五月雨。

――――――――――――――――――――――――――――

0

 雨が降っていた。
 今日で一週間連続。まるで世界を洗い流してしまうかのように降り続くその雨に、止む気配は全く感じられない。静かに音色を響かせ続けるそれに溜め息を吐きつつ、私は自室を出た。
「全く……」
 吸血鬼にとって、梅雨と呼ばれるこの時期はとても憂鬱だ。日差しは傘で防ぐ事が出来るけれど、流水の一種である雨の中は、例え傘を差していても歩き回る事が出来ないからだ。
 幻想郷の――というより、日本という国の気候に嫌気が差しつつも、私は図書館へと向かう。お茶の準備を任せた咲夜よりも先に着ければ良いな、なんて事を考えながら歩いて行き……雨音では誤魔化せない廊下の静かさが耳に付いた。
 紅く広い廊下には私以外の姿は無い。微かな雨音だけが聞こえるこの状況は、まるで古い過去の時代を彷彿とさせる。当然のようにメイド達の姿も無く、真っ直ぐに伸びる廊下は終わりのない迷宮の入り口のようだ。
 とはいえ、メイド達が姿を消しているのには理由がある。
 この紅魔館で働いているメイド達の大半は妖精であり、つまり自然の権化だ。そんな彼女達が雨の恩恵を黙って見ていられる訳が無く、あれよあれよという間にその全てが紅魔館から姿を消してしまっていた。
 その結果、屋敷には咲夜や美鈴といった、私を主として認めている者達しか残っておらず……そこに妹達を含めても、屋敷に残っているのは十人程度といったところだろう。
 これでは屋敷の中で騒ごうにも人数が足りな過ぎる。以前から頭を悩ませていた事態だけれど、でも、私は今すぐに対策を練ろうとは思っていなかった。
「……幻想郷にも馴染んだしね」
 スペルカードというものを当たり前に使うようになったし、幻想郷の緩やかな空気や、人間達と馴れ合う事にも慣れた。その証拠に、今では血よりも紅茶を飲む回数の方が多くなってしまっている程だ。当然種族としての本能があるから、その比率が完全に紅茶へと傾く事はないけれど、それでも私はこんな生活を気に入っていた。
 恐らくはそれが、博麗の巫女の――霊夢の力なのだろうと、そんな風に思う。
 本来吸血鬼は人間を襲わねば生きられない存在だ。けれど、スペルカードルールによって人間と対等の勝負が出来る立場になってしまった今、人間はただの食料という扱いではなくなり、それ以上の価値を持つ存在になってしまった。
 そしてそれは、他の妖怪達にとっても同じ事なのだ。だから彼等は人間を襲う事はあっても喰らう事は少なくなった。平和解決のルールが、結果的にその壁を取っ払ってしまったのだ。
 それを日和ったと見るのか、落ち着いたと見るのかは解らない。
「でもまぁ……」
 指先から蝙蝠を一匹生み出し、暗い廊下へと羽ばたかせながら思う。
「悪い事じゃあ、無いわよね」
 過去。人間を襲い、襲われる事が当たり前だった時代には、こうやって一匹の蝙蝠を飛ばしておくのが癖になっていた。
 例え人間に白木の杭を打たれようと、銀の銃弾を撃ち込まれようと、吸血鬼は蝙蝠の一匹が生きていれば復活を果たす事が出来る。そうすれば屋敷を護る事が出来て、妹を護る事が出来た。だから、吸血鬼として、姉として、私はいつもそうして予防策を取っていた。
 どれだけ繁栄しようとも、夜の眷属は人間によって淘汰される――その事実を、嫌という程に知っていたから。
「……」
 と、そんな事を考えながら歩いている内に、目的地である図書館へと辿り着いていた。
 重く厳重に閉ざされた図書館の扉を少しだけ開き、湿気対策が何重にも何重にも施されて逆に乾燥し過ぎた為に今度は乾燥対策を始める羽目になったらしい図書館の中を覗くと、お茶用に用意されたテーブルを前に、ちょこんと椅子に腰掛けながら本を読むパチュリーの姿が見えた。
 どうやらまだ咲夜は来ていないらしい。『先に着いた』というちょっとした事で心が弾むのを感じながら、私は図書館の扉を大きく開き、「やぁパチェ、遊びに来たよ」と告げようとして――
「お茶の準備が整いました。お嬢様」
 目の前には咲夜が居て、テーブルには一瞬前まで無かったティーセット。
 ちょっと悲しくなった。



「では、失礼致します」
 その言葉を残して咲夜が図書館を去り、パチュリーと二人きりでのお茶会が始まる。廊下とは違ってこの図書館の中には雨音という耳障りな雑音は無くて、その静けさが心地良い。
 私はカップの中で揺れる琥珀色の液体を眺めながら、咲夜は色々とお茶の知識を持っているな、なんてどうでも良い事を考える。今飲んでいるこのお茶は果物の香りがして、砂糖を入れていないのに、何故かほんのりと甘さを感じる。血液の甘美さにはほど遠いけれど、これはこれでとても美味しい。
 と、パチュリーが読んでいた本から私へと視線を向け、
「……幸せそうね」
「そう見える?」
「そう見えるような顔をしているわ」
 そう言って魔女が微笑む。何さ、そう言うパチェも同じような顔をしているよ。
「あら、そうかしら」
「ええ、そうよ。……で、パチェ。この雨、いい加減どうにかならないかしら」
「雨? ……ああ、まだ降っているのね」
 確認しなくても解るのか、パチュリーはそう言って紅茶を一口。魔法使いは気質の変化に敏感だというから、天気がどうなっているのかすぐに把握する事が出来るのだろう。
 とはいっても、感じるのと目にするのでは違いがある。ただ一口に『雨』といっても、霧雨から豪雨まで様々だ。だから私はここ一週間の具体的な天気と、美鈴予測による天気予報をパチュリーへと告げ、
「とまぁ、そんな感じでここ暫く雨みたいなのよ。だからどうにか出来ないかなぁって」
「そうだったの……って、あの子に天気予測が出来たなんて初耳だわ」
「私もよ。なんでも大気の『気』を見るって言ってたわ。天『気』は気質が変化したあとの結果だから、その前の大『気』を見るんだってさ。咲夜曰く、命中率は八割五分」
「へぇ。結構信じられる数値ね」
 でも、完璧じゃないのが彼女らしい。そう言ってパチュリーは笑い、しかしすぐに思案顔になると、
「雨をどうにかする、か……。レミィも難しい事を言うわね」
 雨雲を生み出すのなら兎も角、それを消し去るというのは問題が多くあるらしい。存在するものを消し去るというのは、確実にどこかでその皺寄せが生まれるものなのだという。
 パチュリーは暫く無言で何かを考え続け……そして、何か思い付いたのか、背後にある空間にへと視線を向け、
「小悪魔」
「……なんですかー」
 言葉と共に、魔女の視線の先に一人の少女が現れた。美鈴よりも深く暗い紅髪を持ち、私のそれと似たような翼を持った彼女は、少々面倒臭そうな視線をパチュリーに向け、
「現在私は図書館の湿気指数平均化運動の真っ最中なんです。余計な仕事は自分でやってください。――あ、レミリアさん、ごきげんうるわしゅう」
 最後は私へと視線を向けて小悪魔が言う。そんな彼女に挨拶を返していると、パチュリーが紅茶を一口飲んでから、
「余計じゃないから貴女を呼んだの」
「じゃあ、その余計じゃない用件を簡潔にお願いします」
「以前レミィ用に準備した魔道書を持ってきて頂戴」
「あー、あれですか……」
 そう言って小悪魔が地面に降り立ち、そして優雅な動きでパチュリーの紅茶へと手を伸ばし、それを一口飲んでから、「あ、美味しい」と小さく呟き、
「解りました。その代わり、後で私にもこのお茶を淹れてくれるよう、咲夜に言っておいてください」
「解ったわ」
「じゃあ、五分ぐらいで戻ります」
 最後に付け合せのクッキーを口に放り込んで、小悪魔が音も無く姿を消した。その、昔から変わらない二人のやり取りに笑みが浮かぶのを感じつつ、私は友人へと問い掛ける。
「何か方法があるの?」
 私の問いに、しかしパチュリーは少し自信なさげに、
「まぁ、あるにはあるのよ。でも、それを実行するかはレミィ次第」 
「何故?」
「プライドの問題、と言った所かしら。実はね、『種族としての特性や能力を失わせる魔法』というものがあるの」
 なにそれ、と言葉を返す私に、パチュリーは残り少なくなった紅茶を飲み干し、唇を軽く湿らせてから、
「小悪魔が持ってくる魔道書を読めば解ると思うけど……その魔道書を記した人物は、自分とは違う種族の相手に想いを寄せていたらしいの」
 それは遠い遠い昔話。
 かくも儚き、悲哀のお話。
「……まぁ、この日本という国では有り触れた話なのかもしれないけれど」
「そうなの?」
「ええ。昔から、この国では獣を妻として迎え入れた男性が多く居たらしいわ。初めは人間の姿をしているから気が付かないのだけれど、その正体が発覚すると、妻は獣の姿に戻って家を出てしまう。それに気付いた夫は、相手が獣だと解っても、再び戻ってきて欲しいと望んだ――と多くの書物に残されていたの。そして、中には獣との子供を育てた男性も居るくらいなのよ」
「……流石に嘘よね」
「嘘じゃないわ。この国の古い術式に陰陽道というものがあって、その代表的な術者の一人に安倍・晴明という人物が居るのだけれど……彼の母親は狐だったという話なの。確か、葛の葉、とか言ったかしら」
 その狐も他の話と同じように姿を消し、そして残された父は子供を育て上げたのだという。
「でも、その魔道書を記した人物が生まれた国は、日本のような文化を持ってはいなかったらしいの」
 日本では獣を妻に迎える者が多かったとしても、場所によっては人化した獣など醜いモンスターでしかなく、忌み嫌われる象徴だった。そんな中で愛を貫こうとしたのだから、その想いは並々ならぬものだったに違いない。
 しかし、種族の壁というのは厚いものだ。例え外見が似ていたとしても、その中身は全く違う。解りやすく、そして一番大きな違いは卵生か否かだろうか。そういった意味では、子供を成す事すら難しい種族もある。更には寿命や食生活、果てには生活サイクルから求愛の仕方など、その違いは多い。
 でも、その人物はその愛を貫く為に行動を起こした。自分の為に、そして後に自分と同じ想いを得るだろう者達の為に。
「で、その結果生み出されたのがその魔法なのよ」
 例えばそれを人間に使えば、その存在は人間としての能力を失い、妖怪へと変化する。
 例えばそれを妖怪に使えば、その存在は妖怪としての能力を失い、人間へと変化する。
「過去に読んだ限りだと、術者の力量次第では幽霊でさえ人間に変質させる事も可能だと書かれていたわ。レミィのように半分死んでいるともいえる種族にも対応出来るよう、呪文を組み上げた結果の成果なのでしょうね。……まぁ、仮初の肉体を魔力だけで創り上げる訳だから、相応の時間と魔力が必要になるみたいだけど」
「つまり……どういう事?」
「つまり、レミィが――吸血鬼である貴女が、例え一時的とはいえその力の全てを失っても良いというのなら、この雨の中を自由に外出出来る。とまぁそういう事ね」
「一時的って、元に戻せるの?」
 私の言葉に、パチュリーは「戻せるわ」と頷き、
「結局は魔法だから、その効力を失わせるか、私の魔力が尽きるか……まぁ、様々な要因ですぐに元に戻るわ。もし今すぐに魔法を発動させた場合、三日が限度といった所かしら」
「なに、その具体的な数字」
「私の体調と、湿気と、精霊のテンションと……あと、その他諸々を計算すると、三日程度しか魔法を維持出来ないの。準備をしっかりと行って良いのなら話は別だけれど……その場合、準備が終わる頃には梅雨は明けているでしょうね」
 しれっと魔女はそう言って、けれどすぐに真剣な表情を私へと向けると、
「でも、例え三日といえど、レミリア・スカーレットはただの人間になってしまう」
「だからプライドの問題、と言った訳ね」
「ええ、そういう事。あとは、紅魔館の防衛上の問題もあるけれど……まぁ、これはどうにかなるわね。解呪は一瞬で終わるから、咲夜にここへ連れて来て貰えば問題ないわ。というか、霊夢辺りが潰しに来ない限り、美鈴を越える事すら出来ないでしょうけれど」
「ウチの門番は優秀だからね」
 まぁ、今頃くしゃみでもしていそうだけど。そんな風に思いながら、私はどうしようかと考えていく。
 と、考え始めて気付いた。この瞬間、一瞬でも『人間になっても良いや』と思っている時点で、自分はかなり変わったんだな、と。
 以前のレミリア・スカーレットならば、試しに人間になってみても良いかな、などと一瞬でも思う事は無かっただろう。だからパチュリーもその魔道書を仕舞いこんでいたに違いない。
 でも、今は違う。妖怪が人間を襲い、人間が妖怪を討伐する、という状況自体が形式的なものに変化してしまっている今の幻想郷において、そういったプライドに囚われている必要は無いだろうと気付いているからだ。
 だから、
「試しにやってみるわ。遠出をするつもりは無いし、危険は無いだろうから」
 そう答えた私に、対する魔女は少し驚きを浮かべてから、すぐに柔らかく微笑んで、
「レミィも変わったわね」
「そうかしら――って、勘違いしないでよ? 私は別にプライドを捨てようと思っている訳じゃないわ。何事も経験してみないと、と思ったのよ」
 幻想郷にやって来てからの私は、霊夢を初めとした色んな存在と出逢って、戦って、そして視野が大きく拡がった。この幻想郷では、例え吸血鬼であろうと特別では無いと、この身を持って知ったのだ。それなのに「私ったら最強ね!」なんて思い込んでいるようでは、湖にいる妖精と変わらない。

 という事で、私、レミリア・スカーレットはちょっと人間になってみる事にしたのだった。






――――――――――――――――――――――――――――
次へ

  

――――――――――――――――――――――――――――
目次

top