、嘘が通じないって事だよね。それって、どんな感じなのかな」
 真っ直ぐに、真面目な表情で彼女は言う。
「不妄語戒」
「……嘘を吐いてはならない」
 僕等は心を読めないけれど、でも、真実を口にする事は出来る。
 だから、問いが来た。
「……多々良・小傘、だっけ。あの唐傘を持った妖怪の事、どう思ってるの?」
「ただの友達。……いや、腐れ縁」
「腐れ縁?」
「うん。小傘は怖くない妖怪として里じゃ有名なんだ。後で慧音先生に聞いてみると良いよ」
「……解った。じゃあ、ナズーリンは?」
「先輩、みたいに頼れる人」
 彼女だけ呼び捨てなのは、本人がそう望んだからだ。毘沙門天様の部下なのだし、様付けで呼ぶのが当然だと思うのだけれど、彼女は敬称を付けられるのを好まないらしい。
 部下である前に教徒であり、だからこそ僕等の間に差はないと彼女は言うのだ。
「なら、一輪は?」
「頼れる先輩その二、かな」
「みなみーは?」
「みんなのキャプテン」
「寅丸様は?」
「こう言うと失礼だけど……うっかり美人」
「まぁ、うん……。なら、聖様は?」
「凄い人。正直、未だに話すと緊張する」
「じゃあ、ぬえちゃんは?」
「悪戯っ子」
「マミさんは?」
「色々知ってる人。海についての話は面白かったよね」
「うん、面白かった」
 なら、
「私の事は?」
「、っ、」
 言葉に詰まる。連続する問いの中でそれが来ると解っていたのに、でも上手く答えられなかった。
 だからこそ、僕は改めて響子さんを見つめ、緊張に震えそうになる声を必死に抑え、
「好き、です」
 言って、深く頭を下げた。
「――昨日は、ごめん。嫌われたくなくて、不安で……だから、あんな事を」
「……本気、だったんだ」
「ああすれば、愛の告白だって、言わなくても通じるんじゃないかって思っちゃったんだ。でも、そんな甘えるような事をしたから、響子さんに距離を置かれちゃって……。だから今日は、それを謝って、僕の想いを改めて聞いて貰いたいって思ってたんだ。……信じて貰えないかもしれないけど、でも、僕は本当に響子さんの事が好きだから」
「……」
「最初の切っ掛けは、笑顔に惹かれた事だった。それから、色んな話をして仲が深まっていって、それが嬉しくて……これからも一緒に居たいって、僕はそう思ってる」
「そっか」
 そう小さく言って、響子さんは真剣そのものだった表情から力を抜き、畳の上に腰を下ろし、
「……安心したわ」
「え……?」
 どういう意味だろう。そう思う僕を前に、響子さんは四つん這いの姿勢で僕の正面にやってくると、いつもの距離、と思える場所で正座し、微笑みを一つ。

「私も、貴方の事が好き」

「――ッ」
 自然に告げられたその一言に、僕は上手く反応出来なかった。何よりもその言葉を望んでいたのに、否定され、拒絶されるとばかり思い込んでいたから、喜びよりも驚きの方が先に出てしまったのだ。そんな僕を前に、対する響子さんは恥ずかしそうにはにかみ、
「私だって一緒に居たいし、これからもいっぱい話をしたいと思ってる。……でも、不安だったんだ」
「不安……?」
「うん」
 頷きと共に、響子さんは少し視線を下げ、
「貴方からの視線とか、優しさとか、触れ合いとか、私の事を好きなのかなって思う時は多くて、だから意識し始めたら止まらなくなってた。でも、そうやって貴方の事を意識し始めるようになったら、気付く事も多かったの。
 ……言いたい事、解るよね? だって、寺のみんなと仲良しだし、他にも女の子の友達多いし……」
「……」いや、あの、それは誤解だよ響子さん。友達として話をするのは小傘くらいで、里の女の子――幼馴染や従姉達は家族みたいなものだし、ナズーリン達は先輩だし……仲が良い、というのとは少し違っているんだ! 
 ……でも、それを口にすると言い訳がましくなりそうで、僕は黙る。
 何より今は、不安そうに言葉を続ける響子さんの想いを、全部受け止めたかった。
「……それに、ぬえが始めた遊びも止めてくれないし……だから、誰にでも優しいだけなのかなぁって思い始めた頃に、昨日のアレだもん。結構ショックだったよ」
 後半は、少し拗ねたように言う響子さんに、僕もまた視線を落としつつ、
「ごめん、響子さん。……実は、止める勇気が出なかったんだ」
 本当は、どんな手を使ってでも止めさせたかった。何せ、片想いしている女の子が、知り合いの男に好きだの愛してるだの言われ、言い返しているのだ。それは尋常じゃない苦痛を僕に与え、その結果まともに食事を取れず、眠れなくなるほどの辛さに襲われた。ここ数日、寺の皆に体調を心配されたのは、それが原因だったのだ。
 でも、それでもあの馬鹿げた大会を止められなかったのは、
「……響子さん自身も楽しそうだったから、何も言えなかったんだ」
 嫌そうだったら、まだ違っていたかもしれない。でも、彼女も面白がっているように見えたから、辛くても我慢した。必死に必死に、耐えてきた。そんなに辛いなら行動すれば良いのに、と自分でも何度も思ったけれど、それが出来たら何も苦労していないだろう。僕はそこまで強い人間ではないのだ……。
 と、そんな僕の頭を、響子さんがそっと撫でてくれながら、
「片想い中だもんね。私が奪われそうに思えた訳だ。……でも、まぁ、楽しかったのは確かだよ。あれはもう、完全にお遊びだったし――山彦としての自分が必要とされてるみたいで、ちょっと嬉しかった部分もあるの。
 解ってくれる? 私は山彦だから、例え何を言われても、ただそれを返すだけで……ああして愛してるって言われても、何も感じないんだ」
 何も感じない。それは僕にとって救いの一言で、だから無意識に顔を上げた。そうして見つめる響子さんは、苦笑気味の笑みで、僕の額を軽く突付きながら、
「ただ、貴方から止められなかったっていうのが引っ掛かってたの。昨日ちょっとからかったのは、そのせい。私に興味がない癖にって、少し拗ねてたんだ。でも、止めようと思ってくれてたなら、それで良いや。
 だけどね、ちょっと思い詰め過ぎ」
「だ、だって……」
「今も言ったけど、私はただの山彦なんだよ? 何より妖怪だもの。言いたくない言葉は言い返さないわ。――だからこそ、本当に大切な言葉は、自分の意思で伝えるの」
 当たり前のように――無知な僕に常識を教えるように、彼女は言う。
「私は、貴方が好き。これは、誰でもない私の――幽谷・響子の言葉なんだから」
 ただ言葉を繰り返す山彦ではなく、幻想郷に存在する妖怪として――幽谷・響子という個人として、
「私は、貴方の事が好き」
「響子さん……」
 嬉しさと恥ずかしさと、それ以外にも色々な感情が混ざり合って、上手く言葉が浮かんでこない。それでも、解る。
 僕は今、とても大きな幸せを手に入れる事が出来たのだ。
 そんな僕を前に、響子さんは体から力を抜き、
「昨日は色々考え込んじゃって、何してるんだろうって悩んだりしたけど……その結果がこれなら、寝坊して良かったのかもしれないわ」
「……ごめん」
 僕が馬鹿な選択をしなければ、僕等はもっと素直に想いを伝え合う事が出来た筈なのだ。それに関しては、後悔してもし足りない。でも、対する響子さんは笑みを浮べ、
「貴方の気持ちを酌めなかった私も悪いし、もう気にしないで。……それより、さ」
 ぐっと僕の方へと身を寄せると、響子さんは普段以上に近い距離から僕を見つめ、予想外の言葉をくれた。

「――私と、一緒になって欲しいの」

「い、一緒に……?」
 つ、つまりそれは、夫婦になる、という事なのだろうか。恋人同士になれた直後だというのに、それは流石に急展開過ぎて理解が追い付かない。十四歳男子の許容力は、そんなに高くないのだ!
 そうでなくても、響子さんと恋人同士になれた嬉しさや恥ずかしさで冷静さがどこかへ行ってしまっている。そんな僕に畳み掛けるように、響子さんは切なそうにも見える表情で僕を見つめ、 
「嫌……?」
「そ、そんな事ない! で、でも、僕等は人間と妖怪で、生活様式とかも違う訳で……」
 と、混乱しながら告げる僕を前に、響子さんは小さく首を傾げ、
「種族の違いもあるし、お互いへの理解が深まってから……って、そう言いたいの?」
「そ、そんなところ……」
「そんなところかー。――えいっ」
 可愛らしい声と共に、抱き付かれた。抱き付かれた?!
 ちょ、ま、どうしようどうしよう、どうしたら良いんだろうこれ! 柔らかくて暖かくて良い匂いのする響子さんがぎゅっと僕を抱き締めてきていて、あわあわと混乱するばかりで何も出来ない!
 そんな僕の耳元に、響子さんが口を寄せ、
「……ふー」
「ひぅっ!」
「うわ、可愛い声ー……。人間の男は声変わりする直前が食べ頃だって聞いた事があったけど、こういう事だったんだぁ」
「え、えっちなのはいけないと思います!」
「夫婦なら、問題ないよ」
 耳元で告げられた声に背筋が震えて、一瞬何を言われたのか解らなかった。その隙を狙うように僕を押し倒すと、響子さんは僅かに顔を上げ、
「在家の五戒の一つ、不邪淫戒。これは禁欲を強いるものじゃなくて、夫、或いは妻以外の者との行為を禁じるものなの」
 だからこその、一緒になって欲しい、という言葉で、
「それにさ、この半年、朝から晩まで一緒に居て……同じお釜のご飯を食べて、色んな話をしてきたんだよ? 他に知らない事って言ったら……ねぇ?」
 響子さんの声が、高揚している。嬉しさと興奮を混ぜ合わせた、妖艶な響きが僕の背筋を震わせる。体から力が抜けていく。それなのに、熱は収まる事を知らなくて――
 ――それでも、僕は問い掛けた。
「で、でもその、響子さんは人間が相手でも、その……良いの?」
「駄目だったら好きになってないわ」
 それにね?
「前からちょくちょく話題には出してたけど……私、ずっと前から『夫婦』に憧れてたんだ。だって、登山に来る夫婦とかね、揃って山に大声出すんだよ? 仲良さそうに、楽しそうに、一緒に声を合わせるの。ああいうの見る度に、夫婦って良いなぁって思ってたんだ。
 好きな人が出来てからは余計だったよ? お嫁さんになったら――なんて、毎晩考えてた。だから、決めてたんだ。憧れのお嫁さんになれたなら、一番最初に……

 ……最初に、旦那様を食べようって」






















 ――まどろみの向こうから、遠く音が聞こえる。普段とは違う、けれど聞き慣れた命蓮寺の鐘の音色が響いてくる。
 山間にもそれは響くのだと、そう響子さんが言っていた事をぼんやりと思い出しながら、僕は目を覚ました。
 見慣れぬ部屋、普段よりも冷える空気。でも、すぐ隣に暖かな熱があって、
「あー……」
 食べられたんだった。……性的な意味で。
 そうしてずるずると時間を重ね、改めて色んな話をして……結局寺に戻らずに一日を過ごして、夜が明けてしまった。
「……うー」
 イジメないでね、どころかイジメられて、思い出すだけでも恥ずかしい。でも、それと同じくらい安堵があって、不思議な気分だった。
「……」
 眠りに就く前、響子さんは言っていた。『こうして確かめる事が出来て良かった』と。 
 響子さんは、山彦の妖怪だ。元々は人間の姿をしておらず、幻想郷に来てから今の姿を取ったのだという。何故ならその方が、この土地では他者とコミュニケーションを取り易いからだ。人間だって、獣よりも人型の相手の方が会話しやすい。そうした理由から、幻想郷の妖怪は人型を取るのだそうだ。
 けれど、響子さんは山彦なのだ。元々の姿も仮初のものでしかなく、結局のところ彼女は『山彦』という現象でしかない。それは、自分、というものがとても希薄に感じられるものであるらしく――ふとした瞬間に、自分が幽霊のように消えてしまうのではないか、ただの現象に戻ってしまうのではないか、という恐怖に襲われてしまうほどだったのだという。
 今の自分があるのは、命蓮寺に入門したお陰だと、響子さんは笑っていた。
『あのまま山で震え続けていたら、きっと私は消えてしまっていただろうから』
 でも、そうはならなかった。今や彼女は、新たな山の恐怖として人間に認められ、その存在を確固たる物にしている。
『だから、恋をする余裕も出来たのかもね。……でも、それ故に私は不安になった』
 山彦、という現象の妖怪である自分が、人間の夫婦のように『出来る』のかどうかが。
「……」
 人間と同じ外見をしているからといって、体の作りまで――その中身まで人間と同じとは限らない。僕はそれを小傘から教えられていたけれど……それでも、理解までは出来ていなかったように思う。
 というか、人間には考え付かない悩みなのだ。だってそれは、人間の男女なら当たり前に出来る行為なのだから。
 でも、彼女はそれを悩んでいたのだ。僕を押し倒したのも、不安の裏返しだったと言っていた。だからこそ、出来ると解った時は泣き出してしまって……感情の高まりもあったのか、僕も一緒に泣いてしまった。……その後、元気を取り戻した響子さんに別の意味で泣かされたのは忘れておきたい。
 そんな事を思いつつ、僕はまだ眠っている響子さんを見つめる。
「……」
 二人の関係は定まった。
 これからの未来がどうなるのかは解らないけれど……でも、響子さんと共に歩む人生が待っているのだ。何でも出来るし、何にでもなれるような気がした。
 ……でも、寺のみんなにはどう説明しよう。昨日一日何もなかった事を考えると、僕の事を信じてくれたんだろう「チュー」け、れ、
「どーん……」
 見上げる先、
 梁の上。
 見覚えのある、
 ネズミが一匹。
 ……え、ネズミの顔が解るのかって? そりゃ毎日見てれば覚えますって、えぇ。時々エサをあげたりするし。
「……こ、これはアレかなぁ。僕の事を心配してくれたナズーリンが、こっそり部下を一匹付き添わせていたとか、そういう……?」
「チュー」
「つ、つまり、昨日の事は全部……」
「チュー」
「ですよねー……」
「……」
「えっと、あの、僕も響子さんも元気です、はい……」
「チュ」
 小さく鳴いて、灰色のネズミが梁の上から去っていく。きっとご主人様のところへ戻っていくのだろう。
「……」て、寺に戻ったら何を言われるだろう。一応、戒律は破っていない筈だから怒られる事はないにしろ、この事でからかわれるのは必至! 聖様に至ってはお赤飯炊いてそうな気がする!
 ……僕等の日常は、更に騒がしさを増しそうだ。
「でもまずは、あの大会を止めさせないと」
 山彦としての受け答えだとしても、『愛してる』の言葉は、僕だけのものに――僕等の間だけのものにしたいから。
 そう決意を固めたところで、響子さんがゆっくりと目を開いた。
 彼女は僕の姿に一瞬驚き、けれどすぐに甘く微笑み――


「――おはよーございます、あなた」

 
 
 











end


 

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