その夏の日に。

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2
   
 そうして、楽しい時間は続いていく。
 この椅子に座り始めて早二時間程。今、フランドールはミスティア達と一緒に歌を歌っていた。初めはただ聞いていただけだったのだが、リグルもミスティアと一緒に歌い始めたあたりから、フランドールも見真似で歌い出したのだった。曲名は解らなかったが、繰り返されるその歌は何だか歌いやすくて楽しくて。何度も何度も覚えるまで繰り返し歌い続けていた。
 と、そんな時だった。背後の森から、
「おや、何やら楽しそうだな」
「あ、慧音さんいらっしゃーい」
 聞こえて来た声に視線を向けると、そこには提灯を持った一人の女性が立っていた。
 美鈴のような長い髪を持ったその女性は、フランドールの隣に腰掛けると、酒棚の中の一本を指差し、
「あれを雪冷えで。それと鰻を二つ」
「はーい。でも、慧音さんが来るなんて珍しいね」
「ああ。たまには、な」
 慧音と呼ばれた女性は苦笑で答え、しかしその顔には少し疲労の色があった。 蒸した鰻を焼き始めたミスティアは、心配の色をその顔に浮かべ、
「何かあったの?」
「少々里の者達の間で揉め事があってな。その仲介にこの数日引っ張りだこだったんだ」
 事前に冷やしたものがあったのか、慧音はミスティアからグラスを受け取り、酒を注いでもらうと
「まだ全てが終わった訳ではないが、一休みという事だ」
 一口。
 その姿が何だか様になっていて、鰻を食べていた手を止めてぼんやりと眺めていると、隣に座るリグルが耳元で小さく教えてくれた。
「あの人は人里を護っている上白沢・慧音さんっていうの。人間の為にしか自分の力を使わない、ちょっと変わった人」
「へー……」
 呟いた途端、女性――慧音の視線がつ、とこちらへと向き、
「リグル、聞こえているぞ」
「?! ご、ごめんなさいッ!」
 苦笑と共に言う慧音に、リグルが慌てて頭を下げた。
 そして慧音はフランドールに視線を向けると、リグルの言葉を訂正するように、
「私は人間が好きだから、彼等を護っているんだ。だから、妖怪から見れば変わり者と言われても仕方ない。だがな、だからといって人間を護る事を辞める訳にはいかないんだ」
 何故なら、
「私は里の皆から頼りにされて……いや、頼りにされるようになれた。そんな彼等の思いに答えなければ、罰が当たってしまう。だから私は――」
「……ばち?」
 と、聞きなれない言葉に、思わずフランドールは問い返していた。
 話の腰を折るその問い掛けに、しかし慧音は、そうだ、と頷き、グラスに残った酒を飲み干した。そして手酌で酒を注ぎながら、まるで教師のように、
「間違った事や、悪い事をしたりすると、神様から罰を受ける。それが罰(ばち)だ。そして、人から頼りにされたり、約束を交わしたりするというのは、言わば相手を信じるからこそ行う行為。その思いに答えようとして努力を行い、その結果答える事が出来なかったというのならまだしも、無為にその思いを踏み躙ったりするのは絶対にしてはならない事だ。それは罰が当たるから、というだけではなく、相手の信頼を裏切り、築き上げた関係を壊してしまう事になるからだ。そして、一度壊れた関係を修復するのは
困難であり、もし修復出来ても元のような関係を築くのは難しいだろう。何故なら相手は己の思いを踏み躙られており、自分にはその負い目が出来てしまうからな。こうなってしまわない為にも、常日頃から己の言動には気を使い――」
「……」
   
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 長々と、しかし聞きやすいペースで話し続ける慧音と、それを小さく頷きながら聞くフランドールを眺めつつ、ひそひそと会話をする少女が二人。
「慧音さん、全開だねぇ……」
「まぁ、お酒が入ってるから……」
 苦笑で答えながら、ミスティアが酒の御代わりをさり気無く慧音の前に置いた。合間合間に飲んで行く為に、結構ペースが速いのだ。
 その動きを横目で見つつ、リグルは小さく息を吐きながら
「あの人、お酒が入り出すと話が長いんだよね……。前に里の近くに流れる川に行った時も……」
 そう、リグルが思い出話を始めようとした瞬間、慧音の視線がす、とこちらを向いた。
 淡く紅いその顔は美しく、少し汗の浮かぶ胸元は同性とはいえ目が行き――思わず見入ってしまったリグルの目元へ、ぴ、と慧音の人差し指が向けられ、
「そうだリグル、お前にも話がある」
「え、私?!」
 まさかこちらに話を振られるとは思わず、リグルは素っ頓狂な声を上げた。だが、慧音はそれに構わず、深く深く頷くと、
「そう、お前だ。最近里に出る害虫の被害がだな――」
   
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「……という事だ。解ったか?」
「は、はい……」
 言うだけ言ってすっきりした顔をしている慧音と、言うだけ言われてぐったりしているリグルの姿が何かおかしくて、笑みが零れる。そんなフランドールへ、リグルが影のある視線を向け、
「フランドールは、慧音さんの話を良く平気で聞いていられるね……」
 力無いリグルの呟きに、フランドールは楽しげに微笑んで、
「私、こんなに長く人とお話をするのは初めてだもの。色んな事を教えてもらったし、とっても有意義だったわ」
 心の底からそう思う。同時に、屋敷に居る時にはあまり感じる事の無かった、楽しい、という感情が小さな少女の中に溢れていた。
 それがお酒の力によるものなのか、それ以外の何かの力なのか、良く解らなかったけれど。
 それでも上機嫌に鰻を口に運んでいると、ふと、慧音がこちらを見ているのに気が付いた。なんだろう、と思いながら視線を向けると、
「存外、お前は普通の娘なんだな」
「?」
「いや、何でもない」
 言って、慧音は苦笑した。
      
 フランドール・スカーレットは知らない。
 上白沢・慧音がどんな力を持っているのかを。そして、その力が見せた小さな少女の狂気を。
 フランドール・スカーレットは知らない。
 恐怖や畏怖を押し殺し、何食わぬ顔で話を続けた慧音の強さを。
 フランドール・スカーレットは何も知らない。
 慧音の言葉に小さく首を傾げながら、再び、幸せそうに鰻を食べ始めた。
    
3
   
 そして、草木も眠り出す時間に近付いた頃。
 一番最初に席を立ったのは、一番最後にやって来た慧音だった。
「それじゃ、私はそろそろ帰るとするよ。ミスティア、お勘定を」
「はーい。えっと……」
 たどたどしく金額を告げるミスティアに、少し飲み過ぎたな、と慧音が苦笑する。そして勘定を払い、畳んであった提灯に火を灯すと、彼女はフランドールへと微笑み、
「おやすみ、妹君」
「おやすみなさい」
 何気なく交わす就寝前の挨拶に、何か嬉しさが込み上げるのを感じながら、ふと、どうして自分が妹だという事を知っているのかが気になった。
 気になって、リグル達に声を掛けている慧音の姿を眺め、しかし答えが見つからない。
 だから、
「ねぇ」
「ん、何だ?」
 こちらに視線を落とした慧音を、フランドールは窺うように見上げながら、
「どうして妹だって知っているの?」
「……私には、幻想郷の全てを知る事が出来る力がある。そしてそれは知識として残り、だからお前が妹だという事が解った、という事だ」
「そうだったんだ」
 自分の持つ力と同じように、慧音も力を持っていたという事だ。フランドールは疑問が氷解するのを感じ、
 ……ずっとずっと紅魔館に居た私の事を、知っている人がここにも居たんだ。
 今まで気にする事も無かったその事実に、胸が熱くなる。
 短い時間だったけれど、色んな話をしてくれて、そして自分の事を知っていてくれた。そんな慧音に何かしてあげたい、という気持ちが高まり、
「……」
 しかし、考えてみても、慧音に対して出来る事が何も無い自分に悲しくなった。自然眉が下がり、高まっていた気分が少しずつ落ち込んでいくのを感じる。
 すると、そんなフランドールの顔を覗き込むように慧音が腰を落とし、
「そんな顔をするな。急にどうした?」
「……色んな事を教えて貰ったのに、私は何も出来なかったから」
 沢山話をしたけれど、その殆どは聞いてばかりだった。かといってフランドールが慧音に教えられるような事は無いし、この手にあるのは慧音のような便利な力では無い。その事実に、なんだか更に悲しくなってきて――不意に、頭に何かが載せられた。
 それが慧音の手だと気付くと同時、帽子越しに優しく頭を撫でられる。
「気にするな。私の話で知らなかった事を知る事が出来たのなら、それだけで十分だ」
「でも……」
 簡単に食い下がる事は出来そうに無かった。そんなフランドールに慧音は暫し考え、
「そうだな……それなら、またこうやって一緒に酒を飲む事を約束してくれ」
「約束……解ったわ。でも、そんな事で良いの?」
「ああ。本来、人との出逢いというのは一期一会のものだ。それにも拘らず、もう一度逢う為の約束を出来た。これ以上のものはないさ」
 だから、と慧音は微笑み、
「そんな事、なんて言わないでくれ」
 言って、慧音は優しく頭を撫でてくれていた手を離した。その暖かな感触が離れてしまった事を残念に思いつつも、また逢う、という約束を交わす事が出来た事に胸が熱くなるのを感じる。
 慧音に何かをしてあげたい気持ちは、またその時に解消すれば良いだろう。
 フランドールから離れた慧音は。ゆっくりと森へと歩き出しながら、
「では、またな」
「うん!」
 元気に答え、フランドールは去っていく慧音に手を振った。
   
……
  
 慧音が帰った事により、楽しい時間は終わりが来る事を少女は知った。それを残念に思う気持ちは強かったが、慧音との約束がある事を考えると、少しだけその気持ちが和らいだ。
 和らいだが、しかし気持ちを簡単に切り替える事なんて出来なかった。
「それじゃあ、私達も帰ろうか」
「……うん」
 腰を上げたリグルに小さく頷く。後ろ髪を引かれ、また椅子に腰掛けてしまいたくなるのをなんとか我慢しながら、フランドールはゆっくりと立ち上がった。
「えっと、お勘定はーっと……」
 歌うように言いながら、酒の瓶や鰻の串の数を数え始めたミスティアをぼんやりと眺める。思考がはっきりしないのは、きっとお酒のせいだけじゃない。
 そして気付けば、
「……二人にも、何も出来ない……」
 ぽつりと、フランドールは呟いていた。
 この数時間を楽しく過ごす事が出来たのは、この屋台に連れて来てくれたリグルと、美味しい料理やお酒を出してくれたミスティアのお蔭だ。そんな二人に対し、慧音の時のように、何も出来ない自分を再認識して悲しくなる。
 だが、そんなフランドールに返って来たのは、上機嫌な微笑みと、
「慧音さんも言ってたけど、気にしなくて良いよ。私は特に何もしてないし」
「気にしない気にしない。美味しいって言ってくれただけで大満足ー」
 そう言ってくれる二人に、しかしフランドールは窺うように、
「本当に……?」
「本当に。まぁ、もし望むなら……慧音さんと同じように、また一緒にお酒を飲もう」
「常連さん大歓迎ー」
「――解ったわ。約束ね」
 微笑んで言う。出来ればもっと別の、みんなを喜ばせるような事をしてあげたい、という気持ちはあった。だが、一緒にお酒を飲むという約束も、結果的にみんなを楽しませる事に……みんなと楽しめる事になるだろう。少女はそう考える事にした。
   
 そして、
「それじゃ、お勘定はね……」
 何気なく告げられたミスティアの言葉に、フランドールの動きがぴたりと止まった。まるで氷の彫刻のように、微笑んだまま少女は動かない。
 そう、衣食住に困った経験など無いお嬢様であるフランドールは、今更ながらに重要な事実に気が付いたのである。
 ……私、お金持ってない……。
 その事実に愕然とする。それでも、何やら油が切れたように動かない体を何とか動かして、金目の物が無いか、洋服のポケットの中をぎこちなく探していく。そんなフランドールに向けられる不思議そうな二人の視線が、その悪意の無い視線が、今この瞬間だけは辛い。   
 そして……奇跡的にスカートの中には数枚のコインが入っていた。だが、ほっと安堵しながら差し出したそのコインだけでは、提示された金額の半分程しか払う事が出来なかった。
 最後の最後で、一体私は何をやっているんだろう……と肩を落とすフランドールに、
「私が代わりに払うよ。確認しないで連れてきたのは私だし」
 そう言ってくれるリグルに、しかし首を横に振る。その気持ちは嬉しいが、今日はして貰ってばっかりなのだ。そこまでしてもらう訳にはいかなかった。
 そんなフランドール達に、
「……んー、足りないねぇ」
 苦笑しながらミスティアが呟くのが聞こえて、フランドールはその顔を上げた。
「今から屋敷に戻って持ってくる」
 と、そう答えようとし、しかしその声を遮るようにミスティアは微笑んで、
「じゃあ、足りない分はツケとくね」
「……ツケ?」
「また店に来た時に、今日の分を払うって事だよ」
 それはつまり、またこの屋台に来なければならない、という事だ。フランドールは一瞬考え、しかしそれの意味するところに気付き、
「じゃあ、ツケでお願いするわ」
 微笑んで告げた。
    
 こうして、楽しい時間は終わりを迎えた。





     

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