アフォガートの夕暮れ。

――――――――――――――――――――――――――――

   

 ――二年目の春のお話。



 事務所に置かれているテレビは、バラエティ番組の再放送を流していた。
 それをぼんやりと眺めながら、輿水・幸子はあくびを一つ。
 幸子が事務所にやってきたのは、お昼過ぎの事だ。今日はスケジュールの確認と調整に来ただけだったのだが、ふとした思い付きからソファーに腰掛けた。そして事務所にいた奈緒やみく、日菜子達と世間話をして……気付けば、もう夕方近い時間帯になっていた。
 奈緒達は先に帰っていき、最後まで残っていた日菜子もいつの間にか姿が見えず、だから今はプロデューサーと二人きりだ。だが、彼は先ほどから机に向かっており、会話らしい会話もない。
 今年もテーマパークでのイベントが行われるという話なので、その調整を行っているのだろう。
「……」
 静かな事務所の中、テレビから響く笑い声がどこか上滑りしていって、春の暖かな空気が眠気を誘う。それを振り払うように立ち上がると、幸子はプロデューサーを見つめた。
 と、それに気付いた様子で彼が顔を上げ、「どうした?」と尋ねてきた。集中して仕事をしているようでいて、アイドルの動向には敏感なのだ。……幸子が立ち上がったから、顔を上げた訳ではないのだ。誰にだってそうなのだ。それに少しだけ不満を感じる理由を、幸子は既に自覚している。だが、自覚してもどうにもならないのが、この感情の厄介なところだった。
 息を吐く。
 せっかく二人きりなのに、滅入る思考をするものではないだろう。
「……プロデューサーさん、お茶でも飲みますか? ボクが淹れてあげます」
「じゃあ、コーヒーを頼む。ブラックで」
「解ってます」
 彼の好みは、少し濃い目のブラックだ。幸子はその苦味が苦手で、あまりコーヒーが得意ではないから、こうした部分に大人っぽさを感じる。それで彼を好きになった訳ではないが――それでも、こうした日常の積み重ねが、想いを深めているのは確かだった。
 
 カワイイ自分とは絶対的に違う相手。
 年上の男性。
 プロデューサー。

 彼と出逢い、彼のプロデュースを受けなければ、今の自分はいなかっただろう。そんな事を思いながら、幸子は差し出された彼のマグカップを受け取り、給湯室へ。
 カップを軽く水洗いしてから、電気ケトルでお湯を沸かし、待っている間に棚からインスタントコーヒーの瓶を取り出す。古びたコーヒーメーカーは先月の頭に壊れてしまって、今では各々が好きなものを好きなように飲んでいる。だからコーヒーの豆だけでも数種類あるのだが、彼はインスタントや無糖の缶コーヒーばかり飲んでいた。
 なので以前、道具を揃え、コーヒーカップを温めて、コーヒーを蒸らして――と、ネットで調べた淹れ方を試そうとした事があったのだが、当の本人に止められてしまった。
 曰く、適当で良い、らしい。
『幸子が淹れてくれるってだけで、十分だ』
 その言葉は嬉しかった。だが、小さな手間を惜しまない方が美味しさも引き立つだろうし、その十分を十二分にしてあげたいと思っての行動だったのだ。……彼は乙女心が解っていない。
 それに小さく息を吐きつつ、幸子は沸き上がったお湯でコーヒーを淹れ――彼の机の上へ。
「――どうぞ。このボクが淹れてあげたんですから、感謝して飲んでくださいね!」
「解ってるって。ありがとな。……――ん、んまい」
 熱湯で、淹れたてて、味なんて殆ど解らないだろうに、彼は嬉しそうに笑うのだ。
 幸子にとって、その笑顔がどれだけの価値を持つか知らずに、笑うのだ。
 先ほどまでの不満が一瞬で消えてしまって、幸子は赤くなりそうになる顔を誤魔化すように胸を張った。
「と、当然ですよ! このボクが淹れてあげたコーヒーなんですから!」
 フフン、といつものように――いつものように出来ていると、そう信じながら笑って、ソファーに戻る。
 眠気は完全に抜けていて、でも顔が熱い。それをどうにか冷やそうと、幸子は意識をそらせる対象を探し、つけっ放しになっていたテレビへと視線を向けた。
「……」
 流れているのは、ネット上にある動画を紹介する番組だった。有名動画サイトの上位に君臨しているものから、あまり知名度のないものまで、幅広く紹介している。今は自然や風景を映した動画が流れ始めていた。
 富士山のご来光や、日食の様子など、幻想的な映像が流れていき――次に映し出されたのは、ミニチュアの街並みを写した映像だった。
 ……いや、違う。人や車が目まぐるしく動き回っている。それに驚いたところでテロップが入り、
「お、ジオラマ動画か」
 ナレーターが読み上げた単語を、プロデューサーが口にした。幸子はそれに驚き、けれどテレビから視線を外せぬまま、
「知ってるんですか?」
「あぁ。似たような動画をネットで見た事がある。面白いよな」
「凄いです」
 街並みだけでなく、山間を走る電車や、離着陸する飛行機などもミニチュアライズされている。それがとても可愛らしく、ユーモラスなのだ。
 思わず見入ってしまって、別の動画の紹介が始まった瞬間に、残念に思ってしまったほどだ。
「ああいうのって、どうやったら撮れるんですか?」
「最近のデジカメなら、そういう撮影モードが入ってた筈だ。スマホならアプリがあったりするんじゃないか?」
「本当ですか? じゃあ、ボクのでも…………って、電池がない……」
 そうだ、充電しようと思っていたのをすっかり忘れていた。それに肩を落としたところで、プロデューサーが自身の鞄を机の上に置いた。
「ちょっと待ってろ。俺のデジカメなら……」
「出来るんですか?」
「確か、出来た気がする」
 それに期待しながら、幸子はテレビを消し、プロデューサーのところへ……と思ったところで、カメラを持った彼がシャッターを切った。
「?!」
 完全に予想外の出来事だった為、一瞬何が起きたのか解らず――もう一度シャッターが切られたところで、幸子はハッと我に返り、
「な、なんで撮るんですか!」
 しかも浮かれた顔だ。恥ずかしい。それに思わず声を荒げてしまう幸子に対し、プロデューサーは平然とした様子で言ってのけた。
「幸子が可愛くてな」
「と、当然ですよ! ――って、そうじゃなくて、勝手に撮らないでください!」
「大丈夫、家宝にする」
「か?! それはそれで問題です!」
「ダメか?」
「だ、ダメじゃないですけどダメです!」
 と、軽く騒ぎつつ彼の隣へ。すると、彼がカメラの背面ディスプレイを見せてくれた。
「でだ。これがデジカメのジオラマモードなんだが」
「……」
 先ほどの画像を消す気はないらしい。それに「むぅ」と頬を膨らませつつも、幸子は画面を覗き込んだ。
「……上下がボケてますね」
「そうする事でミニチュアっぽくするんだろうな。多分」
 詳しい事は後で検索しよう。そう言いながら彼が立ち上がり、事務所の窓を少しだけ開けた。
 事務所はビルの三階にあり、落下物防止の為に窓にはストッパーがついている。それでも、にゅう、っと伸びたコンパクトデジタルカメラのレンズ部分は窓の外に顔を出し、
「よっと」
 窓の下部レーン近く――幸子にもカメラの背面ディスプレイが見える位置で、プロデューサーが動画撮影ボタンを押し込んだ。
 そして、ぽぴん、と少し間抜けな音を上げて、動画が撮影され始めた。
 夕暮れの街を行く人々や車が、小さなディスプレイの中に切り取られていく。
「とりあえず一分くらい撮ってみて、どんな感じか見てみるか。時間的に車通りも人通りも多いから、それなりのものは出来そうだ」
「楽しみですね」
「そうだな」
「……」
「……」
「…………」
「…………」
 背面ディスプレイに表示される経過時間を見つめながら、何となく無言になってしまう。
 撮影している様子が気になって、何気なくカメラの前に移動してしまったが――気付いてみれば、それは彼の腕の中に自分から収まりにいったようなものだった。
 つまるところ、すぐ後ろに、右腕を伸ばしてカメラを支えているプロデューサーの姿があるのだ。……抱き締められているのと同じくらいの位置に、彼がいるのだ。
 気付けばそちらにも意識が向いてしまって、動画に対する興奮と異性に対する緊張で何が何だか解らなくなってくる。
 そんな中で、彼の声が来た。
「っと、このくらいでいいか」
「っ、」
 腕を伸ばしたままカメラを操作するものだから、より彼との距離が近付き、顔の熱が増していく。
 幸子はカメラから視線を外せなくなった。今顔を上げたら、赤くなった顔を見られてしまうから。
「さて、どんな感じになってるか……」
「……」
 プレビューモードから、先ほどの動画が選択され、再生――
「ん?」
「え?」
 再生されたそれは、テレビで紹介されたものに近い映像になっていた。だが、一分近く撮影したのに、五秒程度で再生が終わってしまった。
「ど、どうなってるんです?」
 上手く保存出来なかったのだろうか。そう思いながら、ディスプレイの中心にある再生ボタンを押してみると、やはり五秒程度で動画が終わってしまう。
「倍速で再生してるのかもしれないな。そうする事で、ジオラマっぽさを増してるんだろう」
 言われて見れば、人々の動きが早い、というかセカセカしていて、それが可愛らしくて面白い。
「少なくとも、一分程度じゃ見ごたえのある動画にならないって事だ。それに、遠くのものを撮った方が、よりジオラマっぽくなるのかもしれないな。――という事で、頼んだぞ幸子」
「え、」
「ブレないように、カメラを窓に押し付けていいからさ。五分くらい押さえててくれ。……っと、ほら、椅子」
「な、何でボクが」
 先ほどのドキドキがあった分、少しだけ非難するような声になってしまった。だが、対する彼は苦笑気味に笑い、
「俺にはまだ仕事があるからな」
「……そ、それもそうでした」
 カメラを取り出したのは彼だが、期待したのはこちらだ。自分の求めるものがこのカメラで撮れそうな以上、これ以上彼を拘束する訳にはいかない。それは解っているのに、面白くない。
 それでも幸子は椅子に座って、カメラを押さえて、動画撮影ボタンを押す。

 不満そうな顔を彼に見せないよう、背中を向けながら。



「どことなく不満そうに背中を向けた幸子を見つめながら、プロデューサーは一息吐く。
 ……危なかった。カメラを取り出したのは、純粋に幸子を喜ばせたかったからだ。だからこそ、彼女がここまで密着してくるとは思わず、緊張してしまった。

『プロデューサー』として接している時はいいのだ。だが、そうではない、素に戻ったところで密着されると、自分を抑えられなくなる。……我慢出来なくなる。
 だから、これでいい。そう自分に言い聞かせながら、彼は机に戻ろうとし――けれど、幸子の背中から視線を逸らす事が出来なかった。
 少しだけ冷たい夕方の風が幸子の髪を揺らし、燃えるような夕日が小さな背中を幻想的に浮かび上がらせる。

 無意識に、一歩彼女へと近付いていた。

 ――輿水・幸子というアイドルと出逢ったのは、今から二年前。
 埼玉のライブハウスで歌う彼女に魅了され、彼女をスカウトしたのだ。

 とはいえ――『アイドル』という職業が世界的な広まりを見せる今、幸子よりも個性的なアイドルや、才能のあるアイドルは多く存在していた。ただ『カワイイ』だけを武器にしていくには、強敵が多過ぎた。
 だが、それでも、と彼は思う。
『輿水・幸子』というアイドルは、トップアイドルに――歴史に名を残す存在になれる、と。
 それだけの力が彼女にはあり、それを現実にする足がかりを作るのがプロデューサーだ。その為の仕事を、今も行っている。
 アイドル、輿水幸子。
 ファンに愛される偶像。

 触れてはいけない、ガラス細工。

 触れたら、全てが崩れてしまう。僅かな傷だって命取りだ。それが『アイドル』というものだ。
 そうでなくても、相手は十代半ばの女の子。恋愛感情を持つ方が間違っている。――そうだ。だからいつものように椅子に座って、仕事に戻って、それで今日はおしまい。それでいい。
 彼女の気持ちにも、自分の気持ちにも目を瞑って、日々を過ごしていくのだ。

 そう自分の気持ちを抑え込もうとするのに、堰を切ったように溢れ出す感情が理性を飲み込んでいく。
 嗚呼。
 愛しい愛しい、俺の、俺だけの――」



「――日菜子ォ!」
 流石に耐え切れなくなったのか、プロデューサーが突っ込みを入れた。その声に驚きながらも振り返る先――舞台女優のように、浪々と妄想を語り続けていた喜多・日菜子が動きを止めた。
 その顔には、いつもの笑みがある。
「むふふ♪ 良い雰囲気だったので、つい」
「つい、じゃねぇよ。……お前、いつから見てた」
「割と最初から♪」
「日菜子ォ!」
「むふふふふふ♪」
 好きなだけ妄想を垂れ流し、それに浸る日菜子を追っ払いつつ、プロデューサーが溜め息を吐いた。どうやら彼女はこちらの死角――パーテーションの向こうにある来客用のソファーに座って台本を読んでいたらしい。……全く気付かなかった。
 しかも、語られたのはいつもの王子様妄想ではなく、プロデューサーの心情だ。それにも驚きつつ、カメラを押さえながら改めて背後を見ると、鞄を抱えた日菜子が「むふふ」と微笑みながら幸子とプロデューサーを順に見つめた。
「――去年のテーマパークで言ったじゃないですか、プロデューサーさん。貴方はプロデューサーなんですから、きっと絶対、何とかなります」
「…………」
「むふ。――日菜子はですねぇ、ただ苦いだけのブラックコーヒーや、ただ甘いだけのバニラアイスより、アフォガートが好きなんですよぉ」
「日菜子、お前……」
「むふふふふ〜♪ それでは、お疲れさまです〜」
 極上の笑みを残して、日菜子が事務所を去っていく。
 ……何やら、二人の間には通じるものがあったらしい。それに少しだけ不機嫌になるのを感じつつ、幸子はすぐ後ろに立ったままだったプロデューサーを見上げた。
「……プロデューサーさん、そこで見てたならカメラを押さえてくださいよ」
「え、あ……そうだったな。すまん」
「?」
 背後に立つプロデューサーは、心ここにあらず、と言った様子だ。彼は事務所の出入り口を見つめたまま、何かを考え込んでいる。
 日菜子が語った彼の心情には大いに興味があるが、しかし妄想は妄想だ。幸子とプロデューサーがこの場にいたからネタにされただけ、だと思うのだが――もしかしたら、違うのだろうか。
 それが気になりつつも、幸子はそれとなく言葉を続けた。
「にしても、日菜子さんの妄想力は凄いですね」
「……そうだな」
「でも、王子様以外の妄想もするとは思いませんでした」
「……そうだな」
「……」
「……」
「……一体どうしたんですか、プロデューサーさん。さっきから変ですよ?」
 どこか様子がおかしい。考え込んでいるだけではなく、悩んでいるようにも見える。そう思ったところで、不意に頭を撫でられた。
「――いや、なんでもない。気にするな」
「……」
 ……訳が解らない。ただ、何かを誤魔化された、というのは直感的に理解出来た。彼は表情が顔に出やすい人で、嘘が下手だ。何より、こうやって乱暴に話題を終わらせようとする人ではない。
 恐らく、去年のテーマパークで何かがあったのだ。だが、それをそのまま問い掛けたところで、彼は答えてくれないだろう。
 だったら、何か別のアプローチを……と思いつつ、幸子はカメラを持ち直す。そして会話の糸口として、とりあえず、気になった事を問い掛ける事にした。
「そういえば、日菜子さんが最後に言っていたアフォガートって、何の事でしたっけ」
「……バニラアイスに、コーヒーやエスプレッソを掛けて食べるデザートの事だ」
「……バニラアイス」
 それは幸子にとって、因縁深いキーワードだった。 



 人は、誰もが自分を特別だと思っている。平凡な自分にも、他人とは違う『何か』があると信じている。
 その『何か』を表現する為に、『アイドル』を求める若者は後を絶たない。年齢、国籍関係なく、誰もがアイドルを目指す事が出来るようになった現代において、それは尚更で――輿水・幸子も、その中の一人だった。
『こんなにもカワイイボクならば、すぐにトップアイドルになれる』
 そんな思いと共に、幸子は業界に飛び込んだのだ。

 だが、どうだろう。
 飛び込んだ先には、『可愛い』だけの少女などごまんと存在していた。

 アイドルとは、人々から愛される存在だ。可愛く、美しく、ファンの心を魅了する。ただ『可愛い』だけだろうと、それがファンに認められ、受け入れられているのならば、周囲に負けない個性になる。
 だが、どうだろうか。
 幸子の周囲には、ただ可愛いだけでなく、それ以上の個性や魅力、特技を持つアイドルが数多く存在していた。
 では、どうだろうか。
 自分はカワイイ。それは誰にも負けないものだと思っている。その自信は揺らがない。

 ――しかし、ファンもそう思ってくれているだろうか?
 あの埼玉のステージで、本当に観客の視線を独り占め出来ていたのだろうか?

 この事務所に所属してからもそうだ。
 ファンは『アイドル』と『輿水・幸子』のどちらを見に来ているのだろう。果たして彼等は、『輿水・幸子』という個人を認めてくれているのだろうか?
 ライブに詰め掛ける多くのファン――その内の何人が、『輿水・幸子』を選んでくれているのだろう?

 もしかしたら、自分は特別ではなく――人とは違う『何か』など持っていない、普通の人間であるのかもしれない。
 ありふれた、替えの効く、『 その他大勢(アイドル) 』の一人でしかないのかもしれない――

 ――その不安は、幸子のアイデンティティの崩壊に繋がるものだった。
『ボクが一番カワイイ』
 それが幸子の武器であるのに、その事実を否定されてしまっては、もう幸子には何もない。
 何もない。
 恐怖で壊れそうになった。
 不安に押し潰されそうになった。
 涙が溢れて止まらなかった。

 ――ボクはここにいる!

 そう叫ぶようにアイドルになったというのに、自分は誰にも注目されていない。必要とされていない。
 突出した力もなく、特別な特技もなく。
 アイスクリームで言えばバニラのような。
 輿水・幸子は、そんなアイドルなのだ――



 ――と、思い悩んでいた時期があったのだ。その悩みの最中、ひな祭り期間に合わせて開催されたアイドルサバイバルでの八連敗は、幸子の心に大きな傷を残した。
 イベントの敵役として、負ける役割なのは解っていた。それでも辛く、苦しく、敗者に向けられた笑いと哀れみの視線は、これ以上ないほどの屈辱であり、絶望だった。
 それでも必死に強がってからステージを降りて――今にも泣きそうになりながら控え室に戻ると、プロデューサーが待っていた。

 今にも泣き出しそうな、とても悔しげな表情で。

 その時の驚きは、言葉に言い表せないものだった。何せ、泣く事なんてないだろうと勝手に思い込んでいた『 大人の男性(プロデューサー) 』が、泣きそうになっているのだ。それは、十四歳の少女にとっては予想外の状況だった。だから呆気に取られてしまって、流れそうになっていた涙すら引いてしまったほどだった。
 不安定な精神状態の頃だったから、プロデューサーに対して多くの文句を言った。一方的に非難した事も一度や二度ではない。けれど彼は常に大人の対応で、隙がなくて、感情を露わにする事がなかった。
 だが、そんな事はなかったのだ。ちゃんと向き合ってみれば、彼とても雄弁で、感情が顔に出るタイプだった。今にして思えば、幸子はちゃんと彼の事を見ておらず――その時初めて、彼と顔を合わせたのだろう。
 と同時に、幸子は知ったのだ。自分と同じくらい、彼も悩み、苦しんでいたのだと。誰でもない、輿水・幸子の為に。
 そこからだ。
 悪夢のような八連敗は、しかし幸子の知名度を上げた。ステージ上で強がり続けた小さな『アイドル』の事を、『輿水・幸子』だと認識するファンの数が増えたのだ。
 プロデューサーはそのチャンスを見逃さなかった。どんなに可愛いアイドルであろうと、知名度がなければ無名のままだ。それを身をもって知っている幸子だから、必死になった。
 日々仕事が増え、メディアで取り上げられる機会も多くなり――二人で考えて決めた『自称・カワイイ』を名乗った時点で、『輿水・幸子』というアイドルの方向性は完全に固まった。
 悩んでいる暇もなくなった。

 ―― 輿水・幸子(ボク) はここにいる。

 それを自称ではなく、他称として認められるようになって、ようやく幸子の悩みは払拭されたのだ。
 彼の存在がなければ、今の幸子はおらず――そうした日々の積み重ねの中で、恋心が生まれ、育まれていったのである。
 そんな幸子の髪を、プロデューサーが改めて撫でた。
「アフォガートってのは、イタリア語でな。意味は、『溺れる』」
「お、溺れ……」
 苦く黒い海で溺れる自分を一瞬想像してしまって、表情が曇ってしまう。だがそれ以上に、彼の言葉に滲む硬さの方が気になった。
 何かを我慢しているような、押さえ込んでいるような言葉。表情が顔に出やすい人だからこそ、それを抑えようとしている時は、言葉の節々に感情が滲むのだ。
 一体何なのだろう、と思いながら、幸子はプロデューサーを改めて見上げ――それに気付いた彼が、どこか気まずそうに視線を逸らし、机の上に置かれたコーヒーへと手を伸ばした。
 それでもじーっと見つめていたところで、
 不意に、頭の中で何かが合致した。
 
『――日菜子はですねぇ、ただ苦いだけのブラックコーヒーや、ただ甘いだけのバニラアイスより、アフォガートが好きなんですよぉ』

「……」
 幸子が思い悩んでいた事を、日菜子は知っている。同じ事務所で、同じプロデューサーからプロデュースを受けているのだ。心配され、悩みを打ち明ける事もあった。その返答はいつも妄想混じりで、けれど前向きなものばかりだった。
 彼女の妄想には、不安がない。
 その全てが、『 運命の王子様と出逢う少女(ハッピーエンド) 』の物語。
 だとしたら、あの言葉は。
 その意図は。
「……。……プロデューサーさん」
「……ん?」
「プロデューサーさんは……その、『バニラアイス』は、好きですか?」
 無意識に視線が下がってしまうのを感じながら、思い切って問い掛ける。
 ……意図は通じるだろうか。こちらの思いを汲み取って貰えるだろうか。
 そう思いながらの言葉に対し、一瞬迷うような逡巡があり――返ってきたのは、真剣な声だった。
「――ああ。大好きだよ」
「! そ、そうですか」
「幸子は、『コーヒー』はあんまり好きじゃなかったか」
「そ、そんな事は、ないですよ!」
 反射的に答えた声は、少し上ずっていた。いつものように答えようとするのに、上手く声が出ない。
 それでも幸子は思い切って視線を上げ、胸を張った。
「ブラックだって、すぐに飲めるようになりますよ! そ、それに――きっとアフォガートは、ブラックじゃなかったら美味しくならないと思います。だ、だから……その、食べに誘ってくれても良いんですよ?」
「……いいのか?」
「と、当然ですよ!」
「じゃあ、考えとくから」
 真っ直ぐにこちらを見ながらの言葉には、いつもとは違う意味が込められているように感じられて、ドキドキしてしまう。
 そんな幸子へと彼がぐっと手を伸ばしてきて――思わず身を縮こませ、けれど期待に少しだけ顎を上げた直後、その手はこちらを素通りしてカメラへと向かい、
「っと、そろそろ良いだろ」
「――プ、プロデューサーさんの馬鹿!」
「な、なんだいきなり」
「別に何でもないですっ!」
 やっぱり通じてなかったのかもしれない。いや、この朴念仁にニュアンスで通じさせようと思ったのが間違いだったのだろう。ああ、恥ずかしがって損をした!
 そう頬を膨らませつつも、出来上がった映像を見てみると……手ブレによる乱れはあるものの、確かにミニチュアを撮影したような動画を撮る事が出来ていた。
「中々のものですね。流石はボクです」
「そうだな、流石は幸子だ」
「……今更褒めても何も出ませんよ」
 ……全くもう。
「でも、これだけ手軽に撮れるなら、どこか撮影しに出かけたいですね」
「そうだな。出来れば人が多くて、ミニチュアっぽさが出せるところがいいが……」
「んー」
 次のオフに、二人で撮影に行きたいものだ。ついでにアフォガートも食べてみたい。でも、一体どこならば……と思いつつ視線を事務所内に向けたところで、プロデューサーの机に目が留まった。
 そこにあるディスプレイには、次のイベントの詳細が表示されていて、
「……そうですね」
 下見を兼ねて、彼と一緒にテーマパークに出かけるのもありだろう。でもここで『テーマパークに行きましょう』と言っても承諾されるか解らないし、オフ前日にこちらから誘った方がいいだろう。うん、そうしよう。
 そうと決まれば、後で新しい洋服を買いに行って――と、今後の予定を立てながら、幸子は改めて彼を見上げた。
「――プロデューサーさん。仕事が終わるまで待っててあげますから、今夜はボクの運転手になってください」
 今更ながらに、今日の目的を告げる。
 こうして事務所に残っていたのは、彼と一緒に帰りたかったからに過ぎない。
 そんな幸子の気持ちに気付いているのかいないのか、プロデューサーは少し驚いてから、笑顔になり、
「解った。じゃあ、すぐに終わらせるよ」
 椅子に座ると、作業を再開したのだった。



 そうして彼の仕事が終わり、さぁ帰ろう、と荷物を纏めたところで、幸子はずっと気になっていた事を口にした。
「……あの、プロデューサーさん。去年のテーマパークで、何があったんですか?」
 問い掛けに、事務所の電気を消そうとしていた彼が驚き、「あー、」と気まずそうに頭を掻いた。
「日菜子の妄想デートに付き合わされてな。朝から晩まで連れ回されたんだよ」
「そ、そうだったんですか」
「……」
 と、そこで彼が事務所の電気を落とした。廊下には明かりが点っている為、真っ暗という訳ではないが、彼の表情は窺えなくなって、
「その時にな、言われたんだ。

 ――アイドルにスキャンダルは許されないが、貴方はプロデューサーだから、きっと絶対何とかなる、ってな」

「そ、それって」
「――で、俺は当時から『バニラアイス』が好きだった。それだけの話だ。はい、この話はもうおしまい!」
「ちょ、逃げないでくださいよ! ぼ、ボクだって、あの頃から『コーヒー』が好きだったんですから!」
 逃げるプロデューサーを追って、幸子もまた事務所を出ていったのだった。






end



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