『Alice』

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 私と霧雨・魔理沙とを繋ぐのは、友情とはまた少し違った、腐れ縁と呼ばれるもの。そんな事を思う。決して仲良しではないし、しかし知り合いという言葉で片付けるには少々互いを知り過ぎている。かといってライバルという程でもない以上――腐れ縁、なのだろうと思うのだ。
 そしてそれは彼女だけに留まらない話でもあった。あの日魔界で出逢った者達とは、望む望まざるに拘らず何らかの形で再会を果たしている。恐らくあの瞬間から私と彼女達は見えない糸で繋がれていたのだろう。
 だからそれが切れてしまいそうになった瞬間、私は手を伸ばさずにはいられなかった。
「魔理沙!」
 瓦礫を頭に受けた魔法使いが箒から落下する。脳震盪でも起こしたのだろうか、その体はぐったりと弛緩して動かない。
 柔らかな金髪が風に踊る。あと少しでそれを抱きかかえてあげられるのに、その数センチにも満たない距離が果てしなく遠い。
 制止の声が聞こえる。でも、無意識に動き出した体はもう理性では止められない。
 奇妙な程ゆっくりに感じる時間の中、地面が、迫って――

■ 

 ――目を覚ますと、一人仰向けで横たわっていた。周囲には誰も居らず、停滞した冷たい空気だけが私を包む。上半身を起こし、近くに転がった人形達を回収していると、自分の行為が猛烈に恥ずかしくなってきた。
「……何やってるんだろう、私」
 溜め息と共に顔を覆う。多分真っ赤になっているのだろう頬は熱くて、冷えてしまった手が妙に気持ち良かった。
 ああ、本当に何をやっているんだろう。旅は道連れだとか訳の解らない事を言って私を引っ張り出した魔理沙に付いて来てしまったのが、そもそもの間違いだったのかもしれない。
 思い出す。
 旅の目的は妖怪退治だった。場所は山の麓にある小さな谷で、そこには清流が流れていた。
 魔理沙曰く、この川の水はとても綺麗で、生活用水として人間達の暮らしに欠かせないものなのだそうだ。しかし最近になって、この場所で何かをやっている妖怪が現れた。ただの休息ならまだしも何か悪さを企んでいるとなると大問題になる。話を聞いて、もし悪巧みを考えているようなら退治してくれ、とまぁそう頼まれたらしい。
 一体誰に、とまでは聞かなかったけれど、恐らくは酒屋にだろう。あれは上質な水や米を必要とする商売だし……それに、最近良い日本酒が手に入ったと魔理沙が騒いでいたから、恐らくそうに違いない。
 そうして私達はこの場所へとやって来て、件の妖怪を探し始め――そこで遭遇したのが、妖艶に笑う八雲・紫だった。
 どうやらこの場所で何かやっている妖怪とは彼女の事らしい。「何をやっていたんだ?」と問い詰める魔理沙に、紫は珍しく少し困ったように微笑んで、
「この場所は結界が維持し難い場所なのよ。だから、定期的に見て廻らないといけないの」
 幻想郷には、そういった場所――つまり、博麗大結界が本来の強度を保つ事が出来ない場所がいくつか存在するのだという。それは外界の影響や土地の霊力・魔力に依存するらしく、紫の力を持ってしても完全に除去する事は出来ないらしい。
「まぁ、本来ならこれは、巫女である霊夢の役目なんだけどね」
 毎日のんびりまったりお茶を飲んでばかりいる霊夢だけれど、そういった仕事もあったようだ。
 でも、最近の霊夢はお茶ばかり飲んでいられない状況にあった。神社に山の神様の分社が出来た事で人間の参拝客が現れ始め、彼等を相手にした本来の神社らしい行い――例えば札を売ったり、御神籤を売ったり、お祓いをしたり、などという事を行わざるを得なくなった。大繁盛とまではいかないものの、それは霊夢にとっては慣れない事で、思わぬ時間を取られていた。
「その間に何かあっては大変。だから私が見回りをしていたのよ。まぁ、てんやわんやになってる霊夢は珍しいから、このまま放っておくのも面白いんだけど……もし何かあったら私が怒られてしまうから」
 そう言って紫が苦笑する。それは、世話の焼ける妹の話をする姉の表情にも見えた。
 まぁ、見えただけで多分気のせいだろう。それよりも重要なのは、これが事件でも何でもなかったという事だ。
 骨は折っていないけれど、無駄な移動でくたびれたのは確か。でも、戦闘にならずに済んだのだから良しとしよう。そう思いながら帰ろうとする私を他所に、一歩前に立った白黒は何故か楽しそうに、
「だが、形式の上だ。ちょっくらオシオキさせてもらうぜ」
「そう? じゃあ、私もオシオキし直してあげるわ」
 そう言葉を交わして、魔理沙と紫が意気揚々と臨戦態勢に入っていく。どうやらこのまま帰るつもりでいたのは私だけだったらしい。
 谷の間を冷たい風が吹きぬけていく。思わず「寒いのに元気ねぇ……」と呟くと、二人の視線が同時に私を貫いた。
 嫌な予感がする。
「まさか……私も?」
「「アリスも」」
「……聞くんじゃなかったわ」
 そうして弾幕ごっことなった。
 久しぶりに戦った八雲・紫の力はやっぱり強く、それでも二対一という状況では彼女を押す事が出来た。
 そんな中、無数に飛び交っていた弾幕の一つが私達の背後にある岩壁を崩した。前方から放たれる弾幕に意識を取られていた私達は対処が遅れ、体に瓦礫を受けてしまった。そして運悪く、魔理沙は頭にそれを受けてしまったのだ。
 気が動転した私は落下する魔理沙へと手を伸ばした。無意識に、自分でも恥ずかしくなるくらいに焦りながら。でも、この場所には紫が居たのだ。私が行動を起こさずとも、魔理沙は確実に助かっただろう。
 けれど、この体は動いてしまった。
 魔理沙を抱き止めようとした私は、あと数センチという距離を詰める事が出来なかった。そして彼女の体が地面に衝突する瞬間、私は魔理沙へと魔法を放った。その落下軌道を無理矢理にずらして衝撃を緩和させようとしたのだ。途中で紫の制止が聞こえていたけれど、止められなかった。
 そして、魔法が発動する瞬間、紫がスキマを開いた。地面へとダイブしていた魔理沙は、まるで落とし穴に落ちるかのようにその中へ吸い込まれて行き、彼女へと向かって加速していた私もその中へと突っ込んだ。その時点で魔法の発動を取り消す事は出来なかったから、スキマの中で派手にぶちまけてしまったに違いない。もしかすると、この場に一人残されたのはそれに対するささやかな嫌がらせかもしれない。
 とはいえ、妖怪である彼女をそこまで信じて良いものだろうか? なんて今更な事を考えて、自分自身で否定する。何せ相手はあの八雲・紫なのだ。彼女が魔理沙を助けようとしていた以上、それは確実に成功する。
 何故ならば彼女はそういう存在だから。森羅万象有象無象、ありとあらゆるものに境界を見出す八雲・紫という妖怪に不可能は無い。そう、式というプログラムを操る彼女にとって、世界は全て数式で表す事が出来る。そして発生した全ての事象に対し適切な答えを一瞬で計算し算出し、それに見合った行動を自己に化す。それは誰かを助けようとする時も同様。相手の状況、自身の状況、周囲の状況、その全てを一瞬で把握し判断し、適切で万全なプロセスで救出の手段を実行する。彼女はその答えを迷わない。躊躇わない。後悔しない。だからこそ彼女は大妖怪と成り得た。残酷な程に世界を判断する事が出来るから。『幻想郷は全てを受け入れる』なんて言葉は、その全てを許容し受諾し、そしてその上で迷わぬ答えを生み出す事が出来る彼女だから言える言葉。私は彼女が恐ろしい。だってこの言葉ですら、彼女が生み出した計算の上なのかもしれないのだから――なんて事を阿求が言っていた事を思い出す。だからまぁ、心配は要らなかったのだ。うん。
 しかし、制止の声が聞こえていたにも拘らず体は動いていた。それは目の前で見知った相手が大怪我をするかもしれない、という瞬間だったからで、それでもあの魔理沙相手にここまで純粋に体が動くとは思わなかった。
「……まぁ、もう付き合いも長いしね」
 相容れない事も多いけれど、決して嫌いではないのだ。
 だからこその、腐れ縁。馴れ馴れしくなく、かといって離れ過ぎない。この微妙な距離感が、一番心地良いのだと思う。
「――さて」
 立ち上がり、衣服に付いた汚れを払う。同じように人形達の汚れも落とし、ほつれた部分がないか確認して、いつものように周囲に配置。なんとなしに辺りを確認してからその場を後にした。

 一瞬何かが気になったけれど、何が気になったのかは解らなかった。


1

 魔法の森にある自宅に戻る道すがら、魔理沙の様子を見に行く事にした。紫が助けに入っている以上、頭に受けた傷以外に外傷は無いと思うけれど、その傷の程度がどんなものかも解らないのだ。あの場に私一人が取り残されていたのには何か別の理由があるのかもしれないし、まだ楽観は出来ない。それに、背後でフォローをしていた私が彼女の怪我を止められなかった、という負い目もあった。
 歩き慣れた薄暗い森の中、軽い怪我だったら良いけれど、と思いながら歩を進め――不意に、強烈な違和感に襲われて足を止めた。
「…………」
 まるで騙し絵を見せられているようだ。目に入っている現実の違和感が強烈過ぎて、脳がそれを理解する事を拒んでいる感覚。一瞬にして何も考えられなくなる。
 何かが決定的におかしい。でも、その何かを瞬時に理解する事が出来ない。
 いや、理解する事は出来ているのだ。けど、それを納得する事が出来ない。
 それでも、呆然と声が出た。
「……嘘、でしょう?」
 誰かに確認するようなその呟きは、誰にも届かず消えていく。
 無い。
 無いのだ。
「……」
 霧雨邸が、無い。
 破壊されている訳でも、魔法で見えなくなっている訳でもない。
 私の正面に広がる土地は、まるで初めからそこに何もなかったかのように、人の手が入った形跡すら存在しない自然のままの姿を晒していた。
「なによ、これ……」
 場所を間違えたかと、思わず周囲を見渡す。
 ここで間違いないと思うけれど、魔理沙の家が無いのなら、間違えてしまったという事なのだろうか。
 解らない。
 理解出来ない。
 誰か、教えてよ。
 そのままゆっくりと歩き出し、行っては返し、行っては返し……ぐるぐると、何も考えられない頭で歩数だけを重ねていく。
 けれど、そんなミスを犯す訳がなかった。この森が昼夜問わず暗いといえど、一軒の屋敷を見逃すほど複雑ではないのだ。
「……」
 恐る恐る、霧雨邸の玄関があった筈の場所へと近付いていく。真っ白になった頭は、突然襲い掛かってきた現実を理解するどころか、ここには何も無いという事実を受け入れようとしない。あと一歩踏み出せば全てが元通りになるような気がして、そうっとそうっと一歩を踏み出し――何も変化が起こらず、今度こそと期待を籠めて、もう一歩を踏み出す。
 そうして、一歩、一歩、本来なら廊下があった筈の場所を、叫び出したい程の恐怖を感じながら歩いていく。
「……」
 理解したくないと叫ぶ自分が居る。でも、魔法使いとしての自分が、この場所には何も無いと酷く冷静な声で告げてくる。
 そう、この場所には何も無い。魔法で何かを偽造した形跡もなければ、私本人が錯覚を起こしている可能性も無い。これでも私は魔法使いであり、だからこそ自分の観測するものに間違いはないと断言が出来る。
 それでも、狐につままれたにしてもタチが悪いこの状況を理性が認めたがらない。呆然と歩き続けて、ここ何十年と踏まれる事が無かったのだろう柔らかな土と雑草を踏み固めていく。
 何がどうなっているのだろう。
 魔理沙はどこへ消えてしまったのだろう。
「……まり、さ?」
 問い掛ければ答えがあるような気がして、小さく呟く。
 けれど、答えは返ってこない。
 あの太い木々の間から、「驚いたか?」なんて笑う魔理沙の登場を待っているのに、いつまでたっても彼女は出てこない。
 怖い。
 心地良くもあった森の静寂が、今はとても恐ろしい。
 冷えた空気が世界を満たす。寒くてたまらない。何がどうなっているのか解らなくて、それでも足を止める事が出来ない。
 そうして同じ場所をぐるぐると回り続け、不意にある事を思い出した。
 視野に入った人形の一体。その体に使用した布は、ある店で購入したものだった。それは魔理沙や霊夢が良く利用している、やる気の無い古道具屋――
「香霖、堂……」
 その考えに至った瞬間、限界にまで高まっていた不安から逃げるように、私は香霖堂へと駆け出していた。
 薄暗い森を一直線に走る古びた道を人里方面へと駆け抜けていく。途中にある自宅に目もくれず、見えてきた店の扉を思い切り開け放った。
「こ、香霖堂さん!」
 勢い良く開けた扉が商品の一部へと激突し、激しい音を上げる。同時に何かが崩れたような気がしたけれど、それに意識を向けている余裕も無い。狭い店内に積み上げられた商品に体がぶつかる事すら厭わずに奥へと進んだ。
 そうして辿り着いた店の奥には、いつものように椅子に腰掛ける森近・霖之助の姿。そして、その隣に当たり前のように腰掛けている影があった。
 瞬間、思考が止まる。
 それは予想外の姿で、私は心に浮かんだ言葉をそのまま口に出してしまっていた。
「……なんで、貴女がここに」
 呟いた声は絶対零度。叫び出さなかっただけ上出来だ。走ってきた事で生まれた熱が急速に冷えていくのが解る。それは理解不能な現実へと向けて放つ無意識の言葉だった。
 でも、 
「ん? どうしたんだいアリス?」
 彼女はそんな私の様子に気付かず、当たり前のような微笑みを浮かべてきた。
 それはどこか魔理沙の笑みに似て――いや、逆か。魔理沙が彼女の笑みを真似するようになったのだろう。霧雨・魔理沙は、彼女を師事していたらしいから。
 魅魔。
 サファイアブルーのドレスを纏い、魔理沙のそれと良く似た箒を持ったその美しい人は、過去に魔界で戦った彼女と瓜二つに見えた。
 でも、目の前に居る女性と、私の記憶に残っている彼女とでは決定的に違う部位があった。それは脚だ。今の彼女には、しっかりと地面を踏みしめる足がある。更にその表情は生き生きとしていて、かつて博麗神社の祟り神として存在していた悪霊のそれではなかった。
 一体何がどうなっているのか。
 どうにか平素を装ってみるものの、内心の動揺を抑える事など出来ない。
 解らない事が多過ぎて、何が正常なのか、何が異常なのかの判断が付かなくなっている。不味い。取り敢えずこの場を離れて冷静にならないといけない。と、そう考えた所で、店主が私へと心配げに、
「慌ててやって来たように見えたけれど、何かあったのかい?」
「あ、えっと、その……」
 そうだ、魅魔らしき人物が居た事で思考停止に陥ってしまったけれど、そもそも私は霧雨邸が消失してしまっていた理由を確認しに来たのだ。
 どうにか心と体を落ち着かせてから、
「私も上手く理解出来ていないんだけど……実は、森にあった筈の霧雨邸が無くなっているの。壊されていたとかじゃなくて、元から建っていなかったみたいな感じで……」
「……霧雨邸?」
 私の言葉に、店主が何故か不思議そうに繰り返し、
「それは霧雨家が立てた屋敷という事かい?」
「ええ、その筈だけど……」
 何か妙だ。
 何か変だ。
 凄く、嫌な予感がする。
 そう思う私へと、彼は耳を疑うような一言を口にした。
「残念だけど、魔法の森に霧雨家が建てた屋敷なんて存在しない。……アリス、キミは一体何を見たんだい?」
「――なん、ですって?」
 聞くんじゃなかった、なんていうレベルじゃ済まされない返答に、思わず返す声が硬くなった。
 彼はそんな私へ言い聞かせるように、
「前に言ったかもしれないけれど、僕はあの家で修行を積んでいたからね。だから、間違いないよ」
「……」
 店主の、森近・霖之助の言う言葉の意味が解らない。
 解らないけれど、でも、嫌な想像が脳裏に浮かんだ。

 もしかして、この世界には霧雨・魔理沙という人間が存在していないのだろうか。 
 
 魔理沙。霧雨・魔理沙。この香霖堂へと良く足を運んでいた魔法使い。人間で、女の子で、金髪で、ちょっと言葉遣いが男っぽくて、それでもスペルカードに恋符なんて付けてしまうようなヤツで。黒いドレスに白いエプロン、リボンを付けた帽子を被り、空を駆るその姿は一度見たら忘れられないくらいに輝いていて。その上誰が相手でも怖気づかないようなヤツで、平気で弾幕ごっこを挑んできて。馬鹿みたいな火力を持ってる癖に他人の技を盗んで、それを自分の力とする為に影で頑張る努力家で。それなのに人の話を聞かないし、自分勝手だし、盗んだ物を返さないし――でも、誰よりも真っ直ぐで。どう考えたってウザいだけなのに、居なかったら居なかったで不安にさせるような不思議な魅力があって。
 そんな彼女が、存在していないのではないだろうか。
 だから彼女の屋敷が無くて――その代わりと言わんばかりに、魅魔が現れたのだろうか。
 そんな馬鹿な。
「そんな馬鹿な」
 取り乱してはいけない。
 叫び出してはいけない。
 そんな事は解っているから、呟いた声は酷く冷たかった。
「じゃあ、魔理沙は何処に居るのよ」
 と、その言葉を放ってから、自分が馬鹿な質問をしてしまったと後悔した。それを聞いてしまったら、この状況で最も聞きたくない言葉が返ってくるかもしれないのだ。今の言葉を取り消したくなった。
 でも、一度放ってしまった言葉は、もう誰にも止める事は出来なくて。
「魔理沙?」
 不思議そうに、店主が、森近・霖之助が聞き返してくる。
 恐らくは生まれる以前から魔理沙を知っていて、そして誰よりも魔理沙の身近に居ただろう彼が聞き返して来る。
 駄目だ。
 駄目だ駄目だ駄目だ。
 お願いだからもうこれ以上何も言わないで。
 そんな風に不思議そうな顔をしないで。
 そう、強く強く願うのに、
   
「それは一体、誰の事だい?」

 もう、嫌だ。




 気付くと、外に居た。
 どんな言葉を告げて香霖堂を出たのか良く思い出せない。でも、異常に動転していたのは確かで、むしろ無事に店外へと出る事が出来た自分を褒めたくなった。
 大きく深呼吸を繰り返して、冷たい空気を肺に満たし、重く積もった不安を少しずつ外へと吐き出していく。
「……ん」
 本調子には程遠いものの、少しは落ち着いた。これならある程度は冷静な思考が出来るだろう。私はそのまま自宅へと歩きながら、この状況についての考えを纏める事にした。
 ――さて。
 見知った人間が一人、その存在から何から全て消滅していた。その異常で奇怪な事実を今更ながらに受け止める。そして、思考する。
 まず、前提として、霧雨・魔理沙という人間の存在は否定しない。彼女を否定する事は、今の私を――魔界での戦いや、あの永夜事変などを経て成長したアリス・マーガトロイドという魔法使いを否定する事になるからだ。
 それを踏まえた上で、この世界に魔理沙が存在しないという事実を受け入れなければならない。幻想郷中を探し回った訳ではない以上まだ断言は出来ないけれど、霧雨邸が存在せず、霧雨家で修行していた森近・霖之助が彼女の事を知らなかった。恐らくこれ以上の証拠はないだろう。
 彼が嘘を吐いている可能性もあるけれど、私相手にそんな嘘を吐く理由が無い上に、あの男はそういった嘘を好まないだろうという勝手な憶測が――いや、勝手な期待があった。せめて彼だけは、と。
 ……絶望が心を蝕んでいくのが良く解る。あの二人の関係は家族に似たものだと勝手に思っていたから、その分反動が大きい。でも、提示された答えは受け止めなければ。そしてその上で、霧雨・魔理沙という存在が消えてしまった理由を考えていかなければ。
「……でも、なんで魔理沙が消えてしまったんだろう」 
 状況から見れば、八雲・紫が何かをした可能性が一番高いのだろうけれど……彼女がそんな事をする理由が見当たらない。もし私の知らない所で紫と魔理沙がいがみ合っていたとしても、何故私だけが魔理沙の事を覚えているのだろう。その理由が解らない。
 では、もし八雲・紫が関わっていないとしたら、一体誰に、何の目的で彼女は消されたのだろう。
 いや、そもそも、一人の人間が存在していたという記憶の全てが消え失せていたのだ。更には霧雨家の人間があの土地に屋敷を建てたという過去すら書き変わっていた。それは最早異変などというレベルを超えた歴史の変化だ。記憶の境界すら操る事が出来るのだろう紫以外に、そんな事が出来る存在なんて――一人、居たか。
 上白沢・慧音。
 でも、
「……まぁ、それは無いわね」
 小さく首を振る。彼女が歴史を喰らい、創りだす力を持っているとしても、例えば稗田の一族が管理する歴史のように、その能力の干渉を逃れる場所が確実に存在している。霧雨・魔理沙という人間の影響力は結構大きいし、こんな変化が起きれば確実に誰かが気付くだろう。
 それに、ここまで世界が変化するような歴史改竄をあの慧音が行う筈が無い。もしそんな事を考えるような危険人物なら里の守護者などやっていられないだろう。例え里の人々を上手く騙していたとしても、霊夢の勘がそれを嗅ぎ付けない筈が無い。あれでも彼女は幻想郷の規律である博麗の巫女なのだから。今まで数多くの異変を解決してきたあの『勘』を侮る事は出来ない。
 まぁ、もし犯人が慧音だったとしても、私の記憶に変化が無い理由は解らないままなのだけれど。
 そんな風に考えていって、ふと、香霖堂に居たあの女性の事を思い出す。
「魅魔、か」
 魅魔。過去に戦った悪霊の名前。
 でも、香霖堂で出逢ったあの女性が本当に魅魔だったのか、冷静になった今では断言出来ない。
 その姿が似ているように感じたから彼女を魅魔だと思ったけれど、そもそも私は魅魔という悪霊と親しい訳ではない。彼女とは数回しか逢った事がなく、後は魔理沙から話を聞くぐらいだった。だから彼女が本当に魅魔だったのかは解らない。
 でも、今から確認に戻る勇気も無かった。魔理沙が消えてしまった謎を解明した後、店主にでも聞けば良いだろう。
 とはいえ、この状況を打破する方法がさっぱり解らない上に、解決の糸口も見当たらない。
「参ったわね……」
 ただ魔理沙が消えてしまっただけだというのなら、色々と推理は出来るのに。妖怪が跋扈するこの幻想郷という世界で、一人の人間が消えるのはそうそう珍しい事ではないのだから。昔に比べて減ったらしいけれど、今でもそういった事は――って、ちょっと待て。
 幻想郷という世界。
 幻想郷という世界から魔理沙が消えた。
 魔理沙が消えた世界。
 世界から消えた魔理沙。
 世界から。
 世界。
 世界?
「……」

 もしかして、謎も何も無く、ただ単純に……ここは魔理沙が存在していない世界、なのだろうか。

「まさか」
 馬鹿馬鹿しい仮定だ。
 でも、そう考えれば魔理沙が消え、更には霧雨邸すら存在していない事への説明が付く気がする――というか、例え極端な仮定でも、何かしらの理由付けをしないと再び心が恐怖に喰われてしまいそうで恐かった。
 だから取り敢えず、何も解らない今の内は、ここが他世界だと考えて行動する事にしよう。もし違ったらその時はその時。何事も臨機応変に、だ。
 では考えよう。
 まず、この世界に迷い込んでしまった原因は、紫のスキマで間違いないだろう。でも、流石にその出口がこの世界だったとは考えられない。恐らく、スキマに飲み込まれた瞬間に放った私の魔法が元の世界とこの世界との境界を歪ませ、スキマの出口をこの世界に繋げてしまったのだろう。
 一魔法使いである私の力で紫の能力を狂わせる事が出来るとは思えないけれど、あの時は緊急時だった。向こうも咄嗟だっただろうし、少しぐらいは可能性があるかもしれない。それに、彼女と戦った場所は結界が不安定になるような所だった。そこに溢れる魔力や霊力が何らかの影響を与えた可能性もあるだろう。
 ……まぁ、仮定でしかないけれど。
 でも、その仮定で話を進める以上、ある問題が発生する。
 それは、この世界にも『アリス』が存在しているという事実だ。霖之助達が『アリス』を知っていた以上、これは間違いない。それに、彼等は私を相手にしても動揺が無く、衣服や髪型に関する質問も無かった。つまり、この世界に存在している『アリス』は私と似た存在なのだろうと想像出来た。
 出来たのは良いけれど……それは少々面倒な状況になってしまった事を意味する。
 この世界にも『アリス』が存在しているという事は、つまり、私――アリス・マーガトロイドの行動を怪しむ人物が現れる確率が高くなるのだ。その場合、私は『アリス』の偽者として扱われ、下手をすれば霊夢辺りに追われる可能性も出てきてしまうだろう。
 この世界の『アリス』がどんな少女に育っているのかは解らないけれど、霧雨・魔理沙という魔法使いが存在していないと思われる以上、あの日魔界で起こった戦いの内容は確実に変化している筈。もしかしたらこの世界の『アリス』はただの人間のままで、魔法使いですらないかもしれない。そうなれば『アリス』は究極の魔道書を持ち出してリベンジを果たそうとし、負けてしまう事も無いのだ。その場合、無様に敗北した私の行動理念と『アリス』の行動理念は確実に違ったものになっているだろう。
「嫌になるわね……」
 思わず溜め息が出る。自分とは違う可能性を歩んでいる相手を恨む気にはなれないけれど、釈然としないのは確かだ。もし『アリス』と出逢う機会があったとしても、恐らく打ち解ける事は出来ないだろう。
 とはいえ、例え相手が誰であろうと、私は他者に助けを求めるつもりは無かった。
 当然、不安は多い。迷いも多い。混乱も多い。そしてそれ以上に、私の事を誰も知らないという状況がとても怖く、恐ろしい。
 でも、それでも、
「『私』なら、こんな程度の状況、自分で解決してみせるもの」
 そうだ。
 どれだけ不安でも、迷っても、混乱していても――そしてそれ以上に強く恐怖を感じていても、こんな状況、すぐに打破してみせる。
 あの日から、私はずっと一人で頑張ってきたのだから。

 そう意気込んで、私は強く歩き出し――見えてきた自宅が廃墟だった時、思わずその場に崩れ落ちた。


2
 
 妙に重たい体で人里まで辿り着いた時、『隠れて行動する』なんて言葉は脳裏に浮かばなかった。渇いた笑みを浮かべながら、少しだけ店の配置が違う里の中をゆっくりと歩いていく。
 すると、周囲の人々から奇異の目を向けられている事に気付いた。……目が合った子供が逃げていく。私は幽霊か何かか。
 流石にこのままでは不味い。曲がっていた背を気力で伸ばし、笑顔を浮かべる。……目が合った子供が涙を浮かべて逃げていく。私は妖怪か何かか。
 って、そういえば妖怪だった。 
 とはいえ、顔を見ただけで泣かれたり逃げられたりなんて事は経験したくなかった。恐らく、相当にヤバイ顔を晒しているのだろう。私は少し早足で里の中心部へと向かい、逃げるようにカフェへと入った。
 見た事の無い店員に珈琲を頼み、棚に入れられた新聞を数部手にとって奥の席へ。運が良いのか悪いのか、店内には誰も居なかった。
 席に着き、小さく流れるBGMをぼんやり聞いていると、「ごゆっくり」という言葉と共に珈琲が運ばれて来た。……その声とカップが少し震えていたのは気のせいだと思おう。
 湯気を上げる黒い液体を一口。熱く舌を焼きそうなそれが空っぽの胃に染み込んでいく。
「……はぁ」
 なんかもう本当に嫌になってきた。自宅に誰か別の人物が住んでいる可能性は予測していたけれど、完全に廃墟と化していたのは流石に心に来た。ここを別世界だと定義したとしても、それを納得出来ているかと言われれば別問題だ。霧雨邸が無かった時と同じように、今度は私、アリス・マーガトロイドという存在を否定されてしまったかのようで、どうしようもない絶望を感じるのを止められなかった。
「……はぁ」
 溜め息が止まらない。
 自宅が人の住める状況だったならまだ良かった。しかし、実際にはかなり良い感じに半壊していて、夜には自然のプラネタリウムでも眺められそうな状況だった。それを片付けてでも家で休もうとする気力は湧かず、私は里へとやって来たという訳だ。
 私以外にも『アリス』が存在している以上、これが自分の立場を危なくする行為だと理解しているけれど、一度休まないとやってられない。弱音を吐かずにいこうにも、これ以上はちょっと無理だった。
 ぼけっと外を眺めつつ、珈琲を飲む。ブラックのまま半分程楽しんだ所で、角砂糖数個とミルクを投入。黒と白が混ざり合って行く所をゆっくり眺め――スプーンで数回掻き混ぜ。
 一気に飲んだ。
 溶け残った砂糖を噛んで飲み干して、小さく気合を入れる。疲れた顔を晒すのはここまでだ。
「――読むか」
 カップを隣のテーブルへと置いて、新聞を広げる。これからどう動くにしろ、まずはこの世界についての情報を手に入れなくては。
 ゆっくりと、文字を読み進める。
 新聞の内容は普段読んでいるそれと変わっていないように見えた。どうやらこの世界と元居た世界では、そこまで大きな違いは生まれていないらしい。
 記事の内容も、プリズムリバー三姉妹のライブ情報や、ミスティアの屋台の商品が増えたというものや、幽香などのインタビューなど、普段目にしているとそれと殆ど変わりが無かった。
 同時に、そこには見知った名前が少なからず存在していて、それが自分の知っている彼女達では無いと解っているのに、なぜかほっとした。
 そうして新聞をチェックしていき、ふと、何か違和感を感じた。
 確実に目に入っているはずなのに、何か見落としているような、そんな違和感。まるで一瞬前に見ていた夢の内容を思い出せないかのようで、もどかしい。
 一体何なのだろう。私は何を見落としているんだろうか。
 見終わった新聞を再び読み直し、その違和感をどうにか掴もうとして――視界の端、カフェの窓越しに見える里の風景の中に、メイド服の女性が見えた。
「――ッ」
 瞬間、掴めなかった違和感の正体に辿り着く。どうして気付かなかったのか解らない程、気付いてみれば納得出来る答え。
 もう見えなくなってしまった女性の姿を脳裏に思い浮かべながら、新聞をたたみ、
「……何にせよ、確認が先ね」
 人形へと小さく呟いて、席を立つ。
 百聞は一見に如かず。その一見も、文字情報だけでは全体像を掴めない。何せここは見知らぬ世界。私の知る幻想郷ではないのだから。
 


 向かった先には、紅くない屋敷が建っていた。
「……夢幻館、か」
 それは風見・幽香を館主とする屋敷。元居た世界では現在も存在しているのか解らない巨大な屋敷。新聞で取り上げられていたし、間違いはないだろう。
 先程感じた違和感の正体は、新聞に――あの文々。新聞に紅魔館の記事が存在していなかった事だった。他の記事を読む限り、この世界に存在する射命丸・文と私の知る文に殆ど違いは無いように思える。だからこそ、その両者が作る新聞に違いが無かったからこそ、普段当たり前に目にしている紅魔館の記事が存在していなかった事に違和感を感じたのだ。
 ここを異世界だと定義した以上、そういった錯覚は危険を伴う可能性が高い。そう自身を戒め直す。
 けれど、視線の先に建つ屋敷はその錯覚すら起こりそうになかった。
 その大きな原因は、夢幻館と紅魔館の建つ位置の違いだ。双方の位置はかなり離れていて、本来あるべき場所にあるべき物が無いというのは強い違和感を感じさせた。
 まぁ、もし紅魔館が存在していたとしても、立ち寄る事は無かったけれど。例えレミリア達が『アリス』を知っていたとしても、私は彼女達を知らないのだから。
 とはいえ、この幻想郷に紅魔館が――レミリア達が存在しないという事実が、にわかには信じられない。彼女達のような存在が、この幻想郷へと引き寄せられていないなんて。
 でも、現に幻想郷にやって来ていないという事は……もしや、彼女達は外の世界で討伐されてしまったのだろうか。
「……考えたくないわね」
 あの傍若無人でお子様で、それでいて誰をも魅了してしまうカリスマを持つ吸血鬼がそう簡単に討伐される訳が無い。恐らくはまだ外の世界で、幻想郷に導かれずひっそりと暮らしているに違いない。
 そうでないなら、そもそもこの世界に存在していないでほしい。奇妙な願いだけれど――例えここが他世界だとしても――見知った者達が死んでしまっていると考えるのは気持ちの良いものではないから。
 だから、霧雨・魔理沙もそもそも生まれていないのだと思いたい。
「確かめる勇気も無いけど……」
 小さく呟く。
 そう、確かめる事は出来る。里にある霧雨家へと赴いて問い質せは良いだけだ。そこへ直接尋ねる事は出来なくても、周囲の住民から話を聞く事は出来る。香霖堂の店主は『魔理沙』を知らないと言っていたけれど、もしかしたら違う名前を持って生まれている可能性だってあるのだから。
 けれどそれは、魔界で出逢ったあの日から、決して短くない時間を共有してきた魔理沙とは違う少女の情報だ。紅魔館の住民達と同じように、この世界の彼女が『アリス』を知っていようと、私はその少女の事を知らないのだ。
「……独りぼっち、か」
 思わず呟いた声は、誰に聞かれる事無く消えていく。自分で思っている以上に、私は参っているのかもしれない。 
 
 だから、だろうか。
 どこへ向かうつもりは無かったのに、足は博麗神社へと向かっていた。
 


 神社に巫女が居た。
「……なにぼさっと突っ立ってるの?」
 博麗の巫女が居る。
 でも彼女が『霊夢』なのか、私には解らない。
 目の前に立つ少女は掃き掃除の途中だったのか、箒を手にした姿で私へと視線を向けている。しかし、その服装は見慣れぬ巫女服なのだ。いや、解りやすく言うなら、腋が出ていない。白衣に緋袴を穿いたその姿は、初めて霊夢と相対した時の格好に似ている。しかし、この世界で『アリス』と彼女が戦っているのか解らない以上、迂闊な事は言わない方が良いだろう。
 怪訝そうな顔をする巫女へ「なんでもないわ」と誤魔化しつつ境内を進み、その奥へと。止められるのではないかと不安が高まったけれど、しかし巫女は気にしていないのか、そもそも関心が無いのか、私には何も言わずに掃き掃除へと戻っていた。
 少し淋しさを感じるのは、積み重ねた月日の違いがあるからか。
 そんな風に思いながら歩いて行き、見えてきた神社の奥。
「……あった」
 魔界へと繋がる洞窟は、封印される事無くその口を開いていた。
 瞬間、過去の記憶が蘇る。
 それはもう五年以上前の話。故郷へと戻る手段を失ってしまった小さなアリスのお話。
 胸が締め付けられるようで、それなのに何かが爆発してしまいそうな程熱い。最早二度と見る事は無いと諦めていたその闇に誘われるように、足はゆっくりと前へ進んでいった。
 幻想郷と魔界とを繋ぐ通路――魔空間と呼ばれるこの場所は、まるで沈み込んで行きそうなほど深い闇が拡がっていて、幽霊達の住処にもなっていた。それはこの世界でも同じなのか、闇の中に幽かな気配を感じつつも、しかし敵意を向けられる事は無かった。それは私が『アリス』だと思われているからなのか、それとも外からの住民に対してオープンなだけなのかは解らない。解らないけれど、少しだけ安堵している自分が居た。
 魔法使いと成った今ではこの程度の闇で視力を失う事は無いけれど、まだ人間だった頃はこの闇を恐ろしく感じた。そんな古い記憶を思い出しながら、懐かしむように周囲に向けていた視線を戻し――息を呑んだ。
 前方に、里で見たメイド服姿の女性が居たのだ。あれから何か買い物をしたのか手には二つの袋を提げ、私の存在に気付かず進んでいく。
 深い深い闇の中、黒に喰われる事無く、まるで自己主張するかのように映える赤色のメイド服が進んでいく。
 鮮やかで、艶やかな、赤。
 瞬間、
「――ッ、ぁ」
 感情をコントロールするスイッチが壊れたんじゃないかと思う程に様々な感情が渦巻き、混ざり合い、消える事無く増え続け、溢れそうになる。それが爆発しないように必死に耐えて、駆け出してしまいそうになる足を無理矢理抑えた。
『アリス』が魔法の森に住居を構えていなかった時点で、魔界への入り口が開かれている可能性があるのではないかという考えはあった。もし魔界での戦いが起こっていないのであれば、『アリス』が魔界を出る理由は無いのだから。
 そして里で赤色のメイド服を見た時、確信した。あの時は紅魔館の事を考えて意識を逸らしたけれど、今はそうはいかない。このまま進めば魔界に着くという誘惑は何よりも強く私を惑わし、冷静で居なければという思考と判断能力を失わせ、ここが別世界なのだという事実から目を逸らさせる。
 この先へ進めば、失ってしまった故郷を取り戻せるのではないか。そんな幻想が心を急速に蝕んでいく。
 一人で何とかしてやると、徹頭徹尾を誓った筈の気持ちが揺らいでいく。
「――でも、駄目」
 私と彼女達は赤の他人。それを忘れてしまう訳にはいかない。辛かろうが悲しかろうが、それは揺るぎのない事実だ。これ以上先に進む事は、自分の首を絞めるだけでしかない。
 それに、魔界の空気に少しでも触れる事が出来たのだ。それだけでも十分過ぎる。
「……」
 だから引き返そうと思うのに、どうしてか足を止める事が出来ない。駆け出さないようにしながら、それでも体は前へと進んでいく。周囲の闇がその深さを薄れさている事から、もう魔界へ入っていると気付いているのに。
 思考と行動が一致しない。止められるのに止まらない。そんな状況に妙な不安が高まってきて――不意に、全身が冷気に包まれた。
「ッ?!」
 突然のそれに冷静な反応を返す事が出来ず、思わず口から悲鳴が漏れる。同時に自分の悲鳴に自分で驚いて、慌てて周囲を確認。こちらを嘲笑うかのように遠ざかっていく幽霊の姿を見つけた。恐らくあの幽霊が私の体をすり抜けたのだろう。ただでさえ冷えているというのに、幽霊に触れられれば心臓も止まりそうになる。思わず我を忘れ、人形で斬り付けようとして――
「……アリス?」
 懐かしい声が、聞こえて来た。ゆっくりと視線を戻すと、メイド服の女性が足を止めていた。
 射抜かれたように動けなくなってしまった私へと向かい、その姿が少しずつ近付いて来る。これ以上ここに居ては駄目だと脳が激しく警鐘を鳴らしているのに、まるで大地に根を張ってしまったかのように、二本の足は動かない。
 手を伸ばせば届きそうな位置にまで来て、彼女の体が止まる。それが自分の知る存在ではないとしても――胸の中で暴れるこの熱い想いは、抗いようがない程に強かった。
「……夢子、さん」
 魔界人最強クラスの力を持ち、責任感が強く、そして私を妹のように可愛がってくれた人。
 なんでも相談する事が出来て、時に怒られる事もあった。でも、彼女はいつも私達に優しかった。
 嗚呼、今の私はどんな顔をしているだろう。思考も感情も滅茶苦茶で、嬉しいのか悲しいのか、それとも辛いのか、もう良く解らない。
 そんな私へと、夢子が不思議そうに、
「どうしてアリスがここに? 今日は部屋で魔法の勉強をしていると、そう言っていたのに」
 決心がぐらぐらと揺らいでいるのが解る。誰にも助けを求めないと誓ったのに、それを訂正したくなる。今すぐ彼女に抱きついて、泣き言を言ってしまいたくなる。
 でも、それは出来ないのだ。
 彼女にとっての『アリス』が自分ではないと、どれだけ感情が揺らいでも、それだけは理解しているから。
「ちょっと、ね」
 苦笑と共にそう呟いて、崩れそうになる体を必死に立たせて、なんでもない風を装って見せる。夢子が疑問符を浮かべたけれど、もうこれ以上の干渉をする事は出来ない。この世界にも『アリス』が居る事と確定した以上、この先に待つのは混乱と――苦しみだけだ。
 それでも、もしかしたら、なんて甘い事を考えてしまって、動かそうとする足に力が入らない。もしかしたら、こんな状況の私でも理解してくれるんじゃないだろうか、と。
 けれど、それは弱い心が生み出した幻想に過ぎない。現実はそんなに優しくなくて、だからこそ私は一人でこの状況を打破してみせると決めたのだ。
 そうだ。
 幻想郷で暮らし始めた時から、私は誰にも甘える事が出来なくなった。それなのに、今更助けを求める事なんて出来ない。
 だから、
「……少し外へ出てくるわ」
 そう夢子へと告げて、逃げるように背を向ける。もう限界だ。これ以上、ここに留まり続ける事は出来ない。
 夢子が何かを呟いたけれど、それを無視して歩き出す。こんな機会は二度とないと思っていたのだ。出来れば懐かしい魔界の風景をもう少し眺めていたかったけれど、諦めるしか――
 
 ――不意に、背後から声が聞こえた。

 それが誰のものなのか、確認しなくても解った。解ってしまったからこそ、私の体は幻想郷へと向けて駆け出していた。
 駄目だ。もう本当に駄目だ。振り向く事も立ち止まる事も出来ない。ただ何も考えず、ここから逃げ出すしかない。
 あの日、魔界に戻る事が出来ないと解った時、もう二度と逢えないと諦めたのだ。地獄の底に突き落とされたかのような絶望の中、何日も掛けて、その状況を受け入れた。故郷はもう戻らないのだと、そう自分に言い聞かせ続けた。そんな私がもう一度その空気に触れる事が出来たのだ。それだけで十分じゃないか。これ以上何も望まない。望めない。望んじゃいけない。しっかりと封じ込めた感情の鍵を開けてしまう訳にはいかないのだから。
 何重にも何重にも鍵をした。誰かに出生を問われても、魔理沙の家であの魔道書を見付けても、平静を保てるぐらいにまで厳重に。
 大げさかもしれないけれど、そこまでしなければ笑う事も出来なかった。生まれ育った故郷と、愛してくれた人々を全て失った悲しみは大き過ぎたから。
 もう一度それを味わうような事があったら、今度こそ私は立ち直れない。
 だからこそ、私は逃げるしかない。心が求める全ての感情を押し殺して、幻想郷へと逃げるしかない。
 もし彼女に捕まってしまったら、あっけなく鍵が壊れてしまう事は目に見えているから。
 それに――それ以上に恐ろしい。
 もし彼女の口から「貴女は誰」なんて言葉が出たら、もう立ち上がる事すら出来なくなってしまう。ここまで必死に耐えてきた心が砕けてしまう。例え他人だとしても、全く同じ顔で同じ声を持つ存在にそんな事を言われたら――
「っと、捕まえた」
「ッ?!」
 楽しそうな言葉と共に、背後から抱き締められた。全速力で走っていた筈なのに、一瞬で距離を詰められた事が理解出来ず、思考が止まる。
 それでもすぐに冷静さを取り戻し、背後から抱き締めて来た彼女を振り解こうと必死に足掻く。
 必死に、必死に――足掻かなければ、いけないのに、
「ッ、ぅ……」
 駄目、だ。
 出来、ない。
 どうやっても、体に力が入らない。
 段々と、逃がさないとばかりに強くなる抱擁に、頭が真っ白になっていく。何も、考えられなくなっていく。
 恐くてたまらない。それなのに、何も出来ない。
 暖かな体温と、懐かしい匂いに包まれる。
 何もかも見抜かれているのかもしれない。
 何もかも見抜かれていないのかもしれない。
 相手の心を読む魔法を知らない私には、その心の内は解らない。
「……ッ」
 思考が流れる。抵抗が途切れる。もう、逃げようとする意思が生まれない。
 嗚呼。自分自身に課した想いが、心の奥底に掛けていた鍵が、砕けてしまった。
 逃げ出そうとしていた体は完全に止まって、手は縋るように彼女の腕を掴んで、色んな感情が入り混じってぐちゃぐちゃになった頭からは言葉が出なくて、どうしようもなく流れ出す涙を止める事すら出来ない。
 解ってる。解っているのだ。
 彼女は私を、『アリス・マーガトロイド』を知らない。だからこの感情は全て偽者で、今すぐ逃げ出さなきゃいけないのに――

「おかえりなさい、アリスちゃん」

 ――もう、体は動かない。
 答える声は嗚咽に消えて、言葉にする事すら出来なかった。





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