幸せな時間。

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2

 数日後、本当に玄関を通って吸血鬼が現れた。
「レミリア・スカーレットよ。これから宜しく」
 その楽しげな微笑みを見ながら、パチュリーは思わず呟いていた。
「……小悪魔」
「だから、追い返せる訳無いでしょう!」
 彼女も必死らしい。突然自分よりも上位の力を持つ者が現れたのだから、萎縮してしまうのも仕方ないのかもしれない。
 だが、それとこれとは別問題だ。
「帰ってもらえるかしら」
「嫌よ。だって暇なんだもの。少しぐらい遊んでくれない?」
「……遊ぶ?」
「そう。話し相手になってくれるだけでも良いわ。……身内以外と話をするの、久しぶりだから」
 そう言って少し悲しげに笑う吸血鬼――レミリアに、パチュリーは言葉を返す事が出来なかった。

……

 レミリア・スカーレットは、もう四百年以上吸血鬼をやっているのだという。少々大きな城に居を構え、妹やメイド達と共に暮らしていたのだそうだ。
 しかし近年になって、人間達は吸血鬼を――夜を恐れなくなってきていた。彼女達のシンボルである月は魔力を失い、夜は闇を失い、『スカーレット・デビル』と恐れられていた夜の眷属の居場所は少しずつ失われていった。
 そして人間の手が城に迫った時、姉は妹と数人のメイドを連れて城を捨て、放浪の旅に出た。
「人間を殺すのは簡単。でもご存知の通り、人間は私達吸血鬼の弱点を知り尽くしているわ。銀、聖水、大蒜……そして日光。太陽が出ている間、私達はとても無力になる。そんな時に武装したハンター達に襲われたら、いくら私達といえども殺されてしまう可能性があるの。だからその最悪が訪れる前に逃げ出すしかなかった。屈辱だけどね」
 最強であろう吸血鬼とはいえ、弱点は多い。月の恩恵すら満足に受けられない今の時代では、弱小な人間から逃げるしかない場合もあるのだ。
 恐らく相手が一人なら、パチュリーを相手にした時のように負ける事は無いのだろう。けれど人間は強大な相手に対し一人で向かってくる事は少ない。チームを組み、確実に相手を殺しに来る。一瞬で人間を一人屠ったとしても、次の瞬間には銀の銃弾が体に迫っているかもしれないのだ。そうなったら最後、飛び道具を持たない吸血鬼は逃げに徹するしかなくなってしまう。
「魔法を使って反撃に出たとしても、城内を破壊してしまうような事があれば、人間を殺せても日光に曝される危険が増えてしまう。だから、迂闊に反撃すら出来ないのよ」
 もし逆に人間へと攻撃を仕掛けたとしても、次の朝には逃げ帰らなくてはならない。……結局、どんな行動を起こしても、最終的には自分達の身に危険が及んでしまうのだ。
「まぁ、私の妹なら、その力を使ってどうにか出来るかもしれないけど……でも、そんな事はさせたくないの」
 それはありとあらゆるものを破壊する力。もしその力が暴走すれば、レミリアはおろか、妹の命すら破壊してしまう可能性がある。たった一人の肉親である姉は、それを恐れていた。
 だから、いつか安住の地が再び見つかるまで、彼女は妹を幸せな夢の世界へと堕とした。この世界に溢れる苦痛を味あわせない為に。
「いろんな場所を見て周ったわ。でも、安住の地なんて存在しなかった。どこもかしこも人間だらけで、もう同属すらその姿を消していた。同じように夜に生きていた者達も討伐され尽くし、悪魔を愛していた魔女や魔法使い達は炎と共に消えていた。この世界に私達が存在出来る夜は、もうどこにも無かった……。……そんな時、ここに住む魔女の噂を聞いたのよ」
 この巨大な屋敷とパチュリー達の存在は、昔から街で噂になっていたらしい。それがレミリアの耳に入ったのだろう。
 吸血鬼の語る過去を聞き終えた魔女は、体から警戒を解いた。目の前に座る少女は強大な力を持っているけれど、しかしとても弱い存在だという事に気付いたから。
 だから、
「まぁ、私でよければ話し相手ぐらいにはなるわ。……でも、戦闘はもう嫌だから」
「解ってるわ。話し相手が出来ただけでも十分だもの」
 そう言って微笑んだレミリアの顔は、幼い風貌には似合わぬ程影が差して見えた。

……

 そして……一ヶ月が過ぎ、一年が過ぎ、十年が過ぎ、更に更に長い時が過ぎていく。
 
 ある時、こんな事があった。
 その日自室で魔道書を書いていたパチュリーは、作業が一段落すると、普段本を読んでいる部屋へと足を向けた。そして部屋にある本棚から一冊の本を抜き出し、ある違和感に気付いた。
「……埃が無い?」
 見れば、本棚に少し溜まっていた埃が綺麗に掃除されていた。
 一体どういう事だろうか。今まで言われなければ掃除をしなかった小悪魔がやったのだろうか? そう思いながら本を手に取り、椅子に戻ると、いつの間にやって来ていたのかレミリアの姿があった。
「こんばんわ」
「こんばんわ。今日は突然なのね」
「まぁね。……突然なんだけど、今日はパチュリーにお願いがあって来たの」
「お願い?」
 その言葉に首を傾げたと同時、台所の方から小悪魔の声が響いてきた。
「こ、これは……!」
 それは驚きと興奮と喜びを含んでおり、パチュリーは更に首を傾げつつ、
「……何かしら」
 何気なく台所へと続く廊下へ視線を向けると、そこには見知らぬメイド服姿の女性が立っていた。
「……誰?」
 殺気は無い。しかし人間でも無い。何故ならば彼女の顔は異常な程に白く、そして首には小さな傷が二つあった。
 吸血鬼? いや、その従者だろうか。そう思考を働かせるパチュリーに、レミリアから答えが来た。
「あれ、ウチのメイド。まぁ、私の両親の従者なんだけどね」
 その言葉に、メイド服の女性が恭しく頭を下げる。その動きは美しく、小悪魔に見習わせたい程だった。
「……で、そのメイドさんがどうしてうちに?」
「そろそろ肉体に限界が来ているのよ。だから最後ぐらい、メイドらしい仕事をさせてあげようと思って」
 従者と成る以前からメイドとして働いていたという彼女は……いや、彼女を含めた数人の女性達は、主人亡き後もその娘達を親身になって育て上げた。
 しかし先の理由から住処を失ったレミリアは、彼女達を自由にしようと考えたという。だが、彼女達はその言葉に頷かず、
「最後まで、御世話をさせて欲しい」
 それは彼女達の最後の我が儘で、だからレミリアは彼女達の現在の主として、その想いを果たしてやる事に決めたのだという。
「でも、世話をするにも妹は眠っているし、私はこうやってパチュリーの家に入り浸っているし、させてあげる事が無かったの」
「だから、逆に私の世話をさせよう、と?」
「そういう事。そこに私が加われば、彼女達の仕事に変化は無いから」
 という事はつまり、レミリア達もこの屋敷に住み込むという事になるのだが……パチュリーは敢えてそこを追求する事は無かった。まだ一年にも満たない短い時間とはいえ、レミリアとの生活が当たり前になってきていたから。
 と、そんな時だ。
「ぱ、パチュリー! なんだか知らないけど凄く美味しいご飯が! これは食べないと損ですよ!!」
 今までで一番輝いた笑顔をした小悪魔が部屋に飛び込んできて、パチュリーは少しだけ悲しくなった。

 その後、吸血鬼の妹であるフランドール・スカーレットもやって来て、いつの間にか屋敷は大所帯となった。


 そしてある時、こんな事があった。
 魔女はいつものように本を読み、小悪魔も同じように本を読み、そしてレミリアはメイドに淹れさせた紅茶を飲みながらケーキを食べていた。
 そんな時に、ふとレミリアが口を開いた。
「……そういえば、どうして小悪魔は『小悪魔』なの?」
「どういう事?」
 問い掛けるパチュリーに、レミリアは不思議そうに、
「私にはレミリアという名前がある。メイド達にも名前はあるし、パチュリーにも『パチュリー・ノーレッジ』という名前がある。でも、どうして彼女は『小悪魔』なの?」
「ああ、その事」
 言って、パチュリーは視線を上げた。そしてその先で背中を向けて本を読む小悪魔を見ながら、
「彼女は本を媒体にして現れた悪魔なのよ。通常そういった悪魔はその本の中に名前が刻まれていて、それを所有者が読み上げる事で契約を結び、魂を奪う状況を整えるの。でも、私はそれを行わなかった」
「どうして?」
「名前というのは、その存在を決定付ける強い力を持っているわ。特に相手が悪魔の場合、それだけでも十分な力を持っているの。だから私は彼女に余計な力を持たせないようにそれを封じたのよ」
 その結果、小悪魔は自分自身の名前を口に出す事も記述する事も出来なくなっている。それでもある程度強い力を持っているのだから、判断は間違っていなかったのだろうとパチュリーは思う。……と、そんなパチュリーに抗議するかのように、小悪魔の尻尾が小さく揺れた。
 すると、パチュリーの言葉に感心したように頷いたレミリアは何かを思案し……楽しげな笑みを浮かべると、
「それなら、私が彼女に名前を付けたらどうなるの?」
「残念だけど、どうにもならないわ。本を媒体にしている以上、一度決定付けられた名前を変化させる事は出来ないから」
「……ふぅん。じゃあ、小悪魔には名前を付けるのは止めね」
 その言葉と共に、笑みの質が変わる。それはまるで、悪戯を思いついた少女のように。恐らくはそれが彼女の素で、だからこそ、その表情がとても輝いて見えるのは間違いではないのだろう。
 と、そう思考が逸れた隙に、レミリアの口は動いていた。
「その代わり、今日から貴女をパチェと呼ぶわ」
「……今の話、聞いてた?」
 名前を付けるという事は、相手を変えてしまうという事。例えそれがニックネームだとしても変わらない。吸血鬼のような存在がそれを行えば――そして彼女の力を考えれば、その人物を根底から変化させてしまう可能性もある。……だというのに、レミリアは笑みを崩さず、
「だって、その方がフレンドリーでしょう?」
「……」
 言葉が出ない。だったらなんだというんだろう。彼女は私と友達にでもなりたいというのだろうか? そんな事を思い、しかしそれは別に否定すべき事では無いと気付く。
 だからパチュリーは笑みと共に息を吐き
「解ったわ。その代わり、私も貴女の事をレミィと呼ばせてもらうわ。……その方がフレンドリーでしょうから」
 こうして、魔女と吸血鬼の二人は互い同士、その存在を変化させた。
 即ち、友人という間柄に。


 そんな風にして魔女達は時を重ねて行く。同時に、様々な出来事が屋敷の中で起こっていった。 
 ある時、屋敷の内装を変え、レミリア達の部屋を作った。
 ある時、収まり切らなくなった本を収納する為、地下に図書室を作った。
 ある時、フランドールが目を覚まし、ちょっとした騒動になった。
 そしてある時、レミリアの連れて来たメイド達が死を迎え、屋敷が悲しみに沈んだ。
 喜びも怒りも哀しみも楽しみも、全て全て詰まった日々が過ぎ去っていった。


 そうして時を重ねていたある日、何十年ぶりかに外の見えるテラスへと出たパチュリーは、そこに広がる風景に息を飲んだ。
 深い森に囲まれていた筈の屋敷は、いつの間にか住宅地の只中にあり、その周囲には背の高い巨人のような建物が幾つもそびえ建っていた。
「……」
 驚きで言葉が出ない。いや、少なからず予想はしていたけれど、目の前に拡がる現実は魔女の予想を遥かに越えている。この閉鎖的な屋敷で平和に暮らしている内に、世界は変わりきってしまっていた。
「……もうこの世界に、私達の居場所は無いのかもしれないわね」
 幻想の、存在。
 街に買出しへと向かう事がある小悪魔や、この屋敷にやって来るまで放浪していた吸血鬼は、世界が急激に変化している事を実感していたに違いない。しかし魔女のそれは知識だけであり、自らの実体験ではなかった。だからこそ驚きも大きく、そして絶望も大きかった。
 そして魔女は目に見えぬ巨大な力を知った。それは人間という存在の、この星を侵食する力。目に見えぬからこそ恐ろしいそれは、どんな魔法を持っても立ち向かえぬもの。
 この先、いつまでも平和な時間が過ぎていくと思っていた。けれど今日にも、人間の手によってそれが壊されるかもしれないのだ。
 出来る事なら逃げ出してしまいたい。平和に暮らせる、安住の地へ。
「……馬鹿馬鹿しい」
 一体何処へ逃げるというのだ。この世界に、もう夜の眷属が生きる場所など存在しない。それに気付いてしまったというのに。
「……」
 空を見上げる。そこにある青空は、とても青空とは言えぬ程霞んで見えた。


 ――だから、誰一人として気付かなかった。
 目の前の現実に衝撃を受けている魔女も、屋敷の中で紅茶を淹れる準備をしている小悪魔も、眠りに就いている吸血鬼姉妹も、誰として。
 この世界で幻想となった事を認めた彼女達が、ある場所へと引き寄せられていた事に。






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