『かみさま』

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 部屋の窓に取り付けたまだった風鈴が小さく揺れる。澄んだ音色が部屋に満ちて、遠く聞こえて来る工場の機械音と混ざり合って消えていく。
 微かな音色が響き続ける昼下がり。差し込んでくる陽光はとても暖かで、頬を撫でる風はとても優しい。
 小さく、風鈴が揺れる。
 ふと、ある事を思い付いて布団から起き上がると、私は机の引き出しからノートを取り出した。そして、軽く風鈴を扇ぐ。
 小さく、風鈴が揺れる。
 こんな簡単な事で風は生まれ、風鈴は揺れて、澄んだ透明な音色が響いていく。
 胸の奥が痛む。
「……馬鹿みたいだ」
 ノートを机の上へと放り投げて、再び布団の中へと潜る。
 小さく、風鈴が揺れる。
「……」
 自分の力に自信を持っていた。私は選ばれた人間なのだと思っていた。少なからずあの場所では、私は『かみさま』だった。
「……本当、馬鹿みたい」
 でも、違った。
 私は特別なんかじゃない。『かみさま』なんかじゃない。

 ただの、人間だったのだ。


1

 コップに注がれた酒を無理矢理飲まされて、数分もしない内に吐いた。
 周囲の者達は皆笑っていて、誰も心配などしてくれない。苦しい。気持ち悪い。助けを求めて視線を巡らせると、遥か遠くで楽しそうにしている神奈子の姿が見えて、私は開き掛けた口を閉じた。あんなに楽しそうな表情をしている彼女を見たのは、山での宴会が開かれるようになってからだった。だからこそ、何も言えなくなってしまった。
 宴会の中心から離れた所で吐けた事だけは幸運だったかな、などと暗い気持ちで思いながら、服のすそが汚れるのも構わずに口を拭う。もうこの場所に居続ける気も、体力も無い。しつこく絡んでくる河童や天狗達へとどうにか笑みで言葉を返して、私は逃げるように神社へと戻った。
 静かな、何も変わっていない神社に戻ってきた途端、涙が出た。
 ここ最近、こんな状態が毎日のように続いていている。何が楽しい宴会だ。あんなのは苦痛なだけじゃないか。
「……」
 だけど、文句は言えない。あの宴会のお蔭で神奈子への信仰は復活してきているし、神奈子自身への信頼も増している。恐らく私も、以前のように疎まれたりはしていないだろう。この状況は最も望むべきものだった。
 だから、何も言えない。幻想郷にまでやって来て、漸く事態が好転したのだ。私一人が感じている苦痛なんて黙って我慢していれば良いだけの事。それだけの事だ。
「……っ」
 止まりそうもない涙を拭い、しゃくり上げそうになるのを必死に耐えて歩き出す。離れの近くにある井戸で口を漱いで、冷たい水で何度も顔を洗ったら、少しだけ落ち着く事が出来た。
 自室へと戻って着替えを用意し、風呂場へ向かう。その道中、河童が再び使えるようにしてくれた給湯器が時たま異常な火力になる事を思い出し、落ち着いて風呂にすら入れないのかと思ったら、再び気分が沈み始めた。でも、だからって今更部屋に戻るのも惨め過ぎる。何もかも嫌になりながら歩いて行くと、風呂場の照明が灯っている事に気付いた。
「……誰か、居る?」
 私の立つ廊下と脱衣所を隔てるガラス戸。その曇りガラスの向こうに、何やら妙な存在感を発する物が見える気がする。しかし、薄暗い風呂場の明かりと、手に持った古びた懐中電灯の心許無い灯りではその違和感の正体を見定める事が出来ず、不安な気持ちが急激に高まっていく。ああもう、こんな事なら河童に照明を用意してもらえば良かった!
 最悪が二乗にも三乗にもなるのを感じながら、逃げ出したくなる気持ちを必死に抑え、震えそうになる足を無理矢理前に出して、ゆっくりと引き戸へ手を掛ける。震える指先に強く力を籠めて、勢い良くガラス戸を開いた。
 その先にあるモノが視界に飛び込んでくる前に、反射的に目を瞑り……しかし、何も起こらない。恐い。でも、確認しなければいけない。
 ゆっくりとゆっくりと、少しずつ目を開いて――見開かれた、巨大な二つの目玉と目が合った。
「ひッ!」
 予期せぬ存在に思わず悲鳴が漏れる。薄暗い中、二つの目玉は私をしっかりと見据え――
「……何やってるの?」
 不思議そうな声と共に風呂場の扉が開かれたと思うと、湯煙の中から洩矢・諏訪子が現れて、彼女愛用の帽子が棚からぽとりと落っこちた。



「……びっくりするから、外に向けて帽子を脱がないで下さい……」
「いやねぇ、ちょっとしたお茶目じゃない」
「いえ、そのお茶目でこっちは心臓止まりそうになったんですから……」
 想像してみて欲しい。薄らぼんやりとした闇の中、蛙を模したあの帽子がこちらをじぃっと見つめてくる様を。正直、凄く恐かった。
 小さくぐちぐち言いながら体を洗い、一般家庭のそれよりかは少しぐらい広いだろう湯船の中に――つまるところ諏訪子の隣に、ゆっくりと体を沈める。先客だった諏訪子が調節してくれていたのか、お湯の温度は丁度良かった。
 日中はまだ暖かくても、朝晩は冷える。冷たくなった指先に走る甘い痺れを感じながら、私は顎の下までお湯に沈み、小さく息を吐いた。
 きもちいい。
 見上げるように視線を隣に移すと、気持ち良さそうな表情をしてお湯に浸かる諏訪子の姿。恐らく私も、彼女みたいに力の抜けた表情をしているに違いない。
 右も左も解らず、相手との種族すら違う事が多い今の状況で、見知った人が――子供の頃から一緒に暮らして来た人が傍に居てくれるのは安心する。こうやって一緒に湯浴みをするのは久しぶりだけれど、凄く落ち着けている自分がいる事に気付いた。
 電灯の代わりに蝋燭を灯した浴室の中は、当たり前のように電気を使えていた頃とは比べ物にならない程に暗い。でも、不思議と悪い気分じゃなかった。
「……漸く笑った」
「え?」
 突然の言葉に驚きながら、沈んでいた体を起こす。姿勢を直しながら諏訪子を見ると、彼女は心配そうな表情を浮かべていて、
「ここ暫く、早苗が自然に笑っていなかったように見えたから。でも、少し安心したわ」
 そう言って、呆ける私を抱き寄せた。
 先にお湯に浸かっていた分、私よりも暖まった肌に包まれる。どう言葉を返して良いか混乱しながらあわあわしていると、優しく髪を撫でられた。それはまるで母親が泣いている子供をあやすかのようで、ちょっとむずがゆく、それでいてとても心地よくて、少し苦しい。
 多分、全部見抜かれていたのだろう。この胸の中で疼く痛みの、全てを。
 だから、自然と口は開いて、
「……私、は、」
 小さく、言葉を紡ぎ出す。
 私は『かみさま』だった。外の世界の現人神。この力が神奈子の神徳によるものだとは解っていたけれど、実際に奇跡を起こせる者は数少ない。その中でも私は優秀で、早い内から巫女となり、『かみさま』になった。
 でも、世界はそんな存在を必要とはしていなかった。
 けど、私を取り巻く世界はそれを必要としていた。
 両親も、親戚も、信者の人達も、私が『かみさま』である事を望んだ。友達と遊ぶ事も、学校へ行く事も、まともにさせては貰えなかった。だって私は『かみさま』だから。奇跡を起こす者だから。
 だから私も自分が『かみさま』なのだと思ってしまった。それが絶え果てた存在だとしても、そうである事を誇りに思ってしまった。私は凄い。私は偉い。私は、私は……そんな風に、馬鹿みたいに。
 でも、それは仕方の無い事だった。私は『かみさま』である自分以外何も知らなかったから。誰も、教えてくれなかったから。
 そうして勘違いの塊となって自信過剰にもなっていた私は、やってきた幻想郷であっさりと負けてしまった。それも、私と同い年位の、私の知らない生き方をしている二人の少女に。
「あんなにもあっさりと、私は……」
 私は、自分が特別な存在なのだと思っていた。だって『かみさま』だから。現人神だから。……でも、そんな子供の我が儘みたいな言い訳は通用しない。幻想郷では空を自在に舞う事も、風や雨を生み出す奇跡すらも、身近な力として存在している。借り物である私の力なんて普通以下なのだろう。私は、自分が特別でも何でもない、ただの人間だという事を思い知らされた。
 だから本当は、神奈子の為に――神様と遊ぶ為に開かれている宴会には同席しない方が良いと、そう思っているのだ。私はただの人間で、妖怪と酒を飲むなんて有り得ない事だろうから。
 それでも、「巫女さんも一緒に」と誘われてしまう以上、断る訳にもいかない。一応これでも、私は神奈子の巫女だ。例え妖怪達との関係が改善されたとしても、神奈子に悪いイメージを持たれてしまうような事は出来ない。
 けど、それももう限界だった。どうやっても、宴会を楽しむ事が出来ないのだ。
「でも……」
 ……と、まだまだ胸の中で疼く苦痛や不満を呟き続ける。子供みたいで嫌になってくるけれど、もう自分ではどうにも出来ない。その間諏訪子はずっと抱き締め続けてくれて、本当はちょっとのぼせそうだったけれど、それを解こうとは思わなかった。
 そしてあらかた愚痴り終えた後、半分泣いている自分に気が付いた。すんすん鼻を鳴らして、溜まった涙を散らすようにぎゅっと目を閉じて、私は諏訪子に抱き付いた。
 そのまま諏訪子に甘えていると、彼女は沈んだ声で、
「……ごめんね、気付いてあげられなくて」
「そんな、話を聞いてもらえただけでも、十分です」
 顔を上げて、不安げな表情を浮かべる諏訪子へと言葉を返す。心配を掛けて、更にはこんな一方的な心情を愚痴り続けたのだ。本当、十分過ぎる。
 それでも諏訪子は心配そうな表情なまま、
「でもね、無理はしないで。早苗が辛いのを我慢してまで神奈子に付き合う必要は無いわ。アイツはそんな事を望んではいないし、私もして欲しくない。それに……早苗が自然に笑えないでいる方が、宴会に出席しないより、よっぽど悪いイメージを持たれてしまうと思わない?」
 宴会の場で辛そうな顔をしている自分と、自然な笑みを浮かべる自分。どちらが好印象かは考えなくても解る。小さく頷くと、諏訪子は私の頭を撫でながら、
「それと、卑屈になりすぎるのは止めなさい」
 咎めるのではなく、優しく言い聞かせるように、諏訪子の声が風呂場に響いていく。
「確かに、この世界では早苗は特別ではなかったかもしれない。でもそれは、他の皆も特別では無いという事でしょ? 巫女も、魔法使いも、天狗も、河童も……それに神奈子や私だって、この幻想郷では特別ではないのよ」
 それを如実に表しているのが、弾幕ごっこという御遊びで出来る勝負事なのだろう。この枠組みにさえ乗っ取っていれば、相手が人間だろうと、妖怪だろうと、神様だろうと――種族の垣根など、一切関係無くなってしまうのだから。 
「でもね、私は早苗を特別な存在だと思ってるわ」
「……どうして、ですか?」
 見上げた先には、優しい微笑み。

「だって貴女は、私の――私と神奈子の巫女なんだから」












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