彼女の愛したマリス・ステラ。

――――――――――――――――――――――――――――

★★★

 翌日。
 後二日、という絶望的過ぎる数字を覆す為に、私は一度自宅に戻って装備を整える事にした。
 相手は吸血鬼を殺せるような人間だ。今まで戦ってきた妖怪以上に手ごわい相手になるのは目に見えていて、だからこそ準備は万端にしておこうと考えたのだ。

 当のレミリアは、パチュリーと美鈴に自身の運命を説明している。突然の告白になるが、しかしそれで運命が好転し始めるのならば、味方は多いに越した事はないだろう。
 と、そう思いながら廊下を進んでいたところで、
「あら」
 曲がり角の向こうから現れたのは、フランドールだった。
 彼女は私の姿に気付くと、柔らかな微笑みを浮かべ、
「どうしたの、フロイライン。箒なんて持って」
「ちょっと家に戻ろうと……って、フロイライン? お嬢さんってお前、外見年齢だけは私の方が上だぜ?」
「それもそうね。じゃあ、お姉様に倣ってマリアと呼ぼうかしら」
「それも無しだ。むず痒くなる」
「じゃあ、マリサ様」
「止めてくれ。様を付けられるような関係じゃない」
「そう? なら、なんて呼ぼうかしら」
「普通で良いんだよ、普通で」
「えー。それじゃあつまらないじゃない」
 そう楽しげに微笑むフランドールは、ありとあらゆるものを破壊する力を持つ。

 それは姉を凌駕する破滅の力。
 私利私欲の為に狙われた恐怖の力。
 人間という生き物を知らなかった、幼い少女の力。

 私の前に立つ時、フランドールはいつも両手を握り締めている。その理由は解らないが、それが彼女なりの優しさなのだという事は薄々解ってきていた。恐らくあの手に、破壊の力を呼び込み……いや、呼び込んでしまうのだろう。
 そんなフランドールから、以前『私が怖くないの?』と問い掛けられた事があった。

 あれは、少しずつ彼女達と打ち解け始めた頃の事だ。私の魔法に笑っていてくれながらも、しかし内心では警戒と困惑があったのだろう。この人間は何を考えているのだろうと、そう思わずにはいられなかったのだろう。
「……なぁ、フランドール。前にお前から『私が怖くないの?』って聞かれた事があっただろ? あの時私は、『怖くない』って答えた」
「うん、そうだったわね」
「なら、今度は私から質問させてくれ。お前は、私の事が怖くないか? ……いや、違うな。私の事をどう思ってる?」
 レミリアが言うに、フランドールは姉の運命を知っているらしい。つまり彼女は、独り取り残される運命を、五百年以上抱え続けていたのだ。そんなところに現れた私が――彼女の力ならば一瞬で消し飛ばされてしまうのだろう人間が、姉の運命を変えようと息巻いている。
 姉に護られ続け、けれど何も変えられなかった妹の心を、私は揺らがせようとしている。

 ……こんな事は考えたくもないが、私の行動で本当にレミリアを救えるのかは解らない。
 もしかしたら、護る間もなく彼女は殺されてしまうのかもしれない。或いは、既に彼女の体には呪いが掛けられていて、戦うも何もなく死んでしまうのかもしれない。最悪、レミリアを護ろうとする私が先に殺され、それに動揺した隙を狙われてしまうのかもしれない。
 私には運命なんて曖昧なものは予想出来なくて、魔法を使っての占いすらも上手く出来ない。だから出来る限りの準備をして、最大限足掻くしかない。
 そんな私を、フランドールはどう思っているのだろう。

 勇敢だと微笑むだろうか。
 愚かだと嗤うだろうか。
 巫山戯るなと殺意を向けるだろうか。
 期待していないと失望されるだろうか。

 だけど私は、ただレミリアを、そしてこの暖かな生活を護りたいだけなのだ。

 そんな私を前に、フランドールはどこか不安そうな様子で、
「……マリサは、私が怖くないの?」
「怖くない。それは、お前が姉想いの優しい女の子だって知ってるからだ」
「そう……。……でも私は、私が怖い。マリサが怖い。……この世界が、怖い」
 その言葉と共に俯いてしまったフランドールは、赤いドレスのスカートを握り締めながら、
「私には破壊の眼が見えるの。それをこの手に移動させれば、何だって壊せる。人間も妖怪も、概念と呼ばれるものだって破壊出来る。やろうと思えば、お姉様の運命だって壊せるのかもしれない」
 でも、
「壊したら、全部消えて無くなっちゃうの。……もしかしたら、二日後の私は、お姉様を救おうとしてこの力を使って、でも力を制御し切れずにお姉様を殺してしまうかもしれない。マリサを、パチュリーを、メイリンを、私を、この世界を壊してしまうかもしれない。……だから、運命を変えようとしてるマリサが怖いわ。大好きだけど、今は怖い。信じたいけど、でも、私は……」
 スカートをきつく握り締めるフランドール・スカーレットは、破壊の力を持っている。それは、ありとあらゆるものを消し飛ばす否定の力だ。それ以外に物事を否定する方法を知らないのだろう彼女は、自分の中にある恐怖をどう処理して良いのか解らないのかもしれない。

 だから私は、小さく震えるフランドールをそっと抱き締め、
「怖いなら、その気持ちを押し殺さなくて良い。不安な気持ちは我慢しなくても良いんだ。それに、私の魔法を見てフランドールは楽しんでくれたろ? あんな風に、壊さなくたって出来る事が世の中には沢山ある。お前の両手は、もう自由にして良いんだ」
「……マリサは、私が怖くないの?」
「怖くない。私は、フランドールの事が大好きだぜ」
「……っ」
 強く強張っていたフランドールの体から少しだけ力が抜けて、動きが生まれて……恐る恐る、その細い両腕が私の背中に回った。それに答えるように抱き締める力を少しだけ強めると、ぎゅっと彼女からも抱き返されて。
「……お願い、マリサ。お姉様を助けて」
「ああ、絶対に助けてみせる」
 胸の奥へと届けるように響いた言葉に、私は強く頷き返す。

 しかし、こうして吸血鬼を優しく抱き締めているなんて、靈夢や魅魔様と出逢う前の私だったら想像も出来なかっただろう。当時の私は、妖怪は恐ろしいもので、決して近付いてはならないものだと教え込まれていたのだから。
 つまりこれは、形骸化してしまった妖怪退治の形の、さらにその先にある関係なのかもしれない。今は殺し合うしかない私達の間に何か切っ掛けが生まれれば、人間と妖怪の距離はぐっと近付くのかもしれない。
 そうでなくても、私達は一つ屋根の下で仲良く暮らす事が出来ているのだ。レミリアを助けたら、靈夢や妖怪の賢者達にそうした話をしてみよう。特に妖怪の賢者達は、幻想郷の現状を嘆いていた筈だから。

 と、そんな風にフランドールを慰めていたところで、
「ん? 廊下の真ん中で何をやっているの?」
 声に視線を上げれば、パチュリー達を引き連れたレミリアの姿があった。その姿にフランドールが少々驚きながら離れていき、私はその頭をそっと撫でながら、
「別に何でもないぜ。フランドールとラブラブしてただけだ」
「ラブラブって、私の妹に変な事は吹き込まないでよ?」
「失礼な。私の教える事はいつだってなんだって健全だぜ?」
「本当かしら」
「なら、自分の目で確かめてみれば良いさ。なんなら、今度は私の家に泊まるか? まぁ、片付けに三日程度掛かるだろうから、後で手伝って貰うけどな」
「えー、片付けを客人に手伝わせるつもりなの?」

「何言ってんだ。私達はもう、家族だろう?」

 無意識に告げた言葉は、自分でも驚くくらい自然な響きを持っていた。
 ああ、そうだ。この狭い屋敷で一緒に生活し、食事を取り、笑い合う私達は家族である筈だ。
「なぁ、パチュリー?」
「えぇ、そうね。だからレミリアにはそろそろ掃除を覚えて貰わないと」
「お料理でも良いですよ。私が手取り足取り教えますから」
「で、でも、私お嬢様だから、フランドールの手より重たいものは持てないわ。ねぇフランドール?」
「私、お姉様の手料理を食べてみたいわ。あと、私もお料理してみたい」
 まさか妹にまで逃げ道を塞がれるとは思わなかったのか、レミリアは少々動揺しながら、しかしそれを無かった事にするかのように胸を張り、
「し、仕方ないわね。そういう事なら料理を覚えてあげない事もないわ」
「では、早速今日の昼食から始めましょう!」
「え、嘘、今日からなの?!」
「何事も早いに越した事はありません! さぁ、キッチンに向かいますよ!」
「わ、ちょっと、抱きかかえないでってば! ちょ、マリア、パチュリー、見てないで止めて!」
「……でなぁパチュリー」
「そうね、あれは……」
「あからさまに無視しないでよぉぉぉ……!!」

 レミリアを小脇に抱え、フランドールの手を取った美鈴が廊下の向こうへ楽しそうに駆けて行く。あの調子だと、以前から誰かに料理を教えたがっていたのかもしれない。
「しかし、レミリアの手料理か。包丁を握った事も無いんだろうし、どんなものが出来るんだろうな」
「美鈴が付いているとはいえ、ちょっと怖いわね」
「後で感想……いや、一口分でも良いから残しといてくれ。帰ってきたら食う」
「ああ、そういえば一度家に戻ると言っていたわね。……なら、攻撃に特化した魔道書をありったけ準備してきなさい。今夜一晩で、貴方専用の魔法を練り上げてあげるから」
「良いのか?」
「当然よ。今も運命なんて信じていないけれど、この暖かな生活が失われるかもしれない以上、私は全力で戦うわ。だから、明後日は貴女と美鈴でレミリアを護って。私はその補佐に回るわ。……彼女は私達の大切な友人で、家族なんだから」
「ああ、解ってるぜ!」



 そうして、パチュリーに見送られて屋敷を出た私は、魔法の森にある自宅へ戻る前に、博麗神社へと立ち寄っていく事にした。
 吸血鬼を殺せるような人間、ヴァンパイアハンターなど、私の知る限り幻想郷には存在しない。となると、外の世界から何らかの方法を使って入り込んでくる可能性が高く、それを靈夢に警戒して貰おうと考えたのだ。
 或いは、ヴァンパイアハンターなどという、外の世界ではもう存在しないだろう相手が、吸血鬼の登場と共に幻想郷に引き寄せられている可能性だってある。そうした情報も仕入れられれば良いんだが……と、そんな風に思いながら、私は境内に降り立ち、
「って、あれ。なんか汚いな」
 普段ならば掃除が行き届いている筈の境内に落ち葉が散乱し、数匹の妖精が騒いでる姿すら見えた。『面倒臭い、面倒臭い』と呟きながらも、けれど一度だって境内の掃除を欠かした事が無い靈夢にしたら珍しい。……もしかして何かあったのだろうか。そう嫌な予感を覚えながら、少々早足で歩いていく。

 そして、私はいつものように縁側の襖を開いて中へ、

 札が、

「のあッ?!」
 こちらの顔面を狙ってすっ飛んできたお札を紙一重のところで回避し、返す動きで光を放つ。そのまま倒れるようにして箒を掴むと、超低空飛行で縁側から距離を取り――
「――って、ちょっと待ちなさい!」
「待てと言われて待つ馬鹿は妖精くらいだ! って、その声、靈夢か?」
「……え、嘘、嘘でしょう?」
 地面すれすれから急上昇。空中で体勢を立て直し、縁側に立つ少女の正面に降り立つ。何故か強い驚きを浮かべている博麗・靈夢は、今日も今日とて白衣に緋袴の巫女服だった。

 わなわなと震える肩に釣られて、その綺麗な黒髪が揺れる。そろそろ切ろうかな、と言っていた癖に、今も長いままだった……って、そんな事はどうでも良い。
「一体何が嘘なんだ? ここ最近……いや、私はいつでもどこでも正直者だぜ?」
「あ、アンタ、生きてるのよね? 幽霊じゃないわよね?!」
「あー? 何を疑われてるのか解らんが、私は霧雨・魔」「良かった――!!」
 なんだか良く解らないが、言葉の途中で靈夢に抱き締められた。
 こんな熱烈な歓迎を受けたのは初めて、一体何が起こったのかと動揺していると、耳元から鼻を啜る音が聞こえて、
「……もしかしてお前、泣いてるのか?」
「そ、そんな訳っ、ないっ……」
「あー……事情は掴めんが、心配掛けてたみたいだな」
 パチュリーにして貰ったように、レミリア達にしたように、私は靈夢の細い体をそっと抱き返し……こちらへと向けられている視線に気付いて顔を上げると、そこには意味深な表情でこちらを見つめる八雲・紫の姿があった。

 名立たる妖怪の賢者の中で、もっとも異質な女がどうしてこの場所に居るのだろう。……まぁ、一応顔馴染みだから、そう無下には出来ないんだが。そう思う私に、紫は優しく微笑み、
「久しぶりね、道具屋の一人娘」
「久しぶりだな、妖怪の賢者。って、今の私は魔法屋だぜ」
「お父上は、今も貴女の話ばかりしてくれるわ」
「そのままボケるんじゃないか? 知った事じゃないな」
 私の実家は道具屋を営んでいて、同時に処分に困った道具の引き取りも行っていた。その中には外の世界の、香霖でもガラクタだと判断しそうなものも存在していて……父親は、そうした物品の処分を彼女に頼んでいたのだ。

 私や香霖と同じように、紫も珍しいものがあると手に入れたがるらしい。自力で手に入らないものは何も無いだろう女だが、それでも掘り出し物を見つける喜びを捨てられないのだそうだ。
 そういうところがやけに人間臭い事も含めて、この女は妖しく胡散臭い。かといって信用出来ない訳じゃないから、距離を上手く掴めない。
 そんな私を前に、紫は微笑みのまま、
「何はともあれ、貴女が無事で良かったわ。幻想郷は今、未曾有の事態に突入している真っ最中だから」
「み、未曾有の事態? おいおい、それは笑顔で言って良いセリフじゃないぜ?」
「仕方ないわ。もう笑うしかないくらい、状況が緊迫してしまっているんですもの」
「――そうよ、紫の言う通りよ!」と、がばっと顔を起こした靈夢が私を真っ直ぐに見つめ、「アンタが懇意にしてる魔女の屋敷に強大な妖怪が現れたの! でも、もう一ヶ月以上経つのにその妖怪は屋敷から一歩も出てこない! 魔女も、メイドも、アンタも! そうでなくても、最近は変な死に方をしてる妖怪や人間が出てるし……だからもう、私はアンタが食われちゃったんじゃないかって……!」
 そう叫び上げながら、再び溢れて来た涙を乱暴に拭い、靈夢は私を叱り付けるように、
「心配させないでよ、馬鹿!」
「す、すまん、それは本当に心配掛けた。……けど、強大な妖怪か。まさか吸血鬼――」

「――吸血鬼?」

 不味い、と思った時には遅かった。
 目の前に立つ友人の瞳が、少女のそれから、幻想郷の規律を護る巫女のそれへと変わっていく。そして彼女は、慌て始める私の手を強く掴み、
「詳しく説明して。紫が言ったように、幻想郷は今、大変な事に――」

「――吸血鬼、吸血鬼ですって?! それは良い事を聞きました!」

 甲高い烏の鳴き声のような声と共に、興奮気味の見知らぬ少女が現れた。
 だが、濡れ羽色の髪に頭巾を被り、一本下駄を履いている姿を見ればその正体はすぐに解る。そんな私を部屋の中へと引っ張り込みながら、靈夢が怒りの籠もった声で叫び上げた。
「天狗! アンタまた聞き耳を立てて!」
「新鮮な情報を手に入れる為、常にアンテナを張り巡らせておくのは当然でしょう。しかし吸血鬼ですか。少々予想外の妖怪が現れていたようですが、ならばこそ、お山の力を示す良い機会になるでしょう! 早速報告せねば!」
「待ちなさいッ!!」
 止める間もなく、風と共に飛び立った烏天狗を靈夢が負い掛けていく。
 その姿を呆然と見送りつつ、しかし私は目の前で起こった状況を上手く理解出来ないでいた。
「…………なぁ、紫。八雲・紫」
「何かしら」
「あの天狗が報告に戻ったとして、奴等はいつパチュリーのところに攻め込んでくる」
「天狗の足なら、十分もしない内に山へ戻れるでしょうから……最低でも一時間後には山の勢力が押し寄せてくるでしょうね」
「嘘だろ?」
「残念ながら事実ですわ」
「……嘘、だろ」

 視界が揺れる。自分の一言が切っ掛けで一気に加速した状況に、ただうわ言のように「嘘だろ」と繰り返す。
 天狗は、妖怪の中でも上位に入る力を持つ。そんな奴等がレミリアを倒しに押し寄せてくる。レミリアを倒して、自分達の地位を向上させる為に。
 全ては、私が口走った言葉が――いや、そうでなくてもレミリア達の事は説明するつもりでいた。つまり、こうして私が神社に立ち寄った結果、レミリアの運命が狂ってしまったという事になる。
 それはつまり、彼女の死が早まったという事でもあって。
「……」
 ……レミリアは言っていた。 

『私は人間に殺される』

 私達は、それがヴァンパイアハンターのような、妖怪染みた力を持つ人間によるものだと思い込んでいた。
 だが、実際には違ったのかもしれない。

 人間に直接殺されるのではなく、人間が切っ掛けでレミリアは死ぬ。
 私の行動が、レミリアを殺す。
 私が、レミリアを、
 私、
 私が!

「――畜生!!」

 巫山戯るな巫山戯るな巫山戯るな! こんな運命、認められるか!
 こんな些細な事が切っ掛けで、大切な家族を殺されてたまるか!
「私は――ッ!」

「待ちなさい」

 箒を掴み、外に飛び出そうとしていた体を紫に止められた。だが私はその腕を振り払い、いつの間にか背後に立っていた彼女を睨み付け、
「五月蝿い! 私はレミリアを護るんだ! どんな手を使ってだって、この騒ぎを止めなくちゃいけないんだよ!」
 少なからず、私にだって天狗と戦える程度の力はある。
 それでも、大群となって押し寄せてくる奴等に対してどれだけ戦えるかは解らないが……魅魔様に鍛えられたこの力で博麗の巫女と戦い、外の世界の科学魔法使いと戦い、魔界の魔界神と戦い、夢幻館の眠り姫と戦った経験は、この体にしっかりと刻まれている。
 そうでなくても――例え私が無力な人間だったとしても、レミリアやパチュリー達を危険な目に合わせる訳にはいかないのだ!
 だから――!!

「――落ち着きなさい」

「ッ!」
 頬を打たれた。予想外の衝撃と痛みに頭が一瞬真っ白になり、けれど視線を戻すと同時にこちらからも手を振るい、
「――ッ」
 静かな部屋に響く乾いた音と、手に残る衝撃。そして、僅かに顔を傾ける紫の姿に――こちらからのビンタを無防備に受けたその姿に、頬を打たれた以上の衝撃を受けて何も言えなくなってしまった。
 そんな私を前に、大妖怪八雲・紫は、複雑な感情の見え隠れする、どこか辛そうにも感じられる表情で私を見つめ、
「――博麗の巫女が動き出してしまった。彼女は幻想郷の規律であり、絶対の存在。こうなってしまえば、もう誰もあの子には敵わない。……でも、それでは駄目なのよ。それでは何も変わらない」
「……何が言いたいんだよ、お前は」
「まずは、落ち着いて私の話を聞いて。……靈夢は、ずっと貴女を心配し続けていたのだから」
「……」
 靈夢の――大切な友人の名前を出されてしまっては、黙るしかない。それに、この状況で私を引き止めるという事は、何か伝えたい事があるのだろう。
 そう思う私に、紫はここ一ヶ月の間に起こった出来事を話してくれた。

 そもそも、靈夢がレミリアの気配に気付いたのが、今から三週間以上前。私がパチュリーの屋敷で寝泊りを始めて一週間ほどした頃の事だったらしい。だが、それ以前に――レミリアが魔道書から召喚された瞬間に、彼女の気配を察知した妖怪が数多く存在していたのだという。
 結果、だらけきっていた妖怪の一部がその妖気に当てられて人間を襲い始め、そうした動きに釣られるように他の妖怪や妖精も騒ぎ出し……その異変にもならないような事件を解決して回っていった結果、靈夢は魔女の屋敷に近付けぬまま、ただ時間だけを浪費していく事になる。
 同時に、異変が起きればすぐに顔を出すだろう私が全く出て来ない事に、靈夢が心配し始めた。それが、今から半月ほど前のこと。

 その頃には『魔女の屋敷に現れた強大な妖怪』という単語が一人歩きし始め、幻想郷の誰もがその存在を知るほどになっていた。ただ、相手がどんな妖怪か解らない以上、魔女の屋敷に近付きたがるものは居なかった。
 というより、そうした『強大な妖怪を倒してみたい』などという交戦的な思考を持つのは低俗な妖怪でしかなく、大妖怪と呼ばれるものは一定のルールを用いた戦闘しか行わない。彼等は自分の力がどれだけの被害を及ぼすかをしっかりと熟知しているからだ。
 しかし、そうした大妖怪の気すらそぞろにさせるほど、『強大な妖怪』の噂は膨れ上がり始め――私の家、香霖堂、実家、魔界と、靈夢はありとあらゆる場所を、それこそ寝る間も惜しんで探し回ったらしい。
 そうして最後に残されたのが魔女の屋敷であり、だがその頃には妖怪の賢者が巫女に相談を持ち掛けるほど事態は膨れ上がっていた。
 博麗の巫女が私を探し回った事が――幻想郷の各所を回った事が、却って『強大な妖怪』の信憑性を高めてしまう切っ掛けになってしまったのだ。そして切っ掛けさえ生まれれば、噂は勝手に尾びれ背びれを付けて成長していく。
 その結果、ああして天狗が神社に張り込むほどにまでなってしまったのだ。

「……今、幻想郷の妖怪は二つに分かれている。一つは、強大な妖怪――吸血鬼に賛同し、再び妖怪天下の世界を取り戻そうと画策する者達。そしてもう一つは、吸血鬼を倒して自身の名を上げようとする者達よ」
 かつて幻想郷に存在したという鬼のように、妖怪は争いを好む傾向にある。そうして名を上げ、大妖怪と呼ばれるようになれば、その存在は確固たるものとして歴史に刻まれていく。
 人間よりも精神的に成長している妖怪達だが、しかしそこから業や欲が消え去っている訳ではない。吸血鬼の存在により興奮状態にある今ならば、むしろ人間よりも強くその欲求に従うだろう。……いや、地位や名声を求めるだけならまだ良い。むしろ、この混乱に乗じてただ暴れたいだけの妖怪も決して少なくない筈だ。そうなれば、里の人間達も巻き込まれかねない。
 いや、そうでなくても、
「興奮した今の妖怪達は、当然のように人間を食らうでしょう。……死体が増えてきているのも、そのせいだと考えられるわ。
 むしろそれ以上に問題なのは、相手が吸血鬼であるという事よ。どれだけの妖怪が束になったとしても、長い期間腑抜けていた幻想郷の妖怪達では決して吸血鬼には敵わない。今後その吸血鬼が力を振るい始めれば、強大な力を前に妖怪達は屈するしかなくなるでしょう」
「待てよ、アイツはそんな事しない!」
「出来る、出来ないという話ではないのです。そう想定しなければいけないところにまで状況は進んでしまっている。貴女がどれだけ声を張り上げようと、動き出した妖怪達は止められない」
「じゃあお前は、どうやってこの状況を止めるつもりなんだよ!」
 方法なんて解り切っている。それなのに問い掛けてしまった言葉に、対する紫ははっきりとした声で、

「私が、その吸血鬼を殺します」

「――――ッ、」
 真っ直ぐに告げられた言葉に、しかし私は感情に任せた否定を行えなかった。
 何故なら、紫の言葉を理解するよりもずっと早く、ずっと長く、私は誰よりも辛そうな彼女の表情を見続けていたのだから。

 それは、人間から与えられていた恐怖に怯えていたレミリア達を彷彿とさせるもの。……それに思わず視線を逸らしながら、しかし私は彼女に問い掛けていた。
「……どうして、そんなに辛そうなんだよ」
「……私は、こんな幻想郷を望んでいる訳ではないの。私の求めた楽園は、もっと別の形である筈なのよ」
「どういう事だ?」
「以前から、考えていたものがあるの。靈夢とも相談して、色々と計画を練っていたのだけれど…………私はね、人間と妖怪の関係を変えず、しかし私達を対等の位置に立たせる『決闘』のルールを考えているのよ」
「……決闘?」
 思わず視線を上げる。すると、対する紫はどこか興奮気味の表情で、

「そう。言い換えるなら、誰も死なない妖怪退治よ。
 今も、私達のような強大な力を持つ妖怪は一定のルールを持って戦いを行うわ。そうしないと、幻想郷を破壊しかねないから。でも、これをもっと解りやすく手軽な……例えばスポーツや格闘技のようなものに変えてしまうの。勝ち負けをはっきりと決めて、全力で戦い、けれど負けても遺恨が残らないようにする。もっと言えば、妖怪が手軽に異変を起こしてストレスを解消し、人間がそれを簡単に解決出来るようにする為のルール。つまりそれは、全く新しい形の妖怪退治なのよ。
 候補となるものは既にいくつか出来上がっていて、どれか一つでも良いから定着さえしてくれれば……幻想郷は、私達の関係は大きく変わる事になるわ」

 それは、人間と妖怪の新しい関係。
 フランドールを抱き締めながら考えた事を、現実のものにする為の発想だった。

 私なんかに想像出来るような事、頭の切れる紫が考え付かない訳が無いとは解っていても、それでもまさかそんな状況が……魔女の屋敷に生まれた幸せが、幻想郷全土で起こるかもしれないのだと思ったら、どう言葉を返して良いのか解らなくなった。
 そんな私を前に、紫は真っ直ぐにこちらを見つめ、
「だから、貴女にお願いがあるの」
「わ、私に?」
「この大異変を止めたいと願うのなら、吸血鬼と戦って欲しい。誰でもない、人間の貴女に戦って貰いたいの。――そう。妖怪達が活気を取り戻したというのなら、彼等に思い出させなければならないのよ。

 妖怪を退治するのは、いつだって人間の役目なのだという事を」

 つまりそれは、吸血鬼が倒されさえすれば――始まってしまった大異変の根源が倒されれば、興奮気味の妖怪達も冷静さを取り戻すだろう、という目論見だった。
 そうだ。腑抜け、気力を失っていた妖怪達にとって、吸血鬼は酒のようなものだった。気分を高揚させてくれるそれを求めて、奴等は動き出した。その酒が無くなれば、始まったこの宴会を――異変を終えるしかない。
 ……もしレミリアが自分の意思で幻想郷を支配しようとしていたら、状況はもっと早く動き、そして今以上に酷い事になっていたのかもしれない。そう思うとぞっとする。恐らく――いや、確実に幻想郷はレミリアの手中に落ちていただろう。それほどまでに吸血鬼というのは圧倒的な存在であり、そのカリスマは他者を従わせるのだ。

 そんな吸血鬼を人間が倒す事で、形骸化した妖怪退治の形を復活させる。

 思うところはあるが、しかしその未来こそ、私が望んでいたものでもあるのだ。
「……解った。妖怪からの依頼は初めてだが、その話、引き受けるぜ」
「ありがとう……」
「でも、一つだけ果たせないものがある。
 私は、この状況の根源になっちまった吸血鬼の家族なんだ。だから、私はアイツを退治しない。そこで行うのは殺し合いじゃなく――お前の言う、決闘だ。私は、これからの幻想郷のスタンダードになれるような戦いをしてみせるさ」
 その為には、出来るだけ派手に、華々しい勝負をして妖怪達を惹き付けなければならないだろう。レミリアはそうした勝負を酷く苦手にしていそうだが、しかし私はパワーのある魔法を追求してきた魔法使いだ。その威力を抑えるだけで、派手で迫力のある攻撃ばかりを繰り出せる。最近完成させた"魔砲"も、威力を絞れば良い広告塔になるだろう。
 その勝負を介して、相手を殺さずとも勝負は付けられるのだと――そうやって人間と戦う事も出来るのだと、幻想郷の妖怪達に知らしめる。それだけではない。彼等の固定観念を変化させ、新しい関係を受け入れさせるだけの戦いをしなければならない。

 だが、その先には素晴らしい未来が待っていて――そこに辿り着く為には、目の前の大き過ぎる問題を解決する必要がある。
 私の一言で始まってしまったこの状況は、殺し合い。下手をすれば殺されかねない状況の中、紫が求めるだけの働きが出来るか解らないが――それでも、やるしかないのだ。
「ああ、そうだ。私は人間代表として、靈夢にゃ出来ない事をやってやる。これでも、伊達にアイツの修行相手をやってきた訳じゃないんでな」
 それは、死の運命を前にしているレミリアの為に。
 その巻き添えを受け、下手をすればレミリアと同じように命を狙われるかもしれないパチュリー達の為に。
 そして……私を心配し、必死になってくれている親友の為に。

「――私は、戦い切ってみせるさ」
 
 真っ直ぐに、紫へ告げる。それに人間らしい安堵を浮かべる彼女を前に、私は床に落ちてしまっていた帽子を拾い上げながら、
「しかし、お前も結構無茶を言うんだな」
「えぇ。これでも私は、心を持った生き物ですから」
「そりゃそうだ。一本取られたぜ」
 そう告げながら外に出ると、私は帽子を被り直し、箒に跨がり……そして改めて紫を見つめ、
「お前は靈夢を手伝ってやってくれ。出来るだけすぐにレミリアと――吸血鬼と戦うつもりじゃいるが、天狗の相手は厄介だからな」
「解っているわ。それが済んだら、すぐに私達も加勢に向かうから」
「妖怪の賢者と共闘か。今まで考えた事もなかったな」
 一笑いしたいところだが、生憎そんな気分にもなれない。だから私は、箒に魔力を込めながら空へと浮かび、

「――今行くぜ」

 声と共に、魔女の屋敷へと向けて一気に加速する。
 予想以上の規模で動き始めてしまった、この最悪の運命を否定する為に。





★★★
 
 パチュリーの屋敷に戻った時、既に屋敷の周囲には数匹の天狗が転がり、興奮した妖精が暴れまわっていた。
 天狗の噂は風よりも早い。あの女烏天狗が山に戻ってしまった以上、既に山の妖怪は動き始めているようだった。そして戦闘が始まってしまえば、互いに牽制し合っていたのだろう、吸血鬼を打ち倒そうとする妖怪達がこの屋敷に向かい始め――いや、その最初の一陣は、もう屋敷の中に入り込んでいた。
「パチュリー! レミリア!」
 無残にも破砕された玄関の扉を見た瞬間、私は箒から下りる事も忘れてそのまま屋敷へ突っ込み――そこで繰り広げられている状況に息を呑んだ。

 殺し合いだ。

 吸血鬼を倒そうとする妖怪達と、吸血鬼を支持しようとする妖怪達とが争い合い、殺し合っていた。恐らくこれは天狗の登場に焦った一部に過ぎず、これからこうした連中がどんどんと屋敷に押し寄せてくるに違いない。
 こうなると、レミリアと決闘をするどころではない。まずはコイツ等をどうにかしなければ、パチュリー達の命が危ない!
 吸血鬼と共に居るパチュリー達は、それだけで敵と見なされてもおかしくないのだから!

「――魅魔様、力を借りるぜ」

 戦場へと突っ込んでいきながら、私は四つの宝玉を召還。決して広くない、しかし歩きなれた廊下の幅一杯にそれをぶん回し、所狭しと蠢いている魑魅魍魎を吹き飛ばす!
 途端、全ての妖怪の殺意がこちらに向くが知った事か! そんなもの、眠りから完全に覚めた幽香に睨まれた時の方が数倍恐ろしかった!
「こんな雑魚に殺されるようなつまらない人生なら、さっさと死んだ方がマシだってな!」
 妖怪達の攻撃を――屋敷の壁を破壊する事を厭わず、四方八方から迫る妖弾を紙一重で回避しながら、加速を一切緩めずに廊下を突っ切り、体と繋がった宝玉の遠心力に任せて無理矢理角を曲がっていき……
 ……破砕された扉の向こうに広がる図書館は、屋敷の一階よりも酷い事になっていた。

 大量の本棚が無残に倒れ、巻き起こった埃で視界すらはっきりしない。だが、そこで愛しい人の名を叫ぶ前に、
「――破ッ!」
 一点へと捻じれていくような、そんな空気の流れと共に発せれた声が世界を震わせ、凄まじい破壊音が響き渡った。それに驚きながらも、私は急激に晴れていく視界の中を進んで行き――

 ――辿り着いた先には、荒れた息を整える美鈴と、天井をぶち抜く大穴が口を開けていた。
「美鈴、大丈夫か?! パチュリー達はどうなったんだ?!」
「私はなんとか大丈夫です! それよりも、早くお嬢様のところへ行ってあげてください! この騒ぎで埃を大量に吸い、喘息の発作を起こしてしまって……今は奥にある倉庫で、レミリアさん達が様子を見てくださっていますから!」
「解った! でも、お前一人で大丈夫か?」
「当然です! 私の役目はお嬢様達を護る事! 何があっても、これ以上先には進ませません!」
 地響きすら起こしそうな強い踏み込みと共に、美鈴が大穴の方へと突っ込んでいく。その力強い姿を見送ってから、私は奥にある倉庫へと向けて加速する。



「パチュリー、レミリア、フランドール! 大丈夫か!」
 声と共に箒から飛び降り、倉庫の扉を勢い良く開いて中へと飛び込む。だが、仕舞い切れない本が大量に並ぶそこにパチュリー達の姿は見えず……しかし、強い魔力の気配がある。それに警戒しながら奥へ進んだところで、
「……マリア?」
「その声はレミリアか。一体どこに居るんだ?」
「ちょっと待って、今結界を緩めるわ」
 その言葉と共に、左手奥にあった本の一部が消えてなくなり、そこにレミリア達の姿が現れた。どうやら、結界を張って自分達の姿を隠し、気付かれ難くするように本の山を偽装していたらしい。
 私は焦る気持ちを抑えながら本の間を進み、彼女達の元へ近付き――臥せるように横になっているパチュリーの姿を見た瞬間、思わず彼女の側へ駆け寄っていた。
「パチュリー!」
「……ああ、戻ったのね。無事で良かったわ」
「私の事は良いんだ! それより、お前こそ大丈夫なのか?!」
「私は平気……。全く、嫌になるわね、こんな非常時に発作が起こるんだから……」

 喘息の発作は、それを経験した事がない人間には想像出来ないほどの苦しみを伴う。そうでなくても、咳というのは肺の空気を激しく吐き出す行為であり……呼吸困難に陥るばかりでなく、腹筋を酷使する為に体力を奪われる。
 それは、一般的な体力を持つ人間ですら動けなくなるものだ。体力の少ないパチュリーにとっては、それが死の切っ掛けになりかねない。

 無意識に彼女の手を強く握り締めながら、自分の行動を改めて呪う。そんな私に、レミリアが状況を説明してくれた。
「マリアが家に向かって少しした後、数匹の天狗が現れたと思ったら、突然攻撃を仕掛けてきたのよ。それに続くように様々な妖怪が現れて……。多分私を狙って来た妖怪なのだと思うけれど、中には私達を護るように戦い出す妖怪もいて、状況が上手く掴めないの。それでも、美鈴は戦ってくれていて――」
 と、そこで、私の苦痛を更に強めるような轟音が、狭い倉庫に響き渡った。
 こうしている間にも事態は進行し、妖怪が次々と攻め込んで来ているのだ。
「美鈴、大丈夫かな……」
 パチュリーの側に座るフランドールが心配そうに呟き、対する魔女がその手をそっと握り、
「大丈夫よ。あの子は誰にも負けないから」
「でも、このまま隠れ続けるのは私の性に合わないわ。マリアが戻ってきてくれた事だし、私は美鈴を手伝って――」
「――待ってくれ、レミリア」
 美鈴の元へ向かおうとするレミリアを呼び止め、私は紫から伝えられたばかりの計画を話していく。
 人間は妖怪を退治するものだ。だが、レミリアにとっての『妖怪退治』は、悪さをした妖怪を懲らしめる為の鉄槌などではなく、自分達の殺害でしかない。
 しかし、紫の考える決闘は、その認識を大きく変える。
「私はそれを受け入れたいと思ってる。……だけど、それをお前に強制出来ない事も解ってるんだ」

 外の世界から妖怪が消えた理由の一つに、その柔軟性の無さが上げられる。
 妖怪は、古い時代の人間達の恐怖が現実となって生まれた者達だ。だから彼等は当時の価値観を色濃く受け継いでおり、日々変化していく人間社会に対応し切れなかった。吸血鬼のように弱点が増える事はあっても、その心までは変わらなかったのだ。

 その結果、妖怪達は居場所を失った。

 当然そこには、山が切り崩され、夜が明るくなり、彼等の住む場所が無くなったから、という大きな理由も存在するが……しかし、そもそも妖怪は精神主体の生き物だ。肉体に致命的な傷を負わない限り、その精神が無事ならばいくらでも再生出来る。ならば、姿を変え場所を変え、変化する外の世界の中でいくらでも居場所を作れた筈なのだ。現に彼女達は、人間の少女とそっくりの外見を取る事だって出来ているのだから。
 しかし、妖怪達は外の世界に居場所を作れなかった。出来ると解っても、やれなかった。そうして引き籠もった先が、幻想郷。

 人間を襲う、けれど人間には決して勝てない者達の楽園。

 紫のような、頭が柔らか過ぎて別の世界を視てしまっているような妖怪は未だしも、大半の妖怪は古い時代を今も引きずっている。そんな彼等が、新しく作られたルールをすんなり受け入れてくれるものなのか、私には解らない。
 思うところがある、というのはつまりそれなのだ。
 当然、私は彼等の認識を変えるような戦いをするつもりでいるが……しかし、もし簡単に決闘のルールが受け入れられるようなら、あの八雲・紫が頭を悩ませる筈がないのだ。
「でも、この状況を収めてレミリアを助ける為には、私に負けて貰うしかない。屈辱だろうけど、今だけは……」

「……何を言っているの、マリア」

 真っ直ぐに響いた声は、周囲の騒音を掻き消すほどに凛々しいもの。
 それに息を呑む私を前に、レミリアは胸を張り、
「妖怪の賢者が考えたらしいルールについては、確かにすぐに納得出来るものではないわ。私は五百年以上人間に襲われ続け、それに見合うだけの人間を殺して今日まで生き残ってきた。その生き方を簡単に変えられるほど、私は柔軟じゃない」
 でも、
「でも私は、ここでマリアと生活して、私達を憎悪しない人間が居るという事を知った。人里と呼ばれるところには、人間を護る妖怪が居ると知って驚いた。幻想郷の規律である巫女が、けれど妖怪に好かれていると聞いてもっと驚いた。……つまりこの楽園は、私の中にあった観念を破壊してくれた場所でもあるのよ。
 そうでなくても、私はこれからもマリア達と一緒に過ごしていきたい。この幸せが続く方法があるのなら、私だって妥協するわ」
「それじゃあ――」
「――だけど、私は決して負けを認めない。それだけは、吸血鬼としてのプライドが許さないのよ」
 それに、とレミリアは私を真っ直ぐに見つめ、

「それに、マリアは私を退治するのでしょう? だったら私は全力で貴女の相手をするわ。それがマリアに対する礼儀だもの。私達の戦いが決闘だというのなら、尚更よ」

 違うかしら? そうレミリアは微笑みを浮かべる。私のせいで運命が変化し、今日死ぬかもしれない少女が楽しげに笑うのだ。
 それに思わず涙が出そうになるのを感じつつ、しかし私は真っ直ぐにレミリアを見返しながら立ち上がり、
「……すまん、私はお前のプライドを傷付けるような事を言っちまったな」
「その通りよ、マリア。だって、私を倒して良いのは貴女だけなんだから。……それに、昔だったなら未だしも、今の私は誰かを従えようという気は無いの。フランドールと一緒に、ここでマリア達と静かに暮らせたら、それで良い」
 その言葉と共に翼を一度羽ばたかせると、彼女は軽く空へと浮かび、
「だから私は、みんなを護る為に戦うわ。そうでなくても、私の力を示した方が妖怪達も納得し易いでしょうから。マリアと戦うのはその後ね。まずは、この混乱を収めないと」
「……だけど、その最中にお前の身に何かあったら――」
 そう告げようとした唇に、レミリアの冷たい人差し指がそっと乗せられ、
「――私は、マリア以外に倒されるつもりはないわ。負けるつもりもないけどね」
「でも、」
「マリアは心配性なのね。嬉しいわ。……でも大丈夫。今の私は敗北を知っている。死の恐怖を知っている。誰よりも引き際は弁えているわ。それより、」
 私の手をそっと引き、その甲に口付け、

「戻ってきたら、血を貰うわ。この前よりもゆっくりと、時間を掛けてね」

 そう微笑むレミリアを前に、私は自然と視線が下がってしまうのを感じつつ、
「……お前は、私を責めないんだな」
「それはパチュリーの役目だもの。それに私は、愛するマリアを悦ばせたいだけよ」
 どこか気恥ずかしそうに微笑みながら、暖かな心を持つ冷たい吸血鬼が私から一歩離れ、
「それじゃあマリア、パチュリー、ちょっと行ってくるわね。……良い子にしているのよ、フランドール」
 言葉に、俯いていたフランドールが顔を上げた。そして霧となって姉の前に立つと、彼女は小さな手を強く強く握り締めながら、
「――私も行く! 私、お姉様のお手伝いがしたいの!」
「駄目よ。貴女はパチュリーを看ていてあげて」
「で、でもっ!」
「大丈夫。私はもう、貴女を置いていこうなんて考えないから」
「お姉様……」
 フランドールにとって、今日はレミリアと永遠の別れになるかもしれない日でもあるのだ。私の前で涙したように、彼女はそれをとても恐怖している。しかも幻想郷にやってくる前まで、レミリアはフランドールを一人残し、死という救済を求めようとしていたのだ。
 それを解っているからこそ、フランドールの不安は高まってしまうのだろう。
 対するレミリアは、そんな妹の手をそっと握り、 
「そうね、今夜は一緒のベッドで眠りましょう。久しぶりに、子守唄を歌って頂戴。……まぁ、疲れてるだろう私はすぐに眠ってしまうかもしれないけどね」
 そう微笑むレミリアにフランドールが何か言いたそうにし、けれど辛そうに視線を下げる。その小さな姿を、姉は愛しそうに抱き締めた。
 そして、

「――それじゃあ、往ってくるわ」

 その言葉を残して霧となり――途端、倉庫の入り口方面から凄まじい魔力が吹き上がった。
 それは、光として具現化するほどの力。
 閉ざされた扉の間から入り込む紅い光は、禍々しくも神々しい。
 その重圧に、私は光が収まるまで動く事すら出来なかった。

「あれが、レミリアの力なのか……」
 距離が離れたこの場所からでも解る。あれは圧倒的という言葉では言い表せないものだ。
 意志の弱い者ならば、頭を垂れなければ心が耐えられないほどの力。
 カリスマ。

 吸血鬼。

「――ハハ。私は、とんでもない奴に血を与えちまったんだな」
 人間としての本能か、全身が震え上がり、真っ直ぐ立ってすらいられなかった。
 だが、一度目を閉じて深く呼吸さえすれば、すぐに普段の調子を取り戻せる。
 私の中に、私が戻ってくる。
「マリサ、平気なの?」
「おいおい、私を誰だと思ってるんだ?」
 笑みと共に姿勢を正し、心配そうに問い掛けて来るフランドールの髪をくしゃりと撫でる。
 ああ、そうだ。
「私は、神も巫女も倒してきた幻想郷の魔法使い、霧雨――」

「――ちょっと、格好付けてるところ悪いけれど」

 ――出鼻挫かれた。
「って、パチュリー! 起き上がって大丈夫なのか?」
「暢気に寝ていられる状況じゃないわ。多少ふらつくけれど、空を飛べば移動は出来る」
 そうして風に揺られるように浮き上がると、パチュリーは私のデコを軽く叩き、
「興奮しているのは解るけれど、少し落ち着きなさい。この後吸血鬼と決闘をする人間が、彼女と共闘したら意味がないじゃないの」
「あ、」
 言われてみれば確かにそうだ。カッコ付けた勢いでそのまま外に飛び出しそうになっていたが、パチュリーの言う通り、私はレミリア達を助けられない。
「け、けど、ここは私の家でもあるんだ。レミリアの助けは出来なくても、お前達を助けるくらいは――」
「――甘い」
「痛っ」またデコ叩かれた。「な、なにすんだよっ!」
 軽く涙目になりながらパチュリーを睨むと、彼女は私を真っ直ぐに見つめながら、
「甘く見ないで。私もフランドールも、貴女に護られるほど弱くないわ。それはレミリアも美鈴も同じこと」
 だから、
「一緒に戦いましょう。この屋敷と、ここに暮らす家族の為に」
「パチュリー……」
 本当なら、私一人だけでも逃げろと言いたいのだろう。だが、それでもパチュリーは私を信頼して、一緒に戦う選択を与えてくれた。
 だったら、それに応えるのが私という魔法使いだ。
「解った。私の背中、預けるぜ。……だけど、体は大丈夫なのか?」
「何度も言わせないで。私は大丈夫。――それより、次が来るわ」
 途端、再びの衝撃に屋敷が大きく揺れ、明らかに響いてはいけない木材の軋む音、破砕する音、そして崩れ落ちる音が振動を伴ってやってくる。

 魔女の屋敷が、崩れようとしていた。





★★★

 三人一纏めになりながら外に転がり出た直後、音を上げて屋敷が崩れ落ちた。
 凄まじい音と、巻き上がる埃、そして崩壊に巻き込まれたのだろう妖怪の叫び声が響き渡り……しかしその直後、木材を盛大に弾き上げながら、妖怪が外へ飛び出し始めた。
 だがそれ以上に、私は紅く染まった世界に意識を取られていた。
「……これは、霧か?」
 見上げた空は紅い雲に覆い尽くされ、暖かな午後の太陽は完全に隠されてしまっている。気温が一気に下がり、寒さすら感じる紅い霧の中、その発生源は私達の遥か頭上に存在していた。

 レミリア・スカーレット。
 紅い瞳を持つ吸血鬼は、まるで磔にされた聖者の如く両腕を広げ、凄まじい勢いを持つ紅の本流で世界を染め上げていた。

 だがその周囲には、黒々とした天狗の一団が展開している。
 それだけではない。この騒ぎを察知して集まってきたのだろう大量の妖怪が屋敷を取り囲んでいた。その視線の先に居るのは、上空高く浮かぶレミリアと、そして強張った体で立つフランドール。初めて屋敷の外に出たと思ったらこれなのだ。彼女にとっては相当の重圧になってしまっているに違いない。
 だが、私はフランドールを直接助けられない。それでも二人と目配せすると、この状況で戦う為の大義名分を得る為に叫び上げる。

「――おいおい、これは一体何の騒ぎだ!? こんなにも大勢妖怪が集まって、戦争でもおっ始めるつもりじゃないだろうな?!」

 この場に居る全員が私に注目するよう、精一杯の声で叫ぶ。
 私の魔法の輝きで、この巫山戯た運命を変える為に!

「良いぜ、そのつもりなら私が相手になってやる! こんな大人数で押しかけなきゃどうにも出来ないようなザコ妖怪どもじゃ、私一人殺せないだろうからな!」

 叫びの答えは、世界を震わせるような咆哮。
 私の――ちっぽけな人間の挑発に乗った妖怪達が、周囲の妖怪を蹴落とすようにしながら我先にとこちらに突っ込んでくる。
 それを待ち構えるように大量の魔法陣を展開しながら、私はその挑発に乗ってこない一部の妖怪に向けても声を放つ。

「それじゃあ、お前等ザコをさっくり倒して、吸血鬼退治を始めるか!」

 効果は覿面だった。
 吸血鬼、という単語に全ての妖怪が反応し、一瞬で殺意の波が倍増した。それを迎撃せんと私は光を放ち始め――そんな私のすぐ隣で膨れ上がる、魔力。
 私が啖呵を切っていた隣で、魔女は魔法を完成させていた。

「――ロイヤルフレア!」

 それは、太陽光を彷彿とさせる炎の放射。それに続くように一歩前に出たフランドールが杖を握り締め――刹那、それが炎と共に数十倍の大きさに膨れ上がった。
 レーヴァテイン。姉を護るように振り上げられたその軌跡に存在した妖怪、天狗達が次々と落とされていく。
 そして、

「地龍・天龍脚!」

 殺意の渦の中心から、まるで波打つように地面が弾け上がり、なす術も無く突き上げられた妖怪達へと美鈴が鋭い飛び蹴りを放つ。これ以上屋敷に妖怪が押し寄せないよう、彼女はそこで大量の妖怪達の相手をしていたのだろう。
 私はその蹴り漏らしを迎撃するように魔法陣を地面へ展開すると、空へと突き上がる光を生み出し、星を飛ばし――そのままこちらに戻ってきた美鈴と擦れ違うように加速しながら、魅魔様譲りの宝玉を召喚。

 ぶん、回す!

 だが、そうして倒せた妖怪は一部に過ぎず、その数は今も膨れ上がっているように見える。中には幽霊や妖精も混じっているから、余計にその数が多く感じられるのかもしれない。
 それでも止まる事など出来ないから、私は魔法を放ち続ける。
 震えそうになる体を必死に押さえ、顔に挑発的な笑みを浮かべながら。
「ハ! 吸血鬼と敵対しようってのに、弱い奴等ばっかりだな! それとも、こんなにも弱い奴等が吸血鬼のナイトを気取るつもりだったのか? どっちにしろ、この私の敵じゃないぜ!」

「――あら、大きな口を叩くじゃないの」

「レミリア!」
 私に追従するように飛び回り始めた彼女は、その右手に一本の槍を携えていた。それに目を奪われる私を前に、けれど彼女はどこか怒った様子で、
「外に出てくるのは仕方なかったにしても、どうしてあんな啖呵を切ったのよ! マリアを狙う妖怪が増えちゃったじゃない!」
「ああして挑発した方が、お前とも戦い易くなるだろ? それに、パチュリーの詠唱時間も稼ぎたかったしな!」
 その言葉と共にレミリアへと向けて魔法陣を展開し、しかし私はその背後から現れた天狗を打ち落とす。
「おおっと、手元が狂っちまったぜ」
「あら、私もだわ」
 刹那、耳元を掠めて吹っ飛んでいく真紅の槍。グングニルと呼ばれるそれは、何者にも回避出来ない必殺の槍だ。以前レミリア達から話を聞いた事があったが、神話の武器を模したそれらは凄まじい威力を持っていた。

 それを目の当たりにした私に走るのは、ゾクゾクとした――マゾヒスティックな甘い痺れにも似た、堪え切れない高揚感。

 楽しんでいられる状況ではないというのに、大量分泌されているアドレナリンの効果なのか、どうしても笑みが浮かぶのを止められない。
「駄目だ、レミリアと戦うのが楽しみになってきたぜ」
「ねぇ、マリア。貴女って結構刹那的なところがあるわよね。あと、スピード狂なところも」
「そう思うなら追い付いてみな! 決闘前の前哨戦だ!」
 笑みを強めながら急旋回。そのまま一気に上昇し、天狗達の群れへと突っ込み――私の背を追うように紅い妖弾が高速で放たれ、一瞬の判断が出来なかった天狗が無残に打ち落とされて行く。
 対する私は上空で急降下を掛け、地上へと向けて光を放つ。しかしレミリアはそれを軽く回避し、地上にいる妖怪や妖精が巻き添えを喰らい、再度振るわれたレーヴァテインの炎に焼かれて叫び声が上がった。

 私とレミリアは互いの背を追い掛けるようにドッグファイトを繰り返し、互いを狙うようにして周囲の妖怪に攻撃を叩き込む。

 だが、人間の体で吸血鬼の身体能力に追い付ける筈も無く、次第に私は一撃打ち込んだら逃げるという、ヒットアンドアウェイを行わざるを無くなり――その最中、天狗の風に煽られた。
 いや、それは風というよりもむしろ壁だ。突然のそれに制動を取れなくなり、渦を巻き始めたそれに逆らえずに上空へと放り上げられ――
「――って、相棒!」
 箒がすっ飛んでいった。それは紅い雲を貫いて空の彼方へ飛んで行く。ありったけの魔力を込めて飛んでいたから、もしかしたら月まで飛んで行ったかもしれなかった。

 落ちる。

 地上ではパチュリーが賢者の石を生み出し、美鈴が龍が如き咆哮と共に拳を振るい、四人に増えたフランドールが籠目のような、ダビデの星のような妖弾を放ち――そして、その手に舞い戻ったのだろうグングニルを握るレミリアが、私の様子に気付いて目を見開いているのが見えた。
 手を振ってみる。
 冗談のつもりだったのだが、対するレミリアは泣きそうな顔で急上昇してきて、しかもそのまま私を抱き止めようとするものだから、私は慌てて制動を掛けた。

 背中に生み出した羽を、大きく羽ばたかせながら。

「――マリア! って、嘘、あれ?!」
「最近の魔法使いは、箒に頼らなくても飛べるんだぜ?」
「だ、だったら先に言っといてよ!」
「奥の手は常に隠しておくものだろ? って、怒るな怒るな。最後の切り札も見せてやるから」
「見せなくて良いわ。それは私と戦う時まで取っておいてもらうから。……でも、もう心配させないでね」
「ああ、解ってる!」
 そう頷きつつも、周囲に不振に思われないよう、大げさにレミリアから距離を取りながら、私は改めて星を飛ばしていき――




 ――何か様子がおかしいと気付いたのは、レミリアとの数十回目のランデブーを行った後の事だった。

 加速した世界の中でお互いだけを見つめ合い、けれど攻撃は四方へ外すという行為に熱中していた為か、私達はすぐにその変化に気付けなかった。
「ちょっと待てレミリア。何か変だぜ」
「変? ……って、確かに、天狗が寄ってきていないわね」
 急接近して掴み合うふりをしながら周囲の様子を伺うと、天狗達が動きを止めていた。どうやら私達のじゃれ合いに巻き込まれないようにし始めたらしい。或いは、山で暴れているのだろう靈夢と紫の相手をするか迷い出したか……。
 だが、それ以上に地上の様子がおかしい。波のように広がる妖怪達の一角から、奇妙な動きが生まれ始めたのだ。

 それは、パチュリー達へと向かう動きではなく、その場所から逃げようとする動き。もしかすると、彼等では対処出来ないような大妖怪が現れたのかもしれない。或いは……
「……マリア、一度地上に降りましょう。興奮状態だった妖怪達が逃げ出すなんて、何かありそうだわ」
「ああ、その方が良さそうだ。少し嫌な予感がする」
「じゃあ、ちょっと投げるわね」
「ちょ、まッ?!」
 止める間も無く服を掴まれ、そのまま地面に放り投げられた。そこまでの勢いは無いにしろ、突然だと焦ってしまう。それでもどうにか制動を取って地面に降り立つと、既にフランドールの隣にレミリアが立っていた。
 自分が投げ飛ばした相手よりも速く地上に到達出来る速度、能力。改めて吸血鬼の凄さを感じながら、私はパチュリー達を見回し、
「みんな大丈夫か?」
「えぇ、大丈夫。貴女達が暴れてくれていたおかげで、こっちの負担が少なくて済んだわ」
「ですが、何か嫌な予感がします。レミリアさん達とは違う種類の禍々しさが、妖怪達の向こうからやって来ているんです」
「お姉様……」
「大丈夫よ、フランドール。例え誰が来ても私は負けない。私のマリア以外にはね」
「……」
 レミリアの視線を受けながら、しかし私はこの状況で現れそうな存在について考えていた。
 美鈴が禍々しいとまで言う以上、恐らく人間ではないのだろう。だとすると、並の妖怪以上の力を持つ大妖怪が現れたのは確実。しかし、このタイミングでやって来る妖か――

 ――目の前に、紅い瞳を持つ銀髪の女が立っていた。

「――は?」
 突然の状況に理解が追い付かない。
 瞬きをする前までは誰も居なかったその場所に、襤褸を着た女が立っているのだ。歳は二十五過ぎだろうか。若そうにも見えるが、痩せこけて精気のないその顔はもっと老けているようにも見えた。
 そして、その手には黒色の、
「銃?」

 そう認識した直後、女の足が私の胸を蹴り抜いていた。

「――がッ!」
 衝撃に肺の中の空気が全て吐き出されて軽い呼吸困難に陥り、凄まじい痛みに身動きが取れなくなった。それでもどうにか開いた視線の先でレミリアが女へと飛び掛り、けれどその鋭い爪は女の首を捉えられずに空を掻いた。
 飛び掛ったレミリアの背後に一瞬で立った女が、無造作に引き金を引いたのだ。
 連続する、乾いた発砲音。だが、四発目の銃弾が打ち込まれるよりも早く、美鈴が女へと殴り掛かっていた。だが、その拳も届かない。
 レミリアのそれには劣るものの、美鈴の拳も高い威力と速度を持っている。それがかすりもしないどころか、拳を振るった先に居た筈の女が瞬きの間に消え失せてしまうのだ。まるで瞬間移動でも行っているかのようで、流石の美鈴の顔にも焦りが浮かぶ。
 森羅万象、全てのものに満ちる気の流れを把握している彼女ですら、女の動きを掴めない。それでも、人知を越えた身体能力を持つ吸血鬼には何か感じられるものがあるのか、どうにか銃弾を回避していたらしいレミリアが消え続ける女を執拗に追い続け、その刹那を狙って美鈴が気弾を放つ。
 それは、人間の目では追えない戦いだ。痛みに呻く私には、三人がどう戦っているのかすら解らない。それはパチュリー達も同じようで――と、そんな風に思った瞬間、

「――見つけた」

 声の出し方を忘れてしまったのに、それでも言葉を生み出したかのような酷く掠れた声が響き――その直後、数メートル前の地面が大きく抉れ、風が吹き上がった。
 それがレミリアの放ったソバットなのだと気付けぬまま、どうにか状況を確認しようとする私の近くで放たれる発砲音。そしてレミリアの悲鳴。パチュリー達の悲鳴。お嬢様、と叫び上げる美鈴の声。
 状況を把握しなければ取り返しの付かない事になる。それは解っているのに体が動いてくれない。息が出来ない。
 それでも無理矢理に上体を起こし、美鈴がパチュリー達のところへ駆けて行くのが見えて――しかし急停止。気の流れと共に一瞬先の未来を予測するかのように、彼女は虚空へと拳を振るい、

 ――発砲音。

 何も捕らえられずに拳を振り抜いた美鈴の隣に、女が立っていた。
 そしてその銃口は、美鈴の紅く美しい髪の中に埋まっていて、

 ――発砲音。

「――」
 どれだけ再生能力の高い妖怪だろうと、頭を狙われれば一溜まりも無い。いや、例えそれが八雲・紫だとしても、脳漿をぶちまけた状態から生き返れる訳が無い。それなのに、五発分の、乾いた発砲音が連続で打ち込まれ、て、
「――――」
 突然過ぎる状況に、理解の顕界を超えた私の思考は停止する。だが、その間にも状況は動き続けていた。

 五発の発砲音が響くまでの間、体制を立て直したレミリアが何度も女へと襲い掛かり、その合間を縫って四人に増えたフランドールが妖弾を放った。だが、女はその尽くを回避し、執拗に美鈴へと銃弾を撃ち込む。そして弾倉を落とし、しかしそれが美鈴の傍らに落ちるよりも早く私の前に姿を現していた。
 その紅い瞳は狂気を孕み、肌には数多くの傷がある。女である事を――生き物である事を止めたかのように、女は機械的に無感情に私へと銃口を向け、けれどその体が右へと吹っ飛んでいった。
 レミリアの蹴りが、ついに女を捕らえたのだ。
 だが次の瞬間には、崩壊した屋敷に突っ込んだ筈の女がレミリアの背後に立っていて、
「お姉様!」
 銃を構える女の右肘から先が、文字通り吹き飛んだ。
 突然のそれに女が目を見開き、獣のような絶叫を上げて大きく背を反らし――だが、その傷口が見る見るうちに塞がって行く。それは傷を治癒したのではなく、その怪我が完治した状況にまで時を進めてみせたかのような、異常な回復。
 それに目を見開くレミリアの前で、女はぴたりと叫ぶのを止めて上体を戻し、残された左腕を襤褸の中へと突っ込んだ。
 そこから取り出されたのは、鈍く銀色に輝く二本のナイフ。それにレミリアがほんの少しだけ恐怖を覗かせた瞬間、女の蹴りを受けたレミリアが私の近くにまで吹き飛ばされてきていた。

 その蹴りは、途中の動きを切り取ってしまったかのように唐突に放たれたもの。ノーモーションなどというレベルの話ではない。誰の眼から見ても、女の動きは繋がっていないのだ。
 それは、レミリアの持つ速度とも違う、何か。
 それが一体何なのか考える間すら与えないように、女は目を見開くフランドールへと無造作にナイフを投擲する。だが、たった二本と思われたそれは、しかし一瞬で二百五十六本に増殖。壁のように迫るそれに、戦闘経験の殆ど無いフランドールが対処出来ずに目を瞑ってしまい――

「ジェリーフィッシュ、プリンセス!」

 フランドールを護るように水の泡が生まれ、しかし防ぎ切れなかったナイフが彼女の体を切り裂いていく。その痛みにフランドールが悲鳴を上げ、しかし体を再生させる事が出来ない。つまり女は、銀のナイフを――吸血鬼の弱点となる武器を持ち合わせているのだ。
「……つまり、あの女が私を殺すのね」
 レミリアが立ち上がりながら何かを呟いたが、一瞬で変化する状況に私の思考は止まったまま対処出来ない。
 そんな私をおいてレミリアが女へと再び肉薄し、けれどそれを無視するように――その姿など眼中に入っていないかのように、女はパチュリーへと向けてナイフを振り上げ、

「――魔女がぁッ!!」

 それが女の叫びだったのだと気付く余裕すらないまま、私の意識が体に戻る。そして痛む体を無視して無理矢理立ち上がり、この尋常ならざる状況の中、ただパチュリーを護るという一身だけで駆け出していた。
 だがそれよりも早くフランドールが女の前に飛び出し、その胸へと鋭い爪を振るう。しかし彼女の爪は女を捉えられず、その代わりと言わんばかりに、数歩離れた位置に現れた女が再度ナイフを投擲。それは不規則に軌道を変え、まるで捩れるように彼方へと飛び去り――

 ――刹那、飛来した十数本のナイフがフランドールの体を、その心臓を貫き、

「フランドール!」
 悲痛な叫びと共に、レミリアが女の首を刎ねん勢いで手刀を振るい、しかしそれすらも空を掻く。それどころか、レミリアの背後に現れた女がその背中に踵を叩き込んだ。その衝撃にレミリアが地へと叩き落され、しかし彼女は反撃の意思を失わない。
 地面に叩き付けられると同時にその体を霧へと変え、女の背後を取ろうとしたのだ。だが、それが果たされるよりも早く、銀のナイフがその小さな両手を縫い付けていた。
「がッ――あ――!」
 その衝撃にレミリアの背が大きく跳ね、けれどそのナイフを抜こうと必死に腕を動かそうとする。それは自身の手を裂いてでもナイフから自由になろうとするようで、けれどそれすらも上手くいかない。相手が銀のナイフである以上、普段の力を発揮する事が出来なくなってしまっているのだ。
 そんなレミリアを、そしてパチュリーを助ける為に必死に走る私を前に、女がレミリアの首へナイフを突き立てようとして、

「サイレントセレナ!」

 地面に浮かび上がった魔法陣から放たれた光が女の体を貫き、上空へと吹き飛ばす。流石にそれは防ぎ切れなかったのか、放物線を描いて女が地面へと落下した。
 そしてどうにかパチュリー達の元へ辿り着いた私は、荒れた息を吐き、止め処無く溢れ出してくる涙を拭う間も無くレミリアのナイフを抜こうとし――その瞬間、レミリアの体を飛び越えるように抱き付いて来たパチュリーと共に、不格好な格好で地面を転がる事になった。
 途端、レミリアを助けようする私達を狙ったナイフが地面に突き刺さり、けれど瞬きの間にそれが消え失せ、ゆらりと立つ女の手にそれが戻る。
 私は、その姿に絶句するしかない。
 
 一瞬前、女は蛙が潰れるような悲鳴を上げて地面に体を打ち付けていた筈なのだ。それなのに、何も無かったかのように立ち上がっている。それどころか、どこかを痛めた様子すらない。
 意味が解らない。
 理解出来ない!
 それでも体を起こした私は、パチュリーを護る為に女の前に立ち、切り札の準備をしながら魔法陣をてんか、

「――え?」

 視界が斜めになっていた。その事実を理解すると同時に受身も取れずに左腕から地面に激突。どうやら蹴り飛ばされたようで、右腕も激しい痛みを訴えてくる。
 それでも見開いた視線の先で、パチュリーの目の前に女が立っていた。それを認識した瞬間、咄嗟に光を放つ。それに女が再び掻き消え、しかし安堵はしていられない。
 フランドールに吹き飛ばされた女の右腕の傷は、何年も前に負った古傷であるかのように皮膚が再生していた。それはどう考えても人間には不可能な所業で……だが、レミリアに死を与える『運命』が私ではなくこの女なのだとするなら、奴はこれでも人間という事になる。
 だが私は、美鈴を殺し、フランドールを殺し、残された私達すらも殺そうとしている女を――この化け物を人間だとは認めない。認められるか!
 だから私は、強い意志と共にどうにか起き上が

「…………ごめんね、まりさ」

 すぐ右隣。
 パチュリーの胸にナイフが深く押し込まれていくのを、私は何も出来ないまま見つめる事になった。

 ナイフが引き抜かれる。埃だらけになったパチュリーの服に、紅い染みが見る見る広がっていき――再び、ナイフが振り下ろされる。
 執拗に、
 執拗に。
 何度も、
 何度も、
 何度も、
 何度も。
 そうして、ナイフを胸に生やしたままゆっくりと倒れていくパチュリーを前に、女の顔に感情が宿った。

 それは、喜び。

「――殺してやった殺してやったようやく殺してやったまさかこんなところにいるなんて思わなかったでもこれで救われる救われる開放されるこれで幸せになれるこれでこれでこれでこれで……」
 笑っていた。
 返り血で紅く染まった体で、女は子供のように無邪気に笑い、喜んでいた。
 意味が解らない。
 解りたくもない。


 一秒たりとも、その存在を生かしておけない。


 煮えたぎる感情に声を上げる事すらも忘れて女に近付き、こちらに気付いた女の顔から仮面が剥がれるように笑顔が消え失せ――
「――、ッ!」
 ――荒く呼吸する口腔に、フランドールの破壊を免れていたのだろう銃口を突っ込まれた。
 だが今の私には、それをいつ拾い上げたのか、などと考える余裕すらない。私は無感情に引き金へ手を掛ける女へと更に一歩近付き――喉奥に銃口が入り込み、反射的にえずきながらも無理矢理前へ。
 流石にそれは不可解な行動だったのか、女がほんの少しだけ眉を潜めて――私は、その瞬間まで込めていた魔力を開放する。
 何の前触れも無く現れ、何の言葉も無く私の愛する人達を殺していった化け物を、同じように殺す為に。

「――消し飛べ」

 女が引き金を引く刹那、八卦炉から――スカートの中で握り締めていた切り札から放たれた白い閃光が、女の体を飲み込んだ。












★★★ 

「……」
 パチュリー達の死体を前に、私は上手く泣く事すら出来ずにいた。女を殺した閃光と共に感情すら抜け落ちてしまったのか、或いは目の前の現実を認めたくないだけなのか、ただ呆然と座り込む事しか出来ない。
 でも、このまま死んでも良いとすら思える。何も解らず、突然愛する人達を奪われた衝撃から立ち直るなんて無理だ。だから、いっそ死――
「――止めて」
 パチュリーの体から引き抜かれたナイフを手に取ろうとしたところで、レミリアに止められた。そこで、私は彼女に抱き締められていた事に気が付いた。
 いつから、そうしていたのだろう。みれば、彼女の背後には紫が立っていて、その隣で靈夢が酷く辛そうな表情をしている。
「……」
 ああ、そうだった。私があの女を殺して、レミリアを助けて……再び襲い掛かってきた妖怪を、靈夢達が追い払ってくれたのだ。そうして妖怪達が消えて…………死体を、こうして並べて。
 駄目だ。数分、数秒前の記憶すら上手く繋がらない。最後に私の名前を呼んだパチュリーの声が、今も耳に残っている。
 謝罪するような響きの声。
 私を逃がせなかった事を後悔していたかのような、声。

 もう二度と、その声を聞く事は出来ない。

 それを改めて理解したら、そこで初めて、涙が零れて、
「ッ、あ――」
 慟哭する。地面に拳を何度も何度も叩きつけ、それをレミリアに止められても振り払いながら、私はこの運命を呪う。レミリアを助けられた代わりに、パチュリー達三人が死ぬなんて有り得ない。私は、こんな運命なんて一切望んじゃいなかったのに!
「――ッ!!」
 そうして涙する私からレミリアがそっと離れていく。だが、それすらも構っていられず、私はただ涙し、衝動に突き動かされるようにパチュリーの遺体を抱き起こす。糸の切れた人形のようなその体は冷たく、重く、美しかった顔にも大きな傷が出来ていた。それが痛々しくて痛々しくて、ただ悲痛に泣き上げる事しか出来なくなる。
 その背後で響くレミリア達の声など、私の耳には一切入ってきていなかった。


「……ご覧の通りよ。私には、もう戦う気力なんて無い。決闘のルールだろうがなんだろうが、貴女達で勝手に決めてくれて良いわ」
「……解ったわ。本当はアンタも倒さないといけないと思ってたんだけど、私もそこまで鬼じゃないから」
「ありがとう、博麗の巫女。私は神を信仰していないけれど……それでも、妹達の弔いが終わったら、あの子達の為に祈って貰えるかしら」
「解った。約束する」
「感謝するわ……。……それともう一つ。あの女が何者だったのか、貴女達は知っているの?」
「ごめん、私は解らないわ。紫は何か知ってる?」
「私にも解りません。ですが恐らく、彼女は外の世界の人間だったのでしょう。それもただの人間ではなく、妖怪を狩るような、所謂ヴァンパイアハンターと呼ばれる者。この大異変を解決する為に私も巫女も大童でしたから、外から入り込んだあの人間の存在には気付けませんでした。それだけは、謝罪致します。ですが……」
「……言いたい事があるのなら、全部話してくれて良いわ。……この状況を引き起こしたのが私だって事は、嫌になるくらい理解しているから」
「解りました。では、私の考えをお話しましょう
 
 ――私は、幻想郷にレミリアさんが現れた事で、それに引き寄せられるようにしてあの人間が現れたのではないか、と考えています」

「……どういう事?」
「貴女の存在が切っ掛けで、幻想郷の妖怪達は活気を取り戻しました。それは、古い時代の、妖怪退治が当たり前に行われていた頃の空気を復活させるものです。ですが、現在の幻想郷には妖怪を退治出来る人間がとても少なくなっている。だからこそ、博麗大結界に組み込まれたシステムが作用し、幻想郷における『常識』を確固たるものにする為、妖怪を退治しうる力を持った人間が――つまりあの人間が、外の世界から幻想郷へと引き寄せられたのでしょう。そうでなくても、ヴァンパイアハンターは外の世界でも少なくなっていますから、吸血鬼であるレミリアさんの存在が、彼女の幻想郷入りを早めたのかもしれません。
 そして、これまでに発見された不可解な死体は、全て彼女の手によるものだったと考えられます。レミリアさんの話を聞く限り、彼女は狂っていた。他者を殺す事に何も感じなくなり、いつしか自分が殺すべき相手が誰なのか解らなくなってしまい……その結果、目の前に現れた相手を見境なく殺し回る殺人鬼へと変わってしまったのでしょう」
「……つまり、全部私が悪いのか」
「いいえ、それは違います。貴女の存在に気付きながらも、すぐに行動を起こせなかった私達にも責任はあるのです。あの人間の幻想郷入りが不可避だったとしても、貴女のご家族を助ける事は出来た筈なのですから」
「そう……。……でも、もう良いよ。私も悪くて、貴女達も悪かった。だからこの状況は、妹達を護れなかった私の弱さが悪いんだ」
「……で、でも、巫女である私が――」
「大丈夫よ、博麗の巫女。貴女が責任を感じる事は無いから。……それより、こんな状況を引き起こしておいて悪いけれど、今日は帰って貰えないかしら。……こうして話をしているのも、もう限界なのよ」
「……解ったわ。……行きましょう、紫」
「……えぇ」


 ――涙と嗚咽が止まらない。
 あの日、パチュリーと出逢った日から、彼女無しの生活は考えられなくなった。これからも彼女と、そして彼女達と一緒に生活していくのだと思っていた。それなのに、それなのに……!
「何なんだよ、どうしてこんな事になったんだよ! 私はただ、レミリアを助けたかっただけなのに! なのにどうして、パチュリー達が犠牲にならなきゃいけないんだよ……!」
「……ごめんなさい、マリア。全部、私が……」
「そんな訳あるか!」
 声に、レミリアの体が大きく震えた。だから私は彼女を強く睨みながら、抱き締めていたパチュリーをそっと横たわらせ、
「お前は被害者だったんだ! お前は何も悪くない!」
「で、でも、だって、私……!」
「こんな事になったけど、レミリアは運命を変えられたんだ! それだけは否定しないでくれ! そうじゃなかったら、お前を助けようとしたパチュリー達の努力まで否定する事になる!」
「マリア……」
「畜生……! あの女さえ、あの女さえ現れなきゃ、こんなッ……!」

 未来は決まっていない。
 運命は変化するものだ。

 私が行動を起こした事で、レミリアは殺されずに済んだ。
 かといって、私が何もしなかったところで、妖怪達が攻め込んできていた運命は変わらない。あの女が幻想郷に現れる運命も変わらない。レミリアが幻想郷に現れた時点で、その二つは確定してしまっているのだ。
 だが、もし私が行動を起こさなかった場合(或いは、レミリアから死の運命を聞かされていなかった場合)、レミリアを助ける事が出来ないばかりか、その場に居合わせるだろう私も殺されていただろう。
 つまり私達は、全滅するかもしれない運命から逃れる事が出来た、とも見る事が出来るのだ。
 とはいえ、その代償は大き過ぎて、どうやっても納得する事なんて出来ない。だけど……だけど私達は――

「――でも、私は納得出来ないわ」

「レミリア……?」
「私は、こんな運命認めない。絶対に認めない!」
 そう叫び上げるレミリアの目には涙が浮かび、その拳は悔しげに握り締められていた。

 それは、必死に涙を堪えているかのようで。
 強大な力を持つ吸血鬼であるのに、とても小さな子供のように見えて。

 痛々しいその姿を見ていられず、私は彼女を抱き締めていた。
「……辛いのは解る。私だってこんな運命は認めたくないし、納得なんて出来ない。だけど……だけど私達は、乗り越えていかなきゃいけないんだよ……。神様に祈ったって、悪魔に魂を売ったって、死人は生き返らないんだ……。生き返って、くれないんだよ……」
 言いながら声が震え、最後には涙混じりになってしまった。
 辛くて苦しくて、そして何よりも悲しくて許せなくて、深い深い絶望だけが胸を埋め尽くす。そんな私の腕の中で、レミリアはだだをこねるように暴れ、大粒の涙を流しながら、
「やだ、そんなの嫌なの……! ねぇ、返事をしてよ、フランドール、パチュリー、美鈴……ッ!」

 死は、誰にでも平等にやってくる。
 だが、誰もが無意識に思い込んでいるのだ。
 自分は大丈夫。
 自分の愛する人達は大丈夫、と。
 その結果にあるのは、喪失感という言葉では言い尽くせない、奈落のように深い絶望。

 子供のように嗚咽するレミリアを強く抱き締めながら、私もまた、涙を流し続けた。





 それから、どのくらいの時間が立っただろうか。
 空を覆っていた紅い霧は完全に霧散し、変わりに煌々とした月明かりが世界を照らし始めた頃。
 もはや泣く気力すらなくなり、ただただ自失するしかない私の腕の中で、レミリアがぽつりとつぶやいた。
「……ねぇ、マリア」
「……」
「……マリア。私を見て、マリア」
「……ん」
 再三の呼び掛けに、意識が現実へと戻ってくる。だが、そこにあるのは絶望だけで……そんな私のすぐ目の前で、レミリアが真剣な表情を浮かべ、
「ねぇ、マリア。もしこの運命を否定出来るとしたら、貴女は悪魔に魂を売れる?」
「……」一体何を言い出したのかと、そう問い掛ける余裕すらない。
 だから私は、ただ気持ちのままに言葉を返していた。
「……パチュリー達を助けられるなら、何だってする。そのあと、また一緒に暮らせるのなら。……だけど、」
 そんなのは無理だ。
 そう告げようとする私の言葉を封じるように、レミリアは真っ直ぐに告げてきた。

「じゃあ、私と契約しましょう。吸血鬼であり、悪魔でもある私なら、その願いを叶えられる」

「……出来るのか、そんな事」
「出来る出来ないじゃないわ。やるの」
 そう断言するレミリアの瞳には、理性の色があり……その心が冷静であるかどうかは別にしろ、彼女の決意は本物なのだと解った。
 私はそれに応えるように、そっとレミリアを解放する。
 対するレミリアは、月明かりを背に受けながらゆっくりと立ち上がり、

「私は、こんな運命なんて認められない。だから、もう一度私達の力でそれを否定するの。……でも、その代償に、マリアは人間という枠から外れてしまうかもしれない。最悪、その魂が穢れ、悪魔になってしまうかもしれない。それでも、フランドールを、パチュリーを、美鈴を救えるかもしれない可能性は生まれる」
「……でも、今から運命を変えたって」
「今の運命を変えるんじゃないの。この運命を破壊して、最初からやり直すのよ。最初から……私達の運命が決まった、その瞬間から」

 運命とは、過去から未来へと続くレールのようなものだ。私達はそれから外れる事は出来ないが、しかし他者との触れ合いによってレールに分岐が生まれ、運命の行く末は変化していく。
 レミリアの場合、明日までしか敷かれていなかったレールが私の存在で分岐し、けれど大切な家族を失う未来に進んでしまった。
 私の場合、レミリアのレールを分岐させようと必死になった結果、愛する人達を失う未来に進んでしまった。

「つまりね、未来を分岐させるのではなく、私達が歩んできた過去を破壊するの」
 未来へと続くレールの行き先は不鮮明でも、過去から現在へと続くレールは一本道だ。それが直線なのか蛇行しているのかは人それぞれだが、そこに分岐が存在しないのは確実だ。
 レミリアはその過去を破壊し、破壊された時点からの未来である現在を消失させ、また一から全てをやり直そうとしているのだ。
 それは、小説のプロローグ以外を破り捨て、新たな物語を書き起こすようなもの。
 過去を破壊し、今この瞬間を無かった事にする悪魔の所業。
 私欲の為だけに、この世界の歴史全てを葬り去る行動。
 
「対価は、貴女の血と魂、そして人生。……どうする、私のマリア」

「……」
 本当に……本当に、そんな事が出来るのだろうか。運命を否定するのなら未だしも、それを破壊し、新たに創造し直すなんて事が。
 普段の私なら、それを問い掛けていただろう。だが、今の私はまともな精神状態ではなく……パチュリー達を助けられるというのなら、どんな小さな可能性にも縋りたかった。

 なんて事は無い。レミリア以上に、私はパチュリー達の死を受け入れられていないのだ。

 その死を乗り越えなければならない、などと口では言いながら、目の前にこの運命を否定出来る可能性を提示された瞬間、それを掴もうとしている。……そうした業の深さにパチュリーは呆れ、けれど貴女らしいと笑うだろう。
 私は、その微笑みを取り戻す為なら何だってする。
 何より、魂を売ろうという相手がレミリアなのだ。彼女になら、パチュリーに対する想い以外、全て売り渡せる。
 だから私は、真っ直ぐにレミリアを見つめ返す。

「――解り切った事を聞かないでくれよ、レミリア。私は、パチュリー達を助けられるなら何だってする」

 今頃、何かに勘付いた靈夢が神社から飛び出してきているかもしれないが、もう遅い。
 私はもう、決断したのだ。

 そんな私に対し、レミリアは小さく微笑み、
「交渉成立ね。……それじゃあ、マリアは願っていて頂戴。私達が過ごしてきた幸せな時間を取り戻したいと、そう強く願っていて欲しい。人間の想いというのは、私達妖怪には無い強さを持っているの。その、誰かを助けたいと願う強い気持ちに、私達は倒されてきたのだから。
 ……そして私は、フランドールの力を借りるわ」
 その言葉と共に、レミリアはそっとフランドールを抱きかかえた。
 彼女は青ざめた妹の頬に「ごめんね、フランドール」と小さく謝りながら口付けると、鋭い爪の伸びる右手でその胸に触れ……流れ出た血で黒く染まった洋服を引き裂き、傷だらけの皮膚の向こうへと指を届かせる。
 そうして取り出されたのは、半日前までは元気に鼓動していた、しかし傷だらけのフランドールの心臓だった。その予想外の行動に絶句するしかない私を前に、レミリアはそれを辛そうに見つめ……そして、決心と共に噛り付いた。
 本当は、一口で飲み込もうとしたのかもしれない。だが、口の小さな彼女にはそれが出来ず、結果的に何度も咀嚼を繰り返す事になる。ぼろぼろと涙を流し、ごめん、と何度も繰り返しながら、姉は愛する妹の心臓を喰らう。

 そして、手に付いた血も綺麗に舐め取ると、レミリアは涙を拭いながらフランドールを寝かせ、私の前に戻ってきた。
「……私達は血液を主食にする。そして、それを全身に送り届ける心臓には、脳と同じように記憶が宿っていると言われているわ。それをこの体に取り込めば、フランドールの破壊の力を受け継げる。あとは……」
 座り続けていた私の前で膝をつくと、レミリアは決意のある、けれど辛そうな表情で私を見つめてきた。
 私はそれに答えるように、ぼろぼろになった上着のボタンを二つほど外し、髪を後ろに纏めながら、
「あとは、私の血と魂。好きなだけ飲んでくれ」
「……うん」
 何故か、酷く悲しげな様子でレミリアが頷き、それに疑問を覚える私に抱き付くように唇を近付けてきて――冷たく熱い彼女の吐息と共に、深々と牙が突き立てられた。
 その瞬間、大きく体が震え――

 ――無意識に閉じた瞼の向こうに、私はあるものを幻視した。
 それは、一本の長いレール。
 その上に立ったレミリアが右手に意識を込め――そこに集った何かを握り締めた瞬間、現実に光が溢れた。
 世界を白く染め上げるその光の中、私が最後に聞いた言葉は――


「――愛していたわ、私の魔梨沙」










★★★










☆★★










☆☆★










☆☆☆

 ――収束した光の先。
 私が放った魔砲を紙一重で回避したらしい魔理沙が、驚愕に目を見開いていた。だが、それは彼女だけに扱える魔法ではない。

 マスタースパーク。
 幽香からラーニングした、霧雨・魔理沙を象徴するようなスペル。
 そして私が――霧雨・魔梨沙が最後に使った魔砲。

 嗚呼、今も鮮明に思い出せる。
 あの時の悲しみを。
 あの時の絶望を。
「――霧雨・魔理沙。お前は運命を信じない。何故ならば、この私がそれを否定し、拒絶し、破壊したからだ!」
 過去を思い出したからだろうか。"小悪魔"である為の演技が崩れ、素の口調で叫んでいた。だが、もう止まらない。それを望んだのは魔理沙の方なのだから!
 さぁ、彼女にはもっと驚いて貰おうか!

「――オーレリーズサン!」

「なぁ?!」
 虚空から召喚した四つの宝玉をぶん回しながら、私は驚愕に目を見開く彼女に星を模った弾幕を打ち込んでいく。
 その間にも、自然と言葉は生まれていた。
「そうして運命を否定した結果、私は新たな運命を生み出した。……その代償は大きかったけどな」

 そもそも、運命とは定められたものだ。それが破壊されれば、神と呼ばれる何者かによって無責任に新しいレールが引かれる。
 悪魔に魂を売った以上、そう簡単に元の生活へと繋がる運命を構築出来るとは思っていなかった。……だが、そんな私の予想を遥かに越えた地点から、私は運命を変えていく事になったのだ。

 あの日。レミリアが運命を破壊し、その光が収まった後。
 静かに瞼を開いた先に存在したのは、禍々しく輝く紅い月と、その下に立つレミリア・スカーレットだった。だが、何故か彼女は服を着ておらず、その表情もどこか透明で……そして、私に気付いた彼女は、こう告げたのだ。

『貴女は、誰?』

 ……あの瞬間の衝撃は今も思い出せる。
 それは、私とレミリアが築いてきた関係が失われた事を意味していたのだから。

 レミリアとの契約の結果、私は運命を――過去から未来を作り変える切っ掛けを手に入れた。だが、それを叶えたレミリアは、私の歴史改変に巻き込まれて記憶を失ってしまい……つまり、未来の記憶を保持していられたのは、契約者である私だけだったのだ。
 ……いや、今にして思うと、彼女は記憶を失わざるを得なかったのかもしれない。
 レミリアが否定出来る歴史は、レミリア・スカーレットが歩んできた歴史だけだ。そして、彼女の中にある『人間に殺される』という運命を変えない限り、あの女は何度でもレミリアの前に現れる事になる。

 だから私は、1400年代後半の、生まれたばかりのレミリアの前に現れた。

 別れ際のレミリアが酷く悲しげだったのは、自身の記憶が消え、私達の関係がリセットされる事に気付いていたからなのだろう。
 そうして、再度『貴女は、誰?』と呟いたレミリアに対して、私は上手く返事を返せなかった。

 まだ未来が確定していない上、霧雨の名を名乗る事は出来ず、
 魔女と告げようにも、私の背中には立派な羽が生えていて、
 彼女との思い出が消えてしまった以上、マリア、とそう呼ばせる訳にもいかない。
 ならば、と思い付いた答えは、

『――私は、遠い未来に名前を失った悪魔。お前の、大切な友人になる予定の相手だ』

 こうして、私の五百年に渡る奮闘が幕を開けたのだ。

 私が完全な悪魔になっていたのは、私の思う『現代』に戻るまでに長い時間を有し、人間の体では願いを叶えられないと判断されたからなのだろう。それがレミリアの想いなのか、神の気紛れだったのかは解らないが。
 それでも、なんとか新しい人生を歩み始める事になった私は、レミリア達が人間に襲われる状況が起きないよう、真祖の側近として吸血鬼社会を動かし続けた。
 敬語……というか、丁寧語を使い始めたのも、『小悪魔』と名乗り始めたのもその頃からだ。
 吸血鬼という、強大な悪魔の側近の悪魔。だから小悪魔。名前を失って、使える力が減ってしまった哀れな存在。
 そういう事にしておけば、皆私の事を勝手に警戒してくれた。『なんだか良く解らないもの』に対して想像力を働かせ、相手の本質以上のモノをそこに視てしまうのは、人間も吸血鬼も変わらなかったのだ。
 その結果、私は身元不明の悪魔ながら、吸血鬼社会を先導出来る立場に居続ける事が出来たのである。……まぁ、何度か寝首を掻かれそうになった事もあったが、どれも成功しなかった。
 私がレミリアを助けようとするように、彼女もまた、私を助けてくれていたのだ。 

 つまりそう、そこで始めて、私はレミリアの力が運命を視るだけのものから、運命を操るものへと変わっていたと気付く事になる。運命を否定し、フランドールの破壊の力を取り込んだ事で、結果的にその能力が大きく変化したのだろう。記憶を失い、その人生を新たにやり直す事になっても、『運命を否定する』というレミリアの意志は残り続けたのだ。
 同時に、私が彼女にとって大切な人物であった事も受け継いでくれていたようで、レミリアは『小悪魔が怪我を負う、或いは死を迎えるかもしれない運命』を見つけると、すぐにそれを否定してくれていたらしい。
 結果、常に彼女の傍に居続けた私はその運命変化に巻き込まれ、怪我という怪我をする事無く、この五百年無病息災で生きてこられたのだ。

 そして、その力のお陰で人間に襲われる頻度もぐっと減った。運命を操作出来るという事は、複数の未来から最善の選択肢を選び出せるという事でもある。その力で危険を回避し、時に迎撃しながら、私達は日々を過ごしていったのだ。
 因みに、フランドールが狂っていると最初に言い出したのは、誰でもないこの私だ。
 彼女の力は強大過ぎて狙われ易い。だから狂気という単語を一人歩きさせ、私の『小悪魔』という名前と同じように、『フランドール・スカーレットは危険な存在である』と周囲に誤認させたのだ。
 当然、その分の遊び相手は私が務めた。……数回『ドカン』とされそうになったのも、今では良い思い出だ。


 こうしてスカーレット姉妹を取り巻く危険が減った事で、姉妹は周囲に甘やかされるようになった。
 結果、レミリアの言葉遣いは少しずつ上から目線になり、フランドールは素直ながらも少々生意気な部分を隠し持つ少女に育っていった。
 つまりレミリア達は、私が知る彼女達よりも随分と幼い、外見年齢通りの精神を持つようになってしまったのだ。
 
 それでも、レミリアの持つカリスマは強大で、凄まじいものだった。
 当然その力に惹かれる者は多く、同時に反発する者も多数存在した。そんな中で、吸血鬼に惹かれる訳でも無く、反発するでも無く、ごく普通に『雨風を防げる場所を探しているのですが、一晩泊めて頂けませんか』とやって来た女性が美鈴だった時、私はもう目を丸くする以外になかった。
 いや、確かにパチュリーのところに来た時もそんな理由だったらしいけれど、まさかこうした形で再会するとは思わなかったのだ。何より私は、美鈴とは幻想郷に向かってからではないと再会出来ない、と思い込んでいたから、その時は本当に驚いた。
 それは、運命を越えた縁なのだろう。
 例えどんな人生を歩んだとしても、私達は巡り逢うのかもしれなかった。
 だから、という訳ではないけれど、私は彼女との再会を確信したのだ。

 それは、吸血鬼の存在に全く興味を示さない者。
 こちらから出向かなければ出逢えない相手。

 本と共にある魔女、パチュリー・ノーレッジ。

 遠い未来である過去に聞いた住所に、確かに彼女は存在していた。
 まだ捨虫の魔法すら会得していない、十四歳の少女の姿で。
 そんな彼女を釣る為の大図書館は、三百年以上前から準備していた。レミリアの暮らす紅魔館の地下に、私の記憶の中にある、けれどそれよりも数倍大きな図書館を作り上げていたのだ。パチュリーはその蔵書量に目を輝かせ、どこか警戒がありながらも、しかし本の誘惑には耐え切れずに私達と一緒に暮らし始める事になる。

 ……そしてその当時、パチュリーと友人関係にあった少女がいた。

 美しい黒髪を持つ、東洋人の少女だった。だが、彼女はそれから数十年後、孫娘の前で強盗に殺される事になり……パチュリーは、その事件を切っ掛けに完全に街から排他される事になる。
 だから私は、その少女の家と紅魔館の一室――パチュリーの自室とを魔法で繋ぎ(悪魔になり、魔力の量が膨大になったからこそ出来た力技だ)、いつでも顔を合わせられるように手配した。もし何か事件に巻き込まれてしまったとしても、すぐに私達の元へ逃げて来られるように。
 そうでなくても、パチュリーとその少女、そして私の間に縁があるのは、彼女を一目見た瞬間に理解出来た。

 その少女は、パチュリーを殺したあの女に良く似ていたのだ。

 更にその頃から、レミリアが『人間に殺されない運命』を視始めるようになった。パチュリーと出逢うまではその選択肢自体が存在しなかったというのに、微かながらにそれを完全回避出来る運命が視え始めたのだ。
 その、死を完全否定する運命が決定的になったのは、それから三十年ほど経った頃。
 パチュリーの友人である少女に孫娘が生まれた事で、レミリアの死は完全に回避された。
 つまり、その孫娘こそがレミリアの運命を変える鍵であり、

 彼女は今、『十六夜・咲夜』という名前で紅魔館のメイド長をやっていた。


「本当、縁ってのは不思議なもんだよな」
 レミリアの運命が変化した後、世界は大きく変化していき……咲夜と名付けられる筈の少女が失踪したり、レミリアを慕ってくれていた吸血鬼や魔女の大多数が狩られたりと色々あって五十年。
 外の世界で暮らし続けるには限界を感じた私は、決闘のルールの事をレミリアに伝え、幻想郷へ向かうように促した。

 ……だがその結果、吸血鬼異変が起こってしまうのである。

 出来るなら、異変を起こさずに紫と接触し、事情を説明するつもりだった。
 しかし、幻想郷にやって来たその日、私は懐かしい風景に完全に心を奪われてしまって……しかもそこは、私にとって魔女の屋敷が建っていた場所でもあったのだ。
 その事実に動けなくなってしまった私とは対照的に、レミリアはもっと刺激的な場所を想像していたのか、長閑な原風景が広がる幻想郷の様子に次第に飽き始め……美鈴の静止を振り払い、退屈凌ぎの思い付きで異変を起こしてしまったのだ。

 その結果、彼女は腑抜けて気力を無くしていた妖怪達を、その圧倒的なカリスマで支配下においてしまった。
 掛かった時間は、約半日。
 つまり、私が体験した妖怪同士の争いなど起こる間も無く、妖怪達はレミリアにひれ伏したのだ。
 その時ばかりは、流石に恐怖した。吸血鬼がちょっと本気を出しただけで、幻想郷があっという間に支配されてしまったのだから。

 しかし、当の本人は私とパチュリーに怒られて半泣きになるようなお子様で。私は自分の中にあるレミリアとのギャップに軽く頭を痛めつつも八雲・紫と接触し、この異変が気紛れであった事を説明。
 それを無理矢理納得して貰いつつ、紫がレミリアを倒したという事にして異変を解決させ、吸血鬼条約を結んだり、幻想郷における決闘のルールを決めたりしていく事になる。
 とはいえ、出来れば魔理沙にレミリアを倒させたかったのだが……当時の霧雨・魔理沙には、まだ吸血鬼を倒せるだけの力が存在しなかったのだ。
 それもその筈で、私が経験した吸血鬼異変と、魔理沙が経験した吸血鬼異変には五年以上のズレが生じていた。結果、人間に妖怪退治をさせようにも、それに見合う力を持つ人間が存在しなかったのだ。

 そしてそのズレは、博麗大結界を越える際に発生するものであるようだった。一応予想はしていたものの、やはり困惑してしまったのを覚えている。
 それでも私は紫と話を付け……数日振りに紅魔館へ戻ったところで、更なる驚きを得る事になった。

 パチュリーの部屋から、後に咲夜と呼ばれる事になる少女が現れたのだ。

 彼女は、五十年以上前に失踪した筈だった。レミリアの運命が変わった数年後、しかし唐突に居なくなってしまったのだ。
 私はその事実に酷く焦り、けれどレミリアは暢気なものだった。自分の運命を変えてくれる相手だというのに、彼女は「大丈夫よ」の一点張りだったのだ。
 当時はレミリアの意図が解らなかったが、私はその時になってようやく全てを理解した。
 つまり咲夜は、失踪してしまったのではなく、祖母の家にあった魔法陣を――私の残していた転移魔法を通り、しかしその転移に失敗。結果、五十年後の紅魔館に飛ばされてきたのだ。
 それが彼女の持つ能力が引き起こした事故だったのか、レミリアと出逢った事で彼女の運命が変化し、その結果に起こった現象だったのか……詳しい原因は解らない。
 ただ、その銀色の髪が切っ掛けで虐められ、塞ぎこんでいた彼女は、何度も私達のところに遊びに来ていた。……最愛の祖母が病気で亡くなってからは、その転移魔法を使って毎日紅魔館にやってきていたのだ。
 当然、五十年という時間を聞いた時はとても驚き、悲しんでいたが……けれど、私達が変わらず暮らし続ける紅魔館にやってこれた事で、彼女はどうにかそれを納得し、受け入れられたらしい。
 そんな彼女とレミリアが再び出逢った事で、死の運命は完全に破壊されたのだ。
 
 
 それから数年後。紅い霧が世界を覆い、そこで使われたスペルカードルールが幻想郷における決闘のスタンダードになっていく。
 今や神様ですら行う弾幕ごっこ。その結果に生まれたこの世界は、遠い日に私が望んだものだった。

 その最前線に居る魔法使い、霧雨・魔理沙。
 最初は驚きが強かった彼女も、しかし次第に普段の調子を取り戻し、圧倒的なパワーで私を追い詰めてくる。その生い立ち、戦い方は私と殆ど一緒で……これだけ歴史を、運命を大きく変えたというのに、まるで鏡写しのように『マリサ』が生まれている事実に私は驚きを隠せない。
 だが、私が悪魔になった事で、人間である私が新たに生まれてくる可能性は大いにあった。何せ、この世界の運命は神の手によって定められている。私がどれだけそれを否定しようと、生まれてくる運命にある者は何があっても生まれてくるのだ。
 その結果、『マリサ』は誕生する。

 だが、私達が鏡写しである以上、私が北を向けば、鏡に映る彼女は南を向く事になり……彼女が西を向けば、鏡に映る私は東を向く事になる。
 だからこそ、過去を見つめる魔梨沙と、未来を見つめる魔理沙は――運命に抗って悪魔になってしまった私と、運命に抗わず魔法使いをやっている彼女は、鏡写しに裏返った、同一人物であるといえるのだ。 

 とはいえ、こうして変化した歴史における『マリサ』は魔理沙なのであって、そこに私は――魔梨沙は存在していない。
 だから私は、ここまま誰にも本名を名乗る事無く、パチュリーの側で生き続けようと思うのだ。
 この手に取り戻す事の出来た、幸せな時間を噛み締めながら。
  
「つっても、『私』に負けるつもりは無いけどな」

 嗚呼、私は今、霧雨・魔理沙と同じような笑みで笑っているに違いない。
 弾幕ごっこが楽しくて楽しくて仕方の無い、子供のような純粋な笑みを浮かべているに違いない。
 それが嬉しくて、でも悲しくて仕方ないから、私は笑みを強めるのだ。
「――それじゃあ、新しい切り札いっとくか」
 私の杖は魅魔様のそれをモチーフにしたもので、先端には大きな五芒星を取り付けてある。数年前に再会した――出逢った魅魔様に許可を取って、そのお墨付きを貰った私の新たな相棒だ。……出来ればその星を六芒星――ダビデの星にしたかったのだが、レミリアに止められてしまった。それは私のものだから、と。
 だから私は、五芒星を――『マリサ』を象徴する星を選んだのだ。

 私は星に意識を込めながら杖を振り抜き、けれど星だけがくるくると回転しながら空中に固定される。それに向かって改めて杖を構え、複数の魔法陣を展開すると、私は真っ直ぐに突っ込んできながら弾幕を放つ『私』へと笑みを向け、
「これは名前を借りただけじゃない。正真正銘、お前からのラーニングだ。真正面から受け止めな!」
 
 ――彗星、
「ブレイジングスター!」


 星が、落ちた。












「……で、何がどうなればここまで図書館を滅茶苦茶に出来るのかしら」
「すまん、ちょっと調子に乗っちまったぜ!」
「潰すわよこの駄悪魔が。……あとその物真似、妙に似てるから止めて」
「っと……。それは残念です」
 危ない危ない、つい昔の口調でパチュリーに話し掛けてしまった。
 ともあれ、私は苦笑しながら改めて図書館の様子を確認する。
 狭い室内でブレイジングスターを……魔法によって巨大化させた星を落とす大技をぶっ放した結果、本棚は倒れ、大量の魔道書が床に散乱する始末となっていた。
 それを受けた魔理沙は本棚に背中を打ちつけ、落ちてきた本の山に埋まっている。それに気付いたパチュリーが大きな溜め息を吐き、
「取り敢えず、そこで伸びている鼠は咲夜に任せましょうか。ちょっと呼んできて」
「はーい」
「それが済んだら本棚の整理。全部一人でやりなさい」
「はーい……」
 自業自得とはいえ、しょんぼりと肩を落としながら返事を返して、私は椅子に腰掛けるパチュリーを横目に図書館の出口へと向かい……その扉に手を伸ばしたところで、古く重たい扉を開けて咲夜が顔を覗かせた。
「っと、咲夜。良いところに。そこで魔理沙が伸びてるから、空き部屋のベッドにでも放り投げといてください」
「解ったわ。……って、なんでニヤニヤ笑っているの?」
「だって、今日は珍しく負けたって聞いたから」
「うっ……。わ、私だって調子が悪い時はあるわ」
「そんな事言って、なんだかんだで咲夜は魔理沙に甘いですよねぇ」
 そうニヨニヨ笑いながら、恥ずかしそうにする咲夜の頭を撫で回す。

 その銀髪と、紅く狂気を宿す事のある彼女の瞳は、私にとってどうやっても忘れられないもの。
 つまり咲夜こそが、あの女――パチュリー達を殺したヴァンパイアハンターだったのだ。

 咲夜とあの女の年齢が一致していないのは、恐らく停止した時の中での時間経過がそれだけ長かったからで……あの吸血鬼すら翻弄した戦い方は、その能力を効率的に使用したからこそ行えたものだったのだろう。
 だが、彼女がどうしてヴァンパイアハンターに――無差別に人を殺す殺人鬼になってしまったのか、その理由は解らない。
 ただ、パチュリーを殺した瞬間のあの喜びようを見るに、相当酷い人生を歩んできたのは確かなようだった。もしかしたら、その特異な能力を利用しようとする人間に狙われ、その思想を狂わされ、魔女を殺す事だけが救済であると思わされていたのかもしれない。
 彼女の祖母の友人であったパチュリーは、しかし強盗を差し向けた犯人として糾弾されていた。だが、パチュリーはその汚名を返上出来ずに幻想郷へ転移してしまっている。
 そこから考えるに、彼女は吸血鬼などの化け物を狩りながら、ずっとパチュリーを――魔女を恨み続けていた可能性が高い。
 
 つまり、あの日殺される運命にあったのはパチュリーだったのであって、レミリアはそれに巻き込まれただけなのかもしれなかった。
 
 レミリアの視る運命は、彼女を主観としたものだ。そして『人間に殺される』という事実が変わらない以上、その死が彼女を中心にして降り掛かるものなのかどうなのかまでは解らない。
 もしかしたら、パチュリーはその事実に気付いていたのかもしれない。
 だから私に『ごめん』と、巻き込んでしまった事を詫びたのかもしれない。

 ……その答えは、もうどうやっても解らないけれど。


 ともあれ、私はこの手で殺した少女の頭を撫で回す。
「や、止めてよ小悪魔!」
「うりうりうりー」
 もうどこにも存在しないあの女に対しての恨みは、今もこの胸にある。悪魔になったからか、魔梨沙だった頃の記憶は今も色濃く残っているのだ。
 しかし、目の前に居る彼女は十六夜・咲夜なのであって、あの女ではない。
 幼い頃にレミリアと出逢い、その運命を変えられた彼女は、もう二度とあんな化け物にはならないだろう。
 だからこうして、頭を撫でてやれるのだ。

 でも、いい加減止めないとパチュリーに怒られるので、私はその髪をそっと整えてやりながら手を放し、
「それじゃあ、魔理沙をお願いしますねー」
「全くもう……。……ともあれ、任されたわ」
 気恥ずかしげな様子のまま、咲夜が魔理沙を抱きかかえて図書館を出て行く。
 それを笑顔で見送ってから、私は散らかった図書館の掃除をしようとパチュリーの方へ振り返り……
「……パチュリー?」
 私の愛する魔女は、椅子に座りながら小さく船を漕いでいた。

 その可愛らしい姿を見つめていると……かくん、と大きく頭を揺らし、少々慌てたようにパチュリーが顔を上げて、
「ッ、あ……ああもう、ちょっと意識が飛んでたわ……」
「寝てたんじゃなかったんですか?」
「寝てたわよ。でも、突然やって来たレミィに叩き起こされて、『図書館で面白い事やってるわ』って捲くし立てられたのよ。それで一応様子を見に来たら、貴女達が弾幕ごっこをやっていて……何も面白くなくて部屋に戻ってみたら、レミィが私のベッドを占領して眠っている始末。だから仕方なく図書館に戻ってきたら、この有り様よ」
「あ、あはははは……。ごめんなさい……」
「謝るなら馬鹿をやらないようにしなさい。……にしても、妙な形の杖を使っていたわね」

 何気ない問い掛けに、一瞬緊張する。
 けれど私は緩い笑顔で受け流すように杖を召喚し、

「じゃーん、格好良いでしょう? とある祟り神様のお墨付きの杖なんですよ」
「デザインが悪いわね。月だったら良かったのに」
「ぜ、全否定された……!」
「どこかの誰かみたいなのよ。オリジナリティがないのねぇ」
「……ま、その誰かだからな」
「ん? 何か言った?」
「なんでもないですよー」
 小さな呟きを誤魔化すように微笑んで、私はそっとパチュリーに手を伸ばし、
「私の部屋のベッドが空いてますから、そこで眠っていてください。目を覚ます頃には、図書館は元通りにしておきますから」
「……ちゃんと戻ってなかったら怒るわよ?」
「大丈夫ですって。ほら、行きますよー」
 眠気でふらふらしているパチュリーをエスコートしながら、私は図書館奥にある自室へと彼女を招いて行く。

 あの頃私の中にあった熱く激しい恋心は、長い年月の中で自然と落ち着き、今では深い愛情だけが胸に残っている。
 でも、彼女が生まれてくるまでの四百年間、私は必死だったのだ。いや、それ以上に強い恐怖もあった。
 私の行動が切っ掛けでパチュリーが生まれてこなかったらどうしようと、そうした恐怖をどうやっても消せなかったのだ。
 それは、私達の間にある縁を――再会を確信してからも、私の中に残り続けていた。
 そんな私の様子に気付いたレミリアが事情を聞きたがり……愛する人が居る、という話を伝えた結果、彼女は無邪気な子供のように笑ってみせた。

『じゃあ、今から一緒に逢いに行こう。お前が逢いたがってる、その引き籠もりの魔女のところへ』

 その行動力の速さに圧倒されながらも、私は記憶に残っていた住所に赴き、無事パチュリーと再会を――いや、改めて出逢う事になる。
「……ねぇ、パチュリー」
「んー……?」
 寝ぼけ眼の彼女をベッドに横たわらせながら、私は自然とその言葉を告げる。
「愛してますよ」
「ん、私も愛しているわ」
 優しく微笑んで、そっとパチュリーが目を閉じる。その体に布団を掛けつつ、私は彼女の髪をそっと整えた。
 そうして、すぐに安らかな寝息が聞こえてきて……



 ……どうしようもなく、悲しくなってきた。
「…………お前は覚えてないだろうけどさ。私は、お前に逢えて本当に嬉しかったんだ」
 十四歳のパチュリー・ノーレッジと再会した時――今と殆ど変わらぬ外見の彼女を見付けた瞬間、私は安堵と共に涙していた。
 パチュリーが生きている。その事実が何よりも嬉しかったのだ。
 だが、それは悲しみでもあった。
 こうして出逢った以上、魔梨沙としてパチュリーと過ごした歴史は完全に消え失せ、あの暖かな日々も、告白も全て消えてしまったのだから。
 当然、私達は恋人同士にはなれていない。
 それでも、あの頃よりも距離が近くなって、幸せで…………幸せなのに、この胸には悲しみが存在し続ける。
 こうやって日々を生きていく中で、どうしても気付いてしまうから。

 私が恋したパチュリーは、私のベッドで眠り始めた彼女ではないのだと。
 









☆★☆


「パーチェー、遊ぶわよー。って、あれ、アンタだけ?」
「パチュリーならお休み中ですよ。今頃夢の中かと」
「あれだけ寝たのにまだ寝てるの? ねぼすけだなぁ」
「それ、本人に言ったら怒られますよ」
 そう苦笑しながら、私は本を本棚へと戻していく。正直終わりの見えない作業だが、ここの本はパチュリーの物であると同時に私の所有物でもあるのだ。後悔しても始まらないので、無心で作業を行っていた。
 そんな私の心を揺らがせるように、レミリアが甘い誘惑を囁いた。
「崩れた本の中に魔理沙の星が混ざってるから、ちょっとした前衛芸術みたいになってるわね。いっそこのままにしちゃえば?」
「……言われてみれば確かにそう見えない事もないですね。でも駄目です。パチュリーに怒られちゃいますから」
「愛してるわねぇ」
「愛してますから」
「まぁ良いわ。パチェが起きてくるまで漫画読んでるから、頑張って片付けな」
「解ってます」
 でも、ちょっとくらい手伝って欲しいなぁと思いつつ、我が儘なお嬢様が手伝ってくれる訳がないのも理解しているので、私はペースを維持しながら淡々と片付けを進めていく。

 そうして、五分ほどだった頃。
 もう飽きてしまったのか、レミリアが漫画を閉じ、そのまま私を見つめ、
「……そういえばさぁ」
「はい?」
「さっき、妙な夢を見たのよね」
「夢、ですか。吸血鬼も夢を見るんですね」
「普段は見ないんだけどね。だから今も鮮明に覚えてる」
 どこか真面目な表情で告げるレミリアに、私は抱えていた本を床に下ろして、服の埃を軽く叩いてから彼女の隣の椅子に腰掛けた。
「それ、どんな夢だったんです?」
「……こんな風に椅子に腰掛けながら、青い髪をした子供と向かい合ってるの。ソイツの背中には羽があって、多分私と同じ種族なんだと思う」
「――吸血鬼」
「そう。それにそいつは白いドレスを着て、なんだか妙に大人びた顔をしてたわね。でも、部屋はそんなに広くなかった。まぁ、この図書館みたいに、そいつの後ろにいっぱい本棚があったけど」
「……」
「それで、私はソイツと紅茶を飲んでるの。で、不意にソイツが言うのよ。『貴女やパチュリーの近くに、とっても可愛い女の子が居るはず。彼女にこう聞いてみて貰えないかしら。
 
 地毛が金髪だったって、本当?』」

「…………えぇ、まぁ、金髪でした、けど」
 私は、髪を紅く染めていた。
 ブロンドの女はバカだと思われるから、という訳ではなく、祖父母が私の髪色に嫌悪感を示し、幼い頃から事あるごとにそれを槍玉に挙げて両親を責めていたからだ。
 父親の事は今でも好きになれないが、それでも愛されていたのは解っていたから、祖父母の言葉はトラウマとして残り続けていた。
 だから私は髪を紅く染めていて、悪魔になった今ではそれが地毛になってしまったのだ。

 そんな私を前に、レミリアは納得した様子で、
「ああ、やっぱりアンタの事だったのね。……でも、何よその表情。私変な事言った?」
「いえ、その…………この髪の事、悪魔になってからは誰にも教えた事が無いんです。だから驚いて」
「ふぅん……。じゃあ、これからもっと驚くかもしれないわ。

 だって私、ソイツから伝言を預かってきたから」

「――、」
 一瞬、レミリアが何を言ったのか理解出来なかった。それでもどうにか出せた声は、
「……嘘、ですよね?」
 告げる声が硬くなる。だが、対するレミリアはいつも通りの様子で、
「本当。しかも出来るだけ真似しろって言われたから、アンタを驚かす為に細部までそっくりに演じてあげるわ」
「え、でも……」
「ほら、立った立った」
 言われるがままに席を立ち、私は目の前に立ったレミリアに見上げられた。
 そして、レミリアが一度瞼を閉じ……

 ……改めて私を見上げた彼女の表情は、先ほどとは一変していた。

 それは、五百年以上前に失った、運命を視る事しか出来なかったレミリアの表情で。
 それに酷く驚く私に、彼女は優しい微笑みを浮かべ、
「『――久しぶり、というのも変かもしれないけれど、久しぶりね。元気にしていたかしら』」
「――ッ」
「『私は元気だったわ。私の能力が変化したように、この体にはあの頃の意識が僅かに残っていたの。だから、貴女の努力を側で見てこられた」
「で、でも、だけど……」
「『……けれど、ごめんなさい。私は浅はかだった。貴女のお蔭で幸せを取り戻せたけれど……でも、運命を変えれば、結果的に未来も変化する。私達が取り戻そうとした日常は、失われてしまう。……あの時の私は、それに気付いていなかったのよ。こればかりは、謝っても許される事ではないわよね……』」
「そ、そんな事無い! そんな事……!」
 そう叫ぶ私に頷くように、レミリアは悲しげに微笑み、
「『……こんな私を、貴女は多分責めないのでしょうね。だけど、私は貴女に謝らなくちゃ。自分から契約を持ち掛けた癖に、その全てを貴女に任せてしまったのだから。……本当に、ごめんなさい』」
「レミリア……」
「『出来るなら、笑って話をしたかったのに……上手くいかないわね。……それどころか、もう時間が来てしまった』」
「じ、時間? どういう事だ?」
「『こうして会話出来るのは、多分これが最初で最後よ。運命が変化した今、私はこの世界に存在しないのだから』」
「そんな、そんな事を言わないでくれよ! レミリア!」
「『……多分、貴女は泣きそうな顔をしているのでしょうね。でも、大丈夫。私がそうだったように、フランドール達にも失われたあの歴史の残滓がきっと残っている。だから貴女は一人じゃないわ』」
 そうレミリアが微笑んで、そのまま私を優しく抱き締めてくれて、

「『――愛しているわ、私のマリア。またいつか、その血を飲ませて頂戴ね』」

「ッ、あ……!」
 涙が溢れて止まらない。
 解っていても体を止められなくて、私は縋るようにレミリアを抱き返し、

「……私は、お前を救えたのか? 本当に、これで良かったのか? ――レミリア。お前は、幸せになってくれたのか?」

「……泣かないで、私のマリア。私はとても幸せよ。だって、みんなが笑顔で生きていて、今も一緒に暮らせていて……こうして、マリアに抱き締めて貰えているのだから」
「――ッ!」
 立っている事すら出来ず、私はその場に崩れ落ちる。そんな私の頭を、彼女はそっと抱き寄せてくれて……五百年分の寂しさを吐き出すように、私は泣き続けた。
 


 鏡に映らないレミリアは、自分の顔を良く解っていない。だから、夢の中の少女が誰だったのか解らなかったのだろう。
 だが、私は彼女を知っている。彼女達と共に生きた世界を知っている。
 それは何があっても忘れない、忘れる事の出来ない大切な記憶だ。
 もう二度と取り戻す事の出来ない、幸せな歴史だ。
 でもそれは、今の幸せを否定するのものではない。むしろ、その土台となって存在するものだ。
 
 私は、あの時の選択を――運命を否定した事を後悔していない。
 
 今も淋しくなる事や、悲しくなる事はあるけれど……それでも、私は愛する人達の命を救えた。それは何よりも素晴らしく、喜ばしい事だ。
 あの選択が無ければ、決して果たせなかった事だ。
 だから私は、これからも小悪魔としてパチュリーに愛を囁き、フランドールと遊び、美鈴を手伝い、咲夜をからかい……そして、レミリアと共に最高の運命を見つけていく。

 彼女達と過ごすこの日常は、とても幸せなものなのだから。











☆ おしまい ★

    

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