スイッチ

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0

 俺には恋人が居る。付き合って五年になる可愛いヤツだ。
 俺は彼女が好きだ。誰よりも好きだ。世界で一番愛している。この気持ちは、付き合い始めた頃から変わっていない。
 でも、彼女へと「好き」だと、「愛している」と、最後に口に出して伝えたのはいつだっただろうか。「おやすみ」とか「おはよう」とか、そういった言葉なら毎日のように告げているのに。
 なんだろう、『そうあること』が当たり前になり過ぎて、いつの間にか言葉に出さなくなってしまったのかもしれない。まぁ、言わなくても伝わるし感じられるから問題ないんだが……それでも、想いは言葉にしないと伝わらないものだ。どれだけ当たり前の事でも、当然の事でも、超能力者みたいに相手の心を読んだりする事が出来ない俺達には言葉が必要だ。
 俺は、そう思う。
 でも、どうやら世間様は少し違ったらしい。メールの普及によって相手と対話する機会の減った現代人は、会話というものが下手になり、いつしか相手の心情を想像する為のスキルを伸ばし始めた。
 ありていに言えば、言葉は無くても通じ合える、という感じだ。
 まぁ、良い事だは思う。でも、いくら相手の気持ちを想像出来たとしても、結局それは予測でしかない。相手が笑顔だろうと、心までが笑顔だとは限らないからだ。だからいつしか、昔のように言葉を使い始める――俺はそう考えていた。
 しかし、マイノリティは淘汰される運命にあるらしい。
 ある日、『感情を切り替える事が出来るスイッチ』なる物が発売された。
 それは喜怒哀楽からなる様々な感情を、自分自身の意思で簡単にコントロール出来るようになるというもの。例えどんなに辛い事があっても、悲しい事があっても、苦しい事があっても、スイッチさえ切り替えれば感情がすっぱりと切り替わる。しかもその感情は一時的なものでなく――脳へと直接作用させる事で、完全に完璧に、感情を切り替える事が出来る画期的な商品だった。
 これさえあれば、もう醜い言葉で言い争いをする必要がない。悲しい現実を告げられても涙に暮れる必要がない。今の心情はどうなのかと、相手を悩ませる必要がない。
 このスイッチが発売されてから数ヶ月。それを手にした者達は皆、まるで楽園の住民になったかのように、日々を笑顔で過ごし始めたらしい。
 
 でも、俺はどうしてもそのスイッチに興味を持てなかった。
 結構高額で、テレビすら無い生活をしている俺にはどうやっても手が出せない商品だったという事もあったけれど、やっぱりそんな風に感情を切り替えるのはおかしいと思ったのだ。
 例えば小説を読んでいて、そこで感じた感情というのは、『その小説を読んだからこそ』の感情だ。もしそれをスイッチで生み出す事が出来たとしても――それが脳に作用させた本物だとしても、どうしても偽物に感じてしまう。
 言葉だってそうだ。そうやって感情を切り替えてしまえば、相手が本当に伝えようとした真意すら薄っぺらいものになってしまう。お説教だろうが愛の告白だろうが、ただ文字の羅列にしか過ぎなくなってしまう。
 そこにある感情を――心の内側を変換して生み出すのが言葉というものだろうに。
 だから俺はそのスイッチが好きになれず、興味を持とうともしなかった。

 彼女がそれを買って来るまでは。


1

「買っちゃったー」
 そう笑顔で告げた彼女の手には、巷に溢れているらしいスイッチがあった。彼女から時たま話を聞いてはいたが、実物を見るのは今日が初めてだ。……引き籠もりすぎたかもしれない。
 兎も角、改良が重ねられて小型化が進んだらしいそのスイッチはまるで玩具のようだった。何せ人の感情を変えてしまうという高性能な機械の癖に、小柄な彼女の手に納まってしまうほど小さい。しかもその形状は蛸足用のコンセントプラグを改造し、その上に照明用のスイッチを四つ取り付けただけにしかみえないもので――かなりチープだった。
 だから、だろうか。思わず疑問が口に出た。
「……なぁ、それで本当に感情が変わるのか?」
「あれ、信じてなかったっけ?」
 少し意外そうに聞いてくる彼女に、俺は言葉を濁しつつ、
「いや、そういう訳じゃねぇけど……」
 興味は無かったが、その存在自体を否定していた訳じゃない。俺が思っている以上に世の中は苦楽が多いし、実際にこのスイッチのお蔭で心の重圧から解放され、救われたという人が沢山居るのだろうという事は想像出来た。
 でも、実際に目にした本物がこんなにも安っぽい作りだとは思っていなかったから、いつの間にか不安になっていた。そりゃあ携帯電話が数年で一気に小型化したように、このスイッチが一気に小型化したという理由は理解出来るけれど……だからって、納得出来るかどうかは別だ。そんな俺に彼女は本物の笑顔で笑って、不安な様子など一切見せず、「じゃあ、試してみよっか」と楽しげに言ってスイッチを入れた。
 まるで携帯電話の電源をONにするかのように、気軽に。
 スイッチが切り替わる。
 彼女が突然泣き始めた。
 スイッチが切り替わる。
 彼女が突然怒り始めた。
 スイッチが切り替わる。
 彼女が突然笑い始めた。
 スイッチが切り替わる。
 彼女が突然泣き始めた。
 スイッチが切り替わる。
 彼女が突然――
 スイッチが切り替わる。
 彼女が――
 スイッチが切り替わる。
 ――
 スイッチが切り替わる。スイッチが切り替わる。スイッチが切り替わる。スイッチが切り替わる。切り替わる。切り替わる。切り替わる。切り替わる――
「止めてくれ!!」
 思わず、叫んでいた。
 その瞬間ピタリと彼女が無表情になって、次に笑った。
「そんなに驚かないでよー」
 そう言って、可笑しそうに笑う。
 でも俺には、その笑顔が自然のものなのか、スイッチによるものなのか、判断する事が出来なかった。


2

 次の日から、彼女は笑う事が多くなった。いや、常に笑うようになった。
 喜怒哀楽がはっきりしていて、そういう所も魅力だった俺の彼女は、ただ笑顔を浮かべるだけの女になった。
 それが彼女の優しさなのかどうなのか、俺には理解出来ない。そりゃあ笑ってくれていた方が良いに決まっているけれど、そうじゃない彼女も好きだった。そうじゃない彼女を愛していたんだ。
 ああ、そうさ。
 俺は恐かった。
 ただ笑い続ける彼女には、もう他の感情が無くなってしまったかのように思えたから。
 喧嘩をした時のように怒ってほしい。淋しい想いをした時のように泣いて欲しい。辛い思いをした時のように不安になって欲しい。そして心から幸せな時、花が咲くような笑顔を浮かべて欲しい。
 ……解っている。それは俺の我が儘だ。でも、そうやって表情を変化させる彼女が好きだった。だから、ただ笑っているだけのアイツは、スイッチを買ってくる以前の彼女とは別人のように思えたんだ。
 けど、それを彼女に告げる勇気は無かった。
 だってそうだろう? あのスイッチは感情を切り替えるもの。指先一つで、他の感情だって表す事が出来るんだから。
 そうさ。俺がどれだけ愛を語ったって、もうアイツに届く事は無いんだ。



 別れ話を切り出したのはそれから一週間後の事だった。
 突然の話に驚き、そして泣き始めた彼女に、俺は何を言ったのか覚えていない。ただ、その感情すら否定した事だけは覚えている。


3

 それからの日々は散々なものだった。
 楽しさも、嬉しさも、何も感じられない。
 彼女が居る事で生まれていた彩りは全て消え失せ、見るもの、感じるもの、吐き出す言葉、その全てが色を失ったように思えた。
 何もかもが、灰色に染まった世界。
 もしスイッチを手に入れれば、こんな味気ない世界を変えられるのだろうか。指先一つで辛い事を封じ込めて、心からの笑顔を浮かべる事が出来るのだろうか。
 そんな事を考えて、あまりの愚かさに死にたくなる。

 俺は、一体何をやっているんだろうか。 

 
4

 そんな、ある日。
 彼女との共通の友人から、アイツが参加していた劇団を辞めた事を聞かされた。俺に振られた事が原因で演技にも身が入らなくなり、そのまま辞めてしまったのだという。
 その話を聞いた時、俺は何かの冗談かと思った。付き合い始める前から彼女は演劇に打ち込んでいて、本番が近いと俺との予定よりもそっちを優先していた程だったのだ。それが原因で何度も喧嘩をしたし、時には別れる寸前にまで発展した事だってあった。
 それに――アイツにはスイッチがあるのだ。そんな事で落ち込む必要性なんて、もう無くなっただろうに。
 そんな風に、思って。
「……」
 俺は、どうしようもなく自分という人間が嫌になった。
 あれだけ好きで好きで仕方なかった彼女をあっさりと信じられなくなって、その結果がこの様だ。自分を殺してやりたくなった。
 でも、それ以上に、友人から告げられた一言が辛かった。
「アイツ、辞めてからすぐに連絡取れなくなっちゃって、電話してもメールしても、全然反応が無くってさ。それで、心配になって見に行ったら……アイツね、笑ってたの。あのスイッチを使って、苦しい事なんて、悲しい事なんて何にも無かったみたいに、笑ってたの」
 悲しくなった。苦しくなった。どうしようもなく、彼女を叱ってやりたくなった。
 そうして今度は、俺を叱って欲しかった。例え感情を切り替える事が出来たって、その先にある意思までは変わらないのに、それを信じてやる事が出来なかった愚かな俺を。
 だから俺は友人を引き連れて、彼女の部屋へと向かった。
 返そうと思っていた合鍵で鍵を開け、数え切れないほど歩いた廊下を進んで、寝室の扉を開ける。

 そこには、ノートパソコンを膝の上に載せた彼女が、とてもとても楽しそうな笑顔で待っていた。

 その瞳はどこか遠くを見ていて、部屋に入って来た俺達に気付く様子も無い。まるで壊れた人形のように笑顔を浮かべ続ける彼女に、俺は開きかけた口から何の言葉も生み出す事が出来なかった。
 全ての原因が自分にあるのに、何も出来ない。
 苦しみを覚えながら視線が落ち――ふと、彼女が膝の上に乗せている物がノートパソコンでは無い事に気が付いた。
「……なぁ、あれ、なんだ」
 搾り出した声は、暗い。そんな俺へと、友人は少し意外そうに、
「何、知らないの? あれが最近流行ってるスイッチだよ。でも、効果が強く出すぎちゃったんだ。だから……」
 だから、『感情』が壊れてしまった。
 喜怒哀楽を示すメーターがあるとしたら、『楽』のメーターだけが振り切れてしまったような状態。こうなったら最後、病院で治療を受けるしかない。
 彼女の両親もこの状況を知っていて、今夜にも彼女は入院する――そう告げる友人の声が、どこまでも遠く、現実に響いているものに聞こえない。
「……嘘、だろ?」 
 友人の言葉が信じられない。飲み込めない。だっておかしいじゃないか。そうだろう? 彼女が持っていたあのスイッチは、掌に収まる程の、チープなものではなかったのか?
 混乱に襲われるままに彼女へと近寄ると、ベッドの脇にある小さな棚に目が行った。その上には俺が見たスイッチが置かれていて、玩具のような安っぽい姿を曝していた。
 玩具の、ような。
 玩具。
 おもちゃ?
 作り、物?
「……」
 嗚呼。
 何かが、符合する。
 俺はこのスイッチについて何も知らない。その大きさも、形も、全て全て彼女から聞くばかり。当然だ。それに興味が無く、深く知ろうとしていなかった。実際に現物を目にしても、それが新しい形のノートパソコンだと錯覚を起こすくらいに。そして、彼女は劇団員だった。演技を行う事を仕事としていた。劇団。当然そこには演劇に使用する小道具があって、それを細工する事を専門とする者達が居る筈だ。
 つまり――彼女が俺に見せたスイッチは偽物だったという事だ。あの時は表情を切り替えた彼女に動揺していたから確認出来なかったけれど……手に取ってみれば良く解る。初めて見た時に感じた通り、これはコンセントプラグを改造しただけの物だった。
 にせもの。
 でも、それによって作られた感情は、本物だった。
「……この、馬鹿……」
 あの感情は作り物ではなった。あの時の怒りも悲しみも笑いも、スイッチの力によるものではなく――長年培ってきた演技で行った、芝居だったのだ。
「……そうなんだろう?」
 それなのに、俺はそれがスイッチの力だとばかり思い込み、彼女に疑問を投げ掛ける事無く別れを告げた。
 想いは言葉にしないと伝わらないもの。どれだけ当たり前の事でも、当然の事でも、超能力者みたいに相手の心を読んだりする事が出来ない俺達には言葉が必要。
 そんな風に考えてスイッチの存在を否定していた俺が、まず言葉にする事を諦めていた。
「……なぁ、答えて、くれよ」
 スイッチを俺に見せた後、彼女はいつも笑っていた。
 でも、それはスイッチの力じゃない。俺と居る時、彼女はいつも笑顔だったんだ。そして彼女と居る時、俺も笑顔になれていた。
 けれど、いつの間にかそれが当たり前の事になってしまっていた。そんな状況の中でスイッチというモノが現れて、俺は改めて彼女を見るようになって――こんな結果を招いてしまった。スイッチなんてモノに囚われなければ、彼女をもっと好きになっていく切っ掛けになったかもしれないのに。
 俺は、馬鹿だ。
 彼女からスイッチの話を聞いていた時のように、ただ感心していれば良かったのだ。もしそうであったなら、いつか種が明かされた時にとても驚く事になっただろう。彼女が演技を続ける事を、心のどこかで――言葉のどこかで否定していた、この愚かな俺は。
 いや、或いは、演技をしているんだって、ただ気付いて欲しかっただけなのかもしれない。或いは、こんな事も出来るんだよって、褒めて貰いたかったのかもしれない。或いは、或いは、或いは。
 俺には答えは解らない。だって俺は、問う事すらしなかったのだから。
 でも、今更だって解っても、問い掛けずにはいられない。
 言葉を求める事を、止められない。 
「なぁ、答えてくれよ……!」
 彼女の肩を掴み、必死に叫ぶ。
 すると、彼女が緩慢な動作で俺を見た。
 そこにあったのは、今までに何度も見た、心からの笑顔。
「……ごめんね」
 告げる声に悲しみは無く、どこまでも楽しそうで、嬉しそうで――だからこそ、どうしようもなく哀しそうで。
 俺は彼女を強く抱き締め、泣いた。


 好きだと、愛していると、想いの全てを告げながら。










end


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